「党派間ゲバルト」を促す公安戦略について |
更新日/2016.12.23日
(れんだいこのショートメッセージ) |
己を知り敵を知る必要は政治学、戦争学にあってはイロハのイであろうが、案外と考察されていないように思われる。その精神の背景にあるものを凝視してみるのも考察課題であるが、別章に譲る。ここでは、公安当局が、日本左派運動をどのようにリードし、左派各派がいとも容易くその手玉に乗らされているかにつき検証して見たい。 公安当局奥の院の知恵は我々が思っているより味わい深い。変な話だが公安当局の観点は恐らく、日本左派運動が国益を誤らない範囲で、日本主義系の左派運動としての軌道に乗るように調御することにあり、その為にあの手この手を駆使してきた歴史を列ねているのではなかろうか。この姿勢は、戦前戦中、戦後のある時期までは一貫していたように思われる。そういう意味では、単に左派を取り締まる云々のレベルでは捉え損なう。明らかに頭脳戦が介在している。加えて、この公安当局の能力の方が常に優ってきていたという通史が刻まれていることも客観化すべきではなかろうか。 但し、そういう我らが優秀なる公安当局も今や新たな難題に突き当たっているように思える。分かりやすく云うと、公安当局の仕事振りが優秀過ぎて今や手持ち無沙汰の感があるというケッタイな悩みに突き当たっている。ある意味で戦前ならば分かる。治安維持法下の暴圧によって左派は悪戦苦闘したものの敗北を余儀なくされた。ところがどうだ。戦後は民主的度合いでは世界に冠たる憲法を持っており、支配階級も一定これを踏まえてきたにも関わらず、左派はその治政下でも負けたことを意味している。これを痛苦にさえ受け止められない自称左派達の能天気さに万歳するしかない。 しかし、問題はこうやって自嘲するところにあるのではない。戦後の公安当局が学生運動を沈静化する為に仕掛けた教育界の反動化=学生運動対策、労働運動を沈静化する為に仕掛けた産業界の反動化=組合運動対策、としての80年代以降の根絶やし薬効が効き過ぎて、今や自家中毒して、日本民族の活力の保持という面で大変な問題を生み出しており、ここに心痛せざるを得ないという悲劇を生んでいるのではなかろうか。そういう感性があればの話ではあるが。 問題は次のことにある。そうこうしているうち今や、彼らが護るべき国家としての日本の方が逸早く溶解しつつあるという危機に直面している。彼らの第一義的任務であった国家を護り民族を護るというテーゼが足元から崩れ落ちつつある。彼らは既に半ば目的を喪失しており、その多くが失職の憂き目を予想されているが、そういうレベルのことでは済まない。米欧奥の院ナイズされた連中による没国家主義、没民族主義の暗愚に歯噛みして、これを迎撃しようにも、残された部分の我が民族たるやこの間あまりにも弱脳化させられ過ぎており役立たない。お話にならない寒さがある。ここに民族的危機がある。 こうした国権失墜スパイラル情況下で業界的に見渡せば、頼りになるのは当局が最も厳しく取り締まってきた側の左派運動圏の方にこそ能力がありそうだ。日本の再興は、この左派に奮発して貰って活路を切り開いて行く以外にない、という喜劇をも生み出しつつあるのではなかろうか。まっ軽い冗談ではあるが根拠がない訳ではない。 2003.9.13日再編集 れんだいこ拝 |
【立花隆氏の著書「中核VS革マル」の弁】 | |||||||
この問題に関して、立花隆氏の著書「中核VS革マル」には、次のように書かれている。
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【とある論者のこの貴重な指摘】 | |
「とある論者のこの貴重な指摘」を読め。
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(私論.私見)