読み通すのにかなり時間が懸かった。文中の随所に赤字でコメントを入れたから、この論考(れんだいこさんのまとめだが、原文はネットの匿名文だという。たぶん無党派右の学生だろう)への私の批判は了解されよう。だが早稲田大学のこの事件を、同大学のキャンパスの中で幾ら考察しても、何も見えてこない。若干の前史と事後36年の経過を踏まえて、私見を思いつくママに書こう。
1972年という年は革共同の第3次分裂の1963年から9年目に当たる。中核派と革マル派の対立はずっとあったが、最初の死者が出たのは1970年の教育大・海老原事件だったろう。そこから内ゲバが始まる。その2年後に当たる。いよいよ本格化するのだが、やがて中核派・本多書記長殺害(1975年)が大きな山場だった。早稲田大学の川口事件は誤認だと言うが、私はマクロでは誤認だと思っていない。誰もが死者に鞭打つことを避けたが、今なら書いても怨みは買わないだろう。
私は百人近い内ゲバ犠牲者(中核派、革マル派、青解派の死者)に等しく同情し、哀悼する。だが連合赤軍の死者を哀悼する気になれない。どうしてか。軽率だからだ。あれが党派闘争であるわけがない。あれが革命闘争であるわけがない。まあオウムと同格である。 |
川口は20歳だから成人である。政治行動はすべて個人責任である。彼はまず革マル派に近づいた。失望して中核派シンパになり行動を共にした。中核派にも飽き足りず民青に接近したり、右翼の道場に出入りした。いいか、政治活動はサークルの趣味ではない。あの状況下、党派の緊張した対立状況下で、こういう渡り歩きが何を結果するか、理解できないのは軽率を通り越している。まあ政治党派にとっては処刑の対象だろう。 |
(私論.私見) |
「渡り歩き」を「政治党派にとっては処刑の対象だろう」と云いなす。えらい傲岸不遜な物言いではないか。学生運動上の「渡り歩き」を「処刑の対象」視するような見解に合点する気にはなれませぬなぁ。 |
海老原事件で同志を殺された革マル派が川口をスパイと見做したことに何の不思議もない。ごく普通の政治認識である。だがスパイの十分な根拠なくリンチに懸けて殺した。だから自己批判は当然だが、川口は大威張りで自己の政治行動を正当化できる立場ではなかった。殺されて当然とは言わないが、追及され袋叩きにされる十二分な理由があった。この認識は事件当時、早稲田の学生に広汎に存在したはずである。ただ川口の死を前にして声にならなかっただけである。 |
(私論.私見) |
川口君の「渡り歩き」を「殺されて当然とは言わないが、追及され袋叩きにされる十二分な理由があった」、「この認識は事件当時、早稲田の学生に広汎に存在したはずである」はウソである。日頃の革マル派の学内憲兵隊もどきの活動ぶりを忌々しく思っていたのが早大キャンパスの雰囲気であり、だから事件後革マル派糾弾闘争が爆発したのだろうが。この人は、知らぬ者をたぶらかす言辞を平気でする御仁であることが分かる。 |
反革マルの政治行動は、すべて党派の利害でやったことである。要は悪ノリしただけである。だが悪ノリした無党派が今ひとつ掴めない。自民党と勝共と創価と体育系だろうか。然し、こんなもん所詮ゴミだから、絶対に闘争の担い手にはなれない。 |
(私論.私見) |
雑漠過ぎて意味不明のことをおっしゃっている。コメントする気になれない駄文である。 |
党派だが、1966年の早大学費・学館闘争を彷彿させる。革マル派と青解派と民青と中核派である。だが、今回の川口事件は中核派も青解派も民青も初めから本気でなかった。特に民青はやる気がなかった。早稲田どころではなかったのである。もともと政治基盤がなかった中核派と、すでに完敗していた青解派と、初めから革マル派と平和共存路線だった民青と。最初から革マル派の挽回は予定された既成事実だった。つまり早稲田には革マル派の支持者が圧倒的に多かったし、日常活動が支持されていた。それだけだ。 |
(私論.私見) |
「早稲田には革マル派の支持者が圧倒的に多かったし、日常活動が支持されていた。それだけだ」と平気で言う。開いた口が塞がらないとはこのことだ。 |
れんだいこさんの記事中の、学生の日頃の怒りがいっせいに噴出したというのはウソである。怒りが本物でなかったから半年も経たないうちに革マルの天下に戻った。 |
(私論.私見) |
「れんだいこさんの記事中の、学生の日頃の怒りがいっせいに噴出したというのはウソである」というのがウソである。これは当時の早大生に確認すればすぐ分かることである。「怒りが本物でなかったから」、「半年も経たないうちに革マルの天下に戻った」も太々しいウソである。「半年も経たないうちに革マルの天下に戻った」のは事実であるが、その理由が「怒りが本物でなかったから」ではない。革マルの天下に戻す方が賢明と判断した大学当局と、その当局の判断に影響を与えた裏筋の指令の賜物だろうが。 |
以上を書いた段階で、私はれんだいこさんの記事を殆んど論じていないことに気づく。つまり事実関係だけでも、殆んど役に立たないのだ。肝腎のことが何も記録されていない。例えば学生大会の記録だと、革マル派執行が罷免された第一文学部の学生大会の賛否だけしか書かれていない。あとは全部が革マル憎しの駄文である。資料にならない。 |
(私論.私見) |
ここも意味不明のことをおっしゃっている。「全部が革マル憎しの駄文である」という。お互いが駄文呼ばわりしていることになるな。 |
ここに一冊の『早大生・川口大三郎君追悼集 声なき絶叫』なる190頁の冊子がある。これまでの古本屋稼業で数回入ってきた。その都度捨てている。今回のものは先日の中核派系の活動家からのものだ。事件直後の追悼集としても粗末で一読に耐えない。タイプ印刷やレイアウトの稚拙は置いて、収録された文章も早稲田の物とは思えないオソマツである。興味深いのは党派人の文がまったく見当たらないことである。つまり反革マル諸党派は、はじめから川口を追悼する気などサラサラなかったのだ。あとは革マル派潰しだけだが、これもやる気はなかった。大衆的な運動どころではない党派闘争つまり」内ゲバの時代に突入して行ったのである。
当時の早稲田全学の党派の内訳を書いておこう。公安資料はなく私の予想である。ピークの1970年を2年経過しているから、かなり少ない。革マル派300人、民青300人、青解派と中核派と社学同は殆んど皆無。ではどうして早稲田に顔を出したのか。外人部隊である。ただし民青はいた、だがちょうど新日和見主義事件と一致した。早稲田どころではなかった。そもそも早稲田では革マル派と民青の共存は定着していた。喧嘩せずである。こういう状況下で早稲田の雑炊・行動委員会の決定的敗北は初めから確定していた。 |
当時のノンセクトが今もネット上に川口事件の資料を残している。ご覧になれば分かるが、完敗だったと結論付けている。だが自分たちの闘いが、正義に名を借りた不正義の妄動だったという自己認識はない。いまも革マル派が早稲田の第一勢力であるという認識はない。大学当局が同派を切っているのにである。 |
(私論.私見) |
当時の革マル派糾弾闘争を、要約「自分たちの闘いが、正義に名を借りた不正義の妄動だったという自己認識はない」と御説教してくれている。ならば逆に問おう。革マル派運動が、「自分たちの闘いが、正義に名を借りた不正義の妄動だったという自己認識は今もないのかな」。 |
あと少し書き加える予定である。この事件の各派総括だが、当時私は各派機関紙を神田のウニタ書肆で入手して読んでいたが、確かな記憶はない。各派とも事件当時のみ簡単に記事にしただろうが、追跡はしていないだろう。また長文の総括はしなかったと思う。なぜなら重視していなかったからだ。そういう中で第四インター派が文末に収録してある政治見解を発表している。まだ未読だが興味をそそられる。 |
(私論.私見) |
要約「第四インター派の政治見解に興味をそそられる」だと。同じ圏内の棲息者だからだろうよ。 |