「川口大三郎君リンチ虐殺事件」資料4、古本屋通信コメント考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.1.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「川口大三郎君リンチ虐殺事件」資料4、古本屋通信コメント考」をものしておく。

 2003.7.16日再編集 れんだいこ拝


【古本屋通信氏のれんだいこ評考】
 「古本屋通信」の2月9日付け「No 1277、れんだいこさん」。
  私がネット上で古本屋通信を立ち上げたのは2012年7月でしたから、2年半まえなのですが、その前に2年ほど、紙の古本屋通信の時代がありました。ですから 5年前になりますが、そのとき先行する左翼系のウェブサイトを漁りました。記憶は曖昧ですが、党派サイト、組織サイト、リンク集を除くとあまり多くありませんでした。いま使わして貰っているいるのはキンピーサイトと土佐高知の雑記帳さんと、たまに さざ波通信くらいですが,そのほかにもいくつかありました。その代表的なものが、① 夢・共産主義 日本共産党東京都北区議会議員・八百川孝氏のサイト ② 宮地健一さんのサイト ③ れんだいこさんのサイトの 3つでした。①はまもなく更新がストップしました。私が利用・引用する上で ②を敬遠した理由は既に書きました。間違いも含めて情報が詳しすぎるのです。出典が不明だということはありませんでしたが、安心して使うには不安が残りました。結果よほど確証が得られない限り使いませんでした。

 さて ③ですが、私はふるくから精読していました。かなり信頼できる情報だと思いました。ただ一点、この方の日本語には到底ついてイケマセンでした。一例を云うと、民青 (あるいは民青同盟あるいは民主青年同盟 )のことを 「民青同」 と書くのです。私はこういう呼び名は公安筋以外で聞いたことがありません。そのほかでも常識では考えられない稚拙な表現がたくさんありました。私はありがたく参考にはさせていただくが、引用はマッピラだと思いました。

 ところが先日ふとした事かられんだいこさんに辿り着いたら、なんと古本屋通信が引用してあるのです。アリガトさんです。なら今後こちらも自由に利用させていただこう、こう思いました。

 私は紙の1960年代の学生運動資料をかなり多く持ってっている筈でした。ところがだんだん散逸してしまって、どこに行ったか分からなくなりつつあるのです。それは今や、ネット上では旧民学同新時代派の「ASSERT(アサート)」を除くとれんだいこサイトにしか見当たらないのです。せんじつ川上徹さんのお別れ会がありました。そこに集った人は多分かなりの資料を持っていると思います。然し今これらをネットに乗せることには消極的なように見えました。なら当面れんだいこさんに依拠して必要な資料を整理して公開したい。それが川上さんの弔いの一端にもなるだろうと思ったのです。

 以下、かなりアト・ランダムに貼って、あとで整理・再編集していくつもりです。
(私論.私見)
 古本屋通信氏のこの評によれば、日本共産党関係に相当の関心を持っている御仁であることが分かる。気になるのは、概要「民青のことを民青同と書くのです。私はこういう呼び名は公安筋以外で聞いたことがありません」である。民青よりも民青同の方が丁寧な表現であり、社青同を意識してならばと民青同と書いているのが実際なのだが、それを公安筋表記だという。私なぞは逆に公安筋は民青と呼び民青同とは言わないと思う。つまり発想が逆なのである。それと、人を安易に公安筋と結び付けようとする者は公安筋と馴れ合い関係の者の常用手段である。そういう意味で留意しておく必要があると思っている。

【古本屋通信 No 2752/「川口君事件と早稲田の革マル派」/考】
 以下の発言内容に堪えきれないムッとするところがあるので、その箇所に逐次コメントしながら確認しておく。原文の赤字につき意味を感じないところは黒字に戻し、私が喰いつきたい箇所の文章を赤字にした。
 「2017年08月22日付け古本屋通信 No 2752」の「川口君事件と早稲田の革マル派」の
 (冒頭) このエントリーは田村、吉良、その他の早稲田出身者が書きたくても書けない気持ちを代弁して書いたつもりである。いまこそ朝日新聞記者の樋田ごとき偽物俗物の仮面を暴いて、政治党派の真実に接近したい。まさに狂気と正気の価値転倒を逆転しようではないか。すえいどんさん、ごめんね。
 ひさしぶりに【共産趣味】マル共連★2軍★2【総合スレ】を訪問したら、尊敬するすえいどんさんの書き込みがあった。

616革命的名無しさん
2017/08/20(日) 14:54:46.21>>618>>619早大を暴力が支配した時代
1 ttp://d.hatena.ne.jp/takase22/20170523
2 ttp://d.hatena.ne.jp/takase22/20170524

618すえいどん
2017/08/20(日) 18:01:16.75>>616
ttp://d.hatena.ne.jp/takase22/20170523

 朝日新聞の樋田毅記者樋田さん・・革マル派に鉄パイプで重傷を負わされたあと、どうしたの?」と聞くと、一度も大学に行かずに全部レポートで単位をとって 卒業したとのことだった。川口君をリンチ虐殺したのが文学部自治会の革マル。その文学部自治会の執行部をリコールして新委員長になったのが樋田さんだから、革マルにとってはエネミーナンバーワンなのだ。それに樋田さんは学生に絶大な人気があったから、どうしても潰したい存在だったろう。・・1年生で自治会委員長に押し上げられ、翌年5月には革マルのテロでやられたから、キャンパスに出入りできたのはたった1年間しかなかったことになる。・・革マルの暴虐とキャンパスの異常事態を大学当局が事実上容認し、年間2億円といわれる資金が、自治会費や文連運営費などの名目で提供されていたことも不可解だ。大学当局が革マルと縁を切ったのは、ずっと後の奥島総長時代の2000年前後になる。川口君事件から30年近く、事態は放置されてきたのだ。  

619すえいどん
2017/08/20(日) 18:13:42.14>>616
http://www.asahi-net.or.jp/~ir8h-st/kawaguchitsuitou.htm
川口大三郎君追悼資料室
2017年06月01日更新
 上記に導かれて、以下の高世仁の「諸悪莫作」日記にたどり着いた。私は今まで長い間、川口大三郎君事件に係わる革マル派について書きたかった。結論から書くと川口君虐殺事件でもなく、川口君リンチ殺害事件でもない川口大三郎君事件について書きたかった。そう、革マル派擁護論と言ってよいかも知れない。確かにミクロでは、川口君を中核派と誤認してリンチかけて死亡させた革マル派に弁護の余地はない。だが私の視点はミクロではない。ミクロを離れてマクロがあり得るはずがない事を認めつつも、尚そこから離れたい。
(私論.私見)
 「そう、革マル派擁護論と言ってよいかも知れない」は、かなり珍しい。以下、どういう論調になるのか確認する。
 はっきり言おう。事件後に革マル派をリコールした運動の無力というより政治性が問題だ。私はこの事件の直後に、反革マル連合は絶対に勝利できないと直感した。運動経験からくる確信だった。そして事実一年以内に革マル派は各自治会で主導権を奪還した。私はホッとしたが、この思いは(無党派の学生は失望しただろうが)全ての学生活動家にとって自明の成り行きだった。
(私論.私見)
 何と、革マル派が自治会を奪還したことに「私はホッとした」と述べている。尋常な感性ではない。と云うか、私と真逆の受け止めをする御仁だということが分かる。
 ノンセクトの雑炊が党派に勝つことは絶対にありえない。革マル派は徹底的に耐えた。いくら撲られても一定期間は無抵抗を貫徹した。しかし弔い期間を過ぎると徹底的に反撃した。見事だった。
(私論.私見)
 川口君リンチ致死事件に端を発した反革マル決起闘争に対して「ノンセクトの雑炊」と言いなしている。この観点はかなり革マル理論に被れていることを披瀝している。故に、「弔い期間を過ぎると徹底的に反撃した。見事だった」の観点になるのもむべなるかなだろう。
 私は当時の早大生、のちのF書店の同僚から、当時の一部始終を聞いた。つまり川口君事件をテコに革マル派を早大から追放しようとする勢力は完敗した。その勢力は多くの学生に支持されず、早大においては革マル派こそが支持されたのだ。
(私論.私見)
 「革マル派を早大から追放しようとする勢力は完敗した。その勢力は多くの学生に支持されず、早大においては革マル派こそが支持されたのだ」と云う。この御仁はどうやら早稲田マンではないようだ。早稲田マンならば、「革マル派こそが支持された」とは到底認識しない。
 これを大学当局と革マル派の癒着と視るデタラメが存在する。癒着はありえないといえばありえない、あるといえばあって当然である。あって構わない。どこの大学でも当局は学生の自治権を尊重する。
(私論.私見)
 「これを大学当局と革マル派の癒着と視るデタラメが存在する」と述べている。早稲田マンならデタラメとは思わない。KKT(革マル権力当局)連合の認識を共有していた。問題は、それに歯向かうのか怯むのか、そこが問われていた。
 いっちゃあ何だが香川大においては、民青は当局に絶対的な顔だった。癒着ではない。学生の選挙で選ばれた執行部を無視できるはずがない。代理徴収した自治会費全額を革マル派執行部に渡さないで誰に渡すのだ。以下の拙論は下記の日記の後に表示したい。
(私論.私見)
 この御仁が外部の者であることが分かる下りである。早稲田マンに香川大の自治会活動に対する横にらみ認識はない。加えて、引き合いに出しているのが民青と当局の関係である。革マルと民青は全共闘系運動に敵対する意味では同じ穴のムジナである。そんなものを引き合いに出してどうする。

【古本屋通信 No 2752/「川口君事件と早稲田の革マル派」/考続編】
 高世仁の「諸悪莫作」日記
 2017-05-23  早大を暴力が支配した時代 CommentsAdd Star

 おととい紹介した「赤報隊」を追い続けている朝日新聞の樋田毅記者が、きのう月曜夕方、番組をつくったTBSの秋山浩之プロデューサー とともに、上智大学のジャーナリズム講座で講義をした。秋山さんにお知らせをもらったので、聴講に行った。100人近い学生にまず番組を観せたあと、樋田さんと秋山さんが番組について意見交換しあい、学生とのやりとりがあった。鋭い質問もとんでおもしろかった。

 秋山さんは、TBSに入社した1か月後、報道局に配属されたその日に朝日新聞阪神支局襲撃事件を聞いたという。記者殺害というニュースにショックを受け、同期から「報道局の記者やめようかな」という声も上がった。でも、「これでひるんじゃだめだな」と励まし合ったという。「昭和に起きた未解決事件のひとつですが、『絶対、忘れてはいけない』との思いで取材しました」と秋山さん。彼にとっても執念が実った番組だったわけだ。


 樋田さんは大阪在住だが東京泊だというので、四谷で一緒に飲んだ。話はやはり45年前のことになり、「樋田さん、革マル派に鉄パイプで重傷を負わされたあと、どうしたの?」と聞くと、一度も大学に行かずに全部レポートで単位をとって卒業したとのことだった。川口君をリンチ虐殺したのが文学部自治会の革マル。その文学部自治会の執行部をリコールして新委員長になったのが樋田さんだから、革マルにとってはエネミーナンバーワンなのだ。それに樋田さんは学生に絶大な人気があったから、どうしても潰したい存在だったろう。樋田さんは入学したその年の11月8日の虐殺事件から運動の先頭に立ち、1年生で自治会委員長に押し上げられ、翌年5月には革マルのテロでやられたから、キャンパスに出入りできたのはたった1年間しかなかったことになる。

 今から考えると、学生が自由にモノも言えず、ごく少数の「支配者」ににらまれると、その人は授業を受けることもできないだけでなく、つかまってリンチされヘタをすれば殺される、そんなとんでもない空間が東京のど真ん中に存在していたことが実に不思議だ。そして、その事実がほとんど知られないまま、早大は名門大学として世間に通用してきたのである。また、革マルの暴虐とキャンパスの異常事態を大学当局が事実上容認し、年間2億円といわれる資金が、自治会費や文連運営費などの名目で提供されていたことも不可解だ。大学当局が革マルと縁を切ったのは、ずっと後の奥島総長時代の2000年前後になる。川口君事件から30年近く、事態は放置されてきたのだ。

 自由というものは意外に脆弱なものだなと思う。それは企業や国家などのレベルでも言えるのかもしれない。
 川口君虐殺事件というと、もう一人の名前が浮かんでくる。

 山村政明というかつて第二文学部に在籍していた早大生だ。彼は帰化した在日朝鮮人で、元の名を梁政明という。川口君事件の2年前、1970年10月5日未明、文学部キャンパスのそばにある穴八幡神社の境内で焼身自殺した。

 同時期に早大生だった姜尚中氏も衝撃を受けたといっているほか、人気歌手のにしきのあきら氏も大きなショックを受けたと聞く。(にしきの氏がその2年後に「カミングアウト」する一つのきっかけになったかもしれない)自殺の原因としては、在日としての悩みに焦点が当てられた。『いのち燃えつきるとも 山村政明遺稿集』の巻頭に、作家の李恢成が「二つの祖国所有者の叫び」という一文を寄せたが、そこには「彼を死へ追いやった根源的な原因が民族問題から発生している」と書かれている。

 たしかに彼は、帰化したことが民族への裏切りではないかなど民族の問題で深刻に自分を問い詰めていた。また、学業と労働を両立させられないことや、信仰と恋愛の問題などでも悩んでいたことが遺稿集から分かる。きわめて誠実で繊細な人だったようだ。しかし、彼の自死はあきらかに、革マルの暴力支配によって通常の学生生活が送れなくなったことに誘発されたものだと思う。

 貧しかった山村さんは高卒後就職したが、ドストエフスキーに惹かれ、ロシア文学をやりたいと退職して早大第一文学部に入学。学費も生活費も自分で稼ぐ厳しい生活で、やむなく一文から夜間の二文に転部した。社会問題に目覚めた山村さんは、はじめ革マルにも接点を持つが、その暴力体質に反発し闘うことになる。革マルの拠点、第二文学部の学生大会では議長に立候補して当選し、革マルのストライキ方針に抵抗した。勇気ある正義漢である。キリスト者としてキング牧師の非暴力直接行動に範を取りながらも、実際の運動では民青に接近していった。結果、「反執行部派の首(しゅ)かいとみなされたぼくはもう自由にキャンパスを歩くこともできない」(遺稿集P121)ところに追い詰められた。角材で頭を殴られ7針縫う怪我を負ったこともある。

 「私の一つのユメ。ささやかなユメ。それは今一度、書物をこわきに、たそがれのスロープを、ハナ歌まじりに(できたら讃美歌の方がいい)、のんびりと上って行くことだ。そして読書室で、一時間ばかり書物を開き、友と談笑し授業を受けるんだ。授業はM先生か、O先生のそれだったら、とくにいい!」(P155)

 文学部キャンパスには名物のスロープがあった。山村さんは一人の学生としてキャンパスで授業を受けることもできなくなったのである。
 上記文に対して「古本屋通信」は次のようにコメントしている。
 私は朝日新聞記者の樋田という男を信用しないが、あれこれ想像を逞しくする前に、彼には確実にウソがある。ウソと言うのが言い過ぎなら、隠して言わないことがある。彼は革マル執行部をリコールして自治会の委員長になったが、短期政権で執行部を追われ、革マル派のテロにあい大学に出入りできなくなったと言う。当然ではないのか。なぜなら、革マル派執行部、その文学部委員長、その無抵抗の委員長を根限り撲ったのは誰だったのか。直接リンチを加えたのが樋田毅だったか否かはどちらでもよい。樋田が委員長になる過程で、反革マル陣営は確実に革マル派にリンチを加えている。間違いない。だったら反撃は当然の権利であろう。私に言わせるとザマアミロである。
(私論.私見)
 古本屋通信は云う、「樋田が委員長になる過程で、反革マル陣営は確実に革マル派にリンチを加えている。間違いない。だったら反撃は当然の権利であろう。私に言わせるとザマアミロである」。この御仁は完全に革マル派に逝ってしまっている。シンパと云うより革マル派の一員の可能性が強い。
 つぎによく朝日新聞の採用試験に合格したな。これもケッタイな話である。「一度も大学に行かずに全部レポートで単位をとって卒業した」 そうだが、これだと成績はわるく、やっと卒業出来たのだろう。よく難関の朝日にパスしたな。出来過ぎている。まあ別人のTBSといい、出来過ぎた話は信用できない。

 以下、大学当局がマンモス私大の早稲田で代理徴収した自治会費を学生に渡すのは、民青執行部であろうと、革マル執行部であろうと当然である。ありえないが無党派執行部だと不安で二億円もの大金を渡せない。何処でどう個人がネコババするか分からないからだ。党派だと安心である。倫理性が違う、当局はそう考えるだろう。

 後半の山村政明の話はきれいごと過ぎて読めない。はなからペテン師の姜尚中が登場することは措いて、自殺の唯一の原因を革マル派に求める出鱈目。甘っちょろいセンチメンタルな文章は恥かしくて読みきれない。少なくとも誰かを批判したり糾弾する文章としては失格である。
もう止めようか、アホらしくなるようなカッタルイ文章である
(私論.私見)
 「もう止めようか、アホらしくなるようなカッタルイ文章である」。私もそう思う。どうぞ止めてくださらんか。

【古本屋通信 No 3330/「早稲田大学・川口大三郎事件についての論考」/考】
 「古本屋通信 No 3330 2018年05月19日の「早稲田大学・川口大三郎事件についての論考」を転載しておく。
 この記事を早稲田大学文学部出身の日本共産党中央委員会副委員長の田村智子さんに捧げる。同幹部会委員の吉良佳子さんにも捧げると言いたいのだが、難易度から一寸無理かも知れないので、吉良さんは宜しかったらお読みください。

  長文の資料掲載が続いて、興味のない読者には申し訳ないが、自分用に(れんだいこさんの)長文を貼る。転載しないと読みにくいのだ。私は関連記事を一度書いているので、それを解題代わりに冒頭に貼る。読んでの通り私の立場は彼と正反対、つまりこの事件に関する限りだが、私は全面的に革マル派に組みするものだ。だが一連の経過の詳細について、私はこれまで目を通したことはなかった。そこで今回の転載となった。正直に書く。私の関心は革マル派に対する野合連合の敗北の経過を辿ることのみである。雑炊が如何に無謀な抵抗をして、結果無残に早稲田から放逐されたか、その見苦しいアガキの跡をたどることだけである。私はザマアミロと思っている。ただし断っておく。私の憎悪は革マル派に対立した政治党派に向かわない。中核派、社青同解放派、民青同盟、第四インター派、社学同に憎しみはない。もっはら無党派ノンセクトに憎悪と軽蔑を懐く。これ一見古本屋通信の特殊な立場に見えよう。だがそうでない。革マル派はやがて完全勝利した。われわれは歴史の審判に従うべきである。
(私論.私見)
 古本屋通信はんが、れんだいこと所論を異にするのは構わないとしよう。気になるのは、「古本屋通信」のハンドルネームで登場するこの御仁は一体何人いるのだろう。明らかに政治的スタンスが異なる者が混在している。何やらそれぞれが「古本屋通信」のハンドルネームで書き込みしている風がある。どういう組織なんだろうと気になる。こたびの「古本屋通信」はんは、「私の憎悪は革マル派に対立した政治党派に向かわない。中核派、社青同解放派、民青同盟、第四インター派、社学同に憎しみはない。もっぱら無党派ノンセクトに憎悪と軽蔑を懐く」と云う。「もっぱら無党派ノンセクトに憎悪と軽蔑を懐く」とは変わった芸風である。そして末尾は「だがそうでない。革マル派はやがて完全勝利した。われわれは歴史の審判に従うべきである」。文が接続していない。書き手が日本文に習熟し得ていない異邦人のせいではなかろうかとも思う。別に何人が誰が書こうが構やしないけども。

【古本屋通信 No 3331/「川口大三郎事件論考を読む」/考】
 「古本屋通信No 3331 2018年05月20日」の「川口大三郎事件論考を読む」。
 読み通すのにかなり時間が懸かった。文中の随所に赤字でコメントを入れたから、この論考(れんだいこさんのまとめだが、原文はネットの匿名文だという。たぶん無党派右の学生だろう)への私の批判は了解されよう。だが早稲田大学のこの事件を、同大学のキャンパスの中で幾ら考察しても、何も見えてこない。若干の前史と事後36年の経過を踏まえて、私見を思いつくママに書こう。

 1972年という年は革共同の第3次分裂の1963年から9年目に当たる。中核派と革マル派の対立はずっとあったが、最初の死者が出たのは1970年の教育大・海老原事件だったろう。そこから内ゲバが始まる。その2年後に当たる。いよいよ本格化するのだが、やがて中核派・本多書記長殺害(1975年)が大きな山場だった。早稲田大学の川口事件は誤認だと言うが、私はマクロでは誤認だと思っていない。誰もが死者に鞭打つことを避けたが、今なら書いても怨みは買わないだろう。

 私は百人近い内ゲバ犠牲者(中核派、革マル派、青解派の死者)に等しく同情し、哀悼する。だが連合赤軍の死者を哀悼する気になれない。どうしてか。軽率だからだ。あれが党派闘争であるわけがない。あれが革命闘争であるわけがない。まあオウムと同格である。
 川口は20歳だから成人である。政治行動はすべて個人責任である。彼はまず革マル派に近づいた。失望して中核派シンパになり行動を共にした。中核派にも飽き足りず民青に接近したり、右翼の道場に出入りした。いいか、政治活動はサークルの趣味ではない。あの状況下、党派の緊張した対立状況下で、こういう渡り歩きが何を結果するか、理解できないのは軽率を通り越している。まあ政治党派にとっては処刑の対象だろう。
(私論.私見)
 「渡り歩き」を「政治党派にとっては処刑の対象だろう」と云いなす。えらい傲岸不遜な物言いではないか。学生運動上の「渡り歩き」を「処刑の対象」視するような見解に合点する気にはなれませぬなぁ。
 海老原事件で同志を殺された革マル派が川口をスパイと見做したことに何の不思議もない。ごく普通の政治認識である。だがスパイの十分な根拠なくリンチに懸けて殺した。だから自己批判は当然だが、川口は大威張りで自己の政治行動を正当化できる立場ではなかった。殺されて当然とは言わないが、追及され袋叩きにされる十二分な理由があった。この認識は事件当時、早稲田の学生に広汎に存在したはずである。ただ川口の死を前にして声にならなかっただけである。
(私論.私見)
 川口君の「渡り歩き」を「殺されて当然とは言わないが、追及され袋叩きにされる十二分な理由があった」、「この認識は事件当時、早稲田の学生に広汎に存在したはずである」はウソである。日頃の革マル派の学内憲兵隊もどきの活動ぶりを忌々しく思っていたのが早大キャンパスの雰囲気であり、だから事件後革マル派糾弾闘争が爆発したのだろうが。この人は、知らぬ者をたぶらかす言辞を平気でする御仁であることが分かる。
 反革マルの政治行動は、すべて党派の利害でやったことである。要は悪ノリしただけである。だが悪ノリした無党派が今ひとつ掴めない。自民党と勝共と創価と体育系だろうか。然し、こんなもん所詮ゴミだから、絶対に闘争の担い手にはなれない。
(私論.私見)
 雑漠過ぎて意味不明のことをおっしゃっている。コメントする気になれない駄文である。
 党派だが、1966年の早大学費・学館闘争を彷彿させる。革マル派と青解派と民青と中核派である。だが、今回の川口事件は中核派も青解派も民青も初めから本気でなかった。特に民青はやる気がなかった。早稲田どころではなかったのである。もともと政治基盤がなかった中核派と、すでに完敗していた青解派と、初めから革マル派と平和共存路線だった民青と。最初から革マル派の挽回は予定された既成事実だった。つまり早稲田には革マル派の支持者が圧倒的に多かったし、日常活動が支持されていた。それだけだ。
(私論.私見)
 「早稲田には革マル派の支持者が圧倒的に多かったし、日常活動が支持されていた。それだけだ」と平気で言う。開いた口が塞がらないとはこのことだ。
 れんだいこさんの記事中の、学生の日頃の怒りがいっせいに噴出したというのはウソである。怒りが本物でなかったから半年も経たないうちに革マルの天下に戻った。
(私論.私見)
 「れんだいこさんの記事中の、学生の日頃の怒りがいっせいに噴出したというのはウソである」というのがウソである。これは当時の早大生に確認すればすぐ分かることである。「怒りが本物でなかったから」、「半年も経たないうちに革マルの天下に戻った」も太々しいウソである。「半年も経たないうちに革マルの天下に戻った」のは事実であるが、その理由が「怒りが本物でなかったから」ではない。革マルの天下に戻す方が賢明と判断した大学当局と、その当局の判断に影響を与えた裏筋の指令の賜物だろうが。
 以上を書いた段階で、私はれんだいこさんの記事を殆んど論じていないことに気づく。つまり事実関係だけでも、殆んど役に立たないのだ。肝腎のことが何も記録されていない。例えば学生大会の記録だと、革マル派執行が罷免された第一文学部の学生大会の賛否だけしか書かれていない。あとは全部が革マル憎しの駄文である。資料にならない。
(私論.私見)
 ここも意味不明のことをおっしゃっている。「全部が革マル憎しの駄文である」という。お互いが駄文呼ばわりしていることになるな。
 ここに一冊の『早大生・川口大三郎君追悼集 声なき絶叫』なる190頁の冊子がある。これまでの古本屋稼業で数回入ってきた。その都度捨てている。今回のものは先日の中核派系の活動家からのものだ。事件直後の追悼集としても粗末で一読に耐えない。タイプ印刷やレイアウトの稚拙は置いて、収録された文章も早稲田の物とは思えないオソマツである。興味深いのは党派人の文がまったく見当たらないことである。つまり反革マル諸党派は、はじめから川口を追悼する気などサラサラなかったのだ。あとは革マル派潰しだけだが、これもやる気はなかった。大衆的な運動どころではない党派闘争つまり」内ゲバの時代に突入して行ったのである。

 当時の早稲田全学の党派の内訳を書いておこう。公安資料はなく私の予想である。ピークの1970年を2年経過しているから、かなり少ない。革マル派300人、民青300人、青解派と中核派と社学同は殆んど皆無。ではどうして早稲田に顔を出したのか。外人部隊である。ただし民青はいた、だがちょうど新日和見主義事件と一致した。早稲田どころではなかった。そもそも早稲田では革マル派と民青の共存は定着していた。喧嘩せずである。こういう状況下で早稲田の雑炊・行動委員会の決定的敗北は初めから確定していた。
 当時のノンセクトが今もネット上に川口事件の資料を残している。ご覧になれば分かるが、完敗だったと結論付けている。だが自分たちの闘いが、正義に名を借りた不正義の妄動だったという自己認識はない。いまも革マル派が早稲田の第一勢力であるという認識はない。大学当局が同派を切っているのにである。
(私論.私見)
 当時の革マル派糾弾闘争を、要約「自分たちの闘いが、正義に名を借りた不正義の妄動だったという自己認識はない」と御説教してくれている。ならば逆に問おう。革マル派運動が、「自分たちの闘いが、正義に名を借りた不正義の妄動だったという自己認識は今もないのかな」。
 あと少し書き加える予定である。この事件の各派総括だが、当時私は各派機関紙を神田のウニタ書肆で入手して読んでいたが、確かな記憶はない。各派とも事件当時のみ簡単に記事にしただろうが、追跡はしていないだろう。また長文の総括はしなかったと思う。なぜなら重視していなかったからだ。そういう中で第四インター派が文末に収録してある政治見解を発表している。まだ未読だが興味をそそられる。
(私論.私見)
 要約「第四インター派の政治見解に興味をそそられる」だと。同じ圏内の棲息者だからだろうよ。









(私論.私見)