「川口大三郎君リンチ虐殺事件」資料2、その他の論文

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).5.2日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「「川口大三郎君リンチ虐殺事件」資料2、その他の論文」を確認しておく。

 2003.7.16日再編集 れんだいこ拝


【「早稲田の自治と民主主義 革マル-その暴虐の歴史」】
 「早稲田の自治と民主主義 革マル-その暴虐の歴史」(全学連中央機関紙「祖国と学問のために」早大総分局・’72年「革マル」暴力事件被害者林君の告訴を支援する会編1975年7月26日発行)。
 日本共産党・民青系学生による革マルとの抗争資料集。1966年から始まっているが、川口君事件の背景を知るのに重要なため、全文を転載。編者の団体は今日では存在しないと思われ、編者の転載許可を得ていない。著作権上問題がある場合は、著作権継承者から管理人まで連絡していただきたい。
 全文PDF版 (ワンドライブに収納)
 早稲田の自治と民主主義
 
 革マル-その暴虐の歴史 
 
 全学連中央機関紙「祖国と学問のために」早大総分局・’72年「革マル」暴力事件被害者林君の告訴を支援する会編
1975年7月26日発行
 
 日本共産党・民青系学生による革マルとの抗争資料集。1966年から始まっているが、川口君事件の背景を知るのに重要なため、全文を転載。
 
 編者の団体は今日では存在しないと思われ、編者の転載許可を得ていない。著作権上問題がある場合は、著作権継承者から管理人まで連絡していただきたい。
 
全文PDF版 (ワンドライブに収納)
目次
序文 
第一章
怒りの炎 (1966~70年)
はじめに
第一項 商学部自治会売り渡し事件
66年早大学費学館斗争
自治会費代行徴収停止
「商学部と学生会との了解事項」
第二項 68年11月から69年4月まで続いた「文連」、「早稲田祭実行委員会」、「一政学友会」乗っ取り、破壊事件
はじめに
(1) 「社青同解放派」解体のための組織的斗い
(2) 「革マル」による文連執行部奪取
(3) 「早稲田キャンパス新聞」の記事白抜き事件
第三項 「大管法」をめぐる「革マル」と諸集団とのゲバルト合戦とその結末
(1) 大管法反対斗争
(2) 革マルと全共斗
(3) 民主化斗争の前進と革マルの暴力のエスカレート
(4) 暴力一掃・民主的自治会確立の斗いが始まる
第四項 山村政明君 焼身自殺事件
(1) 二文における暴力支配の背景と実態
(2) 山村君事件--その意味するもの
「抗議・嘆願書」(全文)
第二章
ノーモア・川口 (1971~72年)
はじめに
第一項 「琉大事件」と暴力支配策動
はじめに
【一九七一年「革マル」の完全暴力支配復活といわゆる「琉大事件」】
琉大事件とは
革マルの陰謀
町田宗秀を最後に見たのは革マル
資料・琉大事件直後のテロ・リンチ
第二項 1972年2月4日、革マルによる「一法自治会執行委員」への集団鉄パイプ・テロ事件
2月3日団交(法・教・社学自治会、政経臨執)の成果
2月4日に自己暴露した闘争の分断、当局の飼い犬、テロ集団としての革マルの本質
第三項 教員・職員への暴行と組合への乱入
はじめに
北村助教授に対する暴行と恫喝
革マルの教員組合事務所乱入
居直り声明
早大教員の暴力一掃への努力
第四項 革マルの「教・政・社学自治会」デッチ上げ・承認策動と「全中自」デッチ上げ
教育学部自治会デッチ上げ策動
社会科学部「自治会」デッチ上げ策動
政経自治会、全中自デッチ上げとその破綻
第五項 1972年/林、松原、三枝木3君へのテロ・リンチ事件
はじめに
五・一二社会科学部再建自治会学生大会会場襲撃、林君事件
二文学生の三枝木君リンチ事件
松原君リンチ事件
第六項 登校・受講権問題
「登校・受講権」とは
大学当局の姿勢と責任
「登校・受講権」回復の粘り強い闘い
第七項 「革マル」脱退者への集団内部リンチ事件
はじめに
「事件=リンチ」の背景
当局とのとりひきを知り動揺・脱退
「革マル」の残虐なリンチ
犯罪もみ消しと「革マル」擁護に必死の当局
第八項 川口君リンチ殺害事件と暴力支配の打破
はじめに
リンチ殺人事件経過(殺人→死体遺棄→発見→記者会見)
暴力支配の打破
「行動委員会」と暴力諸集団の役割
第九項 まとめ
第三章
民主的自治の確立を
はじめに
自治会の理念
自治会とは何か
「革マル」の自治会論は自治会の原則の公然たる否定の上に立っている-自治会を担う資格は「革マル」にはない
 参考資料
(一) 山村君事件
(二) 町田君(琉大)事件
(三) 松原君リンチ事件
(四) 川口君リンチ殺害事件
(五) トロッキスト暴力集団「泳がせ」
(六) 第一・第二文学部での「革マル」の主要暴力一覧表 
 序文
 成り上がり者は、己れにつきまとう過去に怯える。彼等は現在の地位を築き上げた階段の一段一段から血と泥をぬぐい去り履歴書を偽造する。だが彼等の体臭から過去の血の臭いを消すことはできない。このパンフレットは、「革マル」が早大に於いてその独裁的支配体制を築き上げていった過程の陰謀と暴力の数々を、具体的資料と事実に基づいてまとめたものである。対象とした一九六六年から七二年の間に、彼等のテロによって数千名の早大生の血がキャンパスに流れた。そして、二名の早大生・山村政明・川口大三郎の生命が「革マル」の手で消し去られた。『自分が殺されたとしても不思議ではなかった』-当時の早大を象徴的に表現する言葉はこれ以外にない。陰謀とテロ、この二つが「革マル」の最も愛したものである。彼等はデマと陰謀にかけては、ゲッベルスの直系であることを示し、テロとリンチは特別高等警察仕込みであった。彼等が最も口にしながら何も学べなかったものがマルクスであり、一度も語ろうとしないが最も学んだものはヒットラーである。

 このパンフレットはこのような「革マル」の血塗られた過去と現在を人々に知らせることを主要な目的としている。多くの学友は既に卒業し、殺された友はもはや口を開かない。そしてキャンパスにしみ込んだ血も乾き始めている。「革マル」の暴虐史は、歴史が偽造される前にどうしても記録されねばならなかった。もちろん、このパンフレットにその全部を網羅することはできない。しかし、この記録は必ずや「革マル」に忌み嫌われるものとなろう。そして今や手負いの犬と化している「革マル」は、この小冊抹殺の為鉄パイプを振りかざすかも知れない。だが、それはこの小冊に新たなページを増やすことにしかならないことを「革マル」に警告しておく。この暴虐史の最後のページを『暴力一掃・学園の自由確立遂に実現す』の言葉で飾るまで我々は書き続けるし、斗い続けるであろう。「革マル」がいくらその血染めの手から血痕をぬぐい去ろうとしても、それはもはや不可能だ。彼等は既にマクベスの道を歩んでいる。バーナムの森は必ずや動き出すであろう。

 (関連資料)
 「遊撃隊TOP、97年早稲田祭に行ってきたぞ」より抜粋
 2.血塗られたキャンパス
 そもそも、早稲田大学は、革マル派最大の拠点として知られている。事実、革マル全学連のビラは早大ではかなり頻繁に見ることが出来るし、早大キャンパスでは、革マル派と熾烈な内ゲバを繰り広げていることで知られる中核派、及び解放派との間で、実際に何度も武装衝突が発生している。

 革マル派は、67~68年にかけて、暴力的にサークル自治会「文連」を乗っ取り、これを機に解放派などの早大内に残る反対派を放逐し、「革マル暴力支配」を完成させていった。因みに、今日でも政経学部には自治会がないが、それは、かつて早大から追放された解放派の拠点が、政経学部自治会であったからである。

 「革マル暴力支配」の極致とも言うべき事件は、70年における民青活動家の山村政明君の自殺と、中核派シンパ川口大三郎君のリンチ殺人事件である。

 当時の革マル派は、常時キャンパスをパトロールし、革マル派に反対する人々が早大内に登場できないようにしていた。もしも彼等に捕捉されたら、革マル派に足腰が立たなくなるまで暴力的に叩きのめされるのである。事実、かつて「文連」などに勢力を保持していた解放派のメンバーの中には、かくして具体的には片目をえぐり取られるなどの生涯消えない傷を負わされた者も存在する。因みに、当時解放派の放逐に力を注いでいた革マル全学連の大幹部藤原隆義氏は、後に解放派によって、車に乗っていたときにその中に閉じ込められ、他の3人の仲間とともに車もろとも焼き殺されるというあまりにも無惨な最期を遂げている。

 山村君は、民青活動家であり、革マル派に顔を知られているために、登校すると革マル派に半殺しにされかねないという危険に、彼は常にさらされていた。かくして、彼は1年以上にわたり、登校の自由を奪われていた。思い詰めた山村君は、抗議の意味を込めて、70年10月6日、焼身自殺という悲痛な道を選んだ。

 因みに、当時の民青は暴力的な面もあったし、革マル派と民青との内ゲバでは死者も出ているのではあるが、そのことを抜きとしても、革マル派の党派闘争の激しさ、他党派に対する徹底した残酷さは、明記しておかなければならない。

 そして、72年11月8日に殺害された川口君は、中核派のシンパであったと言われている。少なくとも、革マル派に対しては批判的な学生ではあった。そんな彼は、自治会が行う「クラス討論」にて、革マル派を批判したために白昼革マル自治会に拉致され、6時間あまりに及ぶ凄絶なリンチを受け、殺害された。同事件は、本郷の東大病院前にて、彼の死体が遺棄されたことが判明することによって公になった。もっとも彼は、時々デモに参加したという、どちらかというと一般学生に近かった人物のようであったらしい。民青、日向派(現「BUND」、ロフトプラスワン事件でお馴染み)などはこの点を重視して、「一般学生」と見なしたが、リンチの課程で川口君自身が中核派活動家の名を白状したので、必ずしも中核派とは無縁ではなかったようである。

 もっとも、川口君が弄した反革マル的な言辞は大した内容ではなく、ともすれば、早大内にて革マル派に睨まれることが何を意味するかということを誰もが敏感に感じとったのである。

 そう、「もしかしたらボクも....」[「朝日」]という恐怖は、ともすればすべての早大関係者が長年の間抱いていた恐怖でもあった。実際、最近は人の死を伴うようなリンチ、内ゲバは沈静化してはいるものの、少なくとも早大に於いて圧倒的な勢力を保持している革マル派に反抗することは、その報復としての吊し上げ、監禁、暴行などの事件は未だに後を絶たない以上、革マル暴力支配の恐怖は現存していると言ってよい。

 早大内における「革マルタブー」とは、具体的に言えば、こういうものである。

 とりわけ川口君事件は、後の学生運動、内ゲバの趨勢に多大な影響を与えた。後に、その下手人と見なされたものの中には、中核派によって重傷を負わされた者はおろか、廃人と化せられた者も存在する。引用してみよう。どれだけ恨まれているかが分かるはずである。

 「川口同志虐殺者に血の報復~遂に早稲田カクマルをせん滅~....川口、辻、正田同志虐殺を「許してくれ」とは何たることだ!我が部隊は原田の命乞いに対して無慈悲なツバを吐きかけ、虐殺下手人にふさわしいやり方で徹底的な鉄槌を加えたのである。一撃、一撃に三同志の悔しさを込め、わが戦士は自らの体内に三同志の遺志をよみがえらせおびただしい流血を強制した。/三同志の命を奪い去った憎むべき虐殺者の手や腕を粉々に打ち砕き、つづいて頭や足、そして全身に反革命的罪科にみあったバール五十数発を念入りに刻み込んだのであった。部屋の中は原田のどす黒い血で一杯になり、原田は物言わぬ物体となって血の海に浮かんだのである。」[中核派機関紙「前進」第666号]

 「川口君虐殺下手人逃亡分子を関西で摘発~早大田原を徹底せん滅~民家への逃げこみを粉砕~....わが戦士が「田原」と呼びかけたとたん、この反革命分子の顔からサッと血の気が引き、ひざがガクガクとふるえだしたのである。すかさず、打ち下ろされたわが戦士の鉄槌の前に、田原はよろめきながら、目の前にあった民家めがけて、家の前にいた女の子を突きとばしてころがりこみ、コタツの掛けぶとんの中へ頭の先だけもぐりこませ、何ら抵抗することなくガタガタとふるえていたのである。....この卑劣分子をズルズルとコタツの中から引きずり出し、川口同志虐殺に対する怒りと憎しみの一切を込めて、肩、手足に対する的確な打撃を加え、三ヶ月の重傷という壊滅的な打撃を与え、二度と反革命的罪業を重ねることができないまでに打ち沈めたのである。」[「前進」第719号]

 川口君事件を機に、さすがに革マル派に対する批判がうずまき、革マル派は何度も吊し上げなどの制裁や、反対派セクトの武装襲撃を受けている。

 その衝撃の大きさから、革マル派は社会的に孤立し、革マル系の自治会はリコールを受け、消滅の危機にたたされた。しかし、革マル派の勢力範囲である「早稲田祭実行委員会」はリコールを免れた。革マル派は追放されなかったのだ。相も変わらず、早大は革マル派本丸であり続けた。

 そして、川口君事件1周年を間もなく迎えようとしていたときに、例年この時期に行われていた「早稲田祭」の問題が持ち上がった。そう、再び革マル派が「早稲田祭」を執り行う時期が来たのだ。

 革マル派と激しく対立しているセクト、特に解放派と中核派とはこのことを重視し、「早稲田祭粉砕」を掲げていた。彼等は、とりわけ当時の「早稲田祭」が、川口君の命日である「11月8日」に行われる予定であったことから、「革マル早稲田祭(革マル祭)粉砕!」とか、「お望みどおり、「虐殺者の祭典」をコナゴナに打ち砕いてやろうではないか!」などと絶叫していた。結局、当初の期日はあまりにも露骨なため、早稲田祭は日程をずらして行われたが、このこともまた、革マル派と当局との動揺を示すものであり、解放派や中核派を喜ばせるものであった。

 又、民青の勢力が強い法学部では、革マル派主導の「早稲田祭」に反対、独自に「法学部祭」を行うに至った。それは現在でも続いている。

 かくして、内ゲバ戦争はますますエスカレートし、その死者は100人近くにのぼる。少々調べただけでも、今では考えられない、ものすごい歴史である。是非とも、当時の人々の話が聞きたいものである。


【景清氏の第四インタ-派の立ち回り疑惑考】
 「検証内ゲバ2」(社会評論社)の景清氏の「『革共同両派への提言』から何を学ぶべきか」は次のようにコメントしている。
 「こうした学生のバラバラな意識を統一し、『内ゲバ反対、革マル派追放』へと学生大衆を集中結束させ、その手段としての民主的自治会の再建・防衛に向けて学生大衆をまとめていくイニシアティブが必要とされていた。そうしたイニシアティブのもとに、文連(文化団体連合会)に逃げ込んだ革マル派を、その拠点である学生会館から追放する行動が必要とされていた。こうしたヘゲモニーを発揮すべき勢力は、当時の早稲田にあっただろうか。

 まず第一に、84年の中核派による襲撃に対して反内ゲバ闘争を闘い抜いた第四インタ-派はどうだったか。当時の第四インタ-派はまだ早稲田大学内部には全く勢力を持たない『外人部隊』であったため、影響力には限界があった。しかし、その主体的力量に応じて的確な介入を行っただろうか。第四インタ―派は当時、内ゲバに反対する声明を何度も出し、その元凶である革マル派を早大キャンパスから追放せよと扇動していた。しかし、行動の上では、早大学生大衆と連携してそのような行動に着手したのは翌年夏に入ってからであった。4月から始まった革マル派の内ゲバ反撃に対しては決定的に遅すぎたのである。先進的学生活動家を組織的に防衛することができず、ほとんど大衆的反撃力を失った時期に起こした『虐殺1周年』闘争ではもはや手遅れであった」。
(私論.私見) 景清氏の第四インタ―評論考
 なかなか良い観点から論じているように思われる。れんだいこから見ても、第四インタ―にはヌエ的なところが有り過ぎる。

 2009.8.13日 れんだいこ拝

 2021年11月27日16:28 、「No.0301 早大の「川口大三郎事件」を忘れない」。
 1972年11月8日、早稲田大学構内で文学部2年生の川口大三郎さんが革マル派の学生に拉致され、殺される事件が起きた。革マル派は、川口さんを中核派の学生と疑い、凄惨なリンチを加えていた。本書『彼は早稲田で死んだ』(文藝春秋)は、この事件を改めて振り返ったノンフィクションだ。著者の樋田毅さんは元朝日新聞記者。『海辺のカフカ』にも登場。この事件は、当時の多くの早稲田大学関係者には忘れられないものだった。村上春樹さんは、『海辺のカフカ』の中で川口さんをモデルにした人物を登場させている。直木賞作家の松井今朝子さんの『師父の遺言』にも関連の記述がある。ともに事件当時、文学部に在籍していた。川口さんは、革マル派が拠点とする早稲田大学文学部の、自治会室として使われていた教室で集団リンチを受けた。川口さんが連れ去られた後、友人らが大学当局に救出を訴えたが、大学側は積極的な救出活動をしなかった。川口さんは翌日、変わり果てた姿で、なぜか文京区の東大病院の前に放置されていた。多くの一般学生は、早稲田祭の2日後に起きたこの事件に衝撃を受け、革マル派を糾弾する集会が続いた。数千人規模の学生が集まった。川口さんの友人たちは、川口さんが部落問題などに関心は持っているものの、中核派ではないということをよく知っていた。革マル派はいったん謝罪の姿勢を示したが、やがて巻き返し、キャンパスは再び革マル派に支配される――というのが当時の状況だ。

 名前を替え、まったくの別人生

 樋田さんの本書には大別して三つの特徴がある。一つは、リンチした側の革マル派関係者にも取材していることだ。本書の冒頭は、当時の早稲田大学文学部自治会委員長に会いに行くところから始まる。地方都市の駅を降り、家を捜し歩いて2時間。玄関のブザーを押すと、初老の女性が出てきた。「ここは田中敏夫さんのお宅ですか」と尋ねると、女性はいきなり、「あなたは革マル派の方ですか」と問いかけてきた。「いえ、違います」と慌てて答え、来訪の主旨を話そうとすると、「それでは、中核派の方?」と畳みかけてくる。女性は田中さんの妻だった。最終章の第7章では、樋田さんと、当時の文学部自治会副委員長との「4時間の対話」が掲載されている。委員長代行も務めた大物だ。彼は名前を替え、まったくの別人生を送っていた。学生運動をしていたころの記憶は「エアポケット」になっているという。このほか、リンチの実行犯だった人物にも会っている。70年代から80年代にかけ、本件のような「誤爆」も含めて多数の内ゲバ事件が起きた。死者は100人に上るといわれるが、犯人はほとんど捕まっていない。ましてや襲撃した側の人物の証言は皆無に近い。その後の彼らの人生も闇に包まれている。それだけに本書の「元革マル派活動家」への取材は社会史的にみても貴重だ。

 本書のもう一つの特徴は、著者の樋田さんも当事者だというところにある。樋田さんは事件当時、文学部の1年生。川口さんの1年後輩に当たる。語学のクラスが同じだったこともあって、生前の川口さんを見かけたこともあった。事件まで樋田さんは、政治活動とはほぼ無縁だった。体育会漕艇部に属し、新宿のマグドナルドでバイトをしていた。しかし、理不尽なリンチ殺人事件が樋田さんの正義感に火をつけた。あっという間に、革マル派を糾弾する側のリーダー格になり、奔走。一時は革マル派自治会執行部をリコールするところまで追い込んだ。「H君、文学部一年生。暫定自治会規約など議案書作成者の一人だ。小柄だが特徴のある長髪、あごヒゲをふりかざし、一文クラス討論連絡会議を代表し、千人を超す学生を前に熱弁をふるった。しかし、川口君が殺される前まではコンパ(飲み会)を愛し、酒に酔っては友と肩を組む学生だった・・・」。「ある学生の軌跡」として当時、毎日新聞に登場した「H君」が樋田さんだった。気恥ずかしくもあったが、自らが取材され、活字になった経験が引き金になり、樋田さんは新聞記者を志すことになる。

 キャンパスが再び革マル派支配になると、今度は樋田さんが革マル派に狙われる立場になった。鉄パイプで何度か襲撃され、重傷を負ったこともある。いったん大学院に進んで、78年、朝日新聞記者になった。そこで樋田さんはもう一つの「理不尽な殺人事件」に深く関わることになる。「朝日新聞阪神支局襲撃事件」。これが本書の3つ目の特徴だ。1987年5月3日、朝日新聞の阪神支局が襲撃され、後輩の小尻知博さんが目出し帽をかぶった何者かに散弾銃で射殺された。すぐに大阪社会部で5人の専従班が組織された。樋田さんも指名されてメンバーになった。「銃弾で倒れた小尻君と、早稲田での川口大三郎君の死が、心の中で重なっていた」樋田さんは時効までの16年間、犯人を追い続けた。さらにその後も個人的に取材を続け、30年間に約300人の右翼関係者に会ったという。2018年には『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』(岩波書店)を出版している。NHKスペシャルは2018年1月末、2回に分けて「未解決事件File.06 赤報隊事件」を放映、草なぎ剛さんが真相に迫る記者役を演じていた。樋田さんがモデルだ。本書と、『記者襲撃』を合わせて読むと、樋田さんの不屈の執念と誠実さ、律儀さを改めて知ることができる。

 出典: BOOKウォッチ編集部 2021年11月12日

No.0293 彼は早稲田で死んだ
 
 (1)
 樋田毅著『彼は早稲田で死んだ』(文藝春秋、2021年11月10日刊)を一読しました。本書を契機として、多くの方々が、カクマル(革共同革マル派)による7時間にわたる監禁と集団的リンチの末に虐殺された早大生・川口大三郎君(享年20)を記憶し、想起し、追悼していただきたいと願います。中核派の私(2006年に離党したとはいえ)がいうと著者もありがた迷惑でしょうが、カクマルの早稲田における常軌を逸した暴力支配、日常的なテロ・リンチ、そのカクマルを庇護する大学当局の実態、カクマルに抗する早稲田の学生たちのほんとうに大衆的な蜂起が、当事者でなければ書けないドキュメントとして半世紀近くたって、満天下に明らかにされました。カクマルがすでに衰退の極みにあるとはいえ、なおも党派として存在していることを考えると、本書出版は、著者の再度の「蜂起」といえるでしょう。テロ・リンチの恐怖とたたかう「小さな勇気」(1973年6月にまかれたチラシのなかのことば)を今も持ち続ける著者の「熱い思い」(本書)に心から拍手を送ります。著者の樋田さんのスタンスは、カクマルの暴力支配にたいして「非暴力不服従」、「不寛容にたいする寛容の心」というものです。カクマルにたいする武装自衛には当時も今も反対の立場です。ものたりないと感ずる向きもあるでしょう。でも、そうだからこそ、本書はカクマルという党派、そのテロ・リンチを根底から鋭く告発するものとなっています。私は、樋田さんの抑えた筆致によって、かえって、カクマルが左翼の一派というものではなく、特別にきわだって理不尽、特殊に暴力的な集団であるという姿が浮かび上がっていると、読みました。ぜひとも多くの同時代の人たち、今の若い世代の人たち、社会運動史の研究者が貴重な歴史の証言として本書をじっくりと読んでいただきたいと思います。

 (2)
 また本書の重要な意義がもうひとつあります。それは、元カクマルの大岩圭之助(当時はカクマル一文自治会副委員長、現在は明治学院大学名誉教授、筆名・辻信一)との対談を実現し、大岩の生のことばを引き出したことです。元カクマルの証言や現在の心境を聴き取ることは誰がやってもほとんど実現できていません。それを引き出しえた著者の信念と執念は特筆されるべきでしょう。では、元カクマルの大岩は何といっているのか、詳しくは別途分析・批判したいと思います。だが、もっとも重要な点は、大岩は1975年1月か2月にカクマルを離脱しているものの、いまだに当時のカクマルとその暴力支配、何よりも川口君虐殺について、あれこれと弁明しながら、なんの謝罪も、自己批判もしていないことです。「川口君の事件への罪の意識」ということも口にしながら、むしろ開き直り的に、「謝罪というのはそういう一種の茶番にならざるを得ない」、「責任なんてそもそも取りようのないものだ」、「僕は責任を取ることができないと思っている」などといっているのです。大岩はカクマルであった自己、自己が所属したカクマル組織について、まったくなんの総括もしていません。その作業を拒否しています。いわく。「僕はこれまでに学生運動が自分の原点だと考えたことがない」、「その辺りというのは、僕の中でもポッカリと開いているエアポケットのようなもの」というわけです。なんと卑劣な自己保身であることか!私は、現在の大岩の言動は、1972年・73年当時のカクマルそのものだと受け止めました。関連して、川口君虐殺の下手人の一人に村上文男(当時、二文自治会委員長)がいます。村上は獄中で、「一部の未熟な分子」呼ばわりによって(あるいは、この規定に象徴されるすべてによって)僕を疎外した組織を僕は絶対に許すことができない」、「革マル派に革命などやらせてはならないと思う」と書きました(『梯明秀との対決』こぶし書房、1979年7月刊)。この村上もまた川口君虐殺をまったく謝罪しておらず、なんの自己批判的総括もしようとしていません。しかし、村上の前出のことばが示すように、川口君虐殺問題をめぐって、とりわけ早稲田の学生の大衆的蜂起に直面して、カクマルとその全構成員は動揺し、ガタガタになったのです。ですから、カクマルの暴力支配の先頭に立ってテロ・リンチをほしいままにし、「革マル系自治会の暴力の象徴的な人物の一人」(本書)である大岩が、それを「エアポケット」などということは大嘘なのです。いまだに、問題の隠ぺいをはかっているのです。カクマルとはこういう卑劣で独善的で傲慢な党派集団なのです。

 (3)
 本書は、川口君がなにゆえに虐殺されねばならなかったのか、なにゆえに死に至るまでのテロ・リンチを受けねばならなかったのかについて、つまり死の真相究明について、必ずしも踏み込んでいないように思われます。著者のジャーナリストとしての知見と経験からすれば、かなりのことができたのではないかと思います。もしかすると、「不寛容にたいする寛容の心」という著者の信念が、死の真相究明に向かうことと矛盾するからかもしれません。その点、まだ読み込めていません。私は、カクマルが川口君を白昼、学生大衆の面前で連行・拉致した目的は初めから川口君を早稲田から抹殺することにあったと考えます。あらゆる事実がそれを立証しています。それにたいして川口君はカクマルからの自己批判強要にけっして屈しなかったがゆえに、つまり「中核派の同盟員ではない(これは事実です)」といい抜いたがゆえに、また自己の反カクマルの思想と信念を最後まで曲げなかったがゆえに、カクマルどもが川口君の不屈さに追いつめられ、動揺し、逆上し、初期の政治的目的を軍事的に実行したのだと思います。「一部の未熟な分子」のしわざではないのです。じつは、カクマルは中核派早大支部のなかにスパイを潜入させていました。そのスパイがカクマル中央に「川口=中核派同盟員」と通報していたことは間違いないと思います。といいますのは、カクマル機関紙『解放』139号(1969年6月15日)に「ブン=ブク連合の革命的解体のために」という無署名論文、つまり黒田寛一およびカクマル政治組織局の組織的責任で執筆された重要指導論文があります。そこでは「ブン=ブク連合解体そのものの独自的追求に関して」として、「他党派への加入戦術の駆使を通じた組織的内情の適確な把握」を具体的な戦術としてあげ、「他党派解体のための組織戦術の具体的解明とその貫徹のたたかいを組織的に一段と強化していかねばならない」と結んでいるのです。(なお、ブン=ブク連合とは、ブントとブクロ派の連合というカクマル特有のいい回しです。)このように、1969年前半の段階で、カクマルは中核派とブントへのスパイ送り込みを組織決定したのです。以後、スパイ戦術をどんどん強化、拡大していったのです。いろいろなところでカクマルのスパイ潜入の事実があります。このスパイ送り込み戦術の問題は、川口君虐殺に直接結びついたカクマルの悪行として特別に記録されるべき問題であると思います。

 (4)
 川口大三郎君は、反戦反核、狭山差別裁判糾弾に熱心に取り組み、人間解放を求めてやみませんでした。それゆえにカクマルの暴力支配を許さずにたたかいました。カクマルの暴力と脅しに屈せず、最後までその正義の信念、思想を曲げませんでした。虐殺死をとげた川口君はどんなに悔しい思いだったでしょうか。改めてここに、川口大三郎君の生と死に思いをはせ、心から追悼の意を捧げます。あわせて、当時の私たち中核派が川口大三郎君の存在をほんとうに大事にしえていたのか、殺された川口君追悼をやりえていたのかを振り返るとき、いろいろな慚愧の思いにとらわれます。「川口大三郎君の死を無駄にしない。川口君の死を後世に語り継ぐ」という樋田毅さんと数十人の協力者の皆さんの強い思いの結晶が『彼は早稲田で死んだ』の出版です。これを、誰よりも川口君が喜んでいることでしょう。

 樋田さん。さまざまな困難をのりこえて、この貴重な事業をやりとげられ、ほんとうにご苦労様でございました。当時の私たち中核派には、残念ながらこのような事業はできませんでした。同じ早稲田大学に籍をおいた者の一人として、お会いしたことはありませんが、樋田さんに深く感謝申し上げます。

 出典: 《試練》――現在史研究のために 2021年11月07日




(私論.私見)