「川口大三郎君リンチ虐殺事件」資料2、その他の論文 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).5.2日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「「川口大三郎君リンチ虐殺事件」資料2、その他の論文」を確認しておく。 2003.7.16日再編集 れんだいこ拝 |
【「早稲田の自治と民主主義 革マル-その暴虐の歴史」】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「早稲田の自治と民主主義 革マル-その暴虐の歴史」(全学連中央機関紙「祖国と学問のために」早大総分局・’72年「革マル」暴力事件被害者林君の告訴を支援する会編1975年7月26日発行)。
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(関連資料) |
「遊撃隊TOP、97年早稲田祭に行ってきたぞ」より抜粋 |
2.血塗られたキャンパス そもそも、早稲田大学は、革マル派最大の拠点として知られている。事実、革マル全学連のビラは早大ではかなり頻繁に見ることが出来るし、早大キャンパスでは、革マル派と熾烈な内ゲバを繰り広げていることで知られる中核派、及び解放派との間で、実際に何度も武装衝突が発生している。 革マル派は、67~68年にかけて、暴力的にサークル自治会「文連」を乗っ取り、これを機に解放派などの早大内に残る反対派を放逐し、「革マル暴力支配」を完成させていった。因みに、今日でも政経学部には自治会がないが、それは、かつて早大から追放された解放派の拠点が、政経学部自治会であったからである。 「革マル暴力支配」の極致とも言うべき事件は、70年における民青活動家の山村政明君の自殺と、中核派シンパ川口大三郎君のリンチ殺人事件である。 当時の革マル派は、常時キャンパスをパトロールし、革マル派に反対する人々が早大内に登場できないようにしていた。もしも彼等に捕捉されたら、革マル派に足腰が立たなくなるまで暴力的に叩きのめされるのである。事実、かつて「文連」などに勢力を保持していた解放派のメンバーの中には、かくして具体的には片目をえぐり取られるなどの生涯消えない傷を負わされた者も存在する。因みに、当時解放派の放逐に力を注いでいた革マル全学連の大幹部藤原隆義氏は、後に解放派によって、車に乗っていたときにその中に閉じ込められ、他の3人の仲間とともに車もろとも焼き殺されるというあまりにも無惨な最期を遂げている。 山村君は、民青活動家であり、革マル派に顔を知られているために、登校すると革マル派に半殺しにされかねないという危険に、彼は常にさらされていた。かくして、彼は1年以上にわたり、登校の自由を奪われていた。思い詰めた山村君は、抗議の意味を込めて、70年10月6日、焼身自殺という悲痛な道を選んだ。 因みに、当時の民青は暴力的な面もあったし、革マル派と民青との内ゲバでは死者も出ているのではあるが、そのことを抜きとしても、革マル派の党派闘争の激しさ、他党派に対する徹底した残酷さは、明記しておかなければならない。 そして、72年11月8日に殺害された川口君は、中核派のシンパであったと言われている。少なくとも、革マル派に対しては批判的な学生ではあった。そんな彼は、自治会が行う「クラス討論」にて、革マル派を批判したために白昼革マル自治会に拉致され、6時間あまりに及ぶ凄絶なリンチを受け、殺害された。同事件は、本郷の東大病院前にて、彼の死体が遺棄されたことが判明することによって公になった。もっとも彼は、時々デモに参加したという、どちらかというと一般学生に近かった人物のようであったらしい。民青、日向派(現「BUND」、ロフトプラスワン事件でお馴染み)などはこの点を重視して、「一般学生」と見なしたが、リンチの課程で川口君自身が中核派活動家の名を白状したので、必ずしも中核派とは無縁ではなかったようである。 もっとも、川口君が弄した反革マル的な言辞は大した内容ではなく、ともすれば、早大内にて革マル派に睨まれることが何を意味するかということを誰もが敏感に感じとったのである。 そう、「もしかしたらボクも....」[「朝日」]という恐怖は、ともすればすべての早大関係者が長年の間抱いていた恐怖でもあった。実際、最近は人の死を伴うようなリンチ、内ゲバは沈静化してはいるものの、少なくとも早大に於いて圧倒的な勢力を保持している革マル派に反抗することは、その報復としての吊し上げ、監禁、暴行などの事件は未だに後を絶たない以上、革マル暴力支配の恐怖は現存していると言ってよい。 早大内における「革マルタブー」とは、具体的に言えば、こういうものである。 とりわけ川口君事件は、後の学生運動、内ゲバの趨勢に多大な影響を与えた。後に、その下手人と見なされたものの中には、中核派によって重傷を負わされた者はおろか、廃人と化せられた者も存在する。引用してみよう。どれだけ恨まれているかが分かるはずである。「川口同志虐殺者に血の報復~遂に早稲田カクマルをせん滅~....川口、辻、正田同志虐殺を「許してくれ」とは何たることだ!我が部隊は原田の命乞いに対して無慈悲なツバを吐きかけ、虐殺下手人にふさわしいやり方で徹底的な鉄槌を加えたのである。一撃、一撃に三同志の悔しさを込め、わが戦士は自らの体内に三同志の遺志をよみがえらせおびただしい流血を強制した。/三同志の命を奪い去った憎むべき虐殺者の手や腕を粉々に打ち砕き、つづいて頭や足、そして全身に反革命的罪科にみあったバール五十数発を念入りに刻み込んだのであった。部屋の中は原田のどす黒い血で一杯になり、原田は物言わぬ物体となって血の海に浮かんだのである。」[中核派機関紙「前進」第666号] 「川口君虐殺下手人逃亡分子を関西で摘発~早大田原を徹底せん滅~民家への逃げこみを粉砕~....わが戦士が「田原」と呼びかけたとたん、この反革命分子の顔からサッと血の気が引き、ひざがガクガクとふるえだしたのである。すかさず、打ち下ろされたわが戦士の鉄槌の前に、田原はよろめきながら、目の前にあった民家めがけて、家の前にいた女の子を突きとばしてころがりこみ、コタツの掛けぶとんの中へ頭の先だけもぐりこませ、何ら抵抗することなくガタガタとふるえていたのである。....この卑劣分子をズルズルとコタツの中から引きずり出し、川口同志虐殺に対する怒りと憎しみの一切を込めて、肩、手足に対する的確な打撃を加え、三ヶ月の重傷という壊滅的な打撃を与え、二度と反革命的罪業を重ねることができないまでに打ち沈めたのである。」[「前進」第719号] 川口君事件を機に、さすがに革マル派に対する批判がうずまき、革マル派は何度も吊し上げなどの制裁や、反対派セクトの武装襲撃を受けている。 その衝撃の大きさから、革マル派は社会的に孤立し、革マル系の自治会はリコールを受け、消滅の危機にたたされた。しかし、革マル派の勢力範囲である「早稲田祭実行委員会」はリコールを免れた。革マル派は追放されなかったのだ。相も変わらず、早大は革マル派本丸であり続けた。 そして、川口君事件1周年を間もなく迎えようとしていたときに、例年この時期に行われていた「早稲田祭」の問題が持ち上がった。そう、再び革マル派が「早稲田祭」を執り行う時期が来たのだ。 革マル派と激しく対立しているセクト、特に解放派と中核派とはこのことを重視し、「早稲田祭粉砕」を掲げていた。彼等は、とりわけ当時の「早稲田祭」が、川口君の命日である「11月8日」に行われる予定であったことから、「革マル早稲田祭(革マル祭)粉砕!」とか、「お望みどおり、「虐殺者の祭典」をコナゴナに打ち砕いてやろうではないか!」などと絶叫していた。結局、当初の期日はあまりにも露骨なため、早稲田祭は日程をずらして行われたが、このこともまた、革マル派と当局との動揺を示すものであり、解放派や中核派を喜ばせるものであった。又、民青の勢力が強い法学部では、革マル派主導の「早稲田祭」に反対、独自に「法学部祭」を行うに至った。それは現在でも続いている。 かくして、内ゲバ戦争はますますエスカレートし、その死者は100人近くにのぼる。少々調べただけでも、今では考えられない、ものすごい歴史である。是非とも、当時の人々の話が聞きたいものである。 |
【景清氏の第四インタ-派の立ち回り疑惑考】 | |||
「検証内ゲバ2」(社会評論社)の景清氏の「『革共同両派への提言』から何を学ぶべきか」は次のようにコメントしている。
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2021年11月27日16:28 、「No.0301 早大の「川口大三郎事件」を忘れない」。
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【No.0293 彼は早稲田で死んだ】 | |
2021年11月10日、「No.0293 『彼は早稲田で死んだ』」
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(私論.私見)