資料10-2、藤野豊/氏の「革命と暴力に関する覚書」考

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元、栄和6)年.3.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「資料10-2、藤野豊/氏の「革命と暴力に関する覚書」考」をものしておく。

 2024年3.9日 れんだいこ拝


【資料10、藤野豊/氏の「革命と暴力に関する覚書」考】
 をyousi転載しておく。 139 敬和学園大学研究紀要第32号 2023年
1 1972年11月8日
 1972年11月9日、朝日新聞夕刊に「早大生 リンチで殺される」 、「革マル派が犯行発表」と題した以下のような衝撃的な記事が掲載された。九日早朝、東京都文京区の東大病院アーケード下で若い男の死体がみつかった。本富士署で調べたところ、全身にリンチにあったらしい内出血の跡があり、早大第一文学部二年川口大三郎君とわかった。警視庁公安一課は、過激派のなかのトラブルから早大の教室でリンチに遭って殺され、同病院に運ばれたとみて同署に殺人、死体遺棄の捜査本部を置いた。記事によれば、遺体には、顔、首、胸、背中、足などに長さ5㎝、幅5㎜ほどの内出血が50か所以上もあり、「鉄パイプのようなものでメッタ打 ち」にされており、検視の結果、死因は打撲によるショック死とみられるという。「内出血の模様から多数の人間にリンチを加えられた」と推測された。これに対し、日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)全学連委員長の馬場素明は、9日午後0時半過ぎに記者会見し、「スパイ活動を批判する中で発生した事件である」と述べた。革マル派は、川口大三郎を対立する中核派のスパイだとしているが、警視庁では確認していないという。

 さらに、同記事は川口が革マル派に拉致監禁された事情について、以下のように報じている。川口君は八日午後2時ごろ、早大文学部前の校庭で学友三人と談笑していた。そのとき、革マル派らしい学生四、五人が近づき、川口君を 近くの文学部一二七番教室に連れこんだ。川口君といっしょにいた学友が午後3時ごろ文学部教授に連絡し、一二七番教室に行ったところ、同教室入口で革マル派学生四、五人がピケを張り、はいれなかったという。 結局、この後も大学の教員は午後5時と午後10時の2回、同教室に近づくが教室内には入れないままに終わり、大学側から警察への届け出はまったくなされず、9日朝、川口の遺体が見つかり、警察が大学に問い合わせてくるまで大学側は警察に連絡することはなかった。


  これは社会の常識を超越した事件であった。1972年11月8日の白昼、大学のキャンパスのなかで、学生が同じ大学の学生たちに校舎内の教室に拉致監禁され長時間のリンチを受け殺害されたこと、リンチを受けているとき、同じ校舎内では教員が講義し、学生が受講していたこと、学友たちから連絡を受けた教員たちが、監禁されている教室の前まで行ってもなかに入れないまま帰ってしまい、大学当局も警察には連絡しなかったこと、そして、殺害した側が堂々と記者会見をおこない犯行を認めていることなど、通常では考えられないことが起きていた。しかし、早稲田大学では、これは日常であった。革マル派が学生自治会を支配し、鉄パイプや角材な どの凶器を自治会室に蓄え、革マル派に批判的な学生に暴行を加えることは、早稲田大学の日常であった。そうであるから、大学側も重大視しなかったのである。革マル派の暴力は、単なる暴力ではなく、思想的背景がある暴力、革命を志す者の暴力であるという認識から、大学当局も個々の教員たちも革マル派の暴力に驚くほど寛容であった。

 当初、革マル派の発表により、川口は中核派に所属し、革マル派の活動に対しスパイ活動をしていたとみなされ、いわゆる内ゲバの一環のように報道されたが、川口が中核派と関わりを持ったのは極めて短期間に過ぎず、事件当時は中核派と縁を切っており、革マル派の暴力支配に抗したがゆえに殺されたことがわかると、報道も変化した。たとえば、毎日新聞は、事件当初は「内ゲバ殺人」と記していたが、11月11日付の紙面から「リンチ殺人」と表現をあらためている。こうして、内ゲバではないという事実が明らかになると、早稲田大学の全学の学生の間から革マル派追放の声が上がり、それは暴力のない自由な学園を求める早稲田解放闘争と称する大きな運動となり、革マル派の自治会執行部は、第一文学部、第二文学部、政治経済学部、商学部、社会科学部、教育学部などで次々とリコールされ、新執行部が選出された。しかし、革マル派は、そうした自由を求める学生に対しても鉄パイプ や角材を打ち下ろし、多くの学生を傷つけた。そして、大学当局は、終始革マル派を庇護し続けた。革マル派は、以後も大学の庇護の下で暴力をほしいままにおこない、早稲田に生き続けた。

 川口虐殺以後の早稲田解放闘争の経緯は、第一文学部学生自治会の臨時執行部の委員長となり、それゆえ、自らも革マル派の暴力により重傷を負ったジャーナリスト樋田毅が克明に記録している。

 早稲田解放闘争の詳細は、樋田の著書に譲り、私(わたくし)は、川口大三郎の虐殺を引き起こした「革命と暴力」の論理について追究する。 早稲田大学当局が革マル派の暴力に寛容であった一つの理由は、高木正幸が指摘するように「革マルの力を利用して大学の平和を保とうとしてきた」ことにある。すなわち、大学当局は、日本共産党・日本民主青年同盟(民青)の勢力が大学内に浸透しないように、(れんだいこ注/且つ新左翼系諸党派が大学内に浸透しないように)革マル派を利用して共産党勢力を排除してきたということであり、革マル派は大学当局の共産党(れんだいこ注/左翼運動)対策のための暴力装置として機能していたのである。

 しかし、理由はそれだけではなく、より重要な理由として、戦後日本で、革命をめぐる論議が自由となり、さらに革命を求める政治活動も自由になったにもかかわらず、日本共産党や日本社会党は、革命にともなう暴力についての具体的な議論をあえて避け曖昧なままに放置し、また、革マル派などの新左翼は「革命的暴力」を正当化してきたことがあげられ る。私が、小稿で追究するのは、この点である。「革命と暴力」について曖昧な態度をとるということは、それを黙認しているからである。川口は、「革命的暴力」を黙認、もしくは公認する政治状況の下で虐殺されたのではないか。この疑問について明らかにすることが小稿の課題である。

 敗戦から1972年に至る戦後日本の革命運動史における「革命と暴力」をめぐる議論をたどり、革命を求める政治勢力の「革命と暴力」をめぐるどのような認識の下で1972年11月8日という日が訪れたのか、以下、それを叙述していく。

 なお、小稿は、川口大三郎を死に至らしめたことへの私の償いと して執筆される。私は川口に部落差別の現実を知らせ、彼が部落解放運動に参加する道を開き、彼はその過程で一時期、中核派の集会やデモにも参加することとなり、その結果、革マル派に虐殺された。私は、川口の死に重い責任を負う当事者の一人である。文中、川口大三郎には「君」とか「さん」という敬称を付けなかったが、それは、「川口君」と書くことにより、あたかも私が第三者の立場にいるような叙述になることを避けるためである。
2 戦後民主主義が生み出した「革命と暴力」
 敗戦により、治安維持法が廃止され、日本国憲法には思想信条の自由が基本的人権として明記された。これにより、革命について公然と議論することが可能となった。その議論のなかで、「革命と暴力」は重要な論点と なっていった。まさに、戦後民主主義が「革命と暴力」に関する議論に門を開いたのである。レーニンが、「プロレタリア国家のブルジョア国家との交替は、暴力革命なしには不可能である」(『国家と革命』第1章)と断言したことをそのまま教条的に信奉するのか、それとも戦後民主主義の下での政治的、社会的変化に順応して柔軟に修正するのか、それが大きな論点となっていく。戦後、公然活動を展開した日本共産党、そして英国労働党を理想とする社会民主主義者から労農派のマルクス主義者までを網羅した日本社会党における議論を検討していく。
 日本共産党における「革命と暴力」

 治安維持法も廃止され、公然活動を開始した日本共産党は、明治維新を絶対主義的改革ととらえた1932年5月のコミンテルンによる「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」(32年テーゼ)にもとづき、当面する革命は社会主義革命に転化しうるブルジョア民主主義革命と規定していた。占領下の民主化は、ブルジョア民主主義革命の契機であった。占領軍を「解放軍」とみなした判断も、そこに由来する。1945年12月1日、戦後の最初の党大会となる第4回党大会で決定された日本共産党行動綱領で「専制主義および軍国主義からの世界解放の軍隊としての連合国軍の日本進駐によって、日本における民主主義的変革の端緒が開かれるにいたった」と述べ、1946
年2月25日の第5回党大会における「宣言」で「日本共産党は、現在進行しつつある、わが国のブルジョア民主主義革命を、平和的にかつ民主主義的方法によって完成することを当面の基本目標とする。故に、党は資本主義制度全体を直ちに廃止して、社会主義制度を実現することを主張するものではない」と明言し、ブルジョア民主主義革命から社会主義革命への移行についても「党は暴力を用いず、独裁を排し、日本における社会の発展に適応せる民主主義的人民共和国政府によって、平和的教育的手段をもってこれを遂行せんとするものである」と、暴力革命もプリレタリア独裁も否定した。

 共産党が求める革命の具体像について、書記長徳田球一は、1946年初頭、まずは天皇制を打倒して人民共和政を樹立することであると主張した。徳田は、社会党に対し議会中心主義であると批判し、共産党議員の議会活動は「大衆闘争と密接に結合するもの」であり、「議会は大衆に天皇政治の暴虐と不当不正を暴露し、之を打倒する舞台となるに過ぎない」存在とみなし、「天皇制、即ち天皇と其の宮廷、軍事、行政官僚、貴族寄生的土地所有者及独占資本家の結合体を根底的に一掃することなしには、人民は民主々義的に解放せられず、世界平和は確立せらるるものではない」と述べ、天皇制の打倒なくして「ポツダム宣言は遂行せられるものではない」と断言した。徳田は、「フアシズム及び軍国主義からの世界解放のための聯合国軍隊の日本進駐によつて、日本に於ける民主々義革命の端緒が開かれた」ことに感謝し、連合国軍により着手された民主化をより徹底するための革命が必要であると訴えたのである。まさに、ポツダム宣言の趣旨を徹底するための民主主義革命が求められていた。

 政策としては、徳田は、GHQが進める小作農民が地主から有償で小作地を買い上げる農地改革ではなく、「寄生的土地並に山林原野を主とする遊休土地の無償没収と其の農民への無償分配」を重要な課題にあげていた。しかし、土地を無償で収奪され、生活の基盤を失う地主に対しては、「人民が死ぬ代わりに地主や貴族や大資本家が死ぬとよい。働かない者を生かして働く者が死なねばならぬと云ふ必要はない」と言い放った。それでは、どのようにして、天皇制を打倒するのか。それについては、徳田は、ブルジョア民主主義革命のための統一戦線組織として社会党などと人民解放聯盟を結成し、その下で人民共和政府を樹立し、「天降り 憲法の廃止と人民による民主憲法の設定」をおこなうという道筋を示す が、いかにして人民共和政府を樹立するかという重要な戦術については語っていない。徳田は、「革命と暴力」の問題についての具体的な言及を避けた。


 当時、共産党は暴力革命を否定することに躍起になっていた。共産党中央委員会教育宣伝部は、「共産党は暴力革命やプロ独裁をやる党だからこれと手をにぎることは危険だ」という説は反共デマであると反駁する。共産主義の実現について「大衆がまだそれを理解せず支持してもいないうちに、たとい一時の方便としてであつても、暴力や強制でこれをやろうとするものではありません」、「我々は忍耐づよく大衆を啓蒙し、 たえずこれを組織し、大衆自身の欲する行動の先頭に立つことによつて、人民とともに、人民の幸福な社会建設に進みます」と述べ、1946年の第5回党大会で「「暴力を用いず、独裁を排し、平和的教育的手段によつて」ゆく」と宣言したと強調していた。

 たしかに、1946年2月25日、共産党は、第5回党大会で「ブルジョア民主主義革命が完成されたのち」に「民主主義的方法により資本主義制度よりもさらに高度なる社会制度、すなわち人が人を搾取することなき社会主義制度へ発展せしむることを期する」のであり、「これが実現にあたっては、党は暴力を用いず、独裁を排し、日本における社会の発展に適応せる民主主義的人民共和政府によって、平和的教育的手段をもってこれを遂行せんとするものである」と明言していた。


 しかし、教育宣伝部は、以下のようにも述べているのである。「もし、すべての人民大衆からすでにきらわれ、のろわれ、その圧制がたえがたいものとなつている支配階級の政府が、大衆の要求と自主的な行動を武力や暴力で弾圧しようとしたため、逆に大衆の反抗によつて打倒されるということが暴力革命であるというならば、過去の歴史にあつた革命は、みな暴力革命だといわねばならなくなり、アメリカ人が誇つている独立革命も、日本人が忘れえない明治維新も、みな暴力革命だとして排斥せねばならなくなるでしよう」。この説明は、明らかに暴力革命の肯定である。

 野坂参三も、第5回党大会の宣言について説明するなかで、「平和的・民主的な方法によつて民主主義革命をやつて、さらに社会主義革命の方向にこれをもつてゆく。民主主義的な方向とは議会的な方法によつて、我々は政権を獲得し、さらに社会主義の方向に政権をもつてゆく」と明言したが、その一方で、以下のように「平和的な革命の方法をとると党の規律・闘志が緩みはしないかという意見」に反論している。
 我々が平和的といふのは淑女のやうに銀座の街を歩くのではない。今までのやうな暴力的ではないつまり武装蜂起をやらないで革命をやること。我々はなんにもしないでおとなしくするのではない。共産党は革命的な団体で、我々は革命を遂行する。この革命は決して銀座の街をシヅシヅと歩くやうな行き方では決してできない。我々の前には大きな障碍物・沢山の敵がある。これを我々は突破しなければならない。あくまで我々は戦闘的でなければならない。この意味においては、諸君が平和的といふのはおとなしくやると誤解するのは正しくないと思ふ。「愛される共産党」と語った野坂ではあったが、その主張は、平和革命とは武装蜂起をおこなわない革命であるという認識によるものに過ぎず、革命の過程における暴力の行使については、それもあり得る。
 ことを示唆していた。
 
 このように、共産党は、武装蜂起による暴力革命は否定しているが、国家権力への抵抗としての暴力の行使は否定していない。そして、「マルクス・レーニン主義は、国によつていろいろに異なり、また時とともに変化する社会を、正しく研究し、その正しい把握にもとづいて、労働階級と人民を解放するにもつとも適当な方法を定める」のであり、「我々日本の共産主義者は、日本の歴史と今日の状態を研究し、わが国の国情に適した方法で、すなわち、官僚と大資本の権力政治を廃止する」と述べている。
これによれば、「社会の変化」や「今日の状態」によっては、暴力革命もあり得ることとなる。共産党は、日本の現状では暴力革命を選択しないと言っているに過ぎない。

 同様に、1947年7月5日、第一回国会の参議院本会議で、質問に立った共産党の細川嘉六は、社会党の片山哲首相が共産党とは一線を画す方針を示したことに対し、「昨年我が党の大会において、暴力革命及び独裁政治はこの日本の現状及び国際の情勢において必要はないと公言した」と強く抗議したものの、言葉を継いで「必要な条件があつて初めて暴力革命或はプロレタリヤ独裁政治を主張しなければならん」とも述べている。
やはり、細川の発言は、現状では暴力革命もプロレタリア独裁も実行しないというだけであって、将来において、情勢が変化すれば実行する可能性があることを示唆していた。

 このように、共産党において、「革命と暴力」の問題への態度は曖昧であった。ブルジョア民主主義革命により政権を獲得するうえで、国民の広い支持を得るためには暴力革命を否定するものの、革命の過程において状況次第では暴力の行使も否定しないということが共産党の戦略であった。

 共産党が曖昧にしていた「革命と暴力」の問題に、共産党員として明確 な態度を示したのが神山茂夫である。神山は、昭電疑獄で社会党が国民の信頼を失い凋落し、代わって共産党が議席を4から35に伸ばした1949年1月の第24回総選挙で当選し、その年に『暴力と共産主義』を著している。神山は、そのなかで「共産主義は、一定の条件があり、大衆がもとめ、それが必要な時には実力行使や違法行為をおそれるものではない。だが、無暗な個人的腕力行為や暗殺や一揆的行為を正しいとしたり、これを支持したりするものでもない。要は、時と所と条件に感じ、大衆自身の希望と運動の発展段階に応じてきめるべきである」と明言し、大衆が求め、条件が整えば暴力を行使した革命を起こすことを示唆した。たしかに、神山は「共産主義理論の中に、社会の発展のために敵が暴力機関で全人民を抑圧しているような場合には、暴力的な方法による革命が必要だということをいつているのであつて、それがただちに今日日本共産党が暴力をふる うということも意味しない」とは断っているが、その一方で、暴力革命が可能となる条件として、「勤労大衆の生活がどん底までおちいつて」、「死をも恐れない決意が生じた時」、「支配階級が統治能力を失つて分裂し、下からの勢力がこの敵のさけ目を突いて爆発しうる、というような時」、労働者が共産党を支持し「多数の人民的勢力が結集し、如何なる困難とも斗おうという決意をするような客観的な条件があるとき」という3つの場合をあげていた。


 このように、共産党は、原則として平和革命を目指し、暴力革命を否定してはいるものの、それは現状では否定するという限定的な解釈であり、 情勢が変化すれば暴力革命を起こす可能性は否定していなかった。しか も、暴力革命を武装蜂起のような行為に限定し、平和革命であっても暴力の行使はあり得るとする認識に立っていた。そもそも、階級闘争を主張する以上、その手段としての暴力、革命にともなう内乱や社会主義国家を防衛する戦争を否定することはあり得ない。共産党は、日本国憲法公布当初から、自衛権を主張して憲法に反対していた。そして、そうした認識は、周知のごとく1950年代に現実化する。

 1950年1月、コミンフォルムによる占領下の日本で平和革命をおこなう という方針への批判がなされると、これを機に共産党は国際派と所感派に分裂し、そうした混乱のなかで武装闘争が実行に移された。1951年10月の第5回全国協議会(五全協)で決まった党の綱領「日本共産党の当面の要求」は、「新しい民族解放民主政府が、妨害なしに、平和的な方法で、自然に生まれると考えたり、あるいは、反動的な吉田政府が、新しい民主政府にじぶんの地位を譲るために、抵抗しないで、みずから進んで政権を投げ出すと考えるのは、重大な誤りである」、「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」と断言し、武闘を実践した。そのために、山村工作隊や中核自衛隊が組織されたが、その結果、国民の信を失い、(れんだいこ注/国民の信を失ったのは武装闘争だけのせいではない。分裂した共産党内の醜い争いも主要な理由の一つである。よって、武装闘争だけのせいにして総括するのは一元的過ぎよう)1952年10月の第25回総選挙ではすべての議席を失った。

 このような党の分裂状態の渦中にあった1951年2月、東京大学の構内で、東大細胞の不破哲三、戸塚秀夫、高沢寅男に対する「スパイ」容疑の査問・リンチ事件が起きた。リンチに加わった安藤仁兵衛は、不破と戸塚の顔が変形してもかまわず殴り続けたと回想し、当時の心境について「自分を保護しようとする気持が働いたのではないか。つまり自分だけが手を下さないでいることによって生ずる他の同志たちの目を意識したに違いな い」と説明している。


 革命の過程における暴力の行使を認めるだけではなく、暴力革命に舵を切ろうとしていた共産党において、スパイの疑いを受けた者に対する慈悲はなく、むしろ暴力を行使することにより自らの党への忠誠が示されたのである。こうした心理は、仲間を次々とリンチし殺害した連合赤軍、海老原俊夫を虐殺した中核派、そして川口大三郎を虐殺した革マル派にも共通するものであろう。リンチを実行した武井昭夫は文芸評論家となり、力石定一は法政大学工学部教授となる。リンチの被害者である不破は共産党書記局長、中央執行委員長に、戸塚は東大社会科学研究所教授に、高沢は社会党左派の論客となっている。彼らが、自らが加害者、被害者としてかかわった「革命と暴力」についてきびしく総括し、革命運動の戒めとしていれば、連合赤軍のメンバーや海老原、川口の悲劇は防ぎ得たかもしれない。安東にしても、リンチ事件の加害の責任を明らかにしたのは1976年のことである。社会に向かって発言できる立場にあった彼らは、共産党内における暴力を容認していたことになる。

 暴力容認、武装闘争の実践により党勢が衰退した共産党は、1955年7月の第6回全国協議会(六全協)で、これまでの武装闘争を極左冒険主義と批判し、党は統一された。しかし、六全協でも、武装闘争の根拠となった1951年の五全協で決定された綱領「日本共産党の当面の要求」は維持された。その後、1958年7月の第7回党大会で1951年の綱領を廃止するが、この大会で書記長となった宮本顕治が、中央委員会の報告のなかで、「革命と暴力」に関する重要な発言をおこなった。

 宮本は、平和革命を前提としつつも「反動勢力が弾圧機関を武器として人民闘争の非流血的な前進を不可能にする措置に出た場合には、それにたいする闘争もさけることができないのは当然である。支配階級がその権力をやすやすと手ばなすものではけっしてないということは、歴史の教訓のしめすところである。我々は反動勢力が日本人民の多数の意志にさからって、無益な流血的な弾圧の道にでないように、人民の力をつよめるべきであるが、同時に最後的には反革命勢力の出方によって決定される性質の問題であるということもつねに忘れるべきではない」と述べ、革命において暴力を行使するかどうかは、「反革命勢力の出方」次第であることを明言した。そして、「平和的な手段による革命の可能性の問題をいわば無条件的な必然性として定式化する 「平和革命必然論」は、今日の反動勢力の武力装置を過小評価して、反動勢力の出方がこの問題でしめる重要性について原則的な評価を怠っている 一種の修正主義的なあやまりにおちいる」とまで言い切った。


 共産党は、明らかに状況によっては革命に暴力を行使することもあると宣言したのである。この宮本の発言は重い。公安調査庁は、岸信介内閣の閣議に提出するために1960年3月1日に作成した報告書において、宮本の発言を根拠に、共産党について「暴力革命主義の堅持」と断定した。そして、1961年7月の第8回党大会で、当面の革命を「アメリカ帝国主義と日本の独占資本の支配」に反対する「あたらしい民主主義革命、人民の民主主義革命」と位置付け、その達成をもって「労働者階級の歴史的使命である社会主義革命への道」が切り開かれるとする新しい綱領を決定した。そして、「あたらしい民主主義革命」のためには、労働組合、農民組合など大衆的組織を確立し、「民主的党派、民主的な人びととの共同と団結」による民族民主統一戦線を結成し、「党と労働者階級が指導する民主民族統一戦線勢力」で「国会で安定した過半数をしめることができるならば」、「革命の条件をさらに有利にすることができ」、そうした政権の下で「君主制を廃止し」、「人民共和国をつくり」、「国会を国の最高機関とする人民の民主主義国家体制を確立する」という展望を示した。ここまでが、「あたらしい民主主義革命」の段階であり、そのうえで、さらに「プロレタリア独裁」、「社会主義的な計画経済」を実現する社会主義革命に移行すると綱領は述べているが、どのように、「あたらしい民主主義革命」から「プロレタリア独裁」に移行させるかについては 言及していない。

 「綱領」は、「あたらしい民主主義革命」については、国会で多数を占めるという平和革命の過程をとりながら、その先にあるプロレタリア独裁に至る社会主義革命の具体像を示さないままに終わっている。したがって、以後も、共産党は将来の暴力革命の可能性を払拭しないまま、当面は議会主義の道を歩んでいくことになる。1970年7月1日、第11回党大会で書記長として民主連合政府の樹立を目指す中央委員会報告をおこなった宮本顕治は「我々は、日本における革命においても、民主連合政府が権力をとった場合に、これを不法な暴力で転覆しようとするものにたいする政府としての反撃の権利を、敵の出方論の典型的なものとして説明しています」と述べ、いかなる暴力の行使も否定する絶対平和主義は夢想主義であり、「国民がえらんだ合法的な政府が、一部の無法な暴力に無抵抗で降伏することを要求する非現実的主張」であると、否定した。
ここでも、宮本は、敵の出方によっては革命過程における暴力の行使もありうることを強調していた。結局、共産党は平和革命を唱えつつ、革命の過程で「暴力と衝突せ ねばならない必然性」は否定していないのであり、文芸・社会評論家の中島誠は暴力と遭遇した場合の対応を「でたとこ勝負だというふうに主観的願望に解消してしまうのは、階級政党としの指導性としては、無責任である」と指摘している。

 たしかに、この「無責任」ゆえに、共産党は以後も暴力を容認する姿勢を一掃し得なかった。一方、六全協は、武装闘争を進めてきた党員に大きな衝撃を与え、共産党を離脱した人々によりプロレタリア革命に向けて武装闘争を主張する新たな革命の前衛が求められていった。こうして、新左翼と称される新たな共産主義勢力が台頭する。1957年に反スターリニズムを鮮明にした日本革命的共産主義者同盟(革共同)が、1958年に共産主義者同盟 (共産同)が結成され、60年安保闘争では、国会構内に突入した共産同が主導する全学連主流派と警官隊との乱闘のなかで、樺美智子が死亡するという惨事が起きた。その後、共産同は四分五裂し、革共同もまた、1963年に全国委員会(中核派)と革命的マルクス主義派(革マル派)に分裂する。川口大三郎を虐殺した革マル派はこうして誕生した。

 これに対し、暴力革命を原則として否定した共産党も、すでに述べたよ うに、けっして暴力そのものを否定したわけではない。1968年11月12日、新左翼諸党派による全学共闘会議(全共闘)が全学バリケード封鎖をしていた東京大学構内で、封鎖に反対する民青を支援する共産党の「あかつき行動隊」は木刀などで武装して角材で対抗する全共闘と激突、暴力により撃退している。


  共産党は、新左翼をトロツキストとして敵視し対立していく が、1969年5月27日~29日の赤旗に、「トロツキストの暴力にたいする正当防衛」という中央委員会法規対策部長青柳盛雄の署名原稿を掲載した。そこにおいては「トロツキスト分子の暴行にたいして、いっさいの暴力に反対とか非暴力主義とかの名のもとに、適切な正当防衛の措置をとることをも否定するならば、それは、けっきょくにおいて、かれらの暴力におびえてこれに屈することになり、かれらをますますつけ上がらせ、その蛮行をいっそうほしいままにさせるだけです」と明言し、正当防衛の暴力を認めていた。「正当防衛権はみとめるが、その措置を「暴力でおこなうのはいけないなどという」考え方に対しては、「もともと正当防衛という観念は、不当不法な暴力によって権利が侵害されるのを阻止するための行為であり、そのための必要な力はやむをえないことを是認することのう えになりたっているのです」と否定した。
平和革命を唱えつつも、その過程での暴力の行使を否定しない共産党の姿勢がここにも反映していた。

 それゆえ、1971年6月19日には、沖縄人民党(復帰後は日本共産党沖縄県員会)・民青と革マル派が琉球大学で衝突し、その渦中で革マル派の町田宗秀が死亡するという事件も起きている。共産党も対立する勢力に対して、けっして暴力を行使しなかったわけではない。共産党もまた内ゲバの一翼を担ったのである。こうして「革命と暴力」は国家権力に向かって行使される問題だけではなく、対立する共産主義の他勢力にも向けられた問題となっていった。
2)日本社会党における「革命と暴力」
 1945年11月2日、戦前の無産政党関係者が大同団結して日本社会党が結成される。社会党には、社会民主主義者から労農派のマルクス主義者まで幅広い人々が結集した。1947年3月に公刊された党の運動方針書では、共産党が主張する「謂ゆる平和革命」は、「占領下という特殊の事態によぎなくされた暴力革命の消極的な形態にほかならない」と批判した うえで、「平和的、民主的建設を志向する社会民主主義と、暴力革命と独裁制を志向する共産主義」とを対比し、社会党は「社会民主主義の原則を信奉する」と明言した。社会党のこうした方針は、「新憲法の施行によつて社会主義の平和的建設を可能にするような広汎な民主主義が確立されるであらう」という認識によるものであり、運動方針書には「敗戦の事態と新憲法の制定は、はからずも画期的な民主主義革命を断行し、そこに社会民主主義の推進のために、洋々たる前途の展望が開けるに至つた」と いう判断が示されていた。

 書記長となった浅沼稲次郎も「日本社会党は、無血平和民主革命の大道を驀進し、敗戦と経済恐慌と国内階級諸対立の先鋭化の中に、社会民主主義の大旆」をかざすと明言し、1948年の運動方針において、「封建的支配機構の崩壊、民主主義革命の進行にともなひ、国会が実質的な政治権力をにぎり国会を通じ民主主義的に社会主義を実現する道が開かれた」として 「平和革命の方式」を採ることを明確に示した。そこでは、ゼネストによる政権奪取についても「政治的経済的混乱を惹起」するとして否定し、「国会を通じて政権を獲得する」社会民主主義の道が「唯一の社会主義実現の方法」であることを強調していた。


 しかし、社会党には労農派のマルクス主義者も参加、あるいは影響力を行使していた。1948年4月、労農派の山川均、向坂逸郎(九州大学経済学部教授)、高橋正雄(同)が、来たるべき革命について縦横無尽に語り合った。かつて、向坂とともに人民戦線事件に連座した経験をもつ高橋は、敗戦後の占領下の民主化により「革命を公然と語る」ことができるよ うになり、「言論を自由にやれる権利」「組合を作り、雇主や地主と団体交渉をしたり、ストライキなどをやる―そういうことを自由にやれる権利」、「好きな政党を作り、候補者を立て、多数を得たら政府を作る―そう いうことを自由にやる権利」を得たことを喜び、「我々が、家庭、職場、組合、政党、等々、あらゆるところで、我々に與えられた自由と民主主義とを我々の努力で肉もつけ、血も通うようにしなければならない」との決意を述べている。山川らは明治維新をブルジョア民主革命ととらえており、占領下の民主化政策も、その延長線上で理解していた。向坂は、明治維新以来のブルジョア民主主義革命で、「し残されておつた部分が、今度の敗戦の結果、民主主義革命の対象となつた」と語り、議論は、ブルジョア民主主義革命の次の社会主義革命に移っていく。


 その議論のなかで、来たるべき革命は、平和革命か暴力革命かということが大きな論点となった。向坂は、平和革命と暴力革命の区別は「一番厄介な問題」であるとして、そもそも「あらゆる革命がなんらかの階級的な力が使用されなくてできるということはない」のであるから、平和革命と暴力革命との「区別はしにくくなる」という前提に立って発言を進めている。 向坂が考えている暴力革命とは「武装蜂起というような国内の内乱等」により起こされる革命であり、「社会制度の根本形態を憲法によりながら改める」という方法を採れば「そのために力の行使がある程度あつても、 暴力革命ではない」、すなわち平和革命であると主張する。向坂の論は、合法的な選挙により社会主義政党が政権を握り、そのうえで憲法を改正して社会主義革命を実現し、その際、反対勢力を実力で封じ込めたとしても、権力奪取の方法が合法的であれば、暴力革命ではなく平和革命である というものである。


 こうした向坂の発言は、すでに述べた日本共産党の認識とも共通するものであり、この発言を受けて、民主人民戦線の結成を日本社会党と日本共産党に呼び掛けていた山川も「民主的な方法で行けるという場合でも、もちろん階級間の摩擦もあるだろうし、一方の階級の勢力が反対の階級にたいして圧迫を感じさすというようなことももちろんあるでしようが、とにかく民主的に定められている国家機構をつうじて行われる革命は平和革命になる」と同調した。
その後、議論が白熱すると、山川は「すべての革命は、暴力革命にしても平和革命にしても、力によつておし進められるもので、この限りでは本質的なちがいはない」とまで言い切り、向坂も「平和革命というと議会の話し合いだけで行われる革命だと考えたり、産業の国有化を少しずつ進めて行けばいつの間にか社会主義社会になる、と考えたりするような議会主義と同じ主張と思うのは誤り」で、「いかなる種類の革命でも、階級闘争の一つの頂点において闘われる革命であるわけですから、階級間の抗争の結果として生れない革命はありません」と、いかなる革命でも暴力がとも なうことを認めている。

 こうした議論の結果として、革命の結果として確立されるプロレタリア独裁についても、向坂は、独裁も「民主主義の一つの内容を示している」と述べ、山川も「階級独裁も民主主義の一つの形態」であると答える。山川によれば、プロレタリア独裁は、支配階級となった「プロレタリア階級の内部だけでおこなわれている民主主義という意味で、民主主義の一つの型」であるということになる。
山川、向坂、高橋らは、1951年に社会主義協会を結成し、日本社会党に大きな影響力を与え、特に社会党左派の理論的支柱となっていく。こうして、社会党内には、議会主義を重視し、日本国憲法を守り保守政党との政権を争う社会民主主義勢力(右派)と、一度、政権を握れば、反対する保守勢力は暴力を行使しても弾圧し、憲法改正をおこないプロレタリア独裁を目指す共産主義勢力(左派)とが共存する形となり、党内対立が恒常化していった。左派は表面上では平和革命を掲げているものの、暴力の行使は否定していなかった。後述する1949年の第4回党大会で、右派の森戸辰男により議会政策を通した平和革命を求める運動方針案が提出されると、向坂逸郎は「社会の水面が微動だにせず資本主義から社会主義に移るというようなことは考えられない」、「如何なる平和的革命も、社会的な力の対立と抗争なくしては 考えられない」と批判して、森戸案が「階級間の力の抗争を考える限り、力の抑圧関係を考えないことはやはり一つのナンセンスである」と酷評した。もちろん、向坂は「階級闘争は武力闘争を必ずしも意味するものではない」と断ってはいるが、森戸案が、政権奪取後に憲法を改正して独裁体制を確立すること否定していることについてもきびしく批判し、「平和的であれ、武力的であれ、階級闘争なくして革命はない」と言い切ってい る。向坂にとって「平和的革命はかぎりなく暴力革命に近い」ものであり、プロレタリア独裁は当然のことであった。

 以後、社会党は、サンフランシスコ平和条約の評価をめぐり、1951年10 月、左右に分裂、1955年10月に左右統一が実現するまで、こうした左右両派の対立状態が続く。左派社会党の綱領には、「政治権力の移行は、武力蜂起をもってではなく、平和的に、すなわち国会活動を通じ、民主主義的な社会的な力の基盤の上にのみ行なわれる」と明言され、まず、中央、地方を通じて社会党が議会の絶対多数を占め、そうした状態を安定化、恒久化させたうえで「社会主義の原則にしたがって憲法を改正し、基本的な産業の国有化または公有化を確立し」、行政機構や教育、新聞、出版、放送などの諸機構を「社会主義の方向に適応させ」、「社会主義建設を妨害するいっさいの暴力機構を解体する」という社会主義革命の具体的な道筋が示されていた。「社会主義建設を妨害するいっさいの暴力機構」とは、現状の警察や自衛隊を指すであろう。保守政権の下で治安を維持してきたこうした組織が、平和的に解体できるのであろうか。左派社会党の綱領は、こうした現実的な疑問には触れず、平和革命を力説していた。

 社会主義協会は、1968年9月に開催した第2回大会で「社会主義協会テーゼ―社会主義革命の道」を満場一致で採択した。その「テーゼ」において、社会主義協会は、「労働者階級の経済的、政治的な日常の利益のために献身し、憲法改悪反対闘争を中心とする原水禁その他の平和と民主主義と自由のためのいっさいの運動に全力をあげ」、「社会主義のための「政治的軍隊」をつくりあげること」により、社会主義革命は「国会をつうじて武装蜂起なしに、平和的に遂行される」と述べている。しかし、そのあ とで、革命を「武装蜂起によるか、組織力を土台とするかは、我々の希望や恣意にしたがって決定されるものではない。国家権力の平和的移行をたんなる可能性と考える理論からは、相手の出方しだいであるという結論しかない」とも述べている。
社会主義協会は、平和革命を原則としつつも、それは共産党と同様に「相手の出方しだい」という条件が必要であった。社会主義協会の影響下にある社会党の左派にはこうした暴力行使 についての曖昧さが残された。

 一方、社会党右派においても、前述した1949年の第4回党大会に森戸辰男が提出した運動方針案で、国会の安定多数を持続させることで社会主義を実現する途を示し、「わが党は、民主的、平和的な方式により、したがつて合理的、建設的な手段によつて社会主義の実現を期する、暴力と破壊による、または混乱と破局化を必至とするような社会革命は、我々のくみするところでない」、「ヒューマニズムの現実に立って、人間の生命と自由とを危殆におとしいれる暴力と破壊に反対する」と明言していたが、「民主主義体制を転覆しようとする反動革命にたいしては、手をこまねて傍観することなく、あらゆる実力を動員してこれを粉砕する決意」を表明していた。
森戸は、この「あらゆる実力」について具体的には示していないが、社会主義に反対する勢力には暴力的措置を行使する可能性も残していた。向坂から酷評された森戸案においてさえ、反体制勢力に対する 対抗策として暴力の行使の余地を残していた。結局、社会党においては、左派はもちろん、右派においても平和革命の過程における暴力の行使を明確には否定していない。「革命と暴力」の問題は社会党においても曖昧なままにされていた。社会党左右統一後も、平和革命の過程における暴力の行使について、社会党は曖昧な姿勢を続けた。1964年の第23回、第24回党大会で承認され、以後、1986年まで社会党の事実上の綱領であった「日本における社会主義への道」においても、国会を通じての平和革命を主張するが、その過程において「議会と大衆闘争による民主主義的方法によって、国民の間に民主的多数派を結集して、反動勢力を政治的に孤立させ、抑制し、反革命的な暴力の発動を抑止」すると述べるだけで、どのように「抑止」するかという点については、明示することを避けた。

 こうした社会党の曖昧さが、1965年に社会党青年部を母体とした日本社会主義青年同盟(社青同)から解放派を派生させ、解放派はその政治組織である革命的労働者協会(革労協)とともに新左翼として暴力革命の道を歩んでいく。1965年に社会党が、その支持母体である日本労働組合総評議会(総評)青年部とともに結成した反戦青年委員会にも社青同解放派や、中核派、革マル派の影響が広まると、1969年6月19日、総評は社会党に対し「反戦青年委員会に関する質問と我々の態度」を突き付け、「総評が日本社会党を支持しているのはすでに御承知の通り社会党がその綱領において規定している平和革命路線が正しいと考えているから」であり、解放派や中核派などの「左翼急進主義者」の活動は「労働運動の大衆的発展にはむしろマイナスをもたらしている」と批判、「社会党が一時的な新左翼などの動向にとまどいすることなく、その本質を見極め、また労働組織に対して将来にわたって内ゲバ、職場占拠など組織混乱のおそれある組織にたいし党の綱領にてらし基本的にあらためられるよう希望」した。新左翼に寛容な社会党に対し、総評が暴力に対するきびしい対応を求めたのである。
これに対し、社会党は「反戦青年員会に対するわが党の態度」で回答し、新左翼に対し、「街頭行動で権力を奪取し得るとして広く大衆との共同行動を否定し、自己の主張と相反するものには内部においてさえ直ちに内ゲバをもって立ち向かうのが実体であり、このグループとは現在の段階で行動の一致ははかれないと考え、わが党は、左翼急進主義諸グループと共闘しておりません」と明言した。

 社会党は総評から突き上げられ、新左翼との共闘を否定するものの、絶縁するというような強い拒否の意思を示さなかった。以後も、社会党は新左翼への寛容な姿勢を一掃できなかった。このように、共産党も社会党も、平和革命を掲げながら、暴力の行使には曖昧な姿勢を取り続けた。共産党は新左翼をトロツキストときびしく批判するものの、それへの対応上では暴力を行使していた。前述したように、琉球大学では、沖縄人民党と革マル派の内ゲバにより革マル派の町田宗秀を死亡させるという事件も起こしている。社会党も総評の労組内や反戦青年委員会内の新左翼に対しては批判しつつも寛容な姿勢を保ち続けていく。こう して、「革命と暴力」に対する曖昧な政治状況が、革命的暴力という ものを許容する社会をつくりあげていた。革マル派の暴力は、思想的背景のある暴力であって、暴力一般とは異なるからやむを得ないという愚かな、そして保身のための理解が、早稲田大学の教員たちを覆っていたことの背景には、こうした実情があった。川口大三郎は、それはおかしいと声を上げたがゆえに、大学当局と教員たちの黙認の下、革マル派に虐殺されたのである。






(私論.私見)