《 新しい「代行」者を拒否せよ》
現在の学生の動向の性格を決定づけたものはやはり全共闘運動であろう。全共闘運動はそれまでの急進主義党派―全学連―自治会のパターンを打ち破り、全く下からの大衆の自発的組織として出発した。だが、当時の世界的な情勢、日本の社会的状況は、全共闘運動が学園内部に止ることを不可能にするまでにその危機を深化させていた。べトナムで、フランスで、そしてチェコで、戦後世界は新しい局面へ向って音を立てて動き出し、象牙の塔は既に朽ち落ちてしまっていた。一切の権威が説得力を喪失し、ただ新たな権威の登場がないだけの理由で生きのびていることが白日の下にさらされていた。こうした社会情勢の中で開吻始された学園の闘争は、フランスの五月がたどった様に、一挙に社会総体との対決へ突き動かされたのである。
全共闘運動は、従来とは異なる新しい闘争の段階を切り開くかの様にみなされた。だが、この運動が質的深化を要求され、その闘いの全体的性格を明確に自覚する様になると直ちに全国的な政治指導部形成の必要性が問題に上り、それとともに、ノンポリラディカルの圧倒的な動きの前に、これに追従していた急進主義諸派は全国全共闘に各々襲いかかり、これを分断することによって、党派の利害による囲い込みを始めたのである。
全共闘運動は結局政治指導部を持ち得なかった。そのことが、全共闘の敗北を単なる大衆闘争の敗北に終ることを許さなかった理由である。この敗北を、機動隊に対抗しうる軍事力の欠除に理由を求めようとすることは、あまりにも皮相的な見方である。全学連運動が党派別「全学連」へ分解し、崩壊したことを否定的教訓として登場した全共闘は、「党派」側の思惑がどうであろうとそれ自体、急進主義党派の「政治指導」に対する拒否宣言であったにもかかわらず、再び党派による分断を許さねばならなかったのは何故なのか。それは、果して現在「ノンセクト・ラディカル」派諸君が言うように、全共闘運動の非党派的性格の徹底的純化が不十分であったが故に、なのであろうか。半分は正しい。半分は、と言わねばならないのは、彼らが言う「非党派」が、単に急進主義諸党派及び既成指導部社共を指すならば、そのとおり、という意味である。別の言葉で言うならば、急進主義としで現出してきた左翼スターリニズムからの脱却を、どこまで純化できたのか、その点こそが問題なのであって、革命指導部としての「党」そのものの否定が問題なのではない、ということである。現在早大で闘われている様な「反革マル」「反セクト」闘争が、この点を理解し得ないならば、彼らの共通したスローガンたる「代行主義反対」の闘争は、彼らの主観的願望にもかかわらず、必ず、新な「代行」者を生み出すに違いない。
どの様な闘争であろうとも、それを維待し発展させて行くには、その闘争の中核部隊たる指導機関が必要であることは言うまでもない。現に早大闘争にしても、その強い反「代行主義」的性格にもかかわらず、「行動委員会」として大衆とは一定程度独立した部隊を登場させている。だが、こうした闘争の指導機関は自己を「代行主義」者とどこで区別するのであろうか。
前章で述べた如く、「代行主義」とは、党として大衆に階級闘争の歴史的な発展段階に対する全体的展望を提起することを拒否しつつ、なおかつ大衆に対する指導権を主張することに他ならない。そして、このような「指導」が「党派」によって行われてきたことが、六十年代の学生運動の最大の不幸なのである。
反「代行主義」論者の中には、全共闘運動の崩壊の原因を、全国全共闘を指向したことにあると語る者もいる(『 現代の眼』 三月号における「文学部有志」君)。だが、各学園別に結成された全共闘が、全国全共闘としての統一を目指したことは、その闘争の全国的性格の証左にほかならず、問題はむしろ全国全共闘が「セクト」による囲い込みに対抗できなかった弱さにこそあると言わねばならない。この点を見ることなく、唯々
弱点を露呈しないがために闘争と問題意識を学園の中に止めることを大衆に強制しつつ、なおかつ闘争を「指導」すると言うのならば、それこそ最も悪練な「代行主義」者なのである。
現在の学生運動の混迷は、これまでの小プル急進主義諸党派の無展望ぶりが客観的に露呈されてしまっていることも含めて、全体的な展望の喪失を意味している。しかし、この展望喪失状況が学生間に一般化している現在こそ、逆説的に聞こえるかも知れないが、新しい可能性が示されているのである。
その根拠は、現在の学生の闘いの無展望さは、これまで十数年にわたって押しつけられてきた小ブル急進主義者の「展望」を学生大衆がはっきりと拒否する決意を固めたことによって作り出されたという点にある。そのことによって、今後の学生の闘いは、どこで、どの様に闘われようとも、出発点からその闘争の全体的な展望を巡る闘いとしてしか構成されえなくなっている。革マル、中核両派はこれまでどおり、既に大衆によって拒否された「党派性」を押しつけようとするだろう。だが、それはむしろ彼らの貧弱な「党派性」を一層浮彫りにするだけである。他の急進主義諸派は「党派性」を自ら投げ出すことによって学生大衆の御機嫌をとろうとするであろうが、それは彼らには存在意義が無いことをより明白にするだけである。
急進主義は、現代社会へ肉迫する学生の意識と闘いを再び支配体制の作り出す循環のなかへ投げ戻す役割りを果してきた。彼ら急進主義諸派は学生の闘いが示した巨大なエネルギーを「学生運動」の殻の中に閉じこめ、全体としてはそれをプロレタリアートの政治的独立の為の闘いに敵対させてきた。それによって学生の闘いはブルジョアジーに利用され、時には太平洋地域をめぐる米帝と日帝の駆け引きに、また時には中国市場を目指すブルジョアジーの政治的経済的野心の道具とされてきた。だが、今や学生大衆はこのような状態を拒否することを宣言した。急進主目義者の言う「政治」や「展望」は破産した。ではそれに代る展望は何か。現在の学生の闘いの無展望ぶりは全くこの答えが見出されていないということをしめしている。共産主義者が、学生の闘いの直中に、自らの党の旗をうち立てたときに、この無展望さは一挙に変革されうる。そして、唯それだけが、新しい学生の闘いの高揚にこたえうる唯一の道なのである。
「反党派」の闘いとは、まさしく新しい、本格的な党の登場を要求する闘争に他ならない。そして、この要求に答えうるものは、階級の闘争の全体的展望を提起し、自らの党としての闘いを国際党建設の展望を巡る闘いにまで押しあげられる存在、我々
第四インターナショナルのみなのである。
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