資料5、第四インターの対応、論文

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元、栄和3)年.8.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「川口大三郎君リンチ虐殺事件資料3、第四インターの対応、論文」をものしておく。

 2003.7.16日再編集 れんだいこ拝


【第四インター系の対応】
 第4インター系が当時如何に「川口事件」をリードしようとしていたのかの資料が情報開示されている。云いたいこともあるが、とりあえずノーコメントで取り込んでおく。(後日検証したいところを太字にしておく)
 1972.11.15日、「 声明・早大生・川口大三郎君虐殺に抗議し、戦闘的・民主的学生運動の再建を訴える」。
 (世界革命 1972.11.21日第290号所収)
 声明・早大生・川口大三郎君虐殺に抗議し、戦闘的・民主的学生運動の再建を訴える

 日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)中央政治局

 革マル派のテロ団によってなされた川□大三郎君の虐殺に直面して、早稲田大学の学友達は、いまはげしい糾弾の叫びをあげ、革マル派官僚によって簒奪されて久しい学生自治会を、たたかう全学友の手にとりもどす闘争に決起している。全国の先進的学友諸君!青年労働者諸君!川口大三郎君が、わずか二十年の夢多き青春を“革命家”を自称する腐敗し切った職業的暗殺者集団の手で奪い去られるというあまりにも高価な犠牲と引きかえにではあるが、早稲田のキャンバスにいま復活しつつあるたたかう学友達の真に自主的で戦闘的な息吹きに、諸君達の熱い注視と固い連帯を送ることは、緊要な任務なのである!

 川口大三郎君は何故殺されなければならなかったのか。年老いた母親を愛し、数多くの仲間達の友情に包まれながら、自らの生きた青春を、生きるに値いする青春を日本学生運動の戦闘的伝統の最先端に位置して来た早稲田大学にきずきあげようとした川口君の無限の可能性に満ちた生命が、まるで虫ケラのように踏みつぶされなければならなかったのは何故か? 聞こう、彼はいかなる「罪」を犯したというのか?

 だが、川口大三郎君は、断じていかなる「罪」をも犯しはしなかった。彼は、三百万部落大衆の解放のためにたたかおうと決意していた。彼は狭山差別裁判糾弾のたたかいに参加して来た。彼は自らの信ずる正義を人々の前で公然と主張する勇気をもっていた。自分と異った音調で歌う者をすべて処刑する権利を有すると狂信している革マル派の魔女狩り審問の席上においても、川口君は主張を撤回する卑屈に甘んじようとはしなかった。

 まさにこの勇気のために、彼の生命は絶たれた。それゆえ彼の遺骸は、プロレタリア世界革命の壮途に殉じた無数の墓標の群に加えられなければならない。生き残りまた新しく生れ出るすべての解放戦士達が、戦闘の半ばに口ずさむ葬送の歌によって、葬られなければならない。彼の老母と友人達の悲しみを、彼の果せなかったたたかいを引き継ぐことを決意するわれわれすべての進撃のなかでなぐさめ、彼を虐殺したテロリスト集団革マル派とその真実の雇用者たる大学当局=国家権力の打倒によって償なわなければならない。

 然り、川□君虐殺の真の元凶は国家権力=大学当局である。六八年以降の全国大学闘争の波のなかで、ほとんどすべての公私立大学が、全共闘運動によって包囲され一時的にではあっても解体され、機動隊常駐体制と数千の先進的学友を投獄することによってかろうじて切り抜け、大学の「権威」の全てを犠牲にしてただ骨だけになってしまった「機構」をようやく救い出すという始末であった時期に、早大当局は、この大学のレッド・パージ反対闘争、六〇年安保闘争、そして六六年早大闘争の戦闘的伝統と比較して信じられないほどの軽微な「損害」で支配の安泰を誇ることができた。そしてこの功績の第一は、合法的自治会運動の枠を一歩でも踏み出そうとする学友達を、たちまちキャンパスの外に、しかも肉体と精神の双方に深い傷を負わせて追放して、大学当局の恐怖をとりのぞいて来た革マル「自治会」に帰さなければならない。戦闘的学友を例外なく排除して来た革マル派の暴力は、大学当局の暗黙の了解に支えられた公認の暴力だったのである。

 このようにして日本急進主義学生運動の荒々しい昂揚を、早大キャンパスにおいて未然に防ぎとめた革マル派は、申し分のない民同の役割を果していた。だがこの「民同」は、ほんのちょっとの叛乱に出会っただけでガタガタになつてしまうようなかよわい「民同」ではなかった。訓練ズミのゲー・ペー・ウー(スターリンの秘密警察)を常時配置して、教室のスミズミに眼を光らせ、すこしでも不穏な言動がおこなわれてはいないか、背教の火種がくすぶりはじめてはいないかと、さがしまわり消しまわる立派な「民同」であった。さらにはこうした「消火作業」だけではおさまりがつかない程に学生大衆のエネルギーが蓄積しはじめたと見るや、代行的に、因果を含められた「行動隊」を登場させ大衆に変わって急進的闘争をやってのけ、たまったエネルギーを定期的に発散させてキャンパスの「平和」をとりもどすというはなれわざをも演じ切っていた点でも、実に見事な民同であったのだ。早大当局が、このように役に立つ民同革マル派に多大な援助を惜しまなかったというのもまことに根拠のある話しである。

 だが諸君、とりわけ早稲田大学の全学友諸君!かかる革マル派と大学当局の、資本と武装した民同の関係は、いま劇的にバクロされてはいないだろうか。総長は大学当局を代表して、革マル派の川口君虐殺を、「これは派閥抗争であって、勇気のある人が自分の思想を表明したために殺された事件ではない」とか、虐殺に抗議して立ち上がった早大四千の学友を「これはセクトの動きであって一般学生の要求とは見ない」とか主張し(十五日付毎日新聞朝刊)、さらには、川口君虐殺を徹底的に糾弾しようとした早大学友の包囲のなかから、革マル派を救出するために、機動隊の出動を要請することまでやっている。そしてこの大学当局は、一文、二文自治会を「解散」させ、学友達自身が革マル派執行部をリコールして自らの手で再建をかちとろうとしている矢先きに、当局の思惑をこえて決起する戦闘的自治会が生れ出る危険を、あらかじめとりのぞこうとしているのだ。当局は民同革マル派との癒着が明るみに出ることを恐れて学友達の追求から身をかくそうとしているが、しかも同時に、この革マル派の「失敗」をも利用して、大学の反動的秩序との根底的な対決をやりぬく能力をもった新しい学生自治会を絶対につくらせまいと決意してもいるのだ。

 諸君、とりわけ全早大の学友諸君! 腐敗した民同に糾弾を向けるだけであってはならない。革マル派の暴力支配を解体するだけでとどまってはならない。 大学当局に怒りをぶつけよ!彼らこそ元凶である。彼らこそ革マル派を飼育して、学友達の決起を予防しようとして来た背後の真実の敵である。そして今大学当局は、民同支配の破産のあとに機動隊支配を導入しようとしているのだ。

 彼らを退陣させよ! 彼らに償いをさせよ! 彼らの間接支配方式を白日の下にあばけ! 彼らの腐敗をさらけ出せ! ロックアウト粉砕! 機動隊管理粉砕! 大学当局の自治会処分を粉砕せよ! 全学友の手によって、戦闘的で民主的な自治会を再建せよ! まさにこの自治会再建は、国家と資本に忠実な下僕のマスプロ、ベルトコンベアーたる早大秩序の根底的解体・解放をめざし、新しい全国大学闘争の不死鳥のごとき再生を切り拓く、第一歩でなければならない。全早大の学友諸君! 「先陣」の名誉は諸君が担うべきである!

 だがここでわれわれは、語気強く言わなければならない。革マル派の果した役割りが、結局大学当局に奉仕する「民同」の役割りにすぎなかったという事実は、なんら革マル派を免罪するものではない、ということを。革マル派の自治会権力掌握以降いったいどれ程の先進的学友諸君が、彼らのためにその肉体と戦闘力を台無しにされて来たことだろうか。この人々は、ただ革マルの勅許するのとはちがった思想のもち主であったというだけで、そして革マルのどうかつに屈しない勇気をあわせもっていたためになぐられ、蹴られ、手足を折られ、半身不随にされていった。この人々は登校の権利を奪われ、発言の機会を封じられた。革マル派の犯罪の最大のものがここにある。革マル派があらゆる学友達から憎まれさげすまれてきた根拠がここにある。革命を語る者において絶対にあってはならない最低の逸脱を、彼ら革マル派は日常の支配手段として組織していたのである。革マル派を生涯許さない決意を固めている人々の数とうらみの深さを、とうていはかり知ることはできない。

 革マル派が早大キャンパスを支配した論理は、だが、教会秩序の崩壊を恐怖する中世カソリックの宗教裁判の論理であり、人民と活動家の全てがトロツキズムの潜在的シンパに見えて大粛清に駆り立てられていったスターリンのモスクワ裁判の論理であった。もし自らの思想に不動の確信を持っているならば、誰が反対派の登場におびえようか?もし反対派の登場におびえるのでなかったならば、誰が反対派の肉体的抹殺を試みるであろうか?

 訓練されたゲー・ペー・ウーをもって、自らの単独政権を固守しようとした革マル派は、実は自らの支配の階級的道義性と強い大衆的支持基盤の存在を、一日といえども確信できなかったのである。彼らが、支配の手段としての「内ゲバ」に頼れば頼るほど、彼らの腐敗と孤立はそれだけ深まり、彼らの「支配」の本当の危機がそれだけ進行していたのである。川口大三郎君の死は、早大全学友の劇的な決起による糾弾の嵐となって彼らにはね返り、革マル専制十年の歴史の結着を迫っている。

 彼ら革マル派は、「やりすぎた」と後悔しているかもしれない。この後悔を、とりあえず心にもない「自己批判」として発表したかもしれない。だが彼らは、この「自己批判」のなかで「死」にさえしなければ良かったということ、「廃人」にする時点でとめておけばよかったということだけを、ほんとうは言っているにすぎない。その「自己批判」とは、廃人が「死」にかわる限界を、このほんのすこしの区別をつけかねた政治的暗殺技術の未熟さについての自己批判にすぎない。そして、事実、「廃人」にさせて殺さないですんだ数多くの「成功例」を、彼らはひそかに思い起していることであろう。そうした事例を、われわれも知っているし早大の学友諸君も知っている。そして同時に彼らが「やりすぎた」のは、けっして川口君が最初でもなければ、それほど少ない数ではないこともまた周知の事実であるのだ。

 このキャンバスで起った「やりすぎ」が、彼らにもたらす政治的マイナスをできるかぎり割引くために彼らは「死人に口なし」とばかりに川口君を「スパイ」に仕立て上げようとしており、中核派との「特殊な緊張関係」を強調しようとしてみたりする。早大総長もまた革マル派のこの努力を助けようとして、問題を「派閥抗争」へすりかえようとする。

 だが、すべてこのような姑息な手段は無駄である。川口大三郎君虐殺は、ついに全早大学友の怒りの決起をひき出した。革マル専制の崩壊が、はっきりとはじまった。この潮流の変化は逆転しない。「内ゲバ主義者」が「内ゲバ」で自分自身を崩壊させるであろうことを、われわれは幾度となく警告して来た。事実はこの警告の正しさを証明した。

 革マル派の諸君の前には、鮮明な二者択一がつきつけちれている。ただちに、無条件に、川口君虐殺を自己批判し、未来永劫にわたって、階級闘争の内部における暴力行使を放棄すること、彼らのいう「特殊な手段」は、ただ厳密に国家権力に向けてのみ行使すること、このことを公然と誓い誠実に実行する道をとるか、それとも言いのがれと居直りをつづけて、スターリンの歩んだ道の後を追おうとするのか。選ぶのは彼らである。だが決定するのは大衆である。

 全学友の手で学生大会をかちとり、戦闘的民主的自治会を再建せよ!全自治会、文連、早稲田祭実行委員会等からすべての革マル指導部を引きずりおろせ!十一・一三~一四糾弾集会九項目決議を貫徹せよ!

 さらにわれわれは次の事実に全国の学友諸君の注視を呼びかけたい。いま早大において白日の下にさらけ出されたこの革マル派の支配のカラクリが、およそすべての革マル派の「拠点」校において全く同一の論理で展開されているのだという事実がある。北大において然り、千葉大において然り、その他全ての革マル派の暴力支配が、早大革マルのやり方を「学び」、模倣して、すでに長い間採用されている。

 それだけではない。この革マルと対立する他の左翼諸セクトもまた、革マルとの抗争のなかでこの面で「革マル化」し、たがいに「内ゲバ」を交換し合ってきているというもう一つの事実がある。民青然り、中核派然り、社青同解放派然り、ブント各派もまた同じである。このようにして全国の大学のキャンパスを、革マル派のいる所でもいない所でも、「内ゲバ」=暴力によるキャンパス支配の論理と風習がまかり通っている結果として、学生大衆の学生運動にたいする絶望と不信が普遍化し、本来的に統一戦線運動としてあるべき全学連運動は完全に解体してしまっている。

 それゆえ、いま早大において問われている問題は、一早大学生運動の再建のみならず、全国学生運動の再建の突破口をひらくものである。全早大学友だけでなく、全国の先進的学友と青年労働者の諸君が、早大における大学当局と革マル暴力支配を弾劾するたたかいに熱い注視を送るべきなのはこのゆえであり、固い連帯を形成することは同時に、自らの学園においてもかならず見出される学生官僚や諸セクトの大衆運動に敵対する暴力支配の構造、「内ゲバ」主義の悪習に決然とたたかいを挑むことを意味するのである。それを通じて、六〇年安保闘争以後、真の意味では一日たりとも存在したことのなかった日本全学連をつくりあげる巨歩を踏み出すことなのである。

 すべてのセクトは、革マル派の川口君虐殺を弾劾する権利をもってはいない。彼らもまた、革マル派と同様の暴力支配、「内ゲバ」と魔女狩りの論理と無縁ではなかった。彼らが革マル派と区別されるのは、革マル派ほど執拗に、系統的に暴力行使を組織できなかったというだけのことである。

 ただわれわれ、第四インターナショナル派だけが唯一の革命的例外である。われわれだけが公然と「内ゲバ」主義の本質を明らかにして、これとのたたかいを継続して来た。われわれだけが大衆運動のプロレタリア民主主義を擁護し発展させようとして来た。だから早大学友達のいまのたたかいに馳せ参じ、それを全国学生運動再建のたたかいへと引き継ぐべき責務をにないうる党派は、唯一わが第四インターナショナルの旗のもとに結集する部分のみであるという現実を、われわれはしっかりと受けとめ、臆することなくこの責務をひきうけるであろう。

 われわれは断固として、プロレタリア民主主義につらぬかれた全国学生運動の再建、全学連再建の課題に挑戦するであろう。われわれは断固として、真実に革命的な学生大衆運動をつくりあげるであろう。大衆運動は、無数の「行きすぎ」や「試行錯誤」をともなうものである。大衆運動は、全能の指導者に統制されて、教え導びかれ、「誤ち」をおかさず、「逸脱」を経験せず、鞭と番犬の群に追われてしずしずと歩む羊の行進のようにして発展することは決してできない。大衆運動は時にはいくつもの敗北からも学びながら、荒々しく曲りくねった道筋を走破するであろう。この道程を自らも試行錯誤をともにしつつ成長していこうとする党派のみが、大衆を主体とする革命的大衆運動を領導するのであって、大衆運動が無数に、豊かに登場させるであろう「行きすぎ」や「誤ち」からあらかじめ身を遠ざけていると過信する「党派」どものために教壇を提供する場所はないのだ。

 革マル派は、このような大衆運動を恐れたがゆえに、彼ら固有の暴力支配の体系をつくりあげた。彼らは大衆を従順な羊の群に見たて、自分自身を、ひとり目的地とそこへの道順を知っている羊飼いに見たてた。だから彼らは、群をはなれる羊を煮て食おうと焼いて食おうと、彼らの勝手であると思い込んでいたのだ。だが、彼らの専横は、これ以後早大において復活しないであろう。そしてやがては全国のすべての大学において、早大と同じ革命的大衆運動の復活がみられ、彼らの宗教的大衆操作を駆逐するであろう。革マル派よ恐れるがよい。だが君らの蒔いた種は君らが刈らねばならないことを忘れるな!

 全国の先進的学友諸君、青年労働者諸君! とりわけ全早大の学友諸君! たたかいははじまった。あらゆる妥協を排して、革命的学生運動の大衆的再建にたどりつくまで、はじまったたたかいの手綱をにぎりしめ、行きつくところまで行こうではないか。全国の学生自治会を戦闘的学生大衆の手にとりもどすこと、これはたたかいの武器をきたえることである。だが、たたかいの武器をきたえることなしには、たたかいに勝利することができない。自主的で創意に満ちた学生大衆運動の創造をなしとげることなしには、国家権力と大学当局の最終的な解体・解放へ突き進むことができない。

 一切の妥協と中間主義をのりこえて、いまはじまった早大「文化大革命」をなしとげ、全国化すること、ただこれだけが川口大三郎君の遺志を継ぐことである。もし、われわれの決起が、あと一日、あるいは二日早かったならば、彼の死は避け得たのだ。川口君の「死」にわれわれすべてが責任を分ちもっている。だから、われわれはひとしく、川口君の墓前に決意をこめて起たねばならない。 隊列をかため、不退転の進撃を開始せねばならない。学生諸君! 弔旗をかかげよ! 前進せよ! 第四インターナショナルは、諸君とともに進む。 
 1973.5.31日、星 透学生運動の新しい段階―早大闘争は、何を我々に示したのか―」。
 はじめに
 昨年十一月八日の革マル派による川口大三郎君に対するリンチ殺人事件から、既に半年が過ぎ去った。この事件を契機とした「第三次早大闘争」は、従来の学園闘争と比較したとき、単にその契機においてのみならず、「闘争」そのものの性格において幾つかの注目すべき相違を指摘することができる。

これまで、学園闘争といえばそれが「学費闘争」であれ、あるいは「大学民主化闘争」 であれ、その闘争の直接の対象は大学当局であったのに対し、今回の「早大闘争」は一党派、すなわち革マル派が直接の対象に置かれている。確かに、これまでの早大における革マル派の暴力支配は目に余るものがあり、革マル派に批判的な政治活動はどの様なものであれ一切が「自己批判」という名の個人テロの下に葬り去られ、革マル派以外の学生活動家にとって、革マル派は大学当局以上の抑圧者として受けとめられていたのは、全く理由のあることであった。その様な状況の中で、ついに一人の学生が「自己批判の最中」にその生命を奪われるに到ったとき、これに対し学生大衆が自然発生的に立ち上り、早大における革マル派の暴力支配に終止符をうつべく動き始めたことは正当であった。そして、そのとき学生大衆が、革マル派の支配の形式的根拠である「革マル系」自治会のリコールをまず第一に要求したこともまた当然のことであろう。

自らの総本山早大における革マル派のつまづきは、一昨年未から昨年初頭にかけての「学費闘争」であった。前回の「学費闘争」、いわゆる「第一次早大闘争」がそれまでの学園闘争の中でも際立った激しい闘争であったのに比して、この時の「闘争」たるや全く大衆的基盤を持たず、ただ革マル派の極少数の活動家によるビン投げ「闘争」が数回行なわれたに止り、単に早大における革マル派の衰退だけでなく、全国的な急進的学生運動の低迷をもまた印象づけたことはまだ記憶に新しい。だが、一年後、早大の学生は今度は皮肉にも革マル派に対して予想を超えた基盤をもって立ち上った。もし、一年間という時間的経過がなければ、これが同じ早大の学生であるとはにわかには信じ難いほどであった。一年前とは状況が変ったのであろうか?六〇年代末期の全国学園闘争の敗北以後、沈黙と無気力に支配されていた大学キャンパスに、今や新しいエネルギーが注入されつつある様に思える。だとするならば、この新しい闘争の盛り上りの象徴的存在たる「早大闘争」が示した特異な性格は注意深く検討しなければならず、また、それは早大のみならず、他大学においても共通して見られるものだけに一層興味深いのである。

早大闘争が示した特色の最大のものは、前述した如く現象的にはそれが一党派に向けられた「闘争」だという点である。もし、これが従来の革マル派の暴力支配故に当然である、として片づけてすむ問題だと思うならば、次の点を考えて欲しい。何故、革マル派の没落は他の、これまで革マル派と早大においてキャンパスの支配権を争ってきた党派―それが民青であれ、学生インターであれ、或いは社青同解放派であれ―の台頭をもたらさないのか?早大では、革マル派の没落は他の一切の「党派」の革マル派以上の速度での没落をもたらした。

「一般学生」の対応もまた不思議なものであった。彼らは「殺人」に対する「人間的怒り」故に立ち上ったことを主張しつつ、革マル派に対し最後までこだわりつづけたものは「川口君は中核派のスパイであったのか、なかったのか」という問題であった。十一月十三日昼から十四日早朝までの二○ 時間に及ぶ「革マル派糾弾集会」の間、「一般学生」が求めたものは「川口君はスパイではない」という革マル派の言質であり、彼らの「人間的怒り」は「スパイでもない人間を殺した」革マル派に対して向けられていたかの様に見えた。だが、この様な矛盾は表面的なものである。「スパイか否か」を敢えて別の言葉で置き替えるならば、「川口君は中核派の活動家であったのか否か」ということにすぎない。この問いの答えがどうであれ、今回の事件を正当化することは不可能であり、この問題にこだわり続けることは「早大闘争」そのものを極めて不毛なものにしかねないことは自明であった。にも拘らず、「一般学生」が「スパイか否か」に執働にこだわり続けた背景には、「スパイであった」とするならば、彼らが関わりたくない、また理解もできない『 党派関係』 がそこに入り込んでくるからに他ならない。なぜならば、彼らが「人間的怒り」を感じたものは、実は革マル派の暴力的行為だけでなく、これまでの『 党派関係』 とそれを構成してきた『 党派』 全体に対してであったのだから。この点が、「早大闘争」とは一体何に対する闘争であるのか、また今後の急進的学生運動の趨勢は如何に、という問題を考える鍵なのである。

 1.「早大闘争」とは何か
 《 急進主義セクトの没落》

早大闘争は、そこに表現されたエネルギーの大きさにおいて、誰もの予想を越えた動きをみせた。ここ数年間の学生大衆の冷淡な反応の中で動きを封じ込められていた急進主義諸派にとって、久々 に与えられた活動の場になるはずであった。またこの場は、早大において絶対的専制支配を行なっていた革マル派の蛮行によって与えられたものであっただけに、革マル派以外の急進主義諸派にとっては、早大における支配権の交代の好機として受けとめられたであろうし、事実当初はそのように振舞おうと試みた。早大における革マル派の最大の敵対者であったスターリニスト=民青にとっても、それは同様であり、「暴力主義者ト口ツキスト」一掃の絶好の機会到来とばかりに動きまわろうとした。だが、結論的に言うならば、それらは全て泡沫の夢であった。学生大衆は革マル派に代わる他の「支配者」を求めたのではなかったからである。「早大闘争」を「反革マル闘争」としてしか理解できなかった者は、自らの期待がものの見事に裏切られるや否や、次には自ら「党派」であることを忘れることに必死になった。それ以外に彼らは生き残る道を知らなかったのである。

早大闘争は、確かに当初においては「反革マル」闘争としての性格を強く打ち出していた。その限りにおいて、この闘争のへゲモニーは革マル派が主張する様にスターリニストに委ねられるかに見えた。しかし、それはこの闘争がはじまり学生大衆が自らの要求を整理できずにいた極く短かい期間だけであり、次の瞬間には全ての「党派」がその闘争から、「党派」であろうとする限り弾き出されていたのである。十一月の末から十二月にかけて開催された各学部学生大会において、革マル派執行部が次々とリコールされたばかりでなく、革マル派と民青系自治会の「二重権力」状況が存在した学部ではどちらも否認され、臨時執行部選出の際の基準に「党派との一切の関係を持たない者」が置かれた学部すらあった。革マル派はこの段階においてすら、依然として学生の動きに対し「日共・民青」の扇動のレッテルを張ることしかできなかった。

早大闘争は、革マル派や民育、あるいは他の「セクト」の思惑をこえて進んだ。「闘争」の対象は「党派の存在」であり、過去の急進主義運動華やかなりしころの、良かれ悪しかれ「党派」の支配下で進んできたパターンの否定であった。だが、このことは、「早大闘争」に決定的な弱点を付与することになったと言わざるを得ない。強い「反セクト」意識が一足飛びに「反政治」という名の反動政治の世界に突き進む可能性を強くしたのである。

 《 敗北と挫折》

ここで今回の早大闘争に先立つ一年前の状況を振り返って見よう。当時、大学を巡る問題として全国立大および約二○○に達する私立大の学費の改定が提起されていたにもかかわらず、学生の闘争は全く盛り上りを欠いていた。大半の大学は何事もなかったかの如く期末試験、入試へと入っていき、わずかに早大、上智大、同大などで「ビン投げ騒ぎ」「内ゲバ」が時々思い出したように勃発したにすぎなかった。全共闘運動が挫折した後、急進主義運動はもはや「運動」ですらなくなっていた。彼らの主要な武器は爆弾であり、また火炎ビンであった。波らの「闘争」の対象は全く彼らの気まぐれに委ねられ、時には新宿の雑踏であり、時には銀座の歩行者天国であり、また時には「国家権力の末端」たる交番であったりするが、彼らが最もひんばんにその爆弾を破裂させたのは、自らの頭骸骨の内部であったことは今では明白である。

かつて『党』を名のり、また『党』を建設することを目指していた急進主義諸派は、ある日突然『党』こそが諸悪の根源であることを発見した。そして、彼らには理屈ぽくて七面倒くさい『党』の代わりに「軍団」を作りあげることにした。だが、よく考えてみれば『軍団』もまた「組識」であり『党』同様堕落の原因である。そして、彼らが行き着いたところが「都市ゲリラ」であった。ここでは彼らは化学の書物にだけ「階級的忠誠」を誓えばよいのであり、「階級闘争」の成果はブルジョアジャーナリズムが確実に教えてくれた。果でしなき分散化の過程は同時に果てしなき「武器」のエスカレーションの過程であった。投石に始まったこの過程は、ゲバ棒を経てついに時限爆弾におよんだ。この過程は中核派によって「階級闘争の質的飛躍」「階級闘争の新しい地平」と呼ばれた。だが、当の中核派は自らの『党』としての機能を「暴動」の日時および場所の設定のみに発揮するという「質的堕落」をとげていた。

急進主義の「闘争」尖鋭化の過程は、大衆の闘争からの離脱の過程と一致していた。果しなき分散化、日本における「反スタ」急進主義運動の末期的症状、「破壊の思想」から「思想の破壊」への急転換。こうした事態は、当の急進主義者集団によっては何ら自覚的に把握されていないことによって、一層奇怪な様相を帯びざるをえなかった。

こうした小ブル急進主義運動の姿は、直接的には東大、日大に代表された全共闘運動の敗北の結果であり、全共闘運動を賛美し、迎合していた急進主義諸党派が、その敗北と挫折にもかかわらず、そこから何の教訓も導き出せなかったことにより、当時においてすら完全に大衆に「乗り越え」られていたことを示している。否、全共闘運動そのものが、五七年以降の「反スタ」急進主義党派の『党派』としての屍の上に存在していたのであり、したがってこの運動の敗北のあとには、ここから「反スタ」的急進主義諸党派が教訓を導き出すことなど、最早不可能であった。

彼らは、全共闘運動の過程で主役を演じ彼らを乗り越して闘争を押し進めた「ノンポリ・ラディカル」大衆が、何故七一年には全く沈黙を守ったのかを不思議に思ったかも知れない。しかし、彼らがそのことを考え抜くことなど全く期待できることではなかった。それは、彼らがそれまで自ら進んできた全過程を否定することになるからであり、彼らはこうした「政治的」自殺よりも、爆弾を抱えて「肉体的」自殺を試みるか、あるいは自らの「政治」の場を、住み慣れた急進主義諸党派同志間の例の「党派関係」に限定する方を選んだのである。こうして彼らは、またしても自らの破産を追認した。かかる状況のなかで、十一月八日が設定されてゆく。

 《「早大闘争」の弱点 》

早稲田において、学生大衆が一切の「党派性」を拒否し、全ての問題をまず自らの経験と感覚の世界の枠の中でのみ思考することを正当化しはじめたとき、革マル派ともう一方の当事者である中核派を除いた他の急進主義諸派は、ものの見事にその「党派性」を投げ捨て、お互いに誰が最も党派的でないかを競い始めた。総じてこれらのグループは、学生大衆のレべルでしか何事も発想できないし、またそれだけのものしか持っていなかったことを、今回ほど明確に示したこともめずらしい。中核派は、これらのグループほど冷静には状況を把握できなかったようである。彼らは「革マル派に血の報復を!」と主張し、「革マル殺せ!」と叫んで早大キャンパスのまわりをうろつき回って、その漫画的「党派性」を道化よろしく披露した。

この様な状況のなかで、ただ革マル派だけが自らの党派性を固執し主張しているかの様な状況が作り出された。革マル派はこの「早大闘争」を批判して言う。「それは、基本的には、サンディカリズムの学生運動版としての単なる学園主義ではなく、より一層右翼的なものに堕している。」「すなわち運動に大衆性と持続性をもたせることを願望し、そのために『やりたいことをやる』という学生の即自的要求をそのまま運動化させる、それを『 多面的な闘争』 と称しているわけである。したがって・・・・・・とにかく運動を続けるということしか眼中にないのである。このことは、彼ら言うところの『早大闘争』がそもそも何を具体的な目的としているのかがわからず、その展望喪失とゆきづまり状態の反映である。」(『現代の眼』 五月号)

革マル派がこれまで何を語り、また「早大闘争」に代る如何なる展望を提出しえているのか、という問題を別にするならば、言葉の上では革マル派のこの指摘の大部分は正しいと言ってもよかろう。

「早大闘争」が大衆性を失うことなく持続して来た最大の原因は、大衆の即自的意識からこの闘争が一歩も踏み出さなかったことに求めることができる。従来ならば、この様な性格を持つ闘争は、大学当局の桐喝か、あるいはその闘争に敵対的な党派の策動によって、簡単に崩壊してしまっているはずであったが、「早大闘争」にあっては、むしろこの弱点であるべき性格を前面におし出しつつ、「反革マル」意識を「反セクト」「反政治」意識と結びつけて進んできたのである。このような展開が可能であった背景には、革マル派以外の党派が自らを解体することによってしかこの闘争に関り得なかったこと、学生の反セクト意識が予想以上に根強いこと等の条件をあげることができよう。だが、そのような条件の相違があったとしでも、弱点は弱点にすぎない。学生が歌う「都の西北」と革マル派の「インターナショナル」の対立としてこの闘いが表現されたとき(昨年十二月)それは端的に示されていた。

「行動委員会」を中心とするこの闘争の指導的グループの主観的意図に反して、「早大闘争」は今のところ過去の闘争を乗り越えたと言えるような要素は何一つ示していない。全共闘運動から「早大闘争」へ到る過程がいとも簡単に打ち捨てた六○年代後半までの学生の闘争は、それ自体いかに否定的要素を多く持っていたとしても、全体として、学生の闘争を階級闘争のなかで如何に位置づけるのか、あるいは、労働者の闘争とどこで結びつくのか、という問題意灘を内包していたと言いうる。ところが、早大闘争をはじめとする現在のノンセクト集団の基盤にはこの様な問題意職はどこにも存在しない。波らは、これまでの急連主義党派を否定するとともに、こうした問題意識自体もともに捨ててしまっている。波らは、眼前のセクトの否定を通して「代行主義」を批判し、「代行主義」を拒否することにより「党」の指導を拒否する。そして、それはさらに階級闘争への訣別へと突き進む。このような性格は早大だけに見られるものではない。東京だけ取り上げてみても、中大、明大などの「学費闘争」を闘った大学において共通して見ることができたものであり、これらの大学では、どのセクトもこの闘争のへゲモニーをとりえずに、逆に明大の如くノンセクト黒へル集団にセクトがたたき出されるという事件すらおきている。そして、それとともにこれらの闘争は、一定の大衆の動員には成功したものの、闘争自体はきわめて場当り的であり、有効な闘争組織も構築できぬままに闘わざる敗北を受け入れてしまっている。こうした傾向は、七○年代初頭の一方での爆弾さわぎ、他方での全くの沈黙という状況よりも、大衆的動員力の回復にともなって現出しているだけに、一層深い問題を含んでいるのである。

 2.早大闘争は、いかにして準備されたのか
 《 革マル派のたわ言》

「早大闘争」が今後も現在のような水準のまま進行するとすれば、この闘争は単なる一時的な集団ヒステリーとして終わるか、あるいは魔女狩りならぬ『党派狩り』運動としてのグロテスクな性格をより一層純化する方向へ進み、学生運動が中世的暗黒の時期に突入したことを証明するのか、どちらかの選択を避けられないであろう。しかし、「早大闘争」の現段階での否定的側面は、これに対立している革マル派の正当性を微塵も表現してはいない。革マル派の「早大闘争」に対する非難が、彼らのはりつけたレッテル上の言葉でのみは正しくとも、この闘争の根底に過去の党派の存在、その指導、党派闘争そのものの不毛性に対する学生の嫌悪があるにもかかわらず、革マル派がこの事態に対し「党派」として何ら責任を感じることなく、旧態依然としたセクト的エゴを強制しようとしている以上、革マル派には早大で闘い始めた学生大衆の「没理論」を非難する資格は全く無い。革マル派に言わせると十一・八の事態は「一部の諸君の未熟性のゆえにうみだされた限界」の一言でおわりである。「わが同盟」「わが指導部」の絶対的無謬性の原則の上にあぐらをかきつつ「一部の未熟な者」に全での責任を転化する革マル派の開きなおった姿は、彼らとスターリニストの精神構造の同一性を十分うかがわせるものであり、同時に追いつめられた「わが同盟」の混迷の深さを示すものでもある。学生大衆が嫌悪してやまない「党派」とは正しく革マル派のような存在なのである。

ここに一つの落し穴がある。すなわち、学生が否定する「党」とは、およそ「党」の名に値しない死んだ組織の腐敗した側面にすぎないのである。この意味で早大での「党派狩り」は革マル派の「反革マル派狩り」と全く同一でしかないが、過去において革マル派のみならず小ブル急進主義組織が「党派闘争」の名において党派闘争を回避しながらなおかつ「党派」として大衆の上に君臨してきた限り、彼らはそれを非難はできない。

 《 代行主義とは何か 》

早大において、また中大・明大など幾多の学園において、「ノンセクト・ラディカル」派諸君が憎悪してやまない「代行主義」とは一体何であるのか。この問題を、「悪しき代行主義」の張本人革マル派が我々に与えてくれた絶好の材料をもとに検討してみよう。

革マル派機関誌「共産主義者」二十九号の「毛沢東主義に浸透された第四インター」と題する文中で、彼らは「「第四インター・日本支部」なる組織はわれわれが十五年も前に理論的にも組織的にもすでにのりこえてしまった存在である」と主張している。もちろんここで言う「第四インター」とは、現在のUS派、十五年昔のIS派(パブロ派)を指していることは改めて言うまでもない。では、革マル派はどの様にして「理論的にも組織的にも」第四インターを乗り越えたのか。黒田寛一氏自ら語ってもらう。氏のあまり役にたたない多くの著作の中で、おそらくまともな部類に属すであろう「組織論序説」において、彼は「革マル主義」の根本的立脚点の定立化を試みて次の様に語る。彼はまず弁研時代の自分の自己批判から始める。第一に、弁研時代の自分は「パブロ派とキャノン派への第四インターナショナルの国際的分裂の背景と理論的根拠に関して」全く無知であったこと。第二に、その結果パプロ主義と第四インターナショナルを同一視し、パプロ主義の否定として「第四インターナショナルの発展転化した形態として新しいインターナショナル」という展望をうちだしたこと。更に、「分裂し抗争しつつある今日の第四インターナショナルの現実を深く分析し、パブロ派の改良主義的傾向とキャノン派の欠陥や一面性を批判しつつ、今日の分裂を止揚してゆくための具体的方針をまずもってうち出し得なかったことは、致命的に誤謬であった」というものである。

この自己批判の上に立ち、「第四インターの低迷の理論的根拠は『トロツキー・ドグマティズム』 にある」との立場から、太田・西をパプロ主義者として、あるいはそれとの折衷主義者として断罪するとともに「致命的誤謬」を含んだ『探求』誌を剽窃することによって「第四インターを足蹴にした」共産同に対して、「今日の第四インターが資本主義各国において大衆闘争に影響力をもっていないというこの事実からただちに、 第四インターの歴史的経験に学ぼうとせず、それを無視し、ただ単に日本プロレタリアートの階級闘争を民族的規模で『 完遂 』した暁に、新しいインターナショナルを樹立すればよいと考えているらしい。だがこれほど非現実的な展望はない。」「我々 は、第四インターナショナルそのものの内部において、その『 限界』を突きとめることなしには、新しいイノターナショナルを提唱することは決してできない。しかも、現段階における国際的な階級闘争の現状からするならば、まずもって革命的トロツキストとしての我々 のなすべき任務は、とうぜん分裂し抗争しつつある今日の第四インターナショナルの現状を止揚することにおかねばならない」と批判した。

黒田の立場は次の如く整理できる。即ち、第四インターの堕落の原因はパブロ主義にあるとの立場から、このパブロ主義との闘争によって第四インターを再建しあるいは「現状を止揚」するとして、まず、パプロ主義によって「反帝・労働者国家無条件擁護」へとプロ・スターリニスト的に歪められた『過渡的綱領』を「反帝・労働者国家擁護・スターリニスト官僚打倒」として「論理的に整序」し、次いでこれを止揚したスローガンとして「反帝・反スターリン主義」を提起する、というものであった。これを言い換えるならば、革マル派の組織路線は、ISとICの分裂の中で、自らをIC派に位置づけつつ、IC の弱点を克服する、というものであったといえる。

「反帝・反スターリニズム」の立場とは、まさしくその核心的内容において、第四インターナショナル再建のための闘争を推進するための「革命的マルクス主義者」の立場であったはずであるが、しかし、革マル派はその後「解放」一五四号において、「第四インターは四分五裂して死んだ」との見解を表明するに到る。だとするならば、それは同時に「反帝・反スターリニズム」戦略の破産を意味し、もはや全国委員会は党的基盤を喪失したとの結論が出た、ということに他ならない。自らで自らの党の根本的立脚点の破産宣告を下しつつ、なお存在していられる組織は、何と呼ばれるべきか。こうした革マル派の堕落ぶりは、次の主張に到って項点に達する。曰く、「そもそも日本資本制国家権力をまずもって打倒対象と設定すること」(『 共産主義者』 二十九号)! 

黒田寛一氏に代って言わねばならない。「これほど非現実的な展望はない。」「まずもって革命的トロツキストとしての諸君らのなすべき任務は・・・・・・」

党的基盤を喪失した「党派」は、もはや「党」として、共産主義者として大衆に接することはできない。彼らがなしうることは、せいぜい大衆の最も戦闘的な、プラス最も口数の多い部分として、偉そうに号令を下すことができるだけである。彼らは、闘いに立上った大衆の中へ入り込み、他の急進主義党派との「党的対立」を作り出す為に、元来闘いつつある大衆自身がその闘いの清勢、局面に応じて自決すべき問題に党派の名で口をはさみ、自らの党派的利害に基いた決定を押しつけることしかできない。そして、自らの党派としての政治的基盤のあいまいさをつつかれるや否や、大衆の中へ逃げこみ「今日の戦術は、明日の方針と口をパクパクさせるのである。こうした小プル急進主義諸党派の特徴は、自らの党的基盤の喪失(ないしは始めからそんなものは全く無かった)を基礎にした大衆の革命的能力への不信と、それとの裏腹の関係でのいわゆる「方針提起」主義である。「党」を自称し、共産主義者を自認するならば、彼らがなすべき任務は、「党として大衆に関ること」以外の何ものでもなかったはずであり、彼らが多少なりとも大衆を信頼しているならば、各職場・各学園において大衆がどの様な形態で闘うかは闘争の発展段階に応じた大衆の自己決定に委ねることが出来たであろう。彼ら急進主義者達は全てそれが出来なかった。それは、小ブルたる学生の闘争にあっては、その闘争は唯プロレタリア階級の革命的指導部建設の闘争へ位置づくことによってのみプロレタリア階級に結びつきうるだけに、致命的な性格を持っていた。

急進的学生運動は、いつからか自分達の自立した「階級闘争」を夢見る様になり、ついでそれを労働者階級への不信に結びつけ、プロレタリア階級と対立しうるとまで思いはじめ、やがて全くそれを無視するに到った。小ブルの運動をプロレタリアートに対立させ、それを従属せしめること、これこそスターリニズムの根本的な性格ではなかっただろうか。そして、革マル派はこのような清況を一方では自らで作り出しつつ、その世界の中でのみ安住できたのである。
「反帝・反スタ」!

「代行主義」とは、形をかえたスターリニズムに他ならない。だが、「代行主義」を批判する者のどれほどが、スターリニズムとの闘いとは、階級の政治的独立性の奪回の為の闘争であり、従って国際党建設の闘いであることを理解していたであろうか。少なくとも革共同が観念論者と行動主義者の分裂をおこし、この両派の対立を軸に急進的学生運動が展開する様になった六十年代において、「党派闘争」を、我々以外には国際党建設の展望をめぐって提起するものはいなかった。そうである以上、彼らの「党派闘争」とは、小ブル集団の「囲い込み」運動としてしか現出しえなかったのは当然であり、それに対する反感が大衆の中に醸成されて来たのも当然である。学生大衆は、急進主義「党派」に対し、こう要求する権利を持っている。「諸君が党派であることを自称するならば、諸君には諸君らの任務があるはずだ。我々の権利を今こそ返してほしい」と。革マル派は自らまいた種を今、刈り取らされようとしている。

 3.革命的指導部の建設か、「代行主義」の再生産か
 早大闘争の現局面は、一方で六十年代と七十年代初頭の急進主教者の「闘争」によって作り出されてきた退廃的傾向を浮彫にするとともに、その反面では新しい闘いの発展の巨大な可能性をも同時にそこに潜ませているのである。我々 が指摘した如く、六十年代を我物顔で「指導」してきた急進主義諸派は、大衆にとっては最早何の魅力もない、むしろ闘争の発展にとっては障害物として投げ捨てられ、またこれらの組織も大衆が何を求めているのかを全く理解せずに自ら破滅の道を選んだ。急進主義的学生運動に関する限り、全共闘運動以来のかかる傾向は不可的なものである。あまりにも長い間、あまりにも多くの害を急進主義指導はもたらし続けた。今や学生大衆が、こうしたかつての「指導部」へ反逆を開始する番なのである。そして、問題は唯々、如何にして、につきる。学生達は既に、この問に答えるために多くの材料を手にしている。不幸なことに、日本の学生運動は、この貴重な財産を獲得するために実に多くの時間と努力と、そして何人かの仲間の生命までも支払わねばならなかった。だからこそ、学生達は過去への回帰をなりふりかまわず拒否するのであり、そのためには闘争の全面的退却さえもいとわない。

現段階の学生運動の反政治的性格は彼らが見い出し得た唯一の自己防衛の手段であり、それは全く新たな飛躍への跳躍台にすらなり得るのである。

 《 新しい「代行」者を拒否せよ》

現在の学生の動向の性格を決定づけたものはやはり全共闘運動であろう。全共闘運動はそれまでの急進主義党派―全学連―自治会のパターンを打ち破り、全く下からの大衆の自発的組織として出発した。だが、当時の世界的な情勢、日本の社会的状況は、全共闘運動が学園内部に止ることを不可能にするまでにその危機を深化させていた。べトナムで、フランスで、そしてチェコで、戦後世界は新しい局面へ向って音を立てて動き出し、象牙の塔は既に朽ち落ちてしまっていた。一切の権威が説得力を喪失し、ただ新たな権威の登場がないだけの理由で生きのびていることが白日の下にさらされていた。こうした社会情勢の中で開吻始された学園の闘争は、フランスの五月がたどった様に、一挙に社会総体との対決へ突き動かされたのである。

全共闘運動は、従来とは異なる新しい闘争の段階を切り開くかの様にみなされた。だが、この運動が質的深化を要求され、その闘いの全体的性格を明確に自覚する様になると直ちに全国的な政治指導部形成の必要性が問題に上り、それとともに、ノンポリラディカルの圧倒的な動きの前に、これに追従していた急進主義諸派は全国全共闘に各々襲いかかり、これを分断することによって、党派の利害による囲い込みを始めたのである。

全共闘運動は結局政治指導部を持ち得なかった。そのことが、全共闘の敗北を単なる大衆闘争の敗北に終ることを許さなかった理由である。この敗北を、機動隊に対抗しうる軍事力の欠除に理由を求めようとすることは、あまりにも皮相的な見方である。全学連運動が党派別「全学連」へ分解し、崩壊したことを否定的教訓として登場した全共闘は、「党派」側の思惑がどうであろうとそれ自体、急進主義党派の「政治指導」に対する拒否宣言であったにもかかわらず、再び党派による分断を許さねばならなかったのは何故なのか。それは、果して現在「ノンセクト・ラディカル」派諸君が言うように、全共闘運動の非党派的性格の徹底的純化が不十分であったが故に、なのであろうか。半分は正しい。半分は、と言わねばならないのは、彼らが言う「非党派」が、単に急進主義諸党派及び既成指導部社共を指すならば、そのとおり、という意味である。別の言葉で言うならば、急進主義としで現出してきた左翼スターリニズムからの脱却を、どこまで純化できたのか、その点こそが問題なのであって、革命指導部としての「党」そのものの否定が問題なのではない、ということである。現在早大で闘われている様な「反革マル」「反セクト」闘争が、この点を理解し得ないならば、彼らの共通したスローガンたる「代行主義反対」の闘争は、彼らの主観的願望にもかかわらず、必ず、新な「代行」者を生み出すに違いない。

どの様な闘争であろうとも、それを維待し発展させて行くには、その闘争の中核部隊たる指導機関が必要であることは言うまでもない。現に早大闘争にしても、その強い反「代行主義」的性格にもかかわらず、「行動委員会」として大衆とは一定程度独立した部隊を登場させている。だが、こうした闘争の指導機関は自己を「代行主義」者とどこで区別するのであろうか。

前章で述べた如く、「代行主義」とは、党として大衆に階級闘争の歴史的な発展段階に対する全体的展望を提起することを拒否しつつ、なおかつ大衆に対する指導権を主張することに他ならない。そして、このような「指導」が「党派」によって行われてきたことが、六十年代の学生運動の最大の不幸なのである。

反「代行主義」論者の中には、全共闘運動の崩壊の原因を、全国全共闘を指向したことにあると語る者もいる(『 現代の眼』 三月号における「文学部有志」君)。だが、各学園別に結成された全共闘が、全国全共闘としての統一を目指したことは、その闘争の全国的性格の証左にほかならず、問題はむしろ全国全共闘が「セクト」による囲い込みに対抗できなかった弱さにこそあると言わねばならない。この点を見ることなく、唯々 弱点を露呈しないがために闘争と問題意識を学園の中に止めることを大衆に強制しつつ、なおかつ闘争を「指導」すると言うのならば、それこそ最も悪練な「代行主義」者なのである。

現在の学生運動の混迷は、これまでの小プル急進主義諸党派の無展望ぶりが客観的に露呈されてしまっていることも含めて、全体的な展望の喪失を意味している。しかし、この展望喪失状況が学生間に一般化している現在こそ、逆説的に聞こえるかも知れないが、新しい可能性が示されているのである。

その根拠は、現在の学生の闘いの無展望さは、これまで十数年にわたって押しつけられてきた小ブル急進主義者の「展望」を学生大衆がはっきりと拒否する決意を固めたことによって作り出されたという点にある。そのことによって、今後の学生の闘いは、どこで、どの様に闘われようとも、出発点からその闘争の全体的な展望を巡る闘いとしてしか構成されえなくなっている。革マル、中核両派はこれまでどおり、既に大衆によって拒否された「党派性」を押しつけようとするだろう。だが、それはむしろ彼らの貧弱な「党派性」を一層浮彫りにするだけである。他の急進主義諸派は「党派性」を自ら投げ出すことによって学生大衆の御機嫌をとろうとするであろうが、それは彼らには存在意義が無いことをより明白にするだけである。

急進主義は、現代社会へ肉迫する学生の意識と闘いを再び支配体制の作り出す循環のなかへ投げ戻す役割りを果してきた。彼ら急進主義諸派は学生の闘いが示した巨大なエネルギーを「学生運動」の殻の中に閉じこめ、全体としてはそれをプロレタリアートの政治的独立の為の闘いに敵対させてきた。それによって学生の闘いはブルジョアジーに利用され、時には太平洋地域をめぐる米帝と日帝の駆け引きに、また時には中国市場を目指すブルジョアジーの政治的経済的野心の道具とされてきた。だが、今や学生大衆はこのような状態を拒否することを宣言した。急進主目義者の言う「政治」や「展望」は破産した。ではそれに代る展望は何か。現在の学生の闘いの無展望ぶりは全くこの答えが見出されていないということをしめしている。共産主義者が、学生の闘いの直中に、自らの党の旗をうち立てたときに、この無展望さは一挙に変革されうる。そして、唯それだけが、新しい学生の闘いの高揚にこたえうる唯一の道なのである。

「反党派」の闘いとは、まさしく新しい、本格的な党の登場を要求する闘争に他ならない。そして、この要求に答えうるものは、階級の闘争の全体的展望を提起し、自らの党としての闘いを国際党建設の展望を巡る闘いにまで押しあげられる存在、我々 第四インターナショナルのみなのである。

 「『革命的暴力と内部ゲバルト』――プロレタリア民主主義の創造をめざして――内ゲバを追放せよ」。
 (「世界革命」 1973.10.1日第320号より所収)
 「革命的暴力と内部ゲバルト」――プロレタリア民主主義の創造をめざして――内ゲバを追放せよ

 11・8早大闘争を全国の闘う学生の力で勝利しよう

 9月15日、神奈川大学で革マル派と解放派が醜悪なゲバルトを展開し、二名が死亡し、二十数名が病院に収容された。つづいて翌日には革マル派が三越デパート屋上で早大のノンセクト活動家を鉄パイプで襲い、さらに次の日鷺谷駅で革マル派と中核派が「衝突」した。こうして9月17日早大新学期明けをピークとして時と所を選ばずに異常なまでに新左翼党派は内ゲバを激化させている。

 われわれは、内ゲバ主義を大衆闘争の発展の観点から常に厳しく批判してきたが、今日の局面にいたってわれわれは強く主張せねばならない。内ゲバ主義はこの悪無限の袋小路に陥いり、ついに文字通り「殺し合い」にまで発展した。そして、その内ゲバは「党派闘争」のベールを捨てて、大衆闘争に向けられている、と。そしてまたわれわれは全ての闘う労働者、学生によびかける。内ゲバを実力で大衆運動から追放しよう。
 ●内ゲバは利敵行為であり戦闘的人民への犯罪である

 田中自民党政府をとらえ、追いつめた広範な戦闘的労働者・人民が一層多くの仲間を集め、拡げ、闘いを発展させ、彼ら自身の赤旗を高く掲げようとするこの瞬間に革マル派を元凶とする内ゲバ主義者どものゲバルトが連続的に行われている。十五日から連続してなされた三つの内ゲバは、あまりにも醜悪であった。十五日には二名が殺され、二十数名が入院した(重体が三名いるといわれている)。

 そして十六日には白昼公然とデパート屋上で凶行がなされ、十七日には、スト処分粉砕闘争をまさに準備していた国鉄労働者の闘いの眼前で「荒れる国電」とブルジョアジーが宣伝したゲバルトが駅構内で行われた。春闘によって国家権力とブルジョアジーを心底から恐怖させた労働者人民が、ミッドウェー号寄港阻止に立ち上ったその特に内ゲバがなされた! 神奈川県評青婦協がミッドウェー闘争に職場の仲間とともに決起しようとしたその時に、この内ゲバは闘いに水をさした。全国の労働者が職場の闘いを全国的に交流し学びあい、それを職場で実践しようとしたその時に、スト処分粉砕・スト権奪還の力強い闘いを労働者が職場で担おうとしたその時に、そしてまた、チリ・クーデターを「利用」して最左派狩りをなそうとする機会を共産党と人民戦線派がねらっていたその時に、そして新学期とともに不死鳥の如く大衆的な決起を準備していた早大生が公然と登場しようとしたその時に内ゲバがおこなわれたのである。

 内ゲバ主義者は、こうして真の戦闘的潮流の建設をめざす労働者人民に事実として重大な敵対行為を働いた。これほど明白な利敵行為があろうか! 内ゲバ主義者のこの行為は、百パーセント権力の意図に奉仕し、二重の意味で戦闘的人民を苦境に立たせている。一つは、国家権力の弾圧の強化をうながし、一つは人民戦線の枠に労働者をつなぎとめる役割を積極的にはたしたのだ。われわれは、怒りをもって階級闘争の損益計算書に記入しなければならない。この内ゲバは権力を歓喜させ、戦闘的労働者人民にたいして決定的な犯罪を犯した、と。われわれは絶対に内ゲバ主義者を許してはならない。戦闘的人民の階級的怒りで内ゲバ主義を絶滅しなければならない。
 ●革マル派の内ゲバは大衆に向けられている

 神奈川大学でのゲバルトと二名の死亡について、革マル派はこう説明している。「彼ら二人は非戦闘員だった。その非戦闘員を殺した青ムシはリンチ殺人の実行者である」「青ムシを撲滅せよ」と。彼らはいつもこうだ! ゲバルトの経緯を詳細に説明し「手を出したのは相手の方だ」と弱々しく「いいわけ」する。しかもきまって彼らがゲバルトに「負けた」時にのみこうした「事実関係」を強調するのだ。

 われわれは革マル派による川口君虐殺(彼は早大のごく普通の大衆の一人だった)を決して忘れはしない。そして川口君虐殺について革マル派が説明したことも決して忘れはしない。彼らはこういった「川口君はスパイだった。革マル派に敵対するスパイだった。」と。「非戦闘員」川口君を虐殺したのは革マル派だ! しかも明らかに党派的な私的なリンチによって!

 内ゲバ主義の元祖であり元凶である革マル派はその本質をはからずも暴露した。彼らにとって問題なのは、彼らがゲバルトに「負けた」ことだけで、「戦闘員の死亡は、ゲバルトの中ではあり得る」と、その内ゲバの目標を明らかにしているのだ。そして革マル派は川口君虐殺によって、そのゲバルトを「党派闘争」の手段から、明らかに大衆闘争に向けた。革マル派は血に飢えた鉄パイプを大衆に向けているのだ。山村政明(梁政明)君は七十年革マル派の連日のテロに憎しみを炎と燃やして焼身抗議自殺というあまりにも悲惨な死をとげた。川口君は革マル派の、「拷問部屋」と化した自治会室につれこまれ、鉄パイプで、キリで、言語に絶するリンチのすえに殺された。誰が誰を殺したのか! 革マル派が大衆を殺したのだ。何のために! 内ゲバの「神話」を維持するために、つまり革マル派の「力」に無理矢理屈服させるために。

 そして今なお早大の先進的学友は革マル派にねらわれている。尾行され、脅迫電話をうけ、「殺してやる」と鉄パイプをちらつかせながらどう喝され……。革マル派はこうして川口君虐殺糾弾闘争の中心的活動家の「ブラック・リスト」を作り上げているのだ。内ゲバ主義の元凶革マル派は、ついにその体系を行きつく所まで推し進めている。大衆闘争の力強い発展から必死で身を守るために見さかいなく大衆に襲いかかる牙、この牙だけが革マル派の党派的命綱となってしまった。

 革マル派は必死に内ゲバのため武器をそろえ、一人でも多くの大衆を傷つけ、殺そうとさえする。彼らは内ゲバの「勝敗」だけが気になる。勝ったときの口実と、負けたときの「被害者」を装う理由を、いまから注意深く準備している。内ゲバは至上目的とされ、この目的のために、全てを従属させている。武器をどううまく準備し、[どのように不意打ちを浴せ、内ゲバの戦果を「革マル派は恐しい」という心理を強制させるためにその思考の全てが回転する。だから、内ゲバによってその双方が犠牲を払うことを喜んでいる国家権力の作る筋書きに完全にはまりこんでしまっている。機動隊の弾圧体制の中でなぜ「思いどうり」に事が運ぶのか、事後弾圧がなぜ「思いの外に」軽いのか、革マル派にとって、この疑問は頭のスミにも上ってこない。何故か! 「敵」は対立党派であり、大衆なのだから。

 だが国家権力の筋書きは、革マル派にとっての「敵」「味方」を一拳に壊滅することにある、国家権力にとって、階級闘争内部の内ゲバほど好都合なことはない。国家権力にとっても、階級闘争の代表する「顔役」の要請にもとづいて、さっそうと登場する願ってもない舞台なのだから。事のついでに国家権力は内ゲバ主義者だけではなく、「平等」に全労働者人民の闘いに襲いかかり、その「顔役」にまで手をのぱす。これこそ国家権力の隠れた本心である。

 動は反動をよびおこす。テロは報復テロを招く。殺人が殺人を呼び、内ゲバの論理はこうして無限の敵対関係に双方をつかせて袋小路をかけまわる。内ゲバを実力で追放せよ。内ゲバに対し武装して大衆闘争を防衛せよ。この闘いはまず何よりも腹黒く徴笑えんでいる国家権力に向けられ、そしてまた内ゲバ主義の元凶革マルに向けられねばならない。
●内ゲバ主義党派はすべて同罪である

 だが、革マル派の「あまりにも度し難い堕落」をもって、あと一つの内ゲバ主義者を免罪してはならない。中核派、社青同解放派そして多くのノンセクト主義の諸君による内ゲバの論理にもとづいた革マル派とのゲバルトもまた、多くの労働者学生に絶望と不信をまきちらしているのだ。

 解放派の諸君は神大における革マル派とのゲバルトについて、労働者学生には一言も説明してはいない。また中核派も、彼らの隊伍にたいしては多くを語っているものの、あらゆる戦線で闘っている広範な人民にはほとんど何も語っていない。もちろんわれわれは詳しい事実は知らないし、知ることにどのような興味ももっていないのだが、「革マルせん滅」を第一義として打ち出しているならばこれはあまりにも「虫が良すぎる」というものではないか。

 こうした諸君が何故堂々と、内ゲバの戦果をではなく、革マル派の本質を大衆に明らかにしないのか。何故、大衆に闘いの任務を訴え、ともに進むべく働きかけないのか。彼らは決して語ることは出来ない。革マル派との抗争のなかで「革マル化」しているからであり、お互いに「内ゲバ」を交換しあっているからなのだ。自らのキャンパス支配を、内ゲバ=理不尽な暴力でしきり、この風潮を大衆闘争に流しこみ、それによって、学生大衆の学生運動への不信と絶望感を作り出しているからなのだ。革マル派の凶暴なテロに恐怖し、革マル派から組織を防衛せんがために対抗的手段をとり、革マル派のやり方を身につけ、大衆には「革マルを支持するのか否か」=「われわれのやり方を認めるのか否か」という思い上りもはなはだしい最後通牒的な「前衛主義」は、内ゲバがもたらす階級闘争への大衆の不信を助長しているのである。これらの諸君が「戦果△名、負傷者△名」と自分だけに通用する損益計算書にしがみつくならば革マル派と同列である。

 無条件に戦闘的人民に自己批判し、戦闘的人民の大衆闘争とともに革マル派を追放するのか、それとも麻薬のように組織をむしばみ人民をむしばむ内ゲバの論理に身をおくのか、彼らにとって選ぶ道は二つに一つである。だが、決定するのは戦闘的人民の大衆闘争である。彼らはすでに、人民にたいして、革マル派と同じ罪を犯しているのだから!
 ●内ゲバ追放――それは国家権力との闘いである

 今日内ゲバ主義者たちの果てしないエスカレーションは、戦闘的潮流を人民戦線派に対抗してしっかりと建設しようとする人々にとって、絶対に許すことが出来ない大衆闘争をむしばむ病原菌となっている。大衆を信頼し、その力によって勝利をかちとろうとする人々は、決して内ゲバの「華々しさ」や悲憤な「決意」に心を動かされることはないが、また、内ゲバ主義者に親切に批判と自己批判をすすめるだけでは、内ゲバの恐怖の絶頂にあるこれら内ゲバ主義者が絶対にその楯をすてないことも知っている。内ゲバは、まことに大衆闘争の発展にとって決定的な障害物となっているのだ。

 だから、大衆闘争を国家権力から防衛し、より発展させようとする人々にとって、内ゲバを大衆的に追放する願いは、(非生産的なことであるが)今日の任務となってきている。内ゲバについて第三者の立場をとるだけでは、これを利用して労働者人民の闘いを押し潰す国家権力の企みに手をこまねいてしまう結果になるからである。

 内ゲバを利用して国家権力は、労働者階級人民が国家権力に向ける暴力を一斉に取り締るべく、一切の報道機関を動員し、そしてその裏では、左翼の暴力に対し、右翼の暴力を準備するのだ。早大で右翼体育会が虎視旦々と学内制圧を目論んでいるのは、四~七月の過程ですでに明らかになっているではないか! 闘う広範な戦闘的人民が正しく内ゲバを階級闘争内部から追放するのか、それとも右翼の暴力によって階級闘争総体の拠点が潰されるのか。内ゲバを正しく追放する闘いは、かくして今日の課題となっているのである。

 われわれは、内ゲバを今日の如くにまで放置してきた責任の多くはわれわれにあると思っている。わがフランス支部の同志たちは、新左翼各派の暴力的敵対に幾度も遭遇しながら、それを監視する大衆的な闘いを作り上げた。のみならずその大衆的な闘いを積極的に共産党・人民戦線派の隊伍にまで波及させ、右翼ファシストの工場スト襲撃にたいし大衆的な武装を実現させている。そしてわれわれは、内ゲバを大衆闘争から追放する闘いの全権を責任をもって担うことを戦闘的人民に誓う。世界にはりめぐらされたスターリニストの個人と組織に向けられたテロと暗殺にたいし、数十万にものぼる戦士たちがその凶弾によって生命を奪われつつも、敢然と立ち向い今日力強くその力を階級闘争に根づかせた第四インターナショナルとトロツキズムの歴史をかけて、われわれは階級闘争と大衆運動の全利益を内ゲバから防衛し、国家権力から防衛して闘うことを誓う。その闘いは諸君によって担われ、その勝利する功績は、諸君自身に与えられる。

 内ゲバを大衆的に追放する闘い、それは、内ゲバ主義者の「寝ぐら」と「補給路」を断つことである。それは、労働者民主主義にもとづいて、反対派の存在を認めようとしない彼らの市民権を奪うことである。内ゲバ主義者を大衆の前で糾弾せよ。無条件の自己批判か、さもなくば追放か! 労働者民主主義に背を向ける彼らの罪は重い。徹底的に糾弾し、内ゲバの土壌を職場から学園から完全に打ちこわせ。戦闘的人民の団結を強化するために! 戦闘的人民を国家権力の前で放り出す共産党・人民戦線派の目論みを大衆的に暴露するために! そしてなによりも国家権力の弾圧と右翼の暴力的支配にたいして戦闘的人民の武装をかちとるために!
 ●早大闘争勝利――それが今日の決定的な闘いである。

 すでに、この戦いは多くの大学で開始されている。「殺したのは解放派だ」と首をとったように宣伝する革マル派をとりまき、糾弾する闘いが開始されている。「お前たちが二人を殺したんだ」「内ゲバが殺したんだ」「内ゲバを続けるのか」と革マル派に向って大衆の怒りはするどく発せられている。革マル派は立往生し、糾弾する中心メンバーになぐりかかっている。だが、ここにすでに内ゲバの土壌は破られ、「補給路」は断ち切られはじめている。彼らが最もおそれる事態は、こうして開始されている!

 内ゲバに一歩もひるまずに展開される大衆的糾弾は、彼らをしてその部隊を大学から引き上げさせ大衆と断絶させることによって一層内ゲバ主義に純化させようとする。だがそこに「力関係」は表現される。彼らのキャンパス支配の内ゲバの論理は大衆自身によって「無視」され、彼らの影響力は急速に一掃される。他方、この大衆的糾弾の前に彼らの「脱落者」は急速に増す。すでに早大の革マル派は昨年に比べ実に半数以上が「脱落」しているのだ。

 大衆から孤立した彼らは「一点突破」に望みをかけ、狂暴さを増す。大衆的糾弾の闘いもまた息つぎを与えないで彼らを追う。そして早大闘争は、決定的な闘いとなっているのだ! 内ゲバ主義の最後の拠点として彼らが早大に居残るのか、それとも全国の闘いで早大から追放するのか! 革マル派追放! 当局徹底糾弾・早大学生運動再建!を鮮明に掲げた早大闘争の全国的全人民的な闘いの質はここにあるのだ。われわれはかつて川口君に誓った。「もし、われわれの決起が、あと一日、あるいはあと二日早かったならば、彼の死は避け得たのだ。弔旗をかかげよ! 前進せよ!」 そしていま、全国の闘いによって、まさに実現するのだ! 早大闘争勝利! 川口君虐殺糾弾! 当局糾弾・革マル派追放・11・8闘争勝利! 真に大衆的で戦闘的民主的な学生運動の再建・統一を! 

【景清氏の第四インタ-派の立ち回り疑惑考】
 「検証内ゲバ2」(社会評論社)の景清氏の「『革共同両派への提言』から何を学ぶべきか」は次のようにコメントしている。
 こうした学生のバラバラな意識を統一し、『内ゲバ反対、革マル派追放』へと学生大衆を集中結束させ、その手段としての民主的自治会の再建・防衛に向けて学生大衆をまとめていくイニシアティブが必要とされていた。そうしたイニシアティブのもとに、文連(文化団体連合会)に逃げ込んだ革マル派を、その拠点である学生会館から追放する行動が必要とされていた。こうしたヘゲモニーを発揮すべき勢力は、当時の早稲田にあっただろうか。

 まず第一に、84年の中核派による襲撃に対して反内ゲバ闘争を闘い抜いた第四インタ-派はどうだったか。当時の第四インタ-派はまだ早稲田大学内部には全く勢力を持たない『外人部隊』であったため、影響力には限界があった。しかし、その主体的力量に応じて的確な介入を行っただろうか。第四インタ―派は当時、内ゲバに反対する声明を何度も出し、その元凶である革マル派を早大キャンパスから追放せよと扇動していた。しかし、行動の上では、早大学生大衆と連携してそのような行動に着手したのは翌年夏に入ってからであった。4月から始まった革マル派の内ゲバ反撃に対しては決定的に遅すぎたのである。先進的学生活動家を組織的に防衛することができず、ほとんど大衆的反撃力を失った時期に起こした『虐殺1周年』闘争ではもはや手遅れであった」。
(私論.私見) 景清氏の第四インタ―評論考
 景清氏のこの指摘はなかなか良い観点から論じているように思われる。れんだいこから見ても、第四インタ―にはヌエ的なところが有り過ぎる。

 2009.8.13日 れんだいこ拝





(私論.私見)