「党派間ゲバルト」発生の土壌について

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.12.7日

【「特殊日本的な様相の『党派間ゲバルト』の異常性」を見据えて】
 一般に党派間の抗争は史上に珍しくはない。政治的党派、宗教的党派、民族的党派、最近では加熱スポーツ応援団間まで「ゲバルト」の例を枚挙するに事欠かない。だが、政治的党派による暴力常習性は突出しているだろう。どうやら「政治」というものそのものに根ざした本質的なものではなかろうか。史上の様々な戦争、革命(「フランス革命」、「アメリカ独立戦争」、「日本の幕末内戦」、「ロシア十月革命」、「中国の国・共内戦」等々)はその好例である。してみれば、政治的抗争あるいは革命闘争に暴力性は付き物ではないのだろうか。かく観点を据えて、それでも日本における「内ゲバ」がそれらと如何に交わり交わっていないか、その分析をしてみたい。特殊日本的な様相の「党派間ゲバルト」の異常性を露わにしてみたい。

 れんだいこは、この「異常性」さえ見抜けば、「内ゲバ問題」の考察は難しくないと考えている。問題は、これを如何にも難しく難しく語ることにより本質論議を疎外させ、結局実践的に「何を手立てすべきか」を見えなくする観念遊戯の方にあると思っている。余談事ではあるが、「内ゲバ」の淵源として何でもかんでもスターリズムへ流し込もうとする論調があるが、ナンセンスではなかろうか。「内ゲバ」であろうが「党派間ゲバルト」であろうが「革命的暴力」であろうが、その根は深く有史以来の実在であろう。火山噴火も地震も当家他家の不祥事も、全てスターリズム批判で解決できるなぞとは、よほど目出度い論ではなかろうか。

 話を戻して。ここでは、「内ゲバ」と「党派間ゲバルト」問題に絞ることとする。このテーマに関するれんだいこの処方箋は次章で述べることにするとして、今後どうなるかまで論を及ぼすとはっきりしないが、典型的には革マル派対中核派、革マル派対社青同解放派の「党派間ゲバルト」を俎上に上げ、「特殊日本的な党派間ゲバルト」を考察することにする。はっきりしていることは、「ロシア十月革命」、「中国の国・共内戦」のように既に権力を掌中にしている左派系の片方のセクトに対し、より左派化を期してその奪権を目指すような権力闘争ではなく、前々段階的な情況の中での単に左派運動内のイニシアチブを廻る闘争過程に発生し、運動全体の展望から離れて自己目的化したあるいはさせられた、という矮小性であろう。

 こうした「党派間ゲバルト」に我々が愛想を尽かした理由は次のことにある。いわば「左派」仲間が、対権力闘争に向かって傷ついたというのならともかく、主義・主張が異なるとはいえ、大同団結しつつ別個に撃ち進まなければならない時にその仲間内同士で殺傷し合うのは如何なものであろうか、という点にあった。次に、そのあまりに矮小なかようなことがなぜ起こるのかという左派運動自体に対する失望であったであろう。連合赤軍内に発生したリンチ事件の衝撃とあいまって、その後の青年学生運動に致命的な打撃を与え、退潮させていくことになった。

 しかし、ここで思考を打ち切り、「我が党派は無縁であった」として論を締めくくるとすれば、これもまたよほどおめでたい評論でしかない。かような「内ゲバ」発生の土壌と真因、その際の当事者の論理等々について分析、総括しておかなければ他山の石とはならない。なぜなら、いつでも肝心なときに再度お見舞いされ、その都度防ぐ術を持たないだろうということだ。史上70年代に発生した「内ゲバ」は、仮に突如降って涌いて一過性で風の如く立ち去ったとしても、多くの疑惑がある。この疑惑も含めて生産的な何らの教訓化が為されていない、それを急がねばならない、というのがれんだいこ観点だ。

 話は変わるが、2002年初頭の小泉政権は、田中真紀子外相と外務省高級官僚及びこれに通ずる福田官房長官の指揮する官邸との軋轢で揺れた。この時小泉首相は「どっちもどっち」論で御していった。一般に云えることだが、「どっちもどっち」論というのは胡散臭い。実際には、見せかけ中立を装いながらどちらかに肩入れしていることが多い。小泉の場合にも、外務省高級官僚と官邸の方に与していたことは後の田中真紀子凌辱解任劇という逆裁定で明らかになったところである。

 何が云いたいのかというと、「内ゲバ」考においても同様な見解が流布し過ぎてはいないだろうかということである。評論家として名高い立花隆氏の「中核VS革マル」は、党派外の者が「内ゲバ問題」に立ち入った最初の試みにして長らく研究本の地位を獲得してきているが、その観点は「どっちもどっち」論であり、この客観主義評論で「内ゲバ」の経過を明らかにしたに過ぎない。資料的な面は別にして実践的には何の役にも立っておらず、むしろ有害無益な役割しか果たさなかったのではないのか、というのがれんだいこ観点だ。このたび「検証内ゲバ」が出版され、立花本に対する批判的観点を含めてより実践的な何事かを汲み取ろうとしている姿勢は評価できる。だがしかし、お茶濁しに終始していることをも又確認しておきたい。


【「戦前日共内の小畑中央委員リンチ致死事件」について】
 という観点より、れんだいこ風の「党派間ゲバルト」考をしていきたい。まず、「内ゲバ」の土壌について見ておくが、はるか戦前の日共内に発生した「小畑リンチ致死事件」から論を起こさねばならないと云えば驚かれるであろうか。これをマジに問うのがれんだいこ観点だ。巷間流布されていないので眼から鱗が落ちるだろうが、これを分析する。

 1928年の「3.15事件」、1929年の「4.16事件」で壊滅的打撃を受けた戦前の共産党運動は、以降田中清玄、風間、山本、野呂指導部へと、潰されても潰されても不屈に党形成に立ち上がった。最後の委員長となった野呂が逮捕されたのは1933.11.28日であった。以降、次の委員長ポストを廻って、小畑・大泉ラインと宮顕・袴田ラインが反目し合い、互いが互いを認めないという「内ゲバ」状態に入った。現在の日共の党史では隠蔽され且つ否定されているが、れんだいこが観るところこの対立は、労農同盟を最後の拠り所とした小畑中央委員対特高内通派の宮顕・袴田ラインとの攻防戦というところに意味があった。残念なことに、その小畑が同盟していたのはこれまた特高内通派の大泉であった。

 これがどのように決着したかというと周知のように、宮顕・袴田ラインが党内スパイ摘発闘争という名目で小畑・大泉を拉致監禁し、執拗な査問の結果小畑がリンチ致死され、その後の指導部を宮顕・袴田ラインが掌握するという結果となった。ここには一つの重要な教訓がある。今日では判明しつつあるが、スパイ派の宮顕の方が労農派の小畑をスパイ呼ばわりしつつテロって行ったということである。これが真相であるが、宮顕系列の流れにある現在の党史では、小畑致死事件を党内スパイ摘発闘争として正当化し、小畑は「突発性ショック死」で自死したとして片づけられている。

 このことは、我々がよほど的確な視点を持ち合わさないと、プロパガンダ威力で真実が捻じ曲げられたまま受け止められていくということになることを示唆している。その史実の歪曲はかなり手が込んだやり方で為されており、これに対抗するには我々自身が史実を精査していく以外にはない。くれぐれも言葉尻だけに振り回される愚は避けねばならない。

 しかし、さすがに党内は納得しなかった。当然の如くこれに不満を覚える多数派が形成され、これ以降党内は分裂状態に入った。しかし、この多数派は特高当局と袴田党中央に挟撃され壊滅させられた。こうして戦前の党運動は獄中に存在するというばかりの、もはや党派運動の実態を為さないまま終戦を迎えることになった。残念なことに、日本左派運動は未だに、この時の多数派の動きを正当に評価していない。

 れんだいこが、なぜ「小畑中央委員リンチ致死事件」を重視するかというと、この事件こそが日本左派運動内に宮顕が潜入してきて以来の宮顕式党内スパイ摘発闘争という美名目での陰運動の象徴であり、以降この手法が左派運動圏にウィルスの如く持ち込まれ、その後瀰漫し、2002年現在その非を理論的にも運動としても未だ払拭できていないと思われるからである。

 この時の「リンチ査問」の非について、戦後直後の党運動を指導した徳球委員長の次のような指摘がある。1946年の「第5回党大会」前後の遣り取りだと思われるが、戦前の「小畑リンチ致死事件」が問題となり、徳球は小畑達夫を死亡せしめた査問の仕方を激しく非難し、次のように述べている。
 概要「不測の事態が起こり得るわけだから、あんな査問などやるべきでなかった。第一あの二人がスパイだったかどうかもわからんし、たとえスパイだったとしても、連絡を断てばそれですむことではないか。ああいう形の査問は良くない。実にけしからんよ」。

 これに対し、当事者であった宮顕と袴田が食い下がり、「連絡を断ったくらいですむことか、事情も知らないで何を言うか」と掴み合わんばかりの激論となった(袴田里見「私の戦後史」)と漏洩されている。

 れんだいこが何を云いたいのかと云うと、宮顕を左派人士として仮定したとして、ここに同じ左派系運動の指導者でありながら端的に見解の違いが見られるからである。簡略に纏めると、徳球系は陽運動であり、「党内査問」については極力消極的であり、むしろ情況をこじ開けていく攻めの運動に向かう。但し、脇が甘いという脆さがある。これに対し、宮顕系は陰運動であり、いわば「党内査問」専門で満展開させ、体制権力に対して情況をこじ開けていく方向には少しも向かわぬ代わりに党内整序という名目での統制運動方向を「戦闘的に重視する」という違いがあるように思える。

 どちらも左派用語を使いながらこれを行うので、凡庸な者は騙される。しかし考えてみよう。元々左派運動は自律的自主的なものであることを思えば、徳球系運動で何らオカシクはない。左派運動は対権力運動であって、運動圏内部へ向けてのみ戦闘的な運動なぞあって良い訳がなかろう。それを思えば、宮顕系運動の胡散臭さに気づくべきであるが、今日まで多くの批判が為されてきている割には胡散臭さを問うた例が少な過ぎる。これは、日本左翼運動の見識の貧困ではなかろうか、とれんだいこは思っている。

 この宮顕系陰運動の悪影響は思われているより根が深く広い。宮顕は、戦後直後の党運動にあっていわば窓際職的に青年学生運動の担当を任された。以来、一貫して右翼的民族的没イデオロギー的指導を為していたが、武井昭委員長の指導する全学連運動の左傾化が生み出されるに及び、宮顕は、武井らの左派性を徳球執行部批判に利用した形跡が残されている。「50年分裂」を経て党内が大抗争時代に突入するが、宮顕は国際派の頭目として反徳球運動を指揮し、武井全学連指導部もこの系列に組み込まれた。

 興味深いことは、今や国際派系全学連指導部として立ち現われるに至った武井派は、宮顕と頻繁に連絡を取り合ううちに、その陰鬱な「排除の論理と査問手法」を感染させられた。このウイルスが意外な力を持っていくことになるのがその後の日本左派運動である。と、私は窺う。

【「国際派東大細胞内の査問・リンチ事件」について】
 1952年の「国際派東大細胞内の査問・リンチ事件」はその典型であるが、安東氏が「戦後日本共産党私記」で明らかにしている。れんだいこ風にアレンジすると概要次のようになる。

 「国際派東大細胞内査問・リンチ事件」とは、準幹部的メンバーであった戸塚、不破、高沢(都学連委員長)の3名をスパイ容疑で監禁し、以降2ヶ月間という長期の査問が続けられることになった事件を云う。発端は、「早稲田の細胞がスパイをつかまえて査問したところ、戸塚と不破がスパイであることを自白した」という容疑から始まった。この容疑がどの程度根拠があったのか今も解明されていないが、早稲田細胞責任者が東大細胞責任者に連絡を取り、綿密な調査と裏付けを取った上で査問に向ったであろうことは想像するに難くない。

 査問場所は東大の構内の一角で行われ、十数人のメンバーが車座になって右3名を直立不動に立たせて査問が始まった。力石が「これから我々は一人一人についてボルシェヴィキ的批判と自己批判を行う」と口火を切り、武井が主となって訊問した。この時の武井の口の利き方は既に同志的でも対等でも尋常なものでもなかった。「もう証拠は挙がっている。早いところ白状しろ」と、凄まじく詰問していった。戸塚、不破、高沢らは否認し続けた。

 興味深いことは、この時査問側は、宮顕の戦前のスパイ摘発闘争の遣り方をそっくり真似ていることであり、点検項目「一・金、二・女、三・無理論性、四・官僚主義」の4項目に基づいて調査を進めていっている。付言すれば、この点検項目とはいずれも、案件の決定的証拠を質すよりも誰でも多少の埃を持つ事項であり、こういう画然としない容疑で詮索していくならば誰も落とし込められ易いものであることが分かる。

 日を重ねて査問が続けられていくうち戸塚が遂に気を失って倒れた。幸い、意識を取り戻して回復したが、この辺り以降から埒のあかないままうやむやに経過していくことになったようである。この三人に関連して、あるいはこの事件をキッカケにして何人かの同志が査問にかけられた。この過程で蒙った個人的、組織的打撃は深刻であった。

 やがて、この査問を総括する会議が開かれることになった。この時も武井は、3名がスパイであることを確信しており、次のような奇妙な発言をしていることが注目される。
 「我が東大細胞がこれまでに反帝、反占領軍の激烈な闘争を闘い続けながらも、さしたる弾圧を蒙らずにきたのは戸塚、不破らのスパイが指導部に潜入していたためであるが、これらスパイを摘発した以上は今後に厳しい弾圧を予想しなければならない」。

(私論.私見) 

 この言い回しの考察もまた興味深いが、ここのテーマに外れるので割愛する。

 総会は報告を異議なく承認したが、総会が終わった後の細胞の空気は当然にも重苦しかった。後日、「三名のスパイ問題は不問とするべし」との宮顕見解が出され、この通達が流れを変えた。宮顕の統制手法からして奇妙な寛大さがここに見られることに注意を要する。この事例は、これより先の1948年時の東大新人会運動の顛末で、宮顕が後の読売新聞社長渡辺恒雄を頭目とするナベツネグループを規律違反処分する際に見せた寛容さと類似している。宮顕とナベツネとの関係は地下水脈的にその後も続いていくことは衆知のところである。結局除名処分に関しては、「賛成27、反対26、棄権3」であったが、陰に陽に宮顕がナベツネグループを救出している経過が残されている。宮顕の常套手法として、右派系には滅法甘く、左派系には鬼神もたじろぐ執拗さがあることが知られねばならない。

 さて結論は、「戸塚、不破に対するスパイの断罪、そしてそれに関連した高沢らの除名は取り消す。しかしこの過程で彼らには様々な非ボルシェヴィキ的要素が明らかになったので、全ての指導的地位に就かせることはしない」となって落着した。れんだいこがこの事件を重視するのは、宮顕の変調指導とその論理とが全学連運動内にこのように浸透していったという例証がここにあるからである。

 最終的に、宮顕の介入によって戸塚、不破、高沢への追求は取りやめになったが、果たしてこの3名がスパイであったのかなかったのか、全員怪しかったのか、例えば戸塚、例えば不破が怪しかったのか、このような査問形式が適切であったのかどうか、その後の不破の登用は如何なる因果関係なのか、重要なこれらのことについて何ら解明されていない。

 且つこの「陰」作風が一人歩きして我が左派運動圏内に「査問方程式」のようなものとして浸潤していったのではなかろうか、という推測を可能にさせている。上記の考察との直接の因果関係を立証することはできないが、あるいは又その全てを宮顕の影響とまでは云うつもりはないが、その後の全学連運動には陰的な非公明正大なウィルスが取り憑いていったことは確かであるように思われる。

【「宮顕式陰運動の悪影響」について】
 その後、宮顕系は、「50年分裂」時代の徳球系党中央指導による武装闘争の失敗を尻目に、1955年の「六全協」を経て日共指導部を簒奪した。党中央を掌握した宮顕は、その素面を露わにし始め、もはや全学連運動の急進主義者を用済みとしてお払い箱にし始める。何とかして全学連の戦闘性を薄めようと画策し、右派系民族主義系運動「歌ってマルクス、踊ってレーニン」というレクリエーション路線へと引き戻し始めた。この方式がその後の民青同の路線となっていく。宮顕は、党中央権力を掌握するや仮面を投げ捨て、従わない部分を恫喝しあるいは統制処分でもって切り捨て、断固徹底して排除していった。機関紙誌は私物化同前のプロパガンダの場とされていった。当然迎合派は逆に登用されていくことになった。上田・不破兄弟はこの系列に属する。

 ここに、頑固な急進主義的部分が行き場を失い、一つは革共同系、一つはブント系へと向かう新潮流が生み出されていくことになる。俗に、この流れを反代々木系新左翼として識別している。留意すべきは、我が国の左派運動の史的財産である徳球−伊藤律系運動に対して真っ向から批判的であった国際派系と云う同じ穴からこの二潮流が生み出されていることであろう。つまり、この二潮流は、戦後共産党内の徳球系対宮顕系の対立に対しては宮顕系に与しており、よってその後の宮顕系党中央との対立においても、運動的思想的に云われているよりも徳球系のそれよりも近いところに本質がある。ここを確認しない限りその後の展開を読み誤ることになる。

 ところで、この宮顕式陰運動を、いわゆるスターリニズム的批判で包摂できるや否やという問題が残されている。れんだいこ観点によれば、宮顕式陰運動がスターリニズムの直照射された結果のそれであるとするならば、世界中のコミンテルン運動に立ち現われる筈だろう。あるいは世界中のコミンテルン運動に発生しているのかも知れないが、宮顕式ほど陰険姑息なものであるのだろうかと反論したい。れんだいこが拘りたいところは、スターリニズムあるいはそれより早くレーニズムに現われた反対派抹殺は、そのいずれにしても手法において是認し難いが、スターリニズムはレーニズムをよりファナティックに瀰漫させたものであろうが、一度は革命闘争を成功させたという功を持ち、掌中にしたその革命権力の擁護的観点から生み出されたものではなかろうか。(ここは、国際ユダ邪観点からするスターリニズム論検証の余地があるが本稿では割愛する)

 宮顕式の場合、はるかそれ以前の段階で発生している点で又質が違うと見なすべきではなかろうか。権力問題との脈絡から完全に逸脱したところでの、権力を利するばかりの左派運動の捻じ曲げ−投降主義的右派系秩序統制型への整風運動−として繰り広げられてきたという特質があるのではないのか。このような運動を胡散臭さ抜きに正視できるであろうか。

 にもかかわらず、宮顕式陰運動を、いわゆるスターリニズム的批判で包摂してきた反代々木系新左翼運動の視点は、むしろ宮顕の胡散臭さ及びそれがもたらすと思われる陰運動をそれとして見なさず免責している点と、左派運動そのものを幻滅させるという効果を伴うスターリニズムの捻じ曲げ批判を通じて、反マルクス主義運動の下地を醸成しているという両面において、結構こちらも胡散臭いのではなかろうか。通りで、その後の左派運動の中からは、宮顕派あるいは反宮顕派のいずれの道を経由しても、最後にはより右派的な観点への競合人士しか輩出していないのもむべなるかな、という気がしない訳でもない。

【「革命弁証法式共同戦線論」について】
 以上前置きして、以下「党派間ゲバルト」の考察に入る。

 本来であれば、平明にこのように考えることができるはずだ。学生運動において見解が分岐するのは致し方ない。一致するそれぞれが信ずるところに従ってそれぞれの行動をとれば良い。その実践の中で支持の拡大を目指せばよい。相互にこれを保証し合えば、それが革命の弁証法となって切磋琢磨的にそれぞれの発展に資するはずである。この作法が運動の盛り上げに寄与する。

 秋山勝行氏の「全学連は何を考えるか」は次のように述べている。
 「日本において革命を目指す様々な潮流・組織の学生党員が、その革命家としての資格を賭けて闘っているのである。この対立・論争は、あらゆる国の革命がそうであったように、階級闘争の激化につれてますます激しくなるであろう」。
(私論.私見) 
 そうこれでよいのだ。

 ところが、次のように続く。
 「それにしても、党派の数がたくさんあり、互いに対立しあう現状が永久に良いわけではない。これはあくまで過渡期であり、新しい運動の時代に向かって、どれが正しいか競い合っている状況の反映である。なるべく早く、一つの旗の下に運動が統一され、様々な日和見主義が克服され、最も革命的な指導部の統一的指導によって、すっきりと全国的な闘争が展開できるようになるのが望ましいことはいうまでも無い」。
(私論.私見) 
 ここが違う。党派の共同闘争は永遠に続くべきだ、それが革命の弁証法に資するように関わり合うべきだ、で良いのではなかろうか。そういう意味で、民青同の他党派排除路線、革マル派の他党派解体路線はいずれも初歩から胡散臭い。この路線を敷く党派との共同戦線化は理論上あり得ない。そういう意味で、他党派排除路線、他党派解体路線を排斥した切磋琢磨競り合い路線の確立が求められている。このハードルをクリヤーした党派間の共同戦線及び共同闘争のあり方こそ本来の研究課題とならねばならない。残念なことに、この道は未だ拓けていない。但し、70年安保闘争前決戦の時点で全共闘が結成された史実がある。この時の経験を検証し、それを成り立たせた論理を育む必要があろう。

【「ブント系、マル学同系学生運動内に持ち込まれた暴力の瀰漫」について】
 今日から見て、新左翼系全学連運動内に「査問」、「内ゲバ」とまではいかないまでも暴力的体質が発生していたのは、かなり早くの運動開始期よりである。「60年安保闘争」前に結成され、「60年安保闘争」後散ったいわゆる反代々木系新左翼のブント運動が、そのイニシアチブ掌握過程で、反対派主として代々木系民青同派、革共同関西派系を暴力的に追い出していった経過が刻まれている。

 但し、この時点では、いわば素手による肉弾戦であり、この程度のことは60年安保闘争を目前に控えた情況の厳しさから仕方なかったかも知れない。あるいは、代々木系民青同派を裏から指導していた日共宮顕指導部の姑息にして執拗な敵対からすれば、「革命的」精神と情動が為した当然の締め出しであったかも知れない。これを「革命的暴力の『即自』的段階」と見なせるかも知れない。

 第一次ブントが60年安保闘争後挫折したが、その後釜に座ったのが革共同全国委派の指導するマル学同であった。この頃より、全学連運動内における反対派に対する暴力的締め出しが常態化した。執行部への自派の送り込みを廻っての闘争は第一次ブント時代の頃より加熱していたこともあって、マル学同派が執行部を掌握して以来、より徹底して反対派に対する暴力的排除を体質とさせた。

 61年のマル学同派による「つるや連合」パージ、代々木系民青同派パージは好例であり、この時より角材が使用されている。これを「革命的暴力の『定向』化段階」と見なせるかも知れない。革共同全国委−マル学同派が、左派運動圏内に「革命的暴力の持ち込みの底上げ」をしたことは疑いないように思われる。

 付言すれば、ロシア十月革命に至るボルシェヴィキ派の態度には、かのボルシェヴィキとその他諸党との闘争、ボルシェヴィキとメンシェヴィキとの闘争、ボルシェヴィキ内部の闘争においても、徹底した論争とプロパガンダを経て採決により事を決している作風が見えている。レーニンの「4月テーゼ」が貫徹していく過程を追えば、否決から次第に支持を増し採決により多数掌握までの流れが見えてくる。その最後の採決時での反対派の見解さえ、翌日ごく普通に党内声明され、討議を煽っている史実が残されている。こういう経過を通じて革命闘争が大衆的に熱気を帯び、相互作用でロシア十月革命へ流れ込んでいったのではないのか。

 これに照らせば、第一次ブント、マル学同派の反対派入場拒否パージは何と日本的な姑息因循な暴力なそれであっただろうか。もっとも、ロシア十月革命で、権力掌握後のボルシェヴィキ派が反対派摘発に向かった経過があるので、こちらを見習ったのかも知れない。

 その後のマル学同時代の全学連運動は精彩を欠いた。後の革マル派に列なると思われるマル学同のらしさを象徴する出来事が62年の「6.15日樺美智子追悼二周年」に発生している。次のように批判されている。
 「最前列を占めたマル学同全学連700名は、社会党飛鳥田一雄の挨拶をやじり倒し、社学同の佐竹都委員長の挨拶には壇上での殴りあいを演じ、清水幾太郎の講演もほとんど聞き取れない有様となった。これを『暴挙』とする樺俊雄夫妻.吉本隆明.清水幾太郎氏らは批判声明を発表し、概要『マル学同の狂信者たちが全学連の名を僭称しつづけることを許すべきでない』とまで、厳しく弾劾している」。

 こうした事情から、62年頃より「社学同(再建ブント系)・社青同、構改派」の三派が協調しつつ情況を打開せんと動き始めたのも成り行きであった。興味深いことは、この三派連合間に運動方針の対立が発生し、イニシアチブを廻って社学同が構改派を暴力的に追い出すという対立が発生していることである。もっともこの時の対立には、運動方針の対立という表面的な事由よりも、底流にはマル学同運動とどう対置するのかを廻って、共闘根回し派の構改派と断固闘うべしとする否認派の社学同との深刻な対立があった由である。ところで、この再建ブント系はこの後も四分五裂を重ねていくが、いわば体質的な字句通りの「内ゲバ」をその都度演じている点も見過ごせないところである。

 62年10月頃、「大管法闘争」が盛り上がり、民青同系が先鞭を付け、これに三派連合も、更に遅れてマル学同もこの闘争に参入してくることとなった。統一行動としてマル学同も含めた四派連合が形成された。この時の四派連合運動を廻って、革共同全国委−マル学同派内に対立が発生した。

 れんだいこ風に分析すると、ここは今日の中核派と革マル派分岐の起点となる非常に重要なところである。この時、黒寛派は、理論水準を軽視してズブズブの大衆運動盛り上げに向かうのは邪道であり、三派運動を解体させ革共同全国委−マル学同派運動の旗の下に結集させる運動こそ目指すべしである、とした。これに対し、本多派は恐らく黒寛派に愛想がつき始めたのであろう、この時毅然と黒寛論理に反発した。そういう宗派運動に固執するのではなく、共同闘争を含めて情況打開に向かう競り合い運動こそが望まれている、とした。

 れんだいこ観点によれば、この対立の底は根深い。いわばロゴス派とカオス派の対立として、運動圏内に否人類の営みの当初より常に付き纏ってきている厄介事ではないかと考えている。れんだいこは、議論は徹底して為せばよく、実践的には、「排除の論理」よりも、互いに認め合い「競合運動」する以外にないのではなかろうか、と考えている。おかしなことに実際には逆に、議論を慎みというか罵倒で済ませ、ゲバルトで決着つけるという作風が好まれてきている。

【「革マル派の暴力性とこれに抗する三派系の乱闘事件の発生」について】
 話を戻して。マル学同派内のお互いがお互いの運動を「異筋」とみなすこの対立は次第にぬきさしならないことになり、63年に至って「革共同黒寛派/革マル派」と「革共同本多派/中核派」へと分裂していくことになった。留意すべきは、革共同全国委系の運動は、他党派との見解、方針の違いを暴力的に解決するという体質を色濃く持っていたことであり、革マル派、中核派共にこの傾向が継承されたことである。但し、黒寛の「他党派解体」理論を忠実に信奉する革マル派の方がよりファナティック、フェチなそれであったであろう。というか、中核派の暴力的体質は権力闘争に向かい、革マル派のその体質は主として他党派敵対闘争に向かった、という違いであるかも知れない。

 1963.7月、全学連20回大会は、当然の如く革マル派と中核派が激しく抗争し、革マル派は中核派代議員の入場を実力阻止し、中核派系6中執の罷免を承認した。以降マル学同は革マル派全学連としてセクト化することになった。以来、形式的には全学連旗は革マル派が保持し続け、こちらが正統として伝えられていくことになる。中核派の「社学同・社青同、構改派」の三派への接近は成り行きで、一時期「四派連合」となった。

 63.9月、清水谷乱闘事件が発生している。清水谷公園で、連合4派(中核派・社学同・社青同解放派・構造改革派)250名が集会しているところへ、革マル派150名が押しかけ、角材で渡り合う乱闘事態となった。革マル派のその他党派への暴力的殴りこみはこれを嚆矢とするのではなかろうか。いわば「革命的暴力の『対自』的段階への更なる進化」と見なせるかも知れない。

 64.7.2日、早大構内に集まっていた革マル派に対して、中核派.社学同.社青同.構改派(フロント)各派の連合勢力が、ヘルメットに身を固め、棍棒と石をもって夜襲の殴りこみをかけ、3時間の激闘が展開された。これを「7.2事件」という。早大文学部の自治会委員選出選挙で、フロント派系が大きく支持を増し革マル派が不利となるや、革マル派は「正当な委員ではない」として少数の自派だけで延命を画策し始め、テロルが開始されていった。これに対して四派連合の怒りが爆発し、「徹底した自己批判を要求する」として押しかけたゲバルトであった。

 この後の方針を廻って「四派連合」に亀裂が走った。穏和系の構改派が抜け落ちることにより社学同、社青同、中核派の「新三派」運動が始まった。このことの意味するものは、戦後全学連運動が今やはっきりと、穏和系と急進主義系とにブロック別に色分けされてセクト化が始まったということである。穏和系は民青同、構改派が代表し、急進主義系は社学同、社青同、中核派の「新三派」が代表した。これに楔を打ち込むような形で革マル派が理論派系として割り込んでいた。

 革マル派を理論派系とみなすという意味は、他には評しようが難しいからである。革マル派には、理論性を重視し最も批判精神を培養していたという積極面と、穏和系でも急進主義系でもなくそれらの「乗り越え」運動を目指すという口実で「他党派解体路線」を志向していたという宗派性の二面があり、この運動傾向は穏和系にも急進主義系でも括れない、という捉えどころが難しい事情がある。

【「新三派系全学連の登場による学生運動の急進主義化」について】
 64年末、民青同系が自前の全学連を立ち上げた。民青同系全学連は順調に発展 し、66.7月には全国の大学自治会の過半数(84大学・189自治会)を結集し、68.2月には国際学連の代表権を獲得することになる。民青同系全学連のこの進展は何を語っているのだろうか。少なくとも、民青同系全学連は意見の対立を暴力的に解決するという作法を持たなかった。形式的であれ手続き民主主義の原理原則を踏まえていた。ここが多くの支持を得ていた要の部分ではなかろうかと思われるが、これに着目する評者は少ない。

 その運動方針は、右派系の「民主主義と生活向上の為に闘い、全学連が統一戦線の一翼となり、教職員と連帯して幅広い統一戦線を結成する」というものであったが、この運動に革マル派系も新三派系も構造改革派系もジリ貧を余儀なくされていった、という経過があるように思われる。

 れんだいこ観点であるが、仮にロシア革命運動になぞらえて、民青同系全学連をエス・エルないしはメンシェヴィキ運動、新左翼をポルシェヴィキ運動と見立てるならば、ポルシェヴィキはエス・エルないしはメンシェヴィキ運動にどのような運動を対置したか。あくまで粘り強く、理論と実戦の競り合いで大衆に信を問い続け、公明正大に次第にポルシェヴィキ運動の趨勢化を獲得していったのではないのか。それを思えば、反代々木系新左翼諸派の運動に忸怩たる思いがあって当然だと思われるが、今日までそのような総括は聞いたことがない。

 さて、話を戻す。65年より全学連運動が活火山化していくことになる。ベトナム戦争の激化に伴う世界的な反戦運動の高まりに呼応し全学連運動がその流れを的確に受け止めたということであるが、各セクトが色めき立つ季節に入った。この頃、社青同の中から社青同解放派が生まれている。66.9月、「社青同東京地本人会の協会派と解放派の暴力的衝突」(協会派に対する解放派の集団テロ)が為されていることを思えば、社青同解放派の暴力的体質もそもそもからのものであると云えるかも知れない。この社青同解放派を加えた「新三派」の急進主義運動が次第に力を増して行き、66年末には再建ブント系から分岐したML派なども合流させた上で新三派系全学連を立ち上げている。

 新三派全学連は街頭闘争に最も戦闘的で、日増しに脚光を浴びていくようになりデモるたびに勢力を増強していった。67.10月からの「激動の7ヶ月」を通して、中でも中核派の台頭が目立ち、68年には自前の全学連を結成し自立した。追って社学同・社青同解放派も自前の全学連作りをしていくことになるが、64年末民青同系のそれを後追いしたセクト的な動きではなかっただろうか。というか、マル学同全学連、民青同全学連を見習って自前の全学連作りが時の課題であり勢いであったのかも知れない。

 セクト的な動きという面で云えば、中核派のこの急成長ぶりが社青同解放派とギクシャクし始め、この後一時期社青同解放派は革マル派と蜜月時代を続けることになる。この間再建ブント系諸派は更に分裂と統合、再々分裂を繰り返していくことになる。67−68年にはかような戦国時代絵巻が繰り広げられている。

【「内ゲバの発生」について】
 この頃になると、全共闘運動が生まれ始めており、各大学でも東大闘争、日大闘争を頂点として紛争が全国に波及していった。新左翼急進主義系は全学バリケード封鎖により、解放区空間の創出を運動目的とし始めた。これに立ち向かったのが民青同系であり、大学民主化闘争という名目で守旧的な正常化運動を画策して対立した。あちこちで自治会の主導権を廻って、両者間にテロルが横行し始めた。踏まえておきたいことは、この時期、民青同系との合法的な競り合いで新左翼系が掌握する自治会のほうが増えていっていた史実である。つまり、新左翼系の方が学生大衆からの支持を獲得しイニシアチブを取っていたということになるが、新左翼系はこの面をなぜもっと重視しようとしなかったのであろうか。

 この当時の学生運動の流れは、大雑把に見て「五流派」と「その他系」に識別できるが、まさに入り乱れて競合関係に入っていた。今これを数えれば、1・民青同系、新三派(2・中核派、3・社青同解放派、4・社学同)、5・革マル派、6・その他(第四インター系諸派、構造改革派系諸派、毛派系諸派、日本の声派民学同系、アナキスト系諸派、ノンセクト・ラジカル、ベ平連系)等々ということになる。

 この過程で治安警備側の武装が強化され、これと激突を繰り返す新三派全学連、革マル派全学連も又法の許される極限までの武装化(「ヘルメット+ゲバ棒」)というスタイルを定着させていった。案外と見落とされがちであるが、このイタチゴッコの中で暴力的土壌が更に醸成されていき、この武装力がやがてセクト間の抗争に向けても使用されるようになるのは時間の問題だった。

 68.6月、日比谷野音で「ベトナム反戦青年学生決起集会」が開かれたが、中核派対「革マル派・社青同解放派連合」という構図での乱闘騒ぎが起こる。全国反戦は以降完全に分裂、三派全学連も実質的に解体することとなった。これは「内ゲバ」史のエポック的な事件であろう。その背景事情は分からないが、中核派対「革マル派・社青同解放派連合」という構図も後の展開から見て奇妙なものがある。思うに、運動的な盛り上がりの中で、どこの党派と云わずセクト的な利害関係を優先していたということではなかろうか。日本的な「党派間ゲバルト」の背景にあるものとして押さえておきたいことであるように思われる。

【「全共闘の創出」について】
 69年になると全国全共闘が結成され運動が頂点に上り詰めていく。9.5日、日比谷野音で3万人を結集させて「全国全共闘会議」が結成された。こうして「70年安保闘争」を担う運動主体が創出された。全国全共闘は、どのセクトとも特別の関係を持たなかった東大全共闘の山本義隆(逮捕執行猶予中)が議長に、日大全共闘の秋田明大が副議長に選出されたことからも明らかなように、ノンセクト・ラディカルのイニシアチブの下に新左翼各派の統一連合的共闘運動として結成されたことに特徴があった。革マル派を除く新左翼八派が参加して全国178大学の全共闘組織、全国の学生約3万4000名が結集した。

 八派セクトは次の通りである。@.中核派(上部団体/革共同全国委)、A.社学同(々/共産主義者同盟)、B.学生解放戦線(々/日本ML主義者同盟)、C.学生インター(々/第四インター日本支部)、D.プロ学同(々/共産主義労働者党)、E.共学同(々/社会主義労働者同盟)、F.反帝学評(々/社青同解放派・革労協)、G.フロント(々/統一社会主義同盟)。 大会は「70年安保粉砕、沖縄闘争勝利」などのスローガンを採択、代々木公園までデモ行進した。

 この全国全共闘運動を「党派闘争」の観点から考察してみることは意義のないことではない。見逃されがちではあるが、第一に、ノンセクト・ラディカルとの共同による左派人民戦線(この場合、学生運動戦線ということに限定されているが)形成の偉大な実験足りえた、ということである。第二に、参加した八派党派間には共同戦線が成立し得る土壌がある、ということが確認できるということである。

【「民青同と革マル派両派の違いと親疎性」について】
 第三に、この動きにアンチの立場にたった民青同と革マル派両派の「特異性」が見て取られねばならないのではなかろうか、ということである。両派の場合、ただ単に運動方針の違いによって左派人民戦線に敵対したということではなくて、組織論において、党派間の共同戦線が成立し得ない構造になっているのではなかろうか。その拠ってくる指示がどの辺りの奥の院から為されているのか、興味深いものがある。いずれにせよ、民青同と革マル派には共通性も多く、表面上対立してはいるものの他党派との非和解的敵対性よりは余程親和的である。このことを指摘する者は少なく、かって構改派も革マル派の特異性を見誤って無駄な努力をしたところであるが、れんだいこはそのように論を立てたい。

 これに更に言及すれば次のように云える。民青同は穏和系運動であるから見過ごされ勝ちであるが、この党派の宗派性もかなり重症であり、右傾化への幅広統一戦線は組めるが左傾化へのそれは断じてあり得ない組織論にさせられている。日共の下請ベルト機関として統制されており、しかも宮顕論理でがんじがらめにさせられている。「民主主義の全般的擁護」を云う割には民主主義精神とはアンチな「排除と恭順の論理」による組織論を内実としている、という矛盾した宗派運動体であることが知られねばならない。異論、異端の存在を許容していくことが近代の民主主義運動の真価であったことを思えば、民青同の特に左派に対するファナティックな「トロツキスト追放論」のエセ性が問われねばならないだろう。

 革マル派の場合も、民青同の「排除の論理による組織論」の替わりにそれに照応する「他党派解体路線による乗り越え組織論」を敷いており、他党派との共同戦線構築の余地はない。というか、運動体同士の競り上げ運動化という観点は更々なく、他党派同士の共同戦線化の動きに対しても警察的な目を持って潰しに掛かるという陰険運動を特質としている。

 つまり、民青同と革マル派の組織論は本質底流でつながっており、いずれも左派運動の盛り上げに敵対する唯我独尊的な宗派運動であり、そういう意味で思想と運動傾向が酷似しているという特徴がある、ということを確認しておくべきではなかろうか。その表面的な対立にも関わらず、70年以降の早大キャンパスにおける両派による二元支配による共存性、それによる左派運動の閉塞化はこのことを物語っているのではなかろうか。

 付言すれば、左派運動内に許容されるのは、創価学会式の釈伏的理論闘争であり、それならむしろ歓迎すべきことではなかろうか。理論闘争が理論闘争に止まらず物理的な抑圧、排除、解体闘争へと進化させることに対して、そこに大いなる飛躍を認めねばならない。そのような権限は誰からも与えられて居らず、にも拘わらずそのような如意棒を振り回す輩には疑惑を持って観ぜねばならないのではなかろうか。日本左派運動にはこの観点が欠落し過ぎている。

【「全共闘対民青同、全共闘対革マル派の抗争、赤軍派の突出」について】
 話を戻して。「70年安保闘争」目前にして全国全共闘運動が誕生したものの、「60年安保闘争」のような労働戦線側からの呼応は生まれなかった。急進主義系の労学運動による機動隊との衝突闘争が繰り返されていたが、この間局面が流動化しつつあり、既に自壊作用も生まれつつあった。ここでは三項目からクローズアップさせてみるが、いずれも「内ゲバ」絡みである。

 一つは、全共闘と民青同とのゲバルトが次第にエスカレートし始め、自治会の執行部取りを廻る対立のみならず、急進主義運動を展開する全共闘とそうはさせじとする穏和系民青同との党派的な抗争が始まっていた。これによれば、いわゆる急進主義系新左翼党派が最初に無限定な暴力を行使したのは民青同に向けてであったということになる。この時民青同も又武装化で応じているが、民青同の日頃の弁明からしてオカシナ現象であり、その考察は意義あることであるが話が拡散するので割愛する。民青同に向けて行使された暴力が、やがて新左翼セクト間の抗争に向けても使用されるようになるのは時間の問題だった。その意味で、68−69−70年における新左翼と民青同間のゲバルト、新左翼諸セクト間のゲバルト事例を資料化しておくことは大事であるように思われる。が、精緻には為されていない。

 「検証内ゲバ」には、「私たちは問うべきだ。このスターリニズムに抗し、それを乗り越えるとして創始された日本の新左翼運動は、なぜ、スターリニズムと同様の反対派へのテロル・内ゲバを横行させることになったのか、と」、概要「唯一前衛党論、一党独裁主義、党内独裁主義、中央集権的官僚主義。ここには民主主義の軽視があり、真の民主主義を実践的・思想的に作り出していくことへの無視がある」とあるが、こう問うのなら、この頃よりの考察が必須ではなかろうか。

 自壊作用の二つ目は、ブント内の分裂に継ぐ分裂から鬼っこ的な赤軍派が創出されたことである。急進主義理論の行き着く先の軍事路線オンリー党派であったが、見逃してならないことは、赤軍派創出過程が「内ゲバ」史であり、69.7月「明治大学で、ブントの拡大中央委員会が開かれているところを、赤軍派の150名が襲撃し、ブント議長・さらぎ徳二氏が重傷を負うという事件を発生させている」。

 9.5日の日比谷野音での「全国全共闘会議」の結成式にも登場し、共産同連合派に対して党派闘争を貫徹、機関紙・赤軍発刊準備号を配布している。この時マスコミは、全国全共闘結成の画期的意義を問うよりも、赤軍派の登場の方を興味本位に取り上げ、かくて赤軍派は一気に時代の寵児となったという胡散臭さがある。

 れんだいこ観点であるが、赤軍派は当人達の主観的意図とは別に客観的な役割は、全国全共闘運動の粘り強い盛り上げに水を差し座標軸をずらす役割しかもたらさなかったという視点が必要で、今日又リバイバルで無原則的に提灯する者があるとすれば、かなり無責任な野次馬性によって為されているとしか思えない。


【「革マル派の撹乱的ゲバルト路線の持ち込み」について】
 自壊作用の三つ目であるが、注目されるべきことはこの頃の革マル派の動きである。「69年初頭の頂上決戦-東大闘争」を目前にしてキャンパスから一夜のうちに逃亡したのは、民青同と革マル派であった。革マル派が怒りを買ったのは、左派系内右翼的な運動を指導していた民青同の逃亡が織り込み済みであったのに対し、東大全共闘の一翼に位置していた同派は、攻防戦の要の位置を先取し、そこを機動隊に明渡し、他派の玉砕方針とは対照的に撤退し勢力温存的に振るまうという挙に出た。そのセクト性が批判を浴びたという経過がある。以降革マル派は、拠点校早稲田においても全共闘から排除されて行った。

 だがしかし、革マル派の真骨頂はここから始まる。69.5月、「早稲田大学で、早大全共闘の学生が革マル派20名を文学部教室に監禁してリンチを加えるという事件が発生している。5.23日、その報復として今度は革マル派が、全共闘の7名の学生を拉致し、9号館地下に連れ込み目隠して集団リンチし、その後トラックに乗せて埼玉県の山林に一人ずつ置き去りにするという報復が為された。最後の1人(20歳)は飯能市の山林に放置され、5.28日、発見されたが足の骨を折っていた。 これまでゲバルトでここまで陰湿で凄惨なものはなく、死者は出なかったものの話題となって左派圏内の深刻な対立が認知されていく契機となった。

 早大全共闘のイニシアチブは政経学部を拠点とする社青同解放派であったことからすれば、この時点で社青同解放派と革マル派が泥沼の党派抗争に入ったことを意味している。結果は、早大社青同解放派の主要幹部が次々とテロられて行き、かくして早大社青同解放派がキャンパスから放逐されることになった。以降早大キャンパスには、革マル派の日常的パトロール隊の監視により、急進主義系他派は一歩も構内へ入れないという事態が続いていくことになる。

 7.6日、第二次ブントが7・6中央委員会開催を召集したところ、会場となった明大和泉校舎で党中央の仏(さらぎ)派と反主流派の赤軍派150名の武闘となり、赤軍派が制圧し、ブント議長・仏(さらぎ)徳二氏を拉致監禁、暴行に及んだ。機動隊が包囲し始め、赤軍派が撤退し始めた時に機動隊が乱入し重症の仏議長を逮捕した。赤軍派が拠点としていた医科歯科大に引き上げようとしたところへ御茶ノ水駅前で張っていた叛旗派系中大全共闘(関東派)が襲撃し、激闘の後、塩見、田宮、望月、物江等を捕捉し、駿河台の中央大1号館3階の経済学部長室に連れ込み度重なるリンチを加えた。2週間後の7.25日、消火用のホースを使って壁伝いに脱出を図る過程で手指を損傷させられていた望月が転落し、新宿区戸塚の大同病院に3人組にタクシーで連れ込まれた。9.29日、急性硬膜下血腫と左側頭部挫創で死亡する。

 9.18日、左翼学生の内ゲバに絡んで初めて死者が出る。中核派の4名が「内ゲバ」で埼玉県大宮市にある芝浦工大大宮校舎2号館の2階から転落、うち埼玉大経済学部学生自治会執行委副委員長の埼玉大経済学部4年の滝沢紀昭(25歳)が死亡、慶応大文学部1年の男子学生(20歳)、芝浦工大化学科2年の男子学生(20歳)が重傷、現場から立ち上がって3号館に入った都立大生(22歳)も重傷を負った。

 11月、東大闘争裁判支援の抗議集会(日比谷野音)で、半数を占めた革マルと反革マル派がゲバルトを起こし、革マル派が武力制圧した。負傷者が双方で十数人発生している。12月、糟谷君人民葬でも、これに参加しようとした革マルと「その資格なし」として認めない中核派間にゲバルトが発生している。翌日、中核派は革マル派を「武装反革命集団=第二民青」と規定し、せん滅宣言を出している。

 良し悪しは別の論として、社青同解放派、中核派は、68−69年闘争の経過で、近づく「70年安保決戦」の前哨戦に我先にと鎬を削りながら総力戦で向かい、激しい武闘を連続させ多数の逮捕者を出し、組織力を弱めていた。特に中核派の逮捕者が多く、11月闘争で更に多数の逮捕者を出していた。逆に革マル派は組織温存的運動指針によりそれほど逮捕者を出さなかったために相対的に組織力が強化されたことになっていた。

 こうした力学関係に立って、この頃革マル派の党利党略的な動きが際立ち始め、「70年安保闘争」目前にして公然ゲバルト時代が幕開けした。「70年安保決戦」を目前にして、革マル派の動きが「他党派解体路線」を満展開し始めたということであるが、これを疑惑しないとすれば、世の中の殆どが許されよう。これを訝らず単に並列で見過ごそうとする論者が幅を利かせているが、全く解せない。訝らないほうがオカシイのではなかろうか。

【「革マル派と社青同解放派、革マル派と中核派との公然ゲバルト時代が幕開け」について】
 かくて、69.12月時点で、革マル派と社青同解放派、革マル派と中核派との公然ゲバルト時代が幕開けした。明らかに「革命的暴力の『新質』的段階への転化」時代であり、従来の質レベルは止揚されていた。それまでの自治会執行部の掌握を廻ってあるいは闘争方針の正邪を廻って小競り合いする段階から、対権力闘争とは別個の地平で党派と党派がお互いの存亡を賭けて相手党派の絶滅を期す時代へ狼煙を挙げたことになる。これが日本新左翼運動に出来した特殊日本的な事象なのか左派運動に付き物の普遍現象なのか、残念ながられんだいこには全体を見渡す見識はない。が、胡散臭い何かがありそうな気がしている。このことを明らかにしない「内ゲバ反対論」に何の意味があるだろうか。

 この公然ゲバルト時代の幕開けが、大きく全共闘運動を混乱させることになった。社青同解放派、中核派両派は、「70年安保闘争」に向かうエネルギーを急遽対革マル派とのゲバルトにも費消せねばならないことになった。全共闘運動と民青同の抗争は折り込み済みであったと思われるが、この革マル派による公然ゲバルト闘争化は不意をつかれた形になった。

 このことをれんだいこは、「戦後学生運動考」の中で次のように記している。
 「私は、ゲバルトの正邪論議以前の問題として、『70年安保闘争』の最中のいよいよこれから本番に向かおうとする時点で党派ゲバルトが発生したことを疑惑している。この時のお互いの論拠が明らかにされていないので一応『仮定』とするが、革マル派が、独特の教義とも言える『他党派解体路線』に基づきこの時期に公然と敵対党派にゲバルトを仕掛けていったのであるとすれば、『安田決戦敵前逃亡事件』と言いこのことと言いあまり質が良くないと思うのが自然であろう。つまり、内ゲバ一般論はオカシイということになる。

 もっとも、 これに安易に憎悪を掻き立てさせられ、社青同解放派、中核派両派が『70年安保闘争』そっちのけでゲバルト抗争に巻き込まれていったとするならば幾分能なしの対応と見る。やはり、こういう前例のない方向において運動路線上の転換を図る場合には、大衆を巻き込んだ『下から討議』を徹底して積み上げねばならないのではなかろうか。その際には事実に基づいた正確な経過の広報が前提にされる。

 なぜこのように思うかというと、この後検討する予定にしている新日和見主義事件の考察の際にも関係してくるからである。この『全党的な討議がない』、『重要な決定に関わる際に公明正大さがない』ということが左翼の致命的な悪しき習慣的組織論に起因している、とみる。補足すれば、大衆討議は、正しさを確信し得る者達だけに可能な路線であると思う。下部構成員あるいはシンパ層まで含めてそれを要求せねばならないとも思う。そういうことができない組織は未だ練られていないと云えるのではなかろうか」。

 そうした結果、「70年安保闘争」前、中、後を通じて革マル派と他党派との関係は抜き差しならない対立へと質の転化が為された。互いの組織の命運を賭けて、「党派間ゲバルト」が交差せずにはおれない一触即発情況に立ち至ったということである。70年を迎えていよいよ本番の「70年安保闘争」の時節がやってきた。各派それなりの取り組みを見せたが、世の中を震撼させた「60年安保闘争」のようなうねりは遂に起こらなかった。

 もし新左翼が有能であれば、「60年安保闘争」の総括を喧喧諤諤したように「70年安保闘争」の総括に向かうべきであったであろう。同時に、この辺りで左派運動内に常態化しエスカレートして止まない暴力的体質を総見直しする叡智を寄せ合うべきであっただろう。運動圏内に何が許され、どこまで許され、何が許されないのか、その為に何を互いが保証し合い、育んで行くべきなのか、こういう問いかけも含めて「70年安保闘争」不発の真因を模索すべきではなかったか。残念ながら、それを呼びかける左派系知識人ないしは各党派の指導者が出なかった。

 この頃既に67−70年過程の昂揚は峠を過ぎつつあった。しかし運動としては一定の規模を維持していた。が、各派の闘争がスケジュール化し始めており、明らかにバブルがはじけた後の余韻としての徴候を示していた。各派はこの差異を的確に捉えることなく、情況の流れるままに任せるという政治党派としてき貧困な見識のままに波間に漂いつつあったのではないのか。恐らくこの頃、セクト的利益の前に拝跪した多忙を極める人士の寄せ集めとなっていたのではなかったか。情況が読めないこの貧困の質がその後の左派運動の数十年を規定し、現に今日まで続いているのではなかろうか。

 こういう貧困の背景にあるものは、活動家の中の左派運動に対する愛情の欠如ではなかろうか。一般に小ブル性と云われるが、これは日本マルクス主義運動の当初から背負う宿アな体質のようなものではないかと思われる。もっとも個々の活動家の真意が奈辺にあるのかまで分かったように云い為すつもりはない。真紅の革命精神がなかったとまでは流石に云えない。云えることは、本来なら左派運動内に蓄積されておるべき教育能力、素養教育が無惨なまでに形成されていないことであり、御意見指南役の不存在であり過ぎることである。

 この貧困が活動家の積み木崩しを招いて消耗させていることを思えば、ヤクザの世界にさえ劣る運動能力でしかないのではなかろうか。という我が左翼内の伝統的情況を冷厳に問う必要があるのではなかろうか。少し云いたい放題の気がするが、誰かが指摘しなければならないことである。

【「中核派による東教大生・革マル派の海老原俊夫氏リンチ死亡事件発生」について】
 安保後のこうした流動局面の最中の8月、「党派間ゲバルト」史を画期する衝撃的な事件が発生する。「中核派による東教大生・革マル派の海老原俊夫氏リンチ死亡事件発生」である。この事件の特異性は、従来のゲバルトの一線を越したリンチ・テロであったことにある。ここに、両派の抗争の根は深くいずれこのような事態の発生が予想されてはいたものの、中核派の方から死に至るリンチ・テロがなされたという歴史的事実が記録されることになった。この事件は、以降この両派が組織を賭けてゲバルトに向かうことになる直接の契機となった点で考察を要する。

 私は挑発に乗せられたとみなしているが、例えそうであったとしても、事は明白なリンチテロ致死事件であり、せめてこれに関してだけでも中核派指導部の自己批判的見解表明が為されなかったことは指導能力上大いに問題があったのではなかろうか。内部では相応に精査されたのであろうが、新左翼運動のエポックを為すリンチテロの重大性を受け止め、相応の責任を負う態度を社会的に示すべきであったのではなかろうか。今から思えば悔やまれる失態であったであろう。この種も含めて理論が現実に追いついていない一例であり、常に大衆に信を問う作法の欠如の典型例であると思われる。

 「検証内ゲバ」では、この時の貴重な情報を次のように開示している。
 「海老原事件の直後、中核派の政治局員である陶山健一氏は、革マル派との調停に動いたと云われている。だが、前年の破防法適用下で本多書記長を獄中に奪われていた中核派指導部は、この事件について正確な政治判断と意思統一を出来なかったのではなかろうか」。

【「革マル派の報復戦と『党派戦争』の幕開け」について】
 この事件後革マル派は直ちに中核派に対する報復行動に入った。8.6日、中核派殲滅戦宣言「同志海老原の死に報いるには、殺人者集団ブクロ中核派の殲滅以外には有りえない」(革マル派声明)、「彼等を一人残らず殲滅し尽くす」(革マル派全学連委員長・洞田勉)の予告通り、8.14日中核派に変装した革マル派数十名が法政大に侵入し、中核派学生を襲撃捕捉し十数人にテロを加えた。この間法政大キャンパスでは、海老原君の遺影を飾る糾弾集会が行われていた。以降、やられたりやり返す際限のない「ゲバルトとテロ」が両派を襲い、憎悪は怨念と化してエスカレートしていくに連れ有能な活動家が次々と失われていくことになった。

 この経過を考証しておくことは意味のあることであるように思われる。元革共同両派の近親憎悪の故にというべきか骨肉の争いが演ぜられ、日本左翼運動史上類例のない「相手党派の絶滅解体闘争」が本格的に開始された。まずはこの経過の資料化と、この過程で一層際立った両派の特質の確認をしておくことが有益と思われる。実際には、社青同解放派もこれに巻き込まれており、同派の場合更に分派間でも同様の「ゲバルトとテロ」を展開していくことになった。

 この間、上記以外の諸党派は無関心を装うか、「内ゲバ反対」を強弱あるものの呼びかけつつ自前の党派運動に没頭した。とはいえ、そうした系譜の党派が大衆的な支持を得てその後の左派運動をリードする潮流を生み出した訳でもない。戦後左派運動は、ブントの60年安保闘争で見せた情況こじあけ能力以来、その名に値する昂揚を見せていない。このことは何を物語っているのであろうか。「党派闘争」の原則と在り方の理論的解明が要請されている折に、そこから逃げ出した形で自前の運動作りをしようとしても、大衆はそれ自体をも胡散臭く感じ取り、賢明にも見向きもしないということではなかろうか。こうした全体相関図を見据えて総合的な批判的検証をしない限り、「内ゲバの検証」と云ってみても空疎にしかならないであろう。




(私論.私見)