転向を促した左派の組織的運動的土壌の検証 |
(最新見直し2005.11.13日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
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(学習中) 掲示板に感想を残していただけるとありがたいです。 1998年度卒業論文 転向論の再構築〜戦前日本共産党における組織と個人〜 |
【隷従型組織論】 |
当時の共産党では自発性を抑圧するような構造がつくられてしまっていた。栗原氏(1977年)は次のように述べている。銀行ギャング事件を直接実行した党員・中村経一の事例があげ、中村が銀行ギャングのような仕事を急に割り振られたことに抗議し、命令に服従できない旨を告げたこと。しかし、結局、共産党の命令だということで押し切られ、最後には「どうせやるなら男らしくやろうと決心」した過程を検証し、「ここには大局を見渡して政治的な判断をするという姿勢はまったくなく、そのかわりに、宮内が指摘した『任務への献身』という心情と『あまりに技術的』な行動様式とが、いかに若い党員をとらえていたかが示されている。中村はこの時、入党してわずか二ヶ月余りの二十二歳の青年であったが、彼の上部にいた大塚有章や久喜勝一などベテラン党員の場合も同様であった」。 こうした党員たちの自主的な判断を放棄した「献身」は、「入口」の問題が大きく影響していることは言うまでもない。松沢弘陽(1960年)は、入党時の契約的な双務性のなさと、入党後の「絶対的服従」、共産党という「絶対的な価値の体現者に対する自己否定的な献身」を指摘している。こうした傾向は共産党に集まる個々人の「被組織待望の心理」(松沢弘陽)にその原因を求められるかもしれないが、それを否定しないどころか助長し最大限に利用することが、当時の「運動」であったところに、大きな問題がある。 |
【「ブルジョア民主主義」への軽蔑】 |
党員たちの自発性・主体性を抑圧する構造を生んだ大きな要因として、戦前日本共産党に民主主義への蔑視が巣くっていたという点が指摘できる。伊藤晃の『天皇制と社会主義』(1988年)は、民主主義への軽蔑が、福本イズムのみならずその前の山川イズムの時点から続く戦前日本共産党の「伝統」であったことを鋭く分析している。 伊藤晃の『天皇制と社会主義』(1988年)はこうも云う。概要「もっとも、山川の「ブルジョア・デモクラシー」批判は必ずしも「ブルジョア・デモクラシー」を全否定するものではなかった。彼はプロレタリアートが正面から天皇制と闘うことは無理だと判断して、その代わりに「ブルジョア・デモクラシー」を向かわせようとしたのではないか。「つまり山川は、天皇制の敵対者であるはずの民本主義をうしろから追い立てて、権力の正面に向かわせようとしたのである。民本主義批判は、山川にとっては、間接的・迂回的な反天皇制闘争だったことになる」。 そしてこう云う。概要「こうした発想は、民主主義を軽視するセクト主義を生む元凶となった。だが、山川の本心がどうであろうと、ここで一番大事な問題は、彼の発言に影響された社会主義者たちが、天皇制との闘争を無視するのみならず、その具体的内容をなすべき大衆的な民主主義運動の一つ一つを、プロレタリアートにとって歴史的に一段階前の軽蔑すべきものとみなす空気を作りだしたことである。けれどもよく見れば、その急進主義が天皇制による閉塞を実際になくしていったわけではない。それは、観念の中でデモクラシーを歴史的後方に追いやる急進的外見をもちながら、本質はたんなる日和見主義である」。 では福本和夫においては民主主義はどう扱われたのだろうか。概要「福本もまた、プロレタリアートはプロレタリアートであるがゆえにすでに民主主義的な階級である、という考えを疑っていなかったように見える。こういう立場からは、プロレタリアート自身が首尾一貫した民主主義的党派でなければならず、民主主義を自分たちに固有の価値体系また組織形態として建設しなければならない、という考えは生れない。のちに福本は、彼がもっぱら民主主義革命を提唱したのだという『誤解』を振り払うことに非常に執心している。それは彼自身が社会主義の立場からする民主主義への軽蔑を、活動家たち、さらには山川均をはじめ古い指導者たちと共有していたからにほかならない」。 こうした傾向は必ずしも日本独自のものではなかったかもしれない。当時のコミンテルンの「ブルジョア民主主」批判のレベルもそうであった。 伊藤氏は(1988年)指摘している。概要「そして実際、山川イズムも福本イズムも批判された27年テーゼ後の共産党の側からなされた反天皇制闘争の理論づけ」について整理したときにおいても、第一に目につくのは、民主主義への軽視あるいは敵意が少しも衰えていないことである」。32年テーゼにおいてもこうしたブルジョア民主主義の位置づけは基本的には変化しない。こうした理論的傾向が党内にはどのような形で現れたか。 こうして、戦前日本共産党の中には民主主義を実現しようという意欲も育たなければ、民主主義について真剣に考える契機もなくなってしまった。 山辺健太郎(1976年)もこう証言している。「日本の共産主義者が民主主義的な権利の侵害に対してほとんど闘争しなかったということ、要するに民主主義革命とかいいながら、民主主義がわかっていなかったことは否定できません。権利の侵害も、あたりまえのように考えているんです」。 もちろん組織体制として、「民主主義的集権主義」(通称「民主集中制」)と呼ばれるものは目指された。その原則は「大衆の中にあり、そして党の組織員たる一般党員の意見と欲求は、正しく党の機関に反映され、中央に集中される。統一された中央部の意向は党の末端まで徹底され、党員を通じて大衆の間に伝播される」。しかし、それを具体的に実現するためには、「一、党の根本方針及党の一切の生活は、党員全体の意志、即ち党員総会又は大会に於て決定される/二、党の生活に必要なる一切の機関は党員の意志に基づき選挙によって作られる/三、……」などといったことが必要であった[山辺編1964:109]。しかし、これらは弾圧その他の事情から決して実現されることはなかった。 つまり、ハウスキーパーを生んだ条件である共産党の深まる地下活動化は、今度はハウスキーパーを存続させる条件である「民主主義蔑視」へと連続していたことがわかる。 |
【「プチブル的」という非難】 |
先ほど引用した論文の中で山川は、共産党「エロ班」と呼ばれる部署が美人局などの活動を行ったという報道について、「仮にこの報道が事実だとすれば」と前置きして、「党の名を汚す最も重大な裏切的行為」「売淫は階級的裏切りとして厳罰に価する」と批判する。そしてそれらの実行者について、こう書く。「いかに幹部の命令とはいへ、これほど××[松井註:共産]主義の目的と相反する行為を引うけるような女は、どうせ人間としての屑である。××主義の×の字一つ知らずとも、卑しくも人間としての自覚の片はしでもある女なら、かゝる恥知らずの理不尽な命令には、断固として反対したに違いない。」[ibid:87] もちろんこのように「断固として反対した」女性は存在したかもしれない。しかし、ハウスキーパーに関していえば、少なくない女性党員がそれを受け入れたであろうことも事実なのだ。前章で紹介した「美人局」をさせられそうになり逃げ出した場合も「逃げ出したことなど報告すれば、どんなに批判されるかわからないから、このことは上部には報告しないでおきました」と証言している[牧瀬1976:91]。彼女たちは、文句を言えば批判されるだけだと諦め始めから声をあげることを断念させられたのだ。こうした組織の中の民主主義蔑視を党員個人に内面化する「呪文」として「プチブル的(小ブルジョア的)」という単語が多用されたのである。 もちろん、「プチブル的」という非難はその内容が曖昧であり、後に触れる佐野・鍋山転向声明書においては、今度が当時の共産党自体の傾向を批判する単語して多用される[福永1978:30]。しかし語の内容が曖昧であるが故に、共産党の命令に対する疑問を、それがたとえわずかなものであっても、抑圧するのに非常に効果を発揮した。 そして、党員を使用する側も、この「プチブル的」という非難を積極的に利用したと思われる。通称「女子学連」といわれる共産党に近かった女子大生グループは、学生運動としては発展せず、むしろハウスキーパーの「養成所」になっていった。その原因の一つとして、福永操は「学生運動の最高の指導権をにぎっていた共産党が、『二七年テーゼ』以後は学生を『小ブル』と蔑視的に規定して、非合法共産党のために資金を集めて奉納したり、末端の技術要因(非合法印刷や配布など)を提供する以外に意義をもたない存在であるかのように軽蔑していた」と述べ、ハウスキーパーが「新聞の三面記事の好題目にされ」たときには「共産党の男幹部の大部分は、そのような女たちに同情をよせるどころか、それが『小ブル女ども』にたいする分相応の待遇であるかのような軽蔑の態度で、ふりむきもしなかった」と批判している[福永1982:221-222]。 |
【女性蔑視】 |
しかし、仮に地下活動化という前提があり、民主主義蔑視などの条件がそろったからといって、ハウスキーパーという制度が必然的に実行に移されるわけではないだろう。福永操も指摘するように、「非合法活動であっても、本当にどの程度の必要性があったのか」、ということが考えられる必要がある。ところが戦前だけでなく戦後においても、ハウスキーパー制度の必要性について議論したものは出ていないようだ。だとすれば、それは「必要」だったからというよりもある程度「自然」に出てきたのではないか。ならば、ここで当時の共産党を支配していたその「自然」について考える必要があるだろう。その「自然」とはすなわち女性蔑視である。 要するに「鳥羽」こと岩田義道は、この必死の訴えを全く無視したのである。それは単に下部党員の意見だったからだろうか。そうではなくて、女性のこのような訴えは「笑ひながら打ち捨てゝお」くような性質のものだと思ったからではないだろうか。 また、第二次共産党初期の幹部たちが、アジトや会合などの場所として「待合」を頻繁に利用していたことはよく知られている。「待合」とは、客が芸者を呼び入れて遊興にふける場所であった。渡辺政之輔や三田村四郎、鍋山貞親などは、この「待合」を、党の金を使って、頻繁に利用したという[立花1978→1983a:289-292]。事実、鍋山と三田村は四・一六後直後に「待合」にいるところを検挙されている。 |
(私論.私見)
これを踏まえて次のように云う。「こうした実際以上の共産党への期待は、いわば虚像というべきであろう。そしてその虚像は、共産党以外は反動であり敵であるという論理を許し、またその論理がこの虚像を拡大した。そもそも戦前日本共産党は大正デモクラシーの『ブルジョア民主主義』を罵倒し、アナーキズムを批判し、社会民主主義を『社会ファシズム』として攻撃するというセクト性を強くもっていた。当時共産主義は、最高の真にして善の思想体系だと(一定の人々に)考えられていた。そしてそれを体現するのは共産党だけであり、党を離れた共産主義者は存在しえないと考えられた(松沢1960年)。だから多くの人たちが共産党に参加しようとしたし、共産党から批判された人々も共産党に対して何らかの引け目なり敬意を感じていたようだ。たとえば共産党の方針に逆らって新労農党を再建した大山郁夫は、共産党から『裏切り者』として激しい批判を浴びるが、それでも『日本共産党に対する大衆の信頼を傷つけたくなかった』ために、共産党に対する批判を口にすることはなかった(田部井1956年)」。
「こうした雰囲気の中では、日本共産党に対するオルタナティヴは育ちにくかった。実際にはそこまでの力量をもてなかったにも関わらず、共産党は『唯一の前衛』として振る舞い、周囲もそれを期待する。その結果、少しでも共産党と違う立場の違う集団は、ブルジョアの手先として排撃対象になるだけなのであった」。
史実は、そういう立場の頂点に居た党中央の幹部級が雪崩を打つように転向に走ることになった。これに対し、石堂清倫氏は、「『転向』中央部の方針にたいする具体的なオルタナティブがあったならば、あんなに大衆的な集団的転向は出なくて済んだかもしれない思います」(1983年)と述べている。
これに対し、「転向論の再構築」氏は云う。「もちろん石堂の主張は、獄内転向幹部に対して、獄外の党中央が具体的で説得力のある反論を提示できればよかった、ということであるが、この石堂の問題提起を共産党外に広げてみても同じことが言えるのではないだろうか。もし共産党のみが唯一の正義だという風潮が支配的ではなく、共産党と同等かそれ以上に魅力あるオルタナティヴが存在しえたならば、仮に共産党からの転向者(共産党から離脱する人々)の絶対量は同じでも、あんなに一度に大量に転向するような現象は起こらなかったのではないだろうか。たとえば労農派が、場合によっては「解党派」(「労働者派」)が、当時の人々にとって、共産党との絶対的な敵対関係ではなく可能な選択肢として存在できていれば、共産党を離れた途端に全ての運動に関わらなくなったり、国家の片棒を担ぐ活動へと急激に立場を変える必要はなかったと思われる。『輝ける共産党指導者』が道を踏み外しただけで、人々がすがるものを全くなくしてしまったということ、この構造それ自体に大きな問題があったといえるだろう。そしてこの構造は、前章までで述べてきたように、転向する以外に共産党中央の政策を批判することが難しかったという共産党の組織風土の問題と密接に関連しているのである」。
更に云う。「こうしたオルタナティヴのなさは、戦後の共産党観にも大きな影響を与えていると思われる。社会全体が翼賛体制に流され、反ファシズム勢力が完敗したのは、『大量転向』現象で共産党が完全に壊滅したからである、という議論がある。これは、『大量転向』のみに壊滅の原因を帰すのでなければ当たっている面も大きいだろう。しかし、こうした議論には解放の担い手としての共産党にのみ期待する、という側面が含まれているのではないだろうか。
戦後、日本共産党は、『獄中非転向』」の幹部を中心に再建された。そのため共産党の非転向神話が生まれた。非転向神話は『非転向者』たちに対する必要以上の尊敬を生むと同時に、その裏返しとして転向者たちを必要以上に貶める結果となった。そして、『完敗』の責任も、転向という『裏切り』の責任にさせられてしまうのである。
1章で確認したとおり、近代文学派も、吉本隆明も、思想の科学研究会も、どのような批判の仕方をしようとも、共産党自身の転向論(「非転向神話」)を議論の相手とみたてて転向論を展開したと言える。その結果、これらの転向論は、最初に共産党が設定した転向論の枠組みを否定し切れていない印象がある。つまり、『大量転向』を主因とした共産党の壊滅が、日本のファシズムを許したのだという議論の前提である。そこではやはり共産党の像は巨大であり、他の組織は見えなくなっていると言わざるをえない。
伊藤晃はこう指摘する。「日本の人民戦線運動なるものが展開されたときにはすでに共産党がなかった。だからこの運動においても古い党の無能を人びとが知る機会は与えられなかった。そこですでに存在しない共産党がやはり権威として人びとの心に残ったのである。」(伊藤1995)。
歴史的事実からいえば、「完敗」状態から「解放」されるには、日本国の連合国に対する敗戦を待たねばならなかった。もし、戦争中、共産党壊滅後にも、日本の中に反体制勢力が存在し、「パルチザン」や「レジスタンス」のように「解放」の一助となっていたら、戦後はその勢力に信頼が集まり、共産党の存在自体が相対化され、「大量転向」の負のインパクトも小さく感じられたことであろう。だが、現実にはそのようなことは起こらなかった。こうした「完敗」の歴史的事実は、共産党員の転向の責任を大きく見せたと思われる。