「転向文学」考 |
(最新見直し2007.5.3日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、転向文学、その論考について確認しておく。 |
【転向文学について】 |
1933年の佐野学と鍋山貞親の共同署名による転向声明が獄中から発表され、同年『改造』7月号に「共同被告同志に告ぐる書」として掲載された。それを皮ぎりにプロレタリア学者たちも次々に転向し、高見順の場合のように、運動から離れる「手記」(1933.2月)を書いて保釈されるケースをはじめとして 1934年にはいわゆる「転向文学」が登場してくる。その多くが私小説の形をとった。 主なものに村山知義「白夜」(『中央公論』五月号)、「帰郷」(『改造』七月号)、島木健作「癩」(『文学評論』四月号)、藤沢桓夫「世紀病」(『中央公論』二月号)、窪川鶴次郎「風雲」(『中央公論』一一月号)、徳永直「冬枯れ」(『中央公論』一二月号)などである。翌年は中野も一連の転向小説を発表し、「第一章」(『中央公論』三五年一月号)、「鈴木・都山・八十島」(『文藝』三五年四月号)、「村の家」(『経済往来』三五年五月号)、「一つの小さい記録」(『中央公論』三六年一月号)、「小説の書けぬ小説家」(『改造』三六年一月号)らがそうである。 転向の理由は各個人様々で、家庭愛、拘束からくる反省や、教誨師の影響、健康からの理由などが挙げられる。本多が「転向と狂気とは、もともとどこかに関係があるためなのか、中野も、村山も、島木も、転向の過程に発狂の恐怖を書き入れていた。」と指摘し、長い投獄生活においては、社会と疎外される事、民衆、同志からの連帯感を失うことが狂気につながるのか、いずれにしても内的な、はっきり言えば以前から党の活動に疑問を抱いていたことが上部の崩れによってこの時一気に露出したことも原因の一つではないかと見る。 |
【弾圧の実態と恐怖】 |
まず、当時の弾圧の様子を見ておく。川口 奈央子氏の「『文学者に就いて』について」 村の家からみる転向」」を参照すると、「1934.3月は日本プロレタリア文化連盟(コップ)の大弾圧・検挙があった年で、中野重治をはじめ、窪川鶴次郎、村山知義、壷井繁治、中条百合子、山田清三郎ら多くのプロ文学者が逮捕された。その約二年後、彼等の大半の者は転向し出獄している」、「中野も日本共産党員であったことを認め、今後共産主義活動に加わらないことを誓いーこれが当時の転向の条件であったー出獄している。懲役二年執行猶予五年の判決を受けて出所。
なおこの時上申書と父親の謝罪が必要であった」とある。 れんだいこから見れば、これは止むを得なかった「応法」対応では無かろうか。もし完黙を貫き、非転向を意思表明すれば、小林多喜二のような虐殺が待ち受けていたであろう。宮顕は、「こいにつには何を云っても無駄だ」と特高があきらめ拷問の手が緩められたことを誇っているが、そういうことは有り得る筈が無い。この論理は、虐殺に倒れた同志に対する侮辱以外の何ものでも無かろう。 これにつき、当時の転向の様子を本多秋五は、「転向文学論」(1954年、猪野謙二編「岩波講座文学」第五巻)の中で、「佐野、鍋山の転向ゃ、獄中生活の苦痛や日本国家による圧迫なしにも、不可避的に、声明書のような内容をもちえ たかどうか疑問で、耳を覆って鈴をぬすむ背教者の仕業とみるのが、当時もいまも変らぬ健全な常識であろうと思う」、「最大の原因は、いうまでもなく外的強制にあった。外的強制というなかには、検挙・投獄・拷問だけでなく、最悪の場合には死刑をも覚悟せねばならなかった治安維持法改悪の恐怖もあった」と述べている。これが素直な観点となるべきだろう。但し、物足りない面があり「反面の真理」ということにしたい。 「月刊『正論』」(2002.11月号)の浜本兵吉氏の「日本共産党の戦後秘史」に次のような記述がある。「日本共産党の正史によると、戦前の日本共産党員は、絶対主義的天皇制の圧制の下、特高警察の言語同断の弾圧・拷問に屈せず、不撓不屈のたたかいを展開したとくりかえし強調される。『アカ弁』という言葉がある。日本弁護士会に所属する共産党員または共産党系の弁護士のことである。この『アカ弁』のリーダーの一人に、共産党の衆議院議員で青柳盛雄という人がいた。長野県(信州)の出身で、正直で実直、竹を割ったような性格でずけずけと歯に衣を着せぬものの言い方をするひとだった。 彼が、確か日本共産党の党史が発表された時だったと思うが、当時国会秘書をしていた私に、『戦前の日本共産党員が、特高警察に反対して不屈にたたかったなどという文章を読むと私なんかは恥ずかしくて顔が赤くなってくるよ』といったことがある。私は意外に思って聞き返すと、『だれそれが逮捕されたという連絡がきて、警察へかけつけていく。せめて私が警察につくまでは頑張って欲しい、そう思って警察につくと、もうなにもかもしゃべったあとだった。いつもそうだったなあ』という」。これが実際だったのではなかろうか。 |
【転向を生み出した土壌について】 |
佐野・鍋山の転向声明をきっかけとして転向が相継いだ。声明は、それまでの党運動の欠陥を鋭くついていた面と「日本の皇室の連綿たる歴史的存続」を賛美する両面から構成されていた。最高指導者である彼等の転向は、党員に衝撃と不信の念をもたらした。思想ではなく権威が崩れたことによって、紐がほどけるように上部から瓦解していくことになった。 伊藤晃氏は、「転向と天皇制」(1995.10月・頸草社)で、当時の大量転向を 「権威が崩れたときに思想の欠如が人々に意識され(後略)」、「自分は裏切られたという不信感は、昔から上部依存のこの党には当然予想されたことだが、さらに踏み止まろうという人びとへの思想的援助がなかったことも、敗北感をいっそう強めるはずである」と指摘している。 石堂清倫氏は、「中野重治と社会主義」(1991年、頸草社)で、概要「それらにとって変わる思想が存在せず、自らも作ることができず、日本においてのマルキシズムが一つの運動ではなく『一つの状態』」であったと指摘している。 戦前、非合法化された共産党は、プロレタリア作家同盟を、党活動ための合法的な組織、いわば一種の隠れ簑として利用しようとした。そのため、作家同盟は警察の厳しい監視と取り締まりの対象となった。転向はその必然的結果であったが、それは外的理由であろう。 しかし、それだけに止まらず、何等かの内的な、転向へと導く思想の流れの変換があったはずである。内的理由として、作家同盟のなかの党員文学者と党員でない文学者の間に権力主義的な上下関係が出来てしまった結果、自分が党員であることをほのめかしながら権威主義的に振る舞う文学者に対して、党員でない文学者の間に反感や反発が生まれていた。しかも、党員文学者が指導的な立場から、同盟員に対して、政治目標のテーマ化を要求し、「階級的必要の観点」という創作方法論を掲げて、題材の取り上げ方から人間の描き方に至るまで厳しい注文をつけてきた。そういう制約のために創作活動の行き詰まりを感じた、一般の作家同盟文学者の何人かは、もっと主体的で、自由な創作活動を求め始めた。それに対して、右翼的偏向とか小ブルジョア的怯懦(きょうだ)とかいうレッテルを貼るだけで、あとは公式的な創作理論を押しつけることしかできなかった。そのような軋轢が重なって作家同盟から離れる文学者が相継ぎ、作家同盟は先細り状態となって、1934年2月、解散する。ここにも転向要因があったのではないか。 |
【転向文学者のその後の軌跡、「応法」の様子】 |
さて、問題は次のことにある。当時検挙されたプロレタリア文学者は、党中央の転向声明を契機として雪崩を打って転向していった。転向派は、「応法」対応で合理化すれば良いものを多様な生態を見せている。この時、如何なる風に合理化したか。 反転して当局派へと転身し、日本の侵略戦争を積極的に合理化し、推進しようとし始めた。林房雄や亀井勝一郎は、転向後その方向へ進んでいった文学者であった。 忸怩たる思いを持った転向派は次のような内面心理を吐露している。 一つの極論は、「道義的敗北論」であった。「道義的なものを見る。もちろん自分が一度抱いた信念を守りえないことは汚辱・恥には違いない」とか「文学者といえども、政治的節操を守っていいし、守らなければならぬことは言うまでもない」(貴司山治)、「彼等は転向せずに其々の如く死ぬべきである」論があったようである(板垣直子の「文学の新動向」 、一九三四年九月『行動』)。 しかし、これはやはり暴論であろう。「美学」的には理解されるが、運動論上に益するものは何も無かろう。 内面世界に沈潜するグループをも生み出していた。中野重治は、転向後その方向へ進んでいった文学者であった。中野重治は、1934年5月東京控訴院法廷で、日本共産党員であった事を認め、共産主義運動から身を退く事を約束して、執行猶予の判決を受けて即日出所した。その時の心境と転向者としての自分の位置を、「『文学者に就いて』について」の中で次のように述べている。「弱気を出したが最後僕らは、死に別れた小林の生きかえってくることを恐れはじめねばならなくなり、そのことで彼を殺したものを作家として支えねばならなくなるのである。僕が革命の党を裏切りそれに対する人民の信頼を裏切つたという事実は未来にわたって消えないのである。それだから僕は、あるいは僕らは、作家としての新生の道を第一主義的生活と制作とより以外のところにはおけないのである。もし僕らが、みずから呼んだ降伏の恥の社会的個人的要因の錯綜を文学的錯合のなかへ肉づけすることで、文学作品として打ちだした自己批判を通して日本の革命運動の伝統的批判に加われたならば、僕らは、そのときも過去は過去としてあるのではあるが、その消えぬ痣を頬に浮かべたまま人間および作家として第一義の道を進めるのである」。 更に、「村の家」(中野重治、一九三五年五月『経済往来』)で、その消えぬ痣として中野に残っている転向問答を次のように語っている。共産党員であった主人公の勉次は転向し出獄した後、父と母のいる村の家に帰る。そこは相変わらず古い封建制度の残っている社会である。この村全体が古い封建主義の象徴として構図されており、父と母に一般的な民衆の姿が反映されている。勉次は、他のインテリゲンチャ系共産党員と同様に、実際の農民、民衆の姿を村で暮らすことによって皮肉にもやっと本当の民衆の生活に触れることができる。 この時、共産主義運動に関わった息子の更正につき、親子で次のような会話をしている。父母はどちらも伝統的価値観の只中にあるが鮮やかな対比を見せている。 母はなぜ共産党員になったか、天皇陛下に弓を引くようなことをするのかとにかく「すべてがよくわからぬらしい」姿で描かれている。(しかし彼等が運動の対象に扱ってきた、といえば聞こえはわるいが、民衆の大部分がこの様であったのではないか) 父は一応思想的には理解しているが、「お前が捕まったと聞いた時から、お前は死んでくるものだとして、処理してきた。それが転向と聞いて、びっくりした。それでは革命などと書いたことは、全て遊びだったという事になるではないか?」と言われて返す言葉が無い。 「革命だ!と口にしたからには、命を懸けてそれを守れ!」と言われて、それに反論できる正当性がどこにも無かった(この自覚こそが、中野重治が尊敬されるところとなっている。いわば「自己否定のまじめさ」のようなもの)。親父は、「 それがいいか悪いかではなく一度信じたものは貫き通さねばならぬ」、「お前らア人の子を殺いて、殺いたよりかまだ悪いんじゃ」と語り、当時の左派の運動の底の浅さを叱責する。 いわば“裏切り者”に対する視線を投げつけられた勉次は苦悶する。二様の民衆論理を投げかけられて、勉次の生き方が問われる。 内的には自分の思想を捨てていないが、それが外的にはどういうふうにしろ「転向」という形を取った。何を同言っても嘘、いいわけになるが、それでも筆を捨てたが最後、戦いを放棄してしまう。勉次は出獄して「タノミとツネの前で手をついて頭を下げた。しかし、何を、なぜ謝るのかはいえなかった」。ここは重要な箇所である。この頭を下げるのは自分への屈服、または弱さ、を表している。タミノは同志であり、他人ではなく共産党員であった自分の姿でもある。しかし父には頭を下げない。最後の「それでも書いていきたいと思います」は残された唯一の抵抗だった。 この中野について石堂清倫氏(1991年)が次ののように「救出」している。「中野は『転向』によって、一つの妥協と後退にふみ切った。彼は正面肉迫戦を断念して、迂回しながら敵の本陣に接近しようとした。逆に言えば、そうするために『転向』した。彼は『転向』によっていくつかのものを棄てたが、目標を見失うことなく、それに到達する文学的手段はけっして捨てなかった。中野の『転向』を責める人はそのところに目をとざしている」。 この事実をどうとらえるか。『近代文学』のグループ、特に平野謙、荒正人はこれを取り上げた。「あのように大量の転向者を生み、積極的な戦争協力者を生んだ理由は、ただ単に国家権力の弾圧というだけでは説明できない。プロレタリア作家同盟の組織のあり方と運動方針、そして創作方法にも原因があったのではないか〉という問題意識によって再検討に取りかかった」。 |
【戦後の転向文学者の自己批評の欠落】 |
戦後文学において「戦争責任文学」とでも云える流れの中で、概要「高見順や武田泰淳の作品には、ごくわずかながらも自己批評の萌芽が見られないでもないが、自分たちが植民地支配した土地や、軍事占領をした土地で何をし、何を残してきたかを、全体的に総括してみようとする動きも見られなかった。これは戦後の文学、あるいは文学研究の大きな欠落部分ではないか」(1970年5月の「他民族体験と文学非力説」)と批判されている。 |
【吉本氏による花田清輝批判】 |
「この世界には、本質的に経済社会構成のなかに疎外があり、人民と支配者のあいだに矛盾と対立があり、それを止揚する課題は、ソ連圏も米国圏をもとらえてはなしはしない。これをわすれて、リアル・ポテンシャルを気取つている連中は、人民の味方のような顔をして、いつ、敵に転化するかわからない。もっ とも、花田清輝などは、敵としても堕落した敵で、戦争中、諸君、祖国のために死んでくれ、わたしもあとからゆく!などと、われわれの世代の青年を特攻 攻撃にかりたてながら、じぶんは買だめ物資を飛行機につみこんで、逃げかえつた将軍とさして変りばえもしまいが」 (「転向ファシストの詭弁」1959.9「近代文学」に掲載 「異端と正系−芸術的大衆化論の否定」1960.5現代思潮社に収録された)。 |
【本多秋五の「転向論」】 |
戦後を代表する文芸評論家の一人で雑誌「近代文学」の最後の創刊同人・本多秋五氏は2001.1.13日逝去した(享年92歳)。本多氏の履歴は次の通り。愛知県生まれ。1932年東大国文科卒業後、プロレタリア科学研究所に入り、「文芸史研究の方法に就いて」を発表した。翌年治安維持法で検挙され、逓信省などを経て、戦時中はトルストイ研究に打ち込んだ。戦後、平野謙、埴谷雄高、荒正人、佐々木基一、山室静、小田切秀雄と創刊した「近代文学」で中軸となって活動。1946年1月の創刊号に「芸術 歴史 人間」を書いた。
1947年「『戦争と平和』論」。『「戦争と平和」論』は、戦争による死を覚悟した遺書として書かれた。この遺書という性格は、竹内好の『魯迅』、武田泰淳の『司馬遷』、丸山真男の『日本政治思想史研究』にまとめられた諸論文、そして花田清輝の『自明の理』や埴谷雄高の『不合理ゆえに吾信ず』まで、戦争末期にいわば日本の近代文学、近代思想の「最後の言葉」として書かれた著作に共通している。これらの戦後の思想・文学の基層を形成することになった著作は、けっして戦後を予見して書かれたものではない。 69〜79年、明治大教授。他の主な著書に「『白樺』派の文学」「宮本百合子論」など。99年には「本多秋五全集」(全16巻・別巻1)が完結、息の長い評論活動で文壇に存在感を示した。 文芸評論家、川村湊さんの話 「近代文学」に集まった文学者たちの中では、地味ですが底支えのような存在でした。ヒューマニズムの立場から、戦前の日本の社会体制を批判し、トルストイを丹念に読み、日本の文学史を考えるといった仕事をされました。 |
【吉本隆明の「転向論」】 |
転向問題については、1958年、吉本隆明が「転向論」(1958.11月「現代批評1号」に掲載 「芸術的抵抗と挫折」1959.2月未来社に収録された)を書いて、新しい展開を与えました。彼は日本のマルクス主義を日本的な近代主義の一つととらえ、転向の発生理由を次のように解析した。「転向とはなにを意味するかは、明瞭である。それは、日本の近代社会の構造 を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思考転換をさしている」。 つまり、マルクス主義をも含む日本的近代主義が「日本の近代社会の構造 を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなった」ことから、大衆から孤立し、土着の思想と有効に対決し得ず、その結果発生した思考変換が転向の要因であると見抜いた。その視点から見れば、戦争中の獄中非転向もまた近代主義の一形態だったことになります。 彼の視点は転向論だけでなく、日本の近代に関する新しい見方を作り出すほどの大きな影響をもたらしました。また彼の視点に立てば、野間宏の『暗い絵』の学生運動家たちはいずれも大衆から孤立していたこと、主人公の自己完成というテーマもその裏側に大衆嫌悪・大衆蔑視を潜めた、孤立した自我の願望にすぎなかったことは明らかでしょう。 吉本隆明は、更に云う。「日本的転向の外的条件のうち、権力の強制、圧迫というものが、とびぬけて大きな要因であったとは、かんがえない。むしろ、大衆からの孤立(感)が最大の条件であったとするのが私の転向論のアクシスである。生きて生虜の耻し めをうけず、という思想が徹底してたたきこまれた軍国主義下では、名もない 庶民もまた、敵虜となるよりも死を択ぶという行動を原則としえたのは、(あ るいは捕虜を耻辱としたのは)、連帯意識があるとき人間がいかに強くなりえ、 孤立感にさらされたとき、いかにつまずきやすいかを証しているのだ」と指摘している。 この吉本氏の見方は、本多秋五氏の「転向文学論」の当局の弾圧要因説の空漠を撃っている。「わたしは弾圧と転向とは区別しなければならないとおもうし、内発的な意志がなければ、どのような見解もつくりあげることはできない、とかんがえるから、佐野、鍋山の声明書発表の外的条件と、そこにもりこまれた見解とは、区別しうるものだ、という見地をとりたい」としている。 吉本氏は、1959年(昭和34年)「過去についての自註」(1959.2月「初期ノート」)で、「わたしの思想の方法」として次のように述べているのも注目される。「すべての思想体験の経路は、どんなつまらぬものでも、捨てるものでも秘匿 すべきものでもない。それは包括され、止揚されるべきものとして存在する。 もし、わたしに思想の方法があるとすれば、世のイデオローグたちが、体験的思想を捨てたり、秘匿したりすることで現実的『立場』を得たと信じているのにたいし、わたしが、それを捨てずに包括してきた、ということのなかにある。 それは、必然的に世のイデオローグたちの思想的投機と、わたしの思想的寄与 とを、あるばあいには無限遠点に遠ざけ、あるばあいには至近距離にちかずけ る。かれらは、『立場』によって揺れうごき、わたしは、現実によってのみ揺 れうごく。わたしが、とにかく無二の時代的な思想の根拠をじぶんのなかに感 ずるとき、かれらは死滅した『立場』の名にかわる。かれらがその『立場』を強調するとき、わたしは単独者に視える。しかし、勿論、わたしのほうが無形の組織者であり、無形の多数者であり、確乎たる『現実』そのものである」。 |
(私論.私見)