れんだいこ転向論の構図と「転向に対する政治的総括」

 (最新見直し2007.1.8日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、れんだいこ転向論の構図と「転向に対する政治的総括」をしておく。


【「れんだいこ転向論の構図」いわゆる転向問題考その1、これまでの転向論の非生産性考】
 既に次のように述べた。いわゆる「転向問題」を分かったように「解決済み」的態度で論ずるエセイストを厳しく批判せねばならない。思想的な面で、戦後の左派運動は何ほどの深化を遂げていない。転向問題についても然りというのがれんだいこ史観である。今日の馬鹿げた状況は、「転向問題」を論ずる論者が、その論者自身が何ら己の転向を是認するなり否定するなりの観点を得ていないにも拘らず、「転向問題」を外的に措定し、如何にも学問的に研究しているかのような素振りを見せていることにある。「転向問題」で批判するにせよ理解するにせよ、その立場を維持し得るのは、今現に非転向を貫いているか、「転向問題」の内的必然性を説き明かし、己の転向を是認する観点を獲得していなければ論理整合しないだろう。これができぬままの転向論は味気ない。そういう痴態がはびこっているのに、そのことを疑問にする声も聞こえない。実際には、「転向問題」で思想的に苦闘する訳でもなくこともなく、これを単に何かの権威に依拠して道徳的に批判する的な独善的立場から論じている。全く不真面目に付き合っているにも拘らず真面目そうに論じている。れんだいこには、その不細工さが堪えられない。

 れんだいこがこれまで「転向問題」と向き合うのを忌避したり嫌悪してきたのはそういう事情によるものと思われる。考えてみれば、転向論の現在的在り方が日本左派運動の能力を証しているのかも知れない。膨大に論ぜられているにも拘らず何の教訓も総括されていない。くだらない弁明的な物言いについてはねちねちとした議論を生んでいるが、重要な事案に対して真摯に向き合ってこれを討議するという作風が見られない。むしろ野ざらしにされている。れんだいこのこの謂いは云い過ぎだろうか。

 今日「転向論」は流行らない。何故かというと、これまで為されてきた論及の構図がまるきりひからびているからであろう。既にマルクス主義が人民大衆の解放理論としての唯一の教条であるかの如き権威がない。マルクス主義のより左派的な出藍が思想的に問われており、マルクス主義に拘泥しての転向問題自体がナンセンス化しつつある。このことが共産党と体制権力の絶対的対立を廻っての辛吟という構図そのものを古臭くさせている。はるか昔に「コミンテルン支部式党」が信じられる時代は終わったし、今日では既成左翼であれ新左翼であれマルクス主義党の権威そのものが通用しなくなっている。マルクス主義の真理性を前提にして、各自の思想の自由、自主、自律性を抑圧させつつ党の絶対性に帰依していたところに発生した「転向」を「非」として、それを「苦」として受け止めさせその責任を問うという構図が破綻している。

 史上に遺されている転向論はこの類のものであり、これをいくらほじくってみてもまともな転向論が生まれる訳がなかろうに、その種の「転向論」が辛気臭く弁論されてきた。しかしながら時代は移り変わり、これまでなされてきたような「転向論」には何の意味もなくなってしまった。むしろ真に「転向論」を問うなら、自由・自主・自律的に結社され、機能していた党組織と党員が「転向」した時の理由を解析することであろう。しかし残念ながら、未だそのような組織にお目にかかっていない以上宙空のものを論じても仕方ない。そういう中でどうしても論じるなら、いわゆる組織論一般でどういう条件で人は結集し離散するのか、その外的条件、内的条件を見出そうとした方が良い。

 真理論を被せて、絶対的帰依を強いて、それが外的条件からであれ党員が「転向」した非を突付くなぞ元来意味がなかろう。あるとすれば、そういう党の党中央の方から何ゆえに離脱が発生したのかを詮索することだろう。考えられることは、思想闘争、現状分析論、未来青写真論等々の理論闘争で取調べ当局側の論理に負けたということであろう。ならば、その理論闘争の様を吟味して行くのが筋であろうに。そこができてから、組織論、規約論へと向かうべきだろう。さて、そのようにして形成された党に「転向現象」が現れたら、そこで初めて何故にと問うべきだろう。今はまだこれを問う段階ではない。というか、まだお話にもならない。

 結論。現状の転向論の考察はさほど意味がない。あるとすれば、宮顕―蔵原式非転向神話の偶像を疑惑し、そのエセ聖人像を剥落させ、よって連中の「非転向神話による転向者排除、屈服、恫喝の為の金棒」を取り上げる為に必要である、ということだろう。しかし、れんだいこ史観によれば、獄中獄外ともども当時何らかの転向なしには命の保障が覚束なかったと推測するから、端から連中の「排除の論理」を相手にしない。何ウソ云ってやがんでぇ、そったらことがあるものかは、と抵抗していくのみ。

 2003.10.5日 れんだいこ拝

【「れんだいこ転向論の構図」いわゆる転向問題考その2、敢えて為すならこう問いたい】
 れんだいこはまだ論を整理できていないが、左派運動史上の転向論はこう問われるべきであると考える。二度と轍を踏まないための教訓的な論を構築してみたい。この辺りがからきしできていないのが日本左派運動の貧困なのではなかろうか。この関心は、れんだいこの宮顕論がもたらした成果だろうと思う。

 れんだいこは、従来の「転向論」については何も知識がない。興趣を覚えなかったのがその理由であるが、漸く見えてきたこととして次のことを指摘しておきたい。爾来、「内省的な転向分析」は明らかに一つの大きな欠陥を負っていないだろうか。その最大ヶ所は、あり得なかった「唯一非転向人士」としての宮顕の威光にひれ伏し、その謂いを逆に疑う視点を放棄し、そこから逃亡した地平で自らの転向を卑下し呪い、何やらちまちました精神問答に向っていることにある。研究者達は、その種の様々な社会学的分析に労を取り過ぎていやしなかったのか。そういう意味の不満がある。

 そういう転向論は明らかに変調であろう。史上最も強硬に君臨した宮顕の「唯一非転向完黙人士的聖像」の虚と闘わずして、その不正を見逃したところで転向論を何やら難しく語ったとしても、所詮実りのない論議ではなかろうか。それでいて案外と無茶苦茶な規定の周りを堂々巡りしてきているのではないのか。れんだいこは爾来その空疎さとその空疎さをカムフラージュする為に拵えられた難解さに辟易してきたのではなかったか。「転向問題」はそれほど難しく語られるべきであろうか。

 これまで自称インテリ人士とか文学運動戦線での自身ないし周辺の「内省的な転向分析」、「転向者その後の歩み」の研究は為されている。が、肝心要の「転向者と非転向者の評価如何問題」、「転向に対する政治的総括」、「転向事由に対する真摯な検討」は為されているのだろうか。転向問題はやはりここが基本となるべきだろう。

 しかしながら、「転向者と非転向者の評価如何問題」、「転向に対する政治的総括」、「転向事由に対する真摯な検討」は、非転向者の絶対的優位の立場から転向者を断罪する為に為すのではない。それはあまりに戯画的過ぎる。「れんだいこ転向論」は、次のように課題設定する。ズバリと問題を設定するのがれんだいこ好みなので次のように問いかけてみたい。

 その一、「宮顕が自身で云うような非転向は在り得なかった」ことを確認する。通説は、「戦後党運動における非転向の双璧は徳球と宮顕であった」とするが、宮顕はこの規定にも飽き足らず、「実質的に非転向だったのは俺だけ」論を吹聴している。ところが、宮顕の場合、非転向を云うにはあまりにも胡散すぎて問題にならない。「れんだいこ転向論」は、その虚偽を暴くことから始める。「宮顕唯一タフガイ非転向人士的聖像」の虚説が信じられているだけにその嘘を暴くことは重要である。宮顕派つまり宮顕、蔵原、袴田ラインの非転向なぞペテンの類であることを明らかにしたい。

 その二、「僅か少数の非転向者の獄中闘争を真っ当に評価し直したい」。徳球、志賀、春日(庄)らは一応の非転向を貫き厳しい獄中生活を耐え、戦後になって釈放される日まで何とか生き延びた。この間、大勢の共産党員が没している。我々が為すべきことは、彼らを正統に評価し、あたら惜しくも命を落とした者を畏敬をもって祀ることであろう。日本左派運動は、この当然の事ができない。これは微妙に靖国問題に通底している。これらのことを確認する。

 補足すれば、非転向者の威光の生態を解析してみたい。はじめに明らかにしておけば、双璧の徳球と宮顕の非転向を誇る態度には次のような違いがある。徳球は専ら社民に対し自らの非転向を誇る。宮顕は、専ら党内に対し非転向を誇る。奇妙なほどに誇り方の違いがある(
「宮顕の非転向神話の暴力的君臨の実態資料」参照)。転向者は、自身の転向ぶりを恥じ、徳球と宮顕の非転向に対し無条件に頭を下げるという共通の作法が見られる。その生態を解析してみたい。

 その三、「転向者の仮転向、偽装転向を免責する」。いわゆる転向は、治安維持法下では命の引き換えとなり、止むを得なかったこと、それは何ら断罪されるべき性質のものではないことを明らかにしたい。宮顕の言うような非転向を貫けば、即時虐殺あるいは度重なる拷問による獄中死しかなかったのが実際ではなかったのか。有能なものであればあるほど過酷な拷問が待ち受けていたのであり、宮顕的な「特高をもあきらめさせたほど」の誇りなぞ原理的にあり得ない。にも拘わらず易々と宮顕ペテン論理に騙されてきた負の歴史を総括したいと思う。

 その四、「だがしかし、何ゆえに指導幹部級の大量転向が相次いだのかを問いたい」。その背景とその生態及び論理を解析してみたい。当局の弾圧の威力と転向政策、思想問答の様子と各人の転向論理を俎上に上げて見たい。「水野ら第二次解党派の第一次大量転向」、「佐野・鍋山共同声明による第二次雪崩転向」の際に特に転向事由になった1、コミンテルンの支部機関化問題、2、天皇制問題、3、民族主義問題、その他についても言及してみたい。転向者の類型分析とその論理を解析することにより、その転向がある種不可避でもあった事情を解析したい。

 その五、「指導幹部のみならず末端党員まで何ゆえに雪崩を打つかのように転向に向ったのか。それを促した当時の左派運動の組織的運動的土壌を検証してみたい」。これを実践的観点から問うてみたい。あまりにも精神的な思弁的なものは文学者の分析に任せて、我々は生活上、左派運動上で「何ゆえ転向を促進せざるを得なかったのか、どういう対応が可能であったのか」の視点から解析してみたい。

 その六、「他の諸国の同様弾圧に対する対応ぶりと比べてみてどの辺りが違うのか」について考察したい。特に、中国、朝鮮の抵抗運動での犠牲者及び転向者の生態と比較させてみたい。いわば「転向問題の世界史的考察」と云える。

 等々が転向論に於いて本来論ぜられるべきではないのか。転向問題はかく問題設定されて論ぜられるべきではなかろうか。かく、対象の持つ意味を精確に設定しなければ、論は生産的なものにならないのではなかろうか。肝心の設定が為されず、実践に役立たない方向で何やら難しく語られるのはなぜなのだろう。

 れんだいこは、従来の転向論についてそういう不満がある。故に、かく観点を据えて「れんだいこ転向論」を始めたい。かの時代を共有した当時の者達にとって、自身の忸怩たる思いもあってか転向問題は昔のこととして極力避けて通りたかったのであろうが、幸いなことにれんだいこは時代を隔てており、これを客観化することができる。「れんだいこの宮顕論」の考察で宮顕の非転向神話の胡散臭さが明らかになった以上、皆の衆何を憚ることがあろうか。 

 インターネットサイトに「転向論の再構築」が掲載されている。これを読み進め学びながら整理してみたい。その他サイトから学べるところを抜書きしてみたい。その基盤に立って良書も取り込み、「れんだいこの転向論」を次第に精緻に書き上げたい。

 2002.11.3日、2004.11.27日再編集 れんだいこ拝

【「れんだいこ転向論の構図」いわゆる転向問題考その3、れんだいこの「転向に対する政治的総括」】
 先に「文学者達による「内省的な転向分析」考」を見てきたが、聊か辟易させられている。当代の頭脳が寄って為していることだからしてそれに違和感を覚えるれんだいこの方が間違っているのだろうかと不安になることもある。だがしかし云わねばならない。そして、れんだいこの見解を打ち出さねばならない。中には膝を叩いてくれる者も居られるに違いないと信ずるから。友を求める気分で、以下、「れんだいこの転向に関する政治的総括論」をサイト化する。

 れんだいこに云わせれば、「転向問題」を論ずるのに何も難しく考える必要がない。まず、時の権力が弾圧に取り掛かり、その程度が暴力にかけても「巧緻な罠」においても世界に冠たる治安維持法体制から為されたものであり、「命を惜しめば転向以外に生き延びる道がなかった。もし完黙を貫き、非転向を意思表明すれば、小林多喜二のような虐殺が待ち受けていたであろう」。その状況を精確に見据えれば良い。つまり、止むを得ない対応として転向があったことを確認すればよい。いわゆる「応法問題」として課題を設定すれば良い。仮に、同時期の中共が党組織としてあるいは個々の党員がこの問題にどう対応したのか、これを参考にすることも必要だろうに。

 唯一異例なことに、宮顕は、「こいにつには何を云っても無駄だ」と特高があきらめ拷問の手が緩められたことを誇っている。驚くことに、日共系の自称インテリ達はまんまとその口車に乗せられているその種のインテリでしかない。れんだいこが再度強調しておく。そういうことは有り得る筈がない。この「唯我独尊論理」は、虐殺に倒れた同志に対する侮辱以外の何ものでもなかろうに。

 この構図を前提にして、左派急進的に闘った非転向派、右派急進的に転身した当局迎合派、そのどちらにも位置し得なかった中間的苦悩派の者が居た様子を史実的に確認し、今後同様の時局に見舞われたときに我々はどう対処かべきなのか、その手立てをどう生み出すべきなのか、これらを論ずるのが本来の転向論になるべきではなかろうか。

 但し、特殊解析せねばならないことがある。それは1933(昭和8)年三・一五事件、四・一六事件当時の日本共産党の最高幹部にして獄中組の佐野学・鍋山貞親の共同署名による「獄中転向声明=共同被告同志に告ぐる書」が端緒になり発生した「大量転向現象」であるが、当時神聖不可侵であった党中央の率先投降の背景にあったものが徹底分析されていない。当時の野呂指導部は、特に宮顕を中心としてこれを政治主義的に「裏切り」とのみ捉え除名措置で済まして居るが、これでは単なる断罪に過ぎない。

 佐野学・鍋山貞親らは、転向理由として次の諸点を指摘していた。
@  概要「従来のコミンテルンの指令は日本の現状にそぐわない。また、コミンテルンはスターリン政権の確立と共に、ソ連本位の国策遂行機関化し、他国の共産党はソ連の利益のたるの手先となって働いている」。
A  概要「コミンテルンは日本の実状を無視し、デモクラシーを踏みにじって党員に批判の自由を与えず、独裁的な革命指導を行っている」。
B  概要「皇室に対する親愛感情を無視して、国体変革を強要したり、徒に敗戦主義を課すことには承服できない」。
C  概要「共産党は目的のためには手段を選ばない」。

 当時の左派戦線はこの「転向事由」の吟味をせぬままに遣り過ごしてしまった。ここに充満せる不満が内向し、却って転向を促進せしめた観がある。この現象は日本左派運動の理論レベルを証左しており、このことに対する痛苦さを確認するところから転向問題も論ぜられるべきである、という視点が欲しい。それを思えば、史上の転向論は何とちまちましたところで為されてきていることだろう。肝心のこれらを何ら立体的に明らかにしていない。

 以下取り上げるのは、あまたの転向論の中でも有益な指摘をしている人士のそれである。それでさえれんだいこを納得させない。石堂清倫氏は、1983年に次のように述べている。

 「『転向』中央部の方針にたいする具体的なオルタナティブがあったならば、あんなに大衆的な集団的転向は出なくて済んだかもしれない思います」。 

 れんだいこは思う。その通りなのだが、石堂氏は重要なことを指摘していない。事実は、当時の党中央は、「『転向』中央部の方針にたいする具体的なオルタナティブ」を為しえなかったのではないのか。ならば、為しえなかった事由の解明にまで向うのが筋ではなかろうか。(オルターナティブ、alternative、(1)二者択一。代替物。代案。(2)既存のものと取ってかわる新しいもの)

 本多秋五氏は、当時の転向の様子について1954年の「転向文学論」の中で次のように記している。

 「佐野、鍋山の転向や、獄中生活の苦痛や日本国家による圧迫なしに、不可避的に、声明書のような内容をもちえたかどうか疑問で、耳を覆って鈴をぬすむ背教者の仕業とみるのが、当時もいまも変らぬ健全な常識であろうと思う」。
 「最大の原因は、いうまでもなく外的強制にあった。外的強制というなかには、検挙・投獄・拷問だけでなく、最悪の場合には死刑をも覚悟せねばならなかった治安維持法改悪の恐怖もあった」。

 本多秋五のこの観点は、拷問及び恐怖政策で転向を余儀なくされた者に対しては「これが最も素直な観点」であろう。但し、日共党中央の相次ぐ転向現象を語るには物足りない。

 この傾向に対し唯一気を吐いたのは吉本氏の「転向論」であるように思われる。但し、れんだいこには、最良の出来映えと思われる吉本氏の「転向論」でさえ、正面から挑んでいないように見える。どこが不満かというと次のことにある。史上の転向論のいずれもが、宮顕や蔵原らの有り得なかった且つ史実も次第にそれを明らかにしつつある「非転向完黙唯一人士的聖像」の虚論にひれ伏し、当時の「忸怩たる過去」を合理化させたり客観化に向かおうとしている。吉本氏のように「非転向完黙唯一人士的聖像論」に反撃を加えた論理は珍しいが、それが「非転向完黙唯一人士的聖像」論を認めた上での批判だからややこしいこと限りない。

 れんだいこが追跡してみて、史上の転向論のA派B派C派のどの論拠が正しいかなどをあげつらってもさほど意味が有るように思えない。その典型として、戦後直後の「戦争責任追求運動」なぞ検証すればするほど吐き気を覚える質のものでしかない。挑発的な物言いであるとは思うが、多くの者が取り組んだ割にはそのレベルのことしか為されていないというのは事実ではなかろうか。むしろ、左派運動の能力を問う観点から「正面からの転向論」を論ずること、このことが必要にして責務なのではなかろうか。

 2002.11.11日 れんだいこ拝


【「れんだいこ転向論の構図」いわゆる転向問題考その4、浪漫派の転功は何故発生しないのか】
 ふと思ったことであるが、マルクス主義派の転向、そこから派生した転向文学は結構な量にのぼるが、浪漫派の転功は何故発生しないかったのだろうか。これは興趣の湧く課題である。これについては後日記すことにする。

 保田與重郎の例。

 2012.7.9日 れんだいこ拝





(私論.私見)