日本文学論争史考

 (最新見直し2012.7.9日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、日本文学論争史を確認しておく。「日本文学論争史」を参照する。当面学ばせていただく。どうか著作権云々為されぬ事を伏してお願い申し上げまする。(只今、学習中)


【日本文学論争史考】
 明治以降の日本の文学史上の論争を確認する。文学の社会的な存在意義は何か、文学の在り方等々を廻って行われてきたものである。何が問われ、相互に研鑽してきたか赤裸々な問いを検証してみたい。「日本文学論争史」は「自然主義論争」から戦前の「国民論争」まで12回にわたって一応社会的、政治的背景を踏まえ、文学史の流れに沿って重要と思われる文学論争を確認している。日本文学史ではなく論争史に限定しているが、近代日本文学史の流れを内在的に解明しようとしている点で価値があるように思われる。筆者の観点は、今日時点から見るとマルクス主義是論の高みから解析している点で既に少々古い感じがしており、そのまま通用するかどうかは別にして、この内在的な解析手法は高く評されて良いと思われる。いつものれんだいこ手法に則り、「日本文学論争史」をベースにじょじょに書き直して行くものとする。いつしか、れんだいこ風の日本文学史論を書き上げてみたいと意欲的な契機を与えてくださったことに感謝する。 

 2012.7.9日再編集 れんだいこ拝

【1、坪内逍遥と森鴎外の「没理想論争」()】
 自然主義論争の前の重要な論争に、坪内逍遥と森鴎外の間で交わされた「没理想論争」があった。逍遥は、日本における最初の近代的な文学論である「小説神髄」を著し、次のように述べている。
 「小説は芸術である。しかし芸術であるためには、小説は写実的でなければならない。(中略)小説の主脳は人情なり。世態風俗これに次ぐ。……人情とは人間の情欲にて、所謂百八の煩悩是なり。八犬伝中の八士の如きは、仁義八行の化物にて、決して人間とはいひ難かり」。

 儒教思想にもとづいた勧善懲悪や忠孝仁義などを説くことを内容とする小説に反対して、人間とその心理を写実的に描くべきであると画期的な主張をし、小説を戯作から脱皮させて芸術に高めようとした。しかし、儒教思想を排して写実を強調したことの意義は大きいが、写実を強調するあまり、「没理想」という言い方で、小説に、それがどんなものであれ思想を持ち込むこと、ある意図や目的を持たせることに反対する結果となった。

 逍遥の写実主義は自然主義に受け継がれた。自然主義をめぐる論争の発端となった論文で、長谷川天渓は「論理的遊戯を排す」を著し、芸術のための芸術に反対し次のように述べている。
 「文芸家が人生との交渉を開かむと思へば、亦此の現実世界に触れなければならぬ。而して其の現実界に対する態度、即ち現実を見る方法は、一切の理想や道徳を放棄したもの、余の所謂破理顕実の態度であらねばならぬ。今日の所謂自然主義的なものは、正に此の立脚地に在るものである」。

【1、ロマン主義で潤色された自然主義(フランスほどの徹底性をもたず)】
 ●自然主義の指導者島村抱月の文学論

 明治時代に入ってからの文学近代化運動の走りとして自然主義文学が勃興した。その萌芽は明治20年代の坪内逍遥らの写実の主張であったが、はっきりと形をとったのは日露戦争後であった。この頃より、西欧近代主義のイデオロギーである自由主義、合理主義、現実主義、個人主義が浸透し始め、文学史上に於いても自然主義文学が確立されることになった。自然主義の理論的指導者は島村抱月であった。彼の最初の文学論は「囚はれたる文芸」である。次のように述べている。
 「我れは自然主義を呪阻し去らんとするものにあらず。十九世紀の大なる文芸は、大半此の主義の影響を蒙って生じたり。悪むところはたゞ其の極端のみ、知識に隷してより後の自然主義のみ。されば此の主義が更に一たび其の自然に遷りて、飾らず、矯めざる自然の感情の源を穿つに至らば、是れもまた情海の旅程に帆を並ぶる一同行たらん」。
 「文芸の舟を知識の杭より解き放ち、情趣の海に浮んで宗教の岸に至らしめよ。取るべき針路は、哲理的、可なり、神秘的、可なり、標現的、可なり、はた自然的、可なり、写実的、可なり。要は目ざす所に一塊非凡のもの、人をして、胸躍らしむるものあるに止まる。是れ幻中のダンテが説法なり。我れおもへらく、情趣的よし、宗教的よし、されども尚此の外に、日本の現代といふ特殊の事情に応ずベき文芸観なかるべからず。其は、正しく日本的若しくは東洋的文芸の発揮といふことならんか。時は国興り、国民的自覚生ずるの秋なり」。

 島村の自然主義論は文芸上の自然主義と自然主義の価値で体系的に展開されている。その理論は構成論と価値論に大別され、価値論は「所詮真は美を完成する一材料に外ならぬ。最も美を有価値ならしむる範囲において、真は価値を有する」ということに絞られているが、構成論は「描写の方法態度」と「描写の目的題材」とに分けて論じられている。方法と態度については、純客観的な態度は写実的になり、これは「本来自然主義」とよばれるべきものであり、一方主観を挿入する方法は説明的になり、これは「印象派自然主義」といえる。ともに消極的態度と積極的態度とがあるが両者の目的は真の追求であるとする。また描写の目的、題材については、真の追求のための題材として、社会問題と科学と現実の三つがあり、社会問題としては個人の解放を目的として根本的な道徳問題を扱い、科学的な題材としては心理学、生理学、進化論にかかわる問題があり、また現実を扱うには、赤裸々な描写を通して人間の獣性を見つめ、その醜に目をそむけないこと、肉感的であること、卑近的・自然物的であることであると論じている。

 抱月は、「今の文壇と新自然主義」の中で、「本来自然主義」と「印象派自然主義」との欠点を克服するものとしての第三の「純粋なる自然主義」を主張して次のように述べている。
 「第三は事象に物我の合体を見る、自然は茲に至って其の全円を事象の中に展開するのである。其の事象は冷かなる現実客観の事象に非ずして、霊の眼、開け、生命の機、覚めたる刹那の事象である。動き来った瞬間の自然である。吾人は仮りに之れを名づけて純粋なる自然主義と呼ばう」。
 「然らば作家は何を心の標的として此の際に於ける自己の態度を定めんとするか。其の直接の答は消極的である。曰くたゞ無思念と。(中略)自然主義の三昧境は、この我意私心を削った、弱い、優しい、謙遜な感じの奥に存するのではないか。此の時自然の事象は始めて鏡中の影の如く、朗らかに其の全景を暴露して、我れと相感応するのではないか。我れは此の時始めて自然の真実の前に感応の涙をにじますのであらう」。

 ヨーロッパ、特にフランスの自然主義は知に囚われた文芸として、清新な情感の流露を要求し、「一境非凡のもの、人をして胸躍らしむるもの」があればどんな文学でもよいとし、ゾラに代表される一面的であるとはいえ唯物論的な自然主義から後退して、神秘的、宗教的な文学を期待しているように、抱月の自然主義ははじめからロマン主義、神秘主義と結びついていたのである。国家主義的なことはついでにちょっと言ってみたという程度のことである。この抱月がたちまちにして文壇ばかりか、社会的に反響をまきおこした自然主義の代表的理論家になったのである。それは、日露戦争前後から「自然」「自然主義」という言葉が、抑圧や搾取を強める社会、因習、形式、権威などに反対する真実、自由、反逆などを意味するものとみなされて社会に浸透し、青年たちをひきつけたからであった。

 抱月の理論はこのようなものであったが、実際に作品を評価するときには必ずしもかれの理論とは一致しない評価をしている。社会問題と自己告白とを結びつけた島崎藤村の破戒について、「欧羅巴に於ける近世自然派の問題的作品に伝はった生命は、此の作に依て始めて我が創作界に対等の発現を得た」と評し、田山花袋の布団に対しても「赤裸々なる人間の大胆なる懴悔録」「早く二葉亭風葉藤村等の諸家に端緒を見んとしたものを、この作に至って最も明白に且つ意識的に露呈した」と言い、抱月の権威からこの評価が定着し、二つの作品が自然主義文学の範とされるようになったのである。

 安倍能成は「自己の問題として見たる自然主義思想」の中で次のように評しいる。
 「要するに自然主義の強味は、その理論的根拠にあるのではない。否かくの如きものは殆ど論理的遊戯として排せられて居るくらゐである。その強味は主として今の人の現実感にある。その価値は問はざれ、その美醜は論ぜざれ、その善悪は分たざれ、兎にも角にもこれが人間現在の実状ではないか、現実ではないかといふのが、自然主義の振り回はす鉄棒であった。しかもこの鉄棒の打撃力の強いことは、いかにも認めざるを得ない」。
 ●自然主義に対する観念論からの批判

 抱月に対して論戦を挑んだのは田中王堂であった。田中は、「我国に於ける自然主義を論ず」で次のように述べている。
 「自分は、今でも猶ほ分明に想起する。氏が早稲田文学の初号に於て、氏が当時懐抱せられた意見のマニフェストとも見らるベき『囚はれたる文芸』と題する論文を公にされたことを。氏は古来の文芸の潮流を分って情を重んずるものと智を尊ぶものとの二つとなし、而して一般に近世の文芸を智に偏したものと見て、氏はこれを囚はれた文芸と名づけたのである。自分は古来の文芸を無雑作に情に偏するものと、智に馳するものとの二つに区別することにも不服であるし、又た近世の文芸を智に偏するものと見るにも不服であるが、兎に角氏が近世の文芸を囚はれたる文芸であるといったのは事実である。氏が彼の論文を発表されてから僅に二年有半である。氏は今頻りに自然主義を弁護し且つ鼓吹して居らるゝが、氏は自然主義を囚はれたる文芸と見るのであるか、或は放たれたる文芸と見るのであるか。それは是非自分が氏に訊ねなければならぬ事柄である」。

 抱月は、客観的現実を認識するには主観を排さなければならないとして「無思念」になることを推辞していたが、田中はこの論文で、抱月が排斥する主観は真の客観を構成するに必要な要素であり、客観はわれわれの実在の総合であって、各人の実在は各人の特性の発現たる一切の感情、一切の思索、一切の行為から成り立っているとする。さらに田中によれば、一番奥深いものを赤裸々につかみ出すということがそもそもの矛盾であって、これは客観現実が、われわれの感情や思索や意志やの作用から独立して存在し、固有の内容を有するものとする迷信からきている。客観的現実はことごとくわれわれの鑑賞と、認識と、努力とによって構成され、維持され、開発されるものであるからには、一番奥深いものをつかみ出そうとするならば、それだけわれわれの鑑賞と認識とをはたらかせなければならない。無念無想、一切の主観や理想や技巧を排することによって虚偽と幻想とに蔽われない現実の深奥に達しようなどと思っているとしたら、これほどの迷妄はないとする立場から批判している。

 抱月とともに自然主義擁護の論陣を張ったのは長谷川天渓であった。かれは「幻滅時代の芸術」と題する論文で次のように述べている。
 「今は一切の幻像、破壊せられたるなり、青春の血、湧ける若き男女の眼底に映ずるが如き美しく輝ける幻影の悉く消散したる時代なり」
 概要「人生・社会のあらゆる面での幻想・虚飾がはぎとられ、現実が暴露されたとき、幻像の勢力を有したる時代に生まれたる芸術の遊芸的分子を排除して、真実其の物に基礎を定めたるもの、これ将来の芸術たらざるべからず。幻滅時代の世人が欲むる物は真実を抜きたる無飾芸術なり」。

 これが日露戦争後の時代の自然主義の基調であった。これに対して、木下杢太郎は、「太陽記者長谷川天渓氏に問ふ」で次のように批判した。
 概要「長谷川のこの論文で建設的に主張されていると見られるのは、一切の理想を悉く捨てて、現実を直観して新なる意義を発見すること、是れ即ち我等の任務であるといっているだけにすぎない。だが理想は動力である。また未来に対する今人の用意である。故に理想は決して夢幻ではない」。
 ●啄木の批判、日本の自然主義の特徴

 抱月や長谷川の自然主義論は永井荷風らの理解したそれとも、フランスのそれともかなり異なっている。後に耽美主義的な方向に進むことになる荷風は、この頃は自然主義を信奉していた。「地獄の花跋」の中で人間の動物性の一面にふれて次のように述べている。ゾラの「実験小説論」の影響を受けていたことが分かる。
 「若し其れ完全なる理想の人生を形造らんとせば、余は先づ此の暗黒に向って特別なる研究を為さざる可からずと信ずるなり、そは実に、正義の光を得んとする法廷に於て、必ず犯罪の証跡と其の顛末とを、好んで精査するの必要あるに等しからずや。されば余は専ら、祖先の遺伝と境遇に伴ふ暗黒なる幾多の欲情、腕力、暴行等の事実を憚りなく活写せんと欲す」。

 フランスの自然主義は、資本主義とともに発展してきた自然科学から合理主義の、また社会科学から実証主義の影響を受けた写実主義の延長として生まれた。ゾラは人間の心理と行動はその体質と社会の条件によって決定されるから、作家は人間の真実を把握するには遺伝と環境を研究しなければならないと、観察と資料研究を重視し、現実を学ぶべきことを説いた。そして『ルーゴン・マッカール叢書』のなかの『ナナ』『居酒屋』『獣人』『ジェルミナール』などで広い社会的視野のもとでとくに下層民に焦点を当て、十九世紀末から二十世紀にかけて激しく動く時代のさまざまな側面を壮大なスケールでとらえ、また十九世紀の個人主義的な文学のなかで個人よりも集団としての人間を描いた。ゾラは現実の理想化を排し、あるがままの人間の生活を描くことを目指したが、人間の動物的な側面や人間が環境によって決定される側面を強調し、したがって人間が環境に働きかけてそれを変革する側面を無視して、一面的な人間把握に陥っている。これは資本主義が独占資本の段階になり、その強大な力に対する無力感の現れでもあるだろう。

 資本主義の発展は「個」の自覚を促し、また社会への眼を開かせるが、日本の文学ではそれが一方では自我の解放を求めるロマン主義と、他方では勧善懲悪の道徳小説ではない写実的な社会小説となって現れた。自然主義はこの二つを受け継ぎ、合わせ持つものとして登場した。そしてそれだからこそ、その社会性は著しく希薄化されてしまうことになった。藤村は詩によって歌い得なかった自我を散文形式で表現するために、花袋は感傷的な精神主義から肉体を持つ人間が「地を這う動物」であるということを見いだして自然主義作家になったのである。

 石川啄木は、「強権、純粋自然主義の最後及び明日の考察」という副題をもつ遺稿「時代閉塞の現状」で、魚住折蘆の「自己主張としての自然主義」に対して批判している。それは、強権と闘うなかから明日を見いだし、明日の文学を創造しようとする決意を示したもので、当時の青年をおおう内訌的、自滅的傾向は時代閉塞の結果であり、その傾向から脱出するには国家の問題は避けて通れないと主張するものである。啄木は言っている。自然主義は、すでに五年間にわたって論争をつづけてきたにもかかわらず、いまなお一般的な定義さえ与えられずにいる。そして、これらの混乱のなかにあって、われわれの多くはその心内において自己分裂に陥っている。自己主張的傾向がそれと矛盾する科学的、運命論的、自己否定的傾向すなわち純粋自然主義と結合していたことは事実である。しかし、最近の純粋自然主義における、作家は現実に対して観照的であるべきか実行を伴わなければならないかという主張の対立によって、自己主張的傾向と純粋自然主義的傾向との溝は決定的になった。この意味で、魚住の指摘は時機をえたものではあるが、かれの論には重大な誤りがふくまれている。すなわち国家という権威に対抗するという共同の敵のために両者が奇怪な結合をしているという説は、誤謬というよりは虚偽である。なぜなら、日本の青年は、かって強権に反抗したことはないからである。このように述べた後で次のように述べている。
 「斯くて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残ってゐるのみである。自然主義発生当時と同じく、今猶理想を失ひ、方向を失ひ、出口を失った状態に於て、長い間鬱積して来た其自身の力を独りで持余してゐるのである。既に断絶してゐる純粋自然主義との結合を今猶意識しかねてゐる事や、其也すべて今日の我々青年が有ってゐる内訌的、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむべき状態を極めて明瞭に語ってゐる。――さうしてこれは実に『時代閉塞』の結果なのである」。

 自然主義は対立した自然主義とロマン主義とを合わせ持っており、一方でロマン主義的傾向が強まり、他方で現実重視といっても卑近な事実にしか関心が向けられていないと批判し、それは「時代閉塞」のためであり、国家にこそ眼を向けなければならないという啄木の主張は正当なものだろう。

 日本の自然主義は、ゾラの影響によって生まれた社会小説への指向が消滅し、実証主義的な面とロマン主義的な面とをもつ矛盾した性格のもので、自我の確立、人間性の解放を旗印にしながら、人間を動物的側面の強調による決定論で把握しようとした。この人間観は作家を自己をも含めた現実に対する諦観に追い込み、人間性の解放というロマン主義をも行き詰まらせた。こうして自然主義文学は大正時代には、自分とその周辺の醜なる事実のなかに人生に触れる真を発見しようとして、身の回りの事実を精緻に描写し、主人公を作者の分身とする告白を特徴とする私小説に傾斜していった。


 自然主義が作家は現実の社会に眼を向けなければならず、その態度と方法は現実を理想化したり道徳的に見るのではなく、善悪美醜をこえて、現実そのものを明らかにすることであるといい、主観を離れ客観的でなければならないとリアリズムを強調したことであり、また人間を環境や遺伝や本能に支配されるものとしてみるだけで、現実そのものの不合理、矛盾を明らかにし、さらに現実のなかにそれらを克服する方向を見いだそうとはしていないところに決定的な限界があった。文学と作者の思想との関係についてはとくには語られてはいない。思想は主観的なものとして退けられているように思われる。こうした現実と思想のとらえかたから、自然主義は傍観的となり、諦念に陥って、その文学は作者の日常生活の描写と告白という社会性も思想性も欠くきわめて狭い私小説、心境小説になっていったのである。

【2、個性伸長と人類の調和を説いた白樺派(その評価をめぐって)】
 ●白樺派の歴史の概略

   1910(明治43)年、朝鮮を併合し「大逆事件」があった年、雑誌「白樺」が創刊された。同人は武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎らであり白樺派と呼ばれる。これが文壇の注目を集めるのはT914−15(大正3−4)年以降のことであった。彼らは明治30年代後半から40年代初めにかけてキリスト教、トルストイズム、社会主義の影響を受けたのち、それから脱却し、43年前後に作家として本格的な仕事を始めている。

 自然主義文学の最盛期に文学活動を始めているのだが、当初は意識的に自然主義を否定して自らの文学的立場を押し出したのではなく、自然主義派、「スバル」、「三田文学」の耽美派と鼎立するかたちであった。しかし、自然主義文学運動が停滞するなかでそれと交替するかのように文壇の主流になり、自然主義とは際立って異なる文学運動を展開した。

 現実を重視せよという自然主義に対して、白樺派の武者小路実篤は、主観を重視すべきである、自己の主観をあくまで信じ、内面の要求に従って個性を伸ばさなければならないと主張した。関心を現実社会に向かわせるよりも主観に基づく人格完成を自己目的として主として自身の生きざまを綴った。これにより白樺派の文学は私小説、心境小説に傾斜した。文学論では普通には作者の思想はほとんど問題にされず、せいぜい動機や意図が云々されるくらいである。だが、「国民文学論争」にみられるように、社会の矛盾が深まり階級対立や国家間の対立が激しくなると政治色を帯びる傾向と逆の傾向に分岐し始めるようになる。

 武者小路は他人の不幸に耐えるエゴイズムを主張し、自己に忠実に成長しようという態度を堅持し、他の作家も同様であった。「和して同ぜず」「十人十色」の個性主義に立ち、有島武郎を除いて、社会と国家に対する意識を欠如させて、個性の伸長がそのまま直接に人類と自然に調和すると彼らは考えていた。ともに美術にも関心が深く、ロダン、ゴッホ、セザンヌ、後期印象派の芸術を積極的に紹介し、また教育界にも大きな影響を与えて、その持続性と影響力は同人雑誌としては群を抜いていた。  

 大正5年、武者小路は「雑感」の中で次のように書いている。
 「白樺を出したとき、新潮の六号で、アホダラ経まがひにバカラシといってからかわれた。バカラシの反対がシラカバだ。しかし、そんな語呂合せが何にもならないことはわかっている。ともかく軽蔑されてきたことはたしかだ。ほめてくれる人は道楽としてはいゝ道楽だと言ってほめてくれた」。

 しかし、武者小路が宮崎県に「新しき村」を建設したり、おりから労働運動が高揚し、労働者文学が興ってきたこともあって、社会性を欠いた「白樺」は色あせ、関東大震災を機に、足かけ16年におよんだ雑誌は1923(大正12)年に終刊した。

 白樺派のなかでも中心にいた武者小路の、率直とも大胆とも、また無邪気とも誇大妄想ともつかないその作品と発言に対しては、はじめから冷笑と反発がある一方、同時代の芥川龍之介は次のように評している。
 「武者小路氏は文壇に新たな天窓をあけはなった」。

 佐藤春夫も次のように評している。
 「芸術の世界で個性の尊重と主観の跳梁とを、まのあたりに表現してみせて、人々がそれに見倣うようになったのは武者小路氏以外の何人でもない。現代日本文壇にとって武者小路氏の出現は近世思想史の上にルッソオに匹敵すると僕は信じている」。
 ●自然主義者の的外れの批判

 武者小路に対して最も激しい反感を表したのは生田長江であった。彼は「自然主義前派の跳梁」で次のように書いている。
 概要「白樺派の最大の欠点は、『お目出度き人』を書いた武者小路に代表されるように、全くもってオメデタイことである。彼らはオメデタイことをむしろ誇りにしている。彼らは単純で正直で真面目であると言われている。だが、その単純さは、複雑さを包容し、消化したものではなく、浮世の風にあたらない箱入息子の単純さでしかない。彼らは自然主義の洗礼を受けておらず、自然主義前派にほかならない。『私のいはゆる自然主義前派の掃討は、遊蕩文学の撲滅といふやうな仕事よりも百倍も千倍も急務である』」。

 これに対して、武者小路は「生田長江氏に戦いを宣せられて一寸」でこう応えている。
 概要「氏は僕たちを自然主義前派と云っているが、僕たちは日本の自然主義が自己を生長さすことに無頓着だったのに我慢ができずに立ったのだ。自己の主観を生殺しにするのに反対して自己を生かしきらないでは我慢が出来ないので立ったのだ。内の要求に立っているのだ。自然主義の作家たちは浅薄なくせに深刻ぶり、馬鹿なくせに利口ぶり、経験もないくせにどんづまりの経験をしたかのような顔をしていただけである。自分で自分を『お目出度い』と言ったのは反語であって、僕こそ、実は本当の道を歩いているのだ」。
 
 自然主義の理論的指導者であった島村抱月は「将に一転機を劃せんとす」の中で次のように評している。
、「個人主義によって社会と戦っていた自然主義の人々が、その効果のない戦いに疲れて、より寛い、より緩やかな心持になって、社会の道徳的意識と歩調を共にするようになった」。

 抱月は、効果があがらないことを認めつつも個人主義に立つ以外には社会とは闘えず、個人主義によって自然主義は社会と闘ったという。また白樺派が自然主義とは別個に生まれてきたものであるのに、戦いに疲れた自然主義者のなかから出てきたかのようにとらえている。そして、社会に対して非妥協的な自然主義が変質して妥協的になったものとして捉える白樺派をして、「個人主義的な思想から非個人主義的思想への推移であり、期待出来るようなものはない」と述べている。

 白樺派の登場を最も歓迎し、擁護したのは和辻哲郎である。彼は「すでに転機至れり」で抱月の白樺派批判を次のように批判している。
 概要「自然主義から白樺派への転換は単なる主義の転換ではなく、自然主義作家とは異なった生活態度をもった作家の登場であり、『決然として真理のために身をささげる態度』をもっていることが彼らの特徴であって、これは偉大な作家の生まれそうな予感を与えている。また自然主義は個人を重んずることも人間の尊厳を認めることもしなかったが、白樺派こそがこれらを描いており、これはいかなる場合でも取り上げなければならない問題である。さらに、自然主義が社会の仮面をはぎとろうとしたのは正当であったが、社会を高いところへ導いていく理想や正義や情熱をもっていなかった。『彼らの目は自然の限りなき深さと神秘さとに絶えず引きつけられ彼らの心臓は愛と正義の情熱とによって高く動悸をうち、彼らの手はやむにやまれぬ衝動によって、その愛と情熱とを実現するために打震うのである。彼らにとって、自然は精神の姿であり、精神的労作は生活の唯一の意義である』」。
 ●白樺派の文学と思想の特徴

 「白樺」の同人は多数いるが、最初の同人は全員、後続する同人の多くも華族とブルジョアの子弟で、ひとしく「選ばれた有産者」であり、学習院の出身である。彼らは武者小路もいうように「金のため、食うために文学をやる必要はなかった」。武者小路、志賀、有島らは、青年時代になって、キリスト教的博愛主義、物質文明への懐疑や宗教による救済や無抵抗者主義や農民にのみ救いがあるといったレーニンによって「坊主主義」と批判されたトルストイの否定的側面を特別に価値あるものとするトルストイズム、幸徳秋水らの社会主義に出会い、特権的階級に属する自分たちの出自と思想の矛盾に苦しむことになる。

 例えば武者小路は、初期の作品「或る男」で、トルストイに出会うことよって自分の生活に疑問をもち、「現代の社会組織はまちがっている」という「危険思想」に近づく男を主人公にしている。志賀は内村鑑三の門下にあり、足尾銅山鉱毒問題で現地を見に行こうとし、それに反対した父と対立する。この問題と自分の家の女中と結婚しようとして父と衝突したこととを絡ませて作品にしたものが、文壇での出世作となった「大津順吉」である。有島は、キリスト教に入信した後に渡米するが、次第に疑問を抱いて信仰を棄て、ホイットマンやクロポトキンに接近する。その時期の思想を表したものに「かんかん虫」がある。それは、最下層の港湾労働者に革命的な自由人を見て、中流以上の非人間性と彼らと結びついたキリスト教を批判したものである。

 恵まれた環境のゆえに人生に対する疑問をもち、社会の不合理を憤る正義感をもち得たともいえるが、ブルジョア革命後に登場した彼らは、18世紀のロシアにみられた「余計者」意識を持つことも、デカブリストやナロードニキのように革命運動に進むこともなかった。有島は生涯にわたって思想的な彷徨をつづけ、その作品には見るべきものがあるが、内村鑑三のもとを去った後、父との対立と和解を主題とした志賀は、社会的背景をもたない「暗夜行路」では、自然の意志に従っていくことが、安心立命、調和の世界を得ることであるという境地に達している。

 思想的指導者であった武者小路は、「白樺」創刊前後には「危険思想」はもちろん、トルストイも棄て、ひたすら自己の成長をめざすようになる。それは、思想の発展の結果としてそうなったというものではなく、一時期の気の迷いから自己の階級的基盤へ回帰し、その基盤とそこから生まれてくる自己の実感を生かすしかないという無意識の選択である。

 「個人とか個性とかを通して人類の意志を生かすなぞと云うことは今の人の見当もつかない点だと思う。しかし其処がわからないでは白樺の運動はわからない」(「白樺の運動」)と武者小路は言ったが、こうして、支配階級の経済的基盤にのっとりながら、その反映である思想と実感を、人間性一般の自然的な思想と感覚であるとし、現実の社会に眼をつぶって、個人と人類を直接に結びつけ、その調和を説くようになった。彼の文学は、「自然や人類と一緒に舞踏するような心を持つ」ことを芸術の精髄と信じる、自己陶酔の文学だといっても過言ではないだろう。白樺派の文学が大きな影響力をもちえたのは、資本主義の相対的な安定と大正デモクラシーという時代背景のもとで恵まれた環境のなかでひたすら個性を伸長させるために書かれた作品が時の青年層に「理想」として受けとめられたのだろう。

【3、プチブル作家たちの思想的動揺の始まり(有島武郎の『宣言一つ』をめぐって)】
 ●有島の同伴者からの撤退の宣言

 大正末期から昭和の始めにかけて、多くの(小)ブルジョア作家の間に深刻な思想的動揺と亀裂が生じた。第一次対戦とロシア革命の影響、米騒動、労働運動の高揚、共産党の結成という社会的、政治的な激動のなかで、そしてまた労働者文学が登場することによって、彼らは労働者階級の闘いと社会主義思想、その文学に対してどのような態度をとるのか、という決断を迫られたのである。有島武郎の「宣言一つ」をめぐる論争と彼の死、それに続く一連の文学論争、芥川龍之介の死は、彼らの思想的動揺の現れであり、それぞれの態度表明であった。

 1921(大正11)年、有島は「宣言一つ」を発表し、次のように述べている。
 概要「『思想と実生活とが融合』した生活は常にわれわれの最大の課題であるが、特に今日注目すべきことは、労働者階級の闘いが、学者や思想家の手を離れて労働者自身の手に移ろうとしていることである。労働者はもはやクロポトキンやマルクスのような思想家を必要としていない。彼らの功績がどこにあるかといえば、第四階級以外の階級者に対して、或る観念と覚悟を与えた点にある。彼らの思想は、労働者階級にとっては、むしろその独自性と本能力とをより完全に発揮する妨げになるだろう。私は第四階級以外の階級に生まれ、育ち、教育を受けた。だから私は第四階級に対しては無縁の衆生の一人である。私は新興階級者になることが絶対に出来ないから、ならして貰はうとは思はない。第四階級のために弁解し、立論し、運動する、そんな馬鹿げ切った虚偽も出来ない。今後私の生活が如何様に変らうとも、私は結局在来の支配階級者の所産であるに相違ないことは、黒人種がいくら石鹸で洗ひ立てられても、黒人種たるを失はないのと同様であるだらう。従って私の仕事は第四階級者以外の人々に訴へる仕事として終始する外はあるまい。(中略)どんな偉い学者であれ、思想家であれ、運動家であれ、頭領であれ、第四階級的な労働者たることなしに、第四階級に何物をか寄与すると思ったら、それは明らかに潜上沙汰である。第四階級はその人達の無駄な努力によってかき乱されるの外はあるまい」。

 有島は、大正時代のなかばから台頭してきた民衆芸術や労働者文学に対して、終始その理解者であり同伴者であった。「種蒔く人」の執筆陣に名を連ね、ロシア児童救済の会計監督を引受けていた。社会主義が必然であり、「階級闘争といふものが現代生活の核心をなすものであって、それがアルファでありオメガである」ことを認めていたからである。だが彼は、自らの生活がブルジョア的であり、思想と実生活とがかけ離れていることに悩み続けてきた。それで、当時の社会主義運動内部におけるインテリ排撃のサンディカリズム的風潮と、「冬の時代」の後の労働者階級の闘いの高揚を迎え、職業作家としての自らの立場と進むべき方向を明らかにしなければならないと考えたのである。

 「宣言一つ」は、誠実で倫理的に潔癖な彼が、単なる同伴者にとどまることをこれ以上自分に許すことができず、かといって、労働者作家であるわけではなく、また自分が所有する農地の解放の準備を進めながらも、全面的に労働者階級の立場に立つことができないということを自己認識し、同伴者の立場からも身を引くことを宣言したものである。彼はその決意を正当化するために、労働者階級の自主性を強調し、そしてそれは正しいのであるが、社会主義革命にはインテリゲンチャの果たすべき役割は何もないと、マルクスも含めて革命的なインテリゲンチャをも否定するかたちで行ったのである。

 また、「宣言一つ」を発表する前に、有島は『惜しみなく愛は奪う』や他のエッセイで、「本能的生活」をもって「習俗的生活」、「智的生活」を統一すべきであり、この「本能的生活」こそが芸術を創るのであると書いていた。また本能こそが人間の全的、内的な個性の要求であり、この「個性を外的の圧迫から切り放ち、内部の要求にのみ応じて表現すべき環境を求める」ことが、「根抵的な芸術衝動の相である」ともいっていた。しかし他方では、「芸術家を造るのものはその所謂実生活ではない。その愛の強さ深さ高さだ」ともいい、「個人的欲求と社会的欲求」とは一致しなければならないとも語っていた。思想と実生活とを統一するために、またそれと合わせてこうした矛盾した考えに決着をつけようという決意を表したのが「宣言一つ」であった。
 ●廣津和郎の批判と有島の応酬

 有島の発言に対して多くの批判が集中した。廣津和郎は、「相変らず有島武郎氏式な、窮屈な考へ方」であって、文学というものは、世間が慣用的に言っているブルジョア的なものであれプチブルジョア的なものであれ、純粋でさえあれば他の人々にも感動を与えることができるものであると断言する。次いで、「有島武郎氏の窮屈な考え方」の中で有島の主張をこう評している。
 「文学はブルジョアにもプロレタリアにも専属すべきものではないと云ふのが僕の意見なのです。つまり、我々の純粋な気持を出して行くやうに心懸けるのが何よりだと思ふのです。有島氏のあの説は、ブルジョアとプロレタリアと云ふ二つの言葉に、余りに脅かされ過ぎてはゐないかと思ふのです。さういふ言葉の対立が、今のやうにはっきりして来たがために浮んで来た考ヘに過ぎないのではないかと思ふのです」。

 廣津は、ブルジョアとかプロレタリアとかは現実に存在するものではなく、単なる言葉であって、有島はこの言葉に引きずられているに過ぎないとして、文学が階級的な性格をもつものであることを否定する。そして、重要なことは「純粋な気持ち」を出すことであると、文学が単に「気持ち」の表現であり、それが優れていいるかどうかは気持ちが「純粋」か否かにかかっていると云う。数年前に『怒れるトルストイ』を書いて、生活と調和しない思想をもつことによって生ずる焦燥が、どれほど生の自然を歪めるかを論じた彼にとって、作家はその生活がどのようなものであれ、生活実感をそのまま素直に出せばいいのであって、あれこれ思い悩むことはなく、有島のように思い悩むのは「窮屈」であると断じたことになる。

 「廣津氏に答ふ」で有島は反論している。
 概要芸術家は三種類に分けられる。第一は、その人の生活全部が純粋な芸術境に没入している人で、自己の芸術的感興を表現することに全精力を傾倒して他をかえりみないタイプである。第二は、芸術と自分の実生活との間に思いをさまよわせずにはいられない人で、自分の実生活と周囲のそれとの間に合理的な関係をつくらなければ、その芸術を生み出すことのできないタイプである。第三は、自分の芸術を実生活の便宜に用いようとする人で、生活のためにはブルジョアにも取り入ればプロレタリアにも迎合するタイプである。『芸術家と云ふものの立場より云ふならば第一の種類の人は最もうやまふベき純粋な芸術家であり、第二の種類の人は、芸術家としては所謂素人芸術家を以て目さるべき者であり、第三の種類の人は、悪い意味の大道芸人とえらぶ所がない人である』。私は第二のタイプに属しており、この観点から『宣言一つ』を発表した。『来るべき文化はプロレタリアによって築かれるべきであり、また築かれるだろうことを信じている。出来ればプロレタリア芸術家として、プロレタリアに訴える作品を書きたいが、しかし生まれ育った境遇と素質からいってそうはなれない』、『私は何んといっても自分がブルジョアジーの生活に浸潤し切った人間である以上、濫りに他の階級の人に訴へるやうな芸術を心がけることの危険を感じ、自分の立場を明かにしておく必要を見るに至ったものだ。さう考ヘるのが窮屈だといふなら、私は自分の態度の窮屈に甘んじようとするものだ』」。

 有島は「宣言一つ」のモチーフをより鮮明にしつつ、(小)ブルジョアインテリが労働者階級の立場に移ることは容易なことではなく、進歩的といわれている彼らが労働者階級の思想的指導者のような顔をすることに警告し、自分は同伴者であることもやめると再度宣言したのである。
 ●社会主義者たちの見解

 堺利彦は「有島武郎氏の絶望の宣言」で、有島がマルクスやクロポトキンまで否定していることを中心に批判している。彼は、マルクス主義はブルジョア社会の科学的分析にもとづいた思想であり、労働者階級の独自性を主張するのはいいとしても、だからといってマルクス主義が彼らの闘いに無意味であるというのは間違いであるとして次のように述べている。
 「労働者が自分の判断力に依って、自分達の為に利益と認め、有効だと信じた所の、(思想家知識階級、若しくは諸方面の専門家が提案した)理論や戦術を採用するのに、何の不堅実があろう」。

 堺は、「宣言一つ」を次のように評価している。
 「種々煩悶の結果、遂に一切の思想家を無理やりに道連れに誘って、(クロポトキン、マルクス、レーニン等さえ、強いて当然の道連れたるべき、或いはべかりし、者として)上流階級の間に活動の範囲を制限し、おとなしく一種の逃避を試みたものと目すべきものである」。

 「宣言一つ」を読んで思いついたことを書いたという河上肇の「個人主義者と社会主義者」は独特なものである。彼はレンブラントのエピソードを引いていう。
 「学者とか芸術家とか云ふものは、自分の学問なり芸術なりに最高価値を認め、一切のものを之れが手段となし犠牲となすことによって、持って生まれた天分の全力を尽くし得、之によって始めて自分の学問なり芸術なりを十分仕上げることが出来るのである。それゆえ純粋の学者、純粋の芸術家は極端なエゴイストたるべき筈である。民衆のためにとか、社会のためにとか云う考へは起こらないで、寧ろ民衆を犠牲にし、社会を犠牲にすることによって、自分の学問なり芸術なりを高め且つ深めることにのみ精進する所の、極端な個人主義者でなければならない」。

 また、クロポトキンの『自叙伝』を読んで、クロポトキンがすぐれた地理学者になりうる才能と境遇に恵まれながら、その学問で新しい発見のために努力するよりも、既に得られた知識を民衆に普及し、「労働者で貧乏人である多数民衆の教師となり補助者となること」を自分の義務であると考えるに至ったという部分を挙げて、河上は、エゴイストではなかったからクロポトキンは偉い学者になれなかったのだといい、こう書いている。
 「人間として想像し得らるゝ限り、徹底的の非エゴイストだと思はれるクロポトキンが、立派な地理学者となるべき才能と境遇とを有っていたに拘わらず、彼が敢えて『学者』となり得ざりしことを、誰が咎むる権利を有するぞ? (中略)徹底的のエゴイストも偉いが、徹底的の非エゴイストも亦た偉い。私はレンブラントにも頭を下げるが、クロポトキンにも頭を下げる」。

 河上は、科学や芸術で成果をあげるには、一般的には才能や努力とともに時間や生活上の条件が必要であるということから、学者や芸術家を才能に恵まれ努力を惜しまない人間であると美化し、労働者階級に寄生するインテリ階級の存在と彼らの個人主義、エゴイズムを正当化する。他方、社会主義者を科学の発展には何ら寄与しない、単にすでに得られた知識を普及する啓蒙主義者に過ぎないかのように徹底的に矮小化する。こうして彼は、有島が同伴者として啓蒙的な作品を書くのもよし、それから退いてエゴイストとして文学に打ち込むのもいいとするのである。
 他方、中野秀人は「階級芸術論争」の発端となった「第四階級の文学」で、第四階級の文学が開拓される時代が来た、その文学は社会組織の究明を特質とすると画期的な主張をし、青野季吉は「『調べた』芸術」で「プロレタリア文学は、益々深く、細かく、直接に生活と闘争の世界を掘り下げて行く可きである」と述べ、「目的意識論争」のきっかけになった「自然成長と目的意識」ではプロレタリア作家が社会主義思想をもつことの必要性を強調した。

 意識性、思想の重要さを強調したことは全く正当なことであった。というのは一般的にいって作家の思想的、理論的深化は作品を一層優れたものにするだろうからである。しかしこの後、主に蔵原惟人によって、作家のもつべき思想は共産党の思想、スターリン主義であるとされ、しかも相対的に区別されるべき思想と方法が切り離し得ないもののように結びつけられて「前衛の観点」つまり共産党の観点をもったリアリズム論が主張されたのである。

 この蔵原理論に対する批判は、当時提供されたソ連の社会主義リアリズム論に依拠して徳永直らによって行われたが、このころ新たに発見されて紹介されたエンゲルスのハークネス宛の手紙に一層力を得て、「世界観はどうであれ、方法さえリアリズムであれば結果として革命的な文学ができる」と、世界観や思想をどうでもいいかにいうものさえ出てきた。

 ところで、エンゲルスの手紙は「リアリズムというものは、私の考えでは、細部の真実さの他に、典型的な状況における典型的な人物の忠実な再現を含んでいます」と述べた後、バルザックの政治的立場は正統王朝派であるのに、作品ではその立場を否定して共和派に味方しているのは方法が正しかったからで、「リアリズムの最大の勝利」といっているものである。これは思想と方法とは相対的に別であるということを前提にして、リアリズムが方法として正しいといっているのであって、思想はどうでもいいといっているわけではない。

 戦後になってプロレタリア文学運動を批判した小田切秀雄は、「文学的創造に当たっては、直接には世界観の理論など何ものでもないということをはっきり覚悟して置かねばならぬ」「文学的創造は生身の自分の胸奥からの実感」だけが核心であると力説した。世界観と切り離された実感とはどのような実感だろうか。彼は革命的な批判をしたつもりであるが、プロレタリア作家にとってマルクス主義が重要な一条件であることを否定したのである。

【4、小説の価値≠めぐって(プロレタリア文学と私小説のはざまで)】
 ●菊池寛の内容的価値論

 前回取り上げた「宣言一つ」で、有島武郎が提起した根本的な問題は、労働者階級の闘いと社会主義思想に対して作家はどのような態度をとるべきか、ということであった。この問題が形を変え、後退して、より一般的に小説のもつ社会的な価値はどういう点にあるのか、小説という芸術の性格とはどのようなものか、という問題として論争が行われた。菊池寛・里見クの「内容的価値論争」と廣津和郎・佐藤春夫・生田長江らの「散文芸術論争」である。

 菊池と里見との間にはすでに大正九年に、論争という程のものではないが意見の対立があった。菊池は「芸術と天分」という感想を書き、「作家凡庸論」を説いた。技巧が偏重された時代には特別な才能が必要だったかも知れないが、今は「素直に端的に物を言ふ時代」であり、また「創作の喜びは、どんな貧しい天分の者にでも、享け入れられる喜び」である。したがって特殊な天分がなくても「人生を正しく観、それを正しく表現する位の技能は、普通の人間には少し努力すればいい」というのが要旨であった。

 里見はこれに反対し、「作家天分論」を主張した。彼は、「平凡人が平凡に観、平凡に生活した記録」が、自然主義全盛の時代にいやになるほどたくさん出たことを菊池は知らないわけではないだろう。しかも、「平凡に観、平凡に生活した記録」が、いつのまにか「正しく観、正しく表現する」となっているが、人生を正しく見、正しく表現することが平凡人にできるはずがないというのであった。このような意見の相違が発展して、文学の表現と内容、芸術的価値と社会的価値などをめぐる論争になったのである。

 1922(大正11).7月、「宣言一つ」が出された半年後、菊池の「文芸作品の内容的価値」が発表された。有島は廣津の批判に応えた文で芸術家を三種類に分けたが、菊池は、ただ芸術的表現を念とする作家と、それだけでは満足し得ない作家との二種類に分け、自分は後者をとるという。そして次のように述べている。
 概要「ある作品を読んで、うまいうまいと思ひながら、心を打たれない。他の作品を読んでまずいまずいと思ひながら心を打たれるということがあることからも察しられるように、文芸作品には芸術的価値のほかに、作家がその芸術的表現の魔杖を触れない裡から、燦として輝く人生の宝石が沢山ある。題材自体に人生的価値とでもいうべき内容的価値がある。(中略)当代の読者階級が作品に求めてゐるのは、実に生活的価値である。道徳的価値である。(中略)私は、芸術はもっと、実人生と密接に交渉すべきだと思ふ。絵画彫刻などは、純芸術であるから交渉の仕方も限られてゐる。(それ丈、人生に対する価値が少いと思ふ。)幸にして、文芸は題材として、人生を直接に取り扱ひ得るから、どんなにでも人生と交渉し得ると思ふ。それが、画家などに比して文芸の士の特権である」。

 菊池は、芸術的価値を表現技術とし、内容的価値を題材にあるかのように述べて、理想的な作品とは内容的価値と芸術的価値とを共有した作品であるが、ある作品が人生に対して重大な価値があるかどうかはもっぱらその内容的価値によって決定されると主張した。
 ●里見クの批判と菊池の反論

 里見は、「菊池寛氏の『文芸作品の内容的価値』を駁す」を書いて反論した。菊池の論文が、「私は、芸術を説明して、魂が何うしたの、心がどうしたのなんて云ふ神秘説は嫌ひである」とか、倉田百三や賀川豊彦の作品を邪道として、「芸術至上主義を振りかざして、安閑として居てもいいのかしら」とか、「改造」に連載中の里見の「文芸管見」を念頭に置いたものであることが明らかだったからである。里見はいう。
 概要「『芸術的』と言ふ言葉を、『うまく描けてゐる』と同義に用ひ、絵画彫刻が『純芸術』であるの故を以って、人生と没交渉なもののやうに考へ、イプセン、トルストイを、『内容的価値』に於てのみ認めようとするなどは、殆んど私には、うちの亡くなった親父さんとでも芸術論を戦はしてゐるやうな気がされるくらゐのものだ。芸術を表現と内容とに分けて考えるなどとは、ともに芸術にたずさわるものの面汚しであり、芸術の真諦は『一にそれが一元に帰する』ところにあるのであって、『うまいうまい』と『心を打たれる』との間に『だから』や『けれど』が入り込む余地はない」。

 菊池を次のように批判している。
 「氏の説くような内容ならば、速やかに文芸を去って、思想を『哲学』に、事件を『街』に、或は『歴史稗史』に求めるのは捷径に如くはないのだ。早い話が、氏の挙げたトルストイの場合でも、小説戯曲はそっちのけにして置いて、論文集を幡けば、毎行必ず氏の云ふやうな『内容的価値』に出遇ふ筈だ。何を好のんで小説戯曲に、余計な『芸術的価値』を篩ひ分けしながら、十行に一つか、二十頁に一つか、或はまた皆無か、あてもない『内容的価値』を、落物でもしたやうに、一生懸命探し廻る愚を敢えてする必要があるものか。そんな考をもちながら、哲学者にもならず小説や戯曲を書いてゐられるとすれば、菊池氏は、慥に辛抱人だ」。

 菊池は「再論『文芸作品の内容的価値』」で、芸術の真諦が一元に帰すること、内容と表現とは切り離せないものだということくらい、里見に教えられなくてもわかっていると述べたうえで、こう語っている。
 「芸術は、表現である。現霊術である。それ以外の何物でもない。それと同時に、私はどんな芸術でも芸術丈けでは、満足しないのである。一寸見れば、パラドックスのやうに見えるだらうが、こうした見方が、芸術に対する最も徹底した見方だらうと些か自負してゐるのである。芸術丈けでは満足しない。それは真に芸術の外道である。里見君が、それと察して(私の芸術観を誤解しながらも)面汚しであるなどと云ってゐるのはまぐれ当りの至言である。私は芸術丈けで満足してゐる人を羨ましく思ふのである。里見のやうな人を羨ましく思ってゐる」。

 菊池が主張しようとしたことは、「私が『芸術の』と言わずに『文芸作品の』と言っている注意が、里見君には解らないのか」と言っているように、芸術一般について展開しているのではなく、小説というものは他の芸術以上に社会の現実に目を向けたものであるべきで、人の心を打つような題材を現実の中から選ぶことが要求されているのではないか、という点にあった。それを、里見が誤解するのも無理からぬ書き方で述べたのである。
 ●廣津和郎と佐藤春夫の散文芸術論

 この小説と現実との関係について一歩進めたのが廣津和郎の「散文芸術の位置」である。この評論は、大正11年に行われた「宣言一つ」をめぐる論争に対する反省の上に立ち、菊池・里見の論争を踏まえて書かれたものである。廣津は、菊池・里見の論争が真に論争としてのかたちになりえなかったのは、芸術のなかから特に散文芸術というものをぬき出して、その独自な性格に即して論じなかったためではないかという。

 また、かつて有島は廣津との論争で、芸術家を三種類に分けたが、その第三の芸術家というのは芸術家ではありえないのだから論外として、あと二種類の芸術家の区別には別に異存はない。だが、この二種類の芸術家の評価ということになれば、自己の芸術境に没入する第一の芸術家が一番純粋な、尊敬すべき芸術家で、現実に関心を持ち、現実と芸術の間で思い悩む第二の芸術家はそれよりも低いものであり、有島自身がそれに属しているものとして卑下していることに賛成できない。これも芸術という言葉をあまり漠然と使いすぎているところからきたためではないかともいう。

 菊池寛も芸術家を二種類に分け、自分を有島のいう第二の芸術家に入れ、有島のように卑下するのではなく、むしろこの種類の作家こそが現代の作家たるにふさわしいとしたが、廣津も「近代の散文芸術と云うものは、自己の生活とその周囲とに関心を持たずに生きられないところから生まれたものであり」、第二の種類の作家こそが現代の散文芸術家として当然の態度でなくてはならないとする。彼は、菊池のように小言というものについて曖昧に語るのではなく、その性格をはっきりさせるべきだというのである。

 概要「結局、一口に言へば、沢山の芸術の種類の中で、散文芸術は、直ぐ人生の隣りにゐるものである。右隣りには、詩、美術、音楽といふやうに、いろいろの芸術が並んでゐるが、左隣りは直ぐ人生である。(中略)そして人生の直ぐ隣りと云ふ事が、認識不足の美学者などに云はせると、それ故散文芸術は芸術として最も不純なものであるやうに解釈するが、併し人生と直ぐ隣り合せだといふところに、散文芸術の一番純粋の特色があるのであって、それは不純でも何でもない、さういふ種類のものであり、それ以外のものでないと云ふ純粋さを持ってゐるものなのである」。

 佐藤春夫の「散文精神の発生」は、廣津の説に賛成し、彼が散文芸術と呼んでいたところのものを散文精神の面からとらえ返そうとしたものである。散文精神は、詩的精神とは反対に無秩序、無統一、無調和の混沌そのものであって、混沌とした社会的現実をそのままで認めたものであるという。
 「散文精神は言ひ換えれば、あらゆる近代主義の精神とも言い得る。即ち主観に即した統一や調和から解放されて、主観が文芸の天地を支配する代わりに、観察が混沌たる実生活を混沌のままで認めたものが即ち自然主義精神であり、自然主義の勃興はやがて散文精神の全盛になった。浪漫主義のなかにすでに胚胎していた散文精神は、自然主義の洗礼によって完全に誕生した。(中略)有島が行き詰まったのは、調和を重んずる詩的精神に囚われて、混沌を混沌のままとし懐疑のままとして投げ出し、しかも安然としてゐるところの散文精神の芸術家、即ち近代主義の芸術家を十分に認める事が出来なかったのかも知れない」。

 廣津、佐藤の散文芸術論あるいは散文精神論を批判した「認識不足の美学者二人」という長い論文を生田長江は書いている。しかしそれは、「散文芸術は人生の隣りだ」という説について、その意味がわからない。人物画は静物画よりも人生に近いというのか、人間の病気を扱う医者は獣医より人生に近いところにいるなどとは、容易に説明できるものではないというような、長いだけで無内容なものもある。廣津は、「再び散文芸術の位置について」と題して、現代の散文芸術を生田のように一般的な芸術論で片付けることに満足できない気持を語りたかったのだと言っている。功利の意味を少しもふくまない第一義的な芸術美のほかに、さまざまな人生的要素とまざり合った美、現実的な「卑近美」ともいうべきもの、この点に散文芸術の特色があることを強調せずにはいられなかったのだ、とその主旨を繰り返している。
 ●二つの小説論の意味するもの

 菊池寛の内容的価値説における「我々の人生に密接する」題材に目を向けよという提言も、廣津和郎の散文芸術論における「散文芸術は人生に隣するもの」という論も、芸術一般から区別された小説論である。これは有島の階級闘争と社会主義思想にどのような態度をとるのかという問いに対する、現実の階級社会から階級ということを取り除いた、単に作家は現実の社会に無関心であってはならないという気の抜けた回答であった。だがこの答えはまた、文壇で主流を占めるにいたった私小説に向けられた批判でもあった。彼らは、プロレタリア文学に対抗して文学が階級的、政治的色彩を帯びることを避けつつ、同時に社会への関心を喪失している私小説の狭さを超えようとしたのである。

【5、プロ文、新感覚派の抬頭と既成作家の模索(「心境小説」の評価をめぐって)】
 ●「本格小説」の提言と「心境小説」の擁護

 1924(大正13)年から1927(昭和2)年にかけて、私小説もしくは心境小説をめぐる論争があった。当時の作家、評論家でこの問題について発言しなかったものはなかったといっても過言ではない。この論争のきっかけになったのは、中村武羅夫の「本格小説と心境小説」である。ここで彼は、本格小説とか心境小説とかいう言葉を「危なっかしい新用語」と断りつつ、それぞれをこう特徴づける。
 概要「本格小説は、十九世紀のロシアやヨーロッパのリアリズム小説、中でもトルストイの『アンナ・カレーニナ』の如く、主観的な行き方に対する、厳正に客観的な行き方の小説、作者の心持や感情を直接書かないで、或る人間なり生活なりを描くことに依って、そこにおのずから作者の人生観が現れて来るやうな小説である。他方、心境小説は、或る人間なり、生活なり、社会なりを描こうとするよりも、そんなものは何うでも好い、ひたすら作者の心境を語らうとするやうな小説、作者自身の見方、感じ方、即ち作者自身の『心の動き』を書こうとするものである」。

 このように本格小説と心境小説とを規定し、心境小説を本格小説の下位に位置づけて、「どんなに傑れた心境小説よりも、失敗しても本格小説と取り組んで居る方に、作家としての本当さを認める」という。彼は必ずしも心境小説を否定してはいない。しかし、心境を綴った日記のような小説こそ最も小説らしい小説であり、純粋で高尚であるとするような風潮に対し、本格小説を対置して、私小説が陥っている狭さを超えるように訴えたのである。

 久米正雄の『私小説と心境小説』は、中村の主張に対する直接の反論を意図したものではなかったが、その心境小説論は中村の本格小説論と真っ向から対立するものであった。これが出てから論争は一挙に拡大した。
 「私はかの私小説なるものを以て、文学の、――と云って余り広過ぎるならば、散文芸術の、真の意味での根本であり、本道であり、真髄であると思ふ。(中略)芸術が真の意味で、別な人生の「創造」だとはどうしても信じられない。芸術が別の人生の「創造」だなどとは、一時代前の文学青年の幻想にすぎない。自分にとっては、芸術はたかだかその人が踏んできた、一人生の「再現」としか考えられない。たとえばバルザックが、さまざまの型の人物を生きているように創造しようと、自分には結局作りものとしか思われない。(中略)私は此頃或る講演会で、かう云ふ暴言をすら吐いた。トルストイの『戦争と平和』も、ドストエフスキイの『罪と罰』も、フローベルの『ボヴァリ夫人』も、高級は高級だが、結局偉大なる通俗小説に過ぎないと。結局、作り物であり、読み物であると。(中略)すベての芸術の基礎には「私」があり、芸術として問題になるのはその「私」が、はたして如実に表現されているか否かということだという。そして「私」を如実に表現するためには、「私」を「コンデンスし、――融和し、濾過し、集中し、撹拌し、そして渾然と再生せしめて、しかも誤りなき心境を要する」。したがって、「真の意味の『私小説』は、同時に『心境小説』でなけれはならない」というのである」。

 昭和の文学が「三派鼎立」という形をとって出発した、すなわち、明治・大正からの既成の文学と、新興文学としてのプロレタリア文学と、新感覚派に始まるモダニズム文学、この三つの流派が並び立って開始されたとは平野謙の有名な説であるが、これには異論はないだろう。大正十年の『種蒔く人』の後を受けて、「革命の文学」をめざすプロレタリア文学の拠点となった『文芸戦線』が発刊されたのは関東大震災のあった翌年の大正十三年であった。この年には、第一次大戦後のアバンギャルド芸術の流れを汲む、「文学の革命」をめざす新感覚派の雑誌『文芸時代』も誕生している。私小説論争は、プロレタリア文学と新感覚派の文学に挟撃された既成の文学がそれらと対抗しつつ、進むべき方向を模索するなかで行われたものであった。

 菊池寛の内容的価値論、広津和郎の散文芸術論、中村武羅夫の本格小説論は、私小説からもっと社会に目を向けたリアリズム小説に脱皮していこうとする既成作家の側からの発言であった。しかし、『戦争と平和』も『罪と罰』も「偉大な通俗小説」にすぎず、真の小説は心境小説であるとする久米の説は、プロレタリア文学など気にかけることなく、自分こそが真の芸術に携わっているのだと安んじて私小説に打ち込もうとする、狭い特殊な地点にとどまった私小説作家の開き直りの論であった。

 久米正雄はここまで後退したのであるが、その後の彼は通俗作家に転じている。人生にとって価値ある題材を取り上げよと言った菊地は、すでに通俗小説を書いており、階級芸術論争では「芸術本体に階級なし」と主張し、彼が創刊した『文芸春秋』は反プロレタリア文学の一つの拠点となった。他方、有島武郎との論争では芸術の超階級性を唱えた広津は、散文芸術論を経て、昭和四年に「過去を振切って新たな一歩を踏み出そう」とする心情を吐露して同伴者作家になり、戦後には松川事件の真相を明らかにしようと情熱を燃やした。
 ●宇野、佐藤の私小説についての意見

 大正14年、宇野浩二は「私小説私見」という感想を書いている。そのなかに、一般には私小説の源流が自然主義文学にあると考えられていることに対して、「私小説の元は私は白樺ではないかと考へてゐる」とあり、「武者小路氏の驚くべき文体が、私は私小説の或る意味での元祖だと考へるのである」といっている。これまでの一人称小説では、その一人称の人物と作者との間がかなり離れていたし、作者もそのように心がけていたようであった。ところが、武者小路の小説は、小学生や中学生の作文を思わせるようなもので、文中の「自分」という主人公は、一読して直ちに作者その人と思われるものであった。これも歴史的にたどれば、田山花袋の主張した自然主義文学に源を発していると見られなくもなく、実際「私」という言葉が文中に最も多く用いられるようになったのは、田山以来である。しかし、私小説らしい私小説は武者小路に始まるのではないかというのが宇野の意見である。この意見は、改めて考えてみると実際に即しているようにも思われる。

 宇野は、作家が原稿の書けない焦りや貧乏で困っていることや恋の苦しみなど、自分のことばかりを書いた小説が一般の読者の興味をひかず、まして心境を語ったものは、あらかじめ作者の人となりや境遇を知っていなければ理解もされないだろう、このような小説は「小説道の一種の外道であるかも知れない」と述べている。しかし他方では、日本人の書いたどんな優れた本格小説でも葛西善蔵が心境小説で到達した位置にまで行っているものは一つもない。『湖畔手記』や『弱者』は東西の文学において独特無類のものであって、小説もこの高さ、この境地にまで達したなら、他の多くの小説は何らかの意味で通俗的だと言えないこともないといっている。彼の結論はこうである。
 「一心に『私』の生活を掘り下げて行って、『私小説』をより深く深く、『私小説』より外のものは書けない、もしくは書く気にならない、書く余裕を持たないといった風な作風も亦、バルザック派と共に賞賛されていゝだらうと思ふ」。

 1827(昭和2)年、佐藤春夫は「心境小説と本格小説」を発表した。それによれば、心境小説は「甚だ変態的なもので、その趣きはまた変則的な美観である。寧ろそれは抒情のかはりに心理描写を以てした詩といふ方が適切のやうに思ふ」といっている。そして、なぜ心境小説が文壇で主流を占めるまでになったかの理由を次のように書いているが、この問題についての見解は注目すべきものである。
 概要「わが国の作家は、ほとんど二十五から三十までの間に一個の作家となっている。しかも、大部分は中流階級の子弟である。せいぜい学校生活と恋愛生活と、それに詩的空想と自己反省的心理解剖とが彼らの生活の大部分である。彼らの文学はこのような基礎の上につくられている。しかも、ジャーナリズムの要求で深く考える余裕もなく次から次に書かなければならない。そこで狭隘な生活経験しかなく、書斎とカフェー以外の世界を知らない彼らは、勢い題材を日常茶飯事とその中での心理に取らざるを得ない。そして歳をとるにつれ、多少は物の見方と考え方にも複雑さが加わって生まれてきたのが心境小説である。

 僕は『心境小説』の隆盛をわれわれ当年の青年作家の止むを得ざる多産と生活的狭隘とまた無意識の偸安から来る早老と、しかしまだ摩滅しつくされずに残ってゐる才能との奇妙な混血児ではないかと考へるのである。僕の観察は余りに己れを以て他を類推するに過ぎるだらうか。ともあれ所謂心境小説は余りに個人的であり、同時に心理にのみ終始し、さうして微妙な陰影をのみ求めるのを見て、僕はこれらの小説作品を早老者の詩だと考へるのである。また芥川龍之介氏が近頃発表したところの所謂筋のない小説の説も、一個の新時代の俳文とも称すべきものでこれもまた余りに早老的な浪漫主義の一面ではなからうかと思ってゐる」。

 数ある私小説論のなかで、佐藤のこの説はもっとも納得のできる意見である。
 ●「小説の筋」論争

 佐藤の文のなかに芥川の「筋のない小説」のことが出てくるが、これは谷崎潤一郎との間で昭和二年早々に交わされた論争で、芥川が「『話』らしい話のない小説」を小説の在り方であると言ったことを指している。この年一月から、谷崎は数カ月にわたって雑誌に『饒舌録』と題する文芸随想を連載し、こう語っている。
 「いったい私は近頃悪い癖がついて、自分が創作するにしても他人のものを読むにしても、うそのことでないと面白くない。事実をそのまま材料にしたものや、さうでなくても写実的なものは、書く気にもならないし読む気にもならない。(中略) 近年の私の趣味が、素直なものよりもヒネクレたもの、無邪気なものよりも有邪気なもの、出来るだけ細工のかかった入り組んだものを好くようになった」。

 谷崎の「癖」とか「趣味」は初めからあったものであるが、今になってわざわざそれを強調するようになったのは、一方にはプロレタリア文学の台頭があり、他方には新感覚派の進出があって、明治以来主流を占めてきた自然主義とそれに続く白樺派が、私小説をさらに狭めて心境小説となってきたことに対する、自らの小説の擁護であった。

 谷崎の随想について芥川が感想を述べたことがきっかけとなって、数回にわたる両者の論争になった。芥川の言業は、必ずしも谷崎を批判しようとしたものではなく、たまたまそれにふれて、彼の心境を述べたにすぎなかった。当時の芥川は初期から中期にかけての、技巧的作為的な「話」本位の小説に自ら疑問を感じ、心象風景を描いた小品などを好むようになり、作品に大きな変化が現れた時期であった。彼は、谷崎は奇抜な筋というものにとらわれすぎる、小説とはそういうものではない、筋の面白さと芸術的価値とは別ものだと述べたのであった。

 これに対し、谷崎は「筋の面白さは、云ひ換えれば物の組み立て方、構造の面白さ、建築的の美しさである。此れに芸術的価値がないとは云ヘない」、日本の小説に最も欠けているのはこの構成する力である、と反論した。

 芥川は『文芸的な、余りに文芸的な』で谷崎に答えている。
 「僕が僕自身を鞭うつと共に谷崎潤一郎氏をも鞭うちたいのは(中略)その材料を生かす為の詩的精神の如何である。或は又詩的精神の深浅である(中略)僕が谷崎潤一郎氏に望みたいものは畢竟唯この問題だけである」。

 自己に不安を感ずることのなかった谷崎の回答は痛烈であった。
 「私には芥川君の詩的精神云々の意味がよく分からない。(中略) 私は斯くの如く左顧右眄している君が、果たして己を鞭うっているのかどうかを疑う。少なくとも私が鞭うたれることは御免蒙りたい。

 芥川はこの論争ののち間もなく、遺書に「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」を記して自殺している。

【6、大震災後の社会への期待と不安(新感覚派の文学の評価をめぐって)】
 ●新感覚派の登場

 1923(大正12).9月の関東大震災によって、政治・経済・文化の中心である首都東京は一夜にして廃墟と化した。文芸雑誌も、新潮、早稲田文学、文芸春秋、明星などは休刊を余儀なくされ、白樺、種蒔く人などは廃刊に追いこまれた。この大震災は、永井荷風が江戸の文化の名残を煙とし明治の文化を灰としてしまったと書き、菊池寛が結果において一つの社会革命であったと言い、横光利一が日本の国民にとっては世界大戦に匹敵すると述べていることからもわかるように、多くの作家の生活感情や文学意識に巨大な衝撃を与えた。

 二十世紀初頭から第一次世界大戦後にかけて、ヨーロッパでは怨念と不安、戦争に対する危機感、社会主義への恐怖など世相の意識を反映した未来派、立体派、表現主義、ダダイズム、シュルレアリズムなどのアバンギャルド芸術思想が生まれた。第一次大戦後に日本に紹介されたこれらの芸術の思想と方法は階級闘争の発展と大震災の衝撃によって新感覚派の文学運動に始まるモダニズム文学に大きな影響を与えることになった。

 新感覚派の作家たちに直接の影響を与えたのは、堀口大学が訳したポール・モーランの「夜ひらく」や、ドイツ表現主義の映画「カリガリ博士」、ゲオルグ・カイザーの「カレイの市民」その他、この時期に出た未来派や表現主義の戯曲の訳文であった。「夜ひらく」では、モーランの文体の新しさを示す表現として、「ダリヤの花が一輪私の開いた口へ入って、やうやく咽喉でとまった。花合戦。花園が空中をとんだ」という一文が特に有名である。

 新感覚派の雑誌文芸時代が創刊されたのは関東大震災のあった翌年の十月である。創立同人は、横光利一、川端康成、片岡鉄兵、中河与一、今東光など十四名で、大部分は菊池寛の文芸春秋の同人でもあった。後に今が脱退して、岸田国士、稲垣足穂らが加入している。文芸時代のマニフェストというべき「創刊の辞」で川端は、「我々の責務は文壇に於ける文芸を新しくし、更に進んで、人生における文芸を新しくし、或いは芸術意識を本源的に新しくすることであらねばならない」と主張した。また同誌の「余燼文芸の作品」で次のように述べている。
 「地震が既成文芸の終点であり、新文芸の起点であることは確かであらう。地震前派地震後派と云った風の言葉が生きた意味を持つやうになるかもしれない。そして我々は、これを機会に一層露骨に大胆に既成文芸に対する不満を述べ、新文芸の要求を明らかな形で提唱すべきであると思ふ」。

 新しい文学世代を集めた文芸時代の登場を、「新感覚派」と命名したのは千葉亀雄であった。彼は「新感覚派の誕生」と題する論文で、この派が文壇の主流になる可能性については疑問であるとしながらも、その文学に好意的な期待を寄せ、新感覚派は特殊な視点に立って人生をとらえようとしているが、これはリアリズム作家から見れば技巧に走り過ぎると思われるだろうと述べた上でこう続けている。
 「これはまた立派にこれでよいのである。現実を単なる現実として表現する一面に、さゝやかな暗示と象徴によって、内部人生全面の存在と意義をわざと小さな穴からのぞかせるやうな、微妙な態度の芸術が発生するものも自然の約束なのである。さらば、なぜ、彼等が人生を表現するに、わざわざ『小さな穴』を撰ばねばならぬかといふならば、彼らが大きな内部人生を象徴させるために使った、その小さな外形は、有りやうは、彼等が端的に刺激された、刹那の感覚の點出に過ぎないからである。(中略)いはゆる『文芸時代』派の人々の持つ感覚が、今日まで現はれたところの、どんなわが感覚芸術よりもずっと新しい、語彙と詩とリズムの感覚に生きて居るものであることはもう議論がない」。

 新感覚派の中心的作家は、川端も「横光がその派の爆心、中核であったより、なほ強い源泉であった」と言っているように、横光であることは衆目の一致するところである。新感覚派を論ずるとき、必ずと言ってよいほど取り上げられるのが、文芸時代創刊号に載った彼の「頭ならびに腹」の冒頭の、「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で駆けていた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された」という文である。彼の他の作品からその文体の特徴を表している例を挙げてみる。「太陽は銃口の先で輝きながらきりきりと廻転した。一個の思惟が光線と等速度をもって太陽に逆行した。一瞬、二〇万年の倒逆の歴史が銃口の先端へ集合した」(「園」)。「今日は昨日の続きである。エレベーターは吐瀉を続けた。チョコレートの中へ飛び込む女。人波は財布とナイフの中を奥へ奥へと流れて行く。缶詰の谷と靴の崖。リボンとレースが花の中へ上っている」(「七階の運動」)。
 ●たわいのない論争

 高見順は「昭和文学盛衰史」の中で次のように述べている。
 「私たちは、あの『文芸時代』の創刊号をどんなに眼を輝かして手にしたことか。(中略)私は『文芸時代』を買って本屋を出るとすぐ開いて、歩きながら読んだ。ここに、私たち若い世代のかねて求めていた、渇えていた文学が、初めて現れた」()とあるように、新感覚派の登場は文学を志す若い読者の熱い支持を得た」。
 
 しかし、既成の作家や評論家の大多数は冷笑もしくは黙殺した。

 片岡鉄兵の「若き読者に訴ふ」は、横光の「頭ならびに腹」を、「宇野浩二がいたずらに奇を衒う表現であって、こういう奇抜な表現をもって新時代の感覚であるということはできない」と批判したことに対し、横光の名も作品名もまた宇野の名も伏せて、既成文壇の全体に抗議し、新感覚派を擁護するために書かれたものである。ここで彼は、「沿線の小駅は石のやうに黙殺された」というただ一行だけを取出し、説明している。

 「急行列車と、小駅と、作者自身の感覚との関係を、十数字のうちに、効果強く、溌剌と描写せんと意思したのであった。効果強く、溌剌と! 爾り、汽車といふ物質の状態を表はすに、感覚的表現の他の何物が能く溌剌と効果強き表現と成り得よう。物質のうちに作者の生命が生き、状態のうちに作者の生命が生きるための交渉の、最も直接にして現実的な電源は感覚である。その他の何物でもない。(中略)彼自身の感覚を、所謂一般常識的な感覚の外に際立たしめる事こそ、物にぶつかって火花の如く内面に散るポエムを、外面的に光躍せしめる手段であったのだ」。

 広津和郎は「新感覚派に就いて」を書いている。これを書いたのは、片岡が広津の名前だけを出していたからであった。彼は、「沿線の小駅は石のやうに黙殺された」という一行をもって感覚的手法の勝利を云々することはできない、この一行と全体との有機的関係を論じなければならず、さらに作品そのもののが新時代にふさわしいものであることを説明しなければ、感覚的手法の勝利など言えることではないと批判し、こう忠告している。
 「『感覚的享楽』の人生観を提げ獅子吼しやうとするためには、人生のもろもろの活動についての、もっと深い観察がなければならない。そこまで行かなければ、『感覚的享楽』の人生観に力は湧いて来ない。唯その主張の下に集まって来るのは、怠惰者と、生活力の弱い、人生に直面出来ない人間共ばかりだらう。イイジイゴオイングなフイリスティンだけだらう。日和見的な、享楽的オッポチュニストのための弁護に、君の雄弁を役立ててはいけない」。

 これに対する片岡の反論は、一つのセンテンスには独立性があり、自分は一行の文章の感覚的表現のわからない人のために説明しただけだというものであった。

 生田長江の「文壇の新時代に与ふ」は、「夜ひらく」の批判によって新感覚派を間接的に批判したものである。彼は、モーランの「あの口からは鎖を吐き出し、尻尾は振子になっている習慣といふあの獣を」とか、「水を飲み飽きた歩道に沿うて、不具の並木が吹きさらされていた」とか、「桑の実か万年筆を食べたやうな真蒼な舌をだらりと垂れて」というような直喩や擬人や連想的暗示を用いた技巧の例を引いて、ここには目先が変わっているだけで、特に新しい感覚などはないと言う。また作品全体についても、デカダンスの芸術だとして、「近代欧羅巴的な一切の物に対する如何なる嘔吐感も見出されず、全然新しい生活と社会とに対する如何なる憧憬も見出されないのだから」とその理由を述べている。

 「生田長江氏の妄論其他」で伊藤永之介は反駁した。しかしそれは、生田の説は抽象的で、新しい時代の人間の気持ちに触れるところがない、既成の文壇は主観を継子扱いしているが、新しい作家はもっと主観を大胆に出していくべきだというものである。末梢神経の遊戯さえも受け入れられないような感覚でどうして新時代を迎えられるのかと息巻いたのは稲垣足穂である。彼は「末梢神経又よし」で書いている。
 「新時代の文学にはそれにともなふいはゆる『健全』がなければならぬと考へるのは迷信である。この楽園おいては『不健全を排す』さういふ言葉がすでに排さるべき一つの不健全にぞくしている。デイレッタンチズム、現実逃避、技巧主義、末梢神経を否定するのも又同じである。そのいはゆる頽廃的とても、みずからが許したこの郷土の絶対的自由を確信する吾々にとっては、十九世紀風の空疎な概念などよりはるかに健全なものだからである」。
 ●新感覚派の文学の特徴

 新感覚派の文学の特徴は、客観的現実を感覚的、主観的に把握し、「感覚の論理」で構成して、それを奇矯とも思える比喩を駆使し、センテンスを短く切って場面を転換していく新しい文体で表現しようとしたところにあるといえるだろう。このような文学が生まれてきた社会的背景にはプロレタリア文学の無視できない進出があり、そこに関東大震災の衝撃が加わったことである。大震災直後には、亀戸事件、朝鮮人虐殺、大杉栄殺害、「主義者」の弾圧と白色テロが続き、革命前のような緊張感と切迫感が覆い、またニヒリズムとアナーキズムがはびこった。そして「帝都復興」とともにネオンサインやカフェ、百貨店、ラジオ、映画、自動車、飛行機などが登場して都市の生活と風俗の変革がもたらされ、新時代の到来を予想させた。

 横光利一は、「解説に代えて」でこう記している。
 「大正十二年の大震災が私に襲ってきた。そして私の信じた美に対する信仰は、この不幸のために忽ちにして破壊された。新感覚派と人々の私に名づけた時期がこの時から始まった。眼にする大都会が茫々とした信ずべからざる焼野原となって周囲に拡がっている中を、自動車といふ速力の変化物が初めて世の中をうろうろとし始め、直ちにラヂオといふ声音の奇形物が顕れ、飛行機といふ鳥類の模型が実用物として空中を飛び始めた。これらはすべて震災直後わが国に初めて生じた近代科学の具象物である。焼野原にかかる近代科学の先端が陸続と形となって顕れた青年期の感覚は、何らかの意味で変わらざるを得ない」。

 こう語っているように、新感覚派の文学は、直接には大震災による破壊と復興を契機として生まれた新しい生活と風俗を、都市に住むプチブルインテリの「青年期の感覚」でとらえ、表現したものであった。しかしそこには、非常に楽天的な面と何かに衝き動かされるような切迫感、焦燥感とがあり、そこには大震災による生活の変化への反応ばかりでなく、資本主義の矛盾の深化、階級闘争の発展に対する危機意識も含まれていた。

 新感覚派の文学は、運動としては大正14、15年を頂点に、1927(昭和2).5月の文芸時代廃刊とともに終わった。同人が有名になって自分たちの雑誌への寄稿が手薄になったこと、後続の新人たちが台頭し新勢力としての意義を失ったこと、プロレタリア文学が影響力を拡大し同人たちに動揺が生じてきたことなどによる。翌年には片岡鉄兵がプロレタリア文学に転じている。

【6、文学の社会的役割と意義()】
 私小説、心境小説が文壇の主流になり、プロレタリア文学と新感覚派の文学が台頭してくるなかで、既成作家の間でその狭さを脱すべきだという意見と、これこそが文学らしい文学だという意見に分かれ、小説の特徴とその価値≠ノついての議論が高まった。

 久米正雄は「私」を「他の仮託なしに、素直に表現した」心境小説こそが小説の本道であり真髄であって、本格小説といわれるものは造り物であり通俗小説に過ぎないと主張したのに対し、中村武羅夫は心境小説は傍流であるべきで、「主観的な行き方に対する、厳正に客観的な行き方の小説」、本格小説が主流とならなければならないと文壇の現状を批判した。広津和郎は「散文芸術の位置」で、散文芸術は自己の生活とその周囲とに関心を持たずにはいられないところから生まれたものであり、「人生のすぐ隣にあるもの」であって、小説は現実とのかかわりをもつところに特徴があると素朴な小説論を述べ、その特徴を生かして心境小説ももっと現実を描かなけなければならないといっている。菊池寛は、芸術が人生にとって価値があるとすれば芸術的価値のほかに内容的価値、題材自体のもつ人生的価値とでもいうべきものがあるからで、小説はそのような題材を取り上げるべきだと「文芸作品の内容的価値」で主張した。

 この菊池の説について、芸術作品は内容的価値と芸術的価値とが一体となったのものであって、それを分けて論ずるのは誤りであるという批判がなされた。芸術作品が題材と表現との、あるいは内容と形式との統一体であるというのはその通りである。しかし統一体だからといってそれらを分けてはならないということにはならない。表現や形式が題材や内容とはまったく別のものであって、題材や内容に外から与えられるというのではないが、相対的には区別されるし、分けて論ずることは誤りではないだろう。

【7、プロレタリア文学に対抗するためのたわ言(「プロ・モダ」間の「形式と内容」をめぐる論争)】
 ●蔵原、平林の文学の内容と形式論

 昭和初年代の新興文学をいうとき、よく「プロ・モダ」と一括される。いうまでもなくプロレタリア文学と新感覚派に始まるモダニズム文学である。ここで、蔵原惟人たちと横光利一たちとの「プロ・モダ」間で交わされた形式主義文学論争をみてみる。順序からいえば、先にプロレタリア文学運動内部における目的意識論争、芸術大衆化論争、芸術的価値論争があるが、ここでは省略する。

 論争の口火を切ったのは横光であった。1928(昭和3)年、文芸春秋11月号の文芸時評で、「勝本清一郎の『Y製鉄所の映画』」を取り上げ、中産階級の動揺と資本家階級の専横を教科書どおりに書いているが少しも迫るものがないと批評している。次いで、平林たい子の「殴る」について、その内容は平凡で古風なものにすぎないのに強い力をもって読者に迫ってくるのは、「作者平林たい子氏の芸術的表現が、フォルマリズムに侵入して来たが故である」という。ここから直ちに、「平林初之輔氏や、蔵原惟人氏の云ふやうに、内容が形式を決定すると云ふ理論は、此の作で見事に転覆されねばならぬ」と結論し、平林と蔵原の批判に移っている。

 蔵原の見解は芸術大衆化論争のなかで出された。この論争の発端は、蔵原が芸術運動の直面している課題は「大衆に近づけ」であると提起したことである。これに対して中野重治は「いはゆる芸術の大衆化論の誤りについて」で、芸術の大衆化とは通俗化と面白さへの追随があるだけであると批判し、大衆の「まことの姿」を描くべきだと主張した。また鹿地亘は「小市民性の跳梁に抗して」において、プロレタリア芸術の技術は「過去の社会に於ける感情の組織化に奉仕した技術を受け継ぐことではなく、大衆の意欲を知ることによって自然発生的に得られる」と述べた。これに対して、蔵原は「芸術運動当面の緊急問題」で次のように反論した。
 概要「中野に向かっては、大衆の生活を客観的に描くことは必要ではあるが、しかしそれだけでは不十分で、我々は更に、『大衆に理解され、大衆に愛され、而も大衆の感情と思想と意志とを結合して高め得る如き、芸術的形式を生み出さなければならない。鹿地に対しては、我々は先づ第一に、過去の人類が蓄積した芸術的技術をプロレタリアの見地から批判的に受入れなければならない。我々は敢えていはう――過去の遺産なくして、プロレタリア芸術はあり得ない、と。(中略)芸術はイデオロギーであると共に技術である。内容であると共に形式である。そして形式が内容に決定されることが事実であるとするならば、その形式が内容から自然発生的に生まれて来ないことも事実だ。芸術作品の形式は新しい内容に決定されたる過去の形式の発展としてのみ発生する、――それがマルクス主義的見地から見た唯一の正しい芸術発達の法則であるのだ」。

 平林の意見は「文芸批評家の任務について」に書かれている。そのなかでまず彼は、ルナチャルスキーの「マルクス主義文芸批評の任務に関するテヱゼ」の「内容は自ら一定の形式へと努力する。凡ゆる与えられたる内容にはたった一つの最後の形式のみが適応するといふことができる。作家は多かれ少なかれ、彼を感動させてゐる思想、現象及び感情を最も明快に示し、その作品が当てにしてゐる所の読者に最も強い印象を与へる如き表現形式を見出すことができる」というところに疑問を出している。平林は、ルナチャルスキーの論は当然のようにも思えるが、前半ではある内容は必然的に一定の形式を要求するといいながら、後半では同じ内容を、予想される読者に応じて、ちがった形式で表現することが必要であるようになっており、矛盾しているのではないかというのである。続いてこういっている。
 「形式の独自性についての主張は、内容の独自性が必然に、形式の独自性を要求するのであるからこゝで論ずる必要もない程自明の真理である。従って、形式の硬化並びに、形式を駆使する能力の貧弱等は、作者の重大な欠点であることは勿論である。それと同時に、わざわざ形式の新奇をてらった言はゞ形式が内容に先走ることも警戒しなければならぬ。内容と形式とは決して分離してはならぬ」。
 ●あまりにナンセンスな横光の理屈

 さて、横光による「文芸時評」の続きであるが、彼は平林の「形式が内容に先走る」と述べていることに矛先を向けている。横光にとって「形式とは、リズムを持った意味の通じる文字の羅列に他ならない」。また「内容は形式を通じて見たる読者の幻想である」。彼は、文字の羅列である形式なくして内容のあるはずがなく、「形式が内容に先走る」などはまったく意味をなさないと批判し、形式こそが内容を決定するのだという説明として次のような珍妙なことを書いている。

 「ここに平林初之輔と云ふ名前をとれ。もし此の前頭の一字なる『平』を『山』と置き換へよ。直ちに、平林初之輔は、忽然として、山林初之輔となって変形する。さうして、最早、此の山林初之輔は、決して優れたる批評家、平林初之輔ではないのである。即ち一字の文字がかくのごとく内容を変形したと云ふことは、全く形式が内容を決定したと云ふ現実上の事実である」。

 次に横光は、先あげた蔵原の主張を引用して批判している。
 「元来唯物論は、客観があって主観が発動すると云ふ原則をもってゐる。しかしながら、マルクス主義の文学理論は、形式が内容によって決定せられると断定する。文学の形式とは文字の羅列である。文字の羅列とは、文字そのものが容積を持った物体であるが故に、客観物の羅列である。客観があって主観が発動するものであるならば、即ち、文学の形式は主観を決定してゐる筈ではないか。主観とは、客観からなる形式が、読者に与へる幻想であることは、前に述べた。そこで、蔵原惟人氏、此の優秀なるマルクス主義者はマルクス主義の原則たる唯物論に、一大革命を与へたのだ。曰く。『主観が客観を決定する』と」。

 新感覚派の側では中河与一が精力的に論じている。彼は「形式以前には絶対に内容はあり得ない」と断言しているが、その主張の要点は「(一)素材がある。(二)作者がそれに形式を付与する。(三)内容とは形式を通して第三者に触れてくるものである。――(一)素材の選択は作者の方向と興味とを示し、(二)形式は作者の能力、技術を示し、(三)内容は作者から切り離されて思惟の対象として社会に放散する」(『鼻歌による形式主義理論の発展』)というものである。

 これらに対して蔵原は「形式の問題」で反論している。まず、形式が客観であり、内容は主観だということについては、「芸術そのものゝ全体が、すなわちその内容も形式も、ともに物質的なるもの――社会の物質的生活の反映であって、物質的なるものそのものではない」という。次に、形式主義者が「形式が内容を決定する」という場合、「形式がすべてである」という意味であるが、「内容が形式を決定する」というのは、「内容がすべてである」ということを意味しているのではなく、「芸術においては内容と形式といずれもが重要な要素であって、そのあひだに高低をつけることはできない」と述べている。また、形式主義者の「内容は形式から発生する」という主張に対しては、「内容と形式とは、ヘーゲルの表現をかりていへば『相互に発生し合ふ』のである」と反論している。
 ●文学の内容と形式、それらの関係について

 文学だけでなく芸術作品一般についてもっとも古くから議論され、またもっとも大きな問題の一つとなってきたのは形式と内容との関係であろう。芸術作品の本質が形式にあるのか内容にあるのかを対立点として、それぞれ一方を重視することによって形式主義美学と内容主義美学が成立している。もちろん、形式主義も内容主義も、形式か内容か、と二者択一の問題として、一方を取り他方を捨てるというのではなく、芸術作品を形式と内容が何らかの仕方で結びついた統一体とみたうえで、どちらを本質とするかということで対立してきたのである。

 この問題を考えるとき、内容は表現手段としての素材、アリストテレスのいう質料と表現対象としての素材、すなわち題材とを区別すること、また形式は表現対象そのものの形態とその対象の認識の仕方と表現技術とを区別することが重要であろう。表現手段としての素材とは、たとえば彫刻における木や大理石やブロンズなどである。アリストテレスはこの意味での素材と形式との関係を質料と形相としてとらえ、質料を形相に変えるものが技術であるとしている。彼は建築を例に取り、家を建てるときの質料は煉瓦で、形相は出来上がった家、煉瓦を家にするのは職人の技術であるといっている。建築の場合には質料と形式の関係はわかりやすいが、建築について「内容」を問うことには違和感があるだろう。「内容」はストーリーや思想、感情を含んだ文学の場合が形式の対概念にもっとも妥当するように思われる。建築にもバロックとかロココとかの様式には時代精神が反映しているだろうが。

 ヘーゲルは「美学」の中で次のように述べている。
 概要「芸術作品における「内容は思想であり、形式は感性面、具象的形態である。芸術は内容も具体的、形式も具体的でなければならず、内容である思想もしくは理念が具体的であるとは『十全に規定されていること』であり、『形態は具体的な理念であり、理念が真実に規定されたものにほかならない』。芸術の高さと優秀さは、理念と形態とがどの程度まで緊密に、統一的に相交融して現れるかにかかっている」。

 ヘーゲルは、内容と形式の結びつき方の多様性から芸術のジャンルと芸術史を説明しているが、そのまま妥当なものとみることはできないにしても、示唆に富むものである。これを簡単に確認しておく。

 理念が十分に規定されていないために形式も十分に規定されないのがエジプトやメソポタミヤを含む古代東洋の「象徴的芸術形式」で、ジャンルとしては建築である。理念と形式が十全な規定性に達して完全な調和を得たのが古代ギリシアの「古典的芸術形式」で、ジャンルとしては人体を表現する彫刻である。理念がより高度の精神性を獲得すると感覚的に表現することが困難になって「ロマン的芸術形式」となり、絵画、音楽、詩がこれに相当するジャンルである。

 ここで思想もしくは理念を表現対象とそれの認識の仕方に置き換えれば、内容と形式の関係が一層明らかになるのではないだろうか。文学の内容は、表現対象としての人物や事件その他の客観的な所与である素材と、それをどのように感じ、認識しているのかという作者の思想や感情であろう。そして文学の形式は、一方で人物の思想や行動などと事件の展開などの対象そのものの形態によって規定され、他方では表現の目標として措定された思想であるテーマによって規定されるところの、統一的に全体を結びつける筋あるいは構成であろう。言葉の選択やその配置である構文や比喩の使い方などは認識にかかわるとともに技術にもかかわることであり、バランスやリズムなどは形式にかかわるとともに技術にかかわることであろう。

 横光が文学の形式を「文字の羅列」であるといっているのは、文学の表現手段が文字であることから、外面的に規定しているのであり、また、文字が記号であることと意味を表示するものであることを区別しないためである。それから、形式を物質であるといっているのは、文字が一定の普遍性をもち客観的なものであることから、客観的なものはすべて物質的なものであると考えるからである。物質的なものの反映である観念的なものも、それが表現されれば、物質そのものではないが客観的なものになるのである。もっとも、表現するためにはペンや紙などの物質的なものが必要であるが。内容を「形式を通じて見たる読者の幻想」であるというのは、客観的な文学作品の内容と、それを解釈する読者の主観との混同である。内容は素材に作者が主観的な形式を付与したものであるという中河の主張にもっともよく表れているように、新感覚派は形式主義であり、形式主義は対象の認識をアプリオリの思考形式によるものとする主観的観念論である。

 蔵原は「芸術はイデオロギーであると共に技術である。内容と共に形式である」と、内容をイデオロギーに、形式を技術に一面化している。また、「形式が内容に決定されることが事実であるとするならば、その形式が内容から自然発生的に生まれて来ないことも事実だ。芸術作品の形式は新しい内容に決定されたる過去の形式の発展としてのみ発生する」といっているが、わかりにくいところである。これはおそらく、エンゲルスが「空想から科学へ」の冒頭で、社会主義は内容からいえば階級闘争の反映であるが、理論上の形式からいえば啓蒙思想の発展であると述べていることを念頭に置いているのではないかと思われるが、しかし、芸術作品の形式にここでいわれている理論の発展過程における形式をそのまま適用することはできないだろう。
 内容的価値と芸術的価値の問題は、プロレタリア文学の内部でも「政治的価値と芸術的価値」をめぐる論争として展開された。平林初之輔は政治的価値に芸術的価値を従属させる蔵原の理論は政策論、政治論にならざるを得ないといい、だからむしろ政治的価値と芸術的価値とを明確に区別したほうがよいと主張した。これに対して蔵原は芸術作品の評価に絶対的な基準はない、それは時代と階級により異なり、プロレタリアの基準は「階級的必要」とプロレタリアートの勝利の観点、つまり社会的価値であると批判した。この「階級的必要」というのは、蔵原の場合は実際には共産党の戦略とその時々の戦術に見合ったものであり、政治主義的なものであった。

 広津や菊池の論文は芸術一般から区別された小説論であり、作家はもっと現実に目を向けよ、そうすれば社会にとって意義のある文学が生まれるだろうというものである。しかし彼らは芸術の階級性は否定する。

 有島武郎は「宣言一つ」で、労働者階級の解放は労働者自身によってなされるもので、インテリゲンチャがそれに対して果たす役割は何もないといい、芸術の階級性を認めてプロレタリア文学に反対はしなかったが、インテリゲンチャがそれを書くことは出来ないとのべ、他方、広津和郎は芸術は超階級的な普遍性をもつものであるといい、久米正雄も芸術には国境がないのと同様に階級もないといった。また菊池寛は芸術の扱う題材、人物、思想、感情などはプロレタリアが天下をとれば、プロレタリア的色彩を帯びるかもしれないが、「芸術の本体」、芸術を芸術たらしめている部分には階級ということと関係はない、と芸術の階級性を否定した。

 「芸術の本体」が何を意味するのか不明である、芸術が経済社会関係の反映であるとするなら、階級社会における芸術が階級的性格をもつのはいうまでもないことであろう。

 ついでにいえば、武者小路実篤は主義によって動くものは「お弟子根性」であって弱いものだ、「宣伝文学は人間の心を乾燥にする」と非難をあびせ、志賀直哉も「主人持ち」の文学として拒否している。

 芸術の階級性と階級闘争の一つの手段であることを明瞭に意識的に語ったのは「民衆芸術論争」での大杉栄と中野秀人である。大杉は、民衆とは「平民労働者」であり、民衆芸術とは「民衆によって民衆の為に造られ而して民衆の所有する芸術」であると主張し、中野も「第四階級の文学は同情や哀願の文学ではなく、反抗闘争の文学である」と書いている。また平林初之輔も第四階級の文学は今日の社会の階級対立の必然の結果として生まれたもので、「被支配階級、反抗階級の思想的武器」であるとのべている。確かに、文芸運動が階級闘争の一構成部分であり、その意味で文学運動は革命闘争に従属する。しかし文学運動と政治闘争とは異なった内容と形態の運動である。

 だが、蔵原は文学運動の政治闘争、それも共産党の政治闘争に機械的に従属させたばかりでなく、「わが国のプロレタリアートとその党が現在に於いて当面している課題を、自らの芸術的課題とすること」と、その時々の戦術に従属させたのである。こうした「政治の優位性」論は、宮本顕治、小林多喜二に受け継がれ、より徹底化されて、文学運動として組織しながら文学運動としての活動を否定して直接政治闘争を担うことを要求するものになったのである。

 戦後に平野謙は、プロレタリア文学運動の諸悪の根源を「政治の優位性」に見いだし、『党生活者』のなかの笠原という女性の扱い方は、「目的のために手段をえらばぬ人間蔑視が『伊藤』とのみよがしの対比のもとに、運動の名において平然と肯定されている」のは「政治の優位性」から必然的に出て来たものだと批判した。彼は、革命闘争というものはすべて「政治の優位性」論に立ち、「目的のために手段をえらばぬ人間蔑視」は避けられないとして プチブル的立場から共産党の政治だけではなく、革命闘争一般を否定したのである。

 平野、小田切らは戦後において文学が民衆とともに発展するためには過去のプロレタリア文学を全面的に清算しなければならないと主張した。これに対し蔵原は民主主義文学は「戦前のプロレタリア文学の継承発展である」と規定した。しかし八〇年代の初めに宮本顕治は、小林多喜二、宮本百合子をプロレタリア文学の古典としてもちあげながら、平野らプチブルに屈服してプロレタリア文学を清算する論文を発表した。こうした共産党の影響もあって、今では本当のプロレタリア文学は、増田勇氏の『変節』などわずかな例外を除いて見る影もない。真の階級闘争と結びついた新たなプロレタリア文学が生まれることを切に望まずにはいられない。

【8、非政治主義と歪んだ政治主義≠フ対立(社会主義リアリズム論≠フ導入をめぐって)】
 ●蔵原理論への公然たる批判の出現

 「社会主義リアリズム」がソ連で公式に提唱されたのは昭和七年(一九三二年)十月であり、十一月の『マルクス・レーニン主義芸術学研究』第二号にグロンスキーの演説の一節が掲載されたのが日本での最初の紹介であった。そこでグロンスキーは、「われわれが作家に要求するのは、ただ真実を描け、それ自身弁証法的であるソ連の現実を正しく写し出せ」ということだと述べている。ただ真実を描け、現実を正しく写し出せという社会主義リアリズムは、蔵原理論に呪縛され、行き詰まりを感じていた作家たちにはひどく自由なものに受け止められた。他方、ナルプ(日本プロレタリア作家同盟)指導部は警戒的であり、八年二月に機関誌『プロレタリア文学』で紹介したものの、「その是非については今後なお多くの議論が必要とされるだろう」と前書きをつけていた。

 ナルプを中心とするナップ(全日本無産者芸術連盟)が結成されたのは昭和三年三月であり、それがコップ(日本プロレタリア文化連盟)に再編成されたのは六年十一月であった。この三年から六年にかけてがプロレタリア文学の最盛期で、当時の文壇を圧するほどであった。この間の理論的指導者は蔵原惟人であった。リアリズムに「前衛の観点」を結びつけた論文で登場した彼は、間もなく「多数者の獲得」、「芸術運動のボルシェヴィーキ化」、「共産主義芸術の確立」、「わが国のプロレタリアートとその党とが現在に於いて当面している課題を、自らの芸術的活動の課題とすること」、「主題の積極性」などを主張するに至った。このような主張は、階級社会における芸術が階級的性格をもち、階級闘争の一手段になりうるということから、始めは共産党にシンパシーを寄せ、党に入ってアジ・プロ部に所属してからは意識的に、非合法下の共産党の合法面での宣伝啓蒙の役割を芸術運動によって果たそうとして出てきたものである。

 ナルプからコップへの再編成は蔵原が提唱し、中野重治たちの反対を押し切って宮本顕治、小林多喜二たちによって推進された。コップの方針は、「工場農村に基礎をおく文化運動への転換」であり、作家たちに文化サークルの指導とそのなかでの政治的活動を義務づけ、また「創作方法における唯物弁証法のための闘争」を要求するものであった。これは、共産党が三・一五、四・一六、満州事変下の弾圧でいちじるしく弱体化したために、単に合法的な宣伝啓蒙だけでなく、党の政治活動をも担ってその代行機関の役を果たすとともに、党員を補充するためという側面がきわめて強かった。

 七年三月に蔵原、中野を含めコップ関係者約四百名が検挙された。そのうちの約百名はナルプのメンバーであった。これ以後、指導部の中心にあったのは逮捕をまぬがれた宮本や小林たちであった。彼らは、指導部の方針に疑問をもち、弾圧に動揺する作家たちにたいして、ただ「政治の優位性」をわめき、「右翼的偏向」「非政治主義」「日和見主義」「政治的立遅れ」と恫喝し、棍棒批評に終始したのであった。

 このような状況のなかで、ナルプの現状に不満をもつ伊藤貞助、黒島伝治たちは半商業雑誌『文化集団』を八年六月に創刊し、キルポーチン、ルナチャルスキーなどの社会主義リアリズム論を熱心に翻訳紹介した。それらの紹介のうえに、徳永直は『創作方法の新転換』で、蔵原がコップ結成直前に書いた『芸術的方法についての感想』を全面的に否定したのである。彼は作家にとっての実践とは創作以外にはあり得ないと、これまでの創作活動と組織活動の弁証法的統一という方針に反対し、唯物弁証法的創作方法を観念的であるとして拒否し、大衆の生活に学べと主張した。
 「芸術は客観的現実の中から、作家の豊富な生活経験によって創りだされる。弁証法的世界観がいかに作家をたすけるとはいえ、基本的なのは前者だ。かかる事実を無視した批評は『芸術的方法についての感想』の白州において被告席にたたされた幾多の作品を、弁証法の機械的適用で、一束五厘の眼刺し鰯の如く、片っぱしから貫いてしまった。至極く夏向きで、いい気持ちになられたであろう。『愛情の問題』で一束、『偶然と必然の問題』で一束、『政治的立遅れ』で十把総からげだ。『赤い恋以上』も、『処女地』も、『蟹工船』も、『太陽のない街』も、あえない最後を遂げてしまったのだ。そして彼は涼しく口を拭う――実をいうと日本のプロレタリア芸術は遺憾ながらかつてその百花繚乱を誇ったことはないのであるから」。

 そして彼は、社会主義リアリズムをそのまま日本に持ち込むことにも反対し、ふたたび大地に足を踏みしめるために「プロレタリア・リアリズム」から出発しなおさなければならないといい、「文学批評の官僚的支配を蹴って、のびのびと、自由に、大いに創作しよう」と呼びかけたのである。これに対して指導部は、コップの基本的方針の正しさは議論の余地のないものとし、「徳永直の撹乱者的態度」、「反同盟的デタラメ」、「プロヴァカートル鍋山貞親の見地を補うもの」と応じたのだった。

 この徳永の論文が書かれた昭和八年という年は、二月にはナルプを代表する作家と見られていた小林が虐殺され、六月には党の最高幹部の佐野学と鍋山貞親が転向し、この衝撃は巨大で、十月末までに獄中にいた党員の九割が転向したほどであり、十一月には入党してわずか二年で中央委員の中心になった宮本が検挙された年であった。いわゆるリンチ事件以後共産党は、組織としては実質的に崩壊していたのである。そして、昭和五年前後の、プロレタリア文学が文壇の寵児のように扱われた頃に参加した作家たちは相次いでナルプを脱退し、この年の末には生粋のプロレタリア作家と自他ともに認める徳永も脱退した。

 このようななかで、林房雄の一連の論文が決定的な影響を与え、九年三月にナルプは解散し、直後にコップも消滅した。解散そのものに反対する者、解散の仕方を批判する者などさまざまな意見が出されたが、かたちとしては林の、半分作家、半分政治家の団体を解散し、発表雑誌ごとの単位に分散化して競い合え、という主張が勝利したのである。社会主義リアリズム論が活発な論争の的になったのは、同盟の解散と同時に創刊された徳永たち『文学評論』などのプロレタリア文学雑誌においてである。
 ●ソ連における社会主義リアリズムの提唱

 1932.4月、ソ連で共産党中央委員会によってプロレトクリト、ラップその他の文化団体は解散を命じられ、同時に「社会主義建設に参加しようとする意向をもつすべての作家を単一なソヴェート作家同盟に統一する」ことが要求された。これを受けて、10月に開かれたゴーリキーを議長とする作家同盟組織委員会第1回拡大会議において社会主義リアリズムが提唱された。そこでは、ソ連の作家のもっとも重要な任務は社会主義的な人間の育成であるとされ、作品における行動的な性格、それにふさわしい生活改造のパトスが強調されて、その方法として社会主義リアリズムが主張された。ゴーリキーによれば、社会主義リアリズム芸術の本質的な内容は積極的なヒューマニズムであり、あらゆる搾取から人類を解放するための、共産主義社会建設のための闘争であって、このような芸術は社会主義的経験の事実の上にのみ創造しうるものである。

 ある文献によれば、1932年の後半からの2年間で四百以上の社会主義リアリズムに関する論文が発表されたという。その総決算として、1934.8、9月に第1回作家大会が開かれ、社会主義リアリズムの規定が採択された。
 「社会主義リアリズムはソヴートの芸術的文学および文芸批評の基本的方法であって、現実を革命的発展において、正確に、歴史的具体性において描きだすことを芸術家に要求する。その際、芸術的描写の真実さと歴史的具体性とは、勤労者を社会主義的精神において思想的に改造し教育するという課題と結合しなければならない」。

 社会主義リアリズムは、「唯物弁証法的創作方法」という作家の世界観がすなわち創作方法であるとし、作品が形骸化していたラップに対する批判として、「創作上の創意を発揮する可能性、および形式・スタイル・ジャンルの多様な選択の可能性を完全に保証する」芸術の方法として提起されたという一面もあった。一応は表現の多様性を保証するものとして出発したのであるが、それが教条となって固定化し、スターリン体制を社会主義と美化しつつ体制に順応し、民族主義、英雄礼賛の文学しか生み出さなかった。もともと、作家たちを一つの団体に組織したということが、国家的統制をしやすくし、文学をこの体制に奉仕させるためであったのであり、そうであるなら、作家同盟が御用機関化し、社会主義リアリズムが教条化するのは避けられないことであった。
 ●プロレタリア文学運動再建を模索して

 社会主義リアリズム論争は、文学の創作方法と蔵原理論に対する評価とが結びつき、ナルプ解体の一年ほど前に始まった。しかしそれが本格化したのは、ナルプが解体した後、転向者が続出するという事態のなかで、革命闘争の一翼としてのプロレタリア文学運動の再建の道を探ることと絡んで一三年まで続いた。宮本百合子は、日本で唯物弁証法的創作方法が主張されたのはプロレタリア文学運動の発展過程からみて必然的であり、世界の現実を見る眼を作家に与えた点に意義があったのであって、それを単に否定するのは清算主義的であるといい、「日本において、直ちに社会主義的リアリズムといふスローガンをそのまゝ適用し得るかどうかといふことは、活発な大衆的討論によって決定されるべき点でせう」(『社会主義リアリズムの問題について』)と、これについて自分の見解は示さず、受け入れることに慎重であった。

  川口浩は、「否定的リアリズムについて」で次のように主張している。
 概要「社会主義的リアリズムは「旧来のイデオロギー万能説、もしくはイデオロギー偏重説の終局的な清算である」と評価したうえで、ソ連では現実そのものが社会主義であるが日本はそうではないのであるから、社会主義リアリズムをそのまま日本に導入することはできず、プロレタリア文学運動の再建は『否定的リアリズム』にもとづいてなされなければならない」。

 このソ連は社会主義であるが日本はいまだ民主主義革命を課題としているということを理由に、社会主義リアリズムから学びつつもそのままでは適用できないとする論者は多かった。伊藤貞助は『社会主義的リアリズムか! 日和見主義的リアリズムか!』で、ナルプは解散ではなく再組織すべきであったと述べたうえで「革命的リアリズム」をいい、神山茂夫は「プロレタリア文学の指導下における全人民的革命文学、革命的ロマンチシズムを内に含むところの『革命的リアリズム』」(『社会主義的リアリズムの批判』)を提唱し、久保栄も『社会主義的リアリズムと革命的(反資本主義的)リアリズム』において、広範な統一戦線として文学運動を建設しなければならず、その立場は「革命的(反資本主義的)リアリズム」であると主張した。

 こうした意見に対して、森山啓は「社会主義的リアリズムの「批判」で、また中野重治は「三つの問題についての感想」で反論し、社会主義的リアリズムをそのまま受け入れるべきであるという。森山は、これはソ連の社会主義の現実を反映しただけの理論なのではなく、社会主義的なプロレタリアートの存在するところではどこでも正しいものであると述べている。中野のほうは、「創作方法論の誤謬と偏向(例へば「唯物弁証法的創作方法」)とから清められたその発展」であり、これを拒否することは「われわれの理論を世界的現代的水準から引き下げ」ることになるという。そして、神山・久保の主張は文学運動におけるプロレタリアートの独自性とヘゲモニーを消し去っていると批判している。この論争において、頭に「社会主義」をつけるか、あるいは「プロレタリア」や「否定的」や「革命的」をつけるかの違いはあるが、プロレタリア文学の方法がリアリズムであるとしている点では共通している。

 英語のリアリズムまたは仏語のレアリスムは、ラテン語のレス(「物」)から来た言葉であるといわれている。それが客観的世界の模写を第一義とする芸術上の立場を意味するようになったのはヨーロッパにおいては近代のことであり、それが写実主義と訳されて日本に入ってきたのは明治である。リアリズムは古代の文学作品にもみられるが、抒情や英雄の事跡を物語る詩に代わり、社会と人々の生活を描く小説が文学の中心を占めるようになって、文学の方法としてリアリズムが自覚されたのである。

 プロレタリア文学の創作方法は、客観的世界の真実を描く方法としてのリアリズムを主張した。またブルジョアジーのそれと区別して、社会主義的、プロレタリア的、革命的と規定することを常とした。その上で、彼らとその創作活動を機械的に政治に従属させた。但し、プロレタリア文学運動の再建の道として、革命的リアリズムにもとづくのか社会主義リアリズムにもとづくのか、またプロレタリア作家によってなのか同伴者作家なども含めた統一戦線によってなのかという違いが見られる。そうした違いは措くとして、第一に再建の現実的な条件があったのかということが問題である。それも今は問わないとして、作家が革命家になり、革命家が小説を書くことはあっても、それは組織的に決定することではないのであって、彼らには、職業的作家を職業的作家として組織し、同時に職業的革命家の役割を果すことを組織として決定すること自体が矛盾した、間違ったものであるという根本的なことに対する反省がまったくない。

【9、道徳的な「転向文学」への道徳的批判(転向作家の意識とその軌跡)】
 ●転向文学の出現とその特徴

 昭和九年(一九三四年)のナルプ解散前後から十一年にかけて、転向して出獄した作家たちは、転向を主題とする作品を相次いで発表し、「転向文学」の時代が出現した。村山知義『白夜』、島木健作『癩』『盲目』、藤沢桓夫『世紀病』、金親清『裸の町』、立野信之『友情』、藤森成吉『雨のあした』、窪川鶴次郎『風雲』、徳永直『冬枯れ』、中野重治『第一章』『村の家』などが文学史では主な転向文学としてあげられている。なかでも村山の『白夜』と島木の『癩』は最もはやく発表され、その後の転向文学を導いたものとして、また中野の『村の家』は転向の社会的責任の自覚と再起の決意を示したものとして特に有名である。

 村山の『白夜』は、妻が入獄中の自分から離れて不屈の指導者に接近していることを知って悩み、しかし、その指導者と妻をともに尊敬せざるをえない夫の内心を書いた短編である。闘争体験を親子、夫婦など肉親の愛情や生活の面から描き、転向者が非転向者に対しておよびがたいものを感じ、自己のエゴイズムや弱さ、良心の苦悩を綴るという主題のこの作品は、その後の転向文学の多くに共通する特徴をもっていた。

 他方、島木は獄中生活によって過去の運動の観念性を自覚し、自己の無力さを思い知ることから出発し、過去の誤りを明らかにすることによって、新しい真実の生き方を求めようとした。彼の処女作『癩』は、主人公の若い思想犯太田が、挫折によって動揺と不安にさいなまれ、そのうえ結核にかかって死の影におびやかされるが、癩を病んで廃人となる絶望的な運命にも屈せず、非転向を貫いて生きる岡田に会い深い感銘を受けることを描いたものである。しかし島木がこの作品で言おうとしたことは、非転向そのものの賛美ではない。太田の岡田に対する羨望と敬意は、岡田の動揺を知らない「きわめて自然」な確信の姿に対してであった。島木は、過去の運動と自分の思想が観念的であったために無力であったとして転向し、そこから、どのような苛酷な状況のもとでも動揺することのない確信を得ようとして、岡田のような人物を登場させ、一種の宗教的な悟りのようなものを求めている。

 中野の『村の家』では、村の生活にしっかりと根づいて揺るぎのない父に対比して、転向した息子のみじめさ、たよりなさを描いている。転向、出所して郷里の村の家に帰った主人公の勉次に対して、父親の孫蔵は、お前がつかまったと聞いたときには小塚原で骨になって帰ると覚悟してきた、ものを書くことより人間の修養が第一だ、今まで書いたものを生かしたければ筆を捨ててしまえ、と説く。黙って聞いていた勉次は、最後に「よく分かりますが、やはり書いて行きたいと思ひます」と答える。「勉次は自分の答へは正しいと思った。しかしそれはそれ切りの正しさで、正しくなるかならぬかはそれから先のことだと感じた」と終わり近くにあり、自分の弱さを見据えながら、新たに出発しようとする決意が語られている。
 ●転向文学をめぐる論争

 多くの場合、心ならずも、政治活動を放棄し、組織から離脱せざるを得なかった自己の弱さに対する苦悩を描いた転向小説が相次いで発表されると、転向作家と転向文学をめぐる議論が盛んになった。中村武羅夫は転向作家など「舌でもかんで死んだほうがいい」と放言し、岡田三郎は『転向作家は黙殺したい』を、小堀甚二は『転向派文学の政治的虚偽』を書いて露骨に敵意を示した。これらの発言は波紋をおこさなかったが、板垣直子の『文学の新動向』は大きな議論を呼んだ。彼女は、ナチスに捕らえられた新進作家のルードウィヒ・レンがファシスト司法官の前で、「自分はコムニスムスを承認する。コムニスムスの理論は正しいが故に自分はコムニストである。それは真理であるが故に全能だ」と明言し、死刑を宣告されたことを引合いに出して、転向作家の節操を問題にしていっている。
 「プロレタリア作家は、思想的に生きる限り転向することはありえない筈だ。部分的修正は可能であろうが、生活の態度を根本的に変化することは不可能である。しかるに、もし転向が行われたとすれば、彼は本能に執着し、それに道を譲ったまでゝある。かゝる第二義的種類の生活者から第一義的な文学が――何れの意味からも――生まれるであろうとは想像できない」。

 板垣の「第二義的種類の生活者から第一義的な文学は生まれない」という主張は原則論として間違いではないといい、しかし、居丈高に第一義的生活を要求している彼女自身が第一義的な生活をしているのかと問うたのは杉山平助である。そして、「彼らはとにかく、或る時代の感情を真実に生きた一人だ。社会はその報告を冷静に聞くだけの雅量はあっていゝわけだ。たゞ今のところ、真に我らを説伏するだけの力を具へた報告に乏しいと、云ふだけのことである」(『転向作家論』)と彼は述べている。

 大宅壮一は『転向讃美者とその罵倒者』おいて、転向作家批判の続出は、これまでプロレタリア文学の側から社会民主主義とよばれていた作家たちや、また、ブルジョア文学として批判され、その存在をおびやかされていた芸術派の作家たちが、ここぞとばかりに復讐的な揶揄と非難と罵倒の声をあげたのだと評し、そしてまた、転向作家のなかには二、三年前とは正反対のことを言ってジャーナリズムにちやほやされ、いい気になっている者がおり、こういう連中が反感を買うのも当然であるといっている。

 ジャーナリズムにのり、いい気になっている者として大宅が念頭に置いているのは林房雄などであろう。林は『真の節操について』で、「さうだ、僕は、人のいふ如く、最初に、そして自信をもって転向した。以来、旧作家同盟の仲間に対して、転向勧誘係の役目をつとめてきた。さうだ、自信をもってつとめてきた」と、転向したことが真の節操であるとして転向を誇示し正当化していたのである。

 大宅は、「『転向作家』に向かって投げられる各種の非難の中で、一番急所をついてゐると見るべきものは、『転向』後の新しい思想的立場が甚だ曖昧な点である」と指摘し、その理由として、転向といっても明瞭な思想放棄や反対イデオロギーへの移行である場合は少ないからであると述べている。次いで、「『転向作家』の思想を云々する芸術派に、これまでどんな思想があったか、また現在あるか、と反問したい。自分の方には、主観的な気分以外に、何等明確な思想を示さないで、『転向』後の思想を吟味しようといふのは、×××の立場ではあっても、作家批評家の立場とはいひがたい」と批判している。

 このような議論を受けて、宮本百合子は『冬を越す蕾』を書いた。転向の問題はたえず国家権力におしつぶされてきた日本の思想と文化の歴史、封建制の残存する近代日本の知識人のあり方にかかわるものであり、何が彼らをプロレタリア文学に駆りたて、何が彼らを屈服させたのかが問われなければならないといい、こう続ける。
 「もし、おのおのの主人公をして事そこに至らざるを得ないやうにした錯綜、また×××配置された紛糾混迷などを描き出して、せめて悲劇的なものにまで作品を緊張させ得たら、人は何かの形で、今日の現実に暴威をふるふ権力の害悪についてまじめな沈思に誘われたであらうと思ふ。けれども、これらの作家たちは、いひ合わせたやうに現実のその面はえぐりださず、自身の側だけを、あゝ、かうと取り上げ、その関係において、中心を自分一個の弱さ暗さにうつし、結局、傷心風な鎮魂歌をうたってしまってゐる。動揺のモメントが共産主義や進歩的な文化運動への批判、個性の再吟味にあるといふ近代知識人的な自覚は、その実もう一重奥のところでは、土下座をしてゐるあはれなものの姿と計らずも合致してゐると思ふのである」。

 『文学者に就いて』で貴司山治は、これらの批判をほぼ全面的に認めたうえで、敗北した自分たちは第一義的に生きることはできないが、プロレタリア文学としては二義的であっても、ブルジョア作家よりもすぐれた作品を書いていくことができると主張した。これに対して中野重治は猛然と反論した。自分たちは第一義を失うことによって、第二義も第三義もすべてを失ったのであり、再起への道は第一義的生活を取り戻すこと以外ではないといって、次のように述べた。
 「僕が共産党を裏切りそれに対する人民の信頼を裏切ったといふ事実は未来にわたって消えないのである。それだから僕は、あるひは僕らは、作家としての新生の道を第一義的生活と制作より以外のところには置けないのである。もし僕らが、自分で呼んだ降伏の恥の社会的個人的要因の錯綜を文学的綜合の中へ肉づけすることで、文学作品として打ち出した自己批判を通して日本の革命運動の伝統の革命的批判に加われたならば、僕らは、その時も過去は過去としてあるのではあるが、その消えぬ痣を頬に浮かべたまゝ人間および作家としての第一義の道を進めるのである」(『「文学者に就いて」について』)。

 転向文学論争について先ずいわなければならないことは、「芸術派」の作家、評論家たちが転向作家に対して、自分たちは社会について批判めいたことをつぶやきながらもその革命的変革ということなど夢にも思わず、安全なところに身を置いて、それ見たことか、恥を知れ、人間としておしまいだなどと非難を浴びせたが、彼らにそんなことをいう資格はまったくないということである。

 転向文学の大部分は、共産党とプロレタリア文学運動にかかわっていたころを振り返りつつ、非転向者を仰ぎ見て、彼らと比べて自分たちがいかに弱く、卑小であるかを、そして脱落してしまったことに対する良心の呵責を描いている。このように道徳的にしか描き出し得なかったということは、宮本百合子のように共産党が絶対的に正しく、転向作家は単に権力に負けて土下座した者たちであるとまではいわなくても、彼らがその誤りはせいぜい文学運動に対する「政治主義」にあり、基本的には正しいとみているからである。

 転向が道徳の問題となるのは、党の戦略的戦術的な政治方針が正しく、その正しい政治方針のもとで組織も基本的に正しく運営されていると確信しながらもそこから離脱した場合であろう。この場合には、多くの転向作家がそうであったように、なしくずし的に後退を重ねて戦時体制に組み込まれて行くか、中野重治のように屈折していく他なかった。そして中野のような場合は戦後に共産党に復帰することになった。他方、共産党の立場を批判して転向した者たちは、やり通せたかどうかは別に、マルクス主義に立って共産党の路線を検討しようと試みた者は一人としておらず、ことごとくがファシズム体制と戦争を肯定し、賛美する方向に走っていったのである。
 ●転向作家のその後の足どり

 林房雄は十一年にプロレタリア作家の廃業を宣言し、十六年には左翼転向者保護監察団体「横浜湘風会」の機関誌「湘風」に『転向に就いて』を書いた。彼はそこで、「転向は単なる方向転換ではない。人間の更生である。素っ裸になることだけでは足りない。冷水で皮膚を洗うことだけでは足りない。骨の中身まで洗って出なおすことだ。外形ではない。内心の問題だ」、転向は「無比の国体への自覚である」というに至った。

 島木健作は十二年に『再建』を発表している。それは、壊滅させられた農民運動の再建を主題としながら、同時に作者自身の生活と文学の再建をめざしたものであるが、一切の観念的な指導を排し、ただひたすら農民の現実に密着することによって運動を展開すべきだという思想に貫かれている。彼は、農民の具体的な生活の改善を強調して、社会の全体的変革をめざす革命思想を非現実的な観念論として否定し、生活のためとして時代に限りなく妥協している。その後『生活の探求』を書いた彼は、題名の示す通り、真実の生活を求め、誠実であり続けようとしながら、生活とか現実的とかの名のもとにファシズム体制にのみこまれ、おし流されていったのである。当時この作品に対して青野季吉、中村光夫、唐木順三ほか何人もの評論家は高い評価を与えていた。

 三年のはじめに新感覚派からプロレタリア文学へ移行した片岡鉄兵は、八年に転向して出獄し、『敢えて宣言する』を発表した。彼は、「私は頭でばかり転向から再転向への軌道を辿ったのではない。私はこの肉体を以て苦しみ、喘ぎ闘った。即ち生活したのだ。そして破れたのだ」といい、「私は昂然として云ふ、私の転向は、私といふインテリゲンチヤにとっては何の虚偽でもない必然だった」と述べた。「本来の自己」に帰った彼は、時代におし流されて生きる人々の風俗を表面的に描く通俗作家になり、武田麟太郎や藤沢桓夫も同様の道をたどっていったのである。

【10、「不安の時代」のインテリの模索(『悲劇の哲学』と行動主義の評価をめぐって)】
 ●シェストフの哲学をめぐる論争

 共産党とプロレタリア文学運動の潰滅は、それを支持していなかった多くの作家や知識人にも大きな衝撃を与えた。彼らにとって「マルクス主義」は、理論的にも道徳的にも重圧であったが、また自己の立場を確認する基準とでもいうべきものでもあったのであり、それに対してどのような態度をとるべきかを考えないではすまされなかった。その「マルクス主義」にもとづく運動の崩壊は、満州事変以来「非常時」が強調され、国家主義が台頭してくるという政治的社会的な情勢の緊迫化と重なって、思想的圧迫からの解放感を彼らに与えるとともに不安や思想的な混乱をもたらした。

 このような時代的背景のもとで、昭和八年(一九三三年)後半から、「文芸復興」が叫ばれる一方で、「シェストフ的不安」、行動主義の議論がおこった。この年の初めから、プロレタリア文学華やかなりしころには沈黙しがちだった明治・大正以来の既成作家が、申合わせたように一斉に作品を発表するようになり、また、川端康成、小林秀雄、林房雄らを同人とする『文学界』以下新しい文芸雑誌が次々に創刊された。「時あたかも、文芸復興の萌あり、文学雑誌叢出の観あり」と『文学界』創刊号の「編集後記」に川端は書いている。

 三木清は『不安の思想とその超克』で「不安」を最初に問題にしていたが、この問題がクローズアップされることになったのは、翌九年、ロシアの哲学者で革命後フランスに亡命したシェストフの『悲劇の哲学』が河上徹太郎・阿部六郎共訳で刊行され、論争の的になってからである。この書でシェストフはニーチェとドストエフスキーに依りつつ、科学、進歩、正義、幸福、美徳、理性、希望、理想といったもの一切を憎悪し、否定する徹底した非合理主義とニヒリズムの立場から、人間とは本質的に非合理的な存在であり孤独で醜悪なものであって、これこそが人間的真実ではないかと主張した。これがブルジョア社会の現実に対する憤怒であるとともにその変革に対する絶望の表明であり、マルクス主義にも敵対するものであることはいうまでもない。

 この「有毒の書」(訳者)に対して正宗白鳥と小林秀雄が共感を示した。正宗のほうは理想や調和の破れた現実の社会に目を向け、シェストフとともに「最醜の人物」の叫びに耳を傾けるがよいと述べた。現代日本で最大の文芸評論家といわれるようになった小林については後に触れるとして、先に論争の経過をみておこう。

 河上はさらにシェストフのチェホフ論『虚無よりの創造』を翻訳し、その「抜」で、「シェストフが私に与へてくれたものはドストエフスキーの『地下室の人物』といふ観念である。彼はここにあらゆる実証主義によって禿鷹のやうに啄まれた人間性の残骸を提出し、此の存在が尚且如何なる人間的事実を営むのだらうか? と提案してゐるのである」と述べ、実証主義を信奉する「常規の人間」にこれを否定する「変則の人間」、「地下室の人間」を対置し、後者のなかに人間性を回復する契機があるという。彼のいう実証主義とは、科学一般および技術一般のことであり、これらの否定が人間性の回復であると、反動的な主張をした。阿部六郎も『シェストフの思想』で河上とほぼ同様のことを書いて、シェストフは絶望の思想家ではなく人間性の回復を志向した創造の思想家であると強調して弁護した。

 「シェストフ的不安」の流行語が生まれた『シェストフ的不安について』で三木は、河上や阿部とは異なった観点からシェストフを評価している。「この不安は社会情勢から説明されねばならぬ。然しまたこの不安には単に客観的社会的条件からのみ説明し得ぬものがある。もしも人間に本来不安なところがないならば、彼が一定の条件におかれたからといって、不安に陥ることはないであらう」。では、人間の本来的な不安とは何か、それは死である、すべての人間は死を理性では自然必然であることを認めるが、しかし死を前にすれば不安に陥らざるを得ないという。

 そして、シェストフの「地下室の人間」とは死者の眼を与えられた者であり、死あるいは無の立場から必然性や理性を否定することによって、人間の自由や可能性を希求したのであって、「無からの創造」とはそうした意味であると解説する。次いで「無からの創造の出発点は何よりも新しい倫理の確立でなければならぬ」、「問題は新しい倫理を確立すること、世界へ出て行くことの意味が確立され、それによって『行為する人間』の新しいタイプが創造されることである」と主張した。

 人間は死を免れないということを理由に、三木はニヒリズムと非合理主義を肯定し、また人間の自由や可能性を必然性とは対立したものであると、それらを観念的な世界に追いやり、ここから人間の行為を倫理的に基礎づけようとしたのである。

 他方、青野季吉はシェストフのドストエフスキーやニーチェに対する理解の深さに驚嘆しながらも、彼の立場に同調できないという。彼は社会や階級を無視したシェストフの方法では人間を十分には理解できない、「悲劇の哲学」もまた時代と階級の所産である、科学や理想を否定しては人は生きて行けないと、シェストフを批判した(『「悲劇の哲学」に関するノート』)。また、『シェストフ否定論』で板垣直子は、シェストフは方法も体系も持たないえせ哲学者である、彼はシェークスピア、チェホフ、ドストエフスキーを自分にとって都合のよい面からだけ見ているにすぎないと否定している。
 ●小林秀雄のシェストフ論

 小林秀雄は、「レオ・シェストフの悲劇の哲学」の中で次のように述べている。
 「彼(シェストフ)はかう言ってゐる様にみえる、この地球にたった一度の生を享けてゐる癖に僕は不満だとか満足だとかなんといふ暇な男だ、それよりも俺の言ってゐる事は正しいと思ふか間違ってゐると思ふかはっきり答えろ、世の所謂希望も幸福もみな嘘だ、世の所謂真理、正義、思想、そんなものはない、又あってはならぬと俺ははっきり書いてゐるのだ、と。僕には彼の毒をうすめる力がない。はっきり答えなくてはならぬ、何も彼も君のいふ通りだと。(中略)公平無私な真理探究の為に、認識機能の十全を期する為に、敢て、世の格外者ども呪われたものどもを一紮(から)げにして見殺しにする進歩なる仮面を被った人間の残虐に、シェストフは憎悪の念を燃やしたのである。(中略)何故に作家のリアリズムは社会の進歩なるものを冷笑してはいけないのか。作家のリアリズムとは社会の進歩に対する作家の復讐なのではないのか。復讐の自覚ではないのか。人間文化の持つ、強烈な一種のアイロニイではないのか。現存するあらゆる愚劣、不幸、苦痛を未来の故に是認することを肯ぜぬリアリズム精神の上に、果たして社会の進歩が築かれ得るか」。

 小林秀雄はシェストフの言うことに全面的に賛意を表したうえで、シェストフの主張の中心はすべての「哲学」、とりわけ史的唯物論の破壊をめざしたものだととらえる。史的唯物論がこのように進歩の仮面をかぶった残虐なものである以上、作家はそれとは正反対のもの、史的唯物論が見殺しにする「世の格外者ども呪われたものども」をこそ見つめるべきであるという。小林はボードレールの『悪の華』から「お前は呪われた人達を愛するか? 言ってくれ、赦されない人を知っているか?」という一文を引き、この問いに肯定的に答えることによってはじめて芸術はリアリティーをもつのではないかという。直接には芸術におけるリアリズムを問題にしているのであるが、実際の内容はこの社会を構成するさまざまな階級的に規定された人間のうち、どの人間に人間的真実を見るかということを問うているのである。

 昭和四年に『改造』の懸賞論文第二席になった『様々なる意匠』(第一席は宮本顕治の『「敗北」の文学』)で小林は書いていた。
 「子供は母親から海は青いものだと教へられる。この子供が品川の海を写生しようとして、眼前の海の色を見た時、それが青くもなく赤くもない事を感じて、愕然として色鉛筆を投げだしたとしたら彼は天才だ、然し嘗って世にかかる怪物は生まれなかっただけだ。それなら子供は『海は青い』といふ概念を持ってゐるのであるか? だが、品川湾の傍に住む子供は、品川湾なくして海を考へ得まい」。

 小林がこの論文で主張したことは、概念や思想は抽象的一般的なものであって、個別的具体的なものとは対立したものである、個々の人間にとって重要なのは個別的具体的なものや直接的体験である、思想というものは「意匠」であってマルクス主義もまた「意匠」の一つにすぎないということであった。

 その彼が、シェストフ論では一般的であるというところの思想と個別的なものとの関係を史的唯物論と「呪われたもの」との関係に置き換え、「呪われたもの」の声を聞け、彼らにこそ人間的な真実がある、それこそがリアリズムというものだというのである。何よりも個別的具体的なものを重んずるのであるが、しかし、それでは史的唯物論によって「呪われたもの」とは具体的にはどのような人間を指すのか、ブルジョアジーやファシストなのか、そして彼らに人間的な真実があるというのか、ということについては賢くて文学的な#゙のことであるから、そこは曖昧に「呪われたもの」と濁しておくのである。

 シェストフの哲学は、科学や技術の発展とともに発展してきたブルジョア社会が行き詰まり、ファッショ体制が強化され、また共産党が壊滅してしまったという状況のなかで、恃むに足る思想的よりどころを失ったプチブルインテリの精神的混乱に一つのよりどころを与え、その空白を埋めるものであった。
 ●中途半端な行動主義論争

 このようなシェストフの流行と表裏の関係をなすものが「行動主義」、「能動精神」をめぐる論争であった。昭和八年に船橋聖一、阿部知二、伊藤整らを同人とする『行動』が創刊された。この雑誌が「行動主義」という一つの方向をもった雑誌になっていったことには小松清の果たした役割が大きい。彼は、九年にフェルナンデスの『ジイドへの公開状』を翻訳した。一九三三年のヒットラー政権成立前後から、ヨーロッパの作家や知識人の間に反ファシズムの運動が盛んになり、それまで自我主義者とみられていたアンドレ・ジイドが共産主義への転向を表明して話題になったが、当初はジイドに反対したフェルナンデスも「ジイドへの公開状」を発表して反ファシズムの態度を明らかにしたのである。その後小松は、『仏文学の一転機』を書いて、「大きな欧州の不安を前にして混沌と動揺に苦しみ悩んでゐる今日のフランスに何物かある異常な能動的な精神が誕生しつゝあるやうに私には思へる」と述べ、フランス知識階級の「行動的ユマニスム」を紹介した。

 これに刺激された船橋は『新潮』の「文芸時評」で、「徒に末梢への方向を辿ってゐた近代主義文学が、没落と停頓の苦難を経て、新たに意志の力を加へられる時が来たのである。又、長く放埒と不検束の河を漂流してゐた自由主義が、とにかく明るいものへ、建設的なものへの、思想的方向を与へられる時が来たのである」と述べて、「意志的リベラリズム」に立った「行動主義文学」を主張した。

 しかし船橋の主張は、これまで芸術派はプロレタリア文学の側から反動呼ばわりされて萎縮してきたが、今やその進歩的な意志を自覚して、何物にも囚われない文学をめざすことができるといっているように、プロレタリア文学からの解放感に浸りながら、芸術派も社会性と思想性をもった文学を書くべきだということであり、政治的な行動に進んで行こうとするものではなかった。

 また青野季吉は、日本の知識階級の能動精神は共産党とプロレタリア文学の運動に結集したが敗退してしまった、しかし今、わずかながら彼らのあいだに再び能動精神が芽生えてきた、彼らはその階級的特性を自覚したうえで、社会の進歩的な運動に参加していくことが望まれる、という意味のことを『能動精神の台頭について』に書いて、労働者階級と知識階級とによる反ファシズム統一戦線が生まれることに期待を表明した。

 これに対して大森義太郎は、「いはゆる行動主義は日本では、まったくインチキである」と非難し、フランスにおける行動主義は反ファシズム、マルクス主義への方向をはっきりさせており、労働者階級との協同ということがいわれている、ところが日本の行動主義は知識階級の独自性を強調した「夜店商人的売込み」であって、ファシズムに行き着くほかはないと攻撃した(『いはゆる行動主義の迷妄』)。大森は、フランスの反ファシズム統一戦線は美化しながら日本のそれを批判し、自由主義とファシズムの区別と一定の対立を消し去ったのである。

 昭和十年に『行動』は廃刊され、船橋、阿部知二が『文学界』に参加することによって行動主義文学論も立ち消えになった。

【11、文学界にも台頭する民族主義、国家主義(「日本浪漫派」をめぐって)】
 ●文学に現われ始めた民族主義・国家主義

 昭和九年(一九三四年)のナルプ解散から間もなく、転向作家の作品にも芸術派作家の作品にも民族主義・国家主義の傾向が現われ始めた。村山知義の『白夜』には、獄中転向の一つの契機となった民族主義を自覚する心理描写がある。
 「かうして二年近くを暮らし、まったく風の通らない二度目の夏を越したころから彼の心は何か底の知れぬ敵対しがたいものに蝕まれはじめた。はかり知れぬ遠い昔からの、顔も名も生涯も滅び失せた父の母のその父の母の、血が肉が、何とも名づけがたいものが、その末の小さな所産である彼をくらひつくすかに思はれた」。

 また島木健作の『苦悶』にも同じような獄中での転向心理が描かれている。
 「『血』が、――その先の先はついに模索すべくもない父祖の父祖以来の血が、個人的性格が、ここにいたって石田のうちに暴威をふるひ人間を形づくり人間のあらゆる行動を支配する決定的なモメントはこれ以外にないと思ひつめ、そしてそれはまた今さらどうすることもできぬものであると、石田が信じはじめたのは自然である」。

 これら転向作家たちの、連綿として続く血縁の自覚というかたちでの民族意識は、自己に訪れた精神的危機の救済策という面があったのであり、そこには大量転向のきっかけとなった前年の佐野学・鍋山貞親の『共同被告同士に告ぐる書』の影響も一つにはあったものと思われる。ここで彼らは次のように述べている。
 概要「コミンターンは各国に台頭せる国民主義的傾向に対してはたゞ之を排外主義とけなしつけるだけで、其中に動く生きた力を科学的に解剖するのを敬遠して居る。(中略)日本民族の強固な統一性が日本における社会主義を優秀づける最大条件の一つであるのを把握できないものは革命家ではない。民族とは多数者即ち勤労者に外ならない。我々は我が労働階級及び勤労人民大衆の創造能力に強い自信をもつ。(中略)我々は大衆が本能的に示す民族意識に忠実であるを要す。(中略)日本の皇室の連綿たる歴史的存続は、日本民族の過去における独立不羈の順当的発展――世界に類例少なきそれを事物的に表現するものであって、皇室を民族的統一の中心と感ずる社会的感情が勤労大衆の胸底にある」。

 かく正統の民族主義を堂々と主張し、天皇制を賛美し、民族主義を際限なく美化していた。

 横光利一の天皇制と結びついた国家主義への傾斜は、とくに満州事変以来めだって台頭してきた国家主義の影響があった。1934(昭和9)年に発表された「紋章」で次のように述べている。
 「雁金には常々から家系が代々勤皇をもって鳴ってゐたために、彼の行為には、国家という観念が大海のやうに押し迫ってゐたことを私は見受けたが、しかし、彼の国家に対する観念は、まだ民衆から独立した巨大な別個の存在のもののごとく映ってゐたと思はれるふしがあった。けれども、彼の頭に国家がそのやうに印象されてゐたといふことは、彼の行為の上では、およそ何事によらず、ただ自身が正しいと直感したことのみに驀進するといふ勇壮果敢な表現をとって少しも怪しまなかったところに影響した」。

 行動的な発明狂の雁金八郎と自意識過剰のインテリ山下久内を対比させ、雁金のたびたびの失敗から起き上がる強さを、代々勤皇の名家の出という家系、「紋章」によるものとしたのである。
 ●『日本浪漫派』と『人民文庫』との論争

 昭和九年から十年にかけて、日本浪漫派の同人となった保田与重郎、亀井勝一郎らと、後に人民文庫を創刊した高見順、森山啓らとの間で浪漫主義についての論争があった。保田の「日本浪漫派広告」はこう書き出されている。
 「平俗低徊の文学が流行してゐる。日常微温の饒舌は不易の信条を昏迷せんとした。僕ら茲に日本浪漫派を創めるもの、一つに流行への挑戦である。(中略)僕ら亦希求し憧憬する、最も高貴に激烈なものを。それは日本浪漫派の目標であり、現代である。憧憬の形式は奪取の表現である。最も美しいものの擁護のため、最も崇高なものの顕彰のため、この必至の伝統芸術人復興の使命も、茲に特に高邁急迫に表現する一方法である」。

 彼は革新への決意を呼号しながら、詩精神の復活、文学における倫理性の回復、進歩主義批判を展開し、近代的解釈で歪曲された伝統を純化して日本の古典美を再発見しようとしていた。

 亀井は、「現代の浪漫的思惟」で彼のいうところの浪漫主義を次のように説明している。
 「元来浪漫主義とは壁に向かって真直ぐに立ち上がったものゝ歌だ。だが、その情熱が飽和点に達してくると我々の心の翼に肉の翼を並み揃ひたい欲望を起こす。その浪漫主義に疲労しきって、身をかはさうとしたところに僕はいまひとつの浪漫主義を考へたい。満ちあふれた空想と希望とをもって、再び現実の中に立ち帰ることだ。ファウストはマルガレエテとの激しい恋愛の後、幸ひにして『草花咲ける野に横たはって』自然の露を吸ふことが出来た。自分の心の中に育成した夢をもって、『人々の中へ』行くべきだらう。そこで自己の傷を洗ふがいゝ。理性をとり戻すがいゝ」。

 彼にとって浪漫主義とは、転向してしまった自己をくまなく点検し、苦悶する自我の所在を明らかにして「信念再生」を図り、再び現実に立ち返るためのものであった。

 高見は、浪漫派の主張と動きに対して「浪漫派的精神と浪漫派的動向」を著し次のように批判している。
 概要「暗澹たる現実に対して、それを飛び越え高所にあってその軽蔑と否定の歌を明朗に然り浪漫的に奏でるものであり、日本浪漫派は一九世紀浪漫主義の妖怪である。しかも浪漫的精神の本質たる反抗的精神を抜きとった、片輪の妖怪である」。

 しかし、何故この時期にこのような運動が登場して来たのかということについては何も触れていない。

 森山は、「転形期の自我について」を著し、浪漫派の動きを次のように批判している。
 「亀井らは知識の上では社会主義の必然性と労働者階級の使命ということは知っている、だが実践的にその闘いについて行けない、そこで社会主義とそのための闘いに対して単に憧憬することになる、しかし、憧憬するだけの自分にも満足出来ない、そこで自己救済の方法として『自我の再検討』をして夢想の中で跳躍を試みることになるのだ。(中略)我々は『自我』の本質を、『内省』のみによって決してつかみ得ない。『自我』における『反逆的』な心理も『敗北的』な心理も、我々の生活過程に深く根ざしたものであり、現在の社会状態に対する反応なのだから、社会状態と生活の変更によって、『自我』もまた変更される」。

 森山の批判に対して亀井は「浪漫的自我の問題」で反論している。
 「重大なことは、マルクス主義といふ現代の理想主義精神に挫折した人、乃至は挫折を感じた人々がいかなる方法によってその理想主義を再度救ふかに在る、その場合に台頭してくる自我の問題である。そしてこれこそ現代知識人の中心的な問題とならねばならぬものと思ふ。(中略) 今日、自我といふものを、あらゆる側面から固執せざるをえない根底には、そのやうな痛々しい喜劇的役割に対する激しい怒りがあるのだ。何故野次馬であり、見物人であり、ポチ犬であったのか。人は『政治主義』が悪い、『公式主義』が悪いと言ふ。それもさうであらう。然し一番悪いのは、それを真に道破しえず、それに尾を振って追従した『犠牲心』であったのだ。つまり、マルクス主義には政治主義はつきものであって、それを見抜けず、おのれの分を越えてへたに労働者階級のために犠牲心を発揮したことが一番の間違いであったのであり、インテリは政治主義的理想を拒否して浪漫的理想をもたなければならず、その理想に立って『孤高の反抗』をすべきである」。
 ●日本浪漫派の基本的な性格

 1936(昭和11).3月、文学界の一部や日本浪漫派の超国家主義的傾向と国家による文化統制に対抗して人民文庫が創刊された。その立場は広津和郎のいう「散文精神」による批判的リアリズムであった。「散文精神」とは「どんな事があってもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通して行く精神」である。当時「人民」は「臣民」や「国民」という言葉とはちがって、反権力的な意味あいをもっていた。しかし日中戦争の開始、人民戦線派の検挙という状況のなかで1938(昭和13).1月に廃刊を余儀なくされた。

 日本浪漫派は、コギト(昭和七年三月創刊、十九年九月終刊)の同人のうちの六人によって1935(昭和10).3月に創刊された。コギトの名前はデカルトの「コギト エルゴ スム」(「我思う、故に我あり」)に由来する。ドイツ・ロマン派の古典憧憬の影響のもとに日本の古典の再発見をめざしたものである。創刊号の「編集後記」で保田は、「私らは最も深く古典を愛する。私らはこの国の省みられぬ古典を愛する。私らは古典を殻として愛する。それから私らは殻を破る意志を愛する」と書いている。日本浪漫派も日本の古典文学、古美術への関心と結びつき、日本精神回帰の方向をたどり、十年以後ファシズムの拡大とともに起こった国学の復興、日本主義文学の勃興をリードした。十三年八月に財政的な理由で廃刊の後、保田、浅野晃らは林房雄とともに「新日本文化の会」や影山正治の主宰する「大東塾」に加わっている。

 平野謙は、「一見対蹠的な性格をもつ『人民文庫』と『日本浪漫派』とは、ナルプ解散、転向文学の氾濫という文学的地盤から芽ばえた異母兄弟とも言えよう」、高見順は、「転向という一本の木から出た二つの枝」と評している。たしかに両派の同人の大多数は転向した者たちであった。日本浪漫派の中心である保田は旧制高校時代に赤色救援会で活動し、その後三木清らの反ファシズムの組織であった「学芸自由同盟」の書記局員の一人であったし、亀井は共産青年同盟に入って三・一五事件で逮捕され、保釈された後ナルプに属していたし、太宰治も共産党の資金局に関係していた。人民文庫のほうでも、武田麟太郎、本庄陸男、高見などはナルプのメンバーであった。しかし、日本浪漫派の登場には転向ということが大きくかかわっているであろうが、単に転向とだけ結びつけることはできないだろう。

 保田は『蒙彊』で、戦争は「精神史の変革を理念する行為」であり、「破壊が同時に新しい文化の倫理の建設に進んでゐる」と書いている。戦争によって、日本の独自性を見失い西欧模倣に走った「文明開化の論理」に支配された近代日本文化が生まれ変わるだろうと期待したのである。「近代の超克」論の先取りであった。また書いている。
 「この三十一年(昭和六年)を中心とする時代に、我国の青年の間に一つのロマンチックな思想と文学が芽ばえた。一切の表現が旧い秩序破壊の感情によって表現されねばならぬ状態からデスペレートになった中で、さういうものを土台として、この民族的な気運は動いてゐた」(『佐藤春夫』)。

 「昭和初年にはヂャーナリズムを風靡し、天下の青少年を傘下にした(共産主義)運動も昭和七八年ごろ青年の生活が最悪の失業状態を経験したとき、この青年のヒュマニズムにたった運動はじつに極端に頽廃化し、デスパレートなものを、真向に権力に向かって叩きつけるすべを見失ってゐたのである……日本浪漫派の運動は……時代に対する絶望を生きぬくために、文芸の我国に於けるあり方を発見したといふことが、最大の身上であると私は考へる」(『我国に於ける浪漫主義の概観』)。

 昭和6年といえば満州事変の起こった年であり、十五年戦争の始まった年であった。日本帝国主義は内治の経営に失敗しつつ海外侵略によって行き詰まりからの脱出を図ろうとしていた。既に共産党は壊滅させられており、この時、保田に代表される日本浪漫派が登場した。その思想は、直接には転向、挫折、不安、頽廃のなかの青年のデスペレートな気分を反映しつつ日本帝国主義とその国家に対する失望と怨嗟、反帝国主義の意識をも内包していた。日本浪漫派は、この社会の矛盾が文明開化以来の近代化によってもたらされたものであるとして、その革命的変革を希求していた。もはや共産党的観念的で情緒的な「革命」に依拠せず、古き日本の原始的共同体への憧憬と結びつけて古典の復興をめざした。同時に、彼らは「深い夢を宿した強い政治」を願望しており、それはファシズム体制と帝国主義戦争の賛美に道を開くものでもあった。

【12、猫も杓子も国策文学(目クソ鼻クソの「国民文学」論争)】
 ●言論統制のなかでの国策文学

 1937(昭和12)念の日中戦争勃発に伴い、満州事変以来しだいに強められてきた国家による思想の弾圧と教化は一段と激しさを加えてきた。文学のほうでは宮本百合子、中野重治らの執筆禁止、人民文庫の廃刊などが続き、島木健作の「再建」や石川達三の「生きてゐる兵隊」などの発禁が相次いだ。「再建」は農民運動の反省をとおして革命闘争を観念的であると批判し、現実的な運動として再建されなければならないということを主題としたものであるが、すでにこのような作品も発表は許されなかった。「生きてゐる兵隊」は石川が中央公論の特派員としで陥落直後の南京を訪れ、「あるがままの戦争の姿を知らせることによって、勝利に傲った銃後の人々に大きな反省を求め」る為に、見聞に従って中国人女性に対する日本兵の残虐な行為まで書いてしまったために当局に睨まれ、発禁になるとともに有罪となった。

 12年末に石川が南京に派遣される前から、文学者は新聞社や出版社から続々と大陸に派遣され、彼らの現地報告がそれらの新聞や雑誌に掲載された。「生きてゐる兵隊」は現地での取材をもとにして小説にした最初のものであった。しかしそれが発禁となることで、戦争を描く際の限界を知らしめた。火野葦平は戦後になって、日本軍が負けているところ、戦争の暗黒面、女のことなどは書いてはならない、また小隊長以上の軍人はすべて人格高潔、勇敢沈着に、敵はどこまでも憎たらしく、いやらしく書かねばならないという指示を受けたと語っている。

 翌13年には内閣情報部は菊池寛、久米正雄、横光利一、吉川英治ら十二人と漢口攻略戦への従軍を協議し、人選については文芸家協会会長の菊池が中心になって27名が選ばれて出発した。世にペン部隊と称されたものである。この計画が発表され、また、戦地から帰って来て各地で報告会を開くと、従軍作家は新聞に大きく取り上げられ、マスコミのスターになった。作家たちは選ばれて従軍することは文壇で重じられている証しであり、国民としても名誉なことだと考えるようになっていた。選にもれた作家たちの嫉妬や羨望をなだめるために苦労したことを菊池は嬉しげに当時の文芸春秋に書いている。特にこれ以後、国策文学、戦争文学が氾濫していくことになった。ブルジョア的あるいはファシズム的な「政治と文学」の結合である。

 戦争文学の代表的な作者は火野葦平の「麦と兵隊」であった。日中戦争開始以来はじめて日本軍が苦戦をなめたといわれる徐州作戦を描いたもので、広大な中国戦野の果てしない麦畑を、炎熱に焼かれ、汗と埃にまみれながら進軍し戦う将兵の活躍ぶりや、兵士たちが歩き眠り食い飲み排泄しといったことを日記体で記録したものである。それまでにも尾崎士郎の「悲風千里」や林房雄の「上海戦線」などがあったが、それらは作者が戦争を外側から描いた従軍小説や従軍ルポルタージュであったのに対し、火野の作品は「陣中小説」として受け取られた。これが大ベストセラーになり、戦争の実状を知りたいと思っていた人々の圧倒的な支持を得て、彼は一躍国民的英雄のように遇された。彼は昭和の始めころにはマルクス主義に接近し、石炭沖仲仕を率いて労働組合を結成し、書記長となってゼネストを指導するが、逮捕されて転向し、その後「糞尿譚」を書いて芥川賞を受賞していた。この作品の成功によって兵隊作家による「陣中小説」の流行をもたらした。火野はその後「土と兵隊」、「花と兵隊」なども書いている。

 戦争文学とともに農民文学が盛んになった。13年に農林大臣有島頼寧を会長とし、島木健作、和田伝ほか約五十名を擁した農民文学懇話会が結成され、農業の奨励という国策にそった文学が流行した。これを皮切りに、14年には大陸開拓文学懇話会、少年文学懇話会、女性芸術家による「輝ク部隊」、海洋文学協会、経国文芸の会、農山漁村文化協会、南洋文学懇話会、朝鮮文人協会、日満文芸協会が結成された。これら半官半民の文化文芸団体は、それぞれが文学賞を設定したり、大陸や農村・工場に人を派遣したりして、国策に沿った文学の発展を促進した。

 それらは生産文学、大陸文学、海洋文学などと呼ばれ、今までになかった幅広い素材の上に立った文学を生み出し、素材派ともいわれたが、既に批判的視点は全くなく、目先は変わっても素材によりかかった底の浅いものでしかなかった。これら国策文学を支えた作家の多くは転向作家であった。もと左翼であったために、積極的に国策に協力しなければ生きていかれないという事情もあったであろうが、「政治の優位性」論が国策と抵抗なく結びついたという面もあったのではないかと思われる。

 昭和15年、大政翼賛会が結成され、その文化部部長に岸田国士が就任し、文化部を支援するかたちで日本文学者会が結成され皇道翼賛の国民運動の一環としての思想文化戦線がめざされた。翌年には、文芸家協会は大政翼賛会と情報局の支援のもとに文芸銃後運動を開始し、全国で講演会を催したりするようになった。また、徴用令によって多数の作家、評論家が南方作戦に従軍していった。
 ●論争の体をなさない「国民文学」論争

 「国民文学」論争は、昭和十二年の日中戦争勃発前後と十六年の太平洋戦争突入前後の二度にわたって議論が高まっている。これは戦争遂行という国家目的のために「日本的なもの」「民族的なもの」によって国民意識を統合しようとする国策に、意識的にか無意識的にか、文学者の側もその一端を担っていこうとして提起されたものである。発言者は少なくなかったが、かたちとしては論争と呼ぶにふさわしい展開を辿っているとはいえない。原則的な批判が出来る者はいなかったし、また状況からいっても真っ向から公然と批判をすることは不可能であったからである。

 11年、浅野晃は「何よりも先づ民族的なるものが文化の破壊の張本人であるといふ錯覚を捨てよ」と叫んだが、小林秀雄はこれに対して東京朝日新聞の文芸時評で、「これもまた近頃僕の眼中を往来してゐた思想である」と共感を示し、それでは「伝統は何処にあるか」と問い、「僕の血の中にある、若し無ければ、僕は生きてゐない筈だ」と自答している。また横光利一は「厨房日記」で、義理人情を日本的知性として礼賛した。

 こうした民族主義的な傾向に対して、翌年、窪川鶴次郎は、「新たなる文芸思想の要望」を著し次のように批判している。
 「横光利一氏や小林秀雄氏や林房雄氏が、最近になって打ち揃って、日本に感謝し、日本人たる信念をしばしば告白してゐることは、インテリゲンチャのこの上ない現代的カリカチュアとして、時代の急激な変化を物語ってゐるのであろうか。祖国を愛しないとでも言うのだらうか、彼等以外のものは。彼等のかゝる告白の本質が、批判的精神の喪失、現実の無条件的肯定、要するにインテリゲンチャの驚くべき知性の衰頽を示してゐることは明らかだ」。

 谷川徹三は、「文学と民衆並びに国民文学の問題」で、「今日の知性を納得させない神話の形而上学化としての日本精神論や日本主義を憎む」という。しかし「日本的なもの」「伝統や民族性の問題」は重要であるとし、日本に「偉大な国民文学が生まれぬうちにすでに疑似国民文学たる通俗大衆文学の氾濫を見てゐる」現状を憂い、浅野晃のインテリの知性が民族や民衆を代表する知性になっていないという意見に賛成して、民族や民衆を代表する国民文学が生まれることに期待を寄せている。

 国民文学について最も精力的に論じたのは浅野晃であるが、彼は「明治以後の日本の文学が不朽のタイプを作り残すことが出来なかったといふこと」が国民文学論の中心問題であるという。その理由は近代日本の「模倣的な寄生的インテリゲンチャ」の「寄生的知性」「寄生的文化」のためであり、輸入された思想や文化を排して、伝統と民衆とのなかにある「民族的カオス」に立ち返ることによってこの寄生的なものを克服することが国民文学創出の第一歩であると主張する(『国民文学の根本問題』)。

 三年後の昭和15年に、浅野は「国民文学への道」を著し次のように述べている。
 概要「低調で退屈きわまる散文的平和時代は過ぎ去ろうとしてゐる。詩と戦ひの時代が来りつつある。新しい感覚が時代を劃しようとしてゐる。この新しい感覚は、伝統的感覚の復活であり、それによってのみわれわれの日本がこの危機を乗り切るために絶対に必要となったところの感覚である。このやうな感覚は、われわれの祖先が伝承してくれた古典的詩歌のなかに保存されてゐたものである。(中略)詩は志であり、それは国をになふの志である。これが臣民の道である。わが国にあっては、国民文学は臣民文学であると言ってよい」。

 これに対しては板垣直子が「国民文学論」を著し次のように述べている。
 「氏のいうやうに臣民の道といふことは勿論根本でなければならぬ。しかし、現代の複雑な散文精神の発達してゐる時に、それだけをもってきて議論するのは簡単すぎる」。

 彼女はこうした批判をするために、先ず「日本が今日の赫々たる国威を発揮する事情にまで恵まれていった歴史的現実について考へるならば、実際に非国策的、非建設的な一切の文学論は、すべて黙殺して差支へないといってよい」と断言している。これが本音だとしても、この程度の批判をするのにも勇気と覚悟が必要であり、身を守るためにあらかじめ予防線を張らなければならない時代になっていたともいえるのである。
 ●文学報国会の結成と超国家主義者の跳梁

 1941(昭和16).12.8日、太平洋戦争に突入し戦争は新しい局面に入った。開戦に対して文学者はただちに新聞や雑誌にあふれるような感激を語っている。例えば河上徹太郎は「光栄ある日」の中で次のように述べている。言論統制が厳しかったにしても、やはりこうした感想は本心からのものであったことは疑い得ない。
 「遂に光栄ある秋が来た。しかも開戦に至るまでの、わが帝国の堂々たる態度、今になって何かと肯首出来る、これまでの政府の抜かりない方策と手順、殊に開戦劈頭聞かされる輝かしき戦果。すべて国民一同にとって胸のすくのを思はしめるもの許りである。今や一億国民の生まれ更る日である。しかもさうなるのを他から強制されるのではなくて、今述べた眼前の事態がすべて我々をして欣然そこに到る気持ちを湧き起こさせてくれてゐるのである」。

 翌年、情報局の指導のもとに文学者の一元的組織として日本文学報国会が創設された。「本会ハ全日本文学者ノ努力ヲ結集シテ、皇国ノ伝統ト理想トヲ顕現スル日本文学ヲ確立シ、皇道文化ノ宣揚ニ翼賛スルヲ以テ目的トス」としていた。文芸家協会は解散し、名実ともに文学者の唯一の統合組織が成立したのである。会長は徳富蘇峰、理事には久米正雄、中村武羅夫が就いた。小説・劇文学・評論随筆・詩・短歌・俳句・国文学・外国文学の八部会から成り、約四千名の文学者、学者を会員とした。宮本百合子、中野重治も会員になった。会の行った主な事業は、三回にわたる大東亜文学者大会の開催、建艦運動の一助としての小説集の刊行、『国民座右銘』『愛国百人一首』の選定、『大東亜戦争詩集・歌集』の編纂、辻小説・辻詩の制作、文芸報国運動講演会、古典作家の顕彰祭などであった。

 戦時下にあって我が世の春を謳歌した者たちがいた。保田与重郎、蓮田善明、浅野晃、林房雄、中河与一らの超国家主義者たちである。保田は昭和十六年の終わりに、影山彰治らの文化新同盟の機関誌『文化維新』に書いている。
 「時勢の威力を示して人心を一新するためならば、大ざっぱに思想強化の元凶を認定して、断伐すればよいのである。改新においてはそれ位のささやかな犠牲は止むを得ないし、又至誠に発する誤謬ならば、世人一様に了解し、彼此を追悼する筈である。わが国の強さはかかるところにあったと私は信じている」。

 彼らは、国家と民族の危機を救うものは天皇を中心とする日本民族の伝統の独自性にたった日本主義であると主張し、右翼団体と結びついて、「尊皇攘夷」「内敵勦滅」を唱えつつ、かつての左翼文学者や自由主義的文学者の転向が本物であるかどうかを嗅ぎ回り、少しでも左翼的、自由主義的な臭いを嗅ぎ付けると摘発し、筆誅を加えた。

【13、】
 淡中剛郎

 川口奈央子氏の「『文学者に就いて』について」 村の家からみる転向」」を参照すると、「一九三四年三月は日本プロレタリア文化連盟(コップ)の大弾圧・検挙があった年で、中野重治をはじめ、窪川鶴次郎、村山知義、壷井繁治、中条百合子、山田清三郎ら多くのプロ文学者が逮捕された。その約二年後、彼等の大半の者は転向し出獄している」、「中野も日本共産党員であったことを認め、今後共産主義活動に加わらないことを誓いーこれが当時の転向の条件であったー出獄している。懲役二年執行猶予五年の判決を受けて出所。 なおこの時上申書と父親の謝罪が必要であった」とある。

 れんだいこから見れば、これは止むを得なかった「応法」対応では無かろうか。もし完黙を貫き、非転向を意思表明すれば、小林多喜二のような虐殺が待ち受けていたであろう。宮顕は、「こいにつには何を云っても無駄だ」と特高があきらめ拷問の手が緩められたことを誇っているが、そういうことは有り得る筈が無い。この論理は、虐殺に倒れた同志に対する侮辱以外の何ものでも無かろう。

 これにつき、当時の転向の様子を本多秋五は、1954年の「転向文学論」の中で、「佐野、鍋山の転向ゃ、獄中生活の苦痛や日本国家による圧迫なしにも、不可避的に、声明書のような内容をもちえたかどうか疑問で、耳を覆って鈴をぬすむ背教者の仕業とみるのが、当時もいまも変らぬ健全な常識であろうと思う」、「最大の原因は、いうまでもなく外的強制にあった。外的強制というなかには、検挙・投獄・拷問だけでなく、最悪の場合には死刑をも覚悟せねばならなかった治安維持法改悪の恐怖もあった」と述べている。これが素直な観点となるべきだろう。

 さて、問題は次のことにある。当時検挙されたプロレタリア文学者は、党中央の転向声明を契機として雪崩を打って転向していった。転向派は、「応法」対応で合理化すれば良いものを如何なる風に合理化したか。反転して当局派へと転身した一群の者については別途考察するとして、忸怩たる思いを持った転向派は次のような内面心理を吐露している。

 一つの極論は、「道義的なものを見る。もちろん自分が一度抱いた信念を守りえないことは汚辱・恥には違いない」とか「文学者といえども、政治的節操を守っていいし、守らなければならぬことは言うまでもない」(貴司山治)、「彼等は転向せずに其々の如く死ぬべきである」論があったようである(板垣直子の「文学の新動向」 、一九三四年九月『行動』)。しかし、これはやはり暴論であろう。「美学」的には理解されるが、運動論上に益するものは何もなかろう。

 中野重治は、1934.5月、東京控訴院法廷で、日本共産党員であった事を認め、共産主義運動から身を退く事を約束して、執行猶予の判決を受けて即日出所した。その時の心境と転向者としての自分の位置を、「『文学者に就いて』について」の中で次のように述べている。
 「弱気を出したが最後僕らは、死に別れた小林の生きかえってくることを恐れはじめねばならなくなり、そのことで彼を殺したものを作家として支えねばならなくなるのである。僕が革命の党を裏切りそれに対する人民の信頼を裏切つたという事実は未来にわたって消えないのである。それだから僕は、あるいは僕らは、作家としての新生の道を第一主義的生活と制作とより以外のところにはおけないのである。もし僕らが、みずから呼んだ降伏の恥の社会的個人的要因の錯綜を文学的錯合のなかへ肉づけすることで、文学作品として打ちだした自己批判を通して日本の革命運動の伝統的批判に加われたならば、僕らは、そのときも過去は過去としてあるのではあるが、その消えぬ痣を頬に浮かべたまま人間および作家として第一義の道を進めるのである」。


 更に、「村の家」(中野重治、一九三五年五月『経済往来』)で、その消えぬ痣として中野に残っている転向問答を次のように語っている。共産党員であった主人公の勉次は転向し出獄した後、父と母のいる村の家に帰る。そこは相変わらず古い封建制度の残っている社会である。この村全体が古い封建主義の象徴として構図されており、父と母に一般的な民衆の姿が反映されている。勉次は、他のインテリゲンチャ系共産党員と同様に、実際の農民、民衆の姿を村で暮らすことによって皮肉にもやっと本当の民衆の生活に触れることができる。

 この時、共産主義運動に関わった息子の更正につき、親子で次のような会話をしている。父母はどちらも伝統的価値観の只中にあるが鮮やかな対比を見せている。 母はなぜ共産党員になったか、天皇陛下に弓を引くようなことをするのかとにかく「すべてがよくわからぬらしい」姿で描かれている。(しかし彼等が運動の対象に扱ってきた、といえば聞こえはわるいが、民衆の大部分がこの様であったのではないか)

  父は一応思想的には理解しているが、「お前が捕まったと聞いた時から、お前は死んでくるものだとして、処理してきた。それが転向と聞いて、びっくりした。それでは革命などと書いたことは、全て遊びだったという事になるではないか?」と言われて返す言葉が無い。 「革命だ!と口にしたからには、命を懸けてそれを守れ!」と言われて、それに反論できる正当性がどこにも無かった(この自覚こそが、中野重治が尊敬されるところとなっている。いわば「自己否定のまじめさ」のようなもの)。親父は、「 それがいいか悪いかではなく一度信じたものは貫き通さねばならぬ」、「お前らア人の子を殺いて、殺いたよりかまだ悪いんじゃ」と語り、当時の左派の運動の底の浅さを叱責する。

 いわば“裏切り者”に対する視線を投げつけられた勉次は苦悶する。二様の民衆論理を投げかけられて、勉次の生き方が問われる。 内的には自分の思想を捨てていないが、それが外的にはどういうふうにしろ「転向」という形を取った。何を同言っても嘘、いいわけになるが、それでも筆を捨てたが最後、戦いを放棄してしまう。勉次は出獄して「タノミとツネの前で手をついて頭を下げた。しかし、何を、なぜ謝るのかはいえなかった」。ここは重要な箇所である。この頭を下げるのは自分への屈服、または弱さ、を表している。タミノは同志であり、他人ではなく共産党員であった自分の姿でもある。しかし父には頭を下げない。最後の「それでも書いていきたいと思います」は残された唯一の抵抗だった。
 
  「村の家」には直接に転向の理由が書かれていない。外的要因も大きかったに違いないがそれだけに止まらず、何等かの内的な、転向へと導く思想の流れの変換があったはずである。勉次の転向の理由に中断された治療中の梅毒があげられており、これも興味深い。梅毒の為発狂するのではないかという恐怖がある。本多が「転向と狂気とは、もともとどこかに関係があるためなのか、中野も、村山も、島木も、転向の過程に発狂の恐怖を書き入れていた」と指摘し、長い投獄生活においては、社会と疎外される事、民衆、同志からの連帯感を失うことが狂気につながるのか、いずれにしても内的な、はっきり言えば以前から党の活動に疑問を抱いていたことが上部の崩れによってこの時一気に露出したことも原因の一つではないかと見る。

  転向の理由は各個人様々で、家庭愛、拘束からくる反省や、教誨師の影響、健康からの理由などがあり、しかしそれらを動機とする転向の機会は以前にもあったに違いなく、なぜ三三年以降集中的に出てくるのだろうか。もちろん佐野・鍋山の転向声明をきっかけとしているが、その内容に影響されてではあるまい。佐野学・鍋山貞親「共同被告同志に告ぐる書」声明は、コミンテルンからの離脱、「日本の皇室の連綿たる歴史的存続の支持」を表明していた。これに続いて大量転向が発生した。これに対し、 「権威が崩れたときに思想の欠如が人々に意識され(後略)」、「自分は裏切られたという不信感は、昔から上部依存のこの党には当然予想されたことだが、さらに踏み止まろうという人びとへの思想的援助がなかったことも、敗北感をいっそう強めるはずである」と指摘している。

  佐野・鍋山の転向がなぜ起こったのかどのようなものであったかは追及せぬことにして、ただ最高指導者である彼等の転向が、党員に深い不信の念をもたらしたことを指摘しておく。それらにとって変わる思想が存在せず、自らも作ることができず、日本においてのマルキシズムが一つの運動ではなく「一つの状態」と石堂清倫(「中野重治と社会主義」一九九一年、頸草社)がいうような共産党では、思想ではなく権威が崩れたことによって、紐がほどけるように上部から瓦解したのである。

 結局そのような者が指導者と目される共産党では、あのように大量の党員が転向したにもかかわらず、個々の問題にしか、個人の領域においてしか采配される問題でしかなりえなかった。よって、その後転向した文学者による「転向文学」は私小説の形を取るのである。先にも述べたが中野と思われる主人公・勉次(作中の人物が似ているから、とか作者から連想されるからということで読むのは危険な読みであるが)に、転向の心境を告白させ、「それでも書いていきたいと思います。」(前掲「村の家」)と宣言させているのだ。板垣直子がいう「第二義的種類の生活者から一義的な文学が何れの意味からも生れるであろうとは想像できない」(「文学の新動向」一九三四年九月『行動』)。封建的な社会に対して、やはり「書く」という行為しかなく、頬に消えない痣を浮かべたまま「書きつづけていく」宣言。個人の問題として発した転向がここへ来てもう一度社会的な問題へとつながっている点で、「村の家」は単なる私小説の型にとどまらず「転向文学」の座にある。





(私論.私見)