指導者と組織の弁証法的関係について

 (最新見直し2005.12.15日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこは、「指導者と組織の弁証法的関係について」次のように考えている。
 「歴史は、慧眼な指導者によって指針され、大衆がこれを歩むことによって前進的に創られる。指導者と大衆は相補関係にある。『大衆から学べ』はこの観点に立つ時に信憑性を帯びる。だが、慧眼な者が指導者になることは珍しい。二流ないしそれ以下の者が支配者として現れ、歴史を停滞させる。アジア的専制はこの観点に立つ時に信憑性を帯びる」。

 名指導者と凡俗な指導者との違いはナヘンにありや。れんだいこが察するに、名指導者には人間と社会に対する深い洞察が介在している。というのは、ほぼ同じ状況でほぼ同じ情報が与えられても、偉大なる者と凡人の間には見通す能力が違うということが厳に存在するということを認めねばならないからである。そういう意味で、名指導者は畏敬されねばならない。

 以上は普通の話であり、問題は次のことにある。能力者を指導者としたならば、他の者達はどうなるのか。一旦は節穴族として下野する。しかし、指導者と下野族の場合には何がしかの機関運営的システムを確立しておくことが要求され、このシステム設計の出来具合で組織の秀逸性及び社会的成熟度が分かる、という弁証法的関係になっているのではなかろうか。

 このシステムが機能しない時、いくら良い設計をしていても「絵に描いた餅」になる。結局は、最終的には集団的能力が関係している。これに組織の登用制度が関係してくる。そういう意味で、上に立つ者も下に甘んじる者も高次な何がしかの合意形成能力が問われているように思われる。

 以下、望ましい機関運営的システムを解析し、同時にその反対のシステムをも俎上に乗せる。

 2002.9.13日れんだいこ拝


Re:れんだいこのカンテラ時評その15 れんだいこ 2005/02/02
 【再びれんだいこの角栄論、指導者論】

 砂辺功・氏の「田中角栄 怒涛の大構想」を手に入れ、「れんだいこの角栄論」を手直しした。「田中角栄と金権政治の問題」kakuei/kinnken.htm
の項を大幅に手直しした。砂辺功・氏の国防論は馴染めないが、ロッキード裁判に対する氏の観点は、当時に於いては白眉のもので慧眼足りえている。

 それはともかく、世の中は不思議なものだ。百年一人の逸材にして案外と潔癖な角栄が悪しザマに語られ、どうしようもない悪人が正義風に説教垂れて通じるならいがある。歴史の不思議なところかもしれない。

 次のことも言い添えておく。「立花史観により『角栄と云えば金権』なるオウム返しの洗脳刷り込みが為されており、事情に疎い者はこれにコロリとやられている。しかし、この『常識』は本当だろうか。れんだいは、逆説で、『角栄ほど金権腐敗と無縁な政治家はいなかった。ヒモ付き献金を角栄ほど嫌った政治家はいない。ましてや得体の知れぬシオニズム系海外企業から胡散臭いカネを貰うことなぞ有り得る訳が無い。それは秘書軍団にも徹底されていた』と考えている」。

 以上前置き。
 我々はそろそろ「指導と強権の相関関係」を論じ、違いを確認しておかねばなら無い。れんだいこは次のように考える。指導には権力が伴う。その権力が指導を受けて自由自主自律的に行使される場合、善政と云うのではなかろうか。これは、与野党問わずの組織の普遍原則のように思える。

 これを逆に言えば、権力が関係者の自由自主自律性を封殺し、強制的に指導に及ぶ時、これを悪政と云うのではなかろうか。これも、与野党、大小問わずの組織の普遍原則のように思える。無能な者ほど強権体制を敷く。これも、古今東西の法則である。

 それだけ、指導を為す者即ち指導者が大事ということになる。

 世に、左翼圏に、民主集中制原則なる論理がある。言葉の意味で正確に民主と集中が接合されることは何ら保障されていないのに、この用語は実践理論としては何ら意味が無いのに導入され常態化している。今日でも各党派がこれをお題目にしている。行き着く先が王朝体制しかもたらしていないのに、崇め奉られている。

 これは何を物語るのだろうか。恐らく、左巻き人間の特徴として「言葉に酔う資質」があり、このボンクラ資質がうまく利用されて、民主集中制原則が通用して居るのではなかろうか。その行くつく先が執行部万年体制だと云うのに。そして、この万年体制が組織を腐敗させるというのに。

 以上からいえることは、我々は、「言葉に酔う資質」から脱却し、物事をもっと実証的に弁証法的に見る眼を養い、不断の変化の中で鍛え鍛えられる原理を創造せねばならないということである。そういう人士を結合させる際の素敵な指導理論、権力理論を確立せねばならない、ということではなかろうか。

 悪指導、強権政治と闘い、良指導、自主結合の確立に向けての身近なところからのサンプルを生み出し、そのサンプルを次第に世間へ向けて打ち出し、種々調整しつつ最終的に国家権力奪取まで向わねばならない。その後の指導も政治も、この間培ってきた手法の再創造で良く、慌てて俄仕立てで接木することはない。そういう運動体を小の時から造るべきではなかろうか。

 これに相応しい用語を生み出さねばならない。「ビッグバーン・ネットワーク理論」うううーん違うか。「一粒万倍理論」うううーん違うか。「異論尊重・一手ひとつ論」うううーんちょっと良くなった。「得心分離結合論」うううーんこんな感じか。まっいずれ適語を生み出そう。

 そういう風に考えると、角栄が培ってきた組織、人脈、政治、識見、哲学はどれも参考になる。まさに手本と成るひながたを歴史に残していると云える。そこでは、議論と研修がサンドイッチ的に要請されており、異論が大手を振って尊重されており、何ら不利益受けづに再結合の道が用意されている。この間、良指導の下御意の者が合従連衡し続け、組織を培養する。あぁ素晴らしい素晴らしい。

 その角栄もシオニズム派とこれに呼応する売国奴勢力にヤラレタ。ということは、このシステムも万全ではないことが分かる。しかし、この原則の上に立っての工夫で対処すれば良いと思う。以上雑感を書き留めておく。

 2005.2.2日 れんだいこ拝

【ルイ・アルチュセール氏の指摘】
 宮地健一氏の「健一MENU」の「共産党のなかでこれ以上続いてはならないこと」を参照する。

 1978.4月、哲学者であり、フランス共産党員のルイ・アルチュセール氏は、ル・モンド紙に「共産党のなかでこれ以上続いてはならないこと」を投稿し、掲載された。その第二章「組織−支配の機械」は、民主主義的中央集権制システムおよび専従活動家システムに関する提言を記している。日本では、1979年に「新評論」社から、加藤晴久東京大学助教授訳で出版された。

 次のように紹介されている。
 「1978年3月の総選挙結果に関するフランス共産党中央委員会の総括内容をめぐって、千数百人以上の知識人党員が公然と異議申し立てを表明しました。この論文は、ルイ・アルチュセールの党中央批判内容です」。

 
目次  
 1、徹底的に変えなければならぬ運営方式

 2、国家機構と軍事機構を敷き写しにした党
 3、ブルジョア的な政治運営方式
 4、指導者間の盟約

 ルイ・アルチュセール氏は、フランス共産党の在り方に対して次のように批判している。
 党史を書くというのはひとつの政治的課題である。指導部の現状を知っている者は、フランス共産党が、ソ連共産党とまったく同じように、おのれ自身の歴史を書くことができないという事実に、だれも驚かないだろう。党は自己の歴史を正面から見ることに耐えられないのだ。というのも、数々の誤りやそれ以上の事柄を告白しなければならなくなるだろうが、党はそれらに《光をあてる》ことは絶対に望まないからである。

 ルイ・アルチュセール氏は、党と国家の組織及び機構が酷似していることを例証して、党の近代化及び民主化を提言している。




(私論.私見)