指導者の要件、役割、責任、権限について |
(最新見直し2010.08.30日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
驚いたことに、日共が前衛党として課せられていた自らの使命を放棄して、そればかりかそのことをとうとうと自慢気に語って見せ、聞いた者が又これを賛美するという珍現象が現れている。宮顕−不破理論が遂に辿り着いた驚倒すべき倒錯理論であるが、識者から批判の声が挙がらない。この現象は何なんだろう、れんだいこは訝っている。それでいて、「民主集中制」という美名での「党中央集権制」は引き続き維持すると云う。これも訝る者が少ない。 |
【西郷隆盛「指導者論」より】 | |
西郷隆盛は、「指導者論」の中で次のように述べている。
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【呂新吾「呻吟語」より】 | ||||||||||||
中国の思想家・呂新吾は、「呻吟語」の中で、指導者の資質について次のように述べている。
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【毛沢東の幹部育成論】 | |||||||||||
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【中国革命精神の精華「老三篇」考】 | |
【中国革命精神の精華「老三篇」を読もう】(TAMO2氏による投稿、ここに拝借ご理解宜しくね)
ここに紹介する文章「老三篇」は、中国共産党が革命に至る過程で述べられ・記された短編であり、その中には中国革命の最良質の精神が凝縮されている。 われわれは、必ずしもこのように生きられるものではない。だが、共産主義に共感する人間は、このように生きたいものである。尤も、他人に強制できる代物ではなく、強制した場合はかなり悲劇的になることはいうまでもない。最後に、本篇の電子化を快諾なされた長周新聞社に感謝の念を表する。共産主義が大衆への宣伝が生命線であることを十分に認識されているところに、特に敬意を表したい。電子共産趣味者、TAMO2 |
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【毛沢東(1944.9.8日)、「人民に奉仕する」】 | |
これは、中国共産党中央直属機関のひらいた張思徳追悼集会でおこなった講演である。
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【毛沢東(1939.12.21日)、「べチューンを記念する」】 | |
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【毛沢東(1945.6.11日)、「愚公、山を移す」】 | |
これは、中国共産党第七回大会でのべた閉会のことばである。
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【2001.7.29日参院選の総括から垣間見る指導者の役割と責任論】 | |
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2001.7.31日の毎日新聞に「共産、前向きに総括」なる見出しで、次のような記事が載っている。概要「共産党の常任幹事会が開かれ、志位委員長が選挙戦について、『党の方針には自信を持っている』と語っていることもあり、この日は前向きに総括する意見が相次いだ。市田書記局長は、『参院選は小泉旋風、突風を受け、厳しい戦いだった。それをはねのけて前進する、足腰の強い党を作るのが課題だ』と語った」とある。
読売新聞では、「共産党は30日の常任幹部会で、参院選で議席を大きく後退させたことを踏まえ、党運営のあり方などについて、党員以外の一般支持者からも意見を募ることを決めた」ともある。「同党が選挙総括で党外の意見を聞くのは異例。昨年夏の衆院選、6月の東京都議選に続く連敗となったことへの危機感を反映したものだ」とのコメントが付けられている。 党の公式コメントは、「参院選の開票を受けて」で、「残念な結果ですが、今度の選挙で私たちが主張したことの意味は、今後生きてくると考えています。論戦の面で私たちが主張してきたことの正しさについては、確信をもっております」とある。 以上を総合して透けて見えてくることは次のことである。選挙結果に対してさすがに痛痒を感じているらしい。さすがに今のところいつものような饒舌不破の白黒逆裁定節が聞こえてこない。何せ都議選の敗北を前進勝利であった総括するのも朝飯前の芸の持ち主不破にして、こたびは議席数、投票獲得数、投票率一切の指標で敗退が明白なこのデータを前にしてはさすがにグーの音さえでないのか。口が重たいようではあるが、まだ分からない、ここ暫く様子見して見たい。 しかし、さすがに志位は不破学校のお茶坊主らしく、「明るい選挙総括」をしてくれたようである。本当は「明るい」のではなく「負け惜しみ」と書くところであるが、商業新聞の行き届いた配慮のなせる技であろう。何とも有権者を馬鹿にした話であるが、『党の方針には自信を持っている』らしい。ということは、それほど正しい方針を聞き分けられなかった有権者の意識が遅れているという事か。聞き分けた上で拒否されたとは露ほども考えない。もう一つ、党中央はそれほど正しい方針を掲げているにも関わらず、それを大衆に届けられなかったのは下部党員の責任であり活動に問題があるということか。何の事は無い、無謬神話に鎮座して党内を恫喝しまくった宮顕論理そのものではないか。さすがにこの系譜だけのことはある、決して己の非力と責任には向かわない、向かわせない。 市田の『参院選は小泉旋風、突風を受け、厳しい戦いだった』総括も、宮顕詭弁指導の賜物である。選挙に敗北したことを正面から受け止めようとせず、やれ「50年問題の後遺症余韻」だの「天安門事件の悪影響」だの「東欧崩壊ショック」だの「謀略ビラにやられた」だの言い訳論理には事欠かない事例を見せてきた。こたびは一歩進めて、相手がうまくやり過ぎてもそれが敗退の原因になるということを公然ぬけぬけと語っている。そういう意味で、『小泉旋風突風観』は史上に残る戯言として記録されるだろう。こうなると、この駄駄っ子の口を塞ぐ付け薬はもはやないというべきだろう。 『党運営のあり方などについて、党員以外の一般支持者からも意見を募ることを決めた』ともある。さすがに前衛的指導党の任務を捨てただけのことはある。ろくでもない選挙総括のままに党内外の『インテリ系文化人』の声を聞くのだと云う。このこと自体党中央の脳幹機能が停止していることを証左しているが、見ようによってはこの痴態を明白にさせるまでに約50年かかったことになる。思えば、道中様々な人士が宮顕−不破系運動の変調ぶりを語ってきたが、その都度聞く耳を持たず『排除の論理』で抑圧追放してきた。その際、何てたって選挙で前進しているではないかが唯一の指標であり恫喝文句であった。民主連合政府構想はその媚薬であった。『70年代の遅くない時期』はとっくに過ぎたが、『21世紀の遅くない時期』と言い換えればまだ功能があるらしい。 唯一の生命線であった選挙でかくなる事態が連続している訳であるが、この党は、どこまでも心中するのが正しい党員の態度だと上から下まで唱和し続けるだろう。今やそういう人士ばかり寄っているのだからそれ以外の結論は有り得ない。お好きにどうぞの世界ではあるが、れんだいこは思う。小泉の『解党も辞さず、聖域無き構造改革に立ち向かう』なぞ、例え言葉の上だけであろうとも、この党には迷惑以外の何物でもないセリフであるからして徹底対決あるのみである。石原とは是々非々で行けてもこの男は癪に障り過ぎるという訳か。それはそれで良いと思う、妙な論理ではあるがとにかく闘う姿勢になってきたのは良いことだろう。 今や、この党は丸ごと歴史博物館に飾られる寸前にある。そういう興味で見れば、むしろこの連中による路線でどこまで掘り進めて行き得たか見てみたい。ここまで来ると却って重宝な記録になりそうだから、れんだいこは善良ぶっての意見やその反対の罵倒もしない。それにしてもいやはや恐れ入りやの鬼子母神様で、げに共同幻想とは恐ろしきや。 |
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2001.7.30日、市田は記者会見で、『選挙戦の教訓をえぐりだし、生かして勝利者になることが党幹部の最大の責任の取り方だ』と発言している。これは市田自身の言説なのか不破に指図され云わせられたのかどうかまでは分からないが、事情通ならそれが有名な野坂調の言い回しであることに気づく。もっとも、野坂は、「そこがブルジョア階級政党と我々の党との違いである」とより露骨に居直っていたが。「共産党は選挙結果にいちいち左右されるほどやわな政党である必要は無い」ということを云っていることになるが、こったら御用理論に煙巻きされる者はされる方にも問題があろう。
この伝によれば、ひとたび執行部を掌握した者には万年安泰が約束されることになる。一種の超伝導理論であることに気づくべきだろう。個人レベルで無病息災・不老不死、組織レベルでは永久政権が願われるのは致しかたないとしても、それは叶えられないから願われるのであるところにミソがある。ところがだ、現下共産党中央だけは何の根拠もないままに「我が世の春」を得ていることになるが、それは不義以外の何物でもなかろう。 その点、自民党というのはたいしたものだと思う。森では勝てないと分かると勝てる者を浮上させて勝つ。万が一負けたら責任を取らせる。近いところで三木、中曽根、橋龍なぞはその例だろう。驚くことに選挙結果だけで執行部が替わるのではない。派閥間抗争による党首選が行われ、予備選挙で二位に甘んじたら潔く身を引く芸をも見せている。近いところで福田、橋龍なぞはその例だろう。「天の声にも時には変な声がある」は、その際の福田の名言であった。ほとんど誰も指摘していないが、自民党のこういう組織論はほぼ戦後民主主義ルールのお手本的な実践態ではなかろうか。 そういえば、中央での取り決めを地方支部が拒否して分裂選挙をした例もあるが、これなぞ却って羨ましい活力体質ではなかろうか。マスコミ始め野党はこぞって自民党の利権体質に目を向かわせるのみであるが、それは方手落ちではなかろうか。自民党のこういう民主主義的先進性に着目研究し、取り入れすべきではなかろうか。 さて、こたびの参院選総括を締めくくるに当たり次の事を共同課題として確認しておこうと思う。ブルジョア民主主義と形容されようとも戦後の選挙制度は、一応は正々堂々とした仕組みのテーブルを用意し、その上での政党間の争いを催促している。その結果、戦後当初の保守系与野党50対社共系野党50のバランスが次第に60対40、70対30、80対20、こたびは85対15という具合に変遷してきている事実をまずは確認しよう。 議会政治なぞどうでも良い、要は大衆運動だ、労働運動だ、武装闘争だと云うのであれば、現実を見てみよう。そういう影は微塵も無いし、今後もますます無かろうと思われる。ということはどういうことになるか。今や、左派勢力は完璧に社会の片隅に追いやられ、最後の一触手で土俵から消えるばかりの末期の身であることが確認されねばならないということになる。これを痛苦と受け止めるか快哉するかはそれぞれの自由であるが、この認識だけは共有しえる事実であろう。 ということは、今後の政治運動論は、この認識より論が立てられねばならないということを意味する。この状況認識とずれたところで「自共対決」論が為された場合、それは余命いくばくもない執行部に結束を迫るためだけの手前勝手な危機感煽りでしかないと聞き流すが良かろう。 れんだいこはこの現実を痛苦に受け止める側であるが、次のように考えれば痛苦の深さはより増してしまう。戦前の治安維持法体制下の場合、反政府運動者はいきなり検束され、拷問の憂き目に遭わされた。演説会場でビラを撒いただけで、弁士の発言も片言三言で封殺された。共産党そのものが非合法化され、労農党、社会大衆党という合法政党の仮面をつけてほそぼそと活動しえたに過ぎない。おかしなことであるが、この当時のほうが政府与党・軍部に対する圧力は今よりは大きかったのではなかろうかとさえ思われる。多少割り引くにしても、敗戦目前の天皇側近たちが最も頭を悩ましたのは、共産革命必死論であった。時局柄で考えねばならぬにしても、一定の根拠はあったものと思われる。 それを思えばどうだ。共産党中央は謀略ビラにやられたなぞと駄々をこねてはいるものの、NHKのみならず民放までプロパガンダの機会を与え、国会討論、党首討論その他諸々社共の出番が制限されないどころか発言が促される世の中になった。ビラも、演説会も、出版も、言論も、集会も保障されて来た。これ以上何をお望みかと云いたくなるほど配慮されてきているのが現下の我が社会である。その現実でこのザマはどうなんだろう。ここに思いが及ぶとき、『選挙戦の教訓をえぐりだし、生かして勝利者になることが党幹部の最大の責任の取り方だ』で済ませられるべきだろうか。もしそうだと云うなら、それは一種のファッショの精神でしかなかろう。 皮肉なことに、こうしたファッショの精神を持つ者が、ファシズムと闘うだとか憲法護れを声高にしてまだしも市民権を得ているのが現実である。我々はそういうペテン論理に食傷してしまった。こたびの参院選を総括して思うことは、今こそ遅まきながらも一切を疑う精神から論と運動を組み立てなおさねばならない時期に至っているということではなかろうか。「聖域無き構造改革」はそれ自体名言であり、取りように拠れば永久革命論に繋がる革新性の高い謂いである。そう受け止めるのが素直な感性であるように思われる。 自民党のタカ派の小泉が云おうが誰が云おうが、時代から生み出された言葉をイデオロギーメガネで軽軽しく却下してはならない。問題は、どっちの方向に構造改革するのかであり、そこにこそ熱い眼差しをもって食らいつくべきではなかろうか。それが世のため人の為にならない方向に踏み出しているのなら敢然と抵抗運動を組織すべきではなかろうか。そういう風に指導しない座椅子温もり派はその前に一掃されるにしくはない。 |
【指導者の模範例は田中角栄元総理大臣であり、ここから学べば良い】(「平成九年十月小林吉弥 佐久間義伸」参照) |
90年代に至って永田町の第一線は、田中角栄元首相の「遺産」に席巻された。思えば、角栄は昭和44.12月の総選挙で自民党幹事長として采配をふるった。このとき初当選させた小沢一郎、羽田孜、梶山静六、渡部恒三らはまさに秘蔵っ子となった。首相ラインとして竹下登、細川護煕(ほそかわもりひろ)、羽田孜、橋本龍太郎、小渕恵三らを輩出させた。その他、鳩山邦夫(はとやまくにお)らも田中の薫陶を強く受けたクチである。いずれの面々も、田中の卓越した政治力と指導力に、言うなら牽引(けんいん)された形で今日に至っている。
角栄の人間洞察力を根底にした指導力については、凄絶と言っていいものがあった。角栄以降の歴代首相を見ても、それを超えるものは一人もいない。と言うより、この点に関しては足元にも及ばない。
指導力とは、なんだろう。古今東西、いつの時代にも問われつづけている命題だが、基本的要件というものはある。リーダーにはまず、「原理原則」が不可欠だ。
例えば、部下はリーダーの原理原則論を知っていることで、窮地に陥ってもリーダーの意向を大きく踏みはずす事なくの行動が可能だ。合わせて、最も困難な場合にこそ、リーダーとしての器量が問われることは言うまでもない。
この「原理原則」を保持していることの要件のほかに、ドイツの社会思想家マックス・ウェーバーはとりわけ政治家のリーダー論として、「なくてはならないのは先見力」だとしている。一般的な意味でも、先見力を持たないリーダーというのはあり得ないということである。
あるいはまた、すでに亡くなってはいるが日経連の元会長でそのリーダーシップと硬骨な人物を謳(うた)われた鈴木永二は、リーダーの条件に、次の三つを上げていた。「歴史観、倫理観、正義感を保持すること」。そのうえで、「目先のことしか言わないのは単なるボスで、リーダーとは言わない」として、戦術にいかに優れようとも、戦略の立たない者をリーダーの範疇(はんちゅう)からはずした。
角栄の指導力発揮の背景は、いったい、何だったのか。まず、人から教えられたものでない「実学」から得た的確な森羅万象ヘの鑑識眼。誰にも好かれる性格、抜群の頭脳回転力に加え、約束したことは百パーセント守った。また、人を差別することがなかった。着想、構想の豊かさ、先見力、一瞬の判断、決断力、そんなものが加わった形での人心収攬の妙の中で、何よりも人が集まったということであった。
組織は人。その集まった人間を動かすには、リーダーはいかにそれぞれの人の心を掴むかに尽きる。田中はその点において、凡百を寄せつけぬすべを持っていたということになる。
人の集まりで言えば、「政・財・官」はもとより、国内津々浦々を網羅した各階各層を問わずの空前絶後の「田中人脈」の存在が、その証となる。政治家の実力は、人の集まりに正比例する。人の集まらぬ政治家のそれはその実力、指導力、たかが知れている。このことはまた、単に政治の世界のみならず、会社であれ、いかなる組織のリーダーであれ同様のことであるのは言うまでもない。
一方で、田中はカネというものを、極めて巧みに使った。しかし、田中を単なるカネにあかした政治家としかとらえられない向きがあったとしたら、それは一面しか見ていないと言わざるを得ない。カネだけで人は動かない。”カネの威力”などというものは、しょせんワン・オブ・ゼムに過ぎない。あくまで、一要素に過ぎないのである。
人間の行動原理は、氷山に似たり。氷山はその七分の六は海面下に潜って見えず、海面上に姿を見せているのは、わずか七分の一に過ぎない。七分の六はその人の感情面、七分の一が論理的な面と見るといい。
「論理で押しまくっても、人は動かない。その底にあるぶ厚い「感情」を揺り動かして初めて、人は動く。海面上の七分の一に体当たりすれば、これはもはや「タイタニック号」、人間関係は沈没、パンクすること必定となる。カネというものの効用が、ワン・オブ・ゼムに過ぎないというゆえんである。
突き詰めれば、人間関係は心と心のぶつかり合い、読み合いで成立する。田中は巧み巧まざるの「情と利」の使分けに、それが誰よりも卓抜だったということでもある。しかし、そのあたりこそが、指導力の発揮というものの”分かれ目”になる。
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【部落解放運動の天性の指導者朝田善之助氏の「理論と実践の弁証法的関係論」】 |
朝田善之助氏は、「差別と闘いつづけて」の中で次のように述べている。生涯を部落解放運動の只中に身を置き闘い抜いた経歴故に、自ずから含蓄がある。「一般的に云って、社会運動と云うものは、理論が無くてはやはり生活を掴(つか)むことができないし、運動を正確に盛り上げて行く事はなおさら出来ない。経験と理論が一致しないと、正しい運動を発展させることはできない」。「一般的に云って、大衆団体の指導社は自己の社会的立場と責任を自覚する時、はじめて理論と実践が要求され統一されるのである。しかし、本を読むだけではそれを理解したと主観的に考えていても、それは単なる物知りになっているに過ぎない。理論は実践に裏打ちされて初めて完成され、自己のものとなる。要は、自己の責任だけが自己を育て、自己を発展させ、一人前の指導者になることが出来るのである。責任が伴わないと、社会運動に入っても少しも発展しない。『その他大勢』でついて行ったのではダメだ。やはり能動的に自己の責任を先行させなければならない」。 |
(私論.私見)