指導者の要件、役割、責任、権限について

 (最新見直し2010.08.30日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 驚いたことに、日共が前衛党として課せられていた自らの使命を放棄して、そればかりかそのことをとうとうと自慢気に語って見せ、聞いた者が又これを賛美するという珍現象が現れている。宮顕−不破理論が遂に辿り着いた驚倒すべき倒錯理論であるが、識者から批判の声が挙がらない。この現象は何なんだろう、れんだいこは訝っている。それでいて、「民主集中制」という美名での「党中央集権制」は引き続き維持すると云う。これも訝る者が少ない。

 そういう訳で、れんだいこが端的に指摘しよう。日共の党生命線としての前衛的指導能力の練磨を放棄するわ、そういう変調観点から変則指導し続ける党中央を「幹部集中制」で永年保証するわ、これは明らかに共産党を内部から瓦解させようとするものであり醜悪且つ極反動理論ではないか。しかし、白昼公然としかも饒舌付きでこれが為される不思議さよ。日本左派運動の貧困恐るべし!

 れんだいこは以下、「革命的理論なくして革命運動はありえない。先進的理論に導かれる党だけが先進的闘士の役割をはたすことができる」(レーニン「何をなすべきか?」、1902年)の観点の称揚に向かうことにする。

 2003.5.17日再編集 れんだいこ拝



【西郷隆盛「指導者論」より】
 西郷隆盛は、「指導者論」の中で次のように述べている。
 「民の上に位する者、己を慎み、品行を正しく、驕奢(きょうしゃ)を戒め、節検を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民その勤労を気の毒に思う様ならでは、政令は行われ難し」。

【呂新吾「呻吟語」より】
 中国の思想家・呂新吾は、「呻吟語」の中で、指導者の資質について次のように述べている。
「深沈厚重なるは、これ第一等の資質」。
 (リーダーとして一番大切なことは、物事を深く考え、沈着冷静にして判断と指針を与えることが出来ることである。一言で云えば、人間としての貫目を持つことである)
「二番目の要件が磊落豪雄」。
 (度量が大きく、細事に拘らない豪傑的英雄が指導者の二番目の資質である)
「聡明弁才」。
 (頭脳明晰にして弁舌が立つことが指導者の三番目の資質である)

【毛沢東の幹部育成論】
 幹部を愛護すること。愛護する方法はこうである。
第一、  彼らを指導する。これは彼らに思い切り活動させ、責任を持たせることである。それとともに、適宜指示を与えて、彼らが党の政治路線の元でのその創造性を発揮できるようにすることである。
第二、  彼らを向上させる。これは、学習の機会を与えて彼らを教育し、理論面でも活動能力の面でもより一層向上させることである。
第三、  彼らの活動を点検し、彼らが経験を総括し、成果を高め、誤りを是正するよう、援助する。任務を委託するだけで点検せず、重大な誤りを犯して、初めて注意するのは幹部を愛護する方法ではない。
第四、  誤りを犯した幹部に対しては、一般的には説得の方法を用い、彼等が誤りを改めるよう援助する。重大な誤りを犯しながら、指導を受け入れない人々にのみ、闘争の方法を用いるべきである。これには、忍耐心が必要である。軽々しく『日和見主義』のレッテルを貼り付けたり、軽々しく『闘争展開』の方法を用いたりすることは間違いである。
第五、  彼らの困難を配慮する。病気、生活問題、家庭など困難な問題を抱えている幹部には、可能な範囲内で気を配って世話をする必要がある。

 これらが幹部を愛護する方法である。幹部をよく識別すること。ある時期、あることにおける幹部を見るばかりでなく、幹部の経歴全体及び活動全体を見ること。これが幹部を識別する主要な方法である。(毛沢東、1938.10月)

【中国革命精神の精華「老三篇」考】
中国革命精神の精華「老三篇」を読もうTAMO2氏による投稿、ここに拝借ご理解宜しくね

 ここに紹介する文章「老三篇」は、中国共産党が革命に至る過程で述べられ・記された短編であり、その中には中国革命の最良質の精神が凝縮されている。

 これらの短編は「もっぱら人民を解放するために働き、あくまでも人民の利益のために働き、なんら利己的でなく、もっぱら他人につくすという精神である。また広範な人民大衆を結集させ、決意をかため、犠牲をおそれず、あらゆる困難を克服して、勝利をたたかいとるという精神である。さらに、人民に人民にたいして責任を負い、批判をおそれず、勇敢に真理を堅持し、誤りをただすという精神」(解放軍報社説一九六六年十二月三日)で貫かれている。

 われわれは、必ずしもこのように生きられるものではない。だが、共産主義に共感する人間は、このように生きたいものである。尤も、他人に強制できる代物ではなく、強制した場合はかなり悲劇的になることはいうまでもない。最後に、本篇の電子化を快諾なされた長周新聞社に感謝の念を表する。共産主義が大衆への宣伝が生命線であることを十分に認識されているところに、特に敬意を表したい。電子共産趣味者、TAMO2

【毛沢東(1944.9.8日)、「人民に奉仕する」】

 これは、中国共産党中央直属機関のひらいた張思徳追悼集会でおこなった講演である。

 われわれの共産党および共産党の指導する八路軍、新四軍は革命の部隊である。われわれのこの部隊は、もっぱら人民を解放するための部隊であり、あくまでも人民の利益のために働く部隊である。張思徳はわれわれのこの部隊のなかの同志である。

 人はいずれ死ぬものだが、死の意義にはちがいがある。中国に、むかし、司馬遷という文学者がいて、「人はもとより一死あれども、あるいは泰山より重く、あるいは鴻毛より軽し」といった〔2〕。人民の利益のために死ぬのは、泰山よりも重い。ファシストのために力をつくし、人民を搾取し、人民を抑圧するもののために死ぬのは、鴻毛よりも軽い。張思徳は人民の利益のために死んだのであり、その死は泰山よりも重い。

 われわれは人民に奉仕するものであり、したがって、もし自分に欠点があれば、人からの批判と指摘をおそれない。どんな人でも、われわれにそれを指摘してよい。それが正しくさえあれば、われわれはあらためる。そのだされた方法が人民のためになるなら、われわれはそのとおりにする。「軍隊の精鋭化、行政の簡素化」という意見は、党外の人である李鼎銘氏がだしたもので、人民のためになるよい意見であるから、われわれは採用した。われわれが、人民の利益のためにあくまでもよいことをつづけ、人民の利益のためにまちがったことをあらためさえすれば、われわれのこの部隊はきっと栄えるであろう。

 われわれは、共通の革命の目標をめざして、全国の津津浦浦から集まってきたのである。われわれは、さらに全国の大多数の人民とともにこの道をあゆまなければならない。われわれは、こんにちすでに九千百万の人口をもつ根拠地〔4〕を指導しているが、これではまだ不十分であり、もっと大きくならなければ、全民族の解放をたたかいとることはできない。われわれの同志は、困難な時期には成果に目をむけ、光明に目をむけて、われわれの勇気をふるいおこさなければならない。

 中国人民はいま苦難のなかにある。われわれにはそれを救う責任があり、奮斗努力が必要である。奮斗すれば犠牲が出るし、人が死ぬこともつねにおこる。だが、人民の利益、大多数の人民の苦しみに思いをいたすならば、人民のために死ぬことは死に場所をえたということができる。ただ、われわれは不必要な犠牲をできるだけすくなくすべきである。われわれの幹部は、一人ひとりの戦士に心をくばり、革命の部隊のすべての人は、たがいに心をくばりあい、いたわりあい、助けあわなければならない。

 今後、われわれの部隊では、炊事員であれ、兵士であれ、いくらかでも有益な仕事をしたものでさえあれば、だれが死んでも、かならずそれを弔い、追悼会をひらかなければならない。これは一つの制度にしていかなければならない。この方法は、民衆のあいだにもひろめるべきである。村のものが死ねば追悼会をひらく。このような方法で、われわれの哀悼の気持ちをあらわし、全人民を団結させるのである。

(注)

〔1〕 張思徳は中国共産党中央警備連隊の兵士で、一九三三年、革命に参加し、長征にくわわり、負傷もしたことがあり、人民の利益のために忠実に奉仕した共産党員であった。一九四四年九月五日、陜西省北部安塞県の山中で炭を焼いていたとき、炭焼きがまがくずれたために犠牲になった。

〔2〕 司馬遷(西紀前二世紀中葉に生まれ、西紀前一世紀初頭に没す)は、中国の有名な文学者、歴史家で、『史記』百三十編をあらわした。ここのことばは、かれの『任少卿に報ずる書』から引用されたものである。

〔3〕 李鼎銘(一八八一〜一九四七年)は陜西省北部の開明紳士で、陜西・甘粛・寧夏辺区政府の副主席にえらばれたことがある。

〔4〕 当時の陜西・甘粛・寧夏辺区と華北、華中、華南各解放区の人口総数をさす。

【毛沢東(1939.12.21日)、「べチューンを記念する」】

 べチューンは〔1〕カナダ共産党員で、五十余歳、中国の抗日戦争をたすけるため、カナダ共産党およびアメリカ共産党から派遣されて、万里を遠しとせず、中国にこられた。昨年の春、延安につき、その後五台山にいって活動していたが、不幸にして殉職された。ひとりの外国人が、なんら利己的な動機もなく、中国人民の解放事業を自分自身の事業としたのは、いかなる精神からであろうか。これは、国際主義の精神であり、共産主義の精神であって、中国共産党員の一人ひとりは、このような精神を学ばなければならない。

 レーニン主義からすれば、世界革命の勝利をかちとるには、資本主義国のプロレタリアートが、植民地、半植民地人民の解放斗争を支持し、植民地、半植民地のプロレタリアートが、資本主義国のプロレタリアートの解放斗争を支持しなければならないのである〔2〕。べチューンはこのレーニン主義の路線を実践したのである。

 われわれ中国共産党員も、この路線を実践しなければならない。帝国主義を打倒し、わが民族と人民を解放し、世界の民族と人民を解放するには、われわれは、すべての資本主義国のプロレタリアートと連合し、日本、イギリス、アメリカ、ドイツ、イタリアおよびあらゆる資本主義国のプロレタリアートと連合しなければならない。これが、われわれの国際主義であり、われわれが、せまい民族主義やせまい愛国主義に反対するのにもちいる国際主義である。

 べチューンのなんら利己的でなく、もっぱら他人につくす精神は、かれの仕事にたいする極度の責任感と、同志にたいする、また人民にたいする極度の熱誠とにあらわれている。共産党員の一人ひとりはかれに学ばなくてはならない。仕事に責任感がなく、苦しい仕事はさげて、楽な仕事をえらび、重い荷物は他人におしつけ、軽い荷物をかつごうとするものがすくなくない。なにか事あると、まず自分のためを考えてから他人のことを考える。少しばかり仕事をすると、すっかり思いあがって、人が知らないのではないかと気にして、よく吹きまわる。同志にたいし、また人民にたいしては、熱誠にあふれるのではなく、冷淡そのもので、なんの関心ももたず、まったく無感覚である。

 このような人は、じつは共産党員ではなく、すくなくとも、純粋の共産党員とはいえない。前線から帰ったもので、話がべチューンにおよぶとだれひとり敬服しないものはなく、だれひとりかれの精神に感動しないものはいない。山西・察哈爾・河北辺区の軍隊および人民で、ベチューン医師の治療を直接うけたもの、またはべチューン医師の活動をまのあたりにみたもので、感動しないものはない。共産党員はだれでもべチューンのこのような真の共産主義者としての精神をぜひとも学ばなくてはならない。

 べチューンは、医師であり、医療を職業としているが、技術にたいしては、研究のうえにも研究を積まれた。かれの医術は、八路軍の全医務関係者のなかでも、非常にすぐれたものであった。このことは、かわったものをみるとすぐに気うつりする一部の人びとや、技術的な仕事をみくびり、それはつまらないものと考え、将来性がないと考えている人びとにたいしても、このうえないよい教訓である。

 わたしは、ベチューンと一回あったきりである。そののち、かれはわたしに手紙をたくさんくれた。しかし、いそがしかったために、返事を一回書いただけであり、それもかれがうけとったかどうかわからない。かれの死にたいし、わたしは、非常に悼(いた)み悲しんでいる。いま、人びとが、かれを記念していることから、かれの精神がどのようにふかく人びとを感動させたかがわかる。われわれは、みな、かれのなんら私利私欲のない精神を学ばなくてはならない。これを出発点とすれば、大いに人民に役だつ人となることができる。人の能力には大小のちがいがあるが、この精神さえ持っておれば、それは高尚な人であり、純粋な人であり、道徳的な人であり、低級な趣味から脱した人であり、人民にとって有益な人である。

(注)

〔1〕 ノルマン・ベチューンはカナダ共産党員であり、有名な医師であった。一九三六年、ドイツとイタリアのファシスト強盗どもがスペインに侵入したとき、かれは、反ファシズムのスペイン人民に奉仕するため、みずから前線におもむいた。一九三八年春、中国人民の抗日戦争支援のため、かれは医療隊をひきいて延安に到着し、まもなく、山西・察哈爾・河北辺区におもむいた。べチューンは高度の国際主義精神と偉大な共産主義精神をもって二年近くも中国解放区の軍民のために奉仕した。負傷者治療のさいの感染によって、一九三九年十一月十二日、河北省の唐県で逝去した。

〔2〕 レーニンの『民族問題と植民地問題についてのテーゼ原案』(一九二〇年六月)とスターリンの『レーニン主義の基礎について』(一九二四年四月から五月まで)第六部分の『民族問題』を参照。

【毛沢東(1945.6.11日)、「愚公、山を移す」】

 これは、中国共産党第七回大会でのべた閉会のことばである。

 われわれは、りっぱな大会をひらくことができた。われわれは、つぎの三つのことをした。第一は、党の路線をきめたこと、すなわち、おもいきって大衆を立ちあがらせ、人民の力を強大にして、わが党の指導のもとに、日本侵略者をうち負かし、全国人民を解放し、新民主主義の中国を樹立することである。第二は、新しい党規約を採択したことである。第三は、党の指導機関――中央委員会を選出したことである。

 今後の任務は、全党を指導して党の路線を実現することである。われわれの大会は、勝利の大会であり、団結の大会であった。代表諸君は、三つの報告〔1〕にたいしてよい意見を発表した。多くの同志は、自己批判をおこない、団結の目標から出発し、自己批判をへて、団結に達した。今回の大会は、団結の手本であり、自己批判の手本であり、また党内民主主義の手本であった。

 大会が終われば、多くの同志は自分の持ち場に帰り、それぞれの戦場におもむくことになる。同志諸君は、各地におもむいたら、大会の路線を宣伝し、また、全党の同志をつうじてひろく人民に説明しなければならない。

 われわれが大会の路線を宣伝するのは、全党と全国人民に、革命はかならず勝利するという確信をいだかせるためである。なによりもまず前衛の自覚をうながし、決意をかため、犠牲をおそれず、あらゆる困難を克服して、勝利をたたかいとるようにしなければならない。

 だが、それだけではまだ不十分であって、さらに、全国の広範な人民大衆の自覚をうながし、心からすすんでわれわれとともに奮斗し、勝利をたたかいとるようにしなければならない。中国は反動派のものではなく、中国人民のものであるという確信を、全国人民にもたせなければならない。

 中国には、むかし「愚公、山を移す」という寓話があった。その話というのは、むかし、華北に住んでいた北山の愚公という老人の物語である。かれの家の南側には、その家を出入りする道をふさぐ太行山と王屋山という二つの大きな山があった。愚公は、息子たちをひきつれ、くわでこの二つの大きな山をほりくずそうと決心した。智叟という老人がこれをみて笑いだし、こういった。お前さんたち、そんなことをするなんて、あまりにもばかげているじゃないか。お前さんたち親子数人で、こんな大きな山を二つもほってしまうことはとてもできゃあしないよ、と。愚公はこう答えた。わたしが死んでも息子がいるし、息子が死んでも孫がいる、このように子子孫孫つきはてることがない。この二つの山は高いとはいえ、これ以上高くなりはしない。ほればほっただけ小さくなるのだから、どうしてほりくずせないことがあろうか、と。愚公は智叟のあやまった考えを反駁し、少しも動揺しないで、毎日、山をほりつづけた。これに感動した上帝は、ふたりの神を下界におくって、二つの山を背負いさらせたというのである〔2〕

 いま、中国人民の頭上には、やはり帝国主義と封建主義という二つの大きな山がのしかかっている。中国共産党は、はやくからこの二つの山をほってしまおうと決意している。われわれは、かならずやりとおし、たえまなく働くものであって、われわれも上帝を感動させるはずである。この上帝とはほかならぬ全中国の人民大衆である。全国の人民大衆が、いっせいに立ちあがって、われわれといっしょにこの二つの山をほるなら、どうしてほりくずせないことがあろうか。

 きのう、わたしは、帰国する二人のアメリカ人にこういった。アメリカ政府はわれわれを破壊しようとしているが、これはゆるせない。われわれは、アメリカ政府の援蒋反共政策に反対する。だが、われわれは、第一に、アメリカ人民とかれらの政府とを区別し、第二に、アメリカ政府内の政策決定者と下部の一般職員とを区別するものである。

 わたしはこの二人のアメリカ人につぎのようにいった。あなたがたのアメリカ政府の政策決定者につたえなさい。諸君の政策が援蒋反共で、われわれは気がゆるせないから、わが解放区は諸君がそこにはいるのを禁止する。もし諸君が日本と戦うために解放区にゆくならよろしいが、ただ、とりきめを結んでおかなければならない。もし諸君がこそこそとやたらに歩きまわるならば、それはゆるせない。ハーレーがすでに公然と、中国共産党とは協力しないと言明している〔3〕のに、どうしてわれわれの解放区にきて、やたらに歩きまわろうとするのか。

 アメリカ政府の援蒋反共政策は、アメリカ反動派の狂暴ぶりをものがたっている。だが、中国人民の勝利を阻止しようとするあらゆる内外反動派のくわだては、ことごとく失敗を運命づけられている。いまの世界の流れは、民主主義が主流であり、反民主主義的反動は逆流にすぎない。当面、反動的な逆流が民族独立と人民民主主義の主流を圧倒しようとくわだてているが、反動的な逆流は、とどのつまり、主流になることはできない。

 旧世界には、現在依然として、スターリンがはやくからのべているように、つぎの三つの大きな矛盾がある。第一は、帝国主義国におけるプロレタリアートとブルジョアジーとの矛盾、第二は、帝国主義国間の矛盾、第三は、植民地、半植民地国と帝国主義宗主国との矛盾である〔4〕。この三つの矛盾は、依然として存在しているばかりでなく、さらに先鋭なもの、拡大したものに発展している。これらの矛盾が存在し、発展しているので、反ソ、反共、反民主主義の逆流があっても、このような反動的な逆流はいつかはかならず粉砕されるのである。

 いま、中国では二つの大会がひらかれており、一つは国民党の第六回代表大会、一つは共産党の第七回大会である。二つの大会はまったく異なった目的をもっている。一つは、共産党と中国の民主主義勢力を滅ぼして、中国を暗黒にみちびくものであり、もう一つは、日本帝国主義とその手先である中国の封建勢力をうちたおして、新民主主義の中国を建設し、中国を光明にみちびくものである。この二つの路線はたがいにたたかっている。われわれは、中国人民が中国共産党の指導のもとに、中国共産党第七回大会の路線の指導のもとに完全な勝利をかちとること、そして、国民党の反革命路線がかならず失敗することをかたく信ずるものである。

(注)

〔1〕 中国共産党第七回大会で毛沢東のおこなった政治報告、朱徳のおこなった軍事報告。劉少奇のおこなった党規約改正についての報告をさす。

〔2〕 愚公、山を移すというのは、『列子』の「湯問」編に出てくるつぎのような物語である。「太行、王屋の二山は七百華里四方で、高さは万仭もある。もと冀州の南、阿陽の北にあった。北山の愚公というひとは、もう九十に近い年であったが、その住まいが山に面していた。山の北側でふさがれているため、出入りのたびに遠まわりをするのに懲り、家族をあつめて、こう相談した。わしとお前たちが全力をあげて、山をほりくずし、これを平らにして、河南の南に通じ、漢水の北にも達するようにしたら、どんなものだろう、と。みなが口をそろえて、これに賛成した。妻が疑問をだし、こういった。あなたの力では魁父の丘さえつぶすことができないのに、どうして、太行山と王屋山をほりくずせましょう。そのうえ、土や石をどこへやるのですか、と。みながこういった。それは渤海の底、隠土の北にすてればよい、と。そこで、子や孫など運ぶもの三人をひきつれて、石をわり、土をほりくずし、箕(み)や畚(もっこ)で渤海に運びはじめた。隣人京城氏のやもめ婆さんに息子がおり、乳歯が抜けかわったばかりの年頃であったが、かけつけてきて、これに協力した。寒暑の季節もあらたまったとき、ようやく一度往復した。河曲の智叟がこれを笑い、思いとどまらせようとして、こういった。なんてまあお前さんは馬鹿なんだろう。年寄りの力では、山の雑木一本だって折れはしないのに、どうして、土や石がほりくずせるものかね、と。北山の愚公は長いため息をついて、こういった。お前さんときたら、まったく手がつけられないほどの石あたまだね、やもめ婆さんやひよわい子どもよりもまだ物わかりがわるいよ。わたしが死んだとて、息子がいるし、息子はまた孫をうみ、孫はまた子どもをうむ。その子にはまた子どもができ、子どもにはまた孫ができる。このように、子子孫孫、無限につづいてゆくが、山はふえることはない。ほりくずせないなんて心配をする必要がどこにあろう、と。河曲の智叟は返すことばがなかった。操蛇の神がこれをきき、そのねばりづよい努力におそれをなして、これを上帝につげた。上帝はそのまごころに感動し夸娥氏の二人の子に命じて二つの山を背負わせ、一つを朔東に移し、一つを雍南に移させた。これからのち、冀州の南、漢水の北には交通をさまたげる丘陵はなくなった。」

〔3〕 ハーレーはアメリカ共和党の反動的政治家のひとりである。一九四四年末、アメリカの駐華大使に任命されたが、蒋介石の反共政策を支持したため、中国人民の断固とした反対にあい、一九四五年十一月、辞職せざるをえなくなった。ハーレーが中国共産党と協力しないと公然と言明したというのは、一九四五年四月二日、かれがワシントン国務省の記者会見でおこなった談話のことである。詳細は、「ハーレーと蒋介石の猿芝居はすでに破産した」という論文にみられる。

〔4〕 スターリンの『レーニン主義の基礎について』(一九二四年四月―五月)の第一部分「レーニン主義の歴史的根源」にみられる。


【2001.7.29日参院選の総括から垣間見る指導者の役割と責任論】
 れんだいこ板に結集される全ての皆様、只今よりれんだいこがこたびの参院選を総括して見ます。そんじょそこらの商業新聞、テレビでは聞けない話をご披露致します。ぶっつけですので、明日になったらああ書けば良かったと思う面も出てくると思いますが、まずはまずは幕開けでぇす。

 まず投票率が伸びなかったことについてコメントします。従来より2時間延長、不在者投票も記録的に倍化していたにも関わらず、選挙区で56.44%(←58.84)、比例区で56.42%(←58.83)となり、史上三番目の低投票率になりました。これをどう見るか。小泉神風様々と揉み手する与党圧勝、台風一禍総括する野党惨敗というそれぞれのコメントにも関わらず、多くの有権者が本筋のところで見せ場を作らない出来レース学芸会運動に食傷気味であったことを物語っていると思われます。

 自民党が64議席(←61)を得て、1992年の参院選以来の単独過半数を獲得しました。これは小泉首相が信任され、続投が確定したことを意味します。公明党も健闘し改選議席を維持しました。保守党の扇党首も首の皮一枚繋がりました。この与党三党で全有権者投票数の55.86%つまり約55%を獲得しました。

 民主党は26議席(←22)を得て、かってのブームは消えたものの着実に前進を遂げていると見なすことが出来ます。自民党とは一味違う若手が続々と結集しつつあるようです。自由党は6議席(←3)を得て、小議席ながらも倍増しています。頑固に政策を訴える愚直な姿勢が好感を掴んだ模様です。この両党で、全有権者投票数の24.14%つまり約25%を獲得しました。

 さて、ここでれんだいこ分析が光ります。民主党・自民党も主流の系譜から見れば本籍自民党と見なせます。自民党の単独長期政権は必ずや腐敗しそれはお国のために却って災禍であると観、社共には到底受け皿の力も意欲も無いという現実を見据え、止むに止まれず飛び出た連中が民社党、社会党の半数を巻き込んで結党されたのが新進党→民主党、その寄り合い世帯の烏合の衆化を嫌って分党したのが自由党と見なせます。という観点から、これを第二与党勢力と見なしますと、政権与党の支持率55%とこの両党の支持率25%を合わせますと、なんと!丁度80%というワンサイドな勢力地図化が見えてまいります。大政翼賛会社会が遂に完遂された、これがこたびの選挙結果であるという風に捉えることができると思われます。

 さて、この現実を前にして、明日の赤旗と社民党の土井党首はどのような狡知弁を聞かせてくれるのでしょう、目下このあたりに政治通の関心が生まれつつあります。ちなみに、共産党は5議席(←8)、社民党は3議席(←7)で、この両党と新社会党(議席数0)を合わせて全有権者投票数の15.24%というシェアになっています。恐らく、社共現指導部は、この数字に対してもカエルの面にションベンで、そうそうは捲土重来は使えませんのでそれに替わる素敵な文句を聞かせてくれるでしょう。れんだいこの耳には、共産党が、東京で議席を取れて良かったと明るい総括をしてくれている様子が入っております。志位君良いおしゃぶり貰えてエカッタね。

 さて、れんだいこが一押しした新党・自由と希望はあえなく玉砕しました。宮崎兄ぃの場合には、インターネット勢力の基盤はまだまだ弱く、選挙にまでは役立たない成熟度かなと身をもって知った体験になられたかと思われます。しかし、この体験は貴重な先駆けであったと思われます。次に何をすればよいのか、体を張った者だけに分かる何かを掴めたと思われます。

 白川党首の場合、対公明党戦略の見直しが迫られていると思われます。公明党の存在そのものを否定するかのような党利党略的な政教分離論は共産党に任せて、あくまで運動の競り合いで抗する正攻法原則を確立することが望まれているのではないでしょうか。その過程で、個々の動きに不当性があればどこよりも鋭く暴き出し、その危険性を警鐘乱打するのが威風堂々としており、支持も増すのではないかとご意見申し上げておきます。

 以上生意気に総括して見ましたが、れんだいこの未解明な関心事は自民党の強さの秘密を探ってみたいというところにあります。そういうことに取り組める余裕が無い身であるのが残念ですが、明らかにしておきたい最大のポイントは、権力=悪=自民党的な考え方は間違いで、今現在も混交しているもののひょっとして戦後の自民党は組織論的に見て非常に優れたシステムの元で運営されているのではないのか、この党の水準にしてはじめて大人の政党足りえているのではないのかという観点に興味を覚えております。

 蛇足ながら、これは自民党を美化することを意味しておりません。そういう認識でもって歴史を見直さないといつまでもピンぼけの闘いにしかならず、スピッツがキャンキャン吠える程度のことで自己満足させられ、よくてせいぜい先生先生とおだてられながら最も無能な人士としての一生にさせられてしまうのではないかと懼れます。ここら辺りに現代政治絵巻を解くキーがあるようなそんな気がしております。
 2001.7.31日の毎日新聞に「共産、前向きに総括」なる見出しで、次のような記事が載っている。概要「共産党の常任幹事会が開かれ、志位委員長が選挙戦について、『党の方針には自信を持っている』と語っていることもあり、この日は前向きに総括する意見が相次いだ。市田書記局長は、『参院選は小泉旋風、突風を受け、厳しい戦いだった。それをはねのけて前進する、足腰の強い党を作るのが課題だ』と語った」とある。

 読売新聞では、「共産党は30日の常任幹部会で、参院選で議席を大きく後退させたことを踏まえ、党運営のあり方などについて、党員以外の一般支持者からも意見を募ることを決めた」ともある。「同党が選挙総括で党外の意見を聞くのは異例。昨年夏の衆院選、6月の東京都議選に続く連敗となったことへの危機感を反映したものだ」とのコメントが付けられている。

 党の公式コメントは、「参院選の開票を受けて」で、「残念な結果ですが、今度の選挙で私たちが主張したことの意味は、今後生きてくると考えています。論戦の面で私たちが主張してきたことの正しさについては、確信をもっております」とある。

 以上を総合して透けて見えてくることは次のことである。選挙結果に対してさすがに痛痒を感じているらしい。さすがに今のところいつものような饒舌不破の白黒逆裁定節が聞こえてこない。何せ都議選の敗北を前進勝利であった総括するのも朝飯前の芸の持ち主不破にして、こたびは議席数、投票獲得数、投票率一切の指標で敗退が明白なこのデータを前にしてはさすがにグーの音さえでないのか。口が重たいようではあるが、まだ分からない、ここ暫く様子見して見たい。

 しかし、さすがに志位は不破学校のお茶坊主らしく、「明るい選挙総括」をしてくれたようである。本当は「明るい」のではなく「負け惜しみ」と書くところであるが、商業新聞の行き届いた配慮のなせる技であろう。何とも有権者を馬鹿にした話であるが、『党の方針には自信を持っている』らしい。ということは、それほど正しい方針を聞き分けられなかった有権者の意識が遅れているという事か。聞き分けた上で拒否されたとは露ほども考えない。もう一つ、党中央はそれほど正しい方針を掲げているにも関わらず、それを大衆に届けられなかったのは下部党員の責任であり活動に問題があるということか。何の事は無い、無謬神話に鎮座して党内を恫喝しまくった宮顕論理そのものではないか。さすがにこの系譜だけのことはある、決して己の非力と責任には向かわない、向かわせない。

 市田の『参院選は小泉旋風、突風を受け、厳しい戦いだった』総括も、宮顕詭弁指導の賜物である。選挙に敗北したことを正面から受け止めようとせず、やれ「50年問題の後遺症余韻」だの「天安門事件の悪影響」だの「東欧崩壊ショック」だの「謀略ビラにやられた」だの言い訳論理には事欠かない事例を見せてきた。こたびは一歩進めて、相手がうまくやり過ぎてもそれが敗退の原因になるということを公然ぬけぬけと語っている。そういう意味で、『小泉旋風突風観』は史上に残る戯言として記録されるだろう。こうなると、この駄駄っ子の口を塞ぐ付け薬はもはやないというべきだろう。

 『党運営のあり方などについて、党員以外の一般支持者からも意見を募ることを決めた』ともある。さすがに前衛的指導党の任務を捨てただけのことはある。ろくでもない選挙総括のままに党内外の『インテリ系文化人』の声を聞くのだと云う。このこと自体党中央の脳幹機能が停止していることを証左しているが、見ようによってはこの痴態を明白にさせるまでに約50年かかったことになる。思えば、道中様々な人士が宮顕−不破系運動の変調ぶりを語ってきたが、その都度聞く耳を持たず『排除の論理』で抑圧追放してきた。その際、何てたって選挙で前進しているではないかが唯一の指標であり恫喝文句であった。民主連合政府構想はその媚薬であった。『70年代の遅くない時期』はとっくに過ぎたが、『21世紀の遅くない時期』と言い換えればまだ功能があるらしい。

 唯一の生命線であった選挙でかくなる事態が連続している訳であるが、この党は、どこまでも心中するのが正しい党員の態度だと上から下まで唱和し続けるだろう。今やそういう人士ばかり寄っているのだからそれ以外の結論は有り得ない。お好きにどうぞの世界ではあるが、れんだいこは思う。小泉の『解党も辞さず、聖域無き構造改革に立ち向かう』なぞ、例え言葉の上だけであろうとも、この党には迷惑以外の何物でもないセリフであるからして徹底対決あるのみである。石原とは是々非々で行けてもこの男は癪に障り過ぎるという訳か。それはそれで良いと思う、妙な論理ではあるがとにかく闘う姿勢になってきたのは良いことだろう。

 今や、この党は丸ごと歴史博物館に飾られる寸前にある。そういう興味で見れば、むしろこの連中による路線でどこまで掘り進めて行き得たか見てみたい。ここまで来ると却って重宝な記録になりそうだから、れんだいこは善良ぶっての意見やその反対の罵倒もしない。それにしてもいやはや恐れ入りやの鬼子母神様で、げに共同幻想とは恐ろしきや。
 2001.7.30日、市田は記者会見で、『選挙戦の教訓をえぐりだし、生かして勝利者になることが党幹部の最大の責任の取り方だ』と発言している。これは市田自身の言説なのか不破に指図され云わせられたのかどうかまでは分からないが、事情通ならそれが有名な野坂調の言い回しであることに気づく。もっとも、野坂は、「そこがブルジョア階級政党と我々の党との違いである」とより露骨に居直っていたが。「共産党は選挙結果にいちいち左右されるほどやわな政党である必要は無い」ということを云っていることになるが、こったら御用理論に煙巻きされる者はされる方にも問題があろう。

 この伝によれば、ひとたび執行部を掌握した者には万年安泰が約束されることになる。一種の超伝導理論であることに気づくべきだろう。個人レベルで無病息災・不老不死、組織レベルでは永久政権が願われるのは致しかたないとしても、それは叶えられないから願われるのであるところにミソがある。ところがだ、現下共産党中央だけは何の根拠もないままに「我が世の春」を得ていることになるが、それは不義以外の何物でもなかろう。

 その点、自民党というのはたいしたものだと思う。森では勝てないと分かると勝てる者を浮上させて勝つ。万が一負けたら責任を取らせる。近いところで三木、中曽根、橋龍なぞはその例だろう。驚くことに選挙結果だけで執行部が替わるのではない。派閥間抗争による党首選が行われ、予備選挙で二位に甘んじたら潔く身を引く芸をも見せている。近いところで福田、橋龍なぞはその例だろう。「天の声にも時には変な声がある」は、その際の福田の名言であった。ほとんど誰も指摘していないが、自民党のこういう組織論はほぼ戦後民主主義ルールのお手本的な実践態ではなかろうか。

 そういえば、中央での取り決めを地方支部が拒否して分裂選挙をした例もあるが、これなぞ却って羨ましい活力体質ではなかろうか。マスコミ始め野党はこぞって自民党の利権体質に目を向かわせるのみであるが、それは方手落ちではなかろうか。自民党のこういう民主主義的先進性に着目研究し、取り入れすべきではなかろうか。

 さて、こたびの参院選総括を締めくくるに当たり次の事を共同課題として確認しておこうと思う。ブルジョア民主主義と形容されようとも戦後の選挙制度は、一応は正々堂々とした仕組みのテーブルを用意し、その上での政党間の争いを催促している。その結果、戦後当初の保守系与野党50対社共系野党50のバランスが次第に60対40、70対30、80対20、こたびは85対15という具合に変遷してきている事実をまずは確認しよう。

 議会政治なぞどうでも良い、要は大衆運動だ、労働運動だ、武装闘争だと云うのであれば、現実を見てみよう。そういう影は微塵も無いし、今後もますます無かろうと思われる。ということはどういうことになるか。今や、左派勢力は完璧に社会の片隅に追いやられ、最後の一触手で土俵から消えるばかりの末期の身であることが確認されねばならないということになる。これを痛苦と受け止めるか快哉するかはそれぞれの自由であるが、この認識だけは共有しえる事実であろう。

 ということは、今後の政治運動論は、この認識より論が立てられねばならないということを意味する。この状況認識とずれたところで「自共対決」論が為された場合、それは余命いくばくもない執行部に結束を迫るためだけの手前勝手な危機感煽りでしかないと聞き流すが良かろう。

 れんだいこはこの現実を痛苦に受け止める側であるが、次のように考えれば痛苦の深さはより増してしまう。戦前の治安維持法体制下の場合、反政府運動者はいきなり検束され、拷問の憂き目に遭わされた。演説会場でビラを撒いただけで、弁士の発言も片言三言で封殺された。共産党そのものが非合法化され、労農党、社会大衆党という合法政党の仮面をつけてほそぼそと活動しえたに過ぎない。おかしなことであるが、この当時のほうが政府与党・軍部に対する圧力は今よりは大きかったのではなかろうかとさえ思われる。多少割り引くにしても、敗戦目前の天皇側近たちが最も頭を悩ましたのは、共産革命必死論であった。時局柄で考えねばならぬにしても、一定の根拠はあったものと思われる。

 それを思えばどうだ。共産党中央は謀略ビラにやられたなぞと駄々をこねてはいるものの、NHKのみならず民放までプロパガンダの機会を与え、国会討論、党首討論その他諸々社共の出番が制限されないどころか発言が促される世の中になった。ビラも、演説会も、出版も、言論も、集会も保障されて来た。これ以上何をお望みかと云いたくなるほど配慮されてきているのが現下の我が社会である。その現実でこのザマはどうなんだろう。ここに思いが及ぶとき、『選挙戦の教訓をえぐりだし、生かして勝利者になることが党幹部の最大の責任の取り方だ』で済ませられるべきだろうか。もしそうだと云うなら、それは一種のファッショの精神でしかなかろう。

 皮肉なことに、こうしたファッショの精神を持つ者が、ファシズムと闘うだとか憲法護れを声高にしてまだしも市民権を得ているのが現実である。我々はそういうペテン論理に食傷してしまった。こたびの参院選を総括して思うことは、今こそ遅まきながらも一切を疑う精神から論と運動を組み立てなおさねばならない時期に至っているということではなかろうか。「聖域無き構造改革」はそれ自体名言であり、取りように拠れば永久革命論に繋がる革新性の高い謂いである。そう受け止めるのが素直な感性であるように思われる。

 自民党のタカ派の小泉が云おうが誰が云おうが、時代から生み出された言葉をイデオロギーメガネで軽軽しく却下してはならない。問題は、どっちの方向に構造改革するのかであり、そこにこそ熱い眼差しをもって食らいつくべきではなかろうか。それが世のため人の為にならない方向に踏み出しているのなら敢然と抵抗運動を組織すべきではなかろうか。そういう風に指導しない座椅子温もり派はその前に一掃されるにしくはない。

【指導者の模範例は田中角栄元総理大臣であり、ここから学べば良い】(「平成九年十月小林吉弥 佐久間義伸」参照)
 90年代に至って永田町の第一線は、田中角栄元首相の「遺産」に席巻された。思えば、角栄は昭和44.12月の総選挙で自民党幹事長として采配をふるった。このとき初当選させた小沢一郎、羽田孜、梶山静六、渡部恒三らはまさに秘蔵っ子となった。首相ラインとして竹下登、細川護煕(ほそかわもりひろ)、羽田孜、橋本龍太郎、小渕恵三らを輩出させた。その他、鳩山邦夫(はとやまくにお)らも田中の薫陶を強く受けたクチである。いずれの面々も、田中の卓越した政治力と指導力に、言うなら牽引(けんいん)された形で今日に至っている。
 
 角栄の人間洞察力を根底にした指導力については、凄絶と言っていいものがあった。角栄以降の歴代首相を見ても、それを超えるものは一人もいない。と言うより、この点に関しては足元にも及ばない。
 
 指導力とは、なんだろう。古今東西、いつの時代にも問われつづけている命題だが、基本的要件というものはある。リーダーにはまず、「原理原則」が不可欠だ。
 
 例えば、部下はリーダーの原理原則論を知っていることで、窮地に陥ってもリーダーの意向を大きく踏みはずす事なくの行動が可能だ。合わせて、最も困難な場合にこそ、リーダーとしての器量が問われることは言うまでもない。
 
 この「原理原則」を保持していることの要件のほかに、ドイツの社会思想家マックス・ウェーバーはとりわけ政治家のリーダー論として、「なくてはならないのは先見力」だとしている。一般的な意味でも、先見力を持たないリーダーというのはあり得ないということである。
 
 あるいはまた、すでに亡くなってはいるが日経連の元会長でそのリーダーシップと硬骨な人物を謳(うた)われた鈴木永二は、リーダーの条件に、次の三つを上げていた。「歴史観、倫理観、正義感を保持すること」。そのうえで、「目先のことしか言わないのは単なるボスで、リーダーとは言わない」として、戦術にいかに優れようとも、戦略の立たない者をリーダーの範疇(はんちゅう)からはずした。
 
 角栄の指導力発揮の背景は、いったい、何だったのか。まず、人から教えられたものでない「実学」から得た的確な森羅万象ヘの鑑識眼。誰にも好かれる性格、抜群の頭脳回転力に加え、約束したことは百パーセント守った。また、人を差別することがなかった。着想、構想の豊かさ、先見力、一瞬の判断、決断力、そんなものが加わった形での人心収攬の妙の中で、何よりも人が集まったということであった。
 
 組織は人。その集まった人間を動かすには、リーダーはいかにそれぞれの人の心を掴むかに尽きる。田中はその点において、凡百を寄せつけぬすべを持っていたということになる。
 
 人の集まりで言えば、「政・財・官」はもとより、国内津々浦々を網羅した各階各層を問わずの空前絶後の「田中人脈」の存在が、その証となる。政治家の実力は、人の集まりに正比例する。人の集まらぬ政治家のそれはその実力、指導力、たかが知れている。このことはまた、単に政治の世界のみならず、会社であれ、いかなる組織のリーダーであれ同様のことであるのは言うまでもない。
 
 一方で、田中はカネというものを、極めて巧みに使った。しかし、田中を単なるカネにあかした政治家としかとらえられない向きがあったとしたら、それは一面しか見ていないと言わざるを得ない。カネだけで人は動かない。”カネの威力”などというものは、しょせんワン・オブ・ゼムに過ぎない。あくまで、一要素に過ぎないのである。
 
 人間の行動原理は、氷山に似たり。氷山はその七分の六は海面下に潜って見えず、海面上に姿を見せているのは、わずか七分の一に過ぎない。七分の六はその人の感情面、七分の一が論理的な面と見るといい。
 
 「論理で押しまくっても、人は動かない。その底にあるぶ厚い「感情」を揺り動かして初めて、人は動く。海面上の七分の一に体当たりすれば、これはもはや「タイタニック号」、人間関係は沈没、パンクすること必定となる。カネというものの効用が、ワン・オブ・ゼムに過ぎないというゆえんである。
 
 突き詰めれば、人間関係は心と心のぶつかり合い、読み合いで成立する。田中は巧み巧まざるの「情と利」の使分けに、それが誰よりも卓抜だったということでもある。しかし、そのあたりこそが、指導力の発揮というものの”分かれ目”になる。

部落解放運動の天性の指導者朝田善之助氏の「理論と実践の弁証法的関係論」
 朝田善之助氏は、「差別と闘いつづけて」の中で次のように述べている。生涯を部落解放運動の只中に身を置き闘い抜いた経歴故に、自ずから含蓄がある。「一般的に云って、社会運動と云うものは、理論が無くてはやはり生活を掴(つか)むことができないし、運動を正確に盛り上げて行く事はなおさら出来ない。経験と理論が一致しないと、正しい運動を発展させることはできない」。「一般的に云って、大衆団体の指導社は自己の社会的立場と責任を自覚する時、はじめて理論と実践が要求され統一されるのである。しかし、本を読むだけではそれを理解したと主観的に考えていても、それは単なる物知りになっているに過ぎない。理論は実践に裏打ちされて初めて完成され、自己のものとなる。要は、自己の責任だけが自己を育て、自己を発展させ、一人前の指導者になることが出来るのである。責任が伴わないと、社会運動に入っても少しも発展しない。『その他大勢』でついて行ったのではダメだ。やはり能動的に自己の責任を先行させなければならない」。




(私論.私見)