クラウゼヴィッツの戦争論 |
(最新見直し2012.05.19日)
(れんだいこのショートメッセージ) | ||
「ナポレオンを破った将軍」として知られるクラウゼヴィッツの戦争論は、実践の中から生み出されたものである。時に仏国ナポレオンの全盛時代であり、この時クラウゼヴィッツは後の独国当時プロシアの軍人として会戦し、幾たびも苦渋を味わわされ敗北を舐めさせられてきた。俗に、ナポレオンは軍略の天才であると云われているが、正確には類稀な戦争指導者つまりプロとして評価されるべきであろう。クラウゼヴィッツは、敗北の側にその必然を見た。この経過から、クラウゼヴィッツは対ナポレオン戦争に勝利する軍事論の必要を悟り、働き盛り知恵盛りの40代の殆どを「戦争論」の執筆に費やすことになった。 クラウゼヴィッツの戦争論の特質は、戦争を客体化させ科学者の目で冷徹に分析したことにある。且つ群居する小国家の弊害から近代国家への移行を踏まえ、これに照応する軍隊論を確立したことにある。つまり、近代戦争の本質を近代統一国家の国家的利益を賭けて政治の延長として行なわれるものであるとの認識を獲得した。こうなると、戦争は単に勝ち負けを争うのではなく国益の確保という観点から複眼せねばならぬことになった。こうして、クラウゼヴィッツ流戦争定義として、「戦争とは、他の手段をもってする政治の継続である」が生み出されることになった。この言葉に見出されるその意義は、従来の戦争論の限界を止揚させ近代的脱皮させているところにある、と認められるべきであろう。 クラウゼヴィッツは、戦争とはそも何たるものかから説き起こし、その目的論、兵器論、戦略論、戦闘論、指導者論、組織論、人心論、情報論へと論理を多岐多様に進めた。れんだいこは読んでいないが、見出しを通覧するのに、マルクスの資本論ばりに論を精緻に積重ねているが如くである。この観点の秀逸さがその後の世界史に大きな影響を与え、ある意味でクラウゼヴィッツの戦争論を下敷きにして更に論が発展させられていったと見なせる。且つ、当たり前といえば当たり前だが単なる学究的なものにとどまることなく、クラウゼヴィッツが望んだか望まなかったかは別にしてその後の実際の戦争の際の指導書として活用されていくことになったということである。端的な例でいえば、ヒットラーも又これをよく愛読していた。 という事情があるものの、「だが、全体を見事に示しながら、戦争という危険なものを何故、人はしてしまうのか?それにクラウゼヴィッツは触れていない。何故か?それは彼がこの疑問に答える事を望まなかったからである」、「ひたすら軍国主義を説いた男、それがクラウゼヴィッツの姿なのだ」などと批判する者がいるとしたら、この道学者はクラウゼヴィッツの戦争論の歴史的位相を何も理解していないことになる。 興味深いことは、マルクス、エンゲルス、レーニンも又非常に高く評価していたという史実であろう。1858.1.7日、エンゲルスがマルクスに宛てた手紙にはこう書かれてある。
レーニンも、クラウゼヴィッツ流に次のように述べている。
1961年、東西ベルリンに壁が構築されると同時に、西ドイツに軍人の手でクラウゼヴィッツ協会が設立され、1980年代には世界中の軍人がこれに参加するようになっている。これに対しても、「クラウゼヴィッツの亡霊たちは、今も世界の中で自らの野望を正当化し、我々を取り囲もうとしている」と批判する者がいるとしたら、こういう手合いはいくら知識をもっても歴史を客体化できない、その歩みを弁証法的に獲得できない、それ故に真に活用する術を知らない不明の御仁であることを晒している、ことを知らねばならないであろう。 2003.9.24日 れんだいこ拝 |
【戦争論 第一篇・戦争の本質について】 |
第1章 戦争とは何か 第2章 戦争のおける目的と手段 第3章 軍事的天才 第4章 戦争における危険について 第5章 戦争における肉体的労苦について(肉体的困苦について(岩波)) 第6章 戦争における情報 第7章 戦争における摩擦 第8章 第1篇の結論 |
【第1章 戦争とは何か】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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【クラウゼヴィッツの戦争論4原則】 | |||||||||||||||||||||||||
クラウゼヴィッツの戦争論。大きく分けて、防御戦、攻撃戦、側面攻撃、ゲリラ戦の4つがある。
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クラウゼヴィッツは、戦争論の中でこう述べている。
戦争論、第1章2の「戦争の定義」は次のように記している。
戦闘について定義された第4編。
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(私論.私見)
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