生涯の概略履歴

【カルル・フォン・クラウゼヴィッツ】
 カルル・フォン・クラウゼヴィッツ」その他を参照する。

 1780.6.1日、ドイツ(プロイセン)の首都ベルリンから100キロほど離れたブルクという町で誕生した。ポー ランド系のプロシア人で、彼の家は没落した貴族の出だと云われている。

 12歳の時、父が軍人であった関係で、カール自身も12歳という幼さで歩兵連隊に入隊した。その年齢は明らかに入隊規則を破るものだったという。時はフランスに革命が起こり、ヨーロッパ全土に王制を揺るがす新しい嵐が吹き荒れていた。入隊の翌年、早くも彼は中隊の旗手となり「王の為にこの新生フランス人民軍を討とう」と一路進撃を開始した。フランスのナポレオン、ドイツのクラウゼヴィッツ、この二人の天才が同じ戦争で敵味方に分かれ、名乗りをあげていた。

 その後のドイツはナポレオンの脅威に深刻であった。そんな中、設立された軍事学会の綱領は、「民衆の兵役を義務づける為、国防意識を目覚めさせる」と記している。これがその後の徴兵制につながる。これにクラウゼヴィッツは入会し、ドイツを救わんものと書に読み耽った。このとき巡り合ったのがヨハン・クリストフ・フリードリッヒ・フォン・シラーである。カトリックとプロテスタントの30年に及ぶ戦いについて、シラーはこう言った。
 「暴力によって得られたものは、暴力によって守られなければならない。最初に剣を捨てる者に禍あれ!」。

 クラウゼヴィッツは軍事を賛美するシラーに大きく影響を受けた。後に「戦争論」の中に記された言葉はまるでシラーの演説のようである。
 「流血を厭う者は、これを厭わぬ者によって必ず征服される!戦争は厳しいものであり、博愛主義の如き婦女子の情が介入する余地など無い!」。
 文末に「!」を加える所はシラーそのものだ。以降、軍事を純科学していくことになる。クラウゼヴィッツの史的意義はここに認められる。

 「戦争論」―原題“Vom Kriege”(戦争について)―の始まりには、こんな文章がある。
 「戦争の本質は戦争そのものが持つ決闘という性格を離れて論じてはならない。戦争は巨大なスケールの決闘である。互いに相手を自分の意のままに従わせようと闘う。すなわち戦争とは、我々の意志に従う事を敵に強要するゲバルト行為である」。

  戦争をこのように暴力(ゲバルト)と定義するところから、クラウゼヴィッツの明晰な理論が展開する。彼は、曖昧であった戦争のリアリズムを抉り出し、戦場で人はどのような行動をとるか、軍人とは何か、作戦は如何にして組み立てられるべきか、情報はどの程度信頼できるものか、といった原理を次々と発見していった。興味深いのは、クラウゼヴィッツ自身がドイツ軍人として戦場で戦い、勝利も敗北も味わった事である。そういう意味で、実戦経験に裏打ちされていることになる。

 1806.10.18日、勤めていたベルリンの王宮を奪われ、衆人環視の中で罵声を浴び捕虜としての辱めを受け、ナポレオンに生涯忘れ得ぬ復讐を誓った。35歳にしてフランス皇帝についた男の方が、打つ手は敏速だったのだ。

 13歳のクラウゼヴィッツは准士官に昇進し、マインツ攻防戦でフランス軍を降伏させた部隊の少年旗手を務めていた。そして23歳でドイツのアウグスト親王の副官として仕える事となる。この若さでこの地位までの出世は、ナポレオンをも凌ぐスピードであった。1801年、ベルリン陸軍士官学校に入学を許され、そこでシャルンフォルストに推される学生となり、このため、アウグスト親王の御付武官に補職された。

 イエナ会戦で捕虜となる。1809年、釈放され、プロシア軍再建のためシャルンフォルストの助手となり、同時に皇太子の軍事学教官に任ぜられた。

 パリでの幽閉生活から釈放されて5年の歳月が経った。ドイツは密かに武力を回復し、1812.2.24日、仇敵フランスと同盟を結び、逆にかつての同盟国ロシアを敵にした。クラウゼヴィッツは驚愕した。これでは永遠にナポレオンへの復讐が果たせなくなる。彼は故国を離れ、ロシアへ向かった。そして、ボロジノの会戦でロシア軍の中に姿を現す。

 1812年、フランス、ロシア間に戦争が勃発するやクラウゼヴィッツはロシア陸軍に参加し、その持久戦作戦に貢献した。(実際には、言葉の壁から彼は自分の部隊を指揮することができず会戦の観察に徹したと云われている)

 フランスが逆にモスクワから撤退したとき、彼はタウロッゲン協定(Tauroggen)を取り決め(プロシアの中立)、それによってヨー ク将軍のプロシア軍はフランス軍から離れ、後で東プロシアで防衛軍を編成した。1813年の戦役にはずっとロシアの1将校として参加したが、ナポレオンの退役直後プロシア軍に復帰した。

 1815年
、ワーテルローの会戦でナポレオンが敗北する。この時、クラウゼヴィッツはテォールマンの参謀を勤めている。以後は歴史が語るとおり、ナポレオンの没落はロシアでの敗北に始まり、セント・ヘレナの流刑へと続いていった。

 クラウゼヴィッツはドイツに戻り、1818年、38歳の若さで少将に進級し、その後、プロシア陸軍士官学校校長を拝命した。在職12年の間、彼は40代の殆どを「戦争論」の執筆に費やした。
学生の中には、1866年ならびに1870年戦役においてプロシア陸軍の命運をになった未来の将師ヘルムーテ・フォン・モルトケがいた。

 1830年、クラウゼヴィッツはポーランド国境のグナイゼナウ軍司令官の参謀となりましたが、その翌年、軍司令官とともにコレラのため死亡した。




(私論.私見)