クラウゼヴィッツ語録

 (最新見直し2006.2.11日)

【「戦争は他の手段による政治の継続である」】
 A.政治的目的が軍事的目標に及ぼす影響 B.戦争は政治の一手段である。かくてもう一度繰返していう。戦争(軍事)は政治の一手段である。戦争は必然的に政治と同じ性格を持つものであり、その規模は政治の尺度をもって決定されねばならない。したがって戦争指導の大綱 (der Hauptumriss)は政治そのものである。ただ、政治はその際(戦争に際して)ペンのかわりに剣を用いるが、それだからといって、政治はその固有の(本来の)法則に従って思考を中止するものではないのである。

 「戦争とは、まったく政治の道具であり、政治的諸関係の継続であり、他の手段を持ってする政治の実行である。戦争は手段であり、目的は政治的意図である。そしていかなる場合でも、手段は目的を離れては考えることが出来ないのである」。

【クラウゼヴィッツ語録】
◆「我々は、戦争においては唯一の手段を有する。それは戦闘である」
◆「個々の戦闘は戦争においては唯一の軍事行動である」
◆「戦略分野の各軍事活動を個々の戦闘単位部隊に適応させる」
◆「流血による危機の解決、敵兵力撃滅のための努力は、戦争の長子である」
◆「野戦における大規模戦闘のみが偉大な成果を生む」
「流血なしに征服する将師たちの話に耳をかすな」
◆栄冠は最後の勝利者に与えられる。途中の得点の総和が勝っても、なんにもならない。
◆予期しない事実に当面したとき、これを処理する能力が沈着である。この知性のとっさの働きは普通でよい。沈着の度は心が平静に戻るまでの時間によってはかる。
◆あらゆる軍事行動には、知性の力とその効果が行きわたるべきである。
◆実力行使を辞さない者にはすべてが敗れる。(「流血を厭う者は、厭わぬ者に征服される」)
◆人間は刺激に反応して行動する。その刺激を生み出すのは賞と罰である。賞に名誉、罰に不名誉がともなえば、さらに効き目がある。
◆未開人は感情に支配され、文明人は感情に支配される。
◆戦争哲学の中へ、博愛主義をもちこむことは不合理である。(「博愛主義の介入する余地などない」)
◆大衆や兵士の共感を手っ取り早く得ようと思ったら、その低級な感情を刺激せよ。
◆古来、名誉欲のなかった将帥はいない。
◆われわれの最大の報酬は、祖国と国民の自由のために戦うことである。
◆敗軍の将は、退却開始の相当前から、その運命を自覚したはずである。
◆戦勢有利な時の危険は勇気を鼓舞するが、不利な時の危険は気力を失わせる。
◆決戦時には、勝敗両者共に危機にある。勝利が姿を現すのは勝敗決定の相当後である。
◆勝利を保持し、利用するためには、力の莫大な追加支出が必要である。
◆凡将はある程度勝つと戦意を失う。  戦う必要なしと信じ、あるいは信ずるとみせかける。
◆不利な戦況によって冷却した大衆の心は、指揮官の胸に燃える焔と頭脳の光とによって再び燃え上がらされ、照らし出されねばならない。この力をもつ将帥はよく大衆を統率し、大衆の指導者たる地位を保つことができるが、この力のない将帥はたちまち大衆の動物的境涯に引き落とされてしまう。  この引力は人数の多いほど強いから、地位の高い指揮官ほど、これをはねかえすために、大きな力をもっていなければならない。
◆将帥は激情の中にあっても均衡を失わず、知謀と遠慮を働かさねばならない。すなわち心の中に不動の羅針盤をもつことが大切である。
◆理想と現実との食い違いを克服するものは自信である。作戦方針と眼前の事象との間には往々大きな間隙があるが、自信があればこれをうめられる。
◆戦争において、軍の戦力は、これを指揮する将帥の精神によって決まる。
◆名将は、教養の高い国民の中からでなくては生まれない。勇気のほかに智力を必要とするからである。 
◆将帥の判断のためには、しばしばニュートンのような数学的頭脳を必要とする。
◆古来卓越した将帥は博学多識な将校の中から出ていない。
◆将帥は分析力と総合力が発展して、高度の判断力、すなわち洞察力といったものをもたねばならない。
◆将帥の真の価値は、人目をひく名作戦にはなく、目的を達するか否かにある。
◆最高指揮官と次級指揮官との精神活動には格段の差がある。後者は命令されることができ、精神活動の領域が狭くてすむ。
◆地位の高まるにつれて無能となる者がある。単純で勇敢なだけでは、将帥にはなれない。
◆最高の地位にあって胆力のある将帥は希である。怖ろしさがわかるからである。
◆危険と責任感は、名将の判断力を活発にするが、凡将の判断力を駄目にする。
◆いかなる名参謀も、将帥の決断力の不足だけは補佐できない。
◆各指揮官は、隣接部隊が任務をつくしているか否かを、尋ねる権利はない。
 「近代の軍事史を公正に考察するならば、<数的優勢は日1日1層決定的>となりつつあることを確信させられる。可能な限りの最大限の数を集中するという原則は、それ故以前にも増して重視されるであろう。」
 「人間対人間の格闘は、明らかに戦闘の真の基礎である。」
 現実の戦争解析は純粋な概念通りの戦争と異なり、自己矛盾を含む中途半端なものになる。現実の戦争は戦争そのものの法則に従うのではなく或る全体の一部分、すなわち政治の一部と見なされる。政治は、戦争の本領、すなわち何ものをも征服せねば止まらぬ苛烈な性質を骨抜きにして、戦争を単なる道具に変える。 本来の戦争は刀を渾身の力をこめて打ち込み二度と振り直しの効かないものだが政治は、これをフェンシングの試合のように変えてしまう。
 戦争における重大な事件やかかる事件の計画は、純軍事的な判定に任せるがよいという主張は、政治と戦争を分けてしまい、戦争を意味も無ければ目的もないおかしな物にしてしまう。これは、許し難い考えであり、有害な考えである。戦争の要領は、軍事当局では無くて政治当局によってのみ決定されねばならない。

 戦争は政治交渉の一部であり、従ってまたそれだけで独立に存在するものではない。政治交渉は、戦争によって断絶するのでもなければ、またまったく別のものに転化するものでもない。戦争の開始とともに政治交渉は終わりまったく別の状態が現れると考えるのは誤りである。政治交渉に用いる手段がいかなるものであっても依然としてその本質を保持し、軍事的事件の流れは、戦争から講和に至るまで不断に続く。政治交渉の要綱にほかならない。自軍の兵力、敵の兵力、両国の同盟者、両国民と政府の性質は?いずれも政治的関係と密接に絡み合いそこから切り離せない

 最後にくり返して言っておこう。戦争は政治の道具である。戦争は、必然的に政治の性格を帯びざるを得ず、戦争は常に政治の尺度で測られねばならない。戦争の遂行は根本において政治それ自身といえるが政治法則や政治の考え(コントロール)が戦争によって止まるわけでは無い。

 流血の損害と勝利に拠って得る利益とを比較して...不利益の方が多くなれば戦いは不活発になりやがて止まってしまう。もともと防御は、攻撃よりもいっそう強力な戦争形式である。そして、こうした長所があるからこそ防御は、多かれ少なかれ強力な反撃を行う場合にも用いられるのである。

 「敵の戦闘力の撃滅がすべての他の手段にもましてもつところの優越した価値は、この撃滅という手段の犠牲と危険に対立する。そしてこれを避けるためにのみ他の方策が取られるのである」





(私論.私見)