「元日共系全学連委員長・田熊和貴講演の愚劣考」

 (最新見直し2005.11.30日)

 (はじめに)
 「全学連」に「大好評! 元全学連委員長 田熊和貴氏の講演」(2004.12.18日、都学連主催、全学連後援の東京自治会学校での記念講演と質疑応答を、全学連書記局の責任で編集したものです。ぜひ御活用ください、とある)がサイトアップされている。れんだいこがこれにコメントつけておく。「大好評」であるらしいので、どこが「大好評」なのか確認しておく。れんだいこは「戦後学生運動論」を考究しているので、この観点に照らせて解剖する。

 田熊と云えば丁度、れんだいこが学生運動していた頃のれんだいこが所属していた民青同系全学連の早乙女委員長の前任のようである。あの頃を振り返る意味で文面対話をしてみたい。

 2005.11.29日 れんだいこ拝


Re:れんだいこのカンテラ時評その126 れんだいこ 2005/11/30
 【日共系全学連元委員長・田熊和貴講演の愚劣考】

 田熊は、都立立川高校から1963年に東京経済大学に入学し、民青同系全学連の再建準備委員会の事務局に入り、64.10.13日の全学連の再建とともに中央執行委員になり、翌年、都学連(東京都学生自治会連合)を再建して副委員長になり、67年から3年間、全学連委員長をやったとのことである。67年からの3年間とは、戦後学生運動の最後のエポック期であり、燃え盛る全共闘運動に対して、外から警察が、内から日共系全学連が沈静化せしめていった経緯がある。今日の状況から振り返る時、半端な総括では済まされないのだが。

 田熊説によると、1948.9.18日に結成された全学連はその後、「50年代の末から暴力集団が中央執行委員会を私物化」したらしい。これは第一次ブントのことを指しているのだろう。ちなみに、日共は、当時に於いては「暴力集団」という規定よりもトロツキストなる用語で批判していた。ソ連邦崩壊に合わせてトロツキスト批判を控えざるを得なくなった不破の物言いに合わせて、田熊も倣っているようである。調法な口をしていることが分かる。

 田熊は、60.3月の第15回全学連大会に触れている。当時の執行部の「大会の非民主的運営」を指摘し、反対派を締め出した関係で定数不足のまま強行されたこの大会は無効であり、第16回大会も同様との認識を披瀝している。彼が何を云おうとしているのかというと、その後の日共系全学連再建運動を合理化せんとして口実を述べているに過ぎない。全学連執行部は誕生以来、武井系、玉井系を経て、最終的に第一次ブントが握り、続いて革共同全国委系に移るという変遷を見せている。この間、宮顕系党中央による日共は指導権を失っていた。為に、新たな日共系全学連を創出していくことになった。

 通常これを分派活動と云うが、日共系は自分たちが少数派の場合には許され合理化する。が、ひとたび権力を掌握するや相手には断じて認めないという便利な論法を持っており、このケースがそれに当る。「手前たちはオールフリーハンド、お前たちは法にひれ伏せ」というのは悪徳権力理論の典型であるが、宮顕系日共はこの論法を振り回してきた。これに「その通り」と従う者がいるからややこしくなるだけのことである。

 それはともかく、60年安保闘争時に全学連執行部を握った第一次ブントが「大会の非民主的運営」を行ったことは事実である。今日、この問題は批判的に検証されねばならないことは事実である。だがしかし、田熊のように宮顕系日共の露骨な全学連干渉経緯を不問にしたままこの問題を採りあげるのは卑怯であろう。これが如何に酷いものであったのか、れんだいこは、戦後学生運動考の該当箇所で検証している。

 「第15回全学連大会問題」も、60年安保を控えて急進主義的に闘う体制作りに向おうとしていた当時の全学連執行部に対して、宮顕系日共がそうはさせじとして穏和化へ向けて横槍を入れようとしていたことを見て取らねば解けない。果たして、自治会費未納という策略を始めとして全学連執行部の足を引っ張る策動に熱中していた民青系との協調があり得たのかどうか。これも、れんだいこの「戦後学生運動考」の該当箇所で確認すれば良い。

 田熊は、60年安保闘争に言及し、宮顕、不破の口真似をして次のように述べている。「ところが、当時の全学連を名乗り続けた集団は、この国民的な運動を、『右翼的』とか『日和見』とかののしりながら、自分たちは『国会突入』などの策動を繰り返しました。その裏には、公安警察、右翼などが深く関わって、資金も提供し、国会周辺で戦術指導をしていたということも、後になって分かりました。全学連の指導部を名乗っていたメンバーが自分で喋ったこともありますし、『俺が指導したんだ』とインタビューに答えた右翼のボスもいました」。

 これについても、れんだいこは、「戦後学生運動考」の該当箇所で言及している。しかし、不破や田熊の云うように、暴力性がそれほど悪いのなら、日共ー民青同系が引き起こした「ハガチー事件」なぞはどうなのだ。あれもれっきとした暴力的運動ではなかったか。当時は、情況がそういう暴力性をも包摂しながら政治闘争の盛り上げに向って競合していたのではないのか。田熊は、「ハガチー事件」に対する見解を明らかにせねばならない。

 田熊は、これまた宮顕ー不破の口真似をして定番の「田中清玄の闘争資金カンパ問題」を持ち出している。れんだいこは、この問題についても「戦前共産党運動考」の該当サイトに記した。この問題の急所は、日共が清玄を右翼としてのみ触れているウソにある。事実は、清玄は戦前のれっきとした日共委員長であり、武装共産党時代の指導者である。しかも実はこの時代にこそあちこちに種を播いた業績を残している。今日の日共党史は武装共産党時代を悪し様にのみ記しているが、胡散臭い連中による記述は肝腎なところをいつも逆さま見解にしている。だから、真に受けて学べば学ぶほど馬鹿になるように仕掛けされている。この仕掛けから抜け出さないと認識が逆になり進歩しない。

 その清玄はその後転向して、戦後は民族主義派右翼として立ち現れるに至ったが、児玉系売国右翼と敵対しており、60年安保闘争ではブントの闘いに共感した面に於いて資金提供していたというのが実際である。特段のイカガワシサがあるのではなく、日共の採りあげ方の方こそイカガワシイと受け取るべきであろう。当時、実に大々的に宣伝していったが、当のブントがこれに抗弁し得なかった。お粗末というより他ない。

 田熊は、続いて次のように云う。「こうして60〜62年頃は、全学連という名前は、異様な学生集団という印象をもたれていました。当時、まともな学生自治会を担う運動をやっていた我々、みなさん方の先輩にとっても、全学連というのはあまりいい名前じゃなかったのです。いま風にいえば、『中核派』とか『革マル派』などの暴力集団と同じような響きだったのです」。

 ここも問題発言である。田熊よ、「全学連というのはあまりいい名前じゃなかったのです」と云うのはお前の主観で、あの頃の「ゼンガクレン」は世界に鳴り響く闘う組織であった。知らぬ者を誑(たぶら)かすのはエエカゲンニセンカイ。「『中核派』とか『革マル派』などの暴力集団と同じような響き」というのもお前の主観で、中核派と革マル派では随分響きが違うと受け取る者も多かろう。

 全体的に田熊の論調には、「暴力はとにかくダメ」というスタンスが見える。ならば史上の人民大衆闘争の暴力史はどう評価するのか。暴力が行使されていたならみんなダメという観点が左派のものである訳がなかろう、応えてみよ。今現在の問題で云えば、イラクレジスタンス派の抵抗暴力について言及してみよ。お前の云うように、イラクレジスタンス派は米英ユ連合の為すがままに恭順せねばならないとでも云うのか。

 次に、「全学連再建の取り組み」について述べている。宮顕系の指導通りの「自治会サービス論」に基づく活動をしたことを自慢している。再建大会時に、「一つひとつの学生自治会を、学生の願いに立って活動するまともな自治会にする」、「あらゆる学生自治会に門戸を開いて、異論を持つ学生たちも参加して、論議を経たうえで再建に至った」ことを踏まえ、この両面を今後の活動の基準にすることを申し合わせた、と云う。

 注目すべきは、「異論を持つ学生たちも参加して」とあるくだりである。しかしこれはホンマかいなぁで、正しくは「手前たちが許容できる範囲の異論の尊重」であり、「許容できぬ場合には革命的暴力を行使」してきたのが実際ではないのか。その暴力は左派に向けられた。「大学自治」に守られ警察が手出しできぬところを民青が当ったという経緯を見せている。

 このことを次のように吐露している。68〜69年当時、全国に全共闘運動の嵐が吹き荒れたが、全共闘運動を沈静化させる為に、全共闘が「全員加盟制学生自治会原理の否定」をしていたからという理由付けで、これを許さないという観点から排撃していったことを無内容なままに自慢している。続いて、全学連呼称問題に触れ、同じく手前勝手と都合の良い論法で悦に入っている。

 田熊らが目指した運動は、反暴力だとして次のように述べている。「民主主義という点でいうと、全学連の誇るべき活動の一つは、暴力に対する態度です。大学の自治や学生の自治と相容れないものとして、学生の自由と権利を脅かすことになる暴力行為に対して、一貫して非妥協的に、断固として対決して、暴力を一掃するというたたかいを歴史的にすすめてきたことは、非常に大事な誇るべき伝統と思います」。

 れんだいこに云わせれば、日共系の「暴力を一掃する闘い」は、大学内から左派的ニューマを一掃する闘いであった。お陰で、その後のキャンパスは見る影もなく左派を凋落させた。日共系が「一貫して非妥協的に、断固として対決」したのは国家権力ではなく、左派的ニューマに対してであった。自慢できる訳でもないのだが、未だに自慢し続けている御仁をここに見ることができる。お里が知れるというものだ。

 「全学連が、日本の進歩的民主的な学生運動の伝統を引き継いでいる点も、重要です」、「全員加盟制の学生自治会が、政治的な国民的テーマで積極的役割を果たしうるのかというのは大事な点です」、「こういう学生運動の伝統と特徴が、全学連に受け継がれているということが一つの特徴なのです」と述べている。これはお前たちの政治的観点であり、この観点以外のものを認めない許さないところに「黒い意図」がある。お前たちはそれをやり続けてきた。

 田熊が手前味噌する民青同系全学連が、その伝統を引き継いでますます盛んなのか、衰微しているのか。衰微しているとしたらその要因はどこにあるのか。お前は、これに言及せねばなるまい。お前は衰亡の責任者であり、胸を張って説教垂れる身ではなかろうに、それができるところに胡散臭さがある。

 「全学連の再建以降、たぶん最大の学生の統一行動は、70年安保闘争で行われた6月23日の統一ストだと思います」と云うが、れんだいこもそれに参加したが、60年安保闘争に比べてカンパ二アだけのもので、お前が言うほど実績があったかいな。事態は何も変わりゃしなかった。れんだいこは、民青同系全学連のデモへ行って不燃焼で帰ってきたことだけは覚えている。お前たちの運動は、「歴史に於けるヒマジン的アリバイ運動」であり、歴史を創るのに何の役にも立たない。

 以下も検討しようと思ったが、愚論が饒舌されているばかりなので論評を割愛した。思ったよりも更に以下のくだらなさ過ぎる付き合いであった。 

 2005.11.30日 れんだいこ拝

【日共系全学連元委員長・田熊和貴とは何者か考】
 宮崎学の「突破者」文中に、いかにもな官僚的人物として書かれているのが田熊で、次のように評されている。
 「田熊全学連委員長、彼こそ、新日和見主義摘発の功労者です」。

 64年、再建委員長として川上。事件当時、全学連委員長は早乙女裕で、その後手島繁一→永戸祐三→岡本と変遷する。梶浦紘一品川地区委員長(現)証言によれば、梶浦氏は新日和見事件当時、党千代田地区委員会の委員であり、全学連中執の機関紙担当兼中央大学学生党員幹部でもあった永戸さんの査問を担当した。永戸は一回の査問であっさりと「罪状」を認めた。その功で、翌73年にめでたく全学連委員長になれたのだ云々。




(私論.私見)


 (以下の情報に付き後日整理する) 

元ツリーは「新日和見主義事件を考える」
http://jcpw.site.ne.jp/bbs/bbs20.cgi?id=&md=viw&no=1248&tn=1248

(鶺鴒子さん)
http://jcpw.site.ne.jp/bbs/bbs20.cgi?id=&md=viw&no=1485&tn=1248
> 私が新日和見主義のツリーに賛同をしたのは、この分析が日本社会の分析の格好の素材だと認識しているからです。「査問」がどうとか、個人的あるいは共産党お宅的な話も、それなりに興味はありますが、やはり時代の結節点だという問題でしょう。本命は。

【3】川上氏と「党中央」の認識のズレについて
どん底(02/5/8 06:07)

【3】川上氏と「党中央」の認識のズレについて

川上氏によれば、氏に対する実質的な査問は「君は六中総に反対していますね」という査問官の言葉から開始されています(P-39)。この日本共産党第六回中央委員会総会は「新日和見主義」摘発の5ヶ月ほど前、1971年12月に開かれているわけです。六中総での(民青同盟問題の)決定事項に関して川上氏は「二つのポイントがあった」として、

>第一に、民青の日常活動の中で学習活動の比重を飛躍的に高めるということ。学習とは、何よりも党の文献、決定文書、党が指定するマルクス・レーニン主義の文献を学習するということである。これには、学生運動や労働運動などに熱中して「党派性」を失うな、という含意があった。
>第二に、民青同盟の年齢制限を下げる、ということ。(中略)一律に上限を定めて、若返りをはかろうとするのが六中総の趣旨だったのである。(P-40,41)

とその内容を2点に要約・紹介しています。

(特に川上氏の「第一」の認識内容を念頭において以下をお読み下さい)

私自身公表された六中総決定文書にあたってみました。まずは「民主青年同盟にたいする指導と援助の問題について」と題された決議文が注目されますが、その柱は以下のように3つになっています(各見出しは原文通り)。

1. 民主青年同盟の拡大強化にたいする援助
これは、同盟員や同盟機関紙部数が前回大会の水準を下回っており、次回大会が開けぬ状況に鑑みて、また、70年代に革新統一戦線を発展させるためにも同盟拡大を党として特別に重視して取り組むというものです。

2. 民青同盟にたいする党の指導の改善
ここには7項目ほどの方針が書かれていますが、そこには後に摘発される「新日和見主義」への対処と目される方針が並んでいます。この時点で党の民青に対する指導が貫徹されていなかった状況が「党中央」によって明確に認識されていたわけです。

3.民青同盟の活動改善について
ここは「脱落を生まない強大な民青同盟を建設するためにも」学習の比重を画期的に高めるべき、という方針と、一般青年も参加できるような形態に活動を改める、という方針が示されています。「学習」については、特に「一般教養」の学習が強調されており、川上氏が言うような「党派性」を磨くこととは随分異なる内容となっているのが特徴です。「親も安心し、少年、少女からは親しまれ」るような活動が必要だとも書いてあるわけです。

また、六中総決定文書の中に「情勢の特徴と党の任務」と題された不破書記局長の報告文書がありますが、その中に「大衆団体にたいして、党が援助することの基本はどこにあるのか」という問題が論じられています。そこから引用しますと、

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ほんとうにその大衆団体の性格にふさわしい活動のやりかた、機関の運営のしかた、あるいは組織の拡大のしかたはなにか、どういうやりかたが、新日本婦人の会、あるいは民主青年同盟にふさわしいやりかたなのか、そういうことまで十分討論もし、協議もして、そういう点で、その団体がほんとうに大衆的な、その団体にふさわしいやりかたを身につけて発展し、運動できるように援助する、ここに党がそれぞれの大衆団体に援助すべき非常に大事な問題の一つがあることを強調しておきたい。(六中総不破報告)
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この不破報告は言葉も穏やかで一般党員にはいかにも抽象的かつ一般的なことを論じているように見えます。しかし、不破氏は一般党員向けにこれを書いているのではなく、六中総に参加している中核的な幹部党員、とりわけ民青幹部党員に向けて書いているわけです。そこには、穏やかな言い回しとは裏腹に数ヶ月後には暴力的に貫徹されることになる「党中央」の方針がオブラートに包まれて明記されていたわけです。

これらの「党中央」文書の内容と川上氏がそれを「二つのポイント」に要約してみせた回想内容との間には「やっぱり」というべきズレが存在していました。「民主青年同盟にたいする指導と援助の問題について」と「情勢の特徴と党の任務」それぞれの中で「党中央」が打ち出しているのは、端的に表現すれば“「ゲバ民」の名を返上せよ”、“戦時から平時に移行せよ”に尽きるわけです。しかし、川上氏の認識はそうではありませんでした。これは氏が査問される起点となった本質部分とも関わるだけに、単に川上氏の「記憶違い」で片付けるわけにはゆきません。氏は当時の認識を素直に再生したと見るのが自然であり、そうであれば氏が「別件逮捕」と感じたのも肯けるものです。

ただ、この方針認識上の「ズレ」は新日和見主義事件を知っている「今」だからこそスッと読み取ることができるのであって、当時の川上氏らにそれが読み取れたかどうかは微妙なところでしょう。結果としては読み落としていたわけです。なぜ川上氏らはこれを読み落としていたのか?

一つには、やはり当時の民青同盟が街頭闘争重視・学習軽視であったとする「党中央」の観察内容はあながち不当な評価ではなかったと言えると思います。もう一点は、「党中央」の二つの顔の使い分けが比較的純真な青年幹部党員には直截な意思伝達の妨げになったのではないか?という点が疑われます。

「党中央」の二つの顔の使い分けは、穏やかな言葉で語られるスマートな不破報告と『査問』に活写された密室でのアサマシイ姿とを比較すれば絵に描いたように鮮やかです。これは革命組織内の論理と市民社会の論理が乖離している中で彼らが「現実に生きて行く」ために自然と身に付けた方便なのでしょう。「十分討論もし、協議もして」「援助する」(不破報告)、これが内部倫理に変換された時には「密室での恫喝的査問と組織的排除による打倒」に簡単に移行する世界なのです。ちなみに、六中総決定で非公開扱いされている「民主青年同盟の発展にたいする党の指導と援助の問題」を報告したのは茨木良和幹部会委員であり、その後の査問を統括したのも同じくこの人物です。この点でも両者は一体のものであり、茨木氏は自ら行った幹部会報告を「陰に陽に」先頭に立って実践・遂行したと言ってよいでしょう。

そこに民衆の目があるか無いかを敏感に察知して、態度や言動、目の色まで切り替えて生きている人々の姿は醜くもあり哀しくもあります。その点、査問批判に対して「これは政党内部の倫理です」と切り返した不破氏は全くデタラメを言い放ったわけではないのです。むしろ「倫理」が政党内部と政党外部で分裂していることに対する感覚麻痺や開き直りこそが問われなければなりません。

いささか話が膨らみ過ぎかもしれませんが、こうした方便に浸りきった筋金入の「党中央」の意向が川上氏ら若年党員に十分伝わらなかったとしても不思議ではありません。念のために申上げておきますと、川上氏らは「比較的純真」なだけであって実際には彼らもまた査問する側に身を置くこともあったわけですから、彼らを純真無垢のように描き出すつもりはありません。

【4】大衆的前衛党建設へのステップとしての事件
どん底(02/5/8 06:09)

【4】大衆的前衛党建設へのステップとしての新日和見主義事件

共産党は六中総の直前に「党の組織活動改善の手引き」という大衆的前衛党路線推進の文書を書記局名で発表しています。

六中総報告が「党の組織活動改善の手引き」発表について触れた部分を以下に引用します。

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数万の党から三十万近い党へのこの十年間の発展は、なによりもまず、多くの同志たちの文字どおり寝食を忘れて革命の事業に献身するという、困苦にうちかつ英雄的な活動によってかちとられたものであります。党活動におけるこうした英雄主義は、半世紀の歴史に裏付けられたわが党の誇るべき伝統であると同時に、将来にわたって、党活動全体の貴重な推進力となるものです。しかし同時に、いま重要なことは、そういうプロレタリア的英雄主義をはげまし発展させながら、党の方針を支持し、党の一定の活動を担う善意をもっている多くの党員が、さまざまな条件や環境のもとで、その能力と条件に応じて活動できる道をひろくきりひらいて、党の全体の活動力を大きく前進させると同時に、まだ党員としての成長のいろいろな段階にある多くの党員が、豊かな同志愛にささえられて成長できる道を保障することであります。共産党が、日本革命を指導する前衛党にふさわしい英雄的精神を発揮しながら、すべての党員の生きいきとした自覚的な活動を保障し、発展させること、これが、プロレタリア英雄主義を発展させつつ、プロレタリアヒューマニズムに立った党風を確立するという問題であります。(六中総不破報告)
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私見によれば、「手引き」は党がそれまでの「少数精鋭」的な党から数十万党員を擁する大衆的前衛党として発展するための初めてのまとまった組織方針として打ち出された文書です。入党はしたが、厳しい共産党の活動スタイルにはついてゆけないといって党から離れて行く者が増え、幾ら党員拡大をやってもザルで水を汲むように漏れ出てしまう状況のなかで出された組織方針です。

同じ状況は70年安保闘争が幕を閉じた学生運動分野にもあったわけです。街頭の先鋭的な学生運動に明け暮れていた川上氏らも「こちらが思うように燃えない青年学生大衆、さらには自分たちの組織自体の停滞を伴って始まった時代」の中で「模索の最中」(P-210,211)だったと書いています。ただ、三池闘争、安保闘争という一大大衆運動の中で大衆と心を通わせ、またそのような闘争の中で自らも民衆の一人として変革されてきた一面を持つ川上氏にとっては、党の「大衆的前衛党」路線も管理された巨大な「マシン」と映り、民主連合政府も「到底実感できるようなものではなかった」ということだったようです。川上氏自身はどう考えていたか定かではありませんが、そのように考える者にとって、「親が安心する民青」で革命ができるのか、という疑念はごく自然なものであったことでしょう。しかし、それが「新日和見主義」批判で査問される一つのベースとなっていたわけです。

当時川上氏らも、そして党自身もある壁を感じていた点は共通しているわけであり、マクロ的に見れば新日和見主義事件は大衆運動の退潮、社会における全般的な個人主義への傾斜という変化の中でこそ生じたものであったと言えるのではないでしょうか。もちろんこれは舞台装置以上のものではありませんが。そこにおいて、「三池の女の子」や「新橋の機関車運転手」への想いの中で模索していた川上氏らが、大衆的前衛党路線をいち早く確定させた「党中央」に弾き飛ばされたという構図が見えてくるわけです。それは「戦時から平時への転換」期でもあったわけですから、「党中央」はすでに不要となった武装を一夜にしてお払い箱にしたと見るべきかもしれません。ゲバ民1万人の武装を一夜にして解除、跡形もなく消し去った手腕の持ち主、宮本氏の冷徹な容貌が浮かび上がります。

「プロレタリアヒューマニズム」を標榜する党の方針が川上氏をして「一人ひとりの人間の部品化ではないか」(P-208)と言わしめたことは注目に値します。氏はこの「プロレタリアヒューマニズム」路線についてはなぜか言及しておりません。氏が自覚されているのかどうか定かではありませんが、それが「上から下にシステマティックに徹底する」という前衛党的な「規律」のもとに遂行される限り、「ヒューマニズム」は管理されたそれでしかなく、その対立物にさえ転化するということを氏の著書は示しています。そもそも、「ヒューマニズム溢れる大衆的前衛党」という構想自体が党派間闘争に勝ち抜く必要から<政治的>に要請されたものでありました。それ以前の時代、「英雄的」活動の出来ぬ党員はどのような処遇を受けていたのか、新たな関心を呼び起こすところです。

*****

「新日和見主義とそれにもとづく一部の分派主義を断固たる闘争によって粉砕し、かえって党の隊列を思想的にも組織的にも強化した」(小林栄三)というのが「党中央」の評価でありますが、それは翌年の第12回党大会には「党規約の一部改定」にまで徹底されたようです。

【革命は、労働者階級をはじめとする幾百千万の人民大衆がおこなうものである】
という従来の表現が、「党が人民大衆の外側にあるかのような表現になっている」という理由によって、
【革命は、党と労働者階級をはじめとする幾百千万人民大衆の歴史的事業である】
に改訂され、

党が革命において果たす任務に関しては、
【人民大衆がみずからを解放する革命の事業を達成するよう援助し指導することにある】
という表現が、
【人民解放のこの事業達成のために先進的役割をはたすことにある】
というものに改訂されています。

これらの改訂は「革命が人民大衆自身の事業である」点を薄め、党(実際は「党中央」)を人民大衆と同列ないしそれ以上の存在であるかのように位置付けたものです。改訂理由の中に「新日和見主義事件」のことは一切記されていませんが、その時期と内容から判断して、それが「事件」の総仕上げであったと見ても間違いとは言えないでしょう。その後の日本共産党の柱であり、かつまた現在の同党の下地ともなった「大衆的前衛党路線」を検証する上でも新日和見主義事件の解明は有意な課題だと思われます。

素晴らしい問題意識ですね。
鶺鴒子(02/5/8 10:51)

> 【4】大衆的前衛党建設へのステップとしての新日和見主義事件


>私見によれば、「手引き」は党がそれまでの「少数精鋭」的な党から数十万党員を擁する大衆的前衛党として発展するための初めてのまとまった組織方針として打ち出された文書です。入党はしたが、厳しい共産党の活動スタイルにはついてゆけないといって党から離れて行く者が増え、幾ら党員拡大をやってもザルで水を汲むように漏れ出てしまう状況のなかで出された組織方針です。
>当時川上氏らも、そして党自身もある壁を感じていた点は共通しているわけであり、マクロ的に見れば新日和見主義事件は大衆運動の退潮、社会における全般的な個人主義への傾斜という変化の中でこそ生じたものであったと言えるのではないでしょうか。

 この認識は私も共有します。どん底さんは、党員ではないとどこかにお書きになられていたように思いますが、どう言った問題意識から、このようなことに興味をおもちなのでしょうか。私は、そちらの方が興味あります<笑い。

 当時は、大学から大学へと「泊まりあるいて」おりましたし、大学は「封鎖」され、勉強などしたくてもできない状況でした。民青の場合、勉強したいという学生の「正当」(笑い)な要求に依拠して封鎖解除への学生のエネルギーを引き出そうとしておりましたが、ある場合には、「右翼」と接点があったことも事実でしょう。


 高揚から停滞というのは、現時点では簡単なのですが、当時の認識でいうと、共産党はまだ、「70年代に民主連合政権」というスローガンを持っており、なおかつベトナム戦争でアメリカが最終的に敗北という世界史的な事件がありました。本来なら、「イケイケどんどん」という「ハズ」なのに、何故大衆運動が「保守化」して行くのか、この辺の「感覚」は新しい理論を求めていたと思います。

 比ゆ的にいうと、レーニンが帝国主義論によって、「労働者階級が人口の大半になる時代に、何故、革命が遠ざかるのか」という問題意識から、労働貴族論などを導入して、「帝国主義化」の社会的な意味を解明しようとしたことと同一の問題意識が必要でした。これらの問題は、最終的に企業社会論によって、「解明」の糸口を与えられたわけですが、当時は、そういう認識はありませんでした。

> これらの改訂は「革命が人民大衆自身の事業である」点を薄め、党(実際は「党中央」)を人民大衆と同列ないしそれ以上の存在であるかのように位置付けたものです。改訂理由の中に「新日和見主義事件」のことは一切記されていませんが、その時期と内容から判断して、それが「事件」の総仕上げであったと見ても間違いとは言えないでしょう。その後の日本共産党の柱であり、かつまた現在の同党の下地ともなった「大衆的前衛党路線」を検証する上でも新日和見主義事件の解明は有意な課題だと思われます。

 そう思います。新日和見主義の問題は、歴史の錯綜の中で、起こるべきして起こった問題でしょう。当事者が自己認識をできるまでには、70年代後半以降の「停滞」がある程度歴史的に認識できるまでの「時間」が必要だったわけです。ただ、本の題名が『査問』では、寂しい。共産党の6中総などと川上氏の問題意識がズレているのは、当然なのです。「大衆的前衛党論」とか「資本過剰下の革命路線」などという表題の本であれば、「かみ合う」のでしょうが<笑い。

 以上、文献等参照する時間がないので、正確さを欠く嫌いがありますが。12回大会での規約改正問題などは、後日談もありますので、また、機会を見てレスをします。

おやくそく
 11回大会においては、中央委員会議長と幹部会責任者の分離、幹部会委員長の創設、常任幹部会の常設化、書記局及び機関紙編集委員の幹部会任命制などがあります。中央委員会及び書記局体制から幹部会へのシフト、幹部会を中心とした一元化体制の確立と言えましょう。別の見方をすれば民主集中制の集中部分の強化とも言えるでしょう。
 72年の新日和見主義批判を経て、12回大会では監査委員会が大会選出項目から中央委員会の任命制になりました。(尚、統制委員会については既に10回大会において決定されています。)ちなみにこの時の改正理由は「中央の民主集中指導体制を全体として首尾一貫したものとする」と言う事です。

 13回大会から14回大会にかけては、民主集中制に関するかなりの論文や見解が出されています。現在定式化されている民主集中制の確立期とも言えましょう。田口不破論争や袴田問題が生じたのもこの時期にあたり民主集中制を巡る議論は80年ごろまで続きます。
 その後党員候補制度の廃止を始め22回大会の大幅な規約改正に至るまで適宜修正がなされていますが、ほぼこの14回大会までに大枠は完成していると言えましょう。尚、民主集中制の問題に関しては19回大会において再度認識を深めていますが、僕自身としてはそれまでの延長線上にあるとして捉えています。
 さて、これらの規約上の変更に共通しているものは何か。「集中強化」に他ならないのです。「民主」部分の規約上の補強は無いに等しく単なるスローガン止まりでしかない。

 私的総括にあたり、59年以降の参院選挙比例区(旧全国区)の得票数及び得票率を洗い直してみたのですが、先の参院選挙の比例区得票数は430万票、74年の490万票にも満たない。27年間を経過して基礎的な部分が全くと言って良いほど伸張していない。(参院比例区以外は不確実要素が介在する確率が増えるので比較数値としてはこの比例区が最も良いと考えています)
 その時々の情勢により様々な風が吹く事は承知していますが、このような長期間にわたりその基礎数値に変化がないと言うことは、十分方針上の検証をするに足ると考えました。
 そのため政治方針と組織方針に区分して私的総括を試みる事としたのですが、とりわけ組織方針上に多くの疑問を感じたのです。勿論当時の置かれた状況、特に左翼内の数多の論争や組織分裂といった内へのエネルギーの消費、躍進に伴う公安の介在など組織強化に向かわざるを得ない情勢下を考慮しても再度認識を深める必要を感じております。
 59年から74年にかけての躍進期とそれ以降の停滞期の違いを、単に時の情勢のみで片づける時期は過ぎたのではないか、組織方針強化の背景にある新日和見主義の果した役割、民主集中制の固定化の是非、などなど大いに深めて行っていただきたいと思います。
 皆さんの検討素材になり得たかどうか全く自信が有りませんが、僕自身は上記の問題意識に基づいて自分なりに深めたつもりです。また何処かでその事に触れる機会があるかもしれませんが、とりあえず概要まで。

Re:続・新日和見主義事件を考える
鶺鴒子(02/5/17 21:11)

 二つの視点から見るべきだと思います。

 一つは、現在の共産党の規約から見ての「逸脱」という問題です。確かに「査問」というと、戦前の非合法時代のスパイ追及(正当防衛権の行使でもあるから、相手に相当のダメージを与えてもやむをえないという意識が、規約の精神に外に充満している感じですが)のイメージが強い。

 しかし、規約上は、戦前も現在も最大の処分は、「除名」であり、綱領と規約を唯一の組織軸と見る観点からは、これ以上のものはない、ということでしょう。この処分の根拠を見極める上で、いわゆる「査問」があったわけです。しかし、最高の処分が除名ということに見合った「査問」になっているのかは、川上さんの『査問』に端的に示されているように、大いなる疑問があります。当たり前のことですが、日本人一般に許されない人権蹂躙行為が、共産党内だけには許されるなどということは、ありえません。

 ただ、この問題は、共産党が、日本国憲法と規約を厳密に遵守することによって、「解決可能」と思っています。政権を目指す政党は、当然に憲法の遵守義務があります。現在「違憲」の自衛隊を、自分が政権に入った場合は、「活用する」などの感覚は、憲法遵守ではありません。憲法に明記された人権を党内外を問わず、日常的に実現する努力と相まって、「解決」への道をたどると思います。

 もう一つ問題があります。共産党の組織原則とされている「民主集中制」の問題です。社会と政党の論理は異なるので、国民に対して統一した見解や政策を示す上で、どの政党でもある種の「集中制」は必要です。しかし、あらゆる意味で「分派」を認めないということと集中とは異なります。私は、統一的な政策や見解という点で、選挙政策を重視しています。ここで、バラバラの政策を国民に示せば、一つの政党とは思えないからです。逆いえば、その他の問題では、無理に統一をしていなくても差し支えありません。理論分派とか言い方は様々ですが、自由な見解表明が保障されてしかるべきです。

 「査問」がこの、組織原則と密接に結びついていることは、ほぼ共通の認識になるのではないでしょうか。異なる意見や党の政策や方針について異論を自由にいう権利がある(党の内外を問わず)となれば、川上さんは「査問」など受けなかったことは当然でしょうから。党の分裂はまた別の問題ですが、綱領を否定する場合は、除籍すればよいことです。

 「査問」された方たちが、党内に留まったのは、ある意味で、この民主集中制を「是認」したからでしょう。戦時共産主義(共産党)体制としてのこの制度を、どういう形で、現在の高度に発達した資本主義あるいは民主主義(憲法の体制を含め)に適合させて行くのか、これは、コミンテルン出自の共産党にとって、結構な「難問」でしょう。

>「革命」を掲げて社会と対峙しない限りは反体制原理主義の克服はそもそも課題足り得ないでしょうから。ただ、これからの資本制の未来がそれを許すかどうか、ここが謎です。

私は、現在の多数者革命という考え方は、社会の合法則的な発展方向に見合っていると思っています。空中戦はしませんが、議会あるいは、直接民主主義の発展と矛盾をしないものと思います。体制側からの「弾圧」が、超法規的かつ苛烈な場合、反体制の運動もそれに比例して超法規的、苛烈になることは、別に社会主義革命に留まらず、一般的な「法則」でしょう。これが、ある意味で、普遍化されてしまったことに、基本的な問題があると思っています。この辺は、この板でも随分と討論されてきたことでしょう。

 なお、ついでに言いますと、党員は党を除籍された人、さらに言えば、除名された人とも、当然に大衆運動や一定の社会の中で、他の人々と同じように「付き合う」だけの度量をもつ必要があると思います。私は、旧社会党や現在の民主党の方でも(それがかつて党に籍を置いた人でも)、わだかまりなく付き合っているつもりです。「反党分子」とか実に嫌な言葉ですね。ここから「あれは人間じゃない」という認識まで、後半歩ですから。

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Re[2]:続・新日和見主義事件を考える
反独占民主改革派(02/5/18 17:54)

>  もう一つ問題があります。共産党の組織原則とされている「民主集中制」の問題です。社会と政党の論理は異なるので、国民に対して統一した見解や政策を示す上で、どの政党でもある種の「集中制」は必要です。しかし、あらゆる意味で「分派」を認めないということと集中とは異なります。私は、統一的な政策や見解という点で、選挙政策を重視しています。ここで、バラバラの政策を国民に示せば、一つの政党とは思えないからです。逆いえば、その他の問題では、無理に統一をしていなくても差し支えありません。理論分派とか言い方は様々ですが、自由な見解表明が保障されてしかるべきです。

「批判の自由と行動の統一」ということが民主集中制では強調されるのですが,共産党が大衆的支持を受けるためには,「批判の自由と行動の保留」というラインまでレベルダウンしてもいいのではと思いますが。学生時代にこのことを親しい党員に言うと(なお,私は一貫して党外の立場です),君の考え方は「自由分散主義」「社民主義」「評論家」だと批判されました。でも,理論的に食い違う場合はやむを得ないと今でも思っています。

>ついでに言いますと、党員は党を除籍された人、さらに言えば、除名された人とも、当然に大衆運動や一定の社会の中で、他の人々と同じように「付き合う」だけの度量をもつ必要があると思います。私は、旧社会党や現在の民主党の方でも(それがかつて党に籍を置いた人でも)、わだかまりなく付き合っているつもりです。「反党分子」とか実に嫌な言葉ですね。ここから「あれは人間じゃない」という認識まで、後半歩ですから。

 同感です。旧社会党でも,社会主義協会の分裂(向坂派と太田派)では,お互いに「組織破壊分子」「分裂分子」「脱落分子」「解党主義者」などと批判していましたので,近親憎悪は共産党固有の問題ではないと思います。同様に,学生組織の民主主義学生同盟も最終的には3グループに分裂し,互いに激しい批判(時には暴力的に)をし,結局は縮小再生産の道を歩んだことを,日本の革新勢力・民主勢力はキモに銘じたいものです。

22 [13] [23] [30] [38] [41]
Re[2]:続・新日和見主義事件を考える
どん底(02/5/18 18:25)

>当たり前のことですが、日本人一般に許されない人権蹂躙行為が、共産党内だけには許されるなどということは、ありえません。

> ただ、この問題は、共産党が、日本国憲法と規約を厳密に遵守することによって、「解決可能」と思っています。政権を目指す政党は、当然に憲法の遵守義務があります。現在「違憲」の自衛隊を、自分が政権に入った場合は、「活用する」などの感覚は、憲法遵守ではありません。憲法に明記された人権を党内外を問わず、日常的に実現する努力と相まって、「解決」への道をたどると思います。

ですから、そのような解決のためには「革命」を捨て去るべきだろうということです。市民社会の一員として自らを社会に溶かし込むのではなく、市民社会を常に否定の対象として自己の対極に観念している限り憲法の人権条項は内部規範とはなり得ません。外向きの顔は別であっても、査問はまさに内部規範(政党内部の倫理・不破)に基づく内部行為なのですから。こうした内部と外部の矛盾は、市民社会の否定を標榜しつつも現実には市民社会で生きなければならない反体制組織特有の「妥協」と考えるべきではないでしょうか。実際問題、党員も選挙の票も常に市民社会からしか供給されないわけです。

このような観点で「規約」というものを考えてみますと、これは内部規範の下位に構成された半ば外向き(市民社会向き)の妥協の産物と見る必要があるように思います。査問は明らかに規約の上位にある内部規範=掟(おきて)によって司られています。その実態が「規約からの逸脱」だとしても驚くには当たりません。

このような「内部と外部の矛盾」に立ち向かうことなく目を背け、市民(あるいは多くの点で市民社会の一員に留まっている下級党員)の目を恐れて「口外するな」と秘匿し続けてきたのが共産党中央の一貫した姿勢ではなかったでしょうか。党を除名されて市民社会に帰依する他なくなった者が市民社会の論理を拾い上げて党内事情を批判する光景はよく見られるところです。「昨日の同志・宮本顕治」の袴田氏はその典型でしょうし、例の元秘書などもそう。まぁ、後者は除名される以前から「市民化」を遂げていた観がありますが(笑)。だから、彼らは「規約違反」も「人権侵害」も「不法行為」も十分理解している(していた)わけです。

ということで、査問に見られる党の体質を「人権侵害」や「規約違反」という観点から批判してもあまり本質的ではないと思われます。それらは症状ではあっても病原ではないからです。根底には反体制組織が反体制ゆえに背負い込んだ「内部と外部の矛盾」、言い替えれば「自己と変革対象との乖離」という問題が横たわっているように思います。そして、これは共産党だけの問題ではなく反体制原理主義一般が抱える問題だとも思うわけです。

(となりのゲイさん)
http://jcpw.site.ne.jp/bbs/bbs20.cgi?id=&md=viw&no=1499&tn=1248
>私はこの事件から教訓を得るなら、個としての市民の対
>等で自由な結びつきとしての、成熟した市民社会にふさ
>わしい革命党のあり方を探ることだと思います。

問題は、「市民社会」との距離の取り方なんだろうと思います。没入してしまっては最早「革命党」ではなくなりますし、かといって「市民社会」の彼岸に自らを屹立させれば「二つの顔」を使い分ける他なくなるのですから。現在の共産党は両極の間をどちらともなくさ迷っている、そんな印象を受けます。同党は大衆的前衛党路線を大黒柱として来たにも関わらず何らの総括も無いままに「前衛」規定を削除したわけです。この混迷の旋回軸はやはり“「市民社会」との距離”をどうするか、という点にあるのではないでしょうか?

※ まぁ、「距離」という表現は多分に「あっち」と「こっち」という2点の隔たりを前提してしまうのですが、どうも巧い表現が見つかりません。やっぱり哲学の欠乏かな?>勉強さん。

42 [30] [46] [54]
Re[4]:続・新日和見主義事件を考える
どん底(02/5/20 06:43)

いよいよ浩二さんの本格的参入ですね(^^;
これでほぼ役者が出揃ったかな?(笑)


で、まずお断りしておきますと、私は「党の査問体質」ではなく「査問に見られる党の体質」を問題にしています。似てるようで違うのです。査問という制度があろうが無かろうが(笑)、体質は体質ですから。

>病原はマルクスです。

と言うか、そもそもマルクス自身も社会と対峙した革命家ですから私の言う「病原」に晒されていた存在じゃないですか? マルクス病原論は、21世紀のファシズムの病原を「ヒトラーにあり」と主張するのと同様にほとんど空砲だと思います。

それから、浩二さんが「マルクス」から表象される思想が何であるにせよ、問題の根本はそれが過去のものではなく今現在の社会の中で再生産されているという事実です。その再生産されたものが「資本論を書いたヒゲオヤジの思想」と同じかズレてるかは取りあえずどうでもよいことで、問題はそれが再生産される条件が今現在の社会(罹患者含む)に存在しているということです。人が水や空気無しに生きられないのと同様、「マルクス」も存在条件を喪失していれば生き続けることはできません。つまり病原は主としてこの社会に有るわけです。カンボジアツリーで「マルクス主義の現実的存在形態」と書きましたが、これは「みんなマルクスが悪い」って話では全然ありません。常に「現実」という要素によって更新されているのですから。

イデオロギーが人間の現実的生活過程から生じて来ることを示した点はマルクスのエライところだと思います。この視点を評価している私としては、前々世紀の人物の思想に責任をおっかぶせるだけで現実を批判できた気にはなれないわけです。

>>根底には反体制組織が反体制ゆえに背負い込んだ「内部と外部の矛盾」、言い替え
>>れば「自己と変革対象との乖離」という問題が横たわっているように思います。
>>そして、これは共産党だけの問題ではなく反体制原理主義一般が抱える問題だとも
>>思うわけです。
>反体制一般に解消することはできないのではないでしょうか?。同じ反体制であっても
>社会民主主義に査問体質は関係ないように思います。

反体制と言っても社会との位置関係は「ごく近い」ものから「根底的に異なる」ものまで非和解性において無数のレベルがあります。そのレベルに応じて現象形態は異なるでしょう。革命党にはこの矛盾が鮮明に表出するわけです。生死を分かつような緊張関係を形成していれば、例えば戦前のリンチ査問致死事件みたいなことも起こり得るわけです。連合赤軍もしかり(一応「組織」に限定していますが、「個人」でも同様です)。

>新日和見主義事件や査問体質を反体制一般の土俵で論じると、焦点がぼけてくると
>思います。
>
>査問体質は共産党(および共産党からの派生組織)一般に限ってのものであると、
>厳しく限定すべきだと思います。

オウム教団はむしろ反共ではありませんか?
同じく創価学会は?

>マルクスに依拠しつつ市民社会と「うまく距離を取る」などは無理です。
>マルクスの考えには、市民社会と「うまく距離を取る」思想などありません。

私はまだそこまで断定できるほどマルクスを知りませんが、別に依拠しなければならないとも思いませんし目を剥いて排除すべきだとも思いません。我々が学ぶべき無数の先人の一人としてフツーに扱えばよろしいかと。「この人の思想に依拠すれば世の中万事うまく行く」なんてものがあるはずないのですから。そういう唯一神のような存在を信じている人は裏切られた時にブチキレ状態になるんですよね(^^;

>マルクスに依拠するあらゆる運動が、けっきょくは嘘と欺瞞で打ち固められなければならな
>かった(ならない)のは歴史の必然でした。

これも私は浩二さんほどマルクスには通じておりませんので「歴史の必然」だったかどうかは分りません。ただ、「嘘と欺瞞」がアプリオリに革命党に内在する、という見方であれば賛成できません。相互依存・相互規定の関係にあるはずの革命党と市民社会とを切り離して議論しても限界があります。あくまでも双方の「関係」の中で論じられるべきだ、というのが私の論点です。

46 [42] なし
Re[5]:続・新日和見主義事件を考える
浩二(02/5/21 10:13)

>で、まずお断りしておきますと、私は「党の査問体質」ではなく「査問に見られる
>党の体質」を問題にしています。似てるようで違うのです。査問という制度があろうが
>無かろうが(笑)、体質は体質ですから。
いえ、ここははっきりさせておいた方がいいでしょう。
私は「党の査問体質」と捉えています。これを「査問に見られる党の体質」としたの
では、「日本共産党は、たまたま偶然に査問をやったことがある」というふうに
認識する危惧が生じます。そうではない。日本共産党をはじめ、共産党はそのすべてが、
査問体質を必然的に抱えているのです。

「査問という制度があろうが無かろうが」ではありません。思想を一元化しなくては
やっていけないマルクス流社会主義〜共産主義に依拠する政党において、査問体質は
必然なのです。

>と言うか、そもそもマルクス自身も社会と対峙した革命家ですから私の言う「病原」に
>晒されていた存在じゃないですか? マルクス病原論は、21世紀のファシズムの病原を
>「ヒトラーにあり」と主張するのと同様にほとんど空砲だと思います。
以下引用は省きますが、どん底さんのお考えとしては理解できます。

「人間の現実的生活過程」からいろいろな思想が生まれます。しかし、現実世界に「病原」
があるからといって、だから日本共産党は査問体質だ、とはならないわけです。私の言って
いるのはこれです。現実世界の「病原」と日本共産党の査問体質の間には、まさにどん底さんが
おっしゃるように、イデオロギーというクッションが一枚噛んでいるわけです。そのイデオ
ロギーの源を私はマルクスだと言っているのです。

現実世界に「病原」がある。これはそのとおりです。で、現実世界の「病原」に対する処方
箋は様々。その処方箋の一つが「マルクスのイデオロギー」です。「イデオロギーが人間の
現実的生活過程から生じて来ることを示した点はマルクスのエライところだ」であり、
同時に、マルクスの思想自身がイデオロギーとなりました。そして、マルクスのイデオロ
ギーが日本共産党の査問体質の源となっています。

マルクス病原論は、おっしゃるとおり、空砲です。正確には、「現実世界の「病原」を
前にして、マルクスのような道筋で現実打開の方法を考えると、そこからは、日本共産党の
査問体質が必然的に生み出される」とでも言うべきでしょう。マルクスはマルクスでなく
たっていいわけです。ただ、歴史の偶然が、「あのような考え方」をマルクスなる人物を
通して人類にもたらしたわけですから、象徴的な意味として、「マルクス」病原論なる、
人名を冠した言葉を使うのが現実的です。

>ただ、「嘘と欺瞞」がアプリオリに革命党に内在する、という見方であれば賛成できません。
私も、「革命党に内在する」ではなく、「共産党あるいは共産主義を展望する政党に内在
する」と考えています(でもほぼ100%、革命党=共産党あるいは共産主義を展望する政党
でしょうから、この一文はあまり意味がない……?)。

「常に「現実」という要素によって更新されている」とどん底さんは最初の方で書かれて
いますが、それは当たり前であって、しかしイデオロギーは一秒ごとに動く現実とは一定の
距離を置いて、一定の固定的な考え方の枠組みとなっているのですから、現実が更新される
からといって、それに連動してイデオロギーが変わるわけではない。考え方の枠組みは一秒
ごとに動く現実をどう見るかというマニュアルのようなもの。マルクスの思想は、「商売して
儲けるのはけしからん」という思想です。この思想は、「商売して儲ける」人間が存在し、
「商売して儲ける」人間の存在を許す社会体制があるかぎり、現実がどれだけ変わろうとも
生き続けるでしょう。そして、「商売して儲けるのはけしからん」と考えたが最後、
そこからはスターリン粛清の悲劇も必然、カンボジアの悲劇も必然、文化大革命の悲劇も
必然と私は考えています。

41 [22] なし
少し時間をください。
鶺鴒子(02/5/20 02:38)

> このような観点で「規約」というものを考えてみますと、これは内部規範の下位に構成された半ば外向き(市民社会向き)の妥協の産物と見る必要があるように思います。査問は明らかに規約の上位にある内部規範=掟(おきて)によって司られています。その実態が「規約からの逸脱」だとしても驚くには当たりません。
> 問題は、「市民社会」との距離の取り方なんだろうと思います。没入してしまっては最早「革命党」ではなくなりますし、かといって「市民社会」の彼岸に自らを屹立させれば「二つの顔」を使い分ける他なくなるのですから。現在の共産党は両極の間をどちらともなくさ迷っている、そんな印象を受けます。同党は大衆的前衛党路線を大黒柱として来たにも関わらず何らの総括も無いままに「前衛」規定を削除したわけです。この混迷の旋回軸はやはり“「市民社会」との距離”をどうするか、という点にあるのではないでしょうか?

 大体、ご意見は理解したのですが、浩二さんの議論とも関わって、「市民社会」という「言葉」をどう使用しているのか、この辺について、共通の認識を形成しておかないと、議論が噛み合わないことになるのは、必死です。

 それで、「市民社会」の含意について、お伺いします。シビル・ソサエティなのか、ビューガリッヘ・ゲゼルシャフトなのか、単なるキャピタリズムなのか。この辺りは、伝統的な3つの「市民社会論」です。
 その他、90年代以降の、ドイツで展開されたZivil・ゲゼルシャフトなのか。市場との関係をどう理解するのか。最近の市民社会論は、多様化して、含意が一定でありません。
 となりのゲイさんが、自立した個人・・・と述べているのは、二重の意味で「自由」な労働者、という共同体から「自立」した個人の集団であり、これは、マルクスやヘーゲルが含意した「政治的なる国家」との対比で述べたビューガリッヘ・ゲゼルシャフトとは異なります。
 以上、質問だけで恐縮ですが、空中戦をしても無意味なので、あえて、共通の認識を確立しておきたいと思います。

40 [37] [70] [102]
こんばんわ。
鶺鴒子(02/5/20 02:27)

>はじめまして、そしてこれからも宜しくお願いします。反体制原理主義についてはどん底さんへのレスで触れることとして、民主集中制について少し深めてみたいのですが・・・。

 こんばんわ。こちらこそよろしくお願いします♪

>「行動の統一」についてはどのようにお考えでしょうか。「行動の不統一」については、僕自身どうしてもそこまで踏み切れないといったのが現状です。此の間の議論を見ていても「政策の統一」自体が結果として多数派(中央独断という意見もありますが)に依拠せざるを得ない状況に、少数派は行動をも留保できるとなると検証可能性は実現出来るのか?なんて考えてしまいます。

 私は、元記事で書いたように、政党の対外的な選挙政策について、統一的な対応をすべきだと思っています。もちろん、重要な政策として発表するものは、この範疇に入れる必要がある場合も考えられます。しかし、例えば、「自衛隊活用論」などは、選挙政策として対外的に公約するまでに至っていないわけです。そういう場合も含めて、党内で「対案」や修正案を発表し、これを「国民の前」で公然と議論することは、何ら問題がないと思います。現に、共産党の「管理下」という前提ではありますが、大会議案に対する意見の表明は、党外の人でも読める(余り、なじみのない新聞でしたが)ようになっていました。さらに言えば、「綱領をこのように改正せよ」というような意見を公然と述べるのも、問題はないと思います。

 国民から見て、一つの政党としての「機能」を喪失するような「分派」は、これは、その政党を離れて、議論や行動を展開すべきことでしょうが、綱領を前提とする、様々な議論については、議論を許すだけではなく、物質的な保障もすべきだと思っています。

 政府が提出する法案に対する見解なども、結構微妙なものがあります。ただの「悪法」もありますが、普通はアメとムチが含まれます。現在は、国会議員団が決定するのか、中央が決定するのかよく知りませんが(皮肉)、「党議拘束」とかいう概念ではなく、選挙政策を基準にして統一した対応をするのは、当然でしょう。

 「行動の統一」といっても、具体的に考えれる必要があります。例えば、党として対外的に発表した(もちろん、民主的な討議の保障が前提ですが)、政策について、Aという政策を発表したときに、Bこれに「反して」という政策を宣伝したり、実行したりしなければ良い、というような理解をしています。

 有体に言ってしまうと、現在の日本社会において、密室の党内で決めた方針が「突然」大衆の前に現れる、というようなプロセスは、そのこと自体、国民から支持されない、ということです。何故、そういう政策や方針が出てくるのか、その党内の討議プロセスも国民に公開されるべきだと思います。

 ついでに。国労の4党合意の受け入れなどは、国労内の党のフラクがこの方向を支持したことは明確でしょうけど、こんなものは、決定でもなんでもありませんし、党員を拘束するものでもありません。「行動の統一」などは、問題にならない事象でしょう。党自身が、地方的な問題は「自主決定」と言っているのですから、「行動の統一」は全国的な選挙政策(候補者決定)など、国民の前に明確に示した方向について、ということになると思っています。

>もう1点。「社会と政党の論理は違う」と言うのもよく言われることなのですが、相当に成熟した社会で無い限り相互連関を否定する事は出来ません。現に某社会福祉法人では「民主集中制」を採用しています。(訴訟が起きている愛知県の団体の事です)

 この愛知のゆたか福祉会は、全くの論外です。社会福祉法人のどこから、民主集中制なんかが出てくるのか、精神構造を疑います。自覚的な紀律で、「団結」する、綱領をもった政党だから、「民主集中制」が許容されるだけのことで(先にふれたような限定つきで)、法人に雇用された人が、憲法で保障されている権利を、別の論理ではく奪されるようなことはありえません。この場合は、ただのファッショです。私の知り合いの弁護士も、教授も「呼びかけ人」に名を連ねております。

>政党の組織原則は、少なくとも政権を担う段階においては社会構成体に反映せざるを得ない。任意組織だからといって社会と無関係ではありえないと思うのですが如何でしょう。

 こういう漠然とした理解は、建設的ではないと思います。「無関係ではありえない」という曖昧さも同様です。政党なり、特殊な目的をもった団体が、その団体なりの「団結の基準」をもつことは、当然の権利であり、結社の自由、思想・表現の自由など、日本国憲法で十分に認められた原則です。その自前の規約なり、綱領なりを社会や国家に押し付ける(イスラムの政教一致などを含め)ことが問題だと理解をしています。これは、70年代から80年代にかけての不破・田口論争の主要命題だったと思います。

 スターリンの36年改正憲法が、一党独裁を国家のあり方として定式化したことが、決定的な誤りだったということでしょう。共産党の内部で、何を言ったとしても、国民の前では、一政党でしかありません。
 
 田口さんが、指摘したことは、非民主的な体質をもつ政党が、権力を握った場合、国家なり自治体を民主的に運営することができない、という「常識的」な話だったと思います。私は、現在の共産党の場合、確かにこういう危惧はあると思います(残念ですけど)。ただ、どの組織や団体でも、除名や権利停止などの処分を伴うのは当然で、これは、結社の自由の範疇です。問題は、ここで議論になっているように、「査問」などの「反社会的」なやり方をとることは許されない、というこれまた常識的な問題だと思います。

 反体制原理主義の問題が出ていますが、これは浩二さんが言われているように、一般化して議論すべきことではありません。
 その団体が「どういう目的・目標」を持っているのか、ということと、その団体の内部規律、「市民社会」(これは、色々と問題がある概念なので、上の論争には、まだ参加しません)への対応の仕方は大きなる関連をもっています。オームなどが本来もっている「目的」は、いかに取り繕うとも、「市民社会」に適合的ではありません。選挙などに出て、「票を掠め取る」際も、政策は、マヌーバー(懐かしい言葉だけど)としか言いようがないものです。

 その団体の目的と政策(手段)は、密接に関連します。
よく、目的は良いが、手段が悪い、などという批判を耳にしますが、よい目的を悪い手段で果たすなどということは、ナンセンスです。平和のために、軍備の拡大を、というのも同様でしょう。
 ヘーゲルではありませんが、目的は手段の総和です。ですから、その社会の発展と両立できるかどうか、その社会に許容されるかどうか、という問題は、規約の問題(この場合、民主集中制)だけではなく、その目的が社会の発展と道を同じくしているかどうか、という点からアプローチされるべきなのです。

 最後に。民主集中制は、政党としての「統一性」を確保する以上の意味をもたせてはならない、と思います。現在の共産党は、事実上、少数意見が反映できない仕組みになっていますし、日本の進路を巡って、活発な議論が展開されていない現状も、この制度と無関係とはいえないでしょう。党首が論壇的な資本論解説などに没頭している姿は、「前衛党」の規定を捨てたとはいえ、情けないと思います。『レーニンと資本論』とか、退職してからやって欲しいと思うのです。ちょっと、最近、目に余る感じがしております。

 貴兄の民主集中制を「受容」する5原則?に直接は、お答えしませんでしたが、重なりあう部分も多いですね。組織は、結局人間の「知恵」で、革命が陰謀の時代は、それなりの団結基準があり、社会発展を「促進」する目的の場合は、やはり、それに適合的な組織のあり方が「発見」されなければならない、と思うのです。では、また。

駄レスですが。

 「横断的討論の保障」というのは、当然でしょうが、その場合、一つは支部(基礎組織)を跨いで、全国的に討論する「場」が保障されないと、絵に描いた餅になりますね。大会の前の「特集号」における「討論」もこの一部としては意味があると思っています。しかし、貴兄が主張されているのは、日常的な意見の交換や討論の保障ですよね。これも当然だと思います。

 もう一つは(これは私の実感なのですが)、政策や方針の発表の「前」に、そのスジの専門家の意見を党内で集約をして欲しいと思っているのです。例えば、労働基本権の政策を出すときに、党内弁護士で『スト権』の著作もある、内藤さんの意見すら聞いていないのです。今回のテロや有事法制などは一定のヒアリングをしていますが、党内には色々な専門家がおります。「みっともない」ものを出してしまってから、修正する(こそこそと)というような事態は避けて欲しいと思っています。

 上に若干、記しましたが、私は「行動の不統一」を主張するというより、やはり政党ですから、最低限の「行動の統一」は必要だと思っています。その「統一」の条件を、選挙政策つまり国民に対する政党の公約におく、という視点を導入したら「どうか」という「提案」なのです。具体的に考えると、多分、色々と問題も生じるでしょう。その場合の基準は「国民に対する政党としての公約」です。綱領が最大の公約なので、当然、これを認めない場合は、党員としての「資格」に関ります。あたりまえですよね。

 横断的な討論の保障という点では、党大会に党員の議案提案権を認めることが必要です。その場合、自分の議案に賛同を求める「行為」が「分派」だというような話では、どうにもなりませんから、議論の自由は、賛同を得る行為や議案等を説明できる「場」を必要とします。

 一回、党外に公表した方針や政策については、党員は党外でも意見を述べることができるようにしても問題がないと思います。選挙政策なども、意見は自由ということです。ただ、党の発表した政策と異なる政策を発表して、立候補するなどの行為に及べば、これは「分派」行為として、処分の対象となるわけです。まあ、常識的にいって、自分が納得できない政策や公約を中央が決定した場合に、その実現を目指して立候補するというようなことは「無理」があるでしょう。

 さて、私が念頭においているのは、今後予想される「綱領改正」についての議論の方法です。綱領は党員の「資格」に関るわけですから、自分が変わらなくても綱領が変われば、党外に出てしまう、という事態がありえます。ですから、ある意味で、全党員の「洗いがえ」的な討論になるわけです。部分的な議論の場合は、当てはまりませんが、抜本的な綱領「改正」は、事実上、「洗いがえ」になります。

 これを民主的に「しきれるか」どうか、注目をしております。

>>この愛知のゆたか福祉会は、全くの論外です。社会福祉法人のどこから、民主集中制なんかが出てくるのか、精神構造を疑います。自覚的な紀律で、「団結」する、綱領をもった政党だから、「民主集中制」が許容されるだけのことで(先にふれたような限定つきで)、法人に雇用された人が、憲法で保障されている権利を、別の論理ではく奪されるようなことはありえません。この場合は、ただのファッショです。私の知り合いの弁護士も、教授も「呼びかけ人」に名を連ねております。
>訴訟の事例は「民主集中制」にその原因があると思われますか?僕は必ずしもそうは思ってはいませんが。僕がここで指摘したい事は、公的存在であり又指導的存在とも位置付けられていた政党の影響力について言っているつもりです。下記の「漠然とした理解」と指摘された「社会構成体への反映」の例示のつもりです。

 ゆたか福祉会の問題は、民主集中制以前の「人権感覚」の問題でしょう。これは、政党の「指導」などとは関係がありませんよ。現に、党員の弁護士や学者が訴訟を支持して運動をしております。「崇高な目的の前には、個人の”多少”の人権の制限は当然である」という認識が間違っているのです。

 民主的経営論なども、つまらない議論をする前に、人権の拡充のために、人権を抑制してもよいかという「原則問題」を議論する必要があるでしょう。「民主的経営にあってはならない」などいう精神論で、この問題は、片付きません。不破・田口論争で、田口さんが危惧したことが「小規模」ではありますが、「証明」された例として記憶します。

 これが政党レベルで国家まで「敷衍」されれば、スターリンの大粛清でしょう。私は、どんな小さな事例でも、組織による人権の抑制・否定には絶対に妥協しません。綱領による「団結」とは、全く関係のない「大衆組織」で民主集中制が導入されれば、当然、人権の抑制になります。党員なら当然であることも、一般の国民には抑制として作用するわけです。

 他の「民主的経営」や公益法人などで、民主集中制を組織原則として導入しているところは、あるのでしょうか。「みんなで決めて、みんなで実行」などは、単なる常識的なスローガンですから、関係ありませんが。

>貴兄は「論外」と片づけられていますが、党員研究家の中には高く評価されておられる方が存在します。決して突出した組織形態ではないと思われますが・・・。「民主経営」には大事なようですよ。僕は全く同意できませんがね。

 「論外」ではないという認識ですか? この事件を担当している弁護士と話した時は、本当に「笑い話」の扱いでしたけどね。「きついギャグだな?」といった程度でした。真面目に、これを実現しようというなら、私は浩二さんにならって「首括れ!」「逝ってよし!」といいたいですな。

> 別に団体の権利を否定しているつもりはありません。現に現時点での民主集中制の必要性を認めているわけですから。僕が言いたいのは押し付けなくてもまねをする、あたかもその組織原則が万能であるかの如き理解する未成熟さを残さざるを得ない部分を想定しています。外的阻害要因の排除を可能ならしめた時点では「民主主義」でいいんじゃないってな事です。

 これは、全く同意です。常識的に言って、党内と党外の論理は異なりますが、党内の民主主義的な運営ができない「組織」「人間」が国家の民主的な運営「だけ」はできる、というようなことは想像の外ですね。問題は、これを党が民主集中制を取る場合、必然的に「国家の運営に反映」する(社会構成体ではなく)かどうか、ということでしょう。

 私は、国家(自治体も含め)の運営原理と政党の運営原理の「違い」は認めます。つまり、政党政治を認める立場です。これは、政党の比重が当初と比べて「低下」している現在、及び近い将来においても、そう思っています。そういう意味において、「民主集中制」も「民主的な分権制」をも念頭においた方向で彫琢される必要があると思います。

> 残念ながら党内においてその手段が制約されているのが実態でしょう。規約改正論議のときも残念ながら「民主集中制」を真正面から議論する条件はありませんでした。党からの除籍を余儀なくされた嫌煙家さんの事例を見れば明らかです。(除籍理由の事ではありません。掲載不可の理由の事を言っています)
 
 私も若干、その経過をこの板で見ておりましたが、あれは「ヒドイ」と思います。私の考え(現在の規約の解釈ではなく)では、論外の事態だと認識をしております。

>社会発展との同位性の確認は中央だけの専売特許ではありませんので、個々の構成員が検証可能な保証を規約上も講じるべきだと思います。要するに「アプローチ」(手段)の保証無しに合目的性が確認できない、といったより低レベルの話なんですが・・・。

 低レベルでも何でもなく、当然のことでしょう。

>するのは勝手だが、巻き込むな!てな感じです。研究の段階が、あたかも決定かの様に報じられる非科学性、何とかならないものですかね。仕事の片手間にやられて、選任の研究者は何も感じないのでしょうか。多くの研究者が寄ってたかっても敵わない程の図抜けた知力の持ち主なのでしょうかね。直接の面識がないもので何とも言えませんが。

 確かに、マルクス・レーニンの古典研究家としては一流だと思います。それ以上でも以下でもないというのが私の評価です。昔、書いた「アジア的生産様式論」なども、問題外なのですが、赤旗の書評で「これでアジア的清泉様式論に終止符を打った」という論評があり、「口アングリ」の状態になりました。「勘弁して欲しい」というのが本音です。