「元日共系全学連委員長・田熊和貴講演の愚劣考」 |
(最新見直し2005.11.30日)
(はじめに) |
「全学連」に「大好評! 元全学連委員長 田熊和貴氏の講演」(2004.12.18日、都学連主催、全学連後援の東京自治会学校での記念講演と質疑応答を、全学連書記局の責任で編集したものです。ぜひ御活用ください、とある)がサイトアップされている。れんだいこがこれにコメントつけておく。「大好評!」であるらしいので、どこが「大好評!」なのか確認しておく。れんだいこは「戦後学生運動論」を考究しているので、この観点に照らせて解剖する。 田熊と云えば丁度、れんだいこが学生運動していた頃のれんだいこが所属していた民青同系全学連の早乙女委員長の前任のようである。あの頃を振り返る意味で文面対話をしてみたい。 2005.11.29日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その126 | れんだいこ | 2005/11/30 |
【日共系全学連元委員長・田熊和貴講演の愚劣考】 田熊は、都立立川高校から1963年に東京経済大学に入学し、民青同系全学連の再建準備委員会の事務局に入り、64.10.13日の全学連の再建とともに中央執行委員になり、翌年、都学連(東京都学生自治会連合)を再建して副委員長になり、67年から3年間、全学連委員長をやったとのことである。67年からの3年間とは、戦後学生運動の最後のエポック期であり、燃え盛る全共闘運動に対して、外から警察が、内から日共系全学連が沈静化せしめていった経緯がある。今日の状況から振り返る時、半端な総括では済まされないのだが。 田熊説によると、1948.9.18日に結成された全学連はその後、「50年代の末から暴力集団が中央執行委員会を私物化」したらしい。これは第一次ブントのことを指しているのだろう。ちなみに、日共は、当時に於いては「暴力集団」という規定よりもトロツキストなる用語で批判していた。ソ連邦崩壊に合わせてトロツキスト批判を控えざるを得なくなった不破の物言いに合わせて、田熊も倣っているようである。調法な口をしていることが分かる。 田熊は、60.3月の第15回全学連大会に触れている。当時の執行部の「大会の非民主的運営」を指摘し、反対派を締め出した関係で定数不足のまま強行されたこの大会は無効であり、第16回大会も同様との認識を披瀝している。彼が何を云おうとしているのかというと、その後の日共系全学連再建運動を合理化せんとして口実を述べているに過ぎない。全学連執行部は誕生以来、武井系、玉井系を経て、最終的に第一次ブントが握り、続いて革共同全国委系に移るという変遷を見せている。この間、宮顕系党中央による日共は指導権を失っていた。為に、新たな日共系全学連を創出していくことになった。 通常これを分派活動と云うが、日共系は自分たちが少数派の場合には許され合理化する。が、ひとたび権力を掌握するや相手には断じて認めないという便利な論法を持っており、このケースがそれに当る。「手前たちはオールフリーハンド、お前たちは法にひれ伏せ」というのは悪徳権力理論の典型であるが、宮顕系日共はこの論法を振り回してきた。これに「その通り」と従う者がいるからややこしくなるだけのことである。 それはともかく、60年安保闘争時に全学連執行部を握った第一次ブントが「大会の非民主的運営」を行ったことは事実である。今日、この問題は批判的に検証されねばならないことは事実である。だがしかし、田熊のように宮顕系日共の露骨な全学連干渉経緯を不問にしたままこの問題を採りあげるのは卑怯であろう。これが如何に酷いものであったのか、れんだいこは、戦後学生運動考の該当箇所で検証している。 「第15回全学連大会問題」も、60年安保を控えて急進主義的に闘う体制作りに向おうとしていた当時の全学連執行部に対して、宮顕系日共がそうはさせじとして穏和化へ向けて横槍を入れようとしていたことを見て取らねば解けない。果たして、自治会費未納という策略を始めとして全学連執行部の足を引っ張る策動に熱中していた民青系との協調があり得たのかどうか。これも、れんだいこの「戦後学生運動考」の該当箇所で確認すれば良い。 田熊は、60年安保闘争に言及し、宮顕、不破の口真似をして次のように述べている。「ところが、当時の全学連を名乗り続けた集団は、この国民的な運動を、『右翼的』とか『日和見』とかののしりながら、自分たちは『国会突入』などの策動を繰り返しました。その裏には、公安警察、右翼などが深く関わって、資金も提供し、国会周辺で戦術指導をしていたということも、後になって分かりました。全学連の指導部を名乗っていたメンバーが自分で喋ったこともありますし、『俺が指導したんだ』とインタビューに答えた右翼のボスもいました」。 これについても、れんだいこは、「戦後学生運動考」の該当箇所で言及している。しかし、不破や田熊の云うように、暴力性がそれほど悪いのなら、日共ー民青同系が引き起こした「ハガチー事件」なぞはどうなのだ。あれもれっきとした暴力的運動ではなかったか。当時は、情況がそういう暴力性をも包摂しながら政治闘争の盛り上げに向って競合していたのではないのか。田熊は、「ハガチー事件」に対する見解を明らかにせねばならない。 田熊は、これまた宮顕ー不破の口真似をして定番の「田中清玄の闘争資金カンパ問題」を持ち出している。れんだいこは、この問題についても「戦前共産党運動考」の該当サイトに記した。この問題の急所は、日共が清玄を右翼としてのみ触れているウソにある。事実は、清玄は戦前のれっきとした日共委員長であり、武装共産党時代の指導者である。しかも実はこの時代にこそあちこちに種を播いた業績を残している。今日の日共党史は武装共産党時代を悪し様にのみ記しているが、胡散臭い連中による記述は肝腎なところをいつも逆さま見解にしている。だから、真に受けて学べば学ぶほど馬鹿になるように仕掛けされている。この仕掛けから抜け出さないと認識が逆になり進歩しない。 その清玄はその後転向して、戦後は民族主義派右翼として立ち現れるに至ったが、児玉系売国右翼と敵対しており、60年安保闘争ではブントの闘いに共感した面に於いて資金提供していたというのが実際である。特段のイカガワシサがあるのではなく、日共の採りあげ方の方こそイカガワシイと受け取るべきであろう。当時、実に大々的に宣伝していったが、当のブントがこれに抗弁し得なかった。お粗末というより他ない。 田熊は、続いて次のように云う。「こうして60〜62年頃は、全学連という名前は、異様な学生集団という印象をもたれていました。当時、まともな学生自治会を担う運動をやっていた我々、みなさん方の先輩にとっても、全学連というのはあまりいい名前じゃなかったのです。いま風にいえば、『中核派』とか『革マル派』などの暴力集団と同じような響きだったのです」。 ここも問題発言である。田熊よ、「全学連というのはあまりいい名前じゃなかったのです」と云うのはお前の主観で、あの頃の「ゼンガクレン」は世界に鳴り響く闘う組織であった。知らぬ者を誑(たぶら)かすのはエエカゲンニセンカイ。「『中核派』とか『革マル派』などの暴力集団と同じような響き」というのもお前の主観で、中核派と革マル派では随分響きが違うと受け取る者も多かろう。 全体的に田熊の論調には、「暴力はとにかくダメ」というスタンスが見える。ならば史上の人民大衆闘争の暴力史はどう評価するのか。暴力が行使されていたならみんなダメという観点が左派のものである訳がなかろう、応えてみよ。今現在の問題で云えば、イラクレジスタンス派の抵抗暴力について言及してみよ。お前の云うように、イラクレジスタンス派は米英ユ連合の為すがままに恭順せねばならないとでも云うのか。 次に、「全学連再建の取り組み」について述べている。宮顕系の指導通りの「自治会サービス論」に基づく活動をしたことを自慢している。再建大会時に、「一つひとつの学生自治会を、学生の願いに立って活動するまともな自治会にする」、「あらゆる学生自治会に門戸を開いて、異論を持つ学生たちも参加して、論議を経たうえで再建に至った」ことを踏まえ、この両面を今後の活動の基準にすることを申し合わせた、と云う。 注目すべきは、「異論を持つ学生たちも参加して」とあるくだりである。しかしこれはホンマかいなぁで、正しくは「手前たちが許容できる範囲の異論の尊重」であり、「許容できぬ場合には革命的暴力を行使」してきたのが実際ではないのか。その暴力は左派に向けられた。「大学自治」に守られ警察が手出しできぬところを民青が当ったという経緯を見せている。 このことを次のように吐露している。68〜69年当時、全国に全共闘運動の嵐が吹き荒れたが、全共闘運動を沈静化させる為に、全共闘が「全員加盟制学生自治会原理の否定」をしていたからという理由付けで、これを許さないという観点から排撃していったことを無内容なままに自慢している。続いて、全学連呼称問題に触れ、同じく手前勝手と都合の良い論法で悦に入っている。 田熊らが目指した運動は、反暴力だとして次のように述べている。「民主主義という点でいうと、全学連の誇るべき活動の一つは、暴力に対する態度です。大学の自治や学生の自治と相容れないものとして、学生の自由と権利を脅かすことになる暴力行為に対して、一貫して非妥協的に、断固として対決して、暴力を一掃するというたたかいを歴史的にすすめてきたことは、非常に大事な誇るべき伝統と思います」。 れんだいこに云わせれば、日共系の「暴力を一掃する闘い」は、大学内から左派的ニューマを一掃する闘いであった。お陰で、その後のキャンパスは見る影もなく左派を凋落させた。日共系が「一貫して非妥協的に、断固として対決」したのは国家権力ではなく、左派的ニューマに対してであった。自慢できる訳でもないのだが、未だに自慢し続けている御仁をここに見ることができる。お里が知れるというものだ。 「全学連が、日本の進歩的民主的な学生運動の伝統を引き継いでいる点も、重要です」、「全員加盟制の学生自治会が、政治的な国民的テーマで積極的役割を果たしうるのかというのは大事な点です」、「こういう学生運動の伝統と特徴が、全学連に受け継がれているということが一つの特徴なのです」と述べている。これはお前たちの政治的観点であり、この観点以外のものを認めない許さないところに「黒い意図」がある。お前たちはそれをやり続けてきた。 田熊が手前味噌する民青同系全学連が、その伝統を引き継いでますます盛んなのか、衰微しているのか。衰微しているとしたらその要因はどこにあるのか。お前は、これに言及せねばなるまい。お前は衰亡の責任者であり、胸を張って説教垂れる身ではなかろうに、それができるところに胡散臭さがある。 「全学連の再建以降、たぶん最大の学生の統一行動は、70年安保闘争で行われた6月23日の統一ストだと思います」と云うが、れんだいこもそれに参加したが、60年安保闘争に比べてカンパ二アだけのもので、お前が言うほど実績があったかいな。事態は何も変わりゃしなかった。れんだいこは、民青同系全学連のデモへ行って不燃焼で帰ってきたことだけは覚えている。お前たちの運動は、「歴史に於けるヒマジン的アリバイ運動」であり、歴史を創るのに何の役にも立たない。 以下も検討しようと思ったが、愚論が饒舌されているばかりなので論評を割愛した。思ったよりも更に以下のくだらなさ過ぎる付き合いであった。 2005.11.30日 れんだいこ拝 |
【日共系全学連元委員長・田熊和貴とは何者か考】 | |
宮崎学の「突破者」文中に、いかにもな官僚的人物として書かれているのが田熊で、次のように評されている。
64年、再建委員長として川上。事件当時、全学連委員長は早乙女裕で、その後手島繁一→永戸祐三→岡本と変遷する。梶浦紘一品川地区委員長(現)証言によれば、梶浦氏は新日和見事件当時、党千代田地区委員会の委員であり、全学連中執の機関紙担当兼中央大学学生党員幹部でもあった永戸さんの査問を担当した。永戸は一回の査問であっさりと「罪状」を認めた。その功で、翌73年にめでたく全学連委員長になれたのだ云々。 |
(私論.私見)
(以下の情報に付き後日整理する)
元ツリーは「新日和見主義事件を考える」
http://jcpw.site.ne.jp/bbs/bbs20.cgi?id=&md=viw&no=1248&tn=1248
(鶺鴒子さん)
http://jcpw.site.ne.jp/bbs/bbs20.cgi?id=&md=viw&no=1485&tn=1248
>
私が新日和見主義のツリーに賛同をしたのは、この分析が日本社会の分析の格好の素材だと認識しているからです。「査問」がどうとか、個人的あるいは共産党お宅的な話も、それなりに興味はありますが、やはり時代の結節点だという問題でしょう。本命は。
【3】川上氏と「党中央」の認識のズレについて |
どん底(02/5/8 06:07)
【3】川上氏と「党中央」の認識のズレについて |
【4】大衆的前衛党建設へのステップとしての事件 |
どん底(02/5/8 06:09)
【4】大衆的前衛党建設へのステップとしての新日和見主義事件 |
素晴らしい問題意識ですね。 |
鶺鴒子(02/5/8 10:51)
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【4】大衆的前衛党建設へのステップとしての新日和見主義事件 |
おやくそく |
11回大会においては、中央委員会議長と幹部会責任者の分離、幹部会委員長の創設、常任幹部会の常設化、書記局及び機関紙編集委員の幹部会任命制などがあります。中央委員会及び書記局体制から幹部会へのシフト、幹部会を中心とした一元化体制の確立と言えましょう。別の見方をすれば民主集中制の集中部分の強化とも言えるでしょう。
72年の新日和見主義批判を経て、12回大会では監査委員会が大会選出項目から中央委員会の任命制になりました。(尚、統制委員会については既に10回大会において決定されています。)ちなみにこの時の改正理由は「中央の民主集中指導体制を全体として首尾一貫したものとする」と言う事です。 13回大会から14回大会にかけては、民主集中制に関するかなりの論文や見解が出されています。現在定式化されている民主集中制の確立期とも言えましょう。田口不破論争や袴田問題が生じたのもこの時期にあたり民主集中制を巡る議論は80年ごろまで続きます。 その後党員候補制度の廃止を始め22回大会の大幅な規約改正に至るまで適宜修正がなされていますが、ほぼこの14回大会までに大枠は完成していると言えましょう。尚、民主集中制の問題に関しては19回大会において再度認識を深めていますが、僕自身としてはそれまでの延長線上にあるとして捉えています。 さて、これらの規約上の変更に共通しているものは何か。「集中強化」に他ならないのです。「民主」部分の規約上の補強は無いに等しく単なるスローガン止まりでしかない。 私的総括にあたり、59年以降の参院選挙比例区(旧全国区)の得票数及び得票率を洗い直してみたのですが、先の参院選挙の比例区得票数は430万票、74年の490万票にも満たない。27年間を経過して基礎的な部分が全くと言って良いほど伸張していない。(参院比例区以外は不確実要素が介在する確率が増えるので比較数値としてはこの比例区が最も良いと考えています) その時々の情勢により様々な風が吹く事は承知していますが、このような長期間にわたりその基礎数値に変化がないと言うことは、十分方針上の検証をするに足ると考えました。 そのため政治方針と組織方針に区分して私的総括を試みる事としたのですが、とりわけ組織方針上に多くの疑問を感じたのです。勿論当時の置かれた状況、特に左翼内の数多の論争や組織分裂といった内へのエネルギーの消費、躍進に伴う公安の介在など組織強化に向かわざるを得ない情勢下を考慮しても再度認識を深める必要を感じております。 59年から74年にかけての躍進期とそれ以降の停滞期の違いを、単に時の情勢のみで片づける時期は過ぎたのではないか、組織方針強化の背景にある新日和見主義の果した役割、民主集中制の固定化の是非、などなど大いに深めて行っていただきたいと思います。 皆さんの検討素材になり得たかどうか全く自信が有りませんが、僕自身は上記の問題意識に基づいて自分なりに深めたつもりです。また何処かでその事に触れる機会があるかもしれませんが、とりあえず概要まで。 |
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41 | ▲[22] | なし | ||
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