概要履歴

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.5.2日

【黒寛履歴/誕生から青年期】
 黒田寛一(1927年―2006年)
 1927年10.20日、埼玉県秩父町で医師の長男として生まれた。実家は東京都府中市の病院で、曾祖父・尚雄(なおたけ・1847年=弘化4年生まれ)は三多摩自由党などで活動した自由民権運動家、祖父・尚寛(なおひろ・18969年=明治2年生まれ)は東京帝国大学医学部から東大病院勤務を経て黒田医院を開業した(現在は閉院)。父・要(かなめ・1903年=明治36年生まれ)も医師の傍ら、府中市議会議員を歴任し議長も務めた。

 旧制東京高校(後の東大教養学部)に進学。蹴球(サッカー)部に属し、網野善彦城塚登氏家斉一郎とは仲間だった。肝臓病と皮膚結核にかかったため東京高校を中退し、自宅で勉強した。その後、結核が目に及び視力が極度に悪くなった。この頃、マルクス主義の研究・著作を重ね、出版社「こぶし書房」を自営。次のように評されている。
 「『人生航路の転換』を余儀なくされた黒田は、絶望と実存の危機の淵に突き落とされておのれの生きる意味を問い続けた。そしてついに黒田において、おのれのどん底とプロレタリアのどん底とがまじりあい合一化され、彼はマルクス主義をみずからの実存的支柱にすることを決意した。そのために彼は、一九四九年に旧制東京高校を中退し、独学を開始した。敗戦後の日本において澎湃として巻き起こった主体性論争・技術論論争・価値論論争などをめぐる梅本克己や梯明秀らの著作を師とし・かつこれらと対決しつつ、彼はみずからの思想をつくりあげていった。彼の視力は次第に衰えもはや自分では活字を読むことができなくなっていったが、それでも彼は「音読」(アルバイトの学生などに本を読んでもらうこと)を続け、思想的格闘を続けた。こうして黒田は、マルクス主義者としての確固たる主体性をみずからの内に築きあげていった。それと同時に黒田は、スターリン主義者の唯物論がマルクスのそれとは似て非なる・血の通わないタダモノ論にすぎないことを痛覚し、「マルクスに帰れ!」と叫びつつ、スターリンとそのエピゴーネンの哲学を壊滅的に批判すると同時にマルクスの実践的唯物論を深めていった。まさにこうした営為を主体的根拠として、わが黒田は、かのハンガリー事件と対決し、革命家として生きることを決意して世界に類例を見ない反スターリン主義の革命運動を興したのである」(「「マルクスに帰れ!」――盲目の若き哲学徒の叫び」)。

【黒寛履歴/「弁証法研究会・労働者大学」主宰、「探求」創刊】
 既に何冊か著書を為し、それを読んだ学生らが黒田の元に集まり始める。その組織は「弁証法研究会・労働者大学」と名乗った。「探求」という雑誌も創刊した。

 1949年、東京高等学校理科乙類中退。
 1952年5月、「ヘーゲルとマルクス」 を処女出版。
 1954年頃には結核菌により失明、本も読めなくなったが、秘書に読ませて勉強を続けた。

【黒寛履歴/第四インターナショナル日本支部準備会結成から第一次分裂まで】
 1956年、ハンガリー事件(労働者蜂起とソ連軍の弾圧)と対決し反スターリン主義運動の創成に起ちあがる。次のように評されている。
 「黒田寛一は、一九五六年十月に勃発したハンガリー事件(「非スターリン化」を要求しソビエトを結成して蜂起したハンガリーの労働者人民を、「労働者の母国」と信じられてきたソ連の軍隊が虐殺した事件)にたいして、「共産主義者の生死にかかわる問題」として対決した。そして、全世界の共産主義者や左翼的知識人がこれを擁護しあるいは黙認するなかで、彼はただ一人、一九一七年に誕生した革命ロシアはレーニンの死後スターリンによってすでに反プロレタリア的な「スターリン主義国家」へと変質させられてしまっているということを看破し、ただちに反スターリン主義の革命的共産主義運動を興す歩みを開始した。黒田寛一こそは、時代のはるか先を行く偉大な先駆者であり、二〇世紀が生んだ「世紀の巨人」なのである」(「ハンガリー事件と対決し 反スターリン主義運動を創成」)。
 1957.1.27日、内田英世・富雄兄弟、太田龍、黒寛の三つのグループによって「日本トロツキスト連盟」(第四インターナショナル日本支部準備会)が結成された。

 同12月、日本トロツキスト連盟が発展的に日本革命的共産主義者同盟(革共同) と改称した。次のように評されている。
 「黒田は、夫人の荒木新<>子とともに、日本のスターリン主義党である日本共産党を解体し真実の労働者党を創造するための闘いに踏みだした。彼は日本革命的共産主義者同盟(革共同)を結成し、〈反帝国主義・反スターリン主義〉をその世界革命戦略として掲げた(一九五八年)。彼の率いるこの革共同の闘いに揺さぶられて、日本共産党内の多くの青年党員たちが党中央への造反を陸続と開始した」(「ハンガリー事件と対決し 反スターリン主義運動を創成」)。
 1958.太田は、同盟の拡大政治局会議において、黒寛派と決別するために「第四インターナショナル日本支部再組織準備委員会」を組織すべきだと提案し、太田提案が否決された結果、離脱した。

 1958.12月、黒田らが革共同を結成し議長に就任した。

【黒寛履歴/クロカンの左翼党派名簿売り事件発覚】
 1959年初頭、黒寛(以降、「クロカン」と記す)自らが民主青年同盟の情報を警視庁に売ろうとしていた事件が発覚した。「未遂に終わっていた」との援護記述がされているが、白井朗/氏の「ブントと革共同の歴史的関係について」は既遂事件であったことを証言している。(補足「黒寛・大川スパイ事件」に記す)

 同年8月、革共同第一回大会で、クロカンが「スパイ行為という階級的裏切り」として除名された。このとき、クロカンと共に「革命的マルクス主義グループ(RMG)」の実務を担っていた本多延嘉(後の中核派の指導者)は、クロカンを弁護する立場で随伴している。本多は除名されたクロカンの後を追って革共同を離党し、クロカンと共に革命的共産主義者同盟全国委員会を結成した(いわゆる「革共同第二次分裂」)。

 60年安保時代、黒田は黒メガネに登山帽という格好で講演し、「黒田節」と呼ばれるその語りが学生らに受け、「クロカン」と呼ばれるようになった。

【黒寛履歴/「全学連を指導する盲目教祖」として始めてマスコミに登場】
 1959.7月、発行された週刊新潮に、「全学連を指導する盲目教祖」として始めてマスコミに登場。60年安保時代は黒メガネに登山帽という格好で講演し、「黒田節」と呼ばれるその語りに学生らの人気があり、クロカンとも呼ばれた。筆名は山本勝彦、牧野勝彦など。

【黒寛履歴/第6回参議院議員通常選挙全国区に党公認で参院選に出馬するも落選】
 1962年、35歳の時、第6回参議院議員通常選挙全国区にクロカンが党公認で参院選に出馬するが2万票しか集められず落選。大日本愛国党総裁の赤尾敏が12万票余りを獲得したのと比べれば惨敗であった。

【黒寛履歴/樺美智子追悼二周年で、マル学同がやじり倒し壇上で殴りあいを演じる】
 1962.6.15日、千代田公会堂で樺美智子追悼二周年が開かれた。学生、労働者、市民ら千名が参加したが、後の革マル派に列なると思われるマル学同のらしさを象徴する醜態が演ぜられた。これを「6.15日樺美智子追悼二周年」と云う。次のように批判されている。
 「最前列を占めたマル学同全学連700名は、社会党飛鳥田一雄の挨拶をやじり倒し、社学同の佐竹都委員長の挨拶には壇上での殴りあいを演じ、清水幾太郎の講演もほとんど聞き取れない有様となった。これを『暴挙』とする樺俊雄夫妻.吉本隆明.清水幾太郎氏らは批判声明を発表し、概要『マル学同の狂信者たちが全学連の名を僭称しつづけることを許すべきでない』とまで、厳しく弾劾している」。

 6月、「黒寛教祖を仰ぐ狂信的宗教団体マル学同の暴挙を許すな」という共同声明が清水幾太郎香山健一森田実吉本隆明など数十名によって提出された。

【黒寛履歴/「われわれはサナダムシであ〜る」宣言】
 1962.9−11かずつ、4回にわたってクロカンの講演学習会が開催された。クロカンがこの時次のように述べている。
 「われわれはサナダムシであ〜る。サナダムシは〜、あごんところについてる鈎で胃壁に食らい付いてどんなことがあっても離さない。そんでもって、最後には本体を倒しちゃう」(「黒田寛一と革マル派 1章 革命家の条件」)。

【黒寛履歴/革共同第三次分裂前後】
 1963.2月、情勢認識や党建設方針をめぐって本多派と対立を深め、革共同全国委員会は本多らの中核派とクロカン率いる革マル派に分裂(いわゆる「革共同第三次分裂」)する。次のように評されている。
 「またその後黒田は多くの同志と共に、革共同内の大衆運動主義者たち(主に元共産党員たち)と訣別し、革共同を革命的マルクス主義で武装した組織(革マル派)へと純化させた(一九六二〜三年の第三次分派闘争)。以降、黒田議長率いる革共同革マル派は、日本階級闘争を領導しつづけた」(「黒田寛一と革マル派 1章 革命家の条件」)。

【黒寛履歴/クロカンが教祖化する】
 1965.6月、クロカンはこの時期より公の前に姿をさらさなくなる。顔だけでなく肉声を聞かせることもしなくなる。年譜に「これ以降、67年11月まで、執筆論文・口述筆記など1つもない」とある。集会では、黒田寛一の演説を録音したテープが流された。

 中核派との抗争が激しくなると、実家の離れに住み、マルクス主義の研究に明け暮れた。一部の幹部とだけ接するだけで、公に姿を現さず、演説などもテープレコーダーを使って行なった。
 「マルクスやレーニンと同様に、黒田寛一は、革命家にして哲学者であり理論家であった。彼は自分の住まいに若い同志たちを呼んで、頻繁に各種の組織会議や学習会をもった。会議がない日の彼の一日はおおむね、午前中は世界の情勢を読むことなどに費やし、午後は前衛党組織建設のために内部文書を作ったり組織成員たちの文書を検討したりし、そして夜は理論的探究のための勉強をする、といった毎日であったという。

 一九六〇年代以降の彼は、片眼は完全に失明し、もう一方も原稿用紙に鼻の頭をくっつけてマジック・インクでかろうじて大きな文字が書けるというほどにまで視力をなくしていた。このゆえにテープに音声を吹き込むことが、論文を「書く」主な方法になっていった。さらに一九九〇年代には、彼は両眼とも一条の光も感じない完全失明者となり、もはや文字の記憶を頼りに原稿箋一枚に大きな字で三〜四行を刻むことしかできなくなった。晩年の大著『実践と場所』全三巻は、こうして綴られた(その解読は困難を極めた)。こうして彼の残したものは、著作百冊余(英語版・ロシア語版を含む)・講述テープ四百数十本・未定稿・ノートなどなど膨大である。」(「〈実践の場所の哲学〉に立脚した現代革命思想の探究」)。

【黒寛履歴/クロカンが「史上空前のスト権奪還スト」の爆発を領導する】
 1975年、「史上空前のスト権奪還スト」の爆発を領導する。

【黒寛履歴/クロカンのソ連邦崩壊感慨論】
 「黒田は、その打倒のために死力を尽くしたスターリン主義・ソ連邦の崩壊を目の当たりにして、書いている。「それによって生きかつ死ぬことのできる世界観として、マルクス主義を、唯物史観を、おのれ自身のものとして主体化しようとしてきた私にとっては、ソ連邦の世紀の崩壊と世紀末世界の混沌への突入は、マルクス思想の真理性の証明いがいの何ものでもなかった。」
 「マルクスの革命的思想は、時代を超えて、私の、われわれの、そして全世界の闘う労働者たちの心奥において生きつづけ、いまなお燃えさかっている。……《戦争と革命》の第二世紀をひらくために、われわれは、革命ロシアの伝統を受け継いで、プロレタリア階級の全世界的規模での自己解放の闘いを組織しなければならない」(増補新版『社会の弁証法』所収の「唯物史観と現代」より)。
 「この闘いの精神的武器は、マルクス思想とこれを受け継いだ黒田思想なのである」(「」)。

【黒寛履歴/議長辞任】
 1996.10月、健康上の問題を理由に議長を辞任した。但し、死去するまで革マル派の最高指導者であり続けた。

【黒寛履歴/高知 聰・氏が「孤独な探究者の歩み―評伝・若き黒田寛一」を出版】
 2001.2.25日、革マル派随伴政治評論家として活動してきたことで知られる高知 聰・氏が、「孤独な探究者の歩み ―評伝・若き黒田寛一」(現代思潮新社)を出版した。これにより「共産主義者同盟と革マル派の理論的指導者で、早くに眼を患ってついに大衆の前に一度も姿を現さなかった伝説的革命主義者」黒寛の裏面が暴露された。

【黒寛履歴/議長辞任から逝去まで】
 2006.6.26日、クロカンが埼玉県春日部市の病院で肝不全のため死去(享年78歳)。
 クロカン死去後、しばらくはその死が秘匿された。死亡が明らかにされたのは、8.10日の共同通信、産経新聞が報道し、翌8.11日、朝日、読売、毎日その他各紙も「関係者の話」としてその死を伝えた。革マル派はそれまでの間、死の沈黙を続けた。8.12日、革マル派議長植田琢磨が記者会見し、「同志黒田のたっての意志とわが党組織の国家権力にたいする防衛の観点から、彼の逝去の事実の公表を今日までひかえてきた」と弁解した。8.28日付け機関紙「解放第1932号」で5P分の黒田寛一の逝去特集を組み、朝倉、西條ら4幹部による「追悼文」を載せ革マル派刊行物として公式に黒田寛一の死を伝えた。

 日本政治思想史を研究する
原武史によると、東京都八王子市の南多摩霊園23区に黒田寛一の墓所があり、墓石にはただ一文字、「闘」という漢字が彫られているという。晩年、散文和歌を詠んだことでも知られる。代表作は「人生は 至高を指向し 思考して 試行続けて 志向するもの」。

黒田寛一読書ノート 読書のしかた
黒田寛一読書ノート 第一巻 読むことに生命を賭ける
黒田寛一読書ノート 第二巻 苛烈な読書者 1948年秋
黒田寛一読書ノート 第三巻 『資本論』へバクシンせよ
黒田寛一読書ノート 第四巻 戦後唯物論の総括的探究へ
黒田寛一読書ノート 第五巻 自己の前方への脱出
黒田寛一読書ノート 第六巻 再び『資本論』研究へ
黒田寛一読書ノート 第七巻 夢中で書く!
黒田寛一読書ノート 第八巻 涙しつつ読む
黒田寛一読書ノート 第九巻 闘うこと、それが僕の人生だ
黒田寛一読書ノート 第十巻 俗物からの決裂を
黒田寛一読書ノート 第十一巻 梅本『人間論』を読む。
黒田寛一読書ノート 第十三巻 教条主義よ滅べ!
黒田寛一読書ノート 第十四巻 現実を思弁せよ!
黒田寛一読書ノート 第十五巻 結!
 組織現実論の開拓
第一巻/実践と組織の弁証法(あかね図書、2008.6.30)
第二巻/第二巻 運動=組織論の開拓(あかね図書、2009.1.26)
第三巻/反戦闘争論の基本構造(あかね図書、2010.1.26)
第四巻/<のりこえ>の論理(あかね図書、2011.1.21)
第五巻/党組織建設論の確立(あかね図書、2012.12.17) 
 革マル派 五十年の軌跡
第一巻/日本反スターリン主義運動の創成2014/6/26
第二巻/革マル派の結成と新たな飛躍2015/2/20
第三巻/真のプロレタリア前衛党への道2015/9/25
第四巻/スターリン主義の超克と諸理論の探究2016/11/25
第五巻/革命的共産主義運動の歩み 〈年表〉と〈写真〉2017/6/26
 マルクス主義入門
第一巻 哲学入門2018/5/21
第二巻 史的唯物論入門2018/9/21
第三巻 経済学入門2019/1/21
第四巻 革命論入門2019/5/21
第五巻 反労働者的イデオロギー批判2019/9/21
 黒田寛一著作集 全40巻黒田寛一著作集刊行委員会
第一巻 物質の弁証法2020/9/18
 黒田寛一の処女出版『ヘーゲルとマルクス』を収める。本書は、病魔とたたかいマルクス主義をおのれの生きかつ死ぬことのできる思想として主体化することを決意した著者が、唯物
論の客観主義的偏向に抗して主体性論を追求した渾身の労作である。一九五二年五月
(著者二十四歳)に理論社から刊行された本書は、その後一九六八年に装いを新たにして
現代思潮社から再刊された。本書においては、マルクス・レーニンがいかにヘーゲル哲学を
唯物論的に転倒したかを考察し、マルクス実践的唯物論を創造的に発展させることがめざ
されている。
第二巻 社会の弁証法2021/1/26
 『社会観の探求』の増補新版(こぶし書房)を収める。初版(理論社)から現代思潮社版へ
と引き継がれてきた本書は、多くの労働者・学生の読者を獲得し三十万部以上が送り届け
られてきた。本書においては、若きマルクス・エンゲルスが確立した唯物史観を――人間不
在のスターリン式の史的唯物論を超克し――労働者階級がみずからを解放するための真
実の精神的武器としてよみがえらせることが追求されている。巻末の「唯物史観と現代」(
一九九三年執筆)では、マルクス思想こそが二十一世紀世界の思想的パラダイムであるこ
とが宣言されている。
第三巻 プロレタリア的人間の論理2021/5/25
第四巻 スターリン主義哲学との対決2021/9/25
第五巻 マルクス主義の形成の論理2022/1/26
第六巻 変革の哲学2022/6/30
第十四巻 革命的マルクス主義運動の発展2022/10/31
 共著
 吉本隆明埴谷雄高梅本克己)『民主主義の神話』(現代思潮社、1960年)
 吉本隆明対馬忠行)『呪縛からの解放』(こぶし書房、1976年)
 関連書籍

 大久保そりや長崎浩降旗節雄『黒田寛一をどうとらえるか』(芳賀書店、1971年)
 『指がひとつのかたまりとなって』(こぶし書房、1998年)
 高知聰『孤独な探求者の歩み−評伝 若き黒田寛一』(現代思潮新社、2001年)
 唐木照江他『黒田寛一のレーベンと為事』(あかね図書、2001年)
 小金井堤桜子編『現代を生きる黒田寛一』(こぶし書房、2004年)


【「社会観の探求−マルクス主義哲学の基礎」】
 「社会観の探求−マルクス主義哲学の基礎」(理論社、1956年) (「将門Web」の「黒田寛一『社会観の探求』」より抜き書き)。
 生産と消費との本質的な媒介契機としての分配が、それにもかかわらず現実には自立化するという、この論理的な過程は、歴史的には社会的分業の出現に照応するのです。社会的分業の発生とともに、量的にも質的にも、不平等な労働および労働生産物の分配、つまり私有財産があたえられるのです。分業と私有財産とは同一のことを表現する言葉です。ただ同じことが前者においては活動との関係においてあらわされ、後者においては活動の結果としての生産物にかんしてあらわされているのです。いいかえれば、社会的分業と私有財産の真理は、生産と所有との分離、人間生活の社会的生産そのものの自己疎外にほかなりません。(「W人間の疎外」)
 支配階級は、おのれの階級的な諸利害を社会全体の利害として妥当され、通用させるために、国家をうちたてるのです。これによって、幻想的な共同利害は、「一個の独立的な容態」をとり、「幻想的な共同性」としてあらわれます。すなわち国家は、「共同性の幻想的な形態」であって、支配階級の特殊利害としての「一般的」な利害を物質的にうらずけるものにほかなりません。まさしくこのゆえに、国家権力の機能は、支配階級の生存上および支配上の諸条件を維持し、支配される階級の特殊利害にたいし て幻想的な一般的な利害を貫徹するための暴力の発動となるのです。だから国家は、「社会の集中的で組織的な暴力」として、支配される階級をしぼりとる機関という役割をえんじるのです。国家は、根本的には支配階級の手中にある生産様式、支配的な社会的生産様式=搾取様式をまもりとうすための権力にほかなりません。(「W人間の疎外」)

【「革命的マルクス主義とは何か」】
 「革命的マルクス主義とは何か」(こぶし書房、1969.5.25日、283P)

 目次
 T スターリン主義崩壊の前夜
 U 日本トロツキズム批判
 V マルクス主義の現代的展開とは何か?
 W 日本革命とわれわれの課題

附録 わが革命的共産主義運動の特質
 T 革命運動における後進国の優位
 U 平和擁護運動批判から反戦闘争の革命的推進へ
 V 組織づくり路線における分裂と発展
 W 革共同第三次分裂の革命的意義
 X むすび

 あとがき
 「あとがき」は次の通り。
 すべての既成左翼の腐敗ばかりでなく、またわが革命的左翼の闘いの弱さによって現在的にかたちつくられているかかる現実にたいして、われわれは、一世紀半以上にわたるプロレタリア階級闘争の歴史を教訓化するかたちで、断乎とした原則的な闘いを、あらゆる場面でくりひろげなければならない。種々の形態をとって現にいま噴出している一切の急進主義にたいして、われわれは、公然と革命的マルクス主義の立場にたって対決し、その本質を理論的に暴露しそれを実践的にのりこえ、さらに組織的に解体していかなければならない。さまざまな「新しい」粉飾をこらして登場している一切の政治的および思想的潮流ないし傾向にたいして、たとえ「マルクス教条主義派」といった嘲笑があびせかけられようとも、わが革共同・革マル派は、真に根底的に世界そのものを転覆することをめざして闘うべきである――あたかもレーニンとボルシェヴィキ党が左翼主義小児病とたたかったのと同様に。まさにこうした闘いの拠点の論理を、本書は明白に提示してきたのであり、また今後もそうであろう。

 今回の活版化にさいして、わが反スターリニズム運動の独自性を問題史的に考察したものを、附録としておさめた。『逆流に抗して』、『組織論序説』、『日本の反スターリン主義運動』1および2などとは異なったそれ自体の性格と意義とをもっていると思うので、それをあえてつけ加えたわけである。そしてまた、現代思潮社刊『スターリン批判以後』〔現在は、こぶし書房刊〕におさめられている、諸論文を再検討する場合の地図としての役割をも、この《附録》は果すものともなっていると思う。

 1969.4.12日 黒田寛一




(私論.私見)