補足「土田警視庁警務部長邸・爆破事件」 |
(最新見直し2010.1.2日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「土田警視庁警務部長邸・爆破事件」は異様にして未解決の事件である。犯人とされた過激派学生はその後冤罪であったことが判明し無罪となる。妻を失った土田氏はその後、田中政権時代に警視総監に任命される。以降、1976年のロッキード事件勃発の際には検察庁の田中角栄逮捕シフトに抵抗し対立している。その後、数奇な運命に弄ばれている。これらの一連の経緯を検証し確認しておくことにする。 |
【土田氏の履歴】 | |
土田氏は秋田県由利郡矢島町出身。父親は哲学者で旧制成蹊高校の校長を務めた人物で、母親は旧東京女高師校長の令嬢と、言わば名家の生まれである。剣道一家で、土田氏も中学の頃から父親に剣道を習い始めた。達人と呼んでも差し支えない腕で、「ワシントン・ポスト 75・4・20付」では、「世界一安全な東京 サムライ・ポリス」という特集記事で、警視庁の道場で竹刀を真剣に振る写真が掲載されている。若い頃の土田氏は父や親戚と同じく学者志望だったのだが、「雨宿り」として内務省に入ったのが警察への縁となったという。警察では若い頃から「警視庁のプリンス」と先輩たちから呼ばれていた。 1971(昭和46).12.18日、警務部長(警視総監、副総監に次ぐbRの地位)の時、東京都豊島区雑司が谷の土田邸にニセ小包郵便物爆弾が届けられ、夫人が即死、長男が破片を浴び火傷で重傷を負った。爆破事件後の土田氏は老いた母親と家事を手分けしながら大学生、高校生の息子4人の世話をすることになった。 1974.4.1日、52歳の誕生日のこの日、海軍時代からの旧知の女性と再婚した。 1975年2月1日、警視総監に任命される。 同年5月30日には、グアムから帰還した横井元軍曹らとともに天皇・皇后両陛下主宰の春の園遊会に出席。天皇陛下とは次のような短い問答があった。陛下「このごろ警察も大変のようですね」。土田「おかげさまで、みんな一生懸命がんばっております」。陛下「爆破事件はだいぶ片づいたらしいのですね」。土田「だいたいメドがつきました。国民のみなさんの協力の賜物です」。陛下「どうか、これからも治安のためにがんばってください」。 だが土田氏の受難は続いた。1976(昭和51).2.4日、米国上院外交委員会の多国籍企業小委員会(民主党のチャーチ上院議員を長とする「通称チャーチ委員会」)が開かれ、チャーチ委員長冒頭発言意訳概要「これから公聴会を開催します。本日は、ロッキードの決算会社のアーサー・ヤング会社をまず取り上げ、続いて、ロッキードの責任ある役員達からヨーロッパ及び日本で行われた外周及び疑問の多い政治的な支払いについて述べていただこうと思う。極めて遺憾なことであるが、ロッキードが、日本に於いて、有名な右翼軍国主義集団のリーダーを代理人として雇い、過去数年にわたつて数百ドルを、給与及び手数料として支払っていたことを明らかにするであろう」(月間ゲンダイ「ロッキード疑獄事件の全貌」より)によりロッキード事件が勃発した。 東京地検は執拗に前首相の田中角栄逮捕へと向かった。これに対して、土田警視総監率いる警視庁は、児玉追及の突破口として、殖産住宅前会長・東郷民安を事情聴取に着手している。7.2日、児玉の秘書・太刀川恒夫を東郷に対する強要罪容疑で逮捕し、殖産住宅も捜査を受け、帳簿類を押収した。このことは、警視庁が検察と違う動きをしていたことを示しているように思われる。 同年7・27日、田中角栄前首相は外為法違反容疑で逮捕された。続いて榎本秘書官も逮捕された。この逮捕劇は検察の独走であり、土田警視総監は逮捕の瞬間まで「寝耳に水の逮捕劇」であった。同じく元警視総監の秦野章・氏は、「何が権力か」の中で次のように記している。
ロッキード事件は、検察と警視庁の暗闘を交えながら喧騒されて行くことになる。しかしながら、田中角栄派は次第に寄り切られて行く。土田氏は、系列的には親角栄派であると思われる。よって次第に地位を脅かされて行くことになる。 1978.1月、東京・世田谷区で警官の女子大生殺害事件が起こり、減給処分を受けた。警視総監の処分は戦後初めてのことだった。同年2.11日、最も信頼する部下であった村上健刑事部長が急逝。土田氏は警視庁葬で葬儀委員長を務めたその翌日、警視庁を去った。退官してすぐ、土田氏は1人電車に乗って群馬県へ向かった。殺害された女子大生の墓参りと実家の弔問のためである。土田氏はその後、防衛大学校長などを務めた。 1999.7月、すい臓ガンのため亡くなった(享年77歳)。 |
昭和44・10・24日、機動隊隊舎にピース缶爆弾。 昭和44・11・1日、アメリカ文化センターにピース缶爆弾。 昭和46・8・7日、総監公舎爆破未遂事件。 昭和46・10・18日、日石本館地下郵便局に、警察庁長官宛、空港公団総裁宛小包爆弾、局内で爆発。 |
【土田邸での小包爆弾事件】 | |
1971(昭和46).12.18日午前11時24分頃、南神保町郵便局経由で東京都豊島区雑司が谷の土田国保(当時49歳)警務部長の私邸にお歳暮に見せかけた小包郵便物が届けられ、開封しようとした途端に爆発し、夫人・民子(当時47歳)さんの手足がバラバラになり即死。近くにいた長男(当時13歳、学習院中等科1年の4男)も爆発の破片を浴び、火傷で重傷を負った。さらに2階から駆け降りてきた早稲田大生の二男(当時22歳)も右手にかすり傷を受けた。新築したばかりの土田邸は1階の居間を中心に爆風で粉々になった。爆発の威力はすさまじく、民子さんは肩から半分がもぎ取られ、民子さんの死体は本人か祖母なのか見分けがつかないほど無残な状態だった。「奥さんが届けられた小包を開けたのは、送り人が奥さんの知人であったからです」とある。
12.20日、土田夫人の葬儀。首相夫人、最高裁長官、竹下官房長官、中曾根康弘氏など参列者7000人。 |
【犯人逮捕】 |
土田邸事件が起こってまもないクリスマス・イヴの日、新宿の「伊勢丹」交差点の追分派出所横に、買い物袋に入れられた高さ50cmほどのクリスマスツリーに偽装された爆弾が置かれ、この爆発で警官、通行人7人が重軽傷を負った。この爆破事件に関しては黒ヘルグループのリーダーが出頭し、事件の全容が明らかにされている。 1972.9.10日、赤軍派系の活動家で、「東薬大事件」で指名手配されていたM(当時27歳)が、凶器準備集合、毒劇物取締法違反容疑で逮捕された。Mはその後、法政大学で図書を窃盗した容疑で再逮捕され、翌年1月までに他3人が同容疑で逮捕された。 1973.1月、すでに逮捕した4人を「アメリカ文化センター事件」に関与したとして再逮捕。2月には機動隊舎爆破事件に関しても逮捕された。この後、「日石」、「土田」両事件に関与したとして、あらたに女性を含む10数人を逮捕、Mらも再逮捕された。合わせて18名がこの一連の爆破事件に関与したとして逮捕された。 彼らは法政大学の「レーニン主義研究会」(社学同ブント系)で、校舎に近い河田町のアパートを借り、被告人のうち11人がピース缶爆弾10数個を製造したものとされた。機動隊舎事件では6名が投擲し、アメリカ文化センター事件では4名、日石では前述の女性2名の他、運搬役に男3名が関わり、土田邸事件では製造から発送まで9名が関与したものとされた。 一連の事件と18人を結びつける物証は全くなかった。河田町のアパートの塵をひとつ残らず集めても、爆弾材料の破片ひとつ出てこなかった。一審ではMに死刑が言い渡された他、それぞれに無期、懲役3〜15年の有罪判決が下された。 |
【無罪】 |
1979.4月、元赤軍派メンバー・若宮正則が、弁護人証人として出廷し、「機動隊宿舎にピース缶爆弾を投げたのは私だ」と証言した。 1982.5月、牧田吉明が「われわれのグループがピース缶爆弾を製造し、赤軍派などに配った」と名乗り出た。この証言によると、大学生であった牧田ら5名は1969年9月頃に奥多摩へ行き、日原川沿いの林道工事現場から、ダイナマイト1箱(100g225本)、導火線用の輪1巻、工業用雷管100個、電気雷管20個を盗み出した。その後、9月から10月にかけて、爆弾教本「栄養分析表」を参考にしてピース缶爆弾100個を製造し、その大半を関西系の某武闘派、赤軍派中央、共産同革派の活動家に配った。残った分やダイナマイトは多摩川に投げ捨てたのだという。 1985年、牧田証言の信憑性の高さから、相次いで被告達の無罪が確定。 1986.3.25日、3414日間の拘置を強いられたMをはじめとする統一公判組6人は、国と都に対して刑事補償と費用補償1億7200万円を求める請求を東京地裁に提訴した。また全国紙への謝罪文掲載を同時に要求した。 1995(昭和60)12月13日、東京高裁、「土田邸・日石・ピース缶爆弾事件で殺人罪に問われた増淵利行被告ら6人全員に東京地裁に続き無罪判決。検察上告断念し、12.18日、無罪確定。 2001年、東京高裁、1人にかぎってのみ、都に100万円を支払うよう賠償命令を下した。 こうなると、土田邸爆破事件は、誰が何の為に仕掛けたのか、今も分からない闇事件となり迷宮入りしていることになる。 |
【土田・日石・ピース缶冤罪事件国賠判決要旨】 | |
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(私論.私見)