「東大安田講堂攻防戦は、リアルタイムのテレビ中継で現場の状況が長時間、直接お茶の間に放映された最初の大事件だった。……だが、その割には安田講堂事件は忘れ去られ、あれは一体何だったのかということについてはあまり論じられていない。もちろんその一因は警備当局が、その職務上の立場から四半世紀もの間沈黙していたことにある。しかし、主たる理由は、東大全共闘が“城攻め”の直前の土壇場で安田講堂から脱出してしまって、事実を校正に語り継ぐ生き証人が少なく、挫折した東大闘争の総括をするものがいなかったことにある。*1
事件後発刊された『東大紛争の記録』や、月刊誌、週刊誌などに載った論文、手記、談話などを読んでも、難解なセクト用語や独善的で説得力に欠ける生硬な理論の羅列、あるいは当時のマスコミに迎合する『機動隊憎し』の感情論、浅薄なウォーゲーム感覚の感想文ばかりが目立ち、客観的で正確な事実と透徹した史観に立った文献が見当たらない。*2
そのことが歴史の真の空白をつくってしまい『語部』をもたない全共闘世代の思想や行動記録は平成世代に語り継がれていない。東大闘争を頂点とする全共闘闘争とは、果たして戦後日本の興隆にどんな役割を果たしたのか、またそれは歴史的にみて戦後の社会運動史、学生運動史にどのような意義を残したのだろうか?
もしそれが、時間とエネルギーの空費にすぎない“壮大な無”だったとすれば、機動隊の流した血と汗も無駄となり、治安と秩序を守るために私たちが心身の重圧に耐えた長い日々や、眠りを奪われた多くの夜もまた無意味になってしまうだろう。それではあまりにむなしいし、双方の犠牲者たちも浮かばれない。*3
だから、あの中世に逆戻りしたような時代錯誤の“城攻め”に何らかの歴史的意義を見出したいとの願いを込めて、本書を終えるにあたり私なりに東大安田講堂事件の意義と歴史的役割を総括してみたい」。 |
引用が長くなったが、佐々氏は、*3の前提から、*2の現実を指摘したうえで、*1に原因があるとする。*3の前提に関していえば異存はないが、そこから*2の現実を指摘し、*1に原因を求めるには大きな飛躍がある。かつて大岡昇平は、「戦争でよく戦うものは、平和に対してもよく闘うだろうと思う」という主旨の発言をしたことがある。その意味からいえば、私たちはよく闘った佐々氏とは共有しうる領域をもてるはずだし、佐々氏の心情も理解しうる。その指摘のなかには、納得できる面も少なくない。にもかかわらず、紹介したような脈絡で発想しているかぎり、全共闘に与した者の同意を引き出すことは難しい、と私は思う。
今井氏の「反論」は、そのことを如実に示している。今井氏は、「わかっていない『東大落城』」と断定したうえで、以下に要約する佐々氏の問題点を指摘している。
@全共闘運動の象徴であり、頂点でもあった安田講堂闘争を単なるミニ戦争的事件としてとらえ、全共闘運動そのものの意味をまったく見ていない。
Aその証拠に、ごく初歩的な事実誤認を犯しており、全学連運動と全共闘運動の違いを、まったくわかっていない。
B高級官僚として下積みの警察官の上に君臨するエリートとして、支配秩序の護持のために邁進してきた佐々氏には、東大闘争が氏のような生き方を批判的に考えようとした大衆運動であったことがわかるはずもない。
Cその点では、同様の批判を持つにしても北野氏のほうが事実関係を明確にとらえている。
D警備という問題に限っても、不正確な、あるいはアンフェアな記述が少なくない。
全共闘側に「客観的で正確な事実と透徹した史観」を問うからには、佐々氏はA、Dのような初歩的な誤りを犯してはならず、最低のルールとして北野氏の客観的姿勢があって然かるべきであるという今井氏の指摘は正当である。今井氏の「反論」は、現在のところ(上)(中)のみしか公表されておらず、(下)が未発表である関係から、全体を見る前に安易な批判は差し控えたいが、これまで発表された限りでは、佐々氏の最大の問題点を指摘しえていないように思う。 |
批判者に問われる想像力 |
では、佐々氏の問題点はどこにあるのか。批判が真に有効性を持つためには、批判する対象の背後にある世界に対して想像力を働かせることにある、と私は考えている。その想像力が佐々氏には欠けている、と私は思う。
今井氏が指摘する双方の負傷者数に関して検討してみよう。佐々氏が挙げた負傷者数は、警察官が七一〇名(内重傷三一名)。学生側と野次馬の負傷者で警視庁が把握した負傷者数は、二日間で学生四七名(内重傷者一名)、一般人一四名。双方合わせて二日間で、七七一名というものである。
この数字は、機動隊の負傷者数に比べて学生側が極端に少ない。佐々氏によると、その理由は次のようになる。「『怪我人を少なく』という警備の大方針があった上、学生側は“未必の故意”の殺意ありと判定できるほどの凶暴の限りを尽くしておいて、いざ土壇場になるとすぐ手をあげ抵抗をやめて、逆に『暴力を振るうな』と抗議するという有り様だったからだ」。
このことに関連して、北野氏は「紛争」当時に意識的に局外者の立場を貫いた作家の橋本治氏が「全共闘ってね、……一言でいってしまうとね、あれは『大人は判ってくれない』ですよね」(『ぼくたちの近代史』)と言い切っているのを見て「共感を覚えた」と述べている。北野氏が共感を覚えたような現実、つまり、佐々氏が指摘するような面が全共闘の側にあったことは否定できない。ここからは、そのような「甘え」を生んだ構造がどこからきているかについて検証するという課題が浮き彫りになる。
しかし、この課題は、一全共闘に限らず日本人の精神構造に絡む問題として、強いていえば天皇制の問題にまで逆上る問題として検証しなければならない内容を含んでいるので、ここでは佐々氏の問題点に絞って話を先に進めたいと思う。というのは、ここで触れられていることば、佐々氏の問題である以上に私たちの問題だと思うからだ。
佐々氏の問題点は、その著書で引用される数字が「警視庁が把握した負傷者数」である点にある。一週間もすれば放っておいても治癒する打撲や擦過傷でも、警官の場合には負傷として数えられるが、学生の場合は留置場に備付けの救急用品で処理され、「警視庁が把握した負傷者数」としては計上されない。警察官の負傷は、「公務の執行」として反政府勢力の鎮圧に当たった結果の公傷だからだ。「公傷」として処理すれば、頑張った機動隊員に対してご苦労さん賃として有給で休ませることができるうえに、予算を請求する際にその数は多いほどよい。そういう官僚機構が常套手段とする「独特の水増し」が、この数字の中には含まれているのだ。その一方で、学生側の数字には、看守の手には負えないために、医者の手で治療を施したもののみが計上されているにすぎない(このことは、経験からいって断言できる)。こうして、「警視庁が把握した負傷者数」では、警官の数は増え、学生側の負傷数は減ることになる。
今井氏は、このことを指して「フェアでない」と指摘したわけだが、問題は「警視庁が把握していない負傷者の数」のほうにある。70年代の一連の闘争は、直接行動を伴う激しい実力闘争だったところに特徴がある。この種の闘争に参加することは、学生であるか労働者であるかを問わず、かなりの「覚悟」が必要だったことに説明の必要はないだろう。そういう現場にいたことがわかっただけで、労働者なら解雇、学生の場合には就職が難しくなるという問題を孕んでいる。だから、負傷してもそれを隠すのが当然で、わざわざ警察に届けるケースは絶無だ。佐々氏に欠落しているのは、そういう立場にある「佐々氏と対立した相手の側の事情」について、まったく想像力を働かせようとはしない点にある。その経歴や思想的立場から考えて「わかっていない」のは仕方ないとして、「正確な事実と透徹した史観」を要求する佐々氏が「わかろうとしていない」ことが問題なのだ。 |
触れられたくない古傷の「痛み」 |
前述したように『落城』には問題が多い。にもかかわらず、佐々氏が指摘する「総括がなされていない」という問題は残る。と同時に私が佐々氏に対して加えた批判は、私に返ってくる批判でもある。私たちにとっての問題は、そこにある。では、なぜ、20年以上の歳月を経たにもかかわらず、いまもって私たちが総括をできずにいるのか。この間いを解くための鍵を、北野氏の『プレイバック「東大紛争」』から引き出してみることにする。
67年生まれの北野氏は、自分が生まれた年に、自分がいる大学に起こった「紛争」が大きな傷痕として残っていることを知り、疑問を感じたところから全共闘と全共闘運動に対して関心をもつことになったという。取材を始めるなかで、東大全共闘の議長だった山本義隆氏との接触を図るが、取材を拒否される。山本氏の「一切のマスコミの取材には応じない」という頑な姿勢に突き当たった北野氏は、戸惑う。山本氏と近しい関係にある人に相談を持ちかけて「どうすれば会えるかということより、どうしてしゃべろうとしないのかを考えたほうがいいよ」ともいわれる。
「私の最も取材したかったのは“無名の東大生”だった人がいま何をしているか、今どう考えているかということだった」という北野氏は、多くの「元東大生」に取材するが、彼らの口は一様に重い。やっと口を開いてくれた一人は、北野氏に次のようにいう。
「僕よりも過激にセクトに関わって、ゲバ棒持ってやってた連中が、卒業後の進路を役人とか弁護士とかきっちり決めていた。大学と進路を別に考えていたんだ。そういう、人のいやらしさを見る場面が多すぎた。闘争が終わって、人生全部見ちゃった、という気がしたね。大人になるのが早かった」。 |
結局、四年間の在学期間の過半を北野氏は全共闘運動の取材に費やすことになるが、その過程を通じて彼が得た結論は、全共闘運動が引きずっている古傷の痛みを「重さ」として肌で感じたということだった。
このような「大人になるのが早すぎた一般学生」とは違って、山本氏と今井氏も「すでに半分以上は大人だった」人たちである。だからこそ山本氏は、この間題に限らず社会的な発言の一切を拒否するという姿勢を貫いているように私には思えるが、その一方で、かつての仲間と語らって「六八・六九を記録する会」を作り、当時の膨大な未公刊資料を収集するという気の遠くなるような作業を続けている。そこには、原資料を収集することによって、評価を後の世代に託すという姿勢が窺える。
山本氏が沈黙を守るのに対して、今井氏の場合は「問われれば語る」という姿勢をとっている。「全共闘運動の何たるかを語ることに意味があるとすれば、たとえそれが部分的、私的であったとても、当事者のひとりとして避けて通ることはできないと思う」と述べる「反論」 での姿勢がそれである。
完全な沈黙と部分的、私的述懐に分かれるものの、両者に共通しているのは総括について積極的に語ろうとはしない点である。その「重さ」を、67年生まれの北野氏は肌で感じ、それがよってくる原因がどこにあるのかを必死に探り当てようと試みているものの、その答えを見出すには至っていない。
今井氏の「反論」の2回目が『全共闘私記(中)』として、6月号の『月刊Asahi』に発表された。10ページに及ぶ記事の内容は、地域医療に取り組んでからの彼の活動の紹介に充てられており、肝心な「総括」に当たる部分の記述はない点が特徴である。
私は、先に「全文が発表されるまで安易な批判は差し控えたい」と書いた。が、私には、(上)を読み終えた時点で、(中)以降の内容がどういうものになるかについて、あらかじめ予測がついていた。
今井氏は5月号の「反論」で、「この文章を書いていても、総体的な総括をし、メッセージを発しているとは考えていない」と述べ、「全共闘運動の特筆すべき性格」として「地域医療活動、環境保護や反原発、女性解放などのさまざまな運動が形成されている」こと、ひとりひとりが「個」としての生きざまにおいて運動に参画したことから、個としてそれぞれの場で生き抜いていることを挙げている。この脈絡からすれば、自らがかかわってきた「地域医療活動」についての報告をすることが佐々氏に対する「反論」になる、と今井氏が考えていることが読み取れたからだ。
全共闘運動の総括とは、現在的な意味でいえば、山本氏にとっては、未公刊の資料を収集し後の世代に託すことであり、今井氏にとっては、自らの足跡を語ることなのである。このような形でしか全共闘運動に対応できないことの中に、北野氏が指摘した「重さ」があるのだ。この「重さ」を超えるためには、彼らにはあと10年か20年の時間が必要なのかもしれない。しかしそれでは遅すぎる、と私は思う。歳月の長さは事物の贅肉を削ぎ落としてくれると同時に、風化が避けられないからだ。私がこの問題に口を挟む気になったのは、少し外側にいた私のようなもののほうが、口が重い全共闘世代に比べれば「いくらかはしゃべりやすい」と考えたからにほかならない。 |
「感性」=「観念」の革命 |
今井氏は、従来の理論からは生まれてこなかった領域に踏み込みことが可能になったことを、全共闘の特筆すべき性格として挙げた。このことに関して、桜井氏は次のように指摘している。
「60年代の社会運動を特徴づけたのは、『前衛』の崩壊ということだった。ロシア革命以来、世界の社会運動に影響を与えつづけた『前衛』という司令部による大衆運動という図式は、ほぼ否定された。60年代革命の主体は、いわゆる労働者階級ではなく、学生、女性、民族少数派、同性愛者などであった。社会運動を規定してきた労働者主義は、この60年代において滅びた。そしてこの学生や市民による意義申し立てを特徴づけたのは、いわゆる前衛党によって否定的にしか言及されてこなかった『自然発生性』ということにほかならなかった」。 |
「この世界的規模で若者を中心とした『感性の革命』は、19世紀のエリート支配思想としてのサン=シモン主義の末裔たる、西の管理的資本制社会も東の管理的社会主義社会もともに否定するものであった。その点こそ、まぎれもなく、かつて存在したことのない新しい革命であるゆえんである。この革命には、思想の上での指導者はいなかった」。(引用はいずれも『思想としての60年代』) |
桜井氏の分析によれば、60年代の社会運動を特徴づけたのは「前衛の崩壊」ということであり、この前衛の崩壊は、その必然的な帰結として「労働者主義」の崩壊をもたらし、運動に「個」としてのかかわりを生み出した。「感性の革命」という規定は、前衛という組織ではなく、個のかかわりが基軸になったことの必然的帰結だった。
全共闘運動が個人の感性が出発点になったことは桜井氏の指摘したとおりだが、その担い手が学生という「社会に生活基盤を持たない層」だったことにより、「観念の革命」でもあった。このことは、その必然として闘争が終焉してからの参加者の行動をも規定した。
先に引用した箇所に続いて、今井氏は「これは60年安保闘争を中心とする古い時代の学生運動だけにかかわったひとびとと異なる点である」と主張するが、その根拠はここにある。しかし、今井氏が右の引用に続くくだりで「古い世代の活動家たちの中には、過去の活動や生き方を足蹴にして平然としている人たちさえいる」と指弾するとき、「ちょっと待ってくれよ」といわざるをえない。 |
避けては通れない「古傷」 |
いうまでもなく全共闘運動は、それまでの社会運動の殻を破った新しい運動であり、それまでに見なかった新しい運動体を作りだしたことに疑念の余地はない。が、今井氏がそうであるように、運動はそれを担う実体とともに変化しながらも継続していたのである。百歩譲って、全共闘運動の新しさが、全学連運動の旧弊のすべてを駆逐しえたという根拠はどこにもないだ。
「60年代という時代は、同時代の人間に対しても、また、その時代に『遅れてきた』者に対しては特に、ある種の強迫観念を植えつけるようなことがあった。それは、60年代の日本社会が、それだけトータルに、状況へのコミットとある種の責任を要求したからである。1960年代の末、大学や街頭や国会で起こっていることに対して無関心でいることは、よほどの『決意』か無知なしには不可能だったし、それに対して距離をとることが『裏切り』というそしりを受けることもあった。その意味では、60年代は、ある種の『総動員社会』だった。
こうした総動員体制的な側面は、わたしの考えでは、60年代の消極的な側面である。60年代は、確かに、……『政治、思想、芸術、風俗などすべてにわたる革命』の時代であり、『68年革命』をもって『“近代性”の一つの段階は終わりを告げた』と言えないこともない。だが、政治の舞台で『劇的』に展開された出来事とは裏腹に、60年代末期にあらわになったことは、すべて50年代末から60年代前半期までに起こっていたということもできるのである」。 |
引用は、文庫本として再版された『思想としての60年代』に寄せた粉川哲夫氏の「解説」にある指摘である。この指摘は、私たちに二つのことを教えてくれる。一つは、粉川氏が指摘する「総動員体制的な側面」が、大量の「思いを抱きつづけている人」を生みだしたのと同時に、同じように大量の「過去の活動や生き方を足蹴にして平然としている人たち」をも生みだしたことである。もう一つは、負の側面も含めて、すべてが「先行する時代によって準備されていたこと」、換言すれば、「先行する時代の残滓を引きずっていた」ということである。
全共闘運動の「挫折」以降、その担い手は三つの方向に分解した。今井氏が指摘する「思いを抱きつづけている人」と「過去の活動や生き方を足蹴にして平然としている人たち」、そしてその中間に位置する人たち、である。
中間に位置する人たちがごく普通の市民の中にに溶け込んだのに対して、「思いを抱きつづけている人」のうちの一部はリアルな現実に突き当たり、「草の根派」となって市民社会の片隅で初志を貫く道を選んだ。また、そのうちのごく一部は、同じように初志を貫徹する場を左翼組織の活動に求めた。
その結果、「挫折後」の全共闘を象徴するものとして表だって外側から見えるものは、彼らのごく一部が合流した左翼組織の活動だけになった。
北野氏や北野氏の母親のような「部外者」の目から見れば、全共闘といえば「浅間山荘」であり「連合赤軍」であり一連の「内ゲバ」である関係は、こうした構造のなかから生まれたものなのである。生み出したものに対する責任という点でいえば、この時代を共有したものが等しく負わなければならない立場にいる、と私は思う。「浅間山荘」や「連合赤軍」そして一連の「内ゲバ」、に関して、「あっしにはかかわりないことでござんす」といって済ますわけにはいかないと思うのだ。
この「古傷」を避けて通るかぎり、北野氏に代表される後の世代が突きつけている「なぜ?」という疑問に、私たちは答えることができない。いかに痛みを伴うとしても、蛮勇を奮って「古傷」に触れることなしに「総括」はできないのだ。 |
「内戦」としての60・70年代 |
北野氏が肌で感じた「重さ」の問題に戻ろう。北野氏によれば、全共闘運動は全国に飛び火し、その最盛期には全大学の半数に当たる165校に波及した。しかし、69年を境にして「挫折」し、70年代に入ると殺し合いの様相を帯び、この過程でおよそ80人が「内ゲバ殺人」の犠牲になったという。
68年ころから高揚期を迎えた全共闘運動は、72年の「浅間山荘事件」の前後まで、少なく見積もってもほぼ五年ほどの間、この国の青年たちの魂に影響力を与えつづけた運動であり、その最盛期においては大学生のみならず高校生やごく一部ではあるが中学生にまで影響を与えた運動だった。それだけ多くの若者たちを「層として」その渦に巻き込んだことの必然的な結果として、彼らの親の世代にも多くの影響を及ばした運動だったのである。71年以降に表面化したいわゆる「内ゲバ殺人」だけでも、その犠牲者は80人だとすれば、その前後の時期の犠牲者も数えると100を超える数になる。死者以外の重傷者を加えるとその数は数倍になり、そのような現実に巻き込まれ、魂を傷つけられた人間の数はさらに多くなる。
私は、先に全共闘運動がある種の「総動員体制的」な側面を持っていたという粉川氏のことばを引用した。国家によって強要される「総動員体制」と違って、それは粉川氏がいうように「ある種の雰囲気」というものだったと思うが、これに前述した「傷ついた人間の数」を加えると、「内戦」の条件を、その本質において備えていたといえる。
「内戦」というには規模が小さすぎるといってしまえばそれまでで、確かに国家間の戦争や民族間の戦争に比べるとき、規模においても傷痕の深さにおいても比較にならないほどスケールは小さいことは事実だ。しかし、多くの青年が最前線で傷つき、銃後に相当する後方では彼らの肉親にも大きな傷痕を残したという意味でいえば、それは紛れもなく「戦争」だったのである。
ふつう、戦争は、その戦争にかかわった人の数に応じて傷の深さを増し、受けた傷の深さに応じて芸術上の傑作を生み出してきた。戦争文学といわれる領域がその典型としてあるが、この戦争に限っていえば、その「重さ」と「受けた傷の深さ」にもかかわらず、いまのところ、私たちはそのような「傑作」を生み出せずにいる。
優れた芸術家が、個人の力で魂を揺さぶるような傑作を生み出すことが先行していれば、事態はもう少し変わっていたのかもしれない。しかし、残念ながら私たちはそのような傑作を生み出していないことが現実なのだ。とすれば、そのような傑作を生み出すためにも、私たちの検証は、その原因がどごにあり、また、何に起因しているかについて探ることにある。 |
私(たち)の視座 |
そこで私が問題にしたいのは、総括を行うに際して問われている視座の問題である。前述したような問題点があるにせよ、『落城』には全体を通して見た場合、私人としての立場が基本的に貫かれている、と私は思う。この「私」の視座をもって、全共闘運動を頂点とする60〜70年代闘争に対する著者なりの「総括」を試みるものとして書かれている点を、私は問題にしたいのだ。その理由は、「公」の立場にこだわるかぎり、ことの本質に迫れないと考えるからである。「あの時点では、公式にはああいったが、じつはこう思っていた」という本音、つまり、私の立場が誰にもあったはずだし、あるはずである。この「立場を超えた私の視座」だけが根源的であり、その視座からしか「きちんとした総括」は出てこないと思うからだ。
今井氏の「反論」は、(下)が未発表であるいま、安易な批判は差し控えたいが、『全共闘私記』とうたうわりには「私」の視座が希薄であることが気にかかる。39年生まれで58年入学という氏は、浪人せずに現役で東大理科U類に合格、60年には難関といわれた医学部へ進学している(この時期の東大には理Uはまだなかった)。学生運動にかかわるようになったのは62年に東大自治会中央委員会議長に就任してからであり、それまで「一般学生」にすぎなかった氏は、翌63年に再建都学連委員長に就任、「一時は職業革命家たらんとがんばった」という。
ノンポリ学生→学生活動家→職業革命家→復学→医師として地域医療に従事→国会議員という今井氏の閲歴の中で、たえず「私」が語られているようで、じつは語られていない部分がある。それは、北野氏が指摘する「挫折の時期」と重なる。この時期、つまり、69年の後半から70年代の前半にかけての「内ゲバの時代」における「私」の立場からの発言が欠落している。
歌手の加藤登紀子氏は、北野氏に答えて次のように述べている。
「私の中では、デモをやっていても“敵”なんかいなかったのよ。学生と機動隊には本当の意味の対立なんてなかったんだから。表面から見れば、すべてのシーンが生き生きしてて、とっておきたいくらい素晴らしかった。だけど、機動隊に石投げるとか、そういう方法しか取れなかったというのは、何て悲しい、空しい時代だったんだろうと思っています」。 |
今井氏は東大安田講堂防衛隊長、売出し中の流行歌手とはいえ学生としては一ノンポリにすぎなかった加藤氏。当時、どういう「立場」にいたかの相違が、発言の中身を規定している。 |
自縄自縛かち自らを解き放つこと |
いま私たちに問われているのは、たとえ現在の立場がどうあれ、かつての立場から自由になることである、と私は思う。そのようにして獲得した「私の視座」を「私たちの視座」にすることが、私たちが試みようとしている検証にとって欠かせない第一のものだと考えるからだ。このことに関して、北野氏は結びの部分で、次のように述べている。
「いままで『学生運動』について論じたものには、どうしても各々の政治的立場や個人的感慨から自由になっていないものがほとんどだったように思う。『二十年前、自分はどこにいたか』が、それぞれの論者を拘束し、自由に、かつ冷静に『歴史としての学生運動』を語り合うことを妨げてきたのではないか。
本書には、私なりにいろいろな層の人々へのメッセージを込めたつもりである。例えば当時を学生として体験した人たち。彼らには、自分たをがある集団に属してしまったことによって見えなくなってしまったものについて、改めて見つめ直してほしいと思った。……当時の自分たちの“闘い”は、それはそれとして、もう歴史になりつつあるこの出来事に対し、自分たちはいま、どう折り合いをつけるか。それを『全共闘世代』の人たちに考えてほしいと思った」。 |
60・70年代は、北野氏に代表されるような世代が登場することによって、すでに「歴史としての60・70年代」になっているのだ。この現実を感じ取れないとすれば、それは「感性」の喪失であり、「知性」の敗北を意味している。
「感性の革命」の担い手たちが「感性を喪失」し、「知性において敗北」し続けるならば、全共闘運動は「悲しく空しいものだった」ということに終わらざるをえないが、そういう形には終わらせたくはない。私は、心からそう考えている。
今井公雄 (いまいきみお)
1939年東京に生まれる。
1980年「序章」によって第三回群像新人長編小説賞を受賞。
著書 「序章」 講談社 |