補足「1967.10.8日前夜のリンチテロ」考」

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.3.29日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「補足/1967.10.8日前夜のリンチテロ考」をものしておく。

 2009.3.3日 れんだいこ拝


【1993.6月、今井公雄 (作家)「歴史としての60・70年代」】
 1967.10.6日、全学連(三派系)佐藤訪ベト阻止統一集会〔日比谷野音〕。この時、社青同解放派の全学連書記局員が、法政大闘争をめぐり中核派の書記局員を殴打している。このことが、翌7日、法政大で社青同解放派の幹部が中核派に自己批判強要のリンチ事件に発生している。この事件が三派全学連分裂の流れを作った。

【1993.6月、今井公雄 (作家)「歴史としての60・70年代」】
 「ブログ野次馬雑記 No492 10・8羽田闘争の光と影 -三派全学連内部からの視点」転載。
 1967年10月8日の「第一次羽田闘争」から50年が過ぎた。 昨年の10月8日には10・9山﨑博昭プロジェクト主催の50周年記念集会も開かれた。50年が経つと「歴史」になるといわれるが、そういう意味では「10・8羽田闘争」も「歴史」となったのかもしれない。私が明治大学に入学したのは1969年4月。その頃の集会では「10・8が切り開いた組織された暴力とプロレタリア国際主義の旗のもと・・ ・」という言葉が必ずアジテーションの冒頭に出てきた。10・8羽田闘争を知らない私のような学生には「ジュッパチ?何のこと?」という感じだったが、先輩たちからゲバ棒が初めて登場した輝かしい記念すべき日として教えられてきた。この「10・8羽田闘争」に関連して、当時の活動家による回想などで、前夜の10月7日に、法政大学で中核派による社青同解放派へのリンチ事件があったことが知られるようになってきた。昨年発行された「情況」2017秋号にも「10・8闘争とその功罪」というタイトルで高橋孝吉氏(当時:三派全学連書記長)のインタビュー記事が掲載されている。佐藤首相(当時)の南ベトナム訪問に対し、三派全学連が一致団結して阻止闘争を組むべき日の前日に、なぜこのような「事件」が起きたのか?この「事件」の背景については、今まで語られることはなかった。この度、10・8羽田闘争50周年を機に、当時、三派全学連書紀局に関わっていたN氏から、10・8羽田闘争を巡る三派全学連内部の視点からの貴重な証言(文章)を寄せていただいた。今回のブログは、その証言(文章)を掲載する。
 【10・8羽田闘争の光と影 -三派全学連内部からの視点―】
 この原稿は、2017年10月8日に開催された「10・8 佐藤訪ベト阻止羽田闘争50周年」に寄せて書いたものである。その後、ブログ「野次馬雑記」への掲載依頼により、加筆したものである。
イニシャル
高橋孝吉 全学連書記長 62 年早稲田大 社青同解放派
北村行夫 東京都学連委員長 早稲田大学 社青同解放派
AK 渡木 繁 全学連書記局員 早稲田大学 社青同解放派
秋山勝行 全学連委員長 横浜国大 革共同中核派
吉羽 忠 ) 全学連教宣部長 東工大 革共同中核派
丸山淳太郎 ) 全学連書記局員 横浜国大 革共同中核派
AT 青木 忠 ) 全学連情宣部長 広島大 革共同中核派
ST 清水丈夫) 革共同
本多延嘉) 革共同
SK 陶山健一) 革共同
北小路敏) 革共同
成島忠夫、 ) 全学連副委員長 静岡大 社学同
SK 斎藤克彦 ) 全学連初代委員長 明治大 社学同
<1967年10・8羽田闘争と山﨑博昭君の死>
 山﨑博昭君の死は、当時ベトナム反戦闘争を闘った者たちには忘れることのできないことである。だが、結成されて1年も経たない三派全学連の一員として10・8羽田闘争を闘った者たちにとっては実に複雑な気持ちが同居しているのも事実である。複雑な気持ちとはなんであろうか。60年安保闘争における樺美智子さんの死が、あの闘いの象徴であるように山﨑博昭君の死は、日本におけるベトナム反戦闘争を象徴するものである。このことに誰も異議をはさまないだろう。そして、私が感ずる「複雑さ」は、彼の死の歴史的意味を 貶めるものではないと確信している。ものごとはいつも美しく語られ、同時にあった「負の側面」を語らずに終わる。この「負の側面」は、すでに語られ、ある程度知られていることかもしれない。今さら、「負の側面」を語ることに果たしてどれほどの意味があるのか確信を持てないが、三派全学連結成を共に担い、10・8羽田闘争を闘った者たちに残る共通の違和感・複雑な想い=「10・ 3 8羽田闘争を美しく語って終わるわけにはいかない」という理由を述べることは意味のないことではないと思える。
<10・8前日に起きたこと>
 10・8前日の10月7日、法政大学(中核派拠点キャンパス)において、三派全学連書記長T、都学連委員長K(両氏とも社青同解放派)が拉致され、凄惨なリンチが加えられるという「事件」が起きた。この結果、三派全学連として闘うはずであった「10・8佐藤訪ベト阻止闘争」は、分裂して闘われることになった。凄惨なリンチを受け、膨れ上がった顔とボロボロになった体を引きずり、抱えられて中央大学講堂に現れた二人を見て、みんな目を疑った。ここには、全国から結集した学生が明日の10・8羽田闘争に向け、総決起集会を開いていた。1965年都学連再建、1966年三派全学連結成等の過程で、各派はそれぞれの政治主張を掲げ、論争をし、よく殴り合いの衝突をしたことがある。しかし、それは限度を心得ており、密室に連れ込むなどという陰湿さはなく、オープンで実に爽やか。このような衝突が一度くらいないと全学 連大会は盛り上がらず、すっきりしないという実に健康的なものであった。しかし、10・8佐藤訪ベト阻止羽田闘争を目前にして起きた法政大学での中核派の社青同解放派に対するテロ・リンチは、陰湿かつ凄惨さにおいて、かつてないものであり、それは、大衆運動とは両立しえない性格のものであった。この事態は、ようやくにして結成された三派全学連を分裂へと導くに十分であった。
<原因は何だったのか>
(1)
 ここに至る経緯と要因をいくつかのポイントに絞ってあげれば、次のようになる。第一は、10・8羽田闘争の全学連総指揮者をめぐる対立である。10・8佐藤訪ベト阻止闘争を前にして、「全学連の総指揮を誰がやるか」が重大な焦点となった。 本来であれば、委員長、副委員長、書記長の三役から選べばいい話で、「委員長がやる!」と言えば、即、決まる話である。しかし、委員長A.Kは「自分はできない。しかし、総指揮者は中核派から出す」とし、具体的には、広島大学A.Tを提案した。理由は次のようなものであった。「10・8直前の9月14日、法政大学学費値上げ反対闘争で大量逮捕者を出し、委員長Aもそこで逮捕され、釈放されたばかりで総指揮をとることはできない」と。これに対して、「委員長ができないなら書記長か副委員長が指揮をとるのが筋」と解放派・ブンドは主張した。この時、全学連副委員長はN(静岡大・ブント)、書記長はT(早大・社青同解放派)であった。大衆運動組織の原則からすれば当然の主張である。そしてこの時、書記長のTが「Aがやれないなら、俺が指揮をとる」と名乗り出ていた。今から思えば、「釈放されたばかりだから指揮は取れない」というのはおかしな理屈である。9月14日に逮捕されて20日足らずの拘留で釈放されたのは、幸運な話で、10・8羽田闘争を指揮するのに別段支障はない。10・8の総指揮を執ることは、逮捕され一定の長期拘留を余儀なくされることが前提だから、そこに20日前後の拘留が直前にあったことなど何の関係もない話である。Aにそうした覚悟がないというなら話は別だが、そんなわけはなかろう。10・8佐藤訪ベト阻止闘争を歴史的闘争と位置づけ、並々ならぬ決意を中核派もまた表明していたのだから。要するに、10・8で逮捕されれば長期拘留を覚悟せざるを得ず、中核派にとってAの不在は、ようやく手に入れた三派全学連のイニシアティブを失いかねない―このリスクは回避したい。更に、 『総指揮』も手にすることによって、中核派のヘゲモニーを目に見える形にしたいという欲張りな党派利害を主張したものにすぎない。この主張が無理筋であることをA、Yは認めざるを得ず、初期、全学連書記局では書記長のTが総指揮を執ることについて、彼らは半ば承諾していたという。(Tは私の質問にそう答えている) ここには、党派利害を最優先する中核派政治局の指導方針があり、この方針を無理筋と思うA、Y と中核派政治局の間に微妙な相違が生じていたことは事実である。しかしA、Yは、最終的には 全学連書記局での合意を翻し、強引と思える中核派政治局の路線に転換したのである。
(2)
 思い起こせば、
1966年12月に結成された(三派)全学連(全国35大学、71自治会、18 00人結集)の初代委員長はS.K(明大・ブント)であった。だが、1967年初頭の明大学費値上げ反対闘争において大学当局との「ボス交」が露呈して批判され、初代委員長S.Kは辞任した。代わってA(横国大・中核派)が委員長となった。ブントにとっては何ともいえず悔しいものだったろうが、彼らは潔くよくこれをのんだ。大衆運動・大衆組織の原則に沿った在り方が、ここには生きていたのである。だが、こうして委員長の座を手に入れた中核派は、10・8佐藤訪ベト阻止闘争にあたって、この原則を破壊した。この矛盾した二つのことが、三派全学連結成後1年も経たないうちに起きている。それは、「大衆運動組織と党派の在り方」をめぐる根本問題であった。この党派は、あらゆる闘争において「主流派の位置」を求め、そのヘゲモニーを脅かす党派に対してゲバルトを伴う恫喝をかけてその芽を摘み取るという「党派性」を持ち、当たり前のように行使してきた。これを中核派は、「党としての闘い・党のための闘い」と「理論化」し、活動の基軸に据えていた。 この「前衛党建設論」こそが、安保ブントに欠落していたものとし、その欠落を補う前衛党建設論が黒田理論にはあるとして「革共同黒寛派」に走った理由でもあった。だが、中核派指導部が培ってきた「ブント的大衆運動感覚」は、革マル派の「徹底した反急進主義・秩序派体質」と合うはずはなかった。この相違は如何ともしがたく、両者は短期間で分裂へと 向かうのだが、自派の純粋培養の延長上に「前衛党建設」を目指す「排他的党建設論」は残った。この前衛党論が生み出す党派主義・セクト主義が、全学連という大衆運動・大衆組織に持ち込まれたのである。
 ちょっと古くなるが、私の記憶に残るレーニンの次の一節との対比はどうだろうか。1917年ロシア革命のさなか、「党かソビエトか」と二者択一的に問題を立て、混乱するボルシェヴィキ党員にレーニンは答えている。(ソビエトの多数派はエスエル、メンシェヴィキであり、ボルシェヴィキは少数派であった) 「そのように問題を立てるべきではない。党かソビエトかではなく、党もソビエトもだ!」と。(今、私の手元にレーニン全集はないので、これはあくまでも記憶だが、そう違っていないと思う) 中核派が示したこのような党派主義・セクト主義は、他党派に対するものというより、より根本的には大衆運動そのものに対立するものとして作用し、絶えず矛盾を生み出し続けることになる。後に述べるが、このことは中核派だけの問題ではなく新左翼全体が内包していた問題であるが、この当時のブント、解放派は、この体質とは無縁であったと思う。他党派の私から見れば、ブントは「自然発生的大衆そのもの」であり、常にその先頭に立っていた。解放派は、「大衆の自然発生性」を重視し、ある意味では「ブント的」であった。私の眼に彼らは、「愛すべきブント」と映っていた。
(3)
 それにしても、
中核派はなぜかくも余裕を失った強硬路線を選択したのであろうか? 彼らが持っている特有の体質・路線のほかに、当時過剰な危機感を持つことになる事態が進行していた。それは、社青同解放派が首都圏において確実に伸びていたことである。この時期の解放派の伸びと勢いはかなりのものであった。1965年に「反戦青年委員会」が結成された。「反戦青年委員会」は、総評青年部、社会党青少年局、社青同中央本部の三者によって、世界的ベトナム反戦闘争の高揚を背景に結成され、共産党、新左翼を含むすべての青年労働者にここへの結集を呼びかける画期的なものであった。 (このイニシアティブは、社会党江田派によってとられた!この当時の社会党構造改革派の懐の深さには目を見張るものがある) 都学連、三派全学連の結成は、この流れとも軌を一にしている。そして、社青同解放派は総評・社会党運動の中にあって、この最左派に位置していた。要するに青年労働者運動においても解放派は重要な位置を占め、伸びていた。当時の新左翼諸党派にあって、労働運動に基盤を持っていたのは「解放派」(社会党、社青同東 京地本等)、「第四インター」(三多摩社青同、三多摩地区反戦、社青同宮城、宮城県反戦等―これらは社会党・社青同への加入戦術活動による成果である)、大阪中電を軸とする「ブント」(ここでも片山甚一をはじめとする大阪社会党構造改革派の懐の広さが目につく)、三菱造船長崎社研の独立左派グループぐらいであり、中核派は青年労働者の中にまだ基盤を持っていなかった。そして、この影響は解放派学生運動にも及んでいた。大衆運動における「大衆の自然発生性とその自立的発展」を重視する解放派の「ローザ主義」 は、中核派の「レーニン主義」(党派主義)と一線を画し、学生の中にも支持を広げていた。この『伸び』が、中核派を刺激し、危機感を募らせていた。
(4)
 中核派は、解放派を「総評民同と癒着する『改良主義・敗北主義・日和見主義』である」と批判 し、この批判を巡って両派の対立は絶えず生じていた。(この対立は、1969年に再建された「全国反戦」の終焉を告げたあの時へとつながる。それは1971年6月明治公園での全国反戦主催― 沖縄闘争集会における中核派―解放両派の軍団化した部隊による激突によって、「全国反戦青年委員会」が名実ともに終りを告げた「あの時」である)(註1参照) 当時、中核派の拠点である法政大社会学部で解放派が学生の支持を受け伸びていた。これは中核派にとって由々しき事態であり、許してはならないことであった。この時期、中核派の社青同解放派の伸びに対する警戒・危機感は、解放派が認識するよりはるかに深いものであった。そうであれば、中核派にとって10・8佐藤訪ベト阻止闘争における全学連総指揮者は、中核派でなければならず、全学連書記長T( 解放派)の総指揮などあってはならない事であった。このことが大衆運動・大衆組織の原則を破壊し、統一戦線を解体することにつながるテロ・リンチ事件を引き起こした重要な背景にあったのである。
<ここに至る若干の経緯>
(1)
 
10月7日午前10時より全学連書記局会議が中央大学学館で予定されていた。議題は、①10・8の総指揮者について②10・8の闘争戦術について。以上二点である。だが当日、定刻を過ぎても中核派は現れないし、連絡もなかった。全学連書記長Tと都学連委員長K(いずれも解放派)が、「A、Yを迎えに行ってくる」といって法政大学に向かった。この何ともいえない楽観的行動は、この時期の健康な学生運動の状況を示していたし、A,Yから 「10・8羽田闘争の総指揮は、書記長T」という内諾を得ていたことによるものである。ところが法政大学では、深刻な「事態」が起きていた。
(2)
 
ことの始まりは、10月6日、日比谷野音でのある出来事に発する。 「10・6ベトナム戦争反対集会」(社・共共闘)の現場で、中核派Mと解放派Kが論争した。その中味は、例の「総評民同と癒着した改良主義者―解放派」という批判をめぐってであった。頭にきた解放派KがMをぶん殴った。これに対しデモを終えて法政に戻った中核派が法政大解放派メンバーに暴力をふるった。この暴力行為を聞きつけた早大の解放派が法政大に乗り込み中核派をぶん殴るということがあり、10月7日、その仕返し・報復として法政大解放派の学生が中核派に拉致され、リンチされるという事態に発展した。解放派にとってこれらは、よくあること。それがちょっとエスカレートしたものという程度の認識だったが、中核派にとってはそうではなかった。両派対立の性格は、中核派政治局の主導によってとんでもない性格に変わっていった。
(3)
 10月7日。この日、中核派政治局(H・S.T・S.K・K)は、法政大学に腰を据えていた。それは、中核派政治局の10・8羽田闘争にかける並々ならぬ決意を示すと同時に、解放派の振る舞いに対する重大な決意の現れでもあった。法政大解放派メンバーを密室でリンチしながら、「このメンバーを解放したければ指導部が身代わりに法大に出向いて来いと通告した」らしい。(水谷保孝・岸宏一著「革共同政治局の敗北」) こんなことが起きているとはつゆ知らず(Tは、全く知らなかったと私に語った)、T、Kは法政大に向かった。全学連書記局会議への出席を促すために。そして、法政大構内に入るや否や中核派に拘束された。T、Kは拉致され、その代償に法政大解放派学生は解放された。そして、中核派政治局(S.T,H,K)指導による全学連書記長T、都学連委員長K等解放派学生指導部に対する今まであり得なかった陰惨なリンチが行われたのである。 この凄惨なリンチについて詳しくは書かないが、Tによれば、現場にいたY(Aもいた)が耐えられなくて、「もうやめてくれ!」とS.Tに願い出たらしい。かくしてT、K等解放派指導部は解放された。10・8羽田闘争を指揮するはずだったTはリンチされ、傷を負い、総指揮は不可能となった。さらに、当日の戦術は全学連として意志統一されることはなかった。かくして、三派全学連の分裂は確定した。
(4)
 
中大講堂に全国から結集した学生は、顔が膨れあがり、ボロボロになり、抱えられて壇上に 登場したT、Kの姿を見て目を疑い、間もなくにして何が起きたかを理解した。中大講堂を埋め尽くしていたすべての学生は、直ちに法政大学に向かい、すべての門を閉ざした法政大前で、明日の闘争の指揮をとる三名が抗議のアジテーションをし、明日の闘いへの決意を述べた。かくして、10・8羽田闘争は分裂した。そして、三派全学連として復元することはなかった。
<10.8当日のこと>
(1)
 10・8当日、中核派を除く全学連部隊は、中大から御茶ノ水―東京―品川を経て、京急大森 海岸駅で非常用コックを開け、電車を緊急停止させ線路の石を拾い、角材をもって鈴ヶ森ランプを突破した。これを見届けた全学連副委員長Nと私は萩中公園に向かった。Nは萩中公園に結集していた反戦青年委員会の労働者に向かって、「わが全学連は首都高速鈴ヶ森ランプを突破し一路羽田空港に向かって前進している」とアジった。この時丁度、中核派部隊が萩中公園に到着した。角材に小さなプラカードをつけて登場した中核派は、昨日の今日、萩中公園で中核派以外の全学連部隊との衝突を予測していたかのような構えで登場した。しかし、全学連副委員長N(成島)のアジテーションを聞くや否や、「遅れてはならじ!」と踵を返して弁天橋に向かった。実はこの時、鈴ヶ森ランプを突破した全学連部隊は、道を間違え羽田空港と逆方向に向かっていた。そもそもの誤りは、鈴ヶ森ランプ「入口」を突破し進入したことであった。この「入口」は、本線につながっているのだが、本線は「羽田」ではなく「東京方面」に向かっていた。全学連部隊は突破した勢いで前進したが、「どうも逆ではないか?」という不安がよぎる。前方を走って逃げる警官に「羽田はどっちだ」と訊くと「あっちだ!」と逆方向を指す。「警察を信用するわけにはいかない」と前進するが、「どうも景色がおかしい。向かっている方向は東京方面で、羽田とは逆方向ではないか?!」という声が学生の中から聞こえてきた。指揮者陣は立ち止まり、決断した。「逆だ。方向転 換!」―今度こそ羽田へ向かって部隊は前進した。方向転換し進む先に間もなく機動隊が現れた。この日の警備体制は、「羽田空港に反対派部隊は一歩も入れない」という警備方針で、穴守橋、 稲荷橋、弁天橋に阻止線を敷いた。ここが最重要阻止線であると。高速道路から全学連部隊が来るとは全く考えていなかったのである。「全学連部隊、鈴ヶ森ランプ突破!」の報を聞いた警視庁はあわてた。予想外の報に急遽機動隊を高速に向かわせた。彼らが、間一髪で全学連部隊の羽田空港突入を阻止しえたのは、わが部隊が方向を間違え、羽田空港突入までに時間を要したからであった。高速道路「平和島出口」付近でかろうじて阻止線を敷くことに間に合った警視庁機動隊と全学連部隊は衝突した。この衝突の中で逮捕者を出し、全学連部隊は一般道へと押し出された。そしてわが部隊は第一京浜を走り、再結集して穴守橋で闘うことになった。(註2、註 3 参照)
(2)
 こうしたことがありながら、二つに分裂した全学連部隊は、それぞれが10・8羽田闘争を全力を挙げて闘いぬいた。昨日あったことなど忘れ「佐藤訪ベト阻止・ベトナム人民との連帯」を掲げて闘いぬいた。そして、山﨑君の死を知り、それぞれの闘いを終えて萩中公園に集まった学生部隊は反戦青年委員会の労働者とともに黙祷を捧げた。山﨑博昭君を追悼する統一集会が持たれたのである。
(3)
 10・8第一次羽田闘争で分裂した三派全学連は、11・12第二次羽田闘争を分裂したままで闘った。(第二次羽田闘争で筆者は全学連副委員長N、書記長T(Tはなんとか復活していた)とともに全学連部隊の総指揮をとった。この時、初めて「ジュラルミンの盾」と「投石よけ防護ネット」が登場した)
翌年1968年1月エンタープライズ寄港阻止佐世保闘争が闘われた。この時、10・8以前「全学連」を構成したブント、解放派、社青同国際主義派(第四インター)、中核派は、分裂後初めて現地で共同の戦術会議を持った。佐世保現地における大衆闘争がこれを強制したというべきである。(ブントからN、T、解放派から T,F、中核派からY、社青同国際主義派(第四インター)からN(筆者)。佐世保現地闘争は社会党・総評傘下の労働者とともに大衆的実力闘争として闘われた。そして、全学連部隊は佐世保市民に圧倒的に支持された。これは、闘争後街頭に立った時、寄せられたカンパへの反応が経験したことのないものだったことに示された。各派ともヘルメットを持って街頭に立ったのだが、ヘルメットは百円札、五百円札で、あっという間に溢れかえった。バスの窓から手を差し出してカンパする人もいた。この時、早く東京に帰ってこの反応が特殊佐世保的なものか、そうでないのか確かめてみたいと 思った。帰って後、東京での佐世保闘争報告とベトナム支援カンパの反応は良かったが、佐世保での反応は、やはり群を抜いていた。 こうした人々の反応は、大衆運動の形成を最優先する統一戦線の在り方とその重要性を何よりも 明らかにしていた。そして、「突出した闘い」とは、それを支える大衆運動が基礎にあって初めて意味を持つのであり、 大衆運動を組織することと切り離された「突出」に意味はないことを示している。
<10・8羽田闘争の「負の側面」を明らかにする今日的意味>
(1)
 以上が栄光に輝く10・8羽田闘争とその裏側にある「負の側面」である。10・8羽田闘争を担った者たちが抱く違和感・複雑な感情とは、山﨑博昭君の死を含み全力で闘われた10・8羽田闘争の誇りといつも同居している、決して忘れることのできない「負の側面」である。山﨑博昭君は弁天橋の闘いの中で亡くなった。弁天橋の闘いを担ったのは、中核派を中心とする学生諸君である。このことにより中核派の10・8弁天橋闘争は、10・8羽田闘争総体の象徴的闘争として語られてきた。本来なら中核派指導部の行為は、批判され、闘う人々の信頼を失い、存続の危機に陥る性格のものだった。だが、中核派は無傷で残った。いや無傷で残ったのみならず、圧倒的「優位」を手にした。その「優位」を維持するために、前日あった事実を中核派は隠蔽しつづけた。彼らは、事実が表に出ることを恐れた。知っているのは、中核派政治局と指導部のほんの一部のみである。法政大に結集し、弁天橋で闘った学生のほとんどは、この事実を知らない。当然のことながら、この闘いで亡くなった山﨑博昭君は知る由もなかった。そして、中核派以外の党派もこの事実を取り上げ、真正面から問題とすることはなかった。このことを取り上げることは、10・8 羽田闘争の意義を失わせることになりはしないか?それともことの重大さを認識していていなかったのか? ただ、違和感と複雑な感情が残った。
(2)
 
こうして、10・8佐藤訪ベト阻止羽田闘争は、11・12第二次羽田闘争、翌1968年1月のエン タープライズ寄港阻止佐世保闘争へと続く日本におけるベトナム反戦闘争の高揚を決定づける歴史的闘争であったことは間違いない。しかし、この時生じた「負の側面」の真実を明らかにし、しっかりと総括できなかったことは、その後の新左翼運動にとって禍根を残すことになった。この時期に代表される「学生運動中心の政治闘争」を概括すれば、良くも悪くも「党派活動家集団運動」であり、その性格を脱することはできなかった。これは、60年安保に至る学生運動と比較すれば違いは明瞭である。学生自治会結成から始まった戦後学生運動の歴史を担い、その原則を保持してきた全国学生自治会総連合運動は、「層としての学生運動」として形成され、単なる「党派活動家集団運動」ではなかった。しかし、60年安保闘争の敗北とその過程で生まれたばかりの新左翼の水準がその後の学生運動を規定した。(註4参照) 闘いの高揚を実現したある局面では、党派活動家集団運動を越えた大衆運動の自立的発展が全体を覆うこともあったが(全共闘運動は、その一部を垣間見せた)、それはほんの一時期で、やがて訪れる運動の後退(衰退)局面に入ると再び「党派」が全面を覆いつくすことになる。また、そのようにしてしか運動を持続できなかった現実が、「党派運動」に意味を与えた。大衆性は急速に失われ、後退は衰退にまで至る。運動の高揚と後退(衰退)は絶えず繰り返される当たり前のことだが、高揚の局面では表面に現れなかった「負の側面」が、後退(衰退)の局面では隠しようもなく露呈する。

  10・8羽田闘争前日という高揚の局面で生起した中核派による他者排除の論理とその行使は、 運動の後退(衰退)局面では、より一層色濃く中核派もちろん、ブントにも解放派にも現れた。「社会変革の道」=「革命」と真逆な内部ゲバルト=「内ゲバ」が公然となされ、日本社会を覆った。意見の異なる他者を物理的に抹殺する「内ゲバ」と「革命」が同居していることに疑いを持たない主体=党派―その革命理論・革命党建設論とは一体何であろうか? ソ連邦共産党における「スターリン独裁政治」を批判したはずの新左翼が、スターリニストと寸分違わぬ他者殲滅の泥沼に陥っていた。なぜこのようなことが起きたのかは、広い視点から根本的に総括されなければならないし、そのことは今日可能だと思うが、ここでは10・8羽田闘争前日に生起したことの事実とその背景を明らかにし、その重要な意味を内ゲバが公然化する前から示唆していたという指摘にとどめたいと思う。10・8羽田闘争と山﨑博昭君の死が持つ歴史的意味をおさえながら、同時に起きた「負の側面」にも向き合うこと。この双方を捉えることによって10・8羽田闘争50周年の歴史的意義はより正確に捉えることができるのではないか。10・8羽田闘争50周年は、そのような場でもあってほしいと思う。「美しい物語で終わらせてはならない」というのは、そういう意味である。3・11東日本大震災・福島第一原発事故以降、新しい社会運動が芽生え始めているのだからなおさらである。 「自由とは、常に思想の異なる者の自由である」(ローザ・ルクセンブルグ)、「単なる同一性ではなく、多様性を許すような同一性へ」 、「他者(他人)を手段としてのみならず、目的(自立した個人)として扱え」(カント) 2017年9月 N.T(元第四インター・社青同国際主義派)
<註 1>
 1965 年に結成された反戦青年委員会については本文で触れたが、諸々の事情により機能不全に陥っていた反戦青年委員会の再建によって生まれた「全国反戦」について述べたい。このことについては、江藤正修遺稿集「社会的労働運動の模索―明日を見つめた格闘の記録」第一章の「反戦青年委員会の総括」が事実を正確に語っているので少々長くなるが引用する。
 「・・・ところが全国反戦は、68 年 3 月から機能麻痺・凍結状況が続き、このような新たな情勢に対応する全国展開ができない事態が続いていた。そうした中で、『社会党・総評が動かないのならば 各県反戦がまとまって全国反戦を再建すればいい』と考えた宮城県反戦の今野求さん(宮城県評 オルグ・第四インター)は、69年初頭に上京して全国県反戦青年委員会連絡会議(全国反戦)の結成を呼びかけた。このオルグは、宮城、埼玉、神奈川、石川、大阪、徳島、福岡、長崎など11県反戦呼びかけの4・20全国集会(沖縄闘争)へと結実したのである。この時に、全国反戦の世話人に選出されたのが今野求さんと村上明夫さん(埼玉県反戦)である。第四インターの今野さんはともかく、主体と変革派結成以前(主革派結成準備会は同年8月)の村上さんが世話人に選出されたのは、新左翼諸党派にとっても社青同反戦派の存在が総評・ 社会党との関係で重要だったからにほかならない。こうして全国反戦は、同年11月の佐藤訪米阻止闘争を頂点とするベトナム反戦闘争、沖縄闘争、三里塚闘争などを全国全共闘、ベ平連と並ぶ全国運動のセンターとして、71 年6月まで闘い抜いた。

 しかし、全国反戦再建以降、顕著になったのは新左翼諸党派の内ゲバを含む対立の激化であり、反戦青年委員会の党派軍団化である。結成スローガンとしての自立・創意・統一を掲げた反戦青年委員会運動は、労働疎外と労働組合の官僚化が進む青年労働者の日常から、そのみずみずしい感性を解き放つ場であった。彼らの エネルギーは街頭闘争での戦闘的デモンストレーションで噴出すると同時に、職場における支配の網の目を突き破る職場反戦の運動としても体現されていた。ところがこの時期、反戦青年委員会では職場と街頭が対立的運動スタイルとして語られ、職場に重点を置く主張は、中核派などから“日和見主義”の代名詞として批判の的になった。(中略)しかし、右傾化する労働運動と対峙して、職場の変革と社会の変革の双方を貫く闘いを模索しようとすれば、自主管理社会主義をイメージする職場反戦や産別反戦の主張が出てくるのは当たり前である。(中略)ところが「根拠地」的な存在(職場反戦、産別反戦を主張する潮流―引用者)は、その後の反戦青年委員会運動の中で多数派を占めることはなかった。反戦青年委員会に結集する多くの青年労働者は軍団としての党派反戦の側に獲得されたのである。68年に垣間見られた社会革命的な運動の要素があっけなく消え失せ、カリカチュア的なレーニン主義に基づく党派軍団化の道に圧倒的多数の反戦青年委員会運動がなぜ進んでいったのか。その原因は、日本の政治・経済・社会構造の何に由来するのか。反戦青年委員会を取り上げたこの論考で私が言いたかったのは、この点の総括の進化なのである。全国反戦の解体も、実はこの点と深く絡み合っている。
全国反戦世話人であった今野さんが、その解体を71年6月と明言したのは理由がある。全国反戦主催の沖縄闘争の集会が明治公園で行われたが、その場で中核派、解放派の反戦部隊が激突したのである。反戦青年委員会の主軸をなした両党派の軍団化した部隊による内ゲバ的激突によって、総評の鬼っ子といわれた反戦青年委員会は、名実ともに終りを遂げた」。
<江藤正修略歴> 1944 年 8 月 17 日生まれ。1964 年法政大学文学部入学、1968年社青同埼玉地本書記長、埼玉県反戦青年委員会事務局長、1974年第四インター日本支部加盟。1992年労働情報編集長。2017 年 5 月 24日永眠。享年 72 歳)
<註2>
 鈴ヶ森ランプには「入口」と「出口」がある。「入口」から入ると、この道は東京方面に向かってい る。「出口」は、文字通り出口である。しかし、「出口」から入り、これを逆走すれば羽田空港に向かうことができる。だが、1967年 10・8当日全学連部隊は、このことを認識していなかった。そして、 「入口」から突入した。このため、「東京方面」に進撃することになったのである。途中で気がついて方向転換するが、幸か不幸か、警視庁が羽田空港防衛のためこの区間を車両 通行止めとしたため車は来ず、悠々逆走できたのである。当時の三派全学連書記長T(解放派) の話によれば、10・8、3 日前に解放派指揮者を乗せ高速を走り、現地を下見したという。しかし、「肝心な時に間違えて…」と話してくれたが、この間違いは仕方ないと思う。 あの頃「四輪自動車」の運転免許証を持っている学生など僅かで、日常的に運転している者など皆無、高速道路を運転したことのある者などいなかったのではないか。ことほど左様に当時の闘争はどこか抜け落ちていることがいっぱいあり、決意に満ちた真面目なものであったが、笑い溢れるおおらかなものであった。そして特質すべきは、闘争の経路―「京急大森海岸下車―高速道突破」の指示は、部隊の責任者のみに限定され、事前に漏れることはなかったことである。警視庁は、「鈴ヶ森ランプから全学 連乱入」の報を聞くまで全く知らなかった。「寝耳に水」であったことだ。
<註3>
 「ゲバ棒」について この時登場した「ゲバ棒」・「角材」についていえば、「闘争前日、中大で机、椅子を壊して作った」説と「大森海岸駅で線路に飛び降り、線路に敷き詰められた石をもって駅前に出たとき、路上に止められていた「1トンの平ボディートラック」に山積みされた角材があり、これを持った」説と二説あるが、この二つとも正しい。前者は私も現認している。後者は、当日全学連総指揮の一人だったY(横浜国大・社青同国際主 義派)に確認している。そして、三派全学連書記長Tは、「角材は、解放派がトラックに積んで用意した」と話してくれた。さらに「ヘルメット」についていえば、10・8では指揮者も含めてほとんど被っていない。高速道路突破の最先端を担った各派の指揮者もノンヘルがほとんどである。第二次羽田でデモの最先端にヘルメット姿が見られるが、部隊のほとんどはまだノンヘルである。「ヘルメッ ト、角材」が大衆的に登場するのは1968年1月の佐世保闘争からである。この時角材は、ブントが鳥栖駅から列車で持ち込んだのと佐世保現地の材木屋に行って「なにがしかの金を置いて」手にした覚えがある。ところで、10・8の「角材」について「本当は、対中核派用に用意された『ゲバ棒』だ」というデマがまことしやかに流れているようであるが、これは全くの嘘である。10・8前夜、中核派への抗議で法政大に向かった時も「角材」を持って行ってはいないし、10・8 当日、「高速道路突破前に中核と衝突すること」などありえない。当時の指導部に「中核派とのゲバ ルトのための角材」など考えたものは一人もいない。中核派が萩中公園に登場する前にわが部隊は、鈴ヶ森ランプ突破行動を開始しているのである。中核派もまた「高速道路突破」戦術は「寝耳に水」だったのである。噂は、「社学同ML派」筋からと聞いたことがあるが定かではない。社学同ML派と10・8羽田闘争についていえば、「ML派は10・8羽田闘争にはいなかった」というのが真実ではないか。当時、横浜国大のML派は、10・8羽田闘争を一度も呼びかけていない。
<註4>
 柄谷行人(1941年生まれ、哲学者)は、著書「可能なるコミュニズム」(2000年1月、太田出版) の「序言」の中で「学生運動」の重要性に触れ、次のように書いている。「・・・最後に、そして最も重要なのは学生運動の問題である。日本の学生運動は、戦後、全日本学生連合―学生のアソシエーションとして始まっている。それは、戦前、あるいは、今日のそれとは決定的に異なっている。それは、学生を、階級ではないが、一つの階層、その成員が数年で入れ替わるとしても総体としてはつねに存続する自立的な一階層として見る考え方に基づいている。それは政党や労働者の運動とつながることはあっても、それらに従属することなく、普遍的な課題を自立的に追及すべきである。これは、全学連を組織した初代委員長武井昭夫(てるお)氏の考えであった。そのことを知る人は稀だが、実は、ブント全学連から全共闘に至るまで、この武井氏の考えが貫かれていたのである。しかし、それをつねに脅かし破壊する考えが、マルクス主義の主流―旧左翼であろうと新左翼であろうと-にあった。それは、革命の主体は労働者であり、また、生産過程にこそ闘争の中心があるというものである。だから、学生運動は副次的であり、労働運動に従属すべきだということになる。しかし、実際のところ、生産過程(職場)で労働者が「主体」であることなどありえない。したがって、学生は革命家としてそこに入り込んで、彼らの意識を変えなければならないということになる かくして、学生運動は革命政党に従属し、あるいはその養成所でしかないということになる。これは戦後の初期から、全共闘の時代にまで存在した問題である。事実上学生運動しかなかったにもかかわらず、それがいつも否定されてきたのである。その結果、日本では、労働運動のみならず、学生運動そのものが実質的に消滅してしまった。私は、それがポストモダニズムに固有の現象だとは思わない。それはむしろ日本的な現象である。実際には、学生たちは何かをやりた がっている。しかし、そうすることができないのは、かつての新旧左翼が亡霊のように徘徊しているからである。阪神大震災の時、私は多くのヴォランティア学生を目撃したが、それはまさに学生運動であった。もともと学生運動は根本的にヴォランティアだったのだ。それを否定する理論が学生運動を破壊したのである。資本への対抗運動の中心を、流通過程、つまり、「消費者としての労働者の運動」に見出すならば、学生のもつ意味は決定的に変わってくる。学生は労働者ではないが、将来において労働者となる。その意味で、学生の運動こそ「消費者としての労働者の運動」を観念的に先取りするものである。学生の考え方は抽象的で普遍的でありすぎる、という非難は、的外れである。むしろそうだからこそ、価値があるのだ。労働運動や市民運動は、具体的な利害によって左右される。もちろん、個々人はいつまでも学生でいるわけではない。しかし、階層としてはつねに存続する。学生運動は、政党・市民運動と連帯することがあっても、それに従属すべきではない。また、それは、かつての学生運動の真似をする必要はない。まして、元左翼のノスタルジーに付き合う必要はない。それは独自のアソシエーションの方法を編み出すべきである」。
※柄谷行人氏は、1960年に東大に入学。すぐ60年安保闘争に飛び込んでいる。安保闘争後、柄谷氏は三派に分かれ論争するブントにあって、駒場グループとして「中立」の態度 をとっている。ブントが解散したあと、1961年5月に柄谷氏は「社会主義学生同盟」(社学同)の再建を構想する。先ず、駒場で「社学同」を再建。それをもとにして全国的な社学同再建のアピールを書いた。このアピールは、「無名の学生が書いた」といわれているが、書いたのは柄谷行人氏。柄谷氏はこのことについて、次のようにいっている。「僕は、社学同再建にあたって、前衛党としてのブントを目指すことを否定しました。僕が考えていたのは、事実上「全共闘」のようなものだといってよいと思います」(「政治と思想」2012年3月刊、平凡社ライブラリー) 以上、N氏の紀行である。10・8羽田闘争を巡る三派全学連の内部の動向について、正面から書かれたものは今まで公表されなかったと思う。そういう意味では、貴重な証言である。 (終)
※ 10・8羽田闘争を報じた「戦旗」(1967.10.15)を「新左翼党派機関紙」にアップしました。 http://www.geocities.jp/meidai1970/kikanshi.htm
l 《参考》
「全学連声明」(1967 年 10 月 13 日 「戦旗」第 113 号 10 月 25 日)
「激動の六〇年代とマル戦派」 (成島忠夫『全共闘三〇年 時代に反逆した者たちの証言』1998年)
『革共同政治局の敗北革共同政治局の敗北 1975〜2014 あるいは中核派の崩壊』 (水谷保孝、岸 宏一 2015 年)
『天皇制とニッポン文化の超克 横結の時代』(高橋孝吉 2008年)
「10・8闘争とその功罪 インタビュー」(高橋孝吉『情況』2017 年 10 月号

【れんだいこ見解】


 2009.3.3日 れんだいこ拝




(私論.私見)