戦後学生運動、補足余話

 (最新見直し2006.5.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここには、「概略戦後学生運動論」に納め切れなかった「余話」を書き記す事にする。「余話」としたが、いずれも重要な補足であると自負している。

 20006.5.18日 れんだいこ拝


補足「日本共産党第8回党大会」について
補足「4.17スト」について
補足「全共闘運動雑感」
補足「民主連合政府樹立運動について」
補足「統一戦線と共同戦線の識別考」
補足「全共闘運動及び思想考」

【補足「日本共産党第8回党大会」について】(1999.12.20日)

 党は、61年になって「日本共産党第8回党大会」を開催しており、この経過は今日的に見ても見過ごすことが出来ない部分が多いと判断し、別立てでウオッチしておくことにする。その理由は、今日「さざ波通信」誌上で指摘されている党の非民主的運営の原型のほとんどがこの「日本共産党第8回党大会」前後のプロセスに現れていると思われることによる。もう一つの理由は、今日の党を支持する最後の絆として綱領路線への依拠が言われていることに対しても、無慈悲ではあるがそれは党支持の基準にはならないということを指摘したいためである。

 私の意図は、現執行部の依拠する正当性に対して根本から否定を試みようとすることにある。私の精神においては、このことと党の支持・不支持とは一切関係ない。党は党であり歴史を持つ。新時代のよりましな社会の仕組みづくりに向けて奮闘して貰いたいと思う。社会にそういう緊張感があってこそ世の中は良くなると信じている。現下の風潮は左翼の不在であり、これは却って国を危うからしめると思っている。

 「日本共産党第8回党大会」について

 1月、ソ連共産党第22回大会におけるフルシチョフの公然たるアルバニア批判と周恩来のそれへの反論によって中ソ論争が公然化している。アメリカではケネディー大統領が就任している。この頃党は、党内に構造改革派が発生し大きく揺れている。2月、党中央は、東京都千代田区・東京都・大阪府・その他の党会議において、構造改革派系革新派分子に圧力をかけて役員から排除している。2.15日、学生新聞を創刊して、構造改革派に握られた「全自連」の指導権回復に乗り出している。

 3.1−13日と25−28日までの2回にわたって「第16中総」が開かれた。この間58年の「第2中総」で設置された「綱領問題小委員会」は、都合29回の会議を経てきたが、この「第16中総」に決議用「綱領草案」が提出された。しかるに「綱領草案」は大激論を生み結局満場一致とならず、中央役員44名中、4分の1に近い10名が反対又は保留した。内訳は、中委31名中、亀山・西川・山田・内藤・波多の5名が反対。神山・中野の2名が保留。決議権を持たない中委候補6名中2名が反対。また中央統制監査委員7名中、議長の春日(庄)が反対。また中委の政治報告草案についても6中央委員が反対し、中委候補2名が保留した。結局最終日の3.28日、「綱領草案」は多数決で決定された。

 綱領問題に決着が付けられるまでに2年半の経過を要したことになり、かなりの難産であったということになる。この時、大会議案に反対と保留の中央委員または中委候補は、自らの意見を下部の機関や組織で述べてはならず、400字詰原稿用紙25枚以内にまとめた意見書を、希望によって党報に発表することが出来ると決められた。以後、党中央による綱領反対派に対する統制・抑制・官僚的圧迫が強化されることになり、予備工作が進行した。

 4.12日、アカハタは、「さしあたってこれだけは」のアピールの発起人としての責を問われた関根弘(除名)と武井昭夫(1年間党員権停止)の処分をページ全面に発表した(中委書記局「関根弘ならびに武井昭夫の規律違反に関する決定の発表にあたって」)。4.17日、アカハタはこのアピールに賛成して中央の説得に従わなかった数名の同志が、規律違反の処分を受けた顛末を報じた。数名の同志とは、主に「新日本文学会」に属する小林勝・柾木・岡本・大西・小林祥らの作家・評論家たちであった。

 4.30日、アカハタ特別付録として「綱領草案」が、5.3日、アカハタ特別付録として「中委政治報告草案」が発表された。第7回大会の時は、「党章草案」が57.9月に発表されて、翌58.7月に大会が開かれたのだから、10ヶ月にあまる討議期間があった。この度は7月下旬に予定された大会まで3ヶ月に足らなかった。5.6−8日、都道府県委員長会議において、中央から綱領討議に対する厳重な規制が指示された。以後7月にかけての都道県党会議において、革新反対派への抑圧を強化し、反対派議員の排除が強行されていった。5.9−11日、全国活動者会議。5.13日、アカハタに規約一部の改正草案が発表された。

 6.9−10日、「第17中総」で中央反対派の意見発表中止を決めた。6.12日、アカハタは、「大会での討議は議案への賛否をあらわすことではなくて、議案の正しい理解によって各自の誤りをただすことである」という語るに落ちる党官僚の放言を掲載していた。

 6.14日、論文「革命理論の形式的な理解と日本の現実への創造的適用−社会新報の綱領草案批判にこたえる」をアカハタに発表した。こうした中央主流の露骨な策動に対して、反対派の動きははなはだ力弱く、不十分であった。主流派が規約違反の勝手な専断ぶりを示しているのに、反対派は日頃言い含められてきた組織原則を守って対抗運動にでなかった。これらの反対派の中にあって特殊な立場を示したのは、党内左翼反対派を自称する中共路線支持のレーニン主義者集団であった。彼らは、宮顕ら党中央の官僚主義指導と統制を激しく非難しつつ、同時に構造改革論者をも現代修正主義として批判した(村崎泉美「第8回党大会と最近の党内情勢」団結第17号)。

 党中央は、反対分子の多いと見られる地方組織に主流派幹部を派遣して、党会議を統制し締め付けをはかった。都道府県党会議の段階で、反対意見を封じ反対分子を排除してしまえば、党大会は彼らの意のままになる道理だった。ここに草案反対者は機関として推薦できないとして、あらかじめ代議員候補のリストからはずすといった規約蹂躙の工作が、全国的に展開されていくこととなった。とりわけ、東京と大阪が集中的な目標とされた。野坂・宮顕・袴田・志賀・松島・聴濤・土岐・川上らが手分けして各県の党会議に乗り込んで反対意見を封殺していった。

 この間、先の16中総の申し合わせで春日(庄)以下10名から提出された意見書の内容は党報へ掲載される権利が留保されていたが、「16中総」の決定をゆがめて伝える恐れがあるという理由で、結局約束は反故にされ、党報への掲載が中止されることとなった。大会直前に発効された前衛8月号には、志賀・袴田・松島・米原らの草案支持の論文をずらり揃えた上で、内藤・内野(壮)・波多らの反対意見書を投稿扱いで載せた。

 府県から地区に至る党会議や委員会総会は、すべて草案を踏み絵として党員を点検する検察の場と化し、大会代議員の選出は、選考委員会によって推薦名簿の段階で厳重にふるいにかけられ、批判意見を持つ代議員候補者は、ほとんど故意に落とされた。「中央は絶対に正しい」、「中央に忠実な機関は又正しい」という詭弁が党の組織体質として定着化していった。この結果、7月上旬までに全国にわたってほぼ終了した大会代議員の選出では、綱領反対派又は反中央分子とみられるものは完全に近く排除されていた。799名のうちわずか10数名がそれではないかと見られたに過ぎない。

 このような状態になるに及び、党内の反対派は7.1日付けで遂に党の内外に公然とアピールを発した。千代田地区細胞(森田・栗原・津田・池山・深沢ら)が、綱領問題に関する意見を「日本人民と党の未来のために」の声明につけて発表した。7.8日、春日(庄)は離党届けを出し、同日夜記者団に、綱領草案の基本的な誤りだけでなく、反対派代議員の選出の組織的排除や反対意見書の発表の一方的中止措置などの措置によって、党内民主主義が踏みにじられ、原則的な党内闘争による改善の見込みはなくなったとする離党声明を公表した。

 7.15日、山田・西川・亀山・内藤・内野・原の中央少数派が連名で、14日付けの「党の危機に際して全党の同志に訴う」声明を発表した。大会を前にして現職の統制監査委議長が離党し、中央委員グループが公然と中央批判したことは前代未聞であった。

 7.19日、「新日本文学会」の党員作家・評論家グループは、中央委員会あてに、「中央は綱領草案の民主的討議を妨げたから、大会を延期せよ」とする意見書を提出した。安部公房・大西巨人・岡本・栗原・国分・小林祥・小林勝・佐多・竹内・菅原・野間・針生一郎・檜山・花田の14名が連名していた。中野は意見書を勧めながら、連名しなかった。

 7.20日、党中央は、「第18中総」で春日・山田六左衛門等7名を除名にし、この前後多数の地方機関役員その他を処分した。反対派への大々的カンパニアが展開された。7.22日、新たに泉・丹原・黒田・武井・玉井・中野秀人・浜田・広末・柾木の9名を加え、国分・佐多の2名を除いた「新日本文学会」の党員グループ21名が連署で党の内外に宮顕派指導部非難のアピールを発した。「今日の党の危機は、中央委員会幹部会を牛耳る宮本・袴田・松島らによる党の私物化がもたらしたものである」として、彼ら派閥指導部の指導の誤りと独裁的支配、規約の蹂躙と党組織の破壊の事実を挙げ、言葉激しく非難した。

 7.23日、野田・増田・山本・芝・西尾・武井ら6名の旧東京都委員会グループが、「派閥的官僚主義者の党内民主主義破壊に対する抗議」と題する声明を発表した。7.24日、増田・片山等が連署で離党声明を公表した。山田も。各地方の反対派の離党声明や中央攻撃声明など続々と発表された。大会を前にして党主流の派閥支配に対する怒りと不満が爆発して党の分裂状況が生まれた。

 これに対して、党中央は、7.9日、アカハタで幹部会声明と同日の野坂談話、7.10日、アカハタで野坂が、「春日(庄)の反党的裏切り行為について」、7.17日、「党破壊分子の新たな挑発について」で応戦した。その後は、全国各級機関にわたって、「反党的行為、裏切り分子、分派主義者、党破壊の策謀、修正主義者、悪質日和見主義」等々の大々的非難攻撃キャンペーンを開始した。この一連の過程で宮顕の秘書グループの暗躍があったとされている。

 7.20日、「第18中総」。党中央は春日ら7名の除名を規約を無視して決定した。この時、波多は綱領草案に対する反対意見を、神山は保留の態度をそれぞれ撤回した。党中央は、7.24日、武井、9.2日、大西、9.6日、針生・安部らを除名。大会までに発表された被処分者は、除名28名.党員権制限9名で、被除名者には中央委員7名、中央部員2名、元都委員8名、県委員1名、理論家及び編集者グループ10名が含まれていた。その他地方組織において、府県委員以下の離党又は処分が大量に見られた。

 以上の経過を経て第8回党大会が開かれることになる。こたびの党創立77周年記念講話で、不破委員長が満場一致で現綱領が採択されたと自画自賛したお気に入りの大会であるが、以下これを俯瞰してみることにする。

 7.25−31日、日本共産党第8回党大会が開かれた。審査を通過した798名の代議員。規約にある2年に1回という規定に反して、前大会から3年目であった。神山・中野の2中央委員と統制監査委員の松本惣は、病気の中委候補間瀬場とともに、どこからも代議員に選出されなかったため、決議権をもたない評議員の資格で出席を許された。大会の眼目は、新綱領の採択にあった。大会では、綱領・政治報告などを討議した。「春日庄次郎一派の反党的、反階級的裏切り行為の粉砕にかんする決議」を全員一致で採択した。反対派が全部排除されたため議案は全て全員一致で採択された。中央役員の選出は、中委原案通りにしゃんしゃんの全員一致で決定した。反党的潮流を日和見主義として全面的に批判し、綱領とそれに基づく政治報告を決議した。数十万の大衆的前衛党建設の目標を提起。党勢拡大と思想教育活動の総合2カ年計画を全党的につくり、取り組むことを決定した。

 万一綱領反対者が発言しないかと恐れた中央は、大会運営の厳重な統制をはかり、大会発言者には全て事前に発言の要旨を文書で提出させ、綿密に審査した後大会幹部団の指名によって発言を許可するということにした。野坂の政治報告・宮顕の綱領草案報告は、拍手又拍手の中で行なわれ、それらの討論は中央に忠誠を誓う儀式とかわりなかった。その後の大会討議においては、反対意見は姿を消し、綱領草案についてもこれの実践的検証を誓う没理論的発言か、草案反対派との闘争を手柄話にするお茶坊主発言が相次いだ。神山・中野・波多らは綱領草案支持を表明し、かつて反独占社会主義革命を主張した中西・鈴木らも自己批判して草案支持を明らかにした。志賀は、会期中発言らしい発言を一度もしなかった。こうして議案は綱領以下全て全員一致で採択された。

 このことを党史では次のように云う。

 概要「(大会が採択した綱領は、)党内民主主義が完全に保障されているもとで4年間にわたって全党的に討論を尽くし党の英知を傾けて創造された、日本人民解放の科学的な指針である」、「日本革命の正しい路線を歪め、党と労働者階級を米日反動に対する革命闘争からそらせようとする各種の日和見主義、右翼社会民主主義、トロッキズムなどとの激しい闘いによって、一層磨きをかけられたものであった」(日本共産党の65年)。

 7.31日の役員選挙は、無記名連記で行われた。新中央の大幅増員。中委は31名から60名。中委候補は6名から35名。統制監査委は7名から8名。新中央には、党勢拡大その他主流に忠実だった都道府県委員長・委員クラスが大量に登用された。前大会で責を問われて中委の候補者リストから外されていた旧所感派の悔い改め派・紺野ら数名が中央委員に復活した。神山・中野はかろうじて中委に入れられた。波多や神奈川県委員長として党勢拡大に好成績をあげた中西功などは中央に入れられなかった。

 大会最終日の31日と8.2日の二日間「第1回中総」を開いて、中委議長野坂・書記長宮顕、中委幹部会員として野坂・宮顕・袴田・志賀・春日正・蔵原・聴濤・松島・鈴木が、書記局員として宮顕・袴田・松島・米原・伊井・安斎・紺野・土岐・平葦・高原の10名を選出した。野坂・志賀は実質上棚上げされた。これに代わって宮顕・袴田という戦前の党の最終中央コンビが指導権を握り、その周辺に宮顕忠誠派の松島・きくなみらが配置された。こうして宮顕盤石体制が確立した。

 この当時の党の〈世界情勢に対する認識〉について。

 「アメリカ帝国主義は、世界における侵略と反動の主柱、最大の国際的搾取者、国際的憲兵、世界各国人民の共通の敵となっている」と認識した上で、「アメリカを先頭とする帝国主義に反対する民族解放と平和の国際的統一戦線を、世界の反帝民主勢力の当面の基本任務」として提起した。

 〈国内情勢に対する認識〉について。

  国家の独立をめぐっての「従属」規定が引き続き採用され、51年綱領の「植民地.従属国」から「高度の資本主義国でありながら、アメリカ帝国主義に半ば占領された事実上の従属国」と規定した。ここから日本を基本的に支配する者は、「アメリカ帝国主義とそれに従属して同盟関係にある日本の独占資本勢力との二つである」とする「二つの敵論」を一層明確に導き出していた。当面の革命は、「民族の完全独立と民主主義擁護の為の人民民主主義革命である」とし、これを社会主義革命に急速に発展させるべきだとするいわゆる2段階革命の戦略方針をとった。基本的に旧党章草案と同じであったが、旧党章草案時の「平和・民主・独立」と順位が替えられて「独立・民主・平和・中立」なるスローガンとなった。

 〈党の機関運営〉について。

 規約改正は反動的に改悪された。党大会の召集の延期、下級組織の委員の移動と配置、地方における中委の代表機関の設置、党員の多い工場や経営の危機に対する中委指導に必要な措置これら全てが新たに中央委員会で出来るようになった。中央の権限強化だけでなく、幹部会は必要な場合常任幹部会を置くことが出来、幹部会は中央統制監査委員会に出席することが出来るようになって、今や中委−幹部会−常任幹部会と、少数独裁制への移行の保証が与えられるに至った。他方、規律違反で審議中の者は6ヶ月の枠で党員権利を停止されることとなった。鉄の規律や一枚岩の団結が強調された。こうして次第次第に執行部独裁化方向へ規約の改正がなされていくことになった。

 この辺りの規約改正経過について、現党員はどのようにご納得されているのだろう。ちなみに、イギリス共産党は、58年の第25回大会で「党内民主主義について」という文書を発表しており、ここでは次のように語られている。

 「党大会の討論の際には、各支部の内部ばかりでなく、さらに党機関誌の紙上でも相争う見解が自由に発表され無ければならないということ、党大会前の討論には、我々の機関紙誌はこれまでよりもずっと大きな紙面をさく必要があるということを、疑問の余地のないこととして承認し、明瞭に言明しなければならない」。
 「大会前の討論の時期には、可能な限り広範な討論が開かれ、党機関紙誌は全ての見解と提案に目立った場所を与える義務があり、各支部は、大会日程に関する決議の中で、自分の政治的見解を述べる権利がある」。

 日本共産党は自主独立であるから、イギリス共産党が何を言おうと関知しないとでも言うのだろうか。


【補足「4.17スト」について】(1999.12.25日)

 この時期64年の「4.17スト」をめぐって信じられないことが党内に生起しているので、これを見ておくことにする。スターリン批判・ハンガリー動乱・第7回党大会・60年安保闘争・第8回党大会・原水禁運動そしてこの「4.17スト」への対応・経過を通じて、「左翼」が党に対する信用失墜を確定させることになったようである。「日共」という呼称が蔑視的な意味合いで使われていくことになったのが何時の頃よりかはっきりは分からないが、こうした一連の経過の中で定着したものと思われる。戦後の獄中闘士がカリスマ的権威を持って大衆に受け入れられていたことを思えば、隔世の感がある。

 総評・公労協は大幅賃上げ要求を掲げ、「4.17全国半日ゼネスト」を計画していた。90万以上を結集する交通運輸共闘会議(国鉄労組を始めとする私鉄・都市交通・全自交など)を芯にして公労協・金属労協等公・民を網羅する600(250万とも)万人のゼネスト計画であった。その規模と影響力から見て47年の「2.1ゼネスト」計画に匹敵またはこれを上回る戦後空前のストとなる筈であった。4.2日、総評は、決起大会的な意味を持つ第25回臨時大会を開き、最大のヤマ場を目前にして闘争態勢を堅め直した。

 この息詰まるようなせっぱ詰まった状況の中、党は、突如4.9日付アカハタ(「4.8声明」)で「奇妙な」声明文を発表する。「奇妙な」とは形式と内容においてという意味である。形式のそれは、単に「日本共産党」の名義のままの、幹部会でも中央委員会名でもない声明文を発表したという意味である。内容のそれは、「全民主勢力と団結し、挑発を排して、頑強に、ねばり強く戦い抜こう」という論文を掲載し、4.17ゼネストに対する警戒を指示したという意味である。

 声明文は、春闘を支持するといいつつ、「4.17半日ストの方針には『深い憂慮をしないわけにはゆきません』としていた」。その理由として、根本的にはアメリカ帝国主義と日本政府と闘うのではなく賃金一本で独占資本と対決しようとするやり方自体に誤りがあること、ついで闘争の成功に必要な全民主勢力との政治的統一行動の発展が見られないこと、労働者大衆には政治的・思想的・組織的準備が欠けていること、これに対し政府・資本家は弾圧と分裂の策略をめぐらしているから、闘争に入った労働者を政府と大資本家の弾圧・処分に身をさらせるようになること、しかもストライキ計画には、修正主義者・トロッキスト・組合内分裂主義者による挑発のにおいがあること等々が挙げられ、ここからアピールは、「総決起は危険でありその方針を再検討せよ」と提議していた。

 この声明は、ゼネストに向けて態勢の準備と確立に余念がなかった多くの組合幹部・活動家を憤激させた。総評事務局長岩井は、直ちに談話を発表し、「統一闘争の態勢を分裂させる者であり、階級政党として根本的に誤った態度である」と非難した。社会党の河上委員長は、4.17ストを断固支持するとし、共産党の態度を「労働者の気持ちを無視したやり方」と非難した。

 にもかかわらず、奇々怪々な党の方針は連続され、4.12日には再度アカハタ主張で、ストによる賃金闘争は全民主勢力の課題にさからっていると、賃金闘争そのものに攻撃を向けた(「共産党の『訴え』は当面の闘争の最大の武器である」)。続いて4.13日にも「4.8声明」同様単に日本共産党名義で「訴え」を発表した。「4.8声明」を説明しつつ、5項目の要求を提案しつつ、スト中止をあからさまに呼びかけた(「職場の組合幹部・社会党員・組合員大衆に訴える」)。4.14日にも同様の3度目の訴えを発表。スト闘争の笛を吹いているのはアメリカ帝国主義であり日本の売国反動であり組合内分裂主義者であるとして、スト全体を反共的謀略と挑発的ストの規定づけ一本に絞り上げ、一層強い調子でスト中止を叫ぶに至った(「労働者は反動と分裂主義者の笛に踊らされてはならない」)。

 この「奇怪な」党指導の経路と経過は今日まだ解明しえていない謎である。何らかの強力な指示と圧力があって、幹部会全体を無視し乗り越えていったことだけが確かである。この中央指示の誤りを批判し、拒否した数少ない動きに山口県党があった。「4.8声明」が出るやすぐに意見書を提出し、「訴え」を載せたアカハタ号外の配布を差し止める措置をとった。名古屋の中郵細胞は、「4.8声明」が出るや臨時総会を開いて、党の裏切りを痛烈に批判した決議を行ない、これを全国の諸団体に配布した。(「4.17ストを支持し、650万労働者の先頭に立とう−池田内閣と独占資本の手先となった日本共産党を弾劾する」)。愛知県委員会はあわてふためき、中郵細胞は正式に除名された。

 こうして、聴濤は、「このストを断行すると、政府は共産党を非合法へ追いやられる」という認識を基に「当局の挑発にのるな」と全党員にドタキャンでストップ指令を出し、4.17スト中止に向けて党員労働者を駆り立てていった。この当時既に培われてきていた宮顕執行部指導下の一枚岩体制が威力を発揮し、党のほぼ全組織が一斉に中央指示の実践に突入し阻止工作に走った。東京都委員会は各地区に対し、「4.17ストに党は三段構えで望む。第一段階はスト戦術の再検討を呼びかける、第二段階は指令を拒否する、第三段階(スト突入の場合)では党員・民青同員・アカハタ読者は戦線を離脱する」という口頭指令を与えた。こうした党の動きに対して「労働者を背後から撃つ裏切り行為だ」という糾弾の声が挙げられた(4.17ストを守る出版労働者の会「日本共産党に抗議し、4.17ストを守ろう!」)。

 共産党のスト阻止行為は、池田内閣の窮地を救った。内閣としては、ゼネストの実施は池田3選はおろか当面の内閣の運命も左右しかねなかった。党のスト中止声明とスト阻止行動が救いの神となった。体制側の方でも、当面の責任者たる国鉄当局などが一転逆転して攻守に出ることになり、組合側の切り崩しに向かうことになった。

 公労協を始めとする総評は、党に対し「組合破壊分子」・「スト破り」という一斉攻撃を浴びせることになった。4.12日、総評社会党員委員長会議は、太田・岩井以下主要単産から約30名が出席、「4.8声明は政治主義にたった誤りであり、特にスト直前に統一を乱したことは間違いである。党の決定を優先させ、組合機関の決定に従わない組合員は厳重に統制処分する。共産党が右のような態度を続ける限り、総評は重大決意をもって対決する」という方針を確認し、スト切り崩し者=党員労働者を処分していくことを決定した。

 党員労働者が労働組合から処分されていくという事態は、党の権威を大きく失墜させ、組合運動・大衆運動への影響力を大幅に後退させる結果となった。労働運動内部からの執拗なこういうスト切り崩しがあっては総評も戦えない。こうして、かってない混乱と内争のうちに、戦後最大を予想された大ゼネスト計画は、組合側の大勢が引き続き真剣にスト突入の意志を持ちながら、池田・太田会談によって、4.16日スト中止が決められ挫折させられることとなった。

 ストが不発となるや、党は、4.17日、アカハタに4度目の声明を掲載し、「(スト中止は)組合運動の偉大な転換をかちとった(労働者の大勝利であり、ストを利用して組合内活動家・進歩勢力を一掃しようとする)反動と分裂主義者の策謀はくじかれた。しかし、彼らは新しい策動をもくろみ、スト中止の責任を共産党に帰してはやくも反共宣伝に乗り出している」と強調した(「あくまで、挑発、分裂とたたかい、職場の団結をかため、職場を基礎に闘争の態勢を強化しよう」)。この観点から土岐強・高原晋一・春日正一ら党幹部が党内外の雑誌に論文を発表した。

 他方、4.24日、党内に主流派指導部の思想・方針・実践の誤りを全面的に追求し、その論拠を明らかにした秘密文書(「無署名パンフ「真実を曲げることは出来ない−4.17ストに際して日本共産党指導部が果たした役割」)も現れた。文書は、「党の3声明が、党が不思議にも日本独占資本の責任については何一つ追求していないこと、奇妙にも労働者の正当な賃金要求にほとんど触れていないことで共通している」と指摘した。「日本独占にとって最大の打撃の一つとなる賃金闘争を無視することにより、党指導部は労働者の利益を裏切り日本帝国主義に協力する立場に転落した。賃金闘争・スト闘争の意義を理解できない指導者は、結局日本帝国主義に降伏し、その手先になりさがってしまう。党指導部は、4.17スト圧殺に協力することによって、日本帝国主義を強化させ、それによってアメリカ帝国主義のアジア政策補強を分担した。日本の労働戦線・民主戦線の分裂の主な原因も、指導部の反米闘争一本やりの方針押しつけにある等々、この文書は党指導部の誤りとその根源を究明していた。文書はさらに、党生活が現在レーニン主義的規範とほど遠く、真剣な自己批判と相互批判、下からの点検などによる民主的な党生活の作風は押し殺され、党内には命令主義・官僚主義・出世主義が横行するありさまだ。指導部のあせりが強まると、大言壮語の声明が乱発され、退屈な長大論文がアカハタに次々と載る」と、党内の組織批判をも舌鋒鋭く述べていた。

 こうして、党の4.17スト反対戦術は社会党・総評労働者の大反発をくらい、責任問題が発生することになった。この時党の最高幹部がどう対応したか。宮顕と袴田はこの時中国にいた。宮顕は帰国して、まず聴濤を統制違反で処分し、「あれは党の意志ではなかった。一部幹部の暴走によるもの」と公労協に詫びを入れ一件落着にしている。聴濤は、4.17スト中止指令は党の最高幹部による合議であっただけにショックを受け、翌日から党に出てこなくなり、翌年怪死を遂げている。死因は急性心機能不全と記録されている。指揮を執った高原が責任を問われず、下部党員でしかなかった聴濤克巳幹部会委員と労働組合部長竹内七郎が解任という変則処理となった。

 党が、この問題で、党の思想体質と組織体質の致命的な欠陥と弱点、加えて反動的本質を明確にした。宮顕式綱領路線「二つの敵論」の本質は「二つの敵の使い分け論」であり、「二つの敵」に対決していくための論ではないということを知らしめることになった。労働運動や労働者闘争が4.17ストのような条件闘争的な改良経済闘争であれ、「60年安保闘争」のような政治闘争であれ、日本の政治体制や国家権力との直接の対決を目指して国内的課題が最大争点として沸騰しつつある場合にきまって、一つの敵アメリカ帝国主義との闘争に向かおうとさせ反米独立・民族解放の任務を第一義的に押し出してくる。ひたすらアメリカ帝国主義への闘いに収斂させ、しかも労働者の階級性抜きの人民一般的幅広闘争形態での政治闘争・反米闘争に集約させる。他方、国内の運動がアメリカ帝国主義との闘争に向かおうとした場合には、急進主義者の挑発性をなじり、穏和化路線で分裂を企図する。専ら国内的課題に目を向けさせようとして議会闘争・部分的な経済闘争の成果を語ることになる。

 いずれにせよ、どうやら宮顕式「二つの敵論」の本質には、闘わないための使い分け方便理論ではないのかという胡散臭さがある。にもかかわらず、「中央の決定は絶対正しい。その無条件実行は又正しい」という独善的な官僚主義の押しつけと、これを拝戴する下部機関・一般党員の「中央盲従」、「服従」、「あやつり人形」化が次第次第に完成していくことになった。いつの間にか一枚岩的組織体質、上意下達運営方式を双方が誇るというサド−マゾっ気の交互関係が定着していくことになった。その「生き甲斐」が語られるが、こうなると宗教的喜びに近い。もし、このような組織が機能するとしたら、恐ろしいほどの建前・形式主義を助長すること無しにはありえない。建前・形式主義は奥の院での腐敗をはびこらせ、下っ端官僚の処世要領の上手に出来ない者から順に心身症患者を生み出していくことになるというのが古今東西組織盛衰の法則である。党に限ってこの法則から逃れていることを願う。


【補足「全共闘運動雑感」】(2000.1.9日)

 初めに。ここで考察しようとしている全共闘運動は、あくまで大学生運動であり、中卒・高卒者を含む青年労働者をも巻き込んだ広範な政治運動までには発展していかざる枠組み内の限定的エリート的な学生運動であったという階層性に注意を喚起しておきたい。この「青年左翼闘争に於けるエリート階層性」という特質は、日本共産党の結党以来宿阿の如くまといついている日本左翼運動の特徴であり、どういう訳かマルクス主義を標榜しながら労働者階級を巻き込んだ社会的闘争には一向に向かわないという傾向が見られる。

 全共闘運動は、全国規模の学園闘争として「60年安保闘争」に勝るとも劣らない運動を展開させていくことになったが、「かの戦闘的行為」に対して庶民一般大衆が抱いた心情は、「親のすねかじりでいい気なもんだ」という嫉視の面もちで受け流されていた風があった。このこと自体は発生期の事実的特徴として必要以上には批判的に問題にされることもないかもしれないが、運動の主体側の方もまた「ある種のエリート意識に囲い込んだまま」終始させていたということになると問題にされねばならないように思う。この観点からすれば、代々木系も反代々木系も同根の運動であり、これは日本の左翼運動の今に変わらぬ病弊のように思われる。つまり、「ブ・ナロード」の能力を持たない自閉的エリート系左翼運動が今日まで続いているという負の現象をまずは認めておこうと思う。

 私論になるが、そうであるにせよ、この当時このような学生左翼青年を澎湃と排出せしめた要因は何であったのだろうか。当時の国際的なスチューデントパワーの流れ、国内外の社会情勢、社会主義イデオロギーが幅を利かせていた象牙の塔内の動き等々にも原因を求めることも出来ようが、私は少し観点を異にしている。恐らく、戦後自由を得た日本共産党の党的運動が急速に社会の隅々まで影響を及ぼしていった先行する事実の余波があり、当時の党運動の指導者徳球書記長時代の穏和路線から急進主義をも包摂した野放図な運動の成果が底バネになって、はるか20年後のこの頃の青年運動に結実していったのではないのか、という面も考察されるに値するのではなかろうか。

 徳球時代には、戦前−戦後を通じて我が身の苦労を厭わず社会的弱者の利益を擁護して闘った共産党員の「正」の遺産が継承されており、この遺産がとりわけ青年運動に対して大きな影響を与え続けていたのではないのかという評価をする必要があるのではなかろうか。ということは、徳球執行部の運動の成果を、「50年問題について」的に彼の没理論性の面や家父長的な指導による非機関主義的な党運営手法等の否定的面をのみ総括して済ますやり方は酷であり、そういう総括の仕方は非同志的な宮顕式の処理法ではないのかということになる。何にせよ如何にして時の青年を取り込むのかは非常に大事なキーワードであり、この点においてむしろ徳田時代の党運動は成功していたのではなかろうか、と思う。徳球書記長の没し方を見ても分かるように彼の深紅の闘志は本物であったのであり、その懐刀伊藤律の場合も然りである。徳球時代は、戦後直後のわずか6年有余の実績の中でさえ、確実に明日の党建設につなげる種子を蒔いていたのではなかろうか。

 ということは、今日の党運動における青年運動の肌寒さが逆に照射されねばならないことを意味する。宮顕式党路線の真の犯罪性は、彼らが執行部に納まって以来50年にもならんとするのに、青年運動を全く逼塞させてしまったことに顕著に現れているように思われる。その長期にわたるいびつな党指導の結果、今日においては共産党の「正」の遺産は既に食いつぶされてしまったのではないのか。今日の党員像は、かっての周囲の者に支持されつつリーダー的能力を発揮していた時期から大きく脱輪しており、体制内「道理」化理屈による非マルクス主義的「科学的社会主義」運動方向へ足を引っ張るややこしい行動で周囲から「只の人」扱いされるそれへと移行しつつあるのではないのか。

 果たして、青年運動を牢とした枠組みで括って恥じない宮顕−不破執行部は日本共産党の党運動の正統な継承者なのだろうか、疑問を強く呈してみたい。ちなみに、私は、宮顕「個人」にとやかく言っているつもりはない。憎悪すべくもない見知らぬ人でしかない。党の最高指導者としての氏の政治的立場に対して批判を加えているつもりである。弱きを助け強きをくじく精神を最も誇り高く持ち合わせて出発した日本共産党の党是の精神を尊びたいがために、そのような精神とずれたところで党の頂点に君臨し続けた氏の政治的責任を追及しているつもりである。指導者の影響力はそれほどに強く、政治的責任というものはそれほどに重いと思うから。

 もう一つの私的な観点からの考察を添えておく。非マルクス主義的な捉え方のようにも思うが、仮説として考えている。どなたのルポであったか忘れたが、韓国・中国・フイリッピン・ベトナムと旅をしてみてベトナムにやって来たとき一番ホットしたと言う。まるで故郷に先祖帰りしたような気持ちになったという。ルポ作家がこのように民族的同一性を文学的に表現しているのを読んだとき、私には思い当たったことがあった。

 わが国でひときわベトナム反戦闘争が沸き起こったことには民族的同一性からくる義憤という目には見えない根拠があったのではないのかと。最新の生物分子学におけるDNA研究の語るところに拠れば、遺伝子は過去の生物的進化情報を記憶しており、この情報は何らかの底流で「生きている」とも云う。つまり、わが国におけるベトナム反戦闘争は、血を分けた同胞がアメリカ軍によって苦しめられている様を見て先祖の血を騒がせたのではなかったのか、という仮説に辿り着く。その根拠を今現在の科学的水準で説明することは難しいが、そういうことはありうるという超常現象的考えを私は持っている。

 更に指を滑らせれば、この血の同盟による日本−ベトナム民族こそ、16世紀以降の欧米白色イズムに互して唯一といって良いほどによく闘い得た民族であるという歴史的事実があり、こうした認識の仕方はもっと注目されても良いとも思ったりしている。簡単に言えば、日本−ベトナム民族は、自治能力と民族的イデオロギー形成能力の高い民族ではないかということであり、この点に関しては我々はもっと自信と関心を持てば良いのではないのか。

 ただし、これが「負」の面に立ち現れれば、欧米白色イズムに勝るとも劣らない隣接諸国に対する侵略者としても立ち現れることにもなる。大東亜戦争はその大義名分にも関わらずこの「負」の面の現われであり、解放後のベトナムのカンボジア・ラオス他侵略的な政策もまたそうであるように思われる。とはいえ、大和民族の優秀性とは言ってみても、第二次世界大戦における敗戦と今現在進行させられつつある国債大量発行自家中毒的経済的敗戦渦中は、その能力の二番手性をも証左しているとも思っている。アングロ・サクソン系の賢さには及ばないということである。ワンワールド化時代におけるこういう民族的自覚と認識は保持していて一向に差し支えないとも思っている。

 話を本題に戻す。全共闘運動は、ノンセクト・ラディカルの澎湃な出現を前提とせずには成立しなかった。興味深いことは、ノンセクト・ラディカルと新左翼各派の統一連合的運動として全共闘が結成されたが、運動の初期においてはこの運動の主導性を行動的にも理論的にもノンセクト・ラジカルの方が握っていたことである。このパワーバランスが次第にセクトの方へ揺れていくのが全共闘運動の経過となった。ノンセクト・ラディカルが非党派を良しとしていた背景に理論的優位性があったためか、単に臆病な気随性のものであったのかは個々の活動家によっても異なるであろうが、全共闘運動が、ノンセクト運動の可能性と限界性を突きつけた史上未経験な実験的政治的左翼運動であったということは相違ない。

 この運動の実際は、歴史の不思議なところであるが、片や最エリート校東大と典型的なマスプロ私大日大という両校によって担われることになった。その要因として、たまたま両校に有能な活動家が出現したということと、両校に教育政策上の権力性がより強く淀んでいたことが考えられる。それにしても、この時期党派であれノンセクトであれかなり広範囲に左翼意識者が雨後の竹の子の如く出現し続けた訳であり、今日的水準からすればよく闘い得た素晴らしい青年運動であったと思われる。なぜこのように評価するかというと、あれは立派なコミニュケーションであったと思うから。コミニュケーションの通過性こそ人間存在の本質性だと思うから。現在このコミニュケーションが矮小化させられていると思うからである。

 今日全共闘が懐かしく回顧されつつある理由として、「大学の自治」という美名の中に牢として秩序化されていた講座制という権威的封建主義と功利的近代主義の両面に対してよくぞ闘い得たという「正」の面の評価が挙げられる。全共闘運動の精髄は、既成の権威・価値・装置の全てと自己の存立基盤を疑い、アナーキーな問いかけで社会に問題を提起した姿勢にあった。彼らのこの当時の「訴え」は今なお有効であり、否ますます有効さを示しつつある。

 元々彼らの問いかけは、ベトナム戦争に対する義憤に発したと思われるが、これを極めて思弁的に語った。彼らの論理は、単にベトナム戦争に白黒の政治的立場を表明するに留まらず、米帝国主義に加担して太り続けようとするわが国の人格的(というのも変だが他に適当な言葉を知らないので)在り方を凝視し否定することで普遍性を獲得していた。それは、大量生産時代の物資的な豊かさに呑み込まれつつあった時代の「先進国的豊かさ」を享受しようとして競争している「体制」に対する反逆の狼煙となっていた。

 今この姿勢の真価が評価されようとしている。あの時代から今日まで世界の資本主義体制は、ますます経済的利益最優先論理の下に資本を爛熟させてきたが、現在我々はこのことによって失った代価もあまりに大きいという現実を突きつけられている。公害の発生、空気・河川・大地・食物等の環境複合汚染、当然我らが体内もまた同様の汚染が進行していることが考えられる。危険極まりない原子力発電化、生態系を無視した森林伐採、生物・動物の乱獲、政治も教育も医術も算術優先化させたことによる精神の荒廃・人々の相互疎外化等々は、「既存的な豊かさ享受の論理」と矛盾を深めつつある。

 今日のこうした情況は、もう一度「あの問いかけ」に戻ってみる必要があるのではないかということを訴えつつあるように思われる。「否定はまず自分自身に向けられた。徹底的な自己否定なくしてはいかなる肯定もあり得ない内なる個の否定」、「我利我利亡者的エゴイズムの徹底的破壊。我らの闘争の根元的な拠点」(進撃3号「砦の狂人たち」)は、こうした感性の表現であるように思われる。

 こうした全共闘の「訴え」の歴史的背景には、丁度中国で毛沢東が紅衛兵に呼び掛けていた「造反有理精神」の発揚があったものと思われる。実際には紅衛兵運動は政治主義的に利用されたようではあるが、わが国ではその理論面が輸入された。前述したように儲け合理主義一辺倒がとめどなく進行しつつあったあの時代において、全共闘の「体制」に対する「違和感」がこの「造反有理精神」と結合したとき、ベトナム戦争を通じてヒルの如く戦争の血を吸って高度成長しつつ、帝国主義的に世界列強への仲間入り政策を進めつつあった国家体制に対する「叛乱」へと進むことを良しとさせたのではなかったか。

 自己の存在が否応が無くこうした帝国主義的な成長過程に組み込まれていることに対する反逆として「自己否定運動」というものを生み出しつつ決起せざるをえなかったのではないのか。こういう「体制」はまずもって「解体」されるべしと。「自らが日々従事している『平和』的な労働=生産こそ、日本の侵略加担の巨大な構造を支えている歯車であり、まさに血に汚れた『人殺し』労働なのではないのか」(共労党)という「訴え」はこの辺りのことを表現しているように思われる。

 この論理は、東大闘争における医局員の次のような論理に見て取れる。「東大闘争は、医学部に於ける青年医師連合の基本的権利を守る闘いと、医療部門における人民収奪の強化、及び医学部に於ける研究教育体制の合理化=帝国主義的改編への闘いを発端として火の手を挙げた。そして独立資本との産学協同を推進する国立大学協会自主規制路線の下に、この闘いを圧殺しようとした東大当局に対する叛乱として展開される」ことから始まった。

 この叛乱は、曰く研究の自由に措定されている階級性の告発、曰く特権的身分の否定、曰くこれらの告発に何一つ答えることが出来なかった知性の府の腐敗の告発を通じて、やがて学問的営為全体に対してブルジョワ的という名を賦与してまず「否定」から始められねばならないという運動を創出していくことになった。この論理が共感を生みだしていくことになった。

 これを社会的関わりの中で見据えれば、概要「産学共同路線の実体は、大学の産業(資本)への従属であり、企業からの資本投入による安価な受託研究施設として機能し、安価な人材養成機関と化し、研究者の自立した研究を妨げる。研究内容そのものも帝国主義的価値との絡みに規定されており、大学の自治や学問の自由といっても偽善であり、現体制を美化するものでしかなく、大学に於ける帝国主義的な本質を隠蔽しているのではないのか」という認識を生みだした。

 こうした仕組みの中でノホホンと研究が進められていく事の「学者面した不義」に対して、全共闘は、当初の「研究者のあるべき姿勢の問いかけ」から次第に「破壊」的行動へ更に「解体」的運動へと理論を発展させていくことになった。つまり、「自己否定論理」から「世界の解体−再創造」に立ち向かっていかせることになった。

 こうした観点を究極化して「層としての学生運動」を生みだしていったのが東大ノンセクト・ラディカルであり、セクト的社会革命運動とは別個に創出された思弁的ラジカリズムによる学生運動であった、ように思われる。私なりに今から思うに二度と起こすことが困難な驚嘆すべき運動であったという印象を持つ。そういう感性を共有できる時代があったということなのだろう。

 ただし、東大ノンセクト・ラディカルに思弁性の高さは認められても、政治運動化の論理はおぼこかったように思われる。「自己否定論理」は、帝国主義的要員としてプロイダー教育・研究化させられている自身の存在の「自己否定論」となり、「造反有理精神」は、その産みだし機関の否定としての「帝大−大学解体論」となり、「世界の解体−再創造論理」は、「体制破壊−解体へ向けての革命運動論」へと発展することになった。「既成の大学の自治」とは、そうした根元的な問いかけ−運動の創出の前には全く無能なあるいはまた帝国主義的に組み込まれた擬制でしかなく、小手先の改良によりどうなるものでもないむしろ欺瞞的として否定の対象とされた。

 こうした認識は、実践的に「戦後民主主義体制のイデオロギー的否定」へと向かい、学内運動としては「ポツダム自治会粉砕」へと向かい、対置したものが「直接民主主義論」(一種の代行主義的な多数決原理に基づく間接民主主義のポツダム自治会のアンチ・テーゼとしての直接民主主義)、「コミューン的組織論」、「政治運動におけるラジカリズムの肯定」となった。対社会闘争としては青写真無きままのラジカリズムによる革命運動への志向となった。「否定は内から外へと向けられた。否定さるべきもの、現に存在する大学当局の管理権力機構、としてそれを可能にし背後から支えている国家権力そのもの。だが二つの否定は論理的な区別を有するのみであって、現実に闘争を担っている主体にとっては同時的であり不可分離である」(進撃3号「砦の狂人たち」)という語りはこの辺りのことを表現しているように思われる。

 こうした全共闘的論理の実際の政治的運動としての立ち現れ方は後述するとして、全共闘は組織論的にもユニークさを発揮していた。全共闘的組織は、当然既成の前衛意識的組織論とは異なる個々人の主体的決意をリンクさせたものとなっていた。これを代表的に表現していたものとして東大助手共闘の次のような了解事項がある。いわく1.個人の主体的決意のみによる参加、2.指導部は創らず、問題は全て全員討議にかける、3.組織の維持を自己目的化しない。つまり、前衛党的な「民主集中制」とか分派禁止にまつわる細かな規約を持たず、極力シンプルに個々人の「内なる思想的闘い」を重視させた非統制的組織論に依拠させようとしていたことになる。

 この三規約は、一切の党派的イデオロギーからの自立と、こうしてアトム化された個人の結集体としての自立的自主的運動体としての可能性を追求する運動を担おうとしていたものと思われる。ベ平連系にもこのような論理が見られることを思えば、こうした思考と行動様式はベビーブーマー的論理の特徴であったのかも知れない。「私は、ノンセクト・ラジカルということになっていますが、その内実はアナーキズム・ニヒリズム・プランキズム・マルキシズム・フーテニズム・ヤクザイズムのごった煮でありまして」(最首悟)というカオス派的語りはこの辺りのことを表現しているように思われる。つまり、左翼運動史上前例のない相互の自主性を重んじた組織運動を目指していたことになる。「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力を尽くさずして挫けることを拒否する」という語りもまたこの辺りのことを表現しているように思われる。

 こうした東大闘争とは別途の方法で共に戦い抜かれたのが日大闘争であった。共に有ったのは、ぶんぶく太りし続ける日本経済の発展の仕方に対する拒絶の姿勢、と私は観る。日大闘争ならではの特殊性としては、日大には過去学生運動の歴史が無く、それもその筈で建学理念の保守性とこれを護持しようとする強力な右翼系体育会・応援団運動こそが日大の学生自治運動となっていたという背景があった。ところが、世情騒々しさのおりがら古田理事会体制による不正入学金の使途不明問題が勃発した。学生の怒りが沸き起こり、「不正入学金の使途不明告発から学内民主化闘争へと発展。大学を学問探究の場から利潤追求の場とした古田理事会体制との闘争」が組織されていくことになった。この闘いは、大学当局の意を挺した暴力機関体育会・応援団の介入と血みどろになりつつ勝利的に切り開かれていくことになった。それはあたかも、「ベトナム人民が武器を持って立ち上がり、侵略者を追い出し、自らの解放を勝ち取ろうとしていた」ことになぞらえられる闘いであった。

 秋田明大を議長とした日大全共闘が結成され、「理事長総退陣、経理の全面公開、不当処分撤回、集会の自由、検閲制度の廃止」という5つのスローガンに集約された闘いを進めていく運動の中から次第に「古田体制の帝国主義政策の先兵、帝国主義者に反抗せず支配者の言いなりになる人間の養成の場とした体制を打倒し、ブルジョアジー教育に於ける砦を破壊し、学生の戦闘的拠点を建設する闘い」の創出へと向かうことになった。この日大ノンセクト・ラジカルもまたセクト的社会革命運動とは別個に創出された反封建向民主的ラジカリズム的な学生運動であった、ように思われる。私なりに今から思うに二度と起こすことが困難な驚嘆すべき運動であったという印象を持つ。そういう感性を共有できる時代があったということなのだろう。

 残念ながら、こうして盛り上がった東大−日大闘争は、次第にセクト理論の洗礼を受けていくことによりみずみずしさを失ってしまう。(もう少し時間をかけて各派ごとに対比させつつ研究してみたいが、この場合は何せ時間と資料がないのではしょります)セクト理論の影響を受けて闘争が深化発展する方向へ向かうのならよいとも思うが、トンデモの方へ行ってしまう。

 「民主主義は労働者階級の闘争を市民的秩序に押しとどめるもの」→「大学の自治は幻想であり守るべき自治は何もない」とする帝国主義の欺瞞的支配の図式化→「ブルジョア民主主義をプロレタリア民主主義と対立させ、打倒されるべきものとする」という論理による民主主義闘争の放棄→「一切の改良主義的妥協と自己欺瞞を峻拒した永続的闘争」→「権力を引き出すことを目的意識的に追求する闘争」→「先駆的集団の挑発によって国家の暴力支配を登場させる」→「国家の暴力支配の登場が大衆を闘争に駆り立てる」→「先駆的前衛的にこの闘争を担うというヒロイズム精神による特攻隊化」。

 このような論理は、完全な政治的引き回しでしかない。各派がこの段階のどれかに位置しつつ全共闘運動に揺さぶりを掛けていくことになった。その結果、全共闘運動は、さてどこに向かおうとするのか何処まで向かうのか分からなくされてしまったのではないのか、と思われる。

 こうして、当初のアナーキーな問いは、大学制度改革運動から次第に離れてこの問い自身のデカダンスへと発散していくことになった。「自己否定の否定はやはり否定」と揶揄されている破滅的論理に沈んでいくことになった。残された方向は先鋭的暴力化の競い合いという構図となった。興味深いことは、大学制度改革運動から全共闘運動が生み出されたにも関わらず、全共闘運動がこうしたデカダンスの深みに入っていくことにより、大学制度改革運動を民青同系が担っていくことになったという経過がある。私は、これを全共闘運動の自己転落と観る。この自己転落の責任を民青同に転嫁させ「民青殺せ!」の道程へ踏み入って行くことになったのでは無かろうか。「誰のせいでもありゃしない。みんなおいらが悪いのさ」という歌の文句をはなむけとしたい。

 さて、最後に付け加えておくことがある。全共闘運動が賞賛されるべき内容を保持していたにも関わらず、その運動の中に無条件に胚胎させていた暴力性の論理である。この暴力性は、彼らがどう政治的な言葉で言い繕ろおうとも、事は至って単純エゴイスチックなものでしかなかった。「トロが学生自治会の執行部に選ばれた場合、自分たちの支持が無くなると、何年間も改選しなかったり、不正選挙、不正投票をしたり、学生大会から反対派を暴力的に閉め出したりしてきた」(川上氏「学生運動」)と言わしめるような手法を日常化させていたのではないのか。

 なぜ、彼らは堂々と所見を述べ、学内外にプロパガンダしていかなかったのだろう。私に言わせれば、全共闘は値のある理論を持っていたように思われる。民青同は宮顕論理の影響を受け、ほぼ自主性のない運動しか為しえない窮屈な姿を見せていた筈である。なぜ堂々と民青同と渡り合い、自治会執行部を取れればよいし、取れなければ取れるように根気強く運動を組織していくねばり強さを培えなかったのだろう。「民青殺せ!」と絶叫しつつデモしていた事実は一体何を語るのだろう。「悪魔も寄りつかぬ静寂の中でドン・キホーテは夢をみていた。しかし僕らは自己を主張するのに不可欠なハンマーを見ている。反革命分子よ気をつけるがいい。血と肉を持った存在が今や鉄槌無しには主張され得ないのだ」などとうそぶきつつ「自己の内なる東大を否定せよ」とは、一体何を洒落ているのだろう。

 私が民青同を評価しているのは、次の一点にある。度々指摘しているように党中央指導によるゲバ民化の事実を隠そうとは思わない。しかし、民青同は学生運動内に曲がりなりにも民主的手続きと原則に対して踏まえる術を知っていたと思う。学生大会の運営も然り、逆にやられたらやり返せとばかりに「他党派のあれこれを殺せ!」と絶叫しつつデモったという事も知らない。こういうことは誰に教えられるのでもない、何かイデオロギー以前の人としてのたしなみではなかろうか。反代々木系運動にはこのたしなみに対して欠落したものがあるのではなかろうかという不信がある。残念ながら私には民青同の良さは他には見あたらないが、民青同が踏まえていたこの手続き民主主義の精神こそ最も大事なものなのでは無かろうか、と思う。

 民主主義は間接であろうが直接式であろうが手続き無しには成立しない。この手続きの野蛮化と権力化をチェックし民主化するということは、「人と人との群れ方」というコミュニティーの約束事としてイデオロギー的メガネを掛ける以前の話なのではなかろうか。受験から解放されてわずか数ヶ月か数年のうちにいっぱしの活動家が促成され、「日共解体、民青殺せ!」と呼号しながらデモることに不自然さを覚えない感性が分かりにくい。人の弁証法的成長過程として許容される部分も有るとは思われるが、その際手続き民主主義の精神と切磋琢磨精神の涵養は前提にされていなければならないのではなかろうか。

 この精神が大事で無いというのなら、70年に入って以降学内に立ち現れた特定セクトによる暴力支配に対して手を焼いた経験がない者の物言いとしか考えられない。このキャンパス内に立ち現れた憲兵隊的存在こそ70年以降の学生運動の特徴であり、学生運動低迷の真の原因と私は思っている。元々少ない左翼意識の持ち主がパージされ続けた結果、キャンパス内に「白け」が蔓延してしまうことになった。いつの間にか「白け」が日常となってしまったのではないのだろうか。対話弁証法のないところには発展がないのであり、それは飛行機が摩擦抵抗を利用しつつ滑走路からフライングしていくという物理法則と同じ現象であり、その逆の例である。左翼運動自体が古くなったのではなく、もっと単純に古くさせられているのではなかろうか。これが二度と全共闘運動を創出させない主要因になっているのではなかろうか。

 これに対するのに、負けた者の遠吠え的にではなく、まず自ら左翼運動内にこうした現実を生み出させない強固な運動理論を構築する仕組みが必要とされているのではなかろうか。単純に言えば、「されて嫌なことはしない」という平明な原理を守れば良いだけの話である。万事ブルジョア的と言いなせば粉砕されたり、プロレタリア的だとか言いさえすれば免罪されるという作法は命名者側の権力の乱用的常套手段であり、この物言いに納得する側の「知」の頽廃を前提にして成立しているのではなかろうか。互いの活動を認め合うという原理は万古不易に墨守されねばならない大人の嗜みなのではなかろうか。こうした原点の確立から運動を模索することこそセンチメンタリズムを越しえて全共闘運動を総括しうるものとなるのではなかろうか。


【補足「民主連合政府樹立運動について」】(2000.1.15日)

 このような全共闘運動に敵対した当時の民青同の意識にはどのようなものがあったのか、それを考察するのが本投稿のテーマである。ちょうど民青同の論理は、全共闘運動の対極にあった。自己否定論理に対しては民主化論理を、造反有理に対しては党を護持し民主集中制の下での一層の団結を、解体論理に対しては民主連合政府樹立の呼びかけをという具合に何から何まで対置関係にあったことが分かる。実際には全共闘運動の方が空前の盛り上がりを見せ、民青同がこれに対抗していったことになるので、全共闘からすれば、「マスコミは巨大な敵だったが、右翼・民青・機動隊というのがさしあたっての敵だった」ということになった。

 元々大学民主化闘争は学生運動自体のテーマであり、全共闘運動とてここから始まったように思うが、全共闘運動はいつのまにか担おうとしなくなり、民青同の一手専売となった。私が入学した頃には、「政治的自由と民主的諸権利の拡大を目指す闘争」、「教育権・機会均等の擁護、学費値上げ反対、奨学金の拡充、寮の完備、勉学条件の改善」という当たり前の運動が民青同以外では見られなくなっていた。もっとも民青同は、抱き合わせで「トロッキスト、修正主義者らを各大学において、全国的な学生運動の戦列に於いて一掃することが不可欠」という指針を掲げていたので、これにもなじめなくなった私の居り場がとうとう無くなってしまった。

 ここでは民主連合政府の呼びかけに対する共感について考察する。いわゆる全共闘運動が左翼イデオロギーを満開させつつ「まず解体から、しかる後建設が始まる」という展望無き展望しか持ち合わせていなかったのに対して、この当時日本共産党が指針させていた「70年代の遅くない時期に民主連合政府を樹立する」運動は目前の手応えのある実体であったということもあって、民青同にとって全共闘的運動に対置しうる理論的根拠となっていた。

 こうして見ると、民主連合政府樹立運動の提唱と立ち消えていった経過が気になってくる。提唱については、「70年の第11回党大会で、民主連合政府の樹立についてあらためて具体的な展望をしめし、73年の第12回党大会では、民主連合政府の政府綱領についての提案まで討議決定しました」(1998年8月25日付「しんぶん赤旗」での不破哲三委員長緊急インタビュー「日本共産党の政権論について」)とある。少なくとも60年代後半には民主連合政府樹立運動が提唱されていたと思われるので、正式な党大会決定されたのがこの時期という意味であるように思われる。

 「70年代のおそくない時期の民主連合政府の樹立」の可能性については、73.4.13日初版の上田耕一郎著「先進国革命の理論261P」で次のように述べている。

 「1970年に開かれた第11回党大会では、70年代の遅くない時期に民主連合政府をつくろうという方針を決めました。当時は『まさか』と思っていた人が大部分だったでしょう。ところが、昨年末の総選挙で共産党が大躍進したため、『まさか』どころか、民主連合政府が現実味をもって受け取られるようになってきました。今度はある週刊誌は、民主連合政府の『予想閣僚名簿』まで発表するという気の早さです」。

 が、いざ70年代のその時期を迎えて実際になしたことは、「三木内閣のもとで、ロッキード事件が暴露され、また小選挙区制の問題で日本の民主主義がおびやかされるという情勢がすすんだとき(76年4月)、私たちは、小選挙区制粉砕、ロッキード疑獄の徹底究明、当面の国民生活擁護という三つの緊急課題で『よりまし政権』をつくろうではないか、という暫定政権構想を、当時の宮本委員長の提唱で提起しました」(「日本共産党の政権論について」)という代物になってしまっていた。

 この経過と執行部の責任について党がどのように総括しているのか私は知らないが、「私たちが、こういう提唱をした70年代、80年代という時代は、政界の状況からいって、私たちのよびかけが現実に政界に影響をおよぼすという条件は、実際的にはまだありませんでした。マスコミからも、いまのような積極的な関心は向けられませんでした。私たちの党に近い部分でも、はっきりいって、こういうよびかけを理論的な提唱としてはうけとめても、政権問題を現実の政治問題として身近にとらえるという問題意識は弱かったと思います。そういう時代的な背景だったんですね」(同)という総括ならざる総括で事なきを得ているようである。私は、「ソ連社会主義論」から「崩壊して良かった論」までの変遷もしかり、状況に合わせていかようにも言いなしうる現執行部の厚顔と口舌の才能に感心させられている。

 してみると、このスローガンは元々党としての責任ある提案だったのではなく、全共闘運動に対置すべく、青年層の全共闘運動に向かうエネルギーを押しとどめるために巧妙に使われていたのではないのかとさえ思えてくる。マサカァと疑うよりはそのマサカァの可能性を思い浮かべてみた方が事態を的確に把握しうる。

 あの頃本気で民主連合政府樹立を夢見ていた者は幻影を見させられていたということになる。その一人であった私は、今では結局私が単に田舎者だったということだろうと自己了解している。今私があの頃に戻り得たとしたら、どう動くのだろう。民主連合政府樹立スローガンの虚妄を知っている私は党−民青同の系列には加わらないだろう。かといって飛び込めそうな党派も見えてこない。新左翼運動は観念性を強めており、プロパガンダが不足している。所詮エリート的な身内的な自閉的な自己陶酔型の自己満足運動でしかないようにも思える。

 こうして考えてみると、日本左翼の深刻なというべきか馬鹿馬鹿しいというべきか不毛性が見えてくる。そもそも数十派に分岐している左翼系諸派のお互いの一致点と不一致点さえはっきりしない。運動を担っている当の本人さえよく分かっていないままに党派運動が続けられている面もあるのではなかろうか。してみれば、田舎者の成長過程を上手に引き出すような左翼諸派合同のオリエンテーリングのようなものが欲しい。あるいはまたスーパーマーケットのように各党派の理論と実績をパッケージ陳列させておき、顧客が任意にセルフサービス方式で気に入ったものをバケットに入れるプレゼンテーション手法で党派と関わってみたい。

 量が質を決定するというのであれば、日本左翼はこうして裾野を拡げていくような努力をなぜしないのだろう。本当に自派の主張に正しさを確信し左翼的民衆運動を担おうとする強い意志があるのなら、党派側はせめてこの辺りまではプロパガンダえしえていないとおかしいのではないかと思ったりする。もっとも、市場経済下のマーケティング革命の進行なぞとんと眼中にない連中が党派運動をやっているので、こうした流通革命的手法の革新的意義なぞ分かりようもなく、昔取った杵柄よろしく旧来手法のままのオルグ活動に拘り続けているのだろうと思われる。

 この点今から思えば池田氏率いる創価学会活動の先進性が見えてくる。確かあの頃(30年前にもなる)既にビデオを使って布教活動をしていたように記憶している。腹蔵無く語り合う座談会方式といい、釈伏という戦闘的理論闘争といい、機関紙紙上における理論と実践の結合ぶりといい、全国各地に創価会館を敷設していったことといい、やるべきことをやれば政権与党化はそう難事ではないということの例証でもあるかと感心させられている。社会運動は指導者の能力によって随分左右されることが知らされる。

 そのことはともかく、民主連合政府樹立のスローガンにおいて考察されねばならないことは、このスローガンが「70年代の遅くない時期」という時期の明示をしていたことについてである。何らかの根拠があったのか、元々根拠がなかったのかということが詮索されねばならない、と思う。もし、根拠が薄弱な単なる呼びかけでしかなかった時期の明示であったとすれば、党の呼びかけに対するダメージが深刻で、もはや二度と大衆は党の笛吹きには踊らされないと云うことになるであろう。と思うのだけども、党の現執行部は、またぞろ「21世紀の初頭に民主連合政府の樹立を」とか呼び掛けているようである。「民主的政権への道をどうやって開くか。『国民が主人公』の日本への改革です。それを実現する民主的政権を、21世紀の早い時期に樹立するというのが、私たちの大目標であります」(日本共産党創立77周年記念講演会「国政の焦点と21世紀の展望」.書記局長志位和夫. 1999年7月24日「しんぶん赤旗」)とか云われているようである。公然平然たるリバイバルであるが、私は、同じ執行部の下でこうした呼びかけが通用している党員の皆様のおおらかさに万歳させられている。

 このスローガンにおいて考察されねばならないもう一つのことは、民主連合政府という統一戦線政府の内実に対する考察である。当初は社・共政権を核とした政府で最低限綱領を持ったものであったと思われるが、この綱領の移り変わりも興味があるところである。一度調べて見ようとも思うが、党外の私がせねばならないことでもないと思い未調査である。補足すれば、この当時、統一戦線とは、単なる政党間の野合を戒め、「複数の階級、階層が階級的利害や政治的見解・世界観などの違いを持ちながらも、共通の目標のため、共通の敵に対して闘うために創る共同の戦線(共同の闘争の形態・組織)のこと。統一戦線の掲げる政治的課題と目標及び、その階級的構成は、それぞれの国における革命の性格と段階によって、又階級闘争のそれぞれの時期と条件によって決まる。例えば、反ファシズム統一戦線、祖国戦線、人民戦線、民族民主統一戦線などと呼ばれる様々な統一戦線があるのはその為である」(社会科学事典、新日本社刊行)という概念規定の下にかなり厳格に運用されようとしていたという記憶がある。

 この統一戦線論の欺瞞性は、次のことにある。日本共産党のいう統一戦線とは、運動の最大成果を得るために、一時的に綱領路線の逐条に付き方針を凍結してでも右派系諸潮流との共闘を優先させようとする運動論・組織論と思われるが、この場合「一国一前衛党論」が自明にされていることに問題が潜んでいるように思われる。つまり、現実には既に党以外にも公然と左派的立場を自認する諸党派が存在する訳であるから、文字通りの意味で統一戦線というならばこれらの諸党派との統一戦線もまた組み込まれる必要があるにも関わらず、現在の党執行部の統一戦線論にはこの部分がスッポリ抜け落ちている。左派でもない党を最左派とする右派系諸潮流との統一戦線論であり、党より左派系潮流が排除されているという統一戦線論である。急進主義者・トロッキスト・挑発者・反党主義者・分裂主義者・左翼日和見主義者・暴力集団等々ありとあらゆる面罵とレッテル貼りで、これらの諸潮流を無条件に排除した上での統一戦線論であることに留意が必要である。

 これでは片手落ちというより、本来の意味での統一戦線になりえておらず、自らに都合の良い理論でしか無く、右へ傾いて行くしか出来ない統一戦線という訳である。この点如何であろうか。私の捉え方変調でしょうか。補足すれば、万が一民主連合政府的なものが出来たして、党より左派系諸派の政治的活動が認められる幅が現自・自・公政府下のそれより狭まるという危惧は杞憂なのだろうか。私は、より左派系党派の政治的自由についてきちんと説明したものにお目にかかっていない。赤旗記者が茶髪・金髪OKで党本部を出入りしている自由さとかいう本来何の意味も持たない例で説明しているのを聞いたことがあるばかりである。

 民主連合政府の呼びかけは、歴史的には、社会党がむしろ社・公合意の方向にむかっていったことによって流産したように記憶している。共産党が右へ寄れば寄るほど社会党も右へ動き、今日共産党はかっての民社党辺りのところまで寄って来ているようにも思われる。でどうなったのかというと社会党がいなくなってしまった。民社党はリベラル系保守諸派の中に潜り込んでしまった。この先一体どうなることやら。やはり瑞穂の国は大政翼賛会方式が似合うのかも知れない。こうした流れに結果したことについて、社会党批判とは別途に党の主体的力量の反省もされねばならないのではなかろうか。スローガンに仮に正しさがあったということとその道筋を作りだせれなかったということとは不可分の責任関係にあると思われるが、免責されるのであろうか。つまり、民主連合政府の呼びかけ問題に付きまとっていることは責任体系の問題である。政治的スローガンの提唱は執行部の権限であるが、その指針が流産した場合まっとうな政治的解明と責任処理がなされるべきであるという緊張関係がなければ、全ては饒舌の世界になってしまうのではなかろうか。この峻別がなされているのが自民党であり、与党として信頼が託されている所以なのではなかろうか。

 しかし、このたびの党の現執行部の呼びかけには反省と工夫がなされているようである。「21世紀の初頭に民主連合政府の樹立を」とあるように、この度は「70年代の遅くない時期」に比して「21世紀の初頭」という漠然とした長期レンジのスローガンになっていることに気づかされる。この時には不破氏も志位氏も政治活動の一線からリタイアしている頃であろうから、執行部の責任体系をあらかじめ放棄した批評的願望的スローガンであることが見て取れる。極く最近では組閣参入にも色気を見せてもいるようであるが、どっちへ転ぼうともフリーハンドの執行部というのは党ならではの羨ましい限りの話のように思えたりする。それにしても党員の皆さんのご納得ぶりにはただただ頭が下がるばかりというしかない。


【統一戦線と共同戦線の識別考】
 ここで最近気づいたことを述べる。「共同戦線論考」でも述べたが繰り返しておく。従来、左派潮流の共闘を「統一戦線」と表現してきたが、左派運動の本義に於いては「共同戦線」と表現すべきなのではなかろうか。ニュアンスの違いではあるが、「統一戦線」という表現には、マルクス・レーニン主義者党を自認する党中央を絶対の正しき党と見なした上で、マヌーバー的な戦略上の妥協として導入されるものの、実際には党中央を「奥の院」に据えており、その睨みの構図の中で党フラクション組織としての大衆団体、労働組合、その他組織を結集させ、その周りに他党派、諸潮流の取り込みをも図るという自尊構図が見られる気がしてならない。

 そうではなく、党内に異論と派閥が認められ、平常も党大会でも議論がかまびすしく為され、その同じ論理で他のどのような組織とも課題毎に時局に応じて共闘を目指すというのがこの種の運動に本来期待されていることなのではなかろうか。という訳で、れんだいこは以降、「共同戦線」と表現することにする。これより以降、統一戦線なる用語を使う者は、れんだいこのこの指摘に理論的に反駁せねばならない。

 現下左派運動諸党派の党中央の呼びかけで為されるその種の運動は「統一戦線」運動と見なしても良かろう。なぜなら、彼らは、例の民主集中制に繋がる満場一致世界を現出する組織論に相応しい統一戦線運動を志向しているのだから。ちょっとの認識上の違いであるが、意味するところは運動観の世界が根本的に変わるほど大きな違いでもあるように思われる。

 補足すれば、万が一民主連合政府的なものが出来たして、日共より左派系諸派の政治的活動が認められる幅が現自・自・公政府下のそれより狭まるという危惧は杞憂なのだろうか。私は、現在の日共党中央執行部が、より左派系党派の政治的自由についてきちんと説明したものにお目にかかっていない。赤旗記者が茶髪・金髪OKで党本部を出入りしていることを指摘してこれほど自由が認められているのだとかいう、本来何の意味も持たない事例で説明しているのを聞いたことがあるばかりである。

 民主連合政府の呼びかけは、歴史的には、社会党がむしろ社・公合意の方向にむかっていったことによって流産したように記憶している。共産党が右へ寄れば寄るほど社会党も右へ動き、今日共産党はかっての民社党辺りのところまで寄って来ているようにも思われる。否、民社党のほうが労働者に一定の基盤を持っていたことを考えれば、それよりもなお右派的かも知れないという驚くべきところまで漂流してきているよう思われる。この間いつのまにか社会党がいなくなってしまった。民社党はリベラル系保守諸派の中に潜り込んでしまった。この先一体どうなることやら。やはり瑞穂の国は大政翼賛会方式が似合うのかも知れない。

 こうした流れに結果したことについて、社会党批判とは別途に日共の対応の変調さも検証しておかねばならないのではなかろうか。仮にスローガンに正しさがあったということと、その道筋を作りだせれなかったということとは不可分の責任関係にあると思われるが、免責されるのであろうか。つまり、 民主連合政府の呼びかけ問題に付きまとっていることは責任体系の問題である。政治的スローガンの提唱は執行部の権限であるが、その指針が流産した場合、まっとうな政治的解明と責任処理がなされるべきであるという緊張関係がなければ、全ては饒舌の世界になってしまうのではなかろうか。

 この峻別がなされているのが何と自民党であり、与党として信頼が託されている所以なのではなかろうか。このことは、ホームページに於ける各党の党史掲載の仕方でも分かる。何と、自民党の出来が相対的に一番良い。次に公明党、民主党という具合になっている。社民党と共産党には党史と云えるほどの記述さえ無い。社民党の場合、ホームページにはないが、検索で探そうと思えば探せる。ところが、日共の場合、どこから検索しても出てこない(2006.5.7日現在)。おかしなことである。

 その癖、著作権については、現行著作権法よりなお生硬な強権著作権論を振りかざしている。党の見解が流布されるにつき、承諾なしで勝手にされてはならじとするその精神は何ぞ。れんだいこにはさっぱり理解できない。いつからこんな左派運動が流行し始めたのだろう。誰か、れんだいこが納得のいくように説明してくれないだろうか。

 もとへ。なるほど、このたびの党の現執行部の呼びかけを見れば、反省と工夫がなされてはいる。「21世紀の初頭に民主連合政府の樹立を」とあるように、この度はかっての「70年代の遅くない時期」的呼びかけに比して、「21世紀の初頭」というように、漠然としたより長期レンジのスローガンにしてはいる。しかし、この時には不破も志位も政治活動の一線からリタイアしている頃であろうから、執行部の責任体系をあらかじめ放棄した批評的願望的スローガンであることが見て取れる。えらいところに智恵を使うもんだと感心させられている。

 極く最近では組閣参入にも色気を見せてもいるようであるが、どっちへ転ぼうともフリーハンドの執行部というのは党ならではの羨ましい限りの話のように思えたりする。それにしても党員の皆さんのご納得があってこそ成り立つわけであり、それを思えばただただ頭が下がるばかりというしかない。


 2002.10.29日再考、2006.5.7日再編集 れんだいこ拝

【全共闘運動及び思想考】
 「統一戦線と共同戦線の識別」に至れば、日本左派運動史の中で最も成功裡にこれを成し遂げたと思われる「全共闘運動及びその思想」に思いを馳せねばならない。実は、全共闘運動は、日本左派運動が始めて組み立てた党派間連衡の共同戦線運動ではなかったか。れんだいこは、その功績を断然評価されねばならないと考える。もっとも実際は、各党派はその重みに耐えかねてか、それを更に発展させるよりは自主的解体の方を選んでしまった。しかし、一時的にせよそれを獲得したという史実が尊いように思われる。

 ちなみに、これに参画した党派とこれに敵対した党派を掲げ、違いを愚考してみることにする。70年安保闘争過程の1969.9.5日、日比谷野音で「全国全共闘会議」が結成された。どのセクトとも特別の関係を持たなかった東大全共闘の山本義隆(逮捕執行猶予中)が議長に、日大全共闘の秋田明大を副議長に選出し、ノンセクト・ラディカルのイニシアチブの下に新左翼8派を組み入れ、全国178大学の全共闘組織が生まれ、全国の学生約3万4000名が結集した。

 8派セクトは次の通りである。1.中核派(上部団体−革共同全国委)、2.社学同(々共産主義者同盟)、3.学生解放戦線(々日本ML主義者同盟)、4.学生インター(々第四インター日本支部)、5.プロ学同(々共産主義労働者党)、6.共学同(々社会主義労働者同盟)、7.反帝学評(々社青同解放派・革労協)、8.フロント(々統一社会主義同盟)。

 これを出自から見ると、革共同系、ブント系、元社会党急進主義系、元日共構造改革派系から構成されていることになる。これを逆から云えば、これら党派は共同戦線運動に馴染める運動論組織論を構築していることになる。これに加わらなかった革マル派、日共系民青同、その他赤軍派、**、**、**等々は、共同戦線運動に馴染めない運動論組織論を構築しているのではないかということになる。

 れんだいこは、「統一戦線と共同戦線の識別考」で記したように共同戦線運動を推奨する。それは戦略戦術問題というより、もっと深いところでの人間種族の群れ方として根本的に認め合わなければならない原理だと心得るからである。ここを立脚点としつつ丁々発止の駆け引きで共闘していく知恵こそ大人のそれであり、これが出来ぬのは子供段階の運動でしかない。れんだいこはそう思う。

 逆から云えば、統一運動論に権力発想的臭いを嗅ぎ取り、それは往々にして良からぬ結果しかもたらさないと心得るからである。それは容易に得手勝手な真理に繋がり、権力如意棒となって異端ないしは少数意見の排撃に向う。事実、右からであれ左からであれ、統一呼号論者の運動にはろくなのがありはせぬではないか。

 この観点はあるいはマルクス主義のそれではないのかも知れない。アナーキズムのそれであるのかも知れない。ならば、れんだいこは、アナーキストであっても良い。なぜなら、組織論、運動論に於いてこの作風こそが踏まえられる原点となるべきだと思うから。もし、マルクス主義がこれに立脚していないのなら、それは明らかに間違っている。その負のツケが自己撞着して今日の貧困にまで至っている気がしてならない。

 れんだいこが信奉するのは、「自由、自主、自律」的な運動である。れんだいこは、仮にこれをルネサンス気風と表現している。我々が擁護すべきはこのルネサンス運動であり、そのレベルが高いものであるなら、このレベルに合わせられる人士をより多く輩出するよう日頃から理論親日実践運動に有機的に取り組めばよいのではないのか。左派運動がそれなりの格を持つものになるのは致し方ない。考えて見れば、政治運動そのものが、恐らく人間諸力の実践形態としてはかなり能力を要する分野のものであり、尚且つ高尚なものではあるまいか。そういう気がする。

 ところで、「共同戦線論」が良いとしても、問題は、言葉に酔うことにあるのではない。毛沢東の「中国社会各階級の分析」の次の一節の知恵を踏まえねばならない。
 「誰が我々の敵か、誰が我々の友か、この問題は、革命の一番重要な問題であるが、中国のこれまでの革命闘争は全ての成果が非常に少なかったが、その根本原因は、真の友と団結して真の敵を攻撃することができなかったことにある」。

 これによれば、れんだいこ式解釈に従えば、赤い心同士であればアバウトで良い、共闘を優先させるべし。白い心と対する時は、妥協してはならない。相互にこれを実践して関わっていくのが正しい運動形態である、ということになる。ここのところが曖昧なままの日本左派運動は、「これまでの革命闘争は全ての成果が非常に少なかった」という結論に導かれるのも致しかたなかろう。

 補足すれば、毛沢東指導は、この頃までの観点は非常に素晴らしかった。戦後、建国革命に成功し、権力掌握後の毛沢東は次第に統一理論に傾斜していくことになる。それと共に抗日運動期にあった瑞々しさを失っていくことになる。その背景事情にはそれなりのものがあったと思われるので別途分析をせねばならぬが、原理的な逸脱は見逃せない点ではなかろうか。

 とりあえずは以上の指摘にとどめておくことにする。

 2005.3.15日 れんだいこ拝




(私論.私見)