「戦後学生運動、補足余話」 |
(最新見直し2006.5.19日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここには、「概略戦後学生運動論」に納め切れなかった「余話」を書き記す事にする。「余話」としたが、いずれも重要な補足であると自負している。 20006.5.18日 れんだいこ拝 |
1 | 補足「日本共産党第8回党大会」について |
2 | 補足「4.17スト」について |
3 | 補足「全共闘運動雑感」 |
4 | 補足「民主連合政府樹立運動について」 |
5 | 補足「統一戦線と共同戦線の識別考」 |
6 | 補足「全共闘運動及び思想考」 |
【補足「日本共産党第8回党大会」について】(1999.12.20日) | |||
党は、61年になって「日本共産党第8回党大会」を開催しており、この経過は今日的に見ても見過ごすことが出来ない部分が多いと判断し、別立てでウオッチしておくことにする。その理由は、今日「さざ波通信」誌上で指摘されている党の非民主的運営の原型のほとんどがこの「日本共産党第8回党大会」前後のプロセスに現れていると思われることによる。もう一つの理由は、今日の党を支持する最後の絆として綱領路線への依拠が言われていることに対しても、無慈悲ではあるがそれは党支持の基準にはならないということを指摘したいためである。 「日本共産党第8回党大会」について
7.31日の役員選挙は、無記名連記で行われた。新中央の大幅増員。中委は31名から60名。中委候補は6名から35名。統制監査委は7名から8名。新中央には、党勢拡大その他主流に忠実だった都道府県委員長・委員クラスが大量に登用された。前大会で責を問われて中委の候補者リストから外されていた旧所感派の悔い改め派・紺野ら数名が中央委員に復活した。神山・中野はかろうじて中委に入れられた。波多や神奈川県委員長として党勢拡大に好成績をあげた中西功などは中央に入れられなかった。
日本共産党は自主独立であるから、イギリス共産党が何を言おうと関知しないとでも言うのだろうか。 |
【補足「4.17スト」について】(1999.12.25日) |
この時期64年の「4.17スト」をめぐって信じられないことが党内に生起しているので、これを見ておくことにする。スターリン批判・ハンガリー動乱・第7回党大会・60年安保闘争・第8回党大会・原水禁運動そしてこの「4.17スト」への対応・経過を通じて、「左翼」が党に対する信用失墜を確定させることになったようである。「日共」という呼称が蔑視的な意味合いで使われていくことになったのが何時の頃よりかはっきりは分からないが、こうした一連の経過の中で定着したものと思われる。戦後の獄中闘士がカリスマ的権威を持って大衆に受け入れられていたことを思えば、隔世の感がある。 |
【補足「全共闘運動雑感」】(2000.1.9日) |
初めに。ここで考察しようとしている全共闘運動は、あくまで大学生運動であり、中卒・高卒者を含む青年労働者をも巻き込んだ広範な政治運動までには発展していかざる枠組み内の限定的エリート的な学生運動であったという階層性に注意を喚起しておきたい。この「青年左翼闘争に於けるエリート階層性」という特質は、日本共産党の結党以来宿阿の如くまといついている日本左翼運動の特徴であり、どういう訳かマルクス主義を標榜しながら労働者階級を巻き込んだ社会的闘争には一向に向かわないという傾向が見られる。 さて、最後に付け加えておくことがある。全共闘運動が賞賛されるべき内容を保持していたにも関わらず、その運動の中に無条件に胚胎させていた暴力性の論理である。この暴力性は、彼らがどう政治的な言葉で言い繕ろおうとも、事は至って単純エゴイスチックなものでしかなかった。「トロが学生自治会の執行部に選ばれた場合、自分たちの支持が無くなると、何年間も改選しなかったり、不正選挙、不正投票をしたり、学生大会から反対派を暴力的に閉め出したりしてきた」(川上氏「学生運動」)と言わしめるような手法を日常化させていたのではないのか。 |
【補足「民主連合政府樹立運動について」】(2000.1.15日) | |
このような全共闘運動に敵対した当時の民青同の意識にはどのようなものがあったのか、それを考察するのが本投稿のテーマである。ちょうど民青同の論理は、全共闘運動の対極にあった。自己否定論理に対しては民主化論理を、造反有理に対しては党を護持し民主集中制の下での一層の団結を、解体論理に対しては民主連合政府樹立の呼びかけをという具合に何から何まで対置関係にあったことが分かる。実際には全共闘運動の方が空前の盛り上がりを見せ、民青同がこれに対抗していったことになるので、全共闘からすれば、「マスコミは巨大な敵だったが、右翼・民青・機動隊というのがさしあたっての敵だった」ということになった。
が、いざ70年代のその時期を迎えて実際になしたことは、「三木内閣のもとで、ロッキード事件が暴露され、また小選挙区制の問題で日本の民主主義がおびやかされるという情勢がすすんだとき(76年4月)、私たちは、小選挙区制粉砕、ロッキード疑獄の徹底究明、当面の国民生活擁護という三つの緊急課題で『よりまし政権』をつくろうではないか、という暫定政権構想を、当時の宮本委員長の提唱で提起しました」(「日本共産党の政権論について」)という代物になってしまっていた。 |
【統一戦線と共同戦線の識別考】 |
ここで最近気づいたことを述べる。「共同戦線論考」でも述べたが繰り返しておく。従来、左派潮流の共闘を「統一戦線」と表現してきたが、左派運動の本義に於いては「共同戦線」と表現すべきなのではなかろうか。ニュアンスの違いではあるが、「統一戦線」という表現には、マルクス・レーニン主義者党を自認する党中央を絶対の正しき党と見なした上で、マヌーバー的な戦略上の妥協として導入されるものの、実際には党中央を「奥の院」に据えており、その睨みの構図の中で党フラクション組織としての大衆団体、労働組合、その他組織を結集させ、その周りに他党派、諸潮流の取り込みをも図るという自尊構図が見られる気がしてならない。 そうではなく、党内に異論と派閥が認められ、平常も党大会でも議論がかまびすしく為され、その同じ論理で他のどのような組織とも課題毎に時局に応じて共闘を目指すというのがこの種の運動に本来期待されていることなのではなかろうか。という訳で、れんだいこは以降、「共同戦線」と表現することにする。これより以降、統一戦線なる用語を使う者は、れんだいこのこの指摘に理論的に反駁せねばならない。 現下左派運動諸党派の党中央の呼びかけで為されるその種の運動は「統一戦線」運動と見なしても良かろう。なぜなら、彼らは、例の民主集中制に繋がる満場一致世界を現出する組織論に相応しい統一戦線運動を志向しているのだから。ちょっとの認識上の違いであるが、意味するところは運動観の世界が根本的に変わるほど大きな違いでもあるように思われる。 補足すれば、万が一民主連合政府的なものが出来たして、日共より左派系諸派の政治的活動が認められる幅が現自・自・公政府下のそれより狭まるという危惧は杞憂なのだろうか。私は、現在の日共党中央執行部が、より左派系党派の政治的自由についてきちんと説明したものにお目にかかっていない。赤旗記者が茶髪・金髪OKで党本部を出入りしていることを指摘してこれほど自由が認められているのだとかいう、本来何の意味も持たない事例で説明しているのを聞いたことがあるばかりである。 民主連合政府の呼びかけは、歴史的には、社会党がむしろ社・公合意の方向にむかっていったことによって流産したように記憶している。共産党が右へ寄れば寄るほど社会党も右へ動き、今日共産党はかっての民社党辺りのところまで寄って来ているようにも思われる。否、民社党のほうが労働者に一定の基盤を持っていたことを考えれば、それよりもなお右派的かも知れないという驚くべきところまで漂流してきているよう思われる。この間いつのまにか社会党がいなくなってしまった。民社党はリベラル系保守諸派の中に潜り込んでしまった。この先一体どうなることやら。やはり瑞穂の国は大政翼賛会方式が似合うのかも知れない。 こうした流れに結果したことについて、社会党批判とは別途に日共の対応の変調さも検証しておかねばならないのではなかろうか。仮にスローガンに正しさがあったということと、その道筋を作りだせれなかったということとは不可分の責任関係にあると思われるが、免責されるのであろうか。つまり、 民主連合政府の呼びかけ問題に付きまとっていることは責任体系の問題である。政治的スローガンの提唱は執行部の権限であるが、その指針が流産した場合、まっとうな政治的解明と責任処理がなされるべきであるという緊張関係がなければ、全ては饒舌の世界になってしまうのではなかろうか。 この峻別がなされているのが何と自民党であり、与党として信頼が託されている所以なのではなかろうか。このことは、ホームページに於ける各党の党史掲載の仕方でも分かる。何と、自民党の出来が相対的に一番良い。次に公明党、民主党という具合になっている。社民党と共産党には党史と云えるほどの記述さえ無い。社民党の場合、ホームページにはないが、検索で探そうと思えば探せる。ところが、日共の場合、どこから検索しても出てこない(2006.5.7日現在)。おかしなことである。 その癖、著作権については、現行著作権法よりなお生硬な強権著作権論を振りかざしている。党の見解が流布されるにつき、承諾なしで勝手にされてはならじとするその精神は何ぞ。れんだいこにはさっぱり理解できない。いつからこんな左派運動が流行し始めたのだろう。誰か、れんだいこが納得のいくように説明してくれないだろうか。 もとへ。なるほど、このたびの党の現執行部の呼びかけを見れば、反省と工夫がなされてはいる。「21世紀の初頭に民主連合政府の樹立を」とあるように、この度はかっての「70年代の遅くない時期」的呼びかけに比して、「21世紀の初頭」というように、漠然としたより長期レンジのスローガンにしてはいる。しかし、この時には不破も志位も政治活動の一線からリタイアしている頃であろうから、執行部の責任体系をあらかじめ放棄した批評的願望的スローガンであることが見て取れる。えらいところに智恵を使うもんだと感心させられている。 極く最近では組閣参入にも色気を見せてもいるようであるが、どっちへ転ぼうともフリーハンドの執行部というのは党ならではの羨ましい限りの話のように思えたりする。それにしても党員の皆さんのご納得があってこそ成り立つわけであり、それを思えばただただ頭が下がるばかりというしかない。 2002.10.29日再考、2006.5.7日再編集 れんだいこ拝 |
【全共闘運動及び思想考】 | |
「統一戦線と共同戦線の識別」に至れば、日本左派運動史の中で最も成功裡にこれを成し遂げたと思われる「全共闘運動及びその思想」に思いを馳せねばならない。実は、全共闘運動は、日本左派運動が始めて組み立てた党派間連衡の共同戦線運動ではなかったか。れんだいこは、その功績を断然評価されねばならないと考える。もっとも実際は、各党派はその重みに耐えかねてか、それを更に発展させるよりは自主的解体の方を選んでしまった。しかし、一時的にせよそれを獲得したという史実が尊いように思われる。 ちなみに、これに参画した党派とこれに敵対した党派を掲げ、違いを愚考してみることにする。70年安保闘争過程の1969.9.5日、日比谷野音で「全国全共闘会議」が結成された。どのセクトとも特別の関係を持たなかった東大全共闘の山本義隆(逮捕執行猶予中)が議長に、日大全共闘の秋田明大を副議長に選出し、ノンセクト・ラディカルのイニシアチブの下に新左翼8派を組み入れ、全国178大学の全共闘組織が生まれ、全国の学生約3万4000名が結集した。 8派セクトは次の通りである。1.中核派(上部団体−革共同全国委)、2.社学同(々共産主義者同盟)、3.学生解放戦線(々日本ML主義者同盟)、4.学生インター(々第四インター日本支部)、5.プロ学同(々共産主義労働者党)、6.共学同(々社会主義労働者同盟)、7.反帝学評(々社青同解放派・革労協)、8.フロント(々統一社会主義同盟)。 これを出自から見ると、革共同系、ブント系、元社会党急進主義系、元日共構造改革派系から構成されていることになる。これを逆から云えば、これら党派は共同戦線運動に馴染める運動論組織論を構築していることになる。これに加わらなかった革マル派、日共系民青同、その他赤軍派、**、**、**等々は、共同戦線運動に馴染めない運動論組織論を構築しているのではないかということになる。 れんだいこは、「統一戦線と共同戦線の識別考」で記したように共同戦線運動を推奨する。それは戦略戦術問題というより、もっと深いところでの人間種族の群れ方として根本的に認め合わなければならない原理だと心得るからである。ここを立脚点としつつ丁々発止の駆け引きで共闘していく知恵こそ大人のそれであり、これが出来ぬのは子供段階の運動でしかない。れんだいこはそう思う。 逆から云えば、統一運動論に権力発想的臭いを嗅ぎ取り、それは往々にして良からぬ結果しかもたらさないと心得るからである。それは容易に得手勝手な真理に繋がり、権力如意棒となって異端ないしは少数意見の排撃に向う。事実、右からであれ左からであれ、統一呼号論者の運動にはろくなのがありはせぬではないか。 この観点はあるいはマルクス主義のそれではないのかも知れない。アナーキズムのそれであるのかも知れない。ならば、れんだいこは、アナーキストであっても良い。なぜなら、組織論、運動論に於いてこの作風こそが踏まえられる原点となるべきだと思うから。もし、マルクス主義がこれに立脚していないのなら、それは明らかに間違っている。その負のツケが自己撞着して今日の貧困にまで至っている気がしてならない。 れんだいこが信奉するのは、「自由、自主、自律」的な運動である。れんだいこは、仮にこれをルネサンス気風と表現している。我々が擁護すべきはこのルネサンス運動であり、そのレベルが高いものであるなら、このレベルに合わせられる人士をより多く輩出するよう日頃から理論親日実践運動に有機的に取り組めばよいのではないのか。左派運動がそれなりの格を持つものになるのは致し方ない。考えて見れば、政治運動そのものが、恐らく人間諸力の実践形態としてはかなり能力を要する分野のものであり、尚且つ高尚なものではあるまいか。そういう気がする。 ところで、「共同戦線論」が良いとしても、問題は、言葉に酔うことにあるのではない。毛沢東の「中国社会各階級の分析」の次の一節の知恵を踏まえねばならない。
これによれば、れんだいこ式解釈に従えば、赤い心同士であればアバウトで良い、共闘を優先させるべし。白い心と対する時は、妥協してはならない。相互にこれを実践して関わっていくのが正しい運動形態である、ということになる。ここのところが曖昧なままの日本左派運動は、「これまでの革命闘争は全ての成果が非常に少なかった」という結論に導かれるのも致しかたなかろう。 補足すれば、毛沢東指導は、この頃までの観点は非常に素晴らしかった。戦後、建国革命に成功し、権力掌握後の毛沢東は次第に統一理論に傾斜していくことになる。それと共に抗日運動期にあった瑞々しさを失っていくことになる。その背景事情にはそれなりのものがあったと思われるので別途分析をせねばならぬが、原理的な逸脱は見逃せない点ではなかろうか。 とりあえずは以上の指摘にとどめておくことにする。 2005.3.15日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)