補足(論評) トロツキズム天敵考、科学的社会主義考

 (最新見直し2008.7.7日)

【トロツキズム天敵考】
 以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。ここではじめてトロツキズムの諸潮流に出くわすことになるが、この流れの由来をあたかも異星人・異邦人の到来であるかにみなす傾向が今日もなお日本共産党及びその感化を受けた勢力の中に認められる傾向について、どう思うべきかという事に関してコメントしておこうと思う。

 今私は川上徹編集「学生運動」を読み始めている。気づくことは、前半の語りで該当個所に関してマルクス・レー ニンの著作からの適切な指示を引用しながら、結論部に至って「トロツキスト・ 修正主義者を一掃しなければならない」という締めの文句を常用としていることである。他方、右翼・ノンポリ・宗教運動家・改良主義者に対しては統一戦線理論で猫なで声で遇することになる。この現象は、一体何なんだろう。そん なにトロツキズムを天敵にせねばならない思考習慣がいつ頃から染みついたのだろう。

 以下の考察で明らかにしようと思うが、トロツキズムもまた世界共産主義運動史の中から内在的に生み出されてきたものである。マルクス主義の弁証法は、社会にせよ運動の内部からにせよ内在的に生み出されている事象については格別重視するという思考法を生命力としている、と私は捉えている。トロツキズムをあたかも戦前調のアカ感覚で捉え誹謗している現在の党運動における反動的感覚をこそ問題にしたい。

 運動の中から生まれた反対派に対して、 日共党指導部が今なお吹聴している様な原理的敵視観のレベルで、マルクス、レーニンがそのように言っているという文章があるのならそれを見せて欲しい、と思う。例によって宮顕に戻るが、この論調は宮顕が最も得意とする思考パターンであり、戦前は党内スパイ摘発に対して使われた経過は既に見てきたところである。いわゆる「排除の強権論理」であるが、この外在的思考習慣から我々は何時になったら脱却出来るのだろうか。

 2004.10.3日再編集、2008.1.5日再編 れんだいこ拝

【科学的社会主義考】
 ところで、今日の時点では漸く日共も含め左翼人の常識として「スターリン批判」に同意するようになっているが、私には不十分なように見受けられる。なぜなら、「スターリン批判」は「トロツキー評価」と表裏の関係にあることを思えば、「トロツキー評価」に向かわない「スターリン批判」とは一体何なんだろう。史実の流れから見て許されることだろうか、れんだいこはそう憤怒する。

 不破が編み出した姑息な論法は、かってはスターリンを礼賛し、それが維持できるとなるや、「トロツキー評価」に向う代わりに 「科学的社会主義」を云々することであった。「科学的社会主義」的言い回しの中で一応の「トロツキー評価」も組み込んでいるつもりかもしれない。が、あれほどトロツキズムを批判し続けてきた史実を持つ公党としての責任の取り方としてはオカシイのではなかろうか。スターリンとトロツキーに関して、それこそお得意の「自主独立的自前の」史的総括をしておくべしというのが筋なのではなかろうか。「自主独立精神」の真価はこういう面においてこそ率先して発揮されるべきではないのか、と思われるが如何でしょう。

 ちなみに、私は、我々の運動において一番肝心なスターリンとトロツキーとレーニンの大きな相違について次のように考えています。この二人の相違は、 党運動の中での見解とか指針の相違を「最大限統制しようとするのか」対「最大限認めようとするのか」をめぐっての気質のような違いとしての好例ではないかと。レーニンはややスターリン的に具体的な状況に応じてその両方を使い分ける「人治主義」的傾向を持っていたのではなかったのか。そういう手法はレーニンには可能であったが、スターリンには凶暴な如意棒に転化しやすい危険な主義であった。

 晩年のレーニンはこれに臍を噛みつつ既になす術を持たなかったのではなかったのか。スターリン手法とトロツキー手法の差は、どちらが正しいとかをめぐっての「絶対性真理」論議とは関係ないことのように思わ れる。運動論における気質の差ではなかろうか。「真理」の押しつけは、統制好きな気質を持つスターリン手法の専売であって、統制嫌いな気質を持つトロツキー手法にあっては煙たいものである。運動目的とその流れで一致しているのなら「いろいろやってみなはれ」と思う訳だから。ただし、トロツキー手法の場合「いざ鎌倉」の際の組織論・運動論を補完しておく必要があるとは思われるが。

 ついでにここで言っておくと、今日の風潮として、自己の主張の正しさを「強く主張する」のがスターリン主義であり、ソフトに主張するのが「科学的社会主義」者の態度のような踏まえ方から、強く意見を主張する者に対して安易にスターリニスト呼ばわりする傾向があるように見受けられる。これはオカシイ。強 くとかソフトとかはスターリン主義とは何の関係もない。主張における強弱の付 け方はその人の気質のようなものであり、どちらであろうとも、要は交叉する意見・異見・見解の相違をギリギリの摺り合わせまで公平に行うのか、はしょって権力的に又は暴力的な解決の手法で押さえつけつつ反対派を閉め出していくのかどうかが、スターリニストかどうかの分岐点ではなかろうか。

 スターリ ニズムとトロツキズムの原理的な面での相違はそのようなところにあると考えるのが私見です。こう考えると、宮顕イズムは典型的なスターリニズムであり、不破のソフトスマイルは現象をアレンジしただけのスターリニズムであり、同時に日本のトロツキズムの排他性も随分いい加減なトロツキズムであるように思われる。

 2004.10.3日再編集、2008.1.5日再編 れんだいこ拝




(私論.私見)