補足(論評) 左翼サミット

 (最新見直し2008.7.7日)

 以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。我々は、そろそろ左翼運動における益になる面と害になる面の識別を獲得すべきではなかろうか。「何を育み、何をしてはいけないか」という考察ということになるが、この辺りを明確にしないままに進められている現下の左翼運動は不毛ではないか、本当に革命主体になろうとする意思があるのかとも思う。例えば左翼サミットのような共同会議で史実に基づいた大討議を「民主的運営で」やって見るということなぞが有益ではなかろうか。これが出来ないとしたら、させなくする論理者の物言いをこそ凝視する必要がある。

 そもそも議会というものは、意見・見解・方針の違いを前提にして与党と野党が論戦をしていくための機関なのではなかろうか。これがなされないのなら、議会は不要であろう。左翼サミットの場も同様であり、最大党派の民主的運営において少なくとも「国会」よりは充実した運営をなす能力が問われているのではなかろうか。理想論かも知れないが、そういうことが出来ないままの左翼運動が万一政権 を執ったとしたら、一体どういう政治になるのだろう。現下の自民党政治以下のものしか生まれないことは自明ではなかろうか。だから、本気で政権を取ろうともしていないと私は見ている。

 どうしてこういうことを言うかというと、平たく言って、人は理論によって動く面 が半分と気質によって動く面が半分であり、どうしても同化できない部分があるのが当然であり、そのことを認めた上での関係づくり論の構築が急がれているように思われるからである。これが「大人」の考え方だと思う。マルクス主義的認識論は、このようなセンテンスにおいて再構築されねばならないと考えている。

 マルクス主義誕生以降百五十余年、反対派の処遇一つが合理的に対応できないままの左翼戦線に対して、今私が青年なら身を投じようとは思わない。党派の囲い込みの檻の中に入るだけのように思うから。むしろ、こういうイ ンターネット通信の方が自由かつ有益なる交流が出来るようにも思われたりする。却って垣根を取り外していけるかもしれない、とフト思った。

 2004.10.3日再編集 れんだいこ拝




(私論.私見)