補足(論評) | マルクス主義受容の精神風土考 |
(最新見直し2008.7.7日)
以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。この時期の学生にとってマルクス主義受容の精神風土的根拠についての考察である。私の場合の捉え方が一般化出来るのかどうか分からないが、あまり変わりないものとして推定する。 当時の学生をも取り囲む社会は、敗戦の混乱から復興へ向けての産業資本の発展過程にあり、同時に冷戦下での米ソ二大陣営の覇権競争期に直面しており、国内外にわたって第二次世界大戦後の新秩序創造へ向けてのイニシアチブ闘争に突入していた。見落とされがちであるが、ネオ・シオニズムの世界制覇構想が着々と敷設されていた。 この時代、社会の諸事象に内在する矛盾に目覚めた者は、過半の者が必然的とも言える行程でマルクス主義の洗礼へと向かっていった。それが次代のニューマであった。 マルクスの諸著作は、必然的な歴史的発展の行程として資本制社会から社会主義へ、社会主義から共産主義の社会の到来を予見していた。社会主義社会とは、「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」社会であり、共産主義社会とは、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」社会であった。この社会に至ることによってはじめて社会の基本矛盾が出藍(止揚、揚棄)されていくことになる。当時の革命家はかく了解していた。もっとも、この革命事業の手法をめぐって見解と運動論の違いが存在した。 なお、この道中には過渡期が存在する。しかし、資本主義の墓掘り人としてのプロレタリアートの階級的利益の立場に立って、プロレタリアート独裁権力を通じてその歴史的任務をより合法則的に作動させていくならばいわば効率的にその社会に近づいていくことが出来、その知性と強権の発動のさせ方に前衛党の任務がある。気がつけば国家が死滅しており、人々の助け合いのユートピア社会が実現している。その行程の一助になる革命事業のためならば私一身の利害は捨てても惜しくはない。当時の革命家はかく了解していた。 こうして、「マルクス共産主義は、それまでの社会科学の集大成によって創られた無縫の天衣である。人間を包み込んで尚あまりあるもの。人間のどんな要求も呑み込み消化し社会の創造維持発展の養分にしてしまえる仕組み、と思っていた。沸き上がってくる望みや理想は全てそ こから引き出せる」(「戦後史の証言ブント」榊原勝昭)とでも言える認識で即興の左翼活動家が生み出されていったのではなかろうか。 私の場合、あれから30年近くの歳月を経て、このような階級闘争史観で万事を無理矢理解くには不都合な事象にも出くわしてきており、そのようなものの見方に対しては二歩三歩遠景から眺めるようになっている。「これはもう感情的な問題や。政策とか路線の問題じゃない。感情論の問題というのは修復し難いんですよ、歴史を見ても。どないもならへん」(「戦後史の証言ブント」星宮)という物言いには根拠があると思うようになっている。 とはいえ、他方で今日的な社会現象としての人と人とのスクラムのない閉塞状況からすれば、ますます当時の青年学生がつかもうとして挑んだ行為が美しくさえ見えてきてもいる。以下は、そういう者たちの青春群像による運動的事実が戦後史に存在したことの確認のため記す。 2004.10.3日再編集、2008.1.5日再編 れんだいこ拝 |
(私論.私見)