補足(論評) 国会突入考

 (最新見直し2008.7.7日)

 以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。これより後全学連主流派は、「国会へ国会へ」と向けて闘争を組織していくことになる。実際に今日では想像できない規模の「労・学」数十万人による国会包囲デモが連日行われ、全学連はその先鋒隊で国会突入を再度にわたって貫徹している。

 私は、「時代の雰囲気」がそう指針させたのだと了解している。が、果たして「国会突入」にどれほどの戦略的意味があるのだろうかという点につき考察に値する。というよりも、一体「国会」というのは何なんだろうと考えてみたい。恐らく、「国会突入」は「左」からの「国会の物神化」闘争であったものと思われる。後の全共闘的論理から言えば、「国会の解体」へと向かおうとした闘争であったということになるが、こういう運動は何となく空しい。

 私論によれば、 「国会」は各種法案の審議をするところであり、なぜその充実化(実質審議、少数政党の見解表明時間の拡充、議員能力の向上等々)のために闘わないのだろう。「国会」がブルジョアのそれであろうが、プロレタリアのそれであろうが、審議の充実化こそが生命なのではなかろうか。「国会」を昔からの「村方三役の寄合談義の延長の場」と考えれば、その民衆的利益の実質化をこそ目指すべきで、寄合談義がいらないと考えるのはオカシイのではなかろうか。審議拒否とか牛歩戦術とかの伝統的な社会党戦術は見せかけだけのマイナーな闘い方であり、闘うポーズの演出でしかないと思う。こうした裏取引方のええ格好しい運動を厳しく指弾していくことも必要であったのではなかろうか。

 このことは、党運動の議員の頭数だけを増やそうとする議会主義に対しても批判が向けられることを意味する。これもまた右からの「国会の物神化」運動なのではなかろうか。一体、不破を始めいろんな論客が国会答弁の場に立ったが、その貴重な時間において他を圧倒せしめる名演説を暫く聞いたことがない。最近の党首会談での原子力論議なぞは、それが如何に重要な問題であろうとも、今言わねばならぬ事は、呻吟する労働者階級の怨嗟の声を叩きつけることではなかったのかと思われる。あるいはまた中小・零細企業の壊滅的事態の進行に対する無策を非難すべきではなかったのか。良く「道理」を説いてくれるので、いっそのこと 「日本道理党」とでも名称をつけて奮闘されるので有れば何も言うことはないが。

 2004.10.3日再編集、2008.1.5日再編 れんだいこ拝




(私論.私見)