補足(論評) | 暴力路線考、れんだいこの民青同加盟考 |
(最新見直し2008.7.7日)
【暴力路線考】 |
以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。学生運動内における暴力の発生とそうしたゲバルト路線の定式化に関する是非について考察してみたい。既に「全学連第11回大会」における全学連主流派による反主流派(党中央派)の高野グループ派の暴力的な追いだしに触れたが、これより後左翼運動内にこの暴力主義的傾向が次第にエスカレートして
いく過程を見ていくことになる。 最初は、反代々木派による代々木派への暴力であったが、この勢いは追って反代々木派諸派内にも無制限に進行していくこ とになる。恐らく「暴力革命論」上の社会機構の改変的暴力性を、左翼運動内の理論闘争の決着の着け方の手法にまで安易に横滑りさせていったのではないかと思われるが、如何なものであろうか。 「オウム」にはポア理論という結構なものがあるが、それに類似した理論を創造しないまま暴力を無規制に持ち込むのはマルクス主義的知性の頽廃なのではなかろうか。あるいはまた警官隊→機動隊との衝突を通じて暴力意識を醸成していった結果暴力性の一人歩きを許してしまったのかもしれない。私は、オカシイと思うし、ここを解決しない限り左翼運動の再生はありえないとも思う。 「党内反対派の処遇基準と非暴力的解決基準の確立」に対する左翼の能力が問われているように思う。 「意見・見解の相違→分派→分党」が当たり前なら星の数ほど党派が生まれざるをえず、暴力で解決するのなら国家権力こそが最大党派ということになる。その国家権力でさえ、「一応」議会・法律という手続きに基づいて意思を貫徹せざるをえないというタガがはめられていることを前提として機能しているのが近代以降の特徴であることを思えば、左翼陣営内の暴力性は左翼が近代以前の世界の中で蠢いているということになりはしないか。暴力性の最大党派国家権力が暴力性を恣意的に行使せず、その恩恵の枠内で弱小党派が恣意的に暴力を行使しうるとすれば、それは「掌中」のことであり、どこか怪しい 「甘え」の臭いがする、と私は思っている。 ついでにもう一つ触れておくと、この時期全学連は当然のごとくに立ちはだかる眼前の敵警官隊→機動隊にぶつかっていくことになるが、彼らこそその多 くは高卒の青年であり労働者階級もしくは農民層の子弟であった。大学生の エリートがその壁を敵視して彼らに挑まねばならなかった不条理にこそ思い至るべきではなかろうか。街頭ゲバルト主義化には時の勢いというものもあるのであろうが、ここで酔うことは許されない限定性のものであるべきだとも思う。 頭脳戦において左翼は体制側のそれにうまくあやされているのではなかろう か。この観点は、戦前の党運動に対する特高側の狡知に党が頭脳戦においても敗北していたという見方とも通じている。それはそれとしてそれにしても、この時期ブントの動きは日本大衆闘争史上例のない闘いを切り開いていくことになる。 2004.10.3日再編集、2008.1.5日再編 れんだいこ拝 |
【れんだいこの民青同加盟考】 |
1970年、れんだいこは偶然にも70年安保闘争の年に入学した。当初、高校時代の延長で剣道部に入部した。ところが、キャンパスでは連日マイクが70年安保闘争をがなりたてていた。入学して1ヵ月後の5月頃から何事かせねばと思い、剣道部を退部して自治会に向かった。以来、連続して諸闘争に参加するようになっていた或る時の、確か日比谷公園での座り込みの際にオルグられた。それまで誘われなかったのは多分異色であり臭いが違っていたのだろう。某先輩から誘われた時、凝縮した30秒の去来の内に了承した。以来、自治会活動家として、自分で言うのもなんだが8年在学しても良いと思うほどのめり込んだ。 その事はさておき、れんだいこは、よりによってなぜ民青同に加盟したのだろうか。今でも時々考える。既に革マル派の某氏からは執拗に誘われており、何度か逃げ、最終的にあきらめさせた経緯がある。れんだいこの理論水準はさほどのものもなく、オルグられたら落とされていたかも知れない。何となく人物的な感性が受け付けず、あわてることはないと構えていたのが幸いしたと思っている。 それはともかく、れんだいこは、なぜ民青同に加盟したのか。今思うに、既に骨抜きにされつつあったとはいえ、戦後民主主義の質を好評価しており、民青同の「民主主義を護れ」を琴線的に受け入れたのではなかろうかと思う。既に、党派間ゲバルトが目立ち始めており、何やら本来の軌道から外れているように思っていたから、無難な選択をしたのだと思う。 その点で、川口大三郎氏の悲劇は他人事ではなかった。既に学生運動各派の怨念は、シンパ段階の者にまで容赦ない鉄槌を浴びせ始めていた。川口氏が正義感の赴くまま「見てやろう聞いてやろう」で各派の集会へ顔出しし、そこで得た見解を吹聴することが許される状況にはなかった。そういう意味で、れんだいこの避難所的民青同加盟選択は幸いであった。 しかしながら、闘争の進め方、アジり方、組織戦術を廻ってしっくりせず、「お前は深まっていない。『日本革命の展望』を読め」と云われ続けるのに閉口して、1年有余の活動を経てサークル活動へ転じた。もろに(実名は避けるが例えば)「社会科学研究会」と銘打っているのが気に入り、読書三昧に耽る時間が与えられる事になった。今にして思えば、これも幸いであった。 それにしても、宮顕の「日本革命の展望」を読んで深まっていると自惚れていた連中の頭脳はどうなっているのだろう。あれほどくだらない詭弁とマルチ舌詐術で塗り固められた駄作を褒めていた連中に今も憤然とした思いを禁じ得ない。というか、怒るほどのことでもないのでからかってやるべきか。 それはともかく、ここで云いたいことは、人は理論により靡くのではなく身近な人間関係により縁を結ぶという法理を確認したい為である。それと、好んで暴力的に向かうのは愚であり、極力は学びと議論とその練りあいを重視すべきであり、それから行動が始まるのだという法理を確認したい為である。 このことをここで記す理由は、その後の学生運動の貧相化によほどこの事が関係していると思うからである。思えば、戦後から営々と積み重ねられる運動を組織しておれば、今頃はよほど違う世の中になっていたのではなかろうか。穏健派も急進派も肝心なこの事が出来ないど坪方向に向かったように思え、残念で堪らない。 革命も事業と捉えれば、よろづに通ずるのは「裾野を広く、上部の質は高く」が理想であろう。これを逆にやると、いかな老舗も倒れるのが道理だろう。道理を唱える者がこの道理を分かっていないので、通りでこんな具合になってしまったように思う。世間とはそういうものかも知れないが。 2008.1.9日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)