【執筆観点】

【「物語り戦後学生運動論」の執筆観点その1】

 本書の執筆観点を明らかにしておく。筆者は、政治情況が革命を欲しているにも拘らず、日本左派運動史の負の遺産がのしかかり、何を信じてどう闘えば良いのか、確信と展望を失っていることが遠因で低迷していると考えている。その為にも、時代が、かって存在した学生運動の正確な理解を求めたがっているのではないかと窺う。本書は、これに応えるものである。

 しかし、これを「中立公正」に書き上げるとなると難しい。そこで、まずは真紅の熱血が確かに在って、理論はともかくも本能的に正しく実践したと評価できる運動の流れを中心に史実検証し、これを芯としてその他の潮流も確認してみようと思う。そういう意味での「中立公正」に書き上げるよう苦心した。

 既成のものは随分あるが物足りない。日共系のものも新左翼系のものも、明らかに筆者と観点の違う記述が罷り通っており、この種のものをいくら学んでも為にならない。そのような観点からのものを更に追加しても、屋上屋を重ねることにしかならない。何事も見立てが難しい。その見立てを正しくして最低限伝えねばならない動きを記しながら、筆者自身が得心できるような新たな学生運動論を纏め、世に問いたいと思う。

 本書は、巻末に記した「インターネットサイト」、「参考文献」の各情報を咀嚼しながら纏めた。最終として、高沢、高木、蔵田共著の「新左翼二十年史」(新泉社、1981.8.16日初版)と対話することにする。第1次ブント運動史の正の部分を受け継ぐことから展望するのが良書となると信ずるからである。更に云えば、第1次ブント理論を極限化させ総破産した赤軍派の軌跡から何を学ぶべきか、と云う観点も保持したいと思っている。これはかなり難事ではあるが挑みたい。

 なぜ適正な学生運動テキストが必要かと云うと、これがないと盲目運動に堕してしまうからである。日本左派運動の弊害ないしは幼稚性として、穏和系にせよ急進系にせよ、どういう訳か史実を刻まず、伝承しようとしない作風がある。僅かの史実も自派に都合の良いように書き換えして憚らない作風がある。史書の重要性を顧慮しないこういう運動が首尾よく進展しないのは自明であろう。

 ネット上で読めるものを出版本にする必要があるのかと問うこともできるが、私が読者なら、本書の値打ち次第であろう。良書に値するものなら書棚に置きたいと思う。手軽に持ち運びでき、自在に蛍光線引ける出版本を手にしたいと思う。そう考えて出版することにした。ネット本と出版本のこの関係のさせ方は、今後の出版本の在り方のモデルになるのではなかろうかと自負している。

 具体的に戦後学生運動論をどう書くか、ここで視点を明らかにしておきたい。一つは、当時の時点に立ち戻り、当時の感覚に立ち入り内在的に書くのも一法である。肯定的に継承する場合にはこの方法が良い。だが、これから追々記すように半ば肯定、半ば否定的に記す場合には、姿形が見えて来た今日の視点より過去を論評的に書く方が適切ではなかろうか。その後の学生運動の衰微を知る今となっては当時の正義を語るより、今日から見た当時の理論及び実践上の欠陥を指摘しつつその後の衰微の事由を検証して行く方が説得的ではなかろうか。

 実は、ここに拘る事由がある。というのは、筆者自身も関わった世界であるから余りに否定的に書くのは辛いが、筆者は今、戦後学生運動のみならず近年から現代に至る左派運動総体がどうやらその正体が怪しいと気づいている。当然、全否定するようなものではない。肯定的に受け止めるべき流れと、それに纏いついた不正の流れの両面があり、その両面を考察せねばなるまい。こういう気づきを得ているので、当時の感覚に深のめりして書くより、肯定面のそれと否定面のそれを分離させつつ評論しようと思う。その方が却って適切なのではなかろうかと考えている。

 以上、思わせぶりに述べたが、正体をはっきりさせておく。戦後学生運動のみならず近年から現代に至る左派運動総体の正の面とは、国家権力の暴政に対する抗議及び抵抗と人民大衆の民生向上及び福利、国際平和協調、反戦へ向けての闘いにあった。これは今も正しいし、今後も目指すべきであろう。

 では、負の面とは何であろうか。これを明らかにするのに、筆者の苦節30有余年の内省的格闘があった。見えて来たことは次のことである。戦後学生運動のみならず近年から現代に至る左派運動総体のうち、穏和主義者の場合は相当早くよりマルクス主義の革命的骨格を骨抜きにしてきたという経緯が認められる。しかもかなり体制投降主義的に変節せしめている。この連中と論を交わすのは時間の無駄であるので無視を原則としたい。

 問題は急進主義者の方である。彼らは、マルクス主義を北斗七星の如く金科玉条としてきた。それにしてはマルクス主義を深めようとしてない気がするが、一応それは良しとしよう。問題は、連中が、マルクス主義の基盤の危うさを知らずに、これを鵜呑みにしてきた経緯である。なお且つマルクス主義にも認められる正の面と負の面の両面のうち負の面を拝戴してきたという経緯である。

 これは一種の捩れであるが、この捩れが当時も今も続いているように思われる。本書の意義は、このことを鋭く指摘し、マルクス主義者のマルクス主義研究をひとたび初手に戻し、マルクス主義の正の面と負の面を遠心分離させ、正の面の継承及び発展に立ち返らせたいということにある。大言壮語かもしれないがマジでかく述べたいと思う。


【「物語り戦後学生運動論」の執筆観点その2】

 では、マルクス主義の負の面とは何であろうか。当然、関心はそのように向かう。筆者はかく述べる。マルクスは、初期の「共産主義者の宣言」から晩年の不朽の名作「資本論」に至るまで一貫して、社会発展の歴史的発展必然行程として封建制から資本制への転換を認め、資本制の次に待ち受ける段階として社会主義、共産主義への歩みを展望させた。これにより、プロレタリアートに対し、資本制からの解放と救済を主眼とする歴史的使命と闘う武器としての理論を与えた。これが、マルクス主義の功績である。

 ところで、マルクスが、資本制下に苦吟するプロレタリアートに闘いの根拠と正義を与えたのは良いとして、人類社会の歴史的行程として封建制から資本制への転換をいとも容易く歴史的必然として容認したのはいかがなものであろうか。筆者は今、眉唾すべきではなかったかと考えている。ここには明らかに理論の飛躍と詐術が認められるように思うというのがれんだいこ史観である。

 本来の歴史的発達は、幾ら科学と産業が発達したとしても、その後の歴史に立ち現れたような資本制には必然的には移行し難いのではなかろうか。資本制に移行したのは、歴史的必然としてではなく明らかに人為的なものなのではなかろうか。その推進者及び推進主体無しには為し得なかったのではなかろうか。この推進者及び推進主体こそが資本制の産みの親であり、体制の黒幕なのではなかろうか。かく認識し直したい。

 当然次のようになる。それが人為的なものであるなら、我々が闘うべき対象は、徒な体制批判としての資本制ではなくむしろ資本制を生み出した黒幕に対してではなかったか。そして、資本制が具象化している個々の労働現場で、資本制に代わるあるべき在り方を廻る闘いが肝要だったのではなかろうか。この両面を政治運動化すべきなのではなかろうか。筆者は、そのように思い始めている。

 マルクスは、「資本論」及びその数々の前著で、この黒幕に対して意識的に言及を避けており、むしろその著作は却って煙幕的役割を果たしている気配がある。個々の労働現場でのあるべき在り方を廻る闘いを放棄させ、革命還元主義的な煽り方をしているようにも思える。それらはいずれも、黒幕にとっては痛くも痒くもないむしろ彼らにとっても有利な革命理論となっているように思われる。これが意図的故意か偶然かまでは判然としないが、マルクスと黒幕との通謀的証拠が遺されているからして没交渉であったとは云い難い。

 では、資本制の黒幕とは何及び誰であろうか。当然、関心はそのように向かう。筆者はかく述べる。マルクス時代も、我々の戦後学生運動時代にも定かには見えなかったが、今日段階ではっきりしているのは、近代から現代へ至る歴史に於いて真なる創造者は、近現代史上裏モンスター的に登場し世界を席捲支配している国際金融資本であり、これが資本制帝国主義の黒幕ではないのか。これについては、「提言2、ネオ・シオニズムに対するそもそもの無知から出藍せよ」で更に言及する。


【「物語り戦後学生運動論」の執筆観点その3】

 戦後学生運動は、否日本及び世界のマルクス主義的左派運動が、このカラクリを見抜けぬまま、マルクス主義を金科玉条視し、憧憬し純朴に仕えてきた歴史があるのではなかろうか。左派の国際主義はその空疎性にも拘らず今なお左派精神を規制しているが、そろそろその不毛、恐さを顧みるべきではなかろうか。マルクス主義者の伝統的宿アは批判に長けるが、こうしたことを内省するのに弱い面があるように思われる。その精神は極めて安逸と罵られるべきではなかろうか。

 我々はこうして、史上の真の敵に向かわず、在地の国家権力打倒に勤しむことにより、むしろ真の敵に利用されてきたのではなかろうか。人民大衆が一定シンパシーするもそれ以上接近しなかったことの裏にはこういう事情が有るのではなかろうか。これを批判的に総括せずんば学生運動論を称賛的に書き上げても意味がない。

 筆者はこのように認識しているので、戦後学生運動及び左派運動総体のこの盲目性を見ないままの運動史を単に字面で叙述することができない。このことを言い添えておきたかった。漸く結論になった。そういう訳で、以上の観点からの学生運動論を書き上げることにする。

 これが、筆者の学生運動論上宰事由である。長年腑に落ちなかったものが今次第に溶けつつある。これを如何に暴くか。ここに筆者の能力が掛かっている。願わくば、筆者共々多くの人士が叩き台にしてくれんことを。そして、得心いったなら、今からでも遅くない、日本左派運動の軌道をあるべき方向に据え直してくれんことを。

 本書は、このような観点から戦後左派運動、ここでは戦後学生運動を解析する。この観点からの叙述は本邦初であり、大方の者には奇異に受け止められるのも止むを得ない。しかし、この観点が打ち出された以上は検証されるべきであり、これを否定するに足る見解が出されない限りは学ばねばならないであろう。そうならずんば真の学問とはならないであろう。筆者の自負するところ、れんだいこ式学生運動論総括が登場したことにより、従前の研究本は「れんだいこ式観点」を持たない分それだけ意義と生彩を失うことは止むを得ない。こう俯瞰しながら以下、戦後学生運動史を検証する。





(私論.私見)