9章 5期その3 1960  60年安保闘争

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1960(昭和35)年の安保闘争を別立てでサイトアップする。これを「5期その3、60年安保闘争」と命名する。「詳論」、「概論」、「物語り」を別途記す。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。

 筆者は、60年安保闘争につきこれを特筆し、「戦後学生運動3、60年安保闘争概略」として別立てする。その理由は、60年安保闘争の意義を確認したいと云う意味と、この時成立せしめられた日米新安保条約がその後の日本を縛り、この時より戦後日本は憲法秩序と安保秩序の二重構造社会へ入ったと云う歴史性を際立たせたい為である。ここでは、従来の「この時期の全体としての政治運動」と「この時期の学生運動の流れ」の2本立て記述を改め1本化し、事件の区切りごとに60年安保闘争の経緯を追って行くことにする。当時のブント−全学連運動がそれほど情況と肉薄していたからである。

【この時期の全体としての政治運動、学生運動】

【60年安保改定をどう見るべきか】
 59年から60年に初頭にかけて日米安保条約の改定問題が、急速に政局浮上しつつあった。政府自民党は、このたびの安保改定を旧条約の対米従属的性格を改善する為の改定であると宣伝した。確かに、旧条約が内乱や騒擾鎮圧に関して米軍の出動を規定していたのを独立国家の面子に関わる規定であるとして削除した。安保条約の改定は、日本の国家主権の自立化に対応させてアメリカとの政治的軍事的関係を対等にした新たな同盟関係を結ぼうとするものであった。岸政権が喧伝した「対等パートナー関係の構築」はその限りに於いて嘘ではない。

 しかし、より重要なことは、日本をアメリカ帝国主義の極東戦略に深のめりさせんとしており、それは「戦後日本の米国依存のめり込み」であり、新安保条約は、米軍の引き続きの日本占領と基地の存在を容認した上、新たに日本再軍備増強を迫り且つ日米共同作戦の義務を負わせることにより傭兵化すると云う狙いが秘められていた。さらには経済面での対米協力まで義務づけるという点で戦後の画期を創ろうとしていた。岸政権は、これにより憲法改正を画策していた。つまり、憲法改正と安保改定は連動していた。

 これについて筆者はかく思う。こたびの安保改定の本質は、去る日のサンフランシスコ条約で吉田政権が国家主権の独立と引き換えに結ばされた日米安保条約の定向進化にあり、これのもたらすところは戦後社会の合意である憲法の前文精神と9条を空洞化を通じた国際金融資本の世界支配戦略への露骨な組み込みであった。日本左派運動がこれに猛反発したのは、けだし当然であろう。俊英ブントが第一政治課題と位置づけ猪突猛進を開始したのは素晴らしい感性であった。

【「日共の二枚舌」】
 1960(昭和35).1.13日、日共は、この日のアカハタで、岸全権団の渡米に際し、信じられないことだけども岸全権団の渡米にではなく、渡米阻止闘争に猛然と反対を唱えて、全都委員、地区委員を動員して組合の切り崩しをはかった。次のような「変調な送り出し方針」をく打ち出している。
 「(岸首相の渡米出発に際しては)全民主勢力によって選出された代表団を秩序整然と羽田空港に送り、岸の出発まぎわまで人民の抗議の意志を彼らにたたきつけること」。

 これについて筆者はかく思う。それにしても妙な文章であろう。末尾で「人民の抗議の意志を彼らにたたきつける」とあるから闘うのかと思うと、前段では「全民主勢力によって選出された代表団を秩序整然と羽田空港に送り」とある。何のことはない、アリバイ闘争にしけこもうと云うだけの話である。日共は、こういう二枚舌論法を多用する。しかし、こういう二枚舌論法に違和感を抱かず丸め込まれ騙される方にも責任があろう。

【「全学連の羽田空港占拠事件」】
 1.15日、全学連は、社共、総評の静観を一顧だにせず、独自行動として岸渡米阻止羽田闘争に取り組むことを決定し、15日夕から全学連先発隊約7百人が羽田空港に向かった。警官隊より早く到着し、ロビーを占拠、座り込みを開始した。後続部隊も続々と羽田へ羽田へと向かった。この闘争で唐牛委員長、青木ら学連執行部、生田、片山、古賀らブント系全学連指導下の77名が検挙された。樺美智子女史も逮捕されている。これを「羽田空港占拠事件」と云う。

 社会党・総評は、統一行動を乱す者として安保共闘会議から全学連排除を正式に決定した。日共は再び全学連を「トロッキストの挑発行動・反革命挑発者・民主勢力の中に送り込まれた敵の手先」として大々的に非難した。革共同も、「一揆主義・冒険主義・街頭主義・ブランキズム」などと非難している。

 しかし、島氏は次のように確認している。
 「全く新しい大衆闘争の現出だった。明らかに私たちブントの闘いによって、政治にとって、安保闘争にとって、人民運動にとって流動する状況が生まれたという確信である。長らく社・共によって抑圧されていた労働者大衆が、これをうち破った全学連の行動を通して、新しい政治勢力としてのブントの像をはっきり見たに違いないという実感である」。

 これについて筆者はかく思う。岸渡米阻止羽田闘争に対してさえ、左派圏内でこれほどの差が有る。これを踏まえて、どちらの謂いを支持するのかが問われていることになる。

 知識人によって羽田事件の逮捕者の救援運動が始められたが、日共は、発起人に名を連ねている党員の切り崩しをはかった。これにより、関根、竹内、大西、山田、渋谷などの人々が発起人を取り下げざるをえなくされた。これらの知識人は後々日共に対する激しい批判者となる。

【日米新安保条約調印される】
 1.19日、日米新安保条約がワシントンにおいて、岸首相とアイゼンハワー大統領との間で調印された。新条約は有効期限を10年間と定め、日本の自立を認めた上で「アメリカ陣営内における集団的自衛」をうたっていた。日本の米国依存化が岸の高圧的な政治姿勢と重なって国民に不安を与えることになった。

 1.24日、岸全権団が帰国し、自民党が1万5千名で歓迎集会を開いている。この日、東京.九段会館で社会党右派の西尾末広らが社会党を離党し、新党として民主社会党(民社党)を結成している。委員長に西尾末広(69才)を選出、「資本主義と左右の全体主義と対決する」という綱領を掲げ、実践的には「マルクス主義と一線を画して議会政治の徹底」を意図していた。

三菱長崎造船所細胞が集団離党
 1−2月、共同印刷.鋼管川鉄と並んで三大拠点細胞とされていた三菱長崎造船所細胞の大多数が「共産党は今や理論的にも実践的にも革命政党としての失いつつある」と批判し離党した。「長崎造船社会主義研究会」なる自立組織をつくり、ブントへの結集の動きを見せ始めた。こうした現象は中央から地方に、インテリ党員から労働者党員へと急速に広がり離党、脱党が相次いだ。

【三井三池労組が無期限前面ストに突入】
 1.25日、三井鉱山が全山のロックアウトを通告、三池労組は無期限全面ストに突入した。社会党左派の向坂逸郎の影響の強い組合側は、「総資本と総労働」の対決を叫び、日経連をバックとする会社側の自由化政策の推進による各産業の合理化政策と全面対立した。こうして「総資本対総労働」の全面対決の様相となっていった。会社側が警察力、暴力団をバックに、組合の切り崩しをはかる一方で、懐柔策が進行した。 

 3.17日、三池労組が分裂し、第二組合作られる。全組合員の4分の1にあたる3千6百人にのぼった。3.28日、三井鉱山生産再開、第二組合が就労を強行しようとして第一組合のピケ隊と衝突し流血の激突となった。その際暴力団が襲い、百余人の重軽傷者がでた。3.29日、三池闘争で、暴力団員が警察の検問を突破して、第一組合のピケ隊に襲いかかり、第一組合員久保清が暴力団員に刺殺される。会社側は、第二組合側のホッパーによる石炭の搬出、船舶による資材の搬入を行った。組合側は中労委のあっせん案を拒否して闘争態勢を崩さなかった。

【安保国会が開幕】
 2.2日、安保国会が幕をあけた。2.5日、新安保条約が国会に上程され、2.11日、衆議院に日米安保特別委員会が設置され本格的審議が始まった。討議は条約の基本的性格、相互防衛義務、事前協議、条約区域、極東の範囲、沖縄問題等々広汎に進められた。野党側が鋭く政府を追及し、特に事前協議において、日本が戦争に巻き込まれるのを防ぐことができるのか、日本側に拒否権が認められるのかという問題が論議の中心となった。しかし論議は平行線で噛み合わなかった。これに呼応して国民会議も統一行動を盛り上げていくことになった。

【革共同全国委の檄】
 この頃、革共同全国委員会派は、全学連主流派の有力幹部たちをも包含しつつ勢力を扶植しつつあった。2月、革共同全国委員会は責任者黒寛のもとに機関紙「前進」を発行。次のように檄を飛ばしている。
 概要「一切の既成の指導部は、階級闘争の苛酷な現実の前にその醜悪な姿を自己暴露した。安保闘争、三池闘争のなかで社共指導の裏切りを眼のあたりにみてきた。(中略)(労働者階級は)独立や中立や構造改革ではなしに、明確に日本帝国主義打倒の旗をかかげ、労働者階級の一つの闘争をこうした方向にむかって組織していくことなしには、労働者階級はつねに資本の専制と搾取のもとに呻吟しなくてはならない。(中略)一切の公認の指導部から独立した革命的プロレタリア党をもつことなしには、日本帝国主義を打倒し、労働者国家を樹立し、世界革命の突破口をきりひらくという自己の歴史的任務を遂行することはできない。(中略)こうした闘争の一環としてマルクス主義的な青年労働者の全国的な単一の青年同盟を結成した」。

【全学連第22中委で、ブントが中執制圧】

 2.28−29日、全学連第22中委が開かれている。この時、革共同関西派の8名の中執が暴力的に罷免され、中執はブントによって制圧された。この時点での全学連内部の勢力比は、ブント72、民青同22、革共同関西派16、その他革共同全国委・学民協とされる。

 この期の特徴は、再建された全学連の指導部をブント系が掌握し、急進主義運動を担いつつ60年安保闘争を主導的にリードしていったことに認められる。ブントは見る見る組織を拡大し、革共同が主導権を握っていた全学連の主導権を奪い返すに至った。少数派に甘んじることを余儀なくされた革共同系はブント系の指導下に合同し共に全学連運動を急進主義的に突出させていくことになった。この間民青同系は、こうした全学連の政治闘争主義化にたじろぎつつもこの時期までは指導に服していた。


【全学連第15回臨時大会】
 3.16−18日、全学連第15回臨時大会が開かれている。全学連主流派は、民青同系と羽田闘争をボイコットした革共同関西派を「加盟費未納」などを理由として代議員資格をめぐり入場を実力阻止した。抗議した民青同系と革共同関西派の反主流派の代議員231名(川上徹「学生運動」では代議員234名)を会場外に閉め出した中で大会を強行した。会場内の中の主流派代議員261名(〃代議員は181名)であったという。

 これについて筆者はかく思う。大会開催に先立っての会場付近での主流派対反主流派の衝突が、後の全学連分裂を準備させることになった。してみれば、この大会は学生運動至上汚点を残したことになる。意見の違いを暴力で解決することと、少数派が多数派を閉め出したことにおいて、悪しき先例を作った訳である。この時点では、全学連主流ブント派は、明日は我が身になるなどとは夢にも思っていなかったと思われる。左翼運動の内部規律問題として、本来この辺りをもっと究明すべきとも思うが、こういう肝心な点について考察されたものに出会ったことがない。

 もとへ。大会は、全学連におけるブントの主導権を固め、「国会突入、羽田闘争を中心とした全学連の行動はまったく正しい」と評価し、「安保批准阻止闘争の勝利をめざして4月労学ゼネストを断乎成功させよう、岸帝国主義内閣を打倒しよう」と宣言した。島氏が挨拶に立ち、渾身の力を込めてブントの安保闘争への決意を表明した。人事は、委員長・唐牛(北大)を再選し、副委員長・加藤昇(早大)、糠谷秀剛(東大)、書記長・清水丈夫(東大)を選出し、60年安保闘争を闘い抜く体制を整えた。

【革共同全国委がマル学同を結成する】
 この頃から4月にかけて革共同全国委は、ブントの学生組織・社学同に対抗する形で自前の学生組織としてマルクス主義学生同盟(マル学同)を組織した。この発足当時5百余の同盟員だったと云われている。マル学同は民青同を「右翼的」とし、ブントを「街頭極左主義」として批判しつつ学生を中心に組織を拡大していった。

【清水幾太郎氏が「いまこそ国会へ−請願のすすめ」】

 4.7日、雑誌「世界5月号」が発売され、清水幾太郎氏の「いまこそ国会へ−請願のすすめ」が公表された。清水氏は次のように主張していた。

、「請願は直接民主主義の一形態であり、代議制の機能不全の際の代替手段であって、議会が民意を代表し無いときは議会開設以前の政治手段であった請願を再評価し、復活すべきである」。

 「清水論文」は、日共が国会議事堂に近づくデモを禁じる方針を打ち出していたことへの批判でもあった。日共は、清水氏に対してプチブル急進主義者のレッテルを張り厳しく批判した。


【日共が60年安保闘争に本格的に参入】
 4.17日、日共はこの日、日比谷野外音楽堂で党主催の「新安保条約批准阻止総決起大会」を開いている。日共の60年安保闘争 はこの時点から号令一下本格的に稼働したことになる。日共はそれまで一貫して岸政府打倒をターゲットとするという政治闘争としての位置づけを避け、安保闘争の盛り上がりに水を差していた。ところが、総評、社会党、 全学連による運動の盛り上がりを見て「バスに乗り遅れじ」とばかり参入したという経緯を見せている。

 日共がひとたび動き始めると行動力も果敢で、中央段階ではオブザーバーではあったが地方の共闘組織では社会党と並んで中心的位置を占め指導的役割を果たしていくことになった。しかし、「できるだけ広範な人民層の参加を得る」為にと云う口実で闘争戦術を落とし、日共式統一戦線型の幅広行動主義によるカンパニア主義と整然デモ行動方式を主張し、、安保闘争を何とかして通常のスケジュール闘争の枠内に治めようとし始める。これにより、戦闘的な労働者学生の行動と次第に対立を激化させた。全学連指導部は、日共の指導するこうした「国会請願デモ」に対して、「お焼香デモ」、「葬式デモ」の痛罵を浴びせていくことになった。

【ブントの第4回大会で、島書記長が激烈アジ】
 4.24日、ブントの第4回大会が開かれている。この時、島書記長報告がなされた。「3千名蜂起説」、「安保をつぶすか、ブントがつぶれるか」、「虎は死んで皮を残す、ブントは死んで名を残す」と後年云われる演説がぶたれたと云う。

【「お焼香デモか、ジグザグモか」】
 4.26日、第15次安保阻止全国統一行動で10万人の国会請願運動が行なわれた。この時、国民会議は7百名の警備隊を繰り出して、デモ隊から赤旗、旗ざお、プラッカードなどを取り上げ「秩序ある請願的行動」を旨とする請願デモを行った。4.27日のアカハタは、「国民会議の方針に従った統一行動には一指も触れることが出来なかった」と持ち上げている。清水幾太郎氏は逆に、「旗も歌もプラカードも捨てさせて、請願者を投降者の群れのように仕立ててしまった」と批判している。 

 この時、全学連主流派は、「お焼香国会請願か、戦闘的国会デモか」と問題を提起し、全国82大学、20数校の全学スト.授業放棄で25万名を参加せしめ、都内ではチャベルセンター前に全学連7千名が結集し、国会正門前で警官隊と激しく衝突した。

 全学連委員長唐牛は、自ら警官隊の装甲車を乗り越えて、「障害物を乗り越えて、国会正面前へ前進せよ」とアジり、国会正門前に座り込みを貫徹した。「唐牛追想集」は次のように証言している。
 「結局、もう決死隊しかないとなって、新宿で明け方まで酒を飲みながら、唐牛が『俺はこれに賭ける。トップバッターとなって、装甲車を乗り越えて国会構内へ飛び降りるから、その後は誰、次は誰』と、5人ぐらい決めましてね。何人か飛び込んだら局面が変わるだろうと。すると、本当に続々と何千人もが全部飛び込んでいった」。

 「早稲田の杜の会」は次のように記している。
 概要「唐牛健太郎がマイクを握り、顔面蒼白にして激烈に訴えかけた。この時の唐牛のアジテーションには鬼気迫るものがあった。それまで、これほど心を動かされたアジを耳にしたことはなかった。学生達は、まるでコンサートの聴衆のように唐牛の訴えに聞き入っていた。アジは終わった。一瞬の静寂が支配した。誰も動こうとしなかった。ところが次の瞬間、学生達は幌トラックによじ登り、皆でウウァ−と叫びながら警官隊の頭上目がけて飛び降りた」。

 島氏は、次のように記している。
 「たじろぐブント員を尻目に次から次へとバリケードによじのぼり、警官の壁を崩そうとする何千名の学生、労働者の姿を見て、感激の余り私は涙が出てくるのを禁じえなかった」(「ブント私史」)。

 この闘争で唐牛委員長、篠原浩一郎社学同書記長ら17名が逮捕され(この結果、唐牛.篠原は11月まで拘留される事になった)、100名の学生が重軽傷を負った。京都でも、京大が「昭和25年のレッド.パージ反対闘争以来、10年ぶり」に時計台前集会に約1500名を結集し、府学連主催の円山音楽堂での集会には3500名の集会を開いている。

【民青同の全学連分離行動始まる】
 注目すべきは、この時より全学連反主流派民青同系学生1万1千余は別行動で国民会議と共に国会請願運動を展開していることである。つまり、全学連の行動における分裂がこの時より始まった事になる。これより民青同系全学連反主流派は、まず東京都において「東京都学生自治会連絡会議」(都自連)を発足させている。以降民青同系は、「60年安保闘争」を都自連の指導により運動を起こすようになる。

 これについて筆者はかく思う。この経過は民青同系指導部の独自の判断であったのだろうか、宮顕派党の指示に拠ったものなのであろうか。この時全学連運動内部の亀裂は深い訳だから、どうせ分裂するのならもっと早く自前の運動を起こすべきであったかもしれないし、運動の最中のことであることを思えば分裂は避けるべきであったかも知れない。こういうことをこそ総括しておく必要があると思われる。

【韓国で李承晩政権打倒闘争が盛り上がり、退陣に追い込む】

 4.26日、韓国での李承晩政権打倒闘争が最高潮に達し、ソウルでは学生、教授団を先頭に50万人の大デモが警官隊の発砲を省みず大統領邸に押し寄せた。翌4.27日、李承晩は国会に辞表を提出し、独裁政権に終止符が打たれた。この模様は、連日のように新聞やテレビで報道され、「南朝鮮のあの英雄的な学生に続いて立ち上がろう」と機運が連動した。 


【政府自民党が新条約を強行採決】 
 5.19日、政府と自民党は、安保自然成立を狙って、清瀬一郎衆院議長の指揮で警官隊を導入して本会議を開き、会期延長を議決。この時、自民党は、警官隊の他松葉会などの暴力団を院内に導入していた。11時7分頃、清瀬議長の要請で座り込みをしている社会党議員団のゴボウ抜きが強行された。

 会期延長に続いて、深夜から20日未明過ぎにかけて新条約を強行採決した。採決に加わった自民党議員は233名、過半数をわずか5名上回る数で、本会議に於ける審議は14分という自民党のファッショ的暴挙であった。「安保はゆっくり、会期延長さう決まれば、それでいい」というのが事前情報であり、強行採決は抜き打ちであった。岸内閣からすれば、6.19日にアイクの訪日が決まっており、諸般の情勢から止むにやまれない措置でもあった。

 
この経過が報ぜられるに連れて「岸のやり方はひどい」、「採決は無効だ」、「国会を解散せよ」という一般大衆にまで及ぶ憤激を呼び、この機を境にそれまでデモに参加したことのない者までが一挙に隊列に加わり始めた。パチンコしていた連中までが打ち止めてデモに参加したとも云われている。夕刻から労・学2万人国会包囲デモ。丸山眞男氏の寄稿文、中央公論「8.15と5.19」は次のように当日の様子が伝えられている。
 「18日の夕方から文字通りハチ切れそうに膨れ上がった国会周辺の人波、シュプレヒコールの交錯、その向こうに黒潮のように延々と連なる座り込みの学生達」。

 この日を皮切りに、「アンポ反対」の声から「民主主義の擁護!岸内閣打倒!国会解散!」に変わった。これより1ヶ月間デモ隊が連日国会を取り囲み、「新安保条約批准阻止・内閣退陣・国会解散」のための未曾有の全国的な国民闘争が展開していくことになった。この時より事態は大きく流動化した。

 こうした流れについて、ブントも読み誤ったようである。川上氏「学生運動」に拠れば、全学連中執は、5.19日の晩の新安保条約批准の報を知るや「安保敗北宣言」を出しているとのことである。ところが、まさにこの時より事態は大きく流動化し、「労働運動指導部が、民主主義擁護と国会解散を掲げて、大きくプロレタリア大衆を動かし出した」のである。ブントにとっても「事態の後に追いついていくのが精一杯」という意想外のうねりをもたらしていたようである。

【全学連による官邸襲撃事件発生】 
 5.20日、全学連、全国スト闘争、国会包囲デモに2万人結集。抗議集会後渦巻きデモに移った。7000名の学生デモ隊の一部約300名が首相官邸に突入。「全学連の清水書記長が首相官邸と自民党へ果敢なデモを行おう」と提案し、歓呼の声をあげながら「そのまま、駆け足で首相官邸へ向かった。アワをくった警官隊が門を閉めようとしたが、300人ほどが中庭に入り込んだ」。武装警官隊の排除が始ったが、この時の乱闘で8名の学生が逮捕され、26名が病院に担ぎ込まれ、40名が負傷している。これが官邸襲撃事件といわれるものである。

 しかし、この果敢な闘争が全学連主流派の志気を高めることにはならなかったようである。この頃既に全学連主流派内に分裂が起こっており、統一的な戦術指導がなしえていなかったようである。 「生田夫妻追悼記念文集」の中で、島氏は次のように述べている。
 「5.20安保強行採決を境に、日本の政治は戦後最大の山場にさしかかった。潮が上げ、出来合いのあらゆる潮流を越え、押し寄せる時、この既成潮流を叩き潰すためにこそ誕生したブントも、潮そのもののなかで辛うじて大衆と共に浮沈する存在でしかなくなっていた。統一など既になかった」。

【知識人、学者、文化人らが立ち上がり始める】 

 5.6月に入るや知識人、学者、文化人らの動きも注目された。5.20日、九大の教授、助教授86名が政府与党の強行採決に反対して国会解散要求声明を発表した。大学教授団によるこの種の声明が全国各地で相次いだ。竹内好、鶴見俊輔らは政府に抗議して大学教授を辞任した。これらの知識人の呼応は民主主義を守る立場からのものであり、全学連主流派の呼号する「安保粉砕.日帝打倒」とは趣の違うものであったが、こうして闘争が相乗する流動局面が生まれて行くことになった。


【国会包囲デモ】

 5.26日、安保改定阻止国民会議第16次抗議デモが行われ、17万余が国会包囲デモ、「岸内閣打倒、国会解散」行動に入る。全国で2百万の大衆が一斉に行動を起している。国会包囲デモの様子が次のように伝えている。

 概要「デモ隊は果てしなく続き、林立する赤旗、プラカードの数は刻々と増えていった。どの道も身動きできない)有様であった。全学連デモ隊は激しくジグザグ.デモを繰り返す中で、社共の議員や幹部は閲兵将軍のように高いところからアリガトウゴザイマス、ゴクローサンデスと繰り返していた」。

 この夜、NHKはデモの実況とともに、宮顕書記長の「今のところデモは整然と遣っているけれども、行き過ぎの行動の起こる恐れがあるので、そういうことのないように努力している。デモは恐らく整然と終わるだろう」を放送している。

 5.28日、岸首相は記者会見で次のように述べた。

 「現在のデモは特定の組織力により、特定の人が動員された作られたデモである。私は一身を投げ出しても暴力で危機にさらされている我が国の議会制民主主義を守り抜く考えである。現在のデモは『声ある声』だが、私はむしろ『声なき声』に耳を傾けたい」。

 以降、デモ隊の中に「声なき声の会」ののぼりが登場することになった。


【抑圧する日共、闘う社会党】

 5.31日、党の幹部会が、「国会を解散し、選挙は岸一派を除く全議会勢力の選挙管理内閣で行え」声明を発表。何とかして議会闘争の枠内に引き戻そうとさえ努力している形跡がある。

 6.1日、社会党代議士が議員総辞職の方針を決定。吉本隆明らが6月行動委員会を組織、ブント全学連と行動を共にした。日高六郎.丸山真男らも立ち上がった。「アンポ ハンタイ」の声は子供達の遊びの中でも叫ばれるようになった。他方、児玉誉士夫らは急ごしらえの右翼暴力組織をつくり、別働隊として全学連を襲う計画で軍事教練を行ない始めた。


【 ブントが特別行動隊を結成し首相官邸突入】
 ブントは、あらゆる手段を用いて国会突入を目指し、無期限の座り込みを勝ち取る方針のもと、大衆的には北小路敏全学連委員長代理をデモの総指揮にあて、他方ブント精鋭隊は特別行動隊を結成した。他国会突入のための技術準備も秘かに進めた。

 6.3日、全学連9000名が首相官邸に突入。学生たちはロープで鉄の門を引き倒して官邸の中に入り、装甲車を引きずり出した。警官隊がトラックで襲ってくるや全面ガラスに丸太を突っ込んで警官隊を遁走させている。乱闘は6時過ぎまで繰り返され、13名の学生が逮捕、16名が救急車送りとなった。警官隊の負傷93名と発表された。

【総評の政治ゼネスト貫徹される】
 6.4日、第17次統一行動は国鉄労働者を中心に全国で560万人が参加 し、安保改定阻止の政治ストライキを打った。総評は、全国的に1時間の政治ゼネストを決行した。全学連3500名が国会デモ。この頃、日共は、来日予定の統領秘書官ハガチー・アイク訪日阻止の旗印を鮮明にした。同党の講和後も「日本は半植民地、従属国」規定からする反米独立闘争の重視であった。社会党臨時大会、総評幹事会も抗議闘争に取り組むことを決めた。

【「ハガチー訪日阻止」を廻る思惑の違い】

 6.6日、都自連も、もしアイクが来るなら羽田デモを敢行することを決定した。但し、この時、ブ ントも革共同もハガチー訪日阻止を取り組んでいない。これには政治的見解の相違があり、「アイク訪日阻止は、安保闘争の反米闘争への歪曲」としていたようである。新左翼は、帝国主義自立論により国内の政治権力に対する闘争「復活した日本独占資本主義の打倒」を第一義としており、これに対して日共はアメリカ帝国主義下の従属国家論により、こうした反米的な闘いこそ眼目となるとしていたようである。このことは、後日田中清玄のインタビューでも知れることでもある。田中氏は、「1963.2.26.TBSインタビュー」で次のように指摘している。

 「共産党は安保闘争を反米闘争にもっていこうと した。全学連の諸君は、これを反安保、反岸という闘争に持っていこうとした。 ここに二つの分かれ目がある訳です」。

【「ハガチー事件」発生】
 6.10日、安保改定阻止第18次統一行動。全学連5千名が国会包囲デモ。国民会議が国会周辺で20数万人デモ。この時ハガチー(大統領新聞係り秘書)は、羽田空港で労働者・学生の数万のデモ隊の抗議に出迎えられた。ハガチーの乗った車は、どういうわけか警備側申し入れ通りに動かず、デモ隊の隊列の中に突っ込み「事件」となった。米軍ヘリコプターと警官の救援でやっと羽田を脱出、裏口からアメリカ大使館に入るという珍事態が発生した。これを「ハガチー事件」と云う。「ハガチー事件」は、日共が60年安保闘争中で見せた唯一といって良い戦闘的行動であった。

【岸首相が自衛隊の出動を要請し拒否される】
 この頃、岸首相は、防衛庁長官の赤城宗徳を呼びつけ、アイク訪日の際の警備に自衛隊の出動を要請している。赤城は、概要「それは、できません。自衛隊の政治軍隊としての登場は、支持が得られない。リスクが大きすぎる」と答えている。杉田一次陸上幕僚長も動かなかった。

【6.15安保闘争、東大ブントの樺美智子死亡事件】

 6.15日、国民会議の第18次統一行動、安保改定阻止の第二次全国ストが遂行された。この日未明から、国労.動労がストライキに入った。総評は、111単産全国580万の労働者が闘争になだれ込んだと発表した。東京では、15万人の国会デモがかけられた。大衆は、整然たるデモを呼びかける日共を蔑視し始めており、社会党にも愛想を尽かしていた。

 ブント系全学連は国会突入方針を打ち出し、学生たちを中心に数千人が国会突入を敢行した。中執の北大路敏氏が宣伝カーに乗り指揮を取っていた。明大.東大.中大の学生が主力であった。当時のデモ隊は全く素手の集団だった。あるものはスクラムだけだった。午後7時過ぎ、警視庁第4機動隊2000名が実力排除を開始した。1500名の全学連部隊に警棒の雨が振り下ろされた。この警官隊との衝突最中にブント創設以来の女性活動家東大文学部3年生であった樺美智子が死亡する事件が起こった。

 午後8時頃、3000名の学生は再び国会構内に入り、警官隊の包囲の中で抗議集会を開いた。南通用門付近は異常な興奮と緊張が高まっていた。「社会党の代議士はオロオロするばかり。共産党幹部は請願デモの時には閲兵将軍みたいに手を振って愛想笑いを浮かべる癖に、この時は誰一人として出てこなかった」。午後十時過ぎ、再度の実力排除が行われ、警官隊は再び学生を襲撃した。都内の救急車が総動員された。この時の乱闘では死者は出なかったが、重軽傷者の数は増した。この日の犠牲者は死者1名、重軽傷712名、被逮捕者167名。

 この時都自連に結集した1万5千名の学生デモ隊は国民会議の統制のもとで国会請願を行っていた。夜11時過ぎ早大、中央大、法政大、東大などの教授たち1000名が教え子を心配して駆けつけたが、警視庁第4機動隊はここにも襲撃を加えている。現場の報道関係者も多数負傷している。

 門外に押し出された学生は約8千名で国会正門前に座り込んだ。11時頃バリケード代わりに並べてあったトラックを引き出して炎上させている。この間乱闘の最中、「今学生がたくさん殺されています。労働者の皆さんも一緒に闘ってください」と泣きながら訴えている。労働者デモ隊はそれに応えなかった。社会党議員は動揺しつつも「整然たるデモ」を呼びかけ続けるばかりで何の役にも立たなかった。


【6.15事件に対する社共、中共の反応】

 この時、ニュースで死者が出たことを聞き知った宮顕、袴田が忽然と自動車でやってきて、アカハタ記者にごう然と「だいぶ殺されたと聞いたが、何人死んだのか」と尋ねている。記者は「よく分からないが、自分ではっきり確認できたのは一人だけです」と答えると、「なんだ、たった一人か」、「トロツキストだろう。7人位と聞いていたが」と吐き捨てるようにいって現場を後にしたことが伝えられている。 

 日共は、当夜緊急幹部会を開き、この日の惨劇について声明を発した。岸内閣を批判した後に続けて、樺美智子の死をめぐって一片の哀悼の意をも示さぬまま次のように声明した。

 概要「事件の責任は、トロツキストの挑発行為、学生を弾圧の罠にさらした全学連幹部、アメリカ帝国主義のスパイにがある。我が党は、かねてから岸内閣と警察の挑発と凶暴な弾圧を予想して、このような全学連指導部の冒険主義を繰り返し批判してきたが、今回の貴重な犠牲者が出たことに鑑みても、全学連指導部がこのような国民会議の決定に反する分裂と冒険主義を繰り返すことを、民主勢力は黙過すべきでない」。

 社会党は、樺美智子氏の死に対して党としての指導力量不足であるとする見解を述べている。

 「社会党はかかる事態を防止するため数回、学生側及び警察側に制止のための努力をした。しかし力だ足らずに青年の血を流させたことは国民諸君に対し、深く責任を感じ申し訳ないと思う」。 

 毛沢東は、彼女を「日本人民の民族的英雄」と称え次のように述べた。

 概要「勝利は一歩一歩とらえられるものであり、大衆の自覚も一歩一歩と高まるものである。日本国民が反米愛国の正義の闘争の中で一層大きな勝利を勝ち取ることを祈る。樺美智子さんは全世界にその名を知られる日本の民族的英雄となった」。

 これについて筆者はかく思う。毛沢東は、彼女をトロツキストと指弾した日共指導部の態度と鮮明に食い違う論評を寄越している。ここまで中共寄りにシフトしてきていた日共と毛沢東との齟齬がこのあたりから表面化していくことになる。但しこの時点では、間接的な対立として内化する。 


【岸政権がアイゼンハワー米大統領の訪日延期要請を決定】

 6.16日午前零時過ぎ、政府は急遽臨時閣議を開き、「樺美智子事件」の衝撃で不測の事態発生を憂慮することとなり、アイゼンハワー米大統領の訪日延期要請を決定した。佐藤栄作蔵相、池田隼人通産相らの強硬論と藤山愛一郎外相、石原国家公安委員長らの政治的収拾論が錯綜する中で、米大統領らの訪日中止要請が決まったと伝えられている。岸首相は記者会見で、「都内の野球場や映画館などは満員でデモの数より多く、銀座通りも平常と変わりはない。これをもって社会不安というのは適当でない」と語った。


【「暴力排除と民主主義擁護に関する決議」】
 6.17日、「暴力排除と民主主義擁護に関する決議」を自民党単独で可決した。社会党顧問川上丈太郎が右翼に刺され負傷。

【新安保条約成立】

 6.18日、30万人が徹夜で国会包囲デモ。国民会議は、「岸内閣打倒.国会解散要求.安保採決不承認.不当弾圧抗議」の根こそぎ国会デモを訴えた。30万人が徹夜で国会包囲デモをした。ありとあらゆる階層の老若男女が黙然と座り込んだ。この時、日共の野坂は、宣伝カーの上から「12時までは安保改定反対闘争だが、12時以降は、安保条約破棄の闘争である」と馬鹿げた演説をしている。

 6.19日午前零時、新安保条約が参議院通過、自然成立、発効した。この時4万人以上のデモ隊が国会と総理官邸を取り囲んでいたが、自衛隊の出動を見ることもなく事故なく終わった。イタリアの「ラ.ナチオー紙」記者コラド.ピッツネりは「カクメイ、ミアタラヌ」と打電している。毎日新聞は「こんな静かなデモは初めてだ。デモに東洋的礼節を発見した」とコメントしている。

 この時のことを島氏はこう記している。

 「1960年6.18日、日米新安保条約自然承認の時が刻一刻と近づいていたあの夜、私は国会を取り巻いた数万の学生.市民とともに首相官邸の前にいた。ジグザグ行進で官邸の周囲を走るデモ隊を前に、そしてまた動かずにただ座っている学生の間で、私は、どうすることも出来ずに、空っぽの胃から絞り出すようにヘドを刷いてずくまっていた。その時、その横で、『共産主義者同盟』の旗の近くにいた生田が、怒ったような顔つきで、腕を振り回しながら『畜生、畜生、このエネルギーが!このエネルギーが、どうにも出来ない!ブントも駄目だ!』と誰にいうでもなく、吐き出すように叫んでいた。この怒りとも自嘲ともいえぬつぶやきを口にした生田−」(「文集」)。

【岸首相が退陣声明】
 6.23日、岸首相は、芝白金の外相公邸で、藤山・マッカーサーの間で批准書が交換されたのを見届けた後、が退陣の意思を表明。次のように表明した。
 「ここに私はこの歴史的意義ある新条約の発効に際し、人心を一新し、国内外の大勢に適応する新政策を強力に推進するため、政局転換の要あることを痛感し、総理大臣を辞するの決意をしました」。

【樺美智子追悼集会】
 6.23日、樺美智子全学追悼集会。夜、全学連主流派学生250名が、「樺美智子(共産主義者同盟の指導分子)の死は全学連主流派の冒険主義にも責任がある」としたアカハタ記事に憤激して、党本部に抗議デモをかけた。
 6.23日、樺美智子国民葬。参加者約1万名。共産党は不参加を全党に指示した。その夜、全学連主流派学生250名が、「樺美智子(共産主義者同盟の指導分子)の死は全学連主流派の冒険主義にも責任がある」としたアカハタ記事に憤激して、党本部に抗議デモをかけた。

 これに対して、日共は、トロツキストの襲撃として公表し、6.25日アカハタに党声明として次のように顛末を報じている。
 「百数十人のトロツキスト学生が小島弘、糠谷秀剛(全学連中執)、香山健一(元全学連委員長)、社学同書記長藤原らに率いられて党本部にデモを行い、『宮本顕治出て来い』、『香典泥棒』、『アカハタ記事を取り消せ』などと叫んだが、党員労働者によって排除された」。

【安保闘争終わる。島・氏の述懐】
 これより以降、デモ参加者が急速に潮を引いていくことになり60年安保闘争が基本的に終焉した。後は闘争の総括へ向かっていくことになる。こうして安保闘争は、戦後反体制運動の画期的事件となった。

 ブントの政治路線は、「革命的敗北主義」、「一点突破全面展開論」と云われる。これをまとめて「ブント主義」とも云う。但し、この玉砕主義は、後の全共闘運動時に「我々は、力及ばずして倒れることを辞さないが、闘わずして挫けることを拒否する」思想として復権することになる。

 島・氏は、第1次ブントの軌跡について、「戦後史の証言ブント」の中で次のように語っている。
 概要「確かに私たちは並外れたバイタリティーで既成左翼の批判に精を出し、神話をうち砕き、行動した。また、日本現代史の大衆的政治運動を伐り開く役割をも担った。(中略)あの体験は、それまでの私の素質、能力の限界を超え、政治的水準を突破した行動であった。そして僅かばかりであったかも知れぬが、世界の、時代の、社会の核心に肉薄したのだという自負は今も揺るがない。(中略)私はブントに集まった人々があの時のそれぞれの行動に悔いを残したということを現在に至るも余り聞かない。これは素晴らしいことではないだろうか。そして自分の意志を最大限出し合って行動したからこそ、社会・政治の核心を衝く運動となったのだ。その限りでブントは生命力を有し、この意味で一つの思想を遺したのかも知れぬ。(中略)安保闘争に於ける社共の日和見主義は、あれやこれやの戦略戦術上の次元のものではない。社会主義を掲げ、革命を叫んで大衆を扇動し続けてきたが、果たして一回でも本気に権力獲得を目指した闘いを指向したことがあるのか、権力を獲得し如何なる社会主義を日本において実現するのか、どんな新しい国家を創るのか一度でも真剣に考えたことがあるのか、という疑問である」。

【諸氏の60年安保闘争論】
 日共は、この一連の経過で一貫して「挑発に乗るな」とか「冒険主義批判」をし続け、戦闘化した大衆から「前衛失格」、「前衛不在」の罵声を浴びることになった。「乗り越えられた前衛」は革新ジャーナリズムの流行語となった。党員の参加する多くの新聞雑誌・出版物からも、鋭い日共批判を発生させた。

 吉本隆明氏の次の言葉が実感を持って受けとめられた。
 「戦前派の指導する擬制前衛達が、十数万の労働者・学生・市民の眼の前で、遂に自ら闘い得ないこと、自ら闘いを方向づける能力の無いことを、完膚無きまでに明らかにした」(「擬制の終焉」60.9月)。

 60年安保闘争に関する党の指導性に対して疑問が呈されている資料がここにあるが、これが素直な受け取りようではないかと私は受けとめている。著者の藤原春雄氏は旧所感派系の元アカハタ編集局長を勤め、党の青年運動の指導にも携わってきた経歴の持ち主である。第8回党大会後間もなく離党している。

 「党は、安保闘争の中で、闘争に対する参加者の階層とそのイデオロギーの多様性を大きく統一して、新しい革新の方向を示すことが出来なかった。逆に、違った戦術、違った思想体系、世界観の持ち主であることによって、それに裏切り者、反革命のレッテルを貼ることで、ラジカルな青年学生を運動から全面的に排除する政策を採った。そのため、安保闘争以後の青年学生戦線は深刻な矛盾と対立を生んだ」(藤原春雄「現代の青年運動」新興出版社)。

 藤原氏の観点は、徳球−伊藤律系党中央の共産党なら、このように評価したであろうという見本を披瀝している。しかし、こういう声は掻き消され、宮顕系党中央の影響を受けた川上徹氏の次のような総括を聞かされることになる。

 「このように極『左』的妄動の中心になって、挑発的、分裂主義者としての役割をはたしたトロツキストとの闘いの経験は、それ以降の運動の高まりの中で絶えず発生してくる小ブルジョア急進主義的傾向との、あるいはそれを利用するトロツキストとの様々な策動に対する民主運動、学生運動の闘いにとって豊かな教訓の宝庫となった」(「学生運動」)。

 いろんな総括の仕方があるということだろうが、道遠しの感がある。


【れんだいこの60年安保闘争の史的意義論】
 1960年初頭、日本は、戦後来の憲法秩序に対して別系の安保秩序が導入されんとしていた。戦後左派運動は当然の如くこれに反発した。逸早く腰を上げたのは学生運動であった。全学連内の第1次ブント、日共、革共同と云う三派競合の中から躍り出たのが島−生田の指揮する第1次ブントであった。その闘いぶりは世界中に「ゼンガクレン」として知られることになった。この渦中で、民青同系は遂にブント系全学連と袂を分かつことになった。こうして学生運動の二分裂化傾向がこの時より始まることになった。

 第1次ブントは、59年末の国会突入、60年冒頭の羽田空港占拠、首相官邸及び国会再突入で岸政権を揺さぶった。多くの学生が逮捕されたが怯むことなく闘争に継ぐ闘争に向かった。第1次ブントの跳ね上がりを可能にせしめたのは当時の労学共闘であった。日共は専ら敵対したが社会党−総評の下部労組員がこれを支えた。

 岸政権は60年安保条約の締結を見返りに退陣に追い込まれる。この60年安保闘争を牽引したのが、うら若き青年からなる第1次ブントであった。この運動のみが、日本左派運動史上今も左派運動の昂揚で時の政権を瓦解させた初事例となっている。そういう意味で特筆されねばならないと思う。60年安保闘争は戦後左派運動の金字塔であり、それを牽引した第1次ブントが、以来後にも先にも例がないと云う意味で今も栄誉に輝いている。

 筆者は、以上の評価に次のような認識をも加える。60年安保闘争にはもう一つ意義が認められる。それは、60年安保闘争が結果的に岸首相に結節したところの政府自民党内のネオ・シオニズム系戦後タカ派政権を失脚させることにより、次にハト派政権を呼び込んだと云う歴史的意味がある。筆者の見立てるところ、政府自民党内のハト派政権は、在地性土着派的プレ社会主義的要素を持つ日本政治史上稀有な善政政権であり、60年安保闘争が結果的にその誕生を後押ししたことになる。

 この意義は、今のところ誰にも指摘されておらず筆者の独眼流となっている。この観点が正史としての記述となるべきところ、あぁだがしかし、その後の日本左派運動は、第1次ブントの解体、労学共闘の雲散霧消に向けて勤しむことになり、この傾向が今日まで続き惨憺たる状況へと至っている。政府自民党内ハト派との歴史的な阿吽呼吸による裏連携的意義も顧慮されていない。他方で、本質的に見て、社共運動が政府自民党内タカ派と裏連携的な政治的役割を果たし続けて今日に至っている。日本左派運動にはこういう倒錯が纏いついている。

 これは偶然であろうか、故意作為なものではなかろうか。そういうことを考察してみたい。補足すれば、この考察を抜いた正史ならぬ逆さ史を幾ら学んでも、学べば学ぶほど阿呆になる。そういう空疎史ばかりが供給され続けている。この状況を知らねばならない。

 こう見立てるべきところ、60年安保闘争を牽引し闘い抜いた第1次ブントは、これをどう総括したのだろうか。これについては次章で見ていくことにする。