2章 | 2期その1 | 1950 | 共産党の50年分裂 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
戦後学生運動2期その1を1950の歩みとする。これを仮に「戦後学生運動2期、50年分裂期の学生運動」と命名する。「詳論」、「概論」、「物語り」に別途記す。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。 |
【この時期の全体としての政治運動】 |
【「スターリン論評」の激震】 | ||
1950(昭和25).1.6日、日本の新聞各紙が一面トップでブカレスト発UP電を掲載した。UP電は、コミンフォルム(欧州共産党労働者党情報局)機関誌「恒久平和と民主主義のために、1950.第1号」の発表した「日本の情勢について」というオブザーバー署名の論評を伝えていた。論評は、1949年末時点で日本の戦後革命が流産したのを見すましたかのように出され、徳球系党中央が採用していた野坂式平和革命路線を鋭く批判していた。 そもそも発表のされ方そのものが異常であった。公党間の友誼的原則に則った勧告ではなく、外電と云う形で知らされた寝耳に水の党中央は当初「党かく乱のデマ論評」視したほどであった。追って「スターリン論評」であることが判明した。 これについて筆者はかく思う。こうした外電形式は、国際的陰謀が働いている場合の常套手段であり、その政治的狙いを勘ぐるべきであろう。してみれば、これに踊る者を臭いと思うべきであろう。ちなみにロッキード事件勃発もこの例である。 もとへ。この論評が党内に大激震を走らせることになった。これを期に党内は大混乱し、野坂を抱え込む形での延命を図る徳球−伊藤律系党中央を支持する所感派と、「スターリン論評」の諫言に従うべしとして反党中央を旗幟鮮明にした国際派に分裂する。これを「50年分裂」と云う。 1.11日、政治局会議が開かれたが、「スターリン論評」の受け入れを廻って会議が大混乱した。この時の模様は次のようであったと伝えられている。徳球書記長は、真っ赤になってテーブルを叩きながら次のように述べている。
徳球のこの発言こそ日本左派運動の自主独立気概の嚆矢と云えよう。これに対し、志賀.宮顕の二人が無条件受け入れを主張した。宮顕は次のように批判している。
これについて筆者はかく思う。宮顕はこの時、ソ同盟を無条件の司令塔とする立場から自主独立を志向する党中央を批判していたことになる。補足しておけば、その後宮顕はソ共、中共との対立を契機に自主独立路線を言い始めるが、この時の宮顕は真反対の立場に位置していた。そういう意味で、宮顕の自主独立路線は自己批判抜きにできるものではなかった。これを、いとも容易くぬけぬけと転じているところにらしさが窺えよう。 |
【伊藤律が、「『日本の情勢について』に関する所感」を発表】 | |
1.12日、再度政治局会議が開かれ、三日間にわたる火の出るような討論を経て徳球派が結局採決を制した。中央委員会政治局を代表して伊藤律が急遽、「『日本の情勢について』に関する所感」を内外記者団を前に発表した。ここから党中央は所感派とも云われるようにもなる。所感は次のように述べている。
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【第18回拡大中央委員会で所感派と国際派が対立】 |
1.18−20日、党中央は第18回拡大中央委員会を開催し、「スターリン論評」の処理を集団討議に付した。政治局員、中央委員、同候補、統制委員、国会議員、地方委員会委員、各道府県委員長、各労組中央グループ代表者など総計約200名が党本部に参集した。いかに党中央が重視した会議であったか、同時に、徳球の公明正大な党運営の仕方が分かる。会議は激しく紛糾し、延々5時間余の激論が続いた。 所感を支持したのは党中央主流派で、非主流派7名(志賀、宮顕、神山、袴田、春日(庄)、蔵原、亀山)が非とした。この連中を国際派と云う。国際派の底流には徳球派の官僚主義に対する反発、最も若い伊藤律登用への批判が渦巻いていた。結局、人民日報社説の友誼的勧告「日本人民解放の道」が決め手となって、「論評」の積極的意義を認める全面承服決議「コミンフォルム機関誌の論評に関する決議」が満場一致で採択された。 これについて筆者はかく思う。第18回拡大中央委員会の史的意義は、議論内容もさることながら議論内容の歴史的開示にこそ認められるべきではなかろうか。今、筆者がかく明るみにできるのも、この時の会議の模様が公開されているお陰である。徳球時代の党中央の議論内容はかなり公開されているのに比して、宮顕時代になると全くと云って良いほど伝わらない。少なくとも議事録は作成されていると思われるが案外それも怪しい。つまり、全く秘密のヴェールに包まれている。こういう体質こそ非民主的運営と云うのではなかろうか。 |
【宮顕の福岡左遷】 |
1.26日、徳球系党中央は、統制委員会議長兼政治局員・宮顕を九州地方党組織の福岡に左遷した。党中央批判者グループの頭目であり陰謀の巣であることに対する措置であった。且つ党中央は宮顕の関与しない別の党機関を九州につくった。つまり、地方党機関としての九州には宮顕の関与する正式な党機関外に徳球派ルートがつくられたということになる。これは機関運営上問題となるが、徳球が宮顕のスパイ性を疑っており、時局柄止むを得ず取った変則であった。 |
【徳球が「50年テーゼ草案」提起】 | |
徳球は、党内の混乱と党非合法化の危険をはらむ緊迫した情勢の中、「当面する革命における日本共産党の基本的任務について」を党内に配布した。これが「戦略戦術に関するテーゼ」(50年テーゼ草案又は徳球草案)と称される重要文書となる。この草案は書記長名の論文という形式をとっており、徳球執行部の渾身の力を込めた闘争戦略見直し提案であり、党内問題の様々な分野に言及した長文であった。徳球は、これを基礎に全的討議を呼びかけた。これが踏み絵として党内に配布された。 徳球は、綱領草案を提出するに当たり、次のように確約していた。
これについて筆者はかく思う。草案を全党討論に付すという措置は、これまでにない事例となった。その背景にどのような事情があったにせよ、このこと自体は党内民主主義の大革新であり前進であった。戦前では、綱領的なテーゼは全てコミンテルン執行委員会において作成されており、戦後になって初めて第5回大会宣言と6回大会提出の綱領草案が党自身の力で打ち出されていた。これらはまだ正式綱領となっていなかった。この意味から、今度のテーゼ草案は、党創立以来初めて党自らの手で作り出し、これをもとに決定的な綱領を打ちだそうとした点、その為に中央での反対意見の提出から全党の自由な討議を許そうとした点でまさに画期的であった。宮顕時代になって、徳球家父長制批判がかまびすしくなり、徳球の民主的開放的公正明朗な党運営の実際が隠匿されてしまっている。我々は、この史実を正しく学べねばならないのではなかろうか。 |
【第19回中央委員会総会で、党内が「50年分裂」】 |
4.28−30日、第19回中央委員会総会がひらかれた。この総会の眼目は、党の分裂の危機にどう対処すべきかにあった。反対派は、徳球草案が先の第6回党大会で決定された綱領起草委員会を経由しないで提出された書記長私案であるとして、内容以前の形式においてこれを攻撃した。 これについて筆者はかく思う。徳球草案はなるほど党及び中央委員会の民主的集団的運営の原則に照らして変則であったが、それほどまでに対立が激化していた事情に鑑み内容如何が問われるべきではなかろうか。これを形式で責めるのは宮顕的狡知であろう。 もとへ。総会は、「全政治局員をはじめ全党員が一致団結して戦い、分派主義者、党かく乱者に対する闘争によって、党の戦列をかためる」ことを強調した決議を満場一致で採択した。テーゼ草案の方は審議未了として、秋に予定されている党大会まで一般討論の討議に付すことに決められた。以後徳球派は反対派を強行処分する傾向を強めていくこととなった。志賀.宮顕、神山、蔵原、亀山幸三、袴田、春日庄次郎、遠坂良一等はテーゼ反対を表明して排除された。こうして中央委員会は事実上分裂した。これを「50年分裂」と云う。 「50年分裂」により、党内には次の派閥が形成されることになった。1・党中央所感派(徳球派、伊藤律派、志田派、野坂派)、2・国際派志賀G(志賀派、野田派)、国際派宮顕G(宮顕派、春日(庄)派)、中西功派、神山茂夫派、福本和夫らの統一協議会G。 |
【共産党が再度非合法化され、徳球党中央派が地下に潜る】 | |
6.6日、GHQ指令により共産党が再度非合法化された。徳球派幹部は国内に椎野悦郎を議長とする8名からなる「臨時中央指導部」(臨中)を残置した上、国際派の面々には無通知のまま地下に潜った。やがて北京へ亡命し北京機関を作り、「臨中」を遠隔操作し始める。 徳球らの地下潜行とは逆に、宮顕は九州から帰還した。これは組織違反であろうが、これについて問われることがないまま今日に至っている。宮顕自身が著書「私の五十年史」で次のように述べている。
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【朝鮮動乱勃発】 | |
6.24日、朝鮮動乱が勃発する。当時どちらが先に仕掛けたかという点で謎とされた。双方が相手を侵略者と呼んで一歩も譲らなかった。今日では北朝鮮側の方から仕掛けた祖国統一戦であったことが判明している。次のように呼びかけている。
つまり、南朝鮮の傀儡専権を打倒し南半部全面解放を目指す戦争として位置づけ、北朝鮮軍の南下が始まり内戦が始まったと考えることができる。北朝鮮軍は韓国軍を打ち破り、たちまち38度線を突破し怒涛のごとく南下しソウルを火の海にした。北朝鮮軍の奇襲は成功し、アメリカ軍は釜山周辺に追い詰められた。この動乱が、共産党の武装闘争を促すことになる。 |
【「50年分裂」下の共産党内の対立】 | |
共産党中央委員会の解体と分裂は全党の分裂に発展した。党機関だけでなく、あらゆる大衆団体.大衆組織にも広がり、党員同士が相互に除名し合う混乱が生まれた。新日本文学会も揺れた。大衆運動の指導と不統一と混乱を拡大した。 このグループの中では中国地方委員会が最も戦闘的であった。同地方委の指導的幹部は原田長司、国会議員の田中暁平らであった。「右翼日和見主義分派を粉砕せよ!−党のボルシェヴィキ的統一の為に全党に訴う−」を載せた機関誌「革命戦士」を全国の県委員会以上の各機関に配布したりするという公然と反「臨中」行動を強めた。 安東氏の「戦後日本共産党私記」は次のように述べている。
付言すれば、「50年分裂」下の宮顕系国際派に熱烈なエールを送った中国地方委員会は後に、文化大革命時の日中共産党の対立の時に宮顕派に切って捨てられる。しかしながら、中国地方委員会は、この時の親宮顕系スタンスに対する自己批判は今日まで一度たりとも為していない。つまり、恣意的対応に終始していることになる。 もとへ。「臨中」統制委員会は、中国地方委員会常任委員の除名と委員会そのものの解散を含んだ「中国地方の分派主義者に対する決議」を発表した。地方委員会全体の解散措置というのは党史の上でも最初の事例であった。関西地方委員会も大きく揺れた。臨中派と反臨中派が相互に泥まみれの抗争を開始した。こうして主流派と国際派両派の抗争は、各地方各府県のいたるところに拡大していった。 |
【レッドパージ始まる】 |
7.18日、マッカーサーは、共産党国会議員の追放、アカハタの1ヶ月停刊の指令に引き続き、無期限発刊停止処分を指令した。同時に後継同類紙も同様に発行停止された。以降、共産党の機関紙活動も非合法になった。7.24日、新聞協会代表にレッドパージを勧告。これを皮切りに各分野にわたってレッド.パージの嵐が見舞うことになった。占領政策違反の名により数千名が逮捕され、集会デモが禁止された。 |
【宮顕系国際派が「全統委」結成】 | |
8.31日、排除された国際派の7名の中央委員は、宮顕を首魁として党の統一を回復する為と称しながら公然機関として「全国統一委員会」(「全統委」)をつくった。全統委は分派別党コースを目指さず、徳球執行部に替わる別の執行部という立場をとった。ここに党の分裂が明白となり、実質上中央から地方に至る二つの党組織が存在することになった。全統委は次のような結成アッピールを発表している。
これについて筆者はかく思う。興味深いことは、この時点での党中央執行部側を「右翼日和見主義解党分派」と規定していることである。その他「すでに反革命的分子となりさがった悪質解党主義者の清掃」という呼び掛けも為されている。つまり、宮顕はこの時、左派的スタンスで党中央批判していたことになる。 もとへ。全統委には、全学連中央グループ、主だった各大学の細胞、日本帰還者同盟の中央グループ、新協劇団細胞などが参加した。但し、志賀系「国際主義者団」、中西らの「団結派」、神山茂夫グループ、福本和夫の率いる「日本共産党統一協議会」などは排除され更に分立するという様相を示した。こうして日本共産党内の「50年分裂」は、全党的規模で公然化し、抜き差しならない抗争へと激化していくことになった。 |
【レッドパージ始まる】 |
9.1日、吉田政権は閣議で、公務員などのレッドパージ方針を決定した。これにより、重要経営と労働組合からの万を越える共産党員と支持者の追放(レッドパージ)などの弾圧が見舞った。9月から11.10日までの間に民間主要産業342社9524名と各官庁公務員1177名合わせて1万701名がパージされた。この時大衆的な抵抗はほとんど組織し得なかった。党は活動基盤を根こそぎ失った。 |
【志田が登用される】 |
この頃、志田が登用されている。50年分裂の一年前、中央に引き上げられたとのことである。たちまち頭角をあらわし、伊藤律に次ぐ位置にのしあがる。やがて伊藤派と志田派の跡目争いへ発展して行き、志田派が勝利する。武装闘争は、この志田派の指揮の下で企画されて行くことになる。 |
【徳球が北京へ逃れ北京機関創設】 |
8月末、徳球が北京に渡った。徳球は、日本を去る直前に開かれた政治局会議で次のように申し付けている。、1・今後の政治方針の基本は徳球が向こうで立てる。2・組織指導は国内に一任する。志田、椎野、伊藤律の三者合議を中心にやっていくこと。3・野坂は国内に留まるといっているが、徳球の所へ送るよう説得する。4・分派に対しては統一の努力をあくまで続ける。国際派幹部個人はどうでもよい、宮顕は党に戻らせない方が良い。彼らに追随している活動家、党員、大衆を呼び戻し団結することが肝要である。 徳球のこの指示に基づき、伊藤律が機関紙・宣伝部を、志田が組織部を、椎野が臨中議長という分担でトロイカ体制を造った。それぞれにレポ(秘密連絡役)がつき、伊藤には小松雄一郎、志田には増山太助、椎野には諸橋某女が任命された。週1回「3人委員会」が秘密のアジトで開かれたが、徳球という重しを欠いた3人組の合議はうまく機能しなかったようである。
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【徳球が武装闘争路線を指針する】 | ||||
徳球指導部は、朝鮮動乱勃発と云う国際情勢の変化を受け、従来の平和革命式議会主義から一転して武装闘争路線へと転換せしめることになった。建国革命に勝利した中国共産党の経験を学び、中国革命方式による人民革命軍とその根拠地づくりを我が国に適用しようと図り、後に極左冒険主義と総括される武装闘争の道を指し示した。こうして、突如「北京機関指令」として武力革命方針が提起された。 10.7日付け「平和と独立」第1号が発表され、次のように述べている。
10.12日付け「内外評論」に「共産主義者と愛国者の新しい任務−力には力をもってたたかえ−」なる無署名論文が発表され、武力革命と武装闘争が指導されることになった。都市における労働者の武装蜂起と農村遊撃戦争を組織し、その過程で結集された中核自衛隊を人民解放軍に発展させることによって全国的な武装革命を展開する方針が示された。概要次のような文面である。
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【党中央統一される。宮顕の抵抗続く】 | ||
10.10日、ソ連.中国両共産党の支持を得ることに成功した臨中派は、「10.10日5周年にさいし全党の同志諸君に訴える」で「悪質分子を孤立させよ」と呼号した。こうなると、全統委派の情勢利あらず内部の足並みが乱れ始め、10.30日、「党の統一促進のためにわれわれは進んで原則に返る−全国統一委員会の解消に際して−」声明を発し、全統委を解消した。全統委は結成後2ヶ月に満たない歴史となった。 この時の宮顕の論理が亀山の「戦後日本共産党の二重帳簿」で次のように明かされている。
こういう欺瞞論理に春日(庄)と亀山らが納得せず、「党内闘争にそういう虚偽は通用しない。宮顕の云うようなケルン組織は組織原則の破壊であり、悪質な分派主義となる危険が有る」として反対した。宮顕は、「これこそが政治における名人芸というものだ」と嘯き、ケルンとしての宮顕グループ形成に力を入れていった。この時、宮顕派と春日(庄)派はしこりを残し追々反目していくようになる。 この経過と次に述べる統一会議での画策を見て、亀山は次のように評している。
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【「臨中」が地域人民闘争を指針する】 | ||
椎野「臨中」議長は、前衛50.12月号で「民族の危機と我が党の緊急任務」で次のように述べている。
同じくこの号で、宮田千太郎なる名で「権力獲得への基礎」で次のように論じている。
これを見れば、当時の指導部が、地域人民闘争プラス民族闘争プラス武装闘争という戦術を立てていたことが分かる。 |
【宮顕派が再度党分裂を開始する】 |
12月頃、宮顕を策源地とする全統委派は、先の全統委解散が時期尚早であったことを確認していくことになった。こうして再び全国的な統一組織をつくろうとする筋書きが纏まり、年末にかけて宮顕、蔵原、春日(庄)、袴田、亀山、遠坂、原田らの旧全統委の指導分子が中心となり、新たに全国的機関としてビューローを設けること、機関誌「解放戦線」、理論誌「理論戦線」、「党活動」などを発行することなどを取り決めた。志賀、神山は除かれていた。年末には中国共産党に理解を得ようと袴田里見を送り込んだ。 これについて筆者はかく思う。宮顕のこの執拗な党中央分裂策動をどう評すべきか。且つこの時の潤沢な資金はどこから出ていたのであろうか。誰も問わぬまま今日に至っている。 |
【日本経済が戦争特需景気に沸く】 |
この年、日本経済は、日本左派運動の混迷をよそに朝鮮動乱を奇果とする戦争特需景気に沸いた。ドッジ.プランのデフレ政策に苦しんでいたに時ならぬ利益をもたらすことになった。後方兵站基地として機能した日本に米軍発注の特殊需要が創出され、この年だけで1億8200万ドル、1950.6月からの1年間で3億4千万ドル(1200億円)に達し、動乱発生前の滞貨推定額1千億円を上回った。以後1955.6月までの5年間の累計は16億2千万ドルに達した、と云われている。 日本経済は思わぬ恩恵を受けることとなり、金偏、糸偏景気といわれた動乱ブームに沸いた。開戦後一年間で、鉱工業生産は46%増え、輸出が60%以上増加し、国際収支も50年下半期より輸出超過に転じた。まさに起死回生の「干天の慈雨」となった。以降日本の独占資本は、戦争が生んだ特需景気に活路を見いだしていくことになった。 |
【この時期の学生運動の動き】 |
【全学連中央の宮顕派化】 |
この「50年分裂」時、結成以来、全学連を指導していた武井系主流派は宮顕派に与した。 これについて筆者はかく思う。武井系主流派が宮顕派に与したのは、宮顕をして「戦前来不屈の唯一無二の非転向指導者」として聖像視し、帰依していたことによるものと思われる。現在、宮顕論については、宮地健一氏が「共産党問題、社会主義問題を考える」の「共産党の組織体質=3人の体質、粛清システム」で一連の検証をしている。これに続き、筆者も参戦し「宮顕論」で検証している。 これらの研究によれば、宮顕の正体は怪しく、「戦前来不屈の唯一非転向指導者」などとは噴飯ものの逆評価でしかないということになる。しかし、この事実が明らかになるのは1970年代に於ける諸資料の漏洩を通じててあり、この時点では致し方なかった面もあるので、武井系の責任を追及するには及ばぬ。この時点では、そういう宮顕のイカガワシサが判明せず、逆に聖像視されていたという、いわゆる「時代の壁」があり、武井系が見抜けなかったということである。 問題は、こうした検証が為されているにも拘らずその成果を議論せず、相変わらずの「宮顕を英明な指導者として讃美する」傾向があることである。こうなると、よほど頑迷な迷信に取り付かれていることになろう。科学的社会主義者を自称する者の学問精神がこれだからして、「科学的社会主義」なるものがいかに杜撰な得手勝手な云い得云い勝ちなものであるかが分かろう。 補足しておけば、筆者が、マルクス主義系の理論を渉猟して、その難解さに辟易する事がある。現在では、その難解さがマルクス主義そのものの難解さではなく、論評者が己の没知性を隠す為に煙幕的に難解にしているに過ぎないと確信している。なぜなら、難解に述べる連中が揃いも揃って筆者が述べるような宮顕論に至らず、相も変わらず「戦前来不屈の唯一非転向指導者」視したままの不見識に耽っているからである。そういう凡庸な手合いが、いくら難しく理論をこねてもたかが知れていると云わざるを得まい。 |
【全学連中央、東大、早大細胞が意見書を党中央に提出】 |
1950.3月、宮顕に操られた全学連中央グループは、長文の意見書を党中央に提出し、徳球系執行部のこれまでの学生運動に対する指導の誤りを痛撃した。東大や早大の学生細胞からも相次いで意見書が本部に提出され、党批判を強めていった。この系流が1951.11月、反戦学生同盟(反戦学同)を結成することになる。 これについて筆者はかく思う。こうして、この当時の全学連指導部は、反党中央化することで戦闘性を証した。しかし、それは、青年期特有の未熟な正義感情でしかなく、宮顕的操作の範疇にあったのではないのか。当時の活動家にそう聞いてみたい。 |
【武井委員長が「層としての学生運動論」提起】 |
それはともかくとして、この時、武井委員長が「層としての学生運動論」理論を提起している。それまでの党の指導理論は、「学生は階級的浮動分子であり、プロレタリアに指導されてはじめて階級闘争に寄与する付随運動に過ぎない」というのが公式見解であった。武井委員長は、意見書の中で、「学生は層として労働者階級の同盟軍となって闘う部隊である」と規定し、学生運動を「層」としてみなすことにより社会的影響力を持つ独自の一勢力として認識するよう主張していた。その後の全学連運動は、この「層としての学生運動論」を継承していくことで左派運動のヘラルド的地位を獲得していくことになる。武井委員長の理論的功績であったと評価されている。 |
【全学連の反イールズ闘争】 |
1950.5.2日、全学連は、反イールズ闘争に立ち上がった。CIE教育顧問のイールズは、各地でアメリカン民主主義を賞賛しつつ共産主義教授の追放を説いて回っていた。5.2日、東北大で、イールズの講演を学生約千名が公開を要求して中止させ、学生大会にきりかえた。東北大学は彼の28回目の講演であったが、ここで初めて激しい攻撃を受ける事になった。この経過は、全学連中央に「『イ』ゲキタイ。ハンテイバンザイ」と電信された。5.16日、北大でもイールズ講演会を中止させた。 |
【全学連のレッドパージ反対闘争】 |
同8.30日、全学連は緊急中央執行委員会を開いて「レッドパージ反対闘争」を決議し、各大学自治会に指示を発した。同10.5日、東京大学構内で全都のレッドパージ粉砕総決起大会が開かれた。都学連11大学2千名が参加。これが契機となり全国の大学に闘争が波及する。イールズ講演会を最終的に中止に追い込む。 |