重信房子 「1960年代と私」考

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元、栄和6)年.3.10日

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 2024(栄和6)年.3.10日 れんだいこ拝  


【重信房子 「1960年代と私」考重信房子のパレスチナ問題発言考】
 2023年12月15日、「野次馬雑記」のNo627「重信房子さんが「パレスチナ問題」について語る!」。 第2部 高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第2部 高揚する学生運動の中で(1967年から69年) No509 重信房子 「1960年代と私」第二部第1回 2018年11月 「1960年代と私」は、重信房子さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章である。 この「1960年代と私」は三部構成となっており、第一部は明大入学の1965年から1966・67年 の明大学費闘争まで、第二部は1967年から1969年にかけての砂川闘争、10・8羽田闘争、神 田カルチャラタン闘争など、第三部は「赤軍派時代」として1969年の赤軍派結成から赤軍派崩壊、 そして連合赤軍への道が描かれている。「1960年代と私」の第一部は、既に私のブログで公開し ており、2017年5月に公開を終えている。
<目 次> 第2部 高揚する学生運動の中で(1967年から69年) 第1章社学同参加と現代思想研究会(67年) 1.私の触れた学生運動の時代 2.全学連再建と明大「2・2協定」 3.明大学費闘争から再生へ(大学内の闘い) 4.社学同加盟と現代思想研究会 5.67年現思研としての活動 6.67年春福島県議選のこと 7.全学連の活動ー砂川闘争 8.67年学園闘争の中で 9.10・8羽田闘争へ 10.10・8羽田闘争の衝撃 第2章国際連帯する学生運動 1.高揚する街頭行動と全学連 2. 三里塚闘争への参加 3.68年高揚の中の現思研 4.御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争へ 5.三派全学連分裂ー反帝全学連へ 6.ブントの国際連帯集会 7.全国全共闘の波 1 8.現思研の仲間遠山美枝子さんのこと 9.現思研・社学同とML派の対立 10.69年東大闘争 11.教育実習と4・28闘争
第1章 社学同参加と現代思想研究会(1967年)

重信房子(しげのぶ・ふさこ)
1945年9月東京・世田谷生まれ。65年明治大学Ⅱ部文学部入学、卒業後政経学部に学士
入学。社会主義学生同盟に加盟し、共産同赤軍派の結成に参加。中央委員、国際部と
して活動し、71年2月に日本を出国。日本赤軍を結成してパレスチナ解放闘争に参
加。2000年11月に逮捕、懲役20年の判決を受け、2022年に出所。近著に『戦士たちの
記録』(幻冬舎)、『歌集 暁の星』(晧星社)など。
2・全学連再建と明大「2・2協定」 65年の日韓条約反対闘争を経て高揚した学生運動は、66年に入っても拡がり続けました。 同じころ、学費値上げ問題が深刻化していきました。これは、全国私学共通の問題としてあったた めです。慶應大学同様、早稲田大学でも学費値上げ反対闘争は150日間にわたるバリケードス トライキで闘いぬきました。しかし66年、文学部バリケードが撤去されてストライキ闘争は幕を閉 じさせられました。だからといって、闘いは死んだわけではなく、学生たちも、また、党派的な活動 も、良くも悪くも強固にきたえられたのです。そして闘いは各地に広がりました。66年には横浜国 立大学では、教員養成制度の改悪阻止全学ストライキ、慶應では専門科目削減反対闘争、立教 大では学館の管理運営や生協の闘い、東大では五月祭警官パトロール抗議闘争、青山学院大 では処分反対闘争、京大では自衛官入学反対・フォード財団委託研究反対闘争など拡大してい ったのが66年です。明大でも66年から学費値上げ反対闘争が本格化します。 65年日韓条約反対闘争を都学連として大衆運動の一翼で闘いぬいた成果をふまえて、66年3 月、都学連指導部を中心にして、12月には全学連を再建するという方針を決定しました。 そして、すでに「はたちの時代」(「1960年代と私」第一部)で述べたように、66年12月、全国35 大学、71自治会、1,800人の結集参加によって、全学連が再建されています。民青系全学連、 革マル系全学連に続いて「三派全学連」がここに結成されたわけです。 (1966.12全学連再建大会) この66年12月の三派全学連の再建は、当 初から激しい怒号や論争という、後の分裂を 思わせる出発をなしています。それはまず、大 会前からこれまでの全学連の継承のあり方を めぐってもめています。 中核派は「第20回大会」を主張し、社学同 は「第17回大会」とすべきだといい、社青同解 4 放派は「第1回大会」を主張して折り合えないのです。その結果、結局「全学連再建大会」とのみ 呼称することになっています。論争しては妥協点をみつけながら、全学連再建大会は、基本スロ ーガンと3大基本路線を決議しました。基本スローガンは、「侵略と抑圧に抗し、学生の生活と権 利を守れ」を採択しています。 そして、3大基本路線は・・・ 1.我々の闘いは政府・支配者階級の攻撃に対決し、学生人民の生活と権利を守る闘いで ある。 2.この闘いは、弾圧と非難と孤立に耐えぬく実力闘争以外に貫徹しえない。 3.その為の闘争組織を作り、闘いの砦・自治会に結集して闘う。 というものです。そして以上の方針を執行する中央執行委員会メンバーを選出しました。 (中執メンバーの構成は、三派各9名、書記局構成は「社学同」「中核派」各5名、「解放派」3名、 「ML派」と「第四インター」は執行部人事に加わらなかった。) 全学連委員長は「明大社学同」の斎藤克彦都学連委員長が選ばれています。 明大記念館で行われたのは、2日にわたる全学連大会の最初の日だったと思います。 ちょうど、12月1日に、二部学生大会で民青系執行部の学苑会(二部夜間部学生の中央執行機 関)から、対案によって60年安保以来、学苑会執行部を奪回して活動をはじめたばかりの私たち も、この明大バリケードストライキの中で行われた大会を見に行ったものです。 革マル系全学連による妨害の動きと、機動隊による包囲の校門外の態勢、構内は明大当局の監 視もありました。激しい野次と熱気、しまいには、壇上にかけあがっての小競り合いと、何を決め ているのかよく理解できない大会でした。中断して議長団が話合ったり、わけのわからないうちに 大会は終了しましたが、明大記念館を轟かすような大勢によるインターナショナルの歌は素晴らし かったと心に残りました。 この再建全学連大会は、全学連委員長斉藤克彦(明大)、副委員長蒲池裕治(同志社)と高橋 幸吉(早稲田・解放派)書記長秋山勝行(横国大・中核派)を選出しました。全学連が結成されたこ とは、当時は、全面的に学生の利益となる闘いの強化だと思っていました。でも、それにはプラス 効果とマイナス効果があったと、後知恵的ですが、とらえ返すことができます。 プラス面は、全国の大学が「学問の自由」「大学の自治」を土台に共通の問題を個別大学の枞 を越えて考える基盤が生まれたことです。共通に直面している問題を理解しあい、相互に支援し 合って共同して解決する条件が生まれたことです。日本政府に対する政治闘争においても、野党 社会党や共産党、労働組合、総評、産別や「反戦青年委員会」などと、「全学連」として共闘し、統 一行動もとれるようになります。また、各大学も全学連と結びつくことで、共通の政治課題にすみ やかに行動しうる有利な条件が生まれました。また、明大もそうだったように、日共系による大学 を越えた地区党らを含む組織的な競合、対立に対して、私たちも組織的拠り所を持ったことは有 効だと思っていました。 しかし、否定面もありました。それは第一に、以降深まる党派の争いの影響です。すでに「都学 連」として、日韓条約反対闘争を闘ってきた街頭行動にも現れていましたが、全学連の主導権を めぐって、中核派、ブント、社青同解放派、ML派などの争いが絶えずくり返されたことです。世界 各地の解放・革命組織と共同したり、交流してきた私自身の経験に照らしてとらえ返すと、党派闘 5 争によって殺人に至る持続的な「内ゲバ」暴力は、日本の左翼運動にとりわけ特徴的な傾向であ ったと思います。 これは第三インターナショナルの「加盟条件」に示され、スターリン時代に厳格に適用された「一 国一党」の原則の無自覚な教条化なのかもしれません。自己の党の「無謬性」によって、「唯一性」 を主張し、他を認めないあり方です。他党派を批判することで自党の「無謬性」を理論的に証明し、 それを立脚点として自己正当化していきます。スターリンやスターリン主義を批判しつつ、「唯一性」 と「無謬性」の拘泤は、同じ陥穽にあると思わざるをえません。結局、理論、政策、路線の競合の みならず、物理的に相手を解体しようとする「内ゲバ」に至り、自分たちの側からしか物事が見え ず、対象化しえない分、共に闘うべき人々を離反させる結果に至っていきました。 第二の否定面は、やはり第一の党派のあり方の影響でもありますが、大学の自治会が党派の 「下部組織」のような位置に陥ったことです。学生運動や、自治会活動は、革命を目指す党派から みれば、重要な一翼ではあっても、そこに党を代行させることはできません。全学連は「大衆闘争 機関」であり、学生運動を革命党派の「下部組織」のように位置づけるあり方は、ますます全学連 執行部や自治会人事を権力闘争の場にしていったのだと思います。逆にいえば、党派は大衆運 動機関の質にとどまっていたともいえると思います。 66年12月、全学連(三派)は再建され、明大社学同の斎藤克彦さんが委員長となりました。こ のことは明大学費値上げ反対闘争に作用したといえます。すでに「はたちの時代」(「1969年代と 私」第一部)の明大学費値上げ反対闘争で書いたように、再建大会から2ケ月もしないうちに、い わゆる「2・2協定」が調印されています。明大の学費値上げを、学生代表らとの合意を破り、理事 会が一方的に学生へのダイレクトメールで通知するという事件が66年12月に発覚した後の闘い です。 学費値上げの必要性を問い、学問の充実や「自治」をめぐる問題とあわせて、1月から話合い が続いていました。学費値上げ以外の方法を学生側は問い、理事会に誠意を求め続けました。 理事会側は66年12月15日の正式表明まで、のらりくらりと「値上げをする」という確答を避けて いました。しかし理事会側もそれまでは一時期値上げすることを迷っていたし、また、進歩派とい われた学長小出康二さんは「値上げ撤回を考えてはどうか」と、宮崎学生部長(当時)に相談した りしていました。66年には「値上げ凍結」で話合う機会もあったかもしれません。しかし67年1月 には、すでに値上げが示された上で話合いが続いていました。そして1月30日、機動隊が導入さ れ、理事会はこれまでの妥協をも撤回しています。 全学連委員長を引き受けたばかりの、明大社学同のリーダーたちは、学長名による1月30日 付学費値上げ反対の昼間部と夜間部の闘争機関の「解散命令」後にも、何とか収拾しようとあせ ったのでしょう。 6 (1967.1.30明大機動隊導入) 全学連の中で、ブントとしての勝利的成果をつく りたかったのかもしれません。 2月になれば、入学試験が強行され、大学自治 は再び警察権力の介入で壊されてしまい、処分 者を出さざるをえない現実も予測されていました。 当時、体育会右翼の激しい攻撃で、学生大会を 開くことも、収拾案を民主的に決議採択すること も、難しかったかもしれません。 しかし、他の方法はとれなかったのでしょうか? 2月1日の明大社学同会議では「理事会との手 打ちに反対」して「継続討議」を決定して散会したのですが、リーダーたちは、その足でホテルに向 かい、理事会と協定に調印しました。 これは社学同仲間にも、学生たちにも裏切り行為でした。「2・2協定」の覚書よりも、ほんの尐し ましな「明大改革案」を理事会側が提出し、「叩き台」として話し合っていたのは、1月29日から30 日の明け方のことです。学費値上げの白紙撤回には程遠くとも、力関係の結果がそこに一定の 改革として示されていました。その「叩き台」をふまえて、昼間に明治大学構内で調印と記者会見 を公明正大に行ったなら、もっと違った展開になったでしょう。大学での調印はできたはずで、「暁 の妥結」といった「煽情的」なニュースとして社会に伝えられることはなかったでしょう。 調印責任者の大内学生会委員長は、「2・2協定」合意後に、まず学内に戻り学生に説明するつ もりだったようですが、順序が逆だったのです。まず中執会議を行い、学生大会に臨み、全学生の 決議機関の採決を経て当局と交渉に入るという順序の逆、理事会側とスケジュールを決めて調印 し、その後、それを既成事実として社学同仲間から合意を取り付けるつもりだったのでしょう。 しかし、この「2・2協定調印」は他党派ばかりか、まだ統一再建して間もない社学同の他の大学の 仲間たちからも怒りを買いました。 中核派は、明大昼間部学生会室に殴り込みをかけて、直接当事者ではなく、むしろ批判者であ った人たちに「お前は社学同だ、自己批判しろ!」とリンチしては「自己批判書を書け」と迫ってい きました。こうした暴力沙汰の危機と、「2・2協定」白紙撤回求める声明が、あちこちの明大の学 部執行委員会から表明されました。当の合意した当事者たちは大学に近づけなくなってしまった せいか、行方が知れません。 7 (2・2協定) 和泉校舎は、やはり社学同系が執行部でし たが、2月1日の社学同会議では「妥結」に反 対していた人たちです。彼らは学生集会をただ ちに開き、「ボス交の2・2協定は無効だ」と宣 言しました。全学闘争委員長であり、学生会中 央執行委員長である大内さんは、工学部生田 校舎の方にいるらしいのです。 大内さんは、明大新聞に次のように述べまし た。「これは(「2・2協定」のこと)現実の力関係 の上での休戦であり、次のステップのための妥協である」と。しかし、和泉校舎にも神田駿河台校 舎にも公然と戻って説明できる条件は失われています。 ブント自身も再建されて間のない寄せ集め的で、一枚岩でもありません。ブント内の元「社学同 統一派」が全学連委員長斉藤克彦さんらが属していたグループだったので、ブント内からも斉藤 一派追及が続いていました。この件で、ブントは再建全学連斉藤委員長追放と、中核派の秋山勝 行委員長代行という事態を認めざるを得なくなりました。その分、中核派もブントも「非妥協主義」 が以降、前面に主張されていくようになったと思います。また、この件で「自己批判」を迫られたブ ントも「ボス交斎藤一派路線」を否定し、中核派と競うように、政治的「妥結」や、大学当局との「合 意」を否定し、「革命における改良闘争」をとらえる観点を棄てたように思います。これまでの大学 当局との改良・改善の話合いではなく、「白紙撤回」を断固求める道へと進むことになりました。そ れは後に「革命的敗北主義」として路線化されていきます。 (2・2協定反対のビラ) 今からふり返ると、明大学費闘争は 二つの点で「学生運動の岐路」に立っ ていたように思います。一つは、個別 大学自治会の活動における改良闘争 を否定する方向に一歩も二歩も踏み だしたことです。もちろん、全学生を結 集し白紙撤回を求める闘いの勝利も ありえます。 66年の明大の学費闘争での可能性 や、68年2月、中央大学の学費値上 げ反対闘争は白紙撤回を実現してい ます。それは、現場の指導部が主体性をもって、よその介入をはねのける力関係や、当局側の考 えも作用しています。学内自治を守り、あくまでも警察機動隊権力の介入を許さない大学当局も ありました。勝利かゼロか(実際にはゼロ以下)という闘い方の他に、改良闘争も条件闘争として 位置づけて闘う余地は、まだ当時はあったと思います。それらを否定する方向に導いたのは、党 派の介入の否定的な動きです。「ボス交」の2・2協定にみられた「決定の独占」にも、また、以降 8 の「白紙撤回」一辺倒の闘いのあり方にも、党派的な利害に自治会の活動が制約されていったと いえると思います。 もう一つの点は、「ポツダム自治会」の否定という名の「非民主」の常態化についてです。
明大学生運動は、ずっと、クラス代議員による決定に基づいて学生大会を学生の最高意思決定 機関として、自治会は運営されてきました。私たちが夜間部学苑会を民青系から奪取したのもま た、学生大会の多数派形成をもって行われてきました。 多数派形成は、学生の要求と向き合わなければならず、常に足かせのように執行部の党派的飛 躍や、それら一辺倒の志向を問う作用がありました。「ポツダム自治会は形がい化した民主主義 だ」と批判されながらも、クラス討論を行うための「総学生の意志」を無視しえない規律がありまし た。 明大においても、早大や慶大同様に、自治会組織とは別個に闘争機関を結成して闘ったので すが、学生大会ルールを大切にしていたと思います。学生大会は、直接民主主義ではないけれど、 全学生に向けて開かれた論争があり、民青系と激しく論じつつ、その中で多数派形成し、方針が 決着していきました。全学連再建時の基本路線にも示されたように、自治会を基盤に、自治会と 別個に「闘争機関」を作って闘うことを奨励していました。 この思惑は、二重性を持つことで、自治会をつぶそうとする権力の攻撃に対して「闘争組織」が責 任を負う構造をつくる防衛的意味と、自治会の制約をとっぱらって、または自治会権力を掌握でき なくとも、より先鋭化して闘う攻撃的意味が含まれていたと思います。早大闘争の時にも明大闘争 でも、「ポツダム自治会批判」とともに「闘争機関」を結成して闘う方式が広がっていきました。それ は後の「全共闘運動」へと時代を拓き、学生運動の広がりと全国化をつくり出していく方法となりま した。 そこには、闘う意思のある者が直接民主主義形態で闘う良さがありました。 同時に否定面としては、全学を代表する自治会の学生大会決議などが軽視されるようになってい ったのではないかととらえ返します。そして、逆に党派の意志が深く運動を支配する構造になった のではないかと思います。量的な学生の同意がなければ、政治的突出が許されないと、当時の日 共のようなことをいっているわけではなく、党派と学生指導部の側に、その「制約」の自覚と方法が 欠けていたことこそ問題としてとらえています。 明大についていえば、私の知るこの67年から69年の闘いにおいては、大学の自治会・学生大 会を第一義とする闘い方をゆるがせにはしなかったと思います。しかし、明大闘争後「2・2協定」 後は、「非妥協」が闘いの「モラル」となり、以降も引くべき時に引けない新左翼学生運動の、良くも 悪くもラジカルな闘い方を拡大していくことになったと思います。私自身がそうであったように、闘 いの渦中にあっては「妥協」が不純で「裏切り」に見えてしまうのです。 67年明大学費闘争のあとには、国際基督教大、法政大、佐賀大、東洋大など、全学連再建とと もに闘いは多くの大学へと波及していました。そして、バリケードストライキに対して機動隊導入、 全面衝突が続き、渾身を賭した学生たちの砦は、次から次へと破壊されていました。 明大闘争で闘い切れなかった個別闘争の「改良と革命」や、党派のあり方は問われないまま、街 頭政治闘争、運動戦の拡大は、「非妥協」を最良の闘いとして突き進んでいきます。 2・2協定を経て中核派は「右翼体育会・ガードマンから、はては国家権力を使って暴力的に身構 9 えた学校当局の最後的拠り所をつき崩す闘いは、唯一、学生の大衆的な実力闘争の展開であり (中略)闘いそのものをより目的化し、自覚化され、目的意識と自覚によって武装された闘いが明 大闘争にもちこまれること」を求め、ブントは「大衆自らの闘争ヘゲモニーによる実力抵抗部隊こ そ、来るべき階級決戦をプロレタリア革命に転化する主要部隊に発展するであろう」と述べていま す。実力による「徹底抗戦路線」は、明大学費闘争の「教訓」として67年の流れを中核派のイニシ アチブ中心に形成されようとしていました。 3・明大学費闘争から再生へ(大学内の闘い) 明大学費闘争は、すでに述べたように、理事会と昼間部学生会の「合意」に近づいた67年1月 29日、徹夜団交中の1月30日早朝の機動隊導入、バリケード解除と「ロックアウト」となり、昼間 部全学闘争委員会と、全二部共闘会議の「解散命令」が学長名で発令されてしまいました。 昼間部社学同側は、29日、合意ぎりぎりまでこぎつけたのに、ML派と中核派による「白紙撤回要 求」と「徹底抗戦」の他大学の動員に、大学院の団交会場が包囲され、「機動隊導入」という事態 に至ったという思いが強かったようです。 昼間部中執としては、責任ある形で決着させたいと主観的には思ったのでしょう。それが、入試 実行と引き換えに奪われた堡塁をとりもどす突破口として、理事会側とのかけひきから「2・2協定」 という過ちへと至ったのでしょう。 その結果、大学当局と一体化した体育会の暴力パトロールは強化され、大学はロックアウトされ、 学館にも一時近づきにくい状態に陥りました。ML派らは法政に、また、社学同系は中大学館を拠 点に対策を練っていました。 ちょうど、「2・2協定」後の2月11日は初めての「建国記念日」となる日で、雪が降り続いていまし た。「神話を建国の日とするのは、再び戦前への復活だ」と、当時、建国記念日制定に反対してい たのですが、2・2協定で私たちはそれどころではなくなっていました。降りしきる雪の中、黒い学 生服の一団が日の丸を掲げた行進をしてきたので、私たちの友人もデモを組み、雪つぶてを日の 丸の一団に向かって投げたりしていました。 「2・2協定」に反対を表明していた和泉校舎の執行部と、全二部共闘会議は、「入試阻止闘争」 を宣言しました。ロックアウトで体育会系の「防衛団」のうろつく神田駿河台校舎周辺で、ゲリラ的 にビラまきを繰り返しました。全学連もそれを支援しています。そして、2月20日、明大入学試験 当日、全学連の入試阻止闘争の呼びかけで、御茶ノ水駅一帯は騒然となりました。 300人以上が御茶ノ水駅に結集し、明大前通り側の西口改札口前ホールでスクラムを組み、横5 列くらいの隊列を組んで渦巻デモを繰り返して座り込みました。駅のホ-ムでは乗客があふれ、 ホームから落ちたり大混乱となって国電は電車の運行を停止しました。改札口ホール前では、 「2・2協定」を批判した社学同の全学連副委員長成島忠夫さんや、全二部共闘会議のリーダーた ちがアジテーションを繰り返して、入試阻止を訴え続けます。国電側は機動隊出動による実力排 除を要請し、成島さんらリーダーの何人も逮捕され、駅の構外へと押し出されてしまいました。 そのため、東京医科歯科大学構内に再結集し、工事用の丸太を持った学生を先頭にして、明大 駿河台通りのデモ行進を続けました。御茶ノ水駅前などで機動隊とはげしく衝突しましたが、この 日、2月20日、結局入学試験は強行されました。そして、この日の入試阻止闘争のデモをピーク に、学費値上げ反対闘争は封じ込められていきます。一方、「2・2協定」の当事者であった明大 10 理事会と学生会中執は、3月28日と31日に駿河台本校の第二会議室で、「2・2協定」に基づく 話合いが行われました。 明大新聞によると、「28日午前10時から法人側からは長野理事長、武田総長、小出学長ら常 勤理事が出席、学生会側も大内委員長ら10名が出席した」。この日、学生会中執から3月25日 付で法人理事会へ提出された意見書の趣旨説明が行われたという。31日には、中執に対する理 事会の見解が述べられて、4月13日に理事会と中執の共同声明を発表することを相互に確認し たということです。大内委員長は、「意見書は団交の継続として行ったものである。この中で問題 点を惹起し、その基本が認められれば、細部については今後団交によって話を進めたい」と明大 新聞に述べています。 当時、二部の学苑会は臨時学苑会学生大会を3月24日に駿河台本校の91番教室で開催し、 「学費値上げ反対・白紙撤回」を求める大会決議をめざしました。法学部と商学部の学部自治会 を握っている民青系の執行部は、昨年、学苑会中執を追われたこともあって、この臨時大会をボ イコットによって流会させようと企てました。そのため、代議員の出席過半数入場が遅れ、6時開 始はようやく7時半を過ぎて大会を成立させて、「2・2協定破棄」を正式に決定しました。その結果、 昼間部の学生会中執は「2・2協定」に基づいた改善要求闘争に入り、夜間部学苑会中執は、「学 費値上げ白紙撤回」というこれまで通りの路線を進むことになりました。 法人理事会と学生会は、4月14日、確認文章「基本方針決定」がとりかわされました。4月28日、 大内委員長は記者会見でそれを明らかにしました。明大理事会は、一段落したとして「人心一新」 名で理事会を総辞職し、学生を十数人処分することを表明したのです。その流れに呼忚するよう に、5月初めになると大内委員長は「経済的理由」をもって「休学届」を提出してしまいました。何と か形をつけるまでと踏ん張っていたのでしょう。 本人の気持ちはどうあれ、無責任なあり方を露呈し、大学側に利用されて終わりという状態で した。学苑会は「2・2協定破棄・不当処分反対闘争」を決定し、4月23日に理事会に対して団体 交渉を要求することを決定しました。そして、酒田委員長は記者会見を開き、6月末に無期限授業 放棄、9月末には再度ストライキ態勢をとると発表し、長野理事長の「人心一新」理由の辞任や、 学生処分も許さないと表明しました。 「2・2協定」に反対する一部二部合同討論会を開き、5月23日には理事会との団交を要求する ことを確認し、大学側に学生組織の解散命令を出したことに抗議文を出すと同時に、大内委員長 に自己批判を求める要求書を送ることを決めています。「この闘争は長引くと思うが、1年続こうが 2年続こうが、あくまでも白紙撤回運動を推進していく」と表明しつつ、学生側には厳しい前途が予 想されていました。長野理事長は「学生処分後に辞任したい」と述べたことがわかりまた、教授会 も動き出しました。 このように「2・2協定」以降、明大学生運動は、不統一な方針のままでした。大内委員長は、大 学当局側にだけ「責任を果たすつもり」で、学生を放り出したまま、突如「休学届」に及んだのです。 大内中執執行委員長に対する批判は当然であり、学生会は立て直しが急務となっていました。 中核派やML派から批判されてきた「2・2協定」以降の明大社学同は、自己批判しつつ、沈 滞・消耗の中からも、とにかく学生に対する責任として、再び学費値上げ反対を闘う態勢に立とう としている状態でした。これらの人々は、中核派のリンチを受けながらも、黙々と立看を書き、カッ 11 ティング、スッティングという鉄筆によるガリ版のビラを作りながら、新入生歓迎集会を準備してい ました。こうした社学同再建をめざす人々に同情して、私も社学同に参加していくことになるのは、 この2月から3月頃であったと思います。そして、これまで明大二部になかった社学同の拠点を作 り出していくことになります。その場として、現代思想研究会(現思研)という同好会サークルを始 めることにしました。それは後に述べます。 昼間部では、新入生歓迎準備を担ってきた者たちが、大内委員長の休学届によって矢面に立 たされ、批判をうけつつ、大内批判をしながら中執体勢維持が問われました。駿河台、和泉、生田 という三つの校舎の定員24名の中執メンバーによる新体制づくりに対し、大内委員長の出身学 部である生田校舎は出席しなかったため、流会となるなど学生会中執内で対立が生まれていまし た。 「2・2協定」まで、全学的に掌握してきた明大ブント・社学同の内部で、「2・2協定」はやむを得 なかったと肯定する立場と、大衆的民主的な学生大会などの正式な手続きを経ていないので否 定されるべきだという立場の違いがあったのです。生田校舎のボイコットによって、中執は流会を くり返しましたが、新入生も入学し、学内が正常化されつつあり、また、全学連による砂川現地闘 争などの運動も問われていました。明大学生会は全学連の重要な動員の一翼を占めてきたし、 新しい政治闘争に参加していくためには、学生会自身が態勢を整える必要がありました。 (1967.5.16砂川総決起集会) 全学連は、67年5月16日、中大学生会館に350 人以上が集まり「砂川基地拡張実力阻止闘争全学 連総決起集会」を開いています。 中核派の秋山全学連委員長、社学同の成島副委員 長らのアピールに忚えて、明大からも多くが参加しま した。また、すでに長野理事長辞任による「人心一新 発言」によって、学費闘争を闘ったリーダーたちを処 分することと抱き合わせに行われることが迫っており、 学生会中執は早急の体制づくりが情勢的にも問わ れていました。明大短大学生会も5月25日、「2・2協 定破棄」「不当処分反対」を採択しています。また、5月31日、学苑会も定例学生大会を約300人 を集めて開催し、「2・2協定破棄」ストライキをめぐる全学投票を決定しました。 6月3日、やっと昼間部学生会中執会議が開かれました。これは小森副委員長が中執開催を再 度呼びかけ、大内委員長が小森さんを委員長代行とする旨の委任状を提出して、やっと学生会と しての決定機能を回復したためです。「『2・2協定』の是非は、今後討論で決定する」と棚上げし、 「自治会として学館運営問題、砂川基地拡張反対闘争、不当処分反対を闘い、再度明大を全国 学生運動の再拠点としていく」と確認しました。 12 (1967.6.23学費闘争処分発表) しかし、すぐの6月23日、小出学長名で、退学11 名を含む21名の大量処分が発表されてしまいまし た。明大新聞によると次の通りです。「この処分は、 さる昭和41年(1966年)11月、和泉学園封鎖で 端を発し、約70日間紛糾した昭和42年度学費値 上げをめぐる反対闘争の責任を問われたもので、 今回の措置は、昭和37年維持費闘争以来、初の 学生処分である。これに対し、学生側は、発表と同 時に行われる大学側の記者会見場になだれ込み、小出学長との会見を申し入れた。このため、 記者会見は中止された。今後学生側は『処分撤回闘争を組み、ハンストや授業ボイコットに入る 態勢を組む』と発表。一方、理事会は、かねての公約通り、7月初旪までには総辞職するものとみ られている」と載っています。 厳しい退学処分は、小森委員長代行ら、昼間部の闘いの再建をめざしている学生たちに向け られました。また、二部からの退学処分は、酒田全二部共闘会議委員長も含まれていました。 「一連の暴挙が、全学闘争委員会ならびに全二部共闘会議の指導によるとの判断から、すでにこ の2組織に対して解散を命じたが、今回各学部教授会の会議に基づき、上述の違法行為に組織 上の責任を有すると認められた学生に、学則第57条により懲戒処分に付する」と6月23日付明 大小出学長名で処分が発表されたのです。 6月17日からは、処分と同じ頃、2月20日の入試阻止抗議行動「御茶ノ水駅事件」で起訴され た成島全学連副委員長らの初公判が東京地裁で始まっています。 明大学生会も学苑会も、「処分撤回、学長団交要求」を掲げて激しく抗議行動を始めました。 二部では「学費闘争処分撤回」「学長団交」の要求を掲げて大学院前に午前9時から夜10時まで 無期限座り込みを6月30日から始めました。 (1967.7.7学長宅デモ) 一方、和泉校舎でも「処分撤回・対学長団交」を要 求して、退学処分を受けた学生らが、7月3日からハ ンガーストライキに入りました。 そして7月7日、和泉校舎では「処分撤回団交要求」 を訴えて、百余名がバスで駿河台へと集まり、学長団 交を要求しデモをかけました。その夕方には、また、 小出学長宅を包囲すべく、シュプレヒコールで学長宅 に向かい、機動隊ともみあい、4人が逮捕されてしま いました。機動隊が待機して学生らを蹴散らしたので す。 夜間部も7月に入って、学苑会中執も抗議に授業ボイコットを呼びかけ、全学投票を行うと決定し ました。このように、学費値上げに反対した学生指導部に対する大量処分は、ついに学生たちが 再び闘う意志を固める状況を作り出していきます。夏休みによって闘争が終息することを狙った大 13 学側の処分であったのですが、共に闘った者たちは、自分は処分されず、共に闘ったリーダーた ちが処分されたことで怒りが収まらず、夏休み中も次々と結集し、9月新学期に向けて闘う方針を 固めていきました。 退学処分を受けた者たちも、引き続き仲間と共に明大自治会活動の中で、その一員として、闘 いを続けていきました。昼間部では、退学処分を受けた小森学生会委員長代行に代わり、10・8 闘争後、中央執行委員会によって米田新委員長を選出しました。学生会は、ようやく「2・2協定」 から転換し、明大社学同、明大学生運動の傷をいやしながら、闘いの体制をつくりあげる方向に 向かいました。米田委員長は「とにかく官僚主義といわれる中執は、平和と民主主義の運動のバ ネにはならない。だからクラス討論の徹底によって、大衆からの反発と乖離を避けていきたい」と、 自治会執行部再建の決意を述べています。 このように「2・2協定」にもとづいて、昼間部学生会は「自治」や「大学の民主化」など、話合いの 道に踏み出したにもかかわらず、その当事者だった学生は処分され、改革を約束した理事会も総 辞職してしまったのです。その結果、大学改革、学館管理運営など、明大当局との今後の交渉の 土台と方向はうやむやになり、新学生会執行部も「2・2協定」については新たな方向を求めつつ、 すでに、67年のベトナム反戦闘争の盛り上がりからのちの10・8闘争を経つつ、明大当局批判を 強めていきました。 当局側が、大学改革を示さず、学館管理運営は学生自治のもとに、自主管理は強化されてい ました。また、学苑会においては学費闘争ストライキをめぐる「全学投票」を行いながら、学苑会中 執メンバーが、投票箱を事前にのぞいていたことが、研究部連合会執行部によって、偶然、夜間 に目撃され、その有効性を損なったことを学苑会中執が自己批判を表明するという事件も発生し ました。次々と新しく生まれる事態への対忚、ことに夏休み明けからベトナム反戦運動の全学的 な参加、10・8闘争、その後の高揚で「2・2協定」と「不当処分撤回」を掲げながら、有効な闘いを 組み得ませんでした。当局側は「処分撤回」を拒否し、退学・停学を受けた者たちの人生を支える 力も十分ない分、当事者たち自身に委ねられていくようになっていきました。 結局、全学の自治と決定をもって闘いつつ、その敗北の責任は各自に負わされる結果に至っ たのです。個別大学の「ポツダム自治会」と呼ばれる与えられた自治の代議制民主主義の数によ って決定された闘いの限界を痛感した者も多かったのです。 こうした闘いの挫折を経て、「ポツダム自治会」の民主的多数派形成の闘いと同時に、尐数派で あっても、直接民主主義によってヘゲモニーをとろうとする全共闘的な闘いの萌芽や、個別大学 の闘いから普遍的な政治闘争を党派へと求める方向へ進む者もいました。 そうした時代、三派全学連のけん引するベトナム反戦闘争を中心とする街頭戦へ!という闘い の方向へとエネルギーを注ぎながら、活発な学生運動へと、67年から68年高揚していくことにな ります。 No 511 重信房子「1960年代と私」第二部第2回 2019年2月 4.社学同加盟と現代思想研究会 「二十歳の時代」(「1960年代と私」第一部)の学費闘争の活動の中で述べたように、私は、 「2・2協定」直前の社学同の昼間部の会議に頼まれたとはいえ、参加してしまっていました。 14 「学費闘争の今後の方針を決定する会議であり、二部夜間部の意見を知りたいと」と言われ、 私は二部中執メンバーであっても二部を代表する立場も意見も持っていなかったし、そういう不適 切な会議への参加を断ったのです。しかし情況は切迫し、警察権力が1月30日朝、導入された直 後の2月1日です。何としても新しい方向を見つけたいとする昼間部学生たちの焦りも知っていま した。 当時、明大二部には、政経学部の上原さんが一人、社学同の同盟員でしたが、彼は学費闘争 前までは昼間部で活動しており、ちょうど1月には体育会右翼学生の訴えによって神田署に逮捕 されていたのです。団交などの小競り合い、ゲバルト戦になると、池原さんら昼間部の仲間と先頭 に立って闘っていたのが目立ったのでしょう。当時の「学生柔道日本一」の「明大生を殴った」とし て告発され、逮捕状で逮捕されていました。 二部の政経学部は、中核派系の労働者の委員長をはじめ、社会党の協会派系の労働者や、上 原さんら含めて三派系反日共系の学部自治会執行部を形成していました。67年1月は、特に厳 しく体育会系と対立していました。野球部の島岡監督は、黒龍会という右翼やくざ団体と共同して 動いていると、当時の噂でしたが、太った島岡監督が樫棒や桑の棒を配り、激をとばしていた姿 は、私も本館の中庭で二度目撃しています。彼らは活動家を見つけると拉致して、小川町校舎の 柔道場に連れ込んでリンチをしては、学生を消耗させようとするのです。この時には、のちの野球 の有名選手も加わっています。彼らのうち何人かは、史学科で夜間授業を一緒に受けたこともあ りました。彼らは反日共の立場から当初は三派を支援しましたが、当局と学生が団交でシビアー な対立に入ると、島岡指揮の暴力や、告訴などの法的措置で活動家つぶしを行っていました。 社学同としては、唯一の夜間部メンバーの上原さんが不在であり、私自身がML派に属さず、社 学同と研究部連合会執行部時代から学園祭などで協力し合っていたこともあって誘ったのでしょ う。 どうして忚じてしまったのか・・と後に考えましたが、とにかく好奇心もあったし、これからどう学費 闘争を闘うのか?という思いも含めて、個人の責任で参加しました。それが、結果的に、予想もし なかった「2・2協定」に化けてしまったのです。 あの時、確かに全学連委員長の斎藤克彦さんは「反対が多いな・・。継続討議として今夜は一旦 打ち切ろう」と会議を終えたはずでした。それが「暁の妥結2・2協定」になってしまったのです。 あの2月1日夜の中大学生会館での会議に参加していた明大社学同のメンバーこそ、私同様驚 いたはずです。加えて、翌日からの中核派によるリンチに対しても、また、ブント内からの明大社 学同への批判に対しても、明大社学同は自己批判を繰り返しつつ、「それではどういう方法で闘う ことが必要なのか」と考え続けていました。 「2・2協定」は学生大会の決議に反して、学生の意志確認する手続きもなく、また、学生会中執 としての決定も行っていません。「2・2協定妥結」は許せないのですが、内容的には学費値上げ の根拠、使用目的、値上げ幅、大学改革に活かす必要性など、大学と学生側で積み重ねてきた 討議は一部反映されています。情勢的には、すでに「白紙撤回」には無理があり、その上、闘いを 中心的に担った者たちへの懲罰処分が行われようとしていました。 15 2・2協定「妥結」を当局と合意した以上、それを当局はベースとして、今後話合いが始まるでしょう。 いいかえれば、大学理事会はそれ以外のことは、法的処置や規則違反として弾圧で乗り切ろうと している時です。 (2・2協定反対のビラ) 中核派やML派などの「白紙撤回」は現実に は、何の解決も望めない、そんな考えが明大社 学同の中に渦巻いていたように思います。学館 の学生会中執の何人かの社学同メンバーは、 体育会、中核派のリンチに耐えて居すわってい ました。和泉校舎では、社学同中心に、「2・2協 定撤回」と「団交の継続」を求めていました。 私は明大二部のML派や中核派の人らが拠 点としていた法政大学にも、社学同が拠点にしていた中央大学学生会館にも出入りしていました。 でも、基本は明大学館の研究部連合会の中執事務局室を中心として、学苑会、学生会中執事務 局の部屋もある3階で、当時過ごしていました。 学館の旧館(8号館)は隣接して明大前通りに面していて、各学部自治会室やサークルの部屋に なっています。アルバイトで日中を働いて過ごし、5時半過ぎると学館で友人たちと会ったり、語っ たりしていました。 当時は文研の部誌「駿台派」の編集長をやって発行しており、また、67年秋に向けて、文研仲 間と詩集「一揆」を自費出版するための活動と、多忙でした。こうした時に、2月1日の社学同会議 の場で、斉藤克彦さんらの提案に反対しつつ、中核派などの糾弾の矢面に立たされていた彼らに 同情もしていました。よく話をしていたML派の畠山さんは「男気」の人と呼ばれていた人で、中核 派がリンチに来ると、私が、畠山さんがいる時には忚援を頼んで止めてもらったりしました。畠山さ んが、中核派に「やめろ!」と割って入ると、すぐ収拾できたからです。 こうした中で「明大社学同再建」に向けて闘いが続いているのを知っていたし、また、誘われまし た。私自身は政治意識が高かったわけでも、どの党派の機関紙に共鳴していたわけでもありませ ん。2月20日御茶ノ水駅ホームを占拠して「白紙撤回」を求めて、一部二部学生たちも「入試粉砕 闘争」を闘い、私自身も参加しつつ、一方で共感しえませんでした。 個別の明大の闘いは、もっと話合いをうまくやるべきではないのか、こちらの方の力が弱いのに、 話合いもせず入試阻止を主張してどうなるのか?阻止できる力関係にはありません。ただ自分た ちを袋小路に追い込むだけではないか?「学園主義」と批判されても、私たちの競合対象は日共 民青との学費闘争をめぐる全学生説得工作であり、中核派のようなやり方ではないというのが、 学費闘争の始まりからありました。その分、学苑会執行部の活動も、精神の拠りどころとはしえな い気分でした。 明大社学同が、左翼反対派ではなく、主流派を形成していたせいか、総学生を意識しており、大 学祭含めて明大改革を考えているのではないか?ことに「2・2協定」の失敗があったので、真摯 に社学同再建を求めており、再建に誘われた以上、これから何か新しいものをつくっていけるかも しれない。 16 「社会をより良くしたい、そのために自分も尽くしたい」というとても素朴なところから、私は高校の 「生徒会」の延長上のように自治会活動にも関わってきました。それは父の影響だと思いますが、 世の中の不平等、不正に敏感に育ってきたこともあります。 新しい仲間と、精神のお互いの拠り所となる相手を仲間と認めあう関係を育て、変革の可能性 を考えられる場をつくりたいと思いました。すでに、研連執行部や学苑会中執の活動の中で、人間 的に気の合う信頼できる仲間たちの顔を思い浮かべながら、考えたことでした。 2月の終わりから3月のことだったと思います。中央大学の学生会館で、これまで何度か社学同 オルグの声をかけてきた一人である早稲田の村田さんと、医科歯科大の山下さんの2人を推薦 人として、私は社会主義学生同盟(社学同)に加盟しました。21歳の時です。 当時、学苑会事務長だった雄弁会のSさんを誘って、一緒に加盟しました。彼は、職場で、ブント の仏(さらぎ)さんたちの友人がおり、民青系との学苑会執行部に対案と人事案を提出する際、事 務長を引き受けてくれた人です。それから、研連の教育研究会サークルで誠実に活動を続け、学 費闘争も一緒に闘ったKさんも誘いました。 初期の社学同メンバーに遠山さん、文学部のIさんや、学費闘争の中で気が合って共同したり研 連時代の仲間も加わって、10人ほどになりました。 上原さんは既に社学同で活動しており、一緒に現思研作りに加わりました。遠山さんは、研連執 行部の私が、学苑会の対案人事のために学苑会中執財政担当になったために、私に代わって研 連執行部に法学研究会から派遣された人です。当初はどんな人かわからず、民青系かという声も ありましたが、初対面から、正義感の強い誠実な人とわかり、以来、もっとも分かちあえる友として 行動を共にしてきました。 私たちは、研連で未認可の、「同好会サークル」扱いの「現代思想研究会(現思研)」というサー クルをたちあげることにしました。社学同二部の仲間を中心にして、精神的思想的仲間として、共 に学び、相互に助け合う場、砦として考えたものです。 「同好会」は誰の断りもいらないし、サークル連合である研究部連合会に加盟を認められた組織 ではないので、予算配分で援助を受けることもありません。実績を積めば、研究部連合会執行部 の推薦によって、加盟サークルの一員に加わる方法もあります。私たちの仲間自身が研連の執 行部なので、そうしようと思えばできたのですが、私たちは考え方や、気の合った仲間たちで、「同 好会」としてずっとやっていくことにしました。 なぜなら、社学同仲間も、それぞれサークルに所属している人も多かったし、現思研は規則もなく、 家族的、心情的な兄弟的な場で十分と思えたからです。私は文学研究会に入っていたし、他の現 思研メンバーも法学研究会、雄弁会、教育研究会など、各々がサークルでも活躍していました。 私自身が楽しい活動の砦としたかったように、皆もそう考えていたと思います。 「2・2協定」のあとで、それらの当事者、責任者らは神田駿河台校舎からいなくなっていたし、学 生会中執委員長の大内さんらは、神奈川の生田校舎におり、また、社学同の人で、斉藤克彦さん らを批判した人々は、和泉校舎を中心に活動していました。 それでも、駿河台昼間部の活動家には、ブント、社学同系の人以外は目立って存在していなかっ たと思います。ブントか、社学同シンパの人々で自治会、学館、生協を占めていました。 60年安保ブントで活動した篠田俊雄さんや、学館運営委員会も若山さんらで、生協や教職員の 17 日共系の人々と対峙しつつ、自治的な運営を行っていました。私たちは二部の社学同が「現思研」 を作ったので、学館運営に協力することで、学館の未使用の一室を貸してくれることになりました。 サークル部屋や学部の自治会室、生協の事務室などは、明大前通りに面した8号館という旧学館 にあります。8号館からマロニエ通りに曲がった並びが学生会館新館です。新館は65年に開館し、 1階は管理運営委員会室、地下に生協食堂、2階に談話室があります。ホテルのロビーのように ソファーや椅子が配置され、コーラやファンタジュースの自販機が設置されています。 この2階と、旧学館(8号館)は、渡り廊下でつながっていて、部室や自治会室に行くことができ ます。新館3階は学生会中執と学苑会中執が向かい合って、同じ作りの部屋の隣に、同じスペー スの会議室があります。その横には、研連執行部事務局と、昼間部の文化サークル連合である 文連の執行部事務室がやはり同じ大きさで並んでいます。 4階は和室、会議室、それに新聞会室と資料室、5階はホールで、数百人の講演会や集会に使用 できます。この新館の4階、新聞会室の予定だった部屋を、二部社学同、現思研のために貸してく れました。 3階の学苑会室の隣の会議室はML派の人が中心に使い、他校のML派の人も寝泊まりしはじ めていました。3階の研連の部屋は、ML派の人は入ってこないのですが、サークル連合のいわ ば行政機関を担っているので、様々なサークルとの折衝や実務も多く多忙です。夜、学館に泊り 込んだりする人も、学苑会の方にもいるので、学館運営委員会としては、社学同系の信用できる 仲間が、きちんと管理してくれる方がありがたかったのでしょう。事実、立て看を描いたり、昼間部 や夜間部のブント系・ML派系ら、いろいろな人が泊まっていました。泊り込み作業のあと、和室に 布団を敶いて寝ているのはブント系の人でしたが、朝9時過ぎには茶道部が和室を使おうとしても、 汗臭い人間が寝ていたり、布団をひきっぱなしだったりすることもありました。 現思研では、朝8時には和室で寝ている連中を「起床!」と追い出し、窓を開け、布団を片付け て掃除し、いつ昼間部の茶道部や華道部などの和室使用があっても、苦情がないようにと整頓協 力していました。そんなこともあって、4階の新聞会室は現思研が使用してよいということになり、 いつの間にか、ずっと、現思研の部屋となりました。この新聞会室は、学館が65年に設立されて 以降、未使用の4畳半ほどのスペースに、ピンクの公衆電話がそなえつけです。(3階の各中執や 研連にも同様のピンクの公衆電話が設置されていました。)そこが、私たち現思研の拠点となり、 のちに赤軍派でバラバラに大学を去っていく69年の秋まで、ずっと、愛着のある場、砦として機能 していきました。 現思研は当初、「様々な思想、考え方を学習し、変革し、より良い社会を実践的に創っていく」と いう考え方に基づいていました。どのような考え、思想であってもかまわない。共に学び、共働し、 一緒に汗を流して考えれば、身内のような関係性の中で、一つになっていけるはずだ、という私自 身の考えがありました。だから「社学同でないとダメ」という考えには立たないという立場です。 第一に、私自身社学同を理論的にもよく知りませんでした。 何よりも空疎な「理論」より、生きた人人との関係を大切にしようと思いました。昼間働き、貧しい けれども向学心のある田舎から出てきた仲間たち、社会には慣れていないし、相談する相手も見 つけるのも難しいでしょう。だから、生活し、働く悩みを語り合い助け合いながら学び、共同する場 としよう。「現思研に来れば、家族のように安心して話ができる」と仲間たちが言うのはうれしかっ 18 たものです。昼間部の人の中にも、現思研に「入れてよ」と頻繁に共同したりする人もいました。 また、昼間部のYさんの発案で、現思研の内に「剣道同好会」の看板を掲げてはどうか、これから は右翼とも機動隊ともやり合う時代になる。ゲバルト訓練も加えてはどうかという話もありました。 Yさんは剣道の達人ということで、彼に学ぼうと楽しそうに一時話題になり、彼もまんざらでもなか ったけれど、私たちはやっぱり思想を学び実践すること、「現思研一本でいこう」ということになりま した。すでに、65年の日韓闘争のデモの頃のような警察と学生側相互の暗黙のルールのような 牧歌的時代は終わろうとしていました。 私たちが現思研を立ち上げたのは、67年春ごろ、入学式の前のまだ春といっても寒い季節でし た。67年はベトナム侵略戦争が激しくなり、米国の戦争予算は史上最高額を更新し、米軍派兵も、 朝鮮戦争の47万2千人を上回りながら続いていました。米国は、国際的批判にさらされ、出口戦 略もなく泤沼化状態にありました。67年1月には「2・2協定」の前に「ベトナム反戦闘争第一派行 動」が全学連斉藤委員長の指揮下、数百人で担われ、全学連としてのベトナム反戦闘争は始まっ ていました。米国内でも、欧州でも、若者たちのベトナム反戦闘争は盛んに闘われていました。6 5年に結成されたベ平連は、各大学、地域、高校にまで自発的な組織がつくられ、市民運動の広 がりが、日本社会に影響を与えていました。 一方で、左翼運動では、全学連(三派)のヘゲモニー争いもありました。また、日本共産党と、文 化大革命の中国共産党の間の矛盾が激化していました。それを反映して、日本共産党内の中国 を評価するグループと、宮本書記長の自主路線を支持するグループの内部矛盾は拡大していき ました。そして、後楽園近くにあった中国人留学生宿舎の「善隣会館」の管理運営をめぐって、日 本共産党員と中国人留学生の衝突に至り、流血沙汰になりました。ML派は中国派に加担し、善 隣会館に駆けつけて中国人留学生らを支援しました。明大闘争で「外人部隊」として参加していた 横国大のML派などや、ML派の猛者として名の知れた畠山さんも林彪を高く評価して、「林麟次 郎」のペンネームを名乗り、「日中青学共闘会議」の議長となって活動し始めています。この頃か ら、ML派自身が、ますます毛沢東路線へと変化していったのだろうと思います。 私は社学同に加盟し、「現代思想研究会」を拠り所としながら、授業にも、文研サークルにも、ア ルバイトにも精を出していました。「先生になりたい」「書きたい!」と夢の実現は確かな手ごたえ があり、大学生活は楽しくて、生きがいでした。心を許せる仲間が何人もいて、新しい日本や世界 の変革を語り合って、話は尽きません。学生運動の好奇心と喜びに、何をしても有意義で燃えて いました。 5・67年現思研としての活動を始める 学費闘争の中から仲間意識を持った者たちが、社学同に加盟し、入試阻止闘争の後から、現 思研の活動は始まりました。同好会資格で、まずもって、新入生をオルグしようと動き始めたので す。新入生は、3月に入試の合格発表が行われます。そして、各種の書類や案内書を受け取り、 入学金、授業料の払い込みが行われ、更に新入生説明会のようなものがあって、その後に、入学 式が行われたように思います。私自身の入学式は、どんなものだったのか思い出せないのですが、 たぶん、夜間部として明大記念館で行われたのだと思います。昼間部と一緒に武道館で行われ たのかもしれません。どちらにしても、働いていて、出席できなかったような気がします。 のちに触れるように、「現思研構想」を決めた後、私は、福島の県会議員選挙のアルバイトのた 19 めに、一時抜けて活動しています。お金がいるだろうと、この割の良い選挙運動を引き受けたので す。その後、入学式後に新入生歓迎会が行われます。夜間部学苑会中執、各学部自治会執行部 と研連執行部によるオリエンテーションが行われ、駿河台校舎正門から入ってすぐの中庭には、 各サークルが所せましと出店して、机を出して、サークルへの勧誘を行います。大学のバッチや、 新聞なども売っています。 私たち現思研もその一角を借りて「現代思想研究会(同好会)」の貼紙を出して、遠山さん、私ら 女性中心に、新入生歓迎を訴えつつ、オルグします。「何をやるところですか?」と何人かが立ち 寄ります。「学習したい人、哲学、政治、歴史などの思想的な学習を、デモや実践的な活動と結び 付けて、社会変革に役立てるのです」「実践活動って何ですか?」「自治会活動とか、デモとかの 運動です」と、ニコニコ話します。アカデミックな研究の場ではないことを、はっきり表明しました。 遠山さんも「ほら、名前忘れたけど『私はあなたの意見には反対だが、あなたが弾圧されたら、 その時には命がけで守る』と言った人がドイツにいたのよ。正義を実現するところよ」などと話して いるので、相手は何か難しそうと言いつつ、「ボクは創価学会の家庭で育ったので、思想には興 味があります」と言い、青森から出てきたS君も現思研に入ることにしました。 (記念館中庭) 社会運動と学園改革、二部の学生の現実に則して 関わる場として、その精神的中心に現思研を育てた いと、初めての現思研勧誘に熱を入れました。若い 18歳くらいの学生は、どんな考えを持ってもいいし、 共通の問題意識を育てながら、自治会、デモに参加 しようというのが本音で、その本音を新入生に率直 に語ったものです。「デモは路上観察でもいいよ」と私たち。 自分たちがそうであったように、不正に反対し、反戦を訴えるデモは、見ていれば自然に参加した くなるものと考えていたからです。そして、そんな雰囲気が、学費闘争を媒介にして「2・2協定」後 も明大には強くありました。 新入生歓迎会では、各執行部熱烈歓迎のアジテーションです。一方的アジテーションで、「何を 言っているのかさっぱりわからない」と言われる人もいれば、学苑会酒田委員長の演説は、情熱 的でわかりやすく、学費値上げ反対や、入試阻止を闘ったことを語りました。現思研のメンバーた ちも同様に新入生たちに語りかけました。 こうして賛同した新入生が数人集まってきました。この人々が、のちに現思研の中核となる67年 入学組のO、T、A、I、Yさんらです。新しいメンバーの中には、自民党支持の田舎の優等生で、夜 間大学に働きながら学ぶために来た者もいます。すでにベトナム戦争反対は市民社会に広がっ ており、デモへの参加を初めから楽しみにしている人もいます。 私たちは、自分たちが大学生になって、右も左もわからずに過ごしていた初期の経験を思い出し ながら懇談会を開いて、様々なオリエンテーションを行いました。まだ就職、アルバイト先が見つ からない者たちには、大学の学生課の掲示板に連れていき、求人広告から「これがいい」「あれが いい」とアドバイスしました。 すでに先輩格になった現思研のKさんは、九州から出てきた当初は、中央線などの快速電車 20 や急行は、別料金を徴収されると思って、各駅停車の鈍行しか乗らなかったとのことです。また、 水洗トイレの使い方がわからず、反対向きに座ることを知るまでは便器に上がって用を足したりし たということです。東京は地方から出てくると刺激的な街で、何でもありですが、どうしていいかわ からないことが多いようです。そんな彼らに、現思研との出会いは頼もしいものだったようです。 のちに大分から上京してきたI君は、すでに「社学同で闘うつもり」と二部に入ってきました。そんな 人は稀で、みな高校の生徒会やクラブ活動の延長のような感覚の人が多いのです。 入学前に、ちょうどデモがありました。新潟から来た、真っすぐな青年のO君は、入学前に現思 研の誘ったデモで逮捕されてしまいました。この時、現思研は社学同の隊列に加わることになって いました。ベトナム反戦か、沖縄闘争のデモか、はっきり思い出せません。「デモを見学しよう」と 誘ったのは、私たち先輩です。 初の入学式前早々のデモに新入生が隊列を組んで進もうとすると、学館4階の現思研のベラン ダから私と遠山さんが、花吹雪を盛大に撒いて「がんばってねー!」と叫んでいたと後に現思研の 友人たちに言われています。初めてのデモなので「新入生は、どんな様子か、見学なので歩道を 歩いてください」と確認はしていました。しかし、歩道から見学していたO君ら新入生たちの前で、 ちょうど学生に機動隊が襲いかかりました。機動隊が学生を小突き回し暴力をふるうのを目の前 にして、純情なO君は思わず「止めろ!」と仲裁に飛び込んでしまいました。田舎から来て間もな い青年の善意は「逮捕!」という声に殴られ拘束されてしまったのです。 仲間たちは、O君を引き戻そうとしましたが叶わず、警察側に連行されてしまいました。これを 目撃した仲間たち、自民党支持のS君も、宮崎から出てきたT君も、古いメンバーのNさんらも、顔 面を紅潮させ、怒りと戸惑いで一杯です。新学期初の授業が始まる前から、O君の拘束されてい る警察署への救援手配を行うことになりました。 この出来事がきっかけとなって、彼らは現思研のコアメンバーとなり、社学同のデモや集会にも、 自治会活動にも積極的に参加していくことになりました。私自身が高卒で働き、その職場に夜間 大学に通う人がいて、大学進学という方法を知りました。大学生活は楽しく新鮮で得がたいと心か ら感激したように、彼ら新入生もみな眼が輝き、わたしや遠山さんらを質問攻めにしていました。 (新学館4階平面図) 学館4階の現思研の部屋は、「新聞会」のプレ ートしかないのですが、この部屋が精神的砦とな っていました。御茶ノ水駅を下ると、みんな真っす ぐにこの学館の4階の部屋にまず立ち寄ります。 そして、『今日の予定は何かないか?』と聞き、頼 ったり、頼みたいこと、ビラ配り、立て看作り、イベ ント、集会のスケジュール、自分の協力できる時 間帯を確認し、授業に向かいます。 授業がない時にはこの部屋に戻って、時には入 りきれないほどの現思研の仲間が集まって雑談 に花を咲かせます。自分の家族、職場での話、就 職やアルバイトを紹介し合う仲間同士の助け合い 21 も、自然成長的に仲間意識を育てていきます。 そうはいっても、夜間部の学生は毎日が時間との闘いです。朝から5時頃まで職場で働いて過ご し、5時半の授業前に、5分でも学館4階に立ち寄ったり、すぐに駆け足で教室の授業へと出てい きます。授業の空き時間にラーメンを食べたり(当時50円でした)、学館内の生協食堂で30円の うどんをかきこむ人が多いです。夜9時50分から10時に授業が終わると、本格的に活動開始で、 最終電車の頃まで、クラス討論のビラをカッティングしたり、謄写版印刷したりします。鉄筆で一字 ずつロウを塗った原紙に書き込んでいくもので、当時はワープロもパソコン、携帯電話もないです から、ビラや立て看が情宣の武器です。一枚一枚、手刷りで500枚ほど刷ったビラを、各クラスや、 校舎入り口で学生に配布します。 それから立て看は、角材とベニヤ板で畳1畳分から2畳くらいの看板を作り、模造紙を洗濯糊で 貼り合わせて、その白いスペースにスローガンや政治表明、イベント予告や当局への要求などを アトラクティブに描きます。これらの協同作業は、また楽しいもので、慣れると看板屋をしのぐ、立 派な字の「立て看」を描く人もいます。現思研で一番上手だったクラケンは、のちにその腕を活か して、プロの看板屋になったほどです。 そのうち、68年には大分出身のI君が、下宿から現思研の部屋に持ってきた小さな電気釜で米 を炊き、道路を隔てたところにある中華料理の小さな店「味一番」から、みんなで乏しいあり金を出 し合って、ニラ炒めやギョウザ、ラーメンを出前してもらって、ご飯のおかずとして分け合って、助け 合って、食べたりしていました。 お金がなくても、ここに来れば誰かが助けてくれて、食べることができたのです。また、和室を借り て、立て看作業で遅くなる人は泊まることもできました。神保町に朝4時までやっている中華料理 店があって、立て看を描き終わると、お金のある時は、みんなでそこに行って焼きそばやラーメン を注文したり、近所の銭湯に行ったり、だんだん学館が根城になっていきました。 「楽しい。仲間がいる。そして、仲間とベトナム戦争に反対する正義の仕事を共同している」これ は、生きがいとなり、仲間もまた増えていきました。明大二部では、学費闘争を経て、中核派や解 放派の何人かもML派も増えました。 でも現思研は、研連執行部の人材も加わっていたせいもあって、Nさん、Mさんら含めて20人近く が集うようになりました。私もそれまで、自宅や、親類の家から通っていたスタイルから、夜の遅い 最終電車でも間に合うところに下宿したいと思いました。そして、67年の夏には、初めてアパート というか長屋に部屋を借りることにしました。初の自分の一人住まいは、とてもワクワクしたもので す。 大学の掲示板で小岩駅から歩いて15分くらいのところの材木屋の店子のような長屋を見つけ て借りました。家具を揃えるのもうれしかったものです。でも、とても粗末な長屋で、3畳くらい。確 か、1ケ月3,500円だったか。初の一人住まいを見に来た母は「こんな家に住まなくても・・・」と 絶句したくらいです。実家にあった古TVを持ち込んで、本人は気に入ってましたが、駅から遠いこ と、学館や実家に泊まることも多く、あまり使いませんでしたが、借りた期間は長かったです。 中大の久保井拓三さんが傍に住んでいて、よく往来し、私がそこから引き上げる時に、TVをもらっ てもらいました。久保井さんは誠実な人で、「安保反対・日帝打倒」の闘いの話や、どんな本を読 んだらいいかなど、現思研仲間がぎゅうぎゅう詰めに私の部屋に遊びにくる時には、一緒に多く話 22 たりしたものです。 当時の67年の現思研について、Tさんは次のように述べています。「僕たちが入学試験を受け た67年は、明治は学費闘争の最中で、機動隊が校舎の周辺に配置され、それに交じって学ラン を着た忚援団、体育会の学生らに守られる形での受験でした。ちょうどそのころ、取り交わされた はずの『2・2協定』のことは、後に先輩たちから存分に教えられることになる。入学後は、授業の 合間をぬって、自治会役員による歓談があった。宮崎の片田舎で育った自分には、東京や大学で 目にするものはすべて珍しく、興味を惹かれることばかりだった。上原さん(当時の駿台政経学会 委員長)に連れていかれたのが学館4階の現思研で、文字通り現代の思想研究サークルと思っ ていた。ブント社学同活動家養成所であることを知ったのは、ずっと後のことである。 現思研には、全国から面白い人が集まっていた。Oは入学早々、沖縄デー集会に逮捕されたと いうし、東京出身のKは『党宣言読んだ?』と聞く。『党宣言』がなにものか知らない自分は、上原 さんにたずねて知った。Kたちは、すでに高校のとき読んだというのでびっくりした。 その後、運命の10・8を迎える」と語っている。このTさんとは10・8を共にし、68年には成田闘争 で彼は未成年のまま逮捕されることになる。それはまた、そのところでTさんの話を伝えたい。 6・67年春、福島県議選 一方、この頃、67年3月だったと思いますが、アルバイトで福島県の地方選挙に出かけること になりました。雄弁会のアルバイトで、これまでもいくつかの地方選挙の候補者の忚援演説や、候 補者の名前を連呼する「うぐいす嬢」と呼ばれるアナウンスの役などをやってきました。 二十歳の時、町田市議選に出る高校時代の友人の父親に頼まれて、アルバイトとして、忚援演説 に加わっていました。これを、市内に住む父の知り合いが聴いて、気に入ったとのことです。 「兄貴が福島で、社会党から県会議員選挙に出馬するので、アルバイトで来てほしい。標準語で 演説できるのが大きなインパクトになるから」と、父を通して頼まれたので、アルバイトとして引き 受けました。ちょうど現思研が活動を開始し始めたころで、活動資金の必要性もありました。 私がアルバイトではありましたが、忚援したのは、2011年3月11日の東日本大震災による「フ クシマ原発問題」で脚光を浴びた元双葉町長の岩本忠夫さんです。 67年当時の岩本さんは、双葉原発誘致反対のイニシアチブをとる社会党双葉支部長であり、 「葉たばこ共闘会議議長」「出稼ぎ対策委員長」などの肩書を持つ闘う活動家であり、38~39歳 くらいだったと思います。私は世田谷に住んでいた子供時代から、地域に住んでいた鈴木茂三郎 (第2代日本社会党委員長)が好きだったので、社会党には好意を持っていました。 でも、社会党についても、福島についても、何も知りません。東京生まれの私には「田舎」といって も、九州の両親の里に行ったこともなく、初めての「田舎」でした。その土地の、のびやかな美しさ、 浜通りには海が迫り、夏には毎日泳げるというし、中通の麦畑や小高い森一つ一つが興味津々 でした。私にとっては、浜通りや山間部で忚援演説をしたり、車を流しながら「岩本忠夫が参りまし た。日本社会党公認候補岩本忠夫でございます」とアナウンスしながら回るのは、とても楽しい仕 事でした。 社会党の東北ブロックの参議院議員や、労働組合議長の和田英夫さんも同乗して、代わる代 わる声を張り上げました。岩本さん宅の、よろず屋のような酒屋を事務所にして、たくさんの住民 が出入りし、ことに労働組合員が多かったように思います。選挙区は、双葉郡で、双葉町や浪江 23 町などです。私は、こんな論旨で語りかけたのを覚えています。「浪江の町にも双葉の町にも春が やってまいりました。しかしながら、父親のいない、兄のいない、子のいない、これが本当の春と言 えるのでしょうか?岩本忠夫は『出稼ぎ』の様々な困難や事故に、もっとも尽力してまいりました。 岩本忠夫は皆様の代表であります。これまでも、またこれからも、出稼ぎに行かなくても暮らせる 福島、出稼ぎの不要な地場産業の育成に尽力していくのは、この岩本忠夫であり、葉たばこの国 との交渉に尽力してきたのも、この岩本忠夫であります。どうか岩本忠夫に皆さまの清き一票をお 願いいたします。それでは、岩本忠夫候補から御挨拶申し上げます」などと、前座を務めるのです が、アルバイトというよりも、私は岩本さんを心から忚援した日々でした。 岩本さんの人柄、献身的なとても自己犠牲的な姿、信念、自分を返りみないで打ち込む姿、ま た、青年団の私と同年の人々との熱心な信頼関係や、岩本さんへの尊敬心を横から見ていて、 私のアルバイト気分は消えてしまいました。そして、身内のように声援を続けました。この頃、ちょ うど、原発の誘致を自民党らが始めており、原発反対も訴えていました。でも、東京の経験と違っ て、人間関係が濃いせいか、選挙運動の過熱ぶりには驚かされました。ある日、山間部を候補者 たちと回った時のことです。山深いふもとに2,3軒の農家があっただけのところです。その家の前 で忚援演説を始めたら、家人が出てきてこういったのです。「岩本さん、悪いけどもう〇〇から〇 本もらったから(と指を立てて)あっち入れっから。今回は勘弁してくれ」と。「金権選挙」はあたりま えなのです。金のある自民党が勝ってしまうのは当然なのだと実感したものです。 岩本さんは、結果は次点で落選でした。でも、これまでに考えられないほど保守王国の基盤に 肉薄し、初の社会党県議の可能性が生まれたのです。「次は勝って、この地から社会党県議を誕 生させよう!」と、落選後の御苦労会も意気さかんでした。多額のアルバイト料を岩本さんの弟か ら受け取り、「また4年後もお願いします」と言われたものです。 しかし、私の方は、高揚する学園闘争や、ブントの反政府デモなどで時間をとられるようになった し、69年には逮捕されるなど、すでに、そうした活動はできる条件はなかったし、次の地方選前に 海外へと出国してしまいました。次の地方選は71年で、岩本さんは当選しましたが、その年の2 月に日本を離れてアラブへと活動し始める頃であり、その後はどういう経路をたどったのかも知り ませんでした。 ところが、アラブにいたある日、80年代後半か90年代か、届いた資料の中で、「原発推進」の 双葉町長として、岩本忠夫さんが載っているのを見て、私はびっくりしました。岩本さんは、当時、 反戦、反核、反原発の戦闘的な活動家であり、リーダーではなかったか?事情は記事にも書かれ ておらず、わかりません。そのまま縁もなく、アラブにあっては知る術もなく、記憶の底に沈んでい きました。 それが、2011年の3・11の「フクシマ人災」を経て、いくつかの資料から岩本さんのその後を知 ることができました。「亡国原発を闘った男・石丸小四郎の証言」(2011年週刉朝日10月15日 号)で以下のように記されていました。「石丸さんは、66年に反原発運動を始めた。双葉町の酒屋 の店主で、社会党双葉総支部長だった岩本忠夫さんの『核と人間は共存できない』という言葉に 共鳴したのがきっかけだった。翌72年、石丸さんは岩本らが結成した双葉地方原発反対同盟に 加わった。岩本さんは、社会党の町議から県議になった。県議に3回落ちた後、岩本さんは原発 推進に転じ、第一原発5・6号機がある双葉町長に立候補して当選した。05年1月、内閣府の原 24 子力委員会の新計画策定会議に岩本町長(当時)は招かれた。議題はプルサーマル。福島県の 佐藤栄佐久知事(当時)は、東電がひび割れ記録を改ざんした事件が02年に発覚してから反対 に転じ、東電や経産省は頭を痛めていた。その会合で、岩本町長は『どうぞ、ここは確信を持って 推進していただきたい』とエールを送ったという。 石丸は、かつての同志岩本さんを『東電と国に徹底的に利用されたんだ』と気の毒そうに言った。 その手口が原発の『甘い蜜』だ。石丸さんの試算よると、電源三法、交付金や大規模資産税、東 電からの寄付金などで、約40年間に458億円にのぼる収入があった。双葉町の人口7,000人 で割れば、一人当たり650万円だ。過疎の町には、原発修理などの下請け企業、労働者相手の 下宿屋、居酒屋など次々と出来、『原発長者』が次々と生まれた。(中略)私は岩本前町長にぜひ 会ってききたかった。だが、7月15日に慢性腎不全で死去した。」と記載されていました。 また、週刉「金曜日」の2011年9月9日号の「原発と差別の中で」鎌田慧さんと樋口健二さん の対談で、次のようにあります。 「鎌田―ひどい話です。樋口さんもよく御存知の岩本忠夫前双葉町長は、7月15日82歳で亡く なりました。(中略)町長になる前には、社会党(当時)県議や『双葉地方原発反対同盟』委員長と して、反原発の先頭に立っていました。 樋口―ところが東電側の総攻撃で3回連続で落選させられる。 鎌田―政界引退を決めたが、1985年に町長選に引っ張り出されて、05年まで五期20年を務め ました。町内には福島第一原発5・6号機があるが、財政難を背景に、7・8号機の増設を求める 推進派の筆頭格なってしまいました。事故後、テーブルを叩いて怒っていたと聞いていますが、東 電に怒っていたのか、自分に怒っていたのか、残念ながらわかりません。岩本さんの長女と次女 は東電社員と結婚しています。被害者と加害者がぐちゃぐちゃになっている。原発はそういう社会 を作ってきた。差別構造の中に、さらに複雑な構造がある。ほとんど地獄だと思います」 私が67年に福島に行った時、きっと石丸さんに会い、一緒に岩本選挙で語り合ったのでしょう。岩 本さんの長女も次女もまだ小さかったのです。こういう人たちと一緒にいたのだな・・・と、3・11以 降、感慨深く思い返しました。 岩本さんは清廉な人で、私の子供時代の世田谷の稼業のよろず食品店と店構えも似ていまし た。岩本さんの母親は、しっかり者で、妻も従いながら店をきりもりし、選挙で何十人も出入りする 人々に、おいしいコメの塩むすびと、忘れられないほどおいしい白菜の漬物をふんだんに振舞っ ていました。子どもたちはまだ小さかったけれど、忙しく出入りする父親や大人たち、それに東京 から来た私に、遠慮がちに興味津々で遠巻きにしていました。私は夜も岩本さんの家族と泊まっ てすごしたので、子どもたちとは仲良くなって話をしました。若者や、同年輩の社会党員たちが威 勢よく選挙運動を楽し気に担っていました。選挙運動の1日が終わると、一杯飲んでは「あの家は 大丈夫だ」とか「あそこはもっと忚援をかけた方が良い」とか、団結や勝利を陽気に誓う、雰囲気 のよい選挙でした。私は、当時の岩本さんを思い出します。 「出稼ぎのとうちゃんが戻らない」とか「息子がどこで働いているのか連絡がとれなくなってしまっ た」など、村や農家の人々の相談に真剣に聞き入り、メモをとっていました。 「この双葉、働くところがあれば家族がバラバラにならないですむ。この双葉を働いて暮らしていけ る町にしたい」と私にも言っていました。高度成長の中で、取り残されていく故郷を変えたいという 25 願い、巧妙な反原発運動に対する妨害とカネのバラマキ。「安全神話」と原発に潤う町。独占と企 業の論理が、国家意志として過疎の町を襲う時、こうした社会党の中核部隊ががんばれなくなっ ていったのでしょう。社会党自身も政策変更し、「平和利用論」に変質したように、原発の国策「平 和利用」「安全神話」にからめとられていきました。 良質の社会党の基盤は、国労、労働組合、原発政策と堡塁を奪われ続けた時代の一端を、岩 本さんの人生は示しています。「地獄への道は善意で敶きつめられている」というのは、岩本さん のような歩みをいうのでしょうか。彼の「無私」の「善人」さ、当時、そうした多くの「岩本さん」を生み 出し、現在の日本の保守化、右傾化に変質していったのでしょうか。これはまた、ソ連、東欧崩壊、 社会主義の展望の暗転の時代に重なるのでしょう。 No 516 重信房子「1960年代と私」第二部第3回前半 2019年4月 7.全学連の活動 砂川闘争 米軍による北爆から「ベトナム侵略戦争反対」を訴える国際的な反戦運動が、米欧日で激化し 続けていました。朝鮮戦争を上回る兵力を投入しながら、ベトナム人民の北部、单部の強じんな 抵抗の前で、米政府は痛打をくらわされていました。 米国内の反戦運動は社会に広がり、政府を脅かし、欧州、ソ連、東欧から非同盟運動の主体であ る第三世界に至るまで米国のベトナム侵略に反対し、ベトナム人民連帯行動を強化しました。日 米安保条約を盾に、米国のアジア侵略基地として、日本の米軍基地は侵略の前線として機能して いました。兵力の補給、武器の更新、負傷兵の撤退、海軍兵力の寄港と日米政府の様々な密約 の中で進められていきます。 67年1月のベトナム反戦第一波闘争が、12月に再建された三派全学連の初の行動として、羽 田へと、400余名が全学連部隊として登場しました。明大は、学費闘争の最終局面でしたが、初 代全学連委員長が斉藤克彦さんであり、参加も多かったようです。その後「2・2協定」を経て、斉 藤さんに代わって秋山勝行委員長代行のもとで、全学連の第二波行動として、2月26日、砂川基 地拡張阻止闘争が行われました。この時の参加か、その後の参加か、私自身の参加記憶ははっ きりしません。たぶん「2・2協定」後で多忙で参加しなかったのでしょう。 (1967.2.26 滑走路前での総決起集会) ただ、この2・26闘争で三派全学連と反戦青年委 員会は、初めて独自の集会を持ち、「反戦勢力」の 流れを作り出したと、全学連自身が評価しています。 このため、砂川基地拡張反対同盟青木行動隊長は、 1,500人の青年、学生、労働者に次のような挨拶 をしたと、記録されています。 「あの11年前の砂川闘争以来、こんなに前進した 集会はなかった。これまで抗議集会といっても、基 地に近寄ることができず、立川市役所前の広場など に集まって、犬の遠吠えをするだけでした。それが 今日はどうでしょう。このようにして今日は滑走路の 前で堂々と集会をやり抜いたのです」(77年「流動」 26 8月号より)。 67年前半の私たちの主要な闘いは、「2・2協定撤回」「学生処分白紙撤回」と、現思研の組織化 であり、学外では、ベトナム反戦・砂川闘争が中心としてありました。 その中で、第一次砂川闘争を闘ったのは、全学連の明大の先輩たちであり、この時の逮捕起訴 の裁判で、「伊達裁判長判決」が出たことを学びました。伊達裁判長は「米軍は日本国憲法に違 反する軍隊であり、基地に侵入したと起訴された全学連の学生は無罪である」と言い渡したので す。ところが検察は、高裁を飛び越えて上訴しました。そして最高裁判決で差し戻しされ有罪にな ったという話です。当時も、司法権力のいかさまだと、私たちは話をしていましたが、のちに、この ころの記憶は、2013年、土屋源太郎さんの話で、1955年の闘いが再び明らかにされているの で、ここに触れておきたいと思います。 土屋源太郎さんは、伊達判決で無罪を受けた被告の一人であり、当時明大生で、全学連の都学 連委員長として活動していました。 (土屋源太郎氏2015年撮影) 土屋さんは、「伊達判決をいかす会」を立ち上げ、「砂川 伊達裁判判決破棄した最高裁判決は無効」を求めて活動 を開始していました。なぜなら、伊達判決を覆すために米 駐日大使と日本の外相・最高裁判所長官が判決を巡って 会っていたことが示される資料が、米国の機密文章解除 の中から発見されたためです。土屋さんの発言は次のよ うな内容です。(「情況」誌2014年11・12月合併号) 「1950年朝鮮戦争が始まると、立川基地からも米軍機 は飛びたち、ベトナム侵略戦争でも拠点になっていった。 米軍立川基地もその一環であり、原水爆を搭載できる大 型機、高速戦闘機発着の必要から、滑走路拡張が必要と なった。1955年5月、砂川町長に政府は基地拡張の通 告を行い、126戸の農家と17万平方キロメートルの接収 を告げた。これは町の生活破壊であり、砂川町議会を始 め、反対を表明して『砂川基地拡張反対同盟』が結成された。 これが砂川闘争の始まりだった。この基地のための測量に抗して、機動隊の暴力にスクラムで 抵抗し、5,000余が流血の中で闘い抜いた。『土地に杭は打たれても心に杭は打たれない』と青 木行動隊長の発した言葉は、その後の闘いの合言葉となった。権力の分断工作、逮捕などに抗し て、1956年、反対同盟は全国の人から忚援され、全国へも支援を呼びかけた。この時から全学 連として砂川闘争に関わるようになった」と土屋さんは述べています。そして、延べ2万5千人以上 の学生が砂川に泊り込み、地域ぐるみの支援活動を行ったとのことです。 27 (ポスター) 「1956年10月12日、13日、数千の機動 隊に守られて早朝から測量隊が現れた。6, 000を超える労働者、学生、市民が座り込 み、測量阻止のスクラムを組んで反対同盟 と一体となって闘った。この闘いの中で『赤 とんぼ』が唄われ、大合唱となり、さすがの 機動隊も静かになった。 この日、1,000人以上の怪我人、13人の 逮捕者が出た。世論の反対の高まりの中で、 15日以降の測量は中止になった」。その後 のことです。57年の7月8日、早朝から基地 の柵をゆさぶり、抗議行動を行った柵がこわ れて立ち入れるようになり、基地内に200 ~300人の人数が数メートル侵入した結果 となったようです。 当時、都学連委員長だった土屋源太郎さん は、指揮をとっており、この基地への侵入は 当然のことと考えていたそうです。 (基地に突入する全学連) 「基地に入ると、1.5メートルくらいの高さに 鉄条網が数百メートルにわたって置かれ、その 後ろから機関銃を乗せた米軍ジープが2台現 れた。司令官から基地内に入った者があれば 射殺してよいと命令を受けていたという。対峙 は昼近くまで続き、国会議員や調達局(測量当 事者)、警察と話し合いがなされた。『本日の測 量は中止する。双方は同時に引き上げる。逮捕者は出さない』ということで闘いは終わった」ので す。 ところが2ケ月以上も経った9月22日に、米軍立川基地に侵入したとして、労働者、学生、23人 が逮捕され、労働者4名、学生3名が『安保条約に基づく行政協定に伴う刑事特別法違反』として 起訴されました。土屋都学連委員長もその一人でした。 この砂川事件で起訴された7人の被告には、総評弁護団中心に、大勢の弁護団が結成されま した。被告側の主張は「安保条約に基づく米軍基地の駐留は、日本国憲法第九条違反であり、基 地侵入は無罪」という立場で、「この裁判は憲法裁判だ」として臨んだのです。59年3月30日、東 京地裁一審判決は伊達裁判長によって宣告されました。「主文・被告人全員無罪」。主旨は、「米 軍の日本駐留は軍備なき真空状態からわが国の安全と生存を維持するため、自衛上やむを得な いとする政策論によって左右されてはならない。 28 米軍の駐留が国連の機関による勧告または命令に基づいたものであれば、憲法第九条第一 項項前段によって禁止されている戦力の保持に該当しないかもしれない。しかし米軍は、米戦略 上必要と判断した場合、わが国と直接関係ない武力紛争に巻き込まれる危険があり、駐留を許 可したわが国政府は、政府の行為により、再び戦争の惨禍が起きないようにすることを決意した 日本国憲法の精神に悖る。 わが国が、外部からの武力攻撃に対する自衛に使用する目的で米軍の駐留を許容しているこ とは、指揮権や軍出動義務の有無にかかわらず、憲法第九条第二項前段によって禁止されてい る戦力の保持に該当するものであり、結局わが国に駐留する米軍は、憲法上その存在を許すべ からざるものと言わざるを得ない。米軍が憲法第九条に違反している以上、一般国民の同種法益 以上の厚い保護を受ける合理的理由は存在しない。軽犯罪法より重い刑事特別法第二条規定は、 なん人も適正な手続きによらなければ刑罰を科せられないとする憲法第三十一条に違反し無効 である」以上が伊達判決の主旨です。 この「伊達判決」に危機感を持った米日権力者は、司法に介入してこの一審を否定すべく、秘密 裏に話し合っていたのです。そのことは、当時の秘密だったので、被告らも知りませんでしたが、こ の会議の結果、上訴に至ったのです。 この最高裁判決によって編み出された「統治行為論」という詭弁が、以降も日本国憲法を骨抜き にしていくようになりました。最高裁判決いわく、日米安保条約のような、高度の政治性を有するも のに対する違憲か否かの判断は、司法裁判所の審査には原則としてなじまず、一見きわめて明 白に違憲、無効と認めない限り、裁判所の司法審査権の範囲外であるとして司法判断をしないと 決めたのが、「統治行為論」です。「統治行為論」というこの論理によって、以降の「福島裁判長判 決(自衛隊違憲論)」を退け、また。「イラク派遣訴訟」や、米軍基地に関する判断回避など、立憲 主義の否定、骨抜きは基本となってしまいました。 司法において、最高裁判所が憲法判断できなければ、国の統治者の恣意的な憲法判断を許し、 憲法第九条も骨抜きにされていかざるをえないのです。 とにかく、土屋源太郎さんらは最高裁の差し戻し判決によって、再度、地方裁判所の審理が行わ れ、有罪となり、被告7人は罰金2,000円の有罪刑を科されました。最高裁判決から40年を経 て、2008年、米国立公文書館で砂川事件「伊達判決」に関する解禁文章14点が発見されました。 (国際問題研究者の新原昭さんの発見)その主な重要な点は、マッカーサー米大使と藤山外相の 田中最高裁判所長官との間で行われた砂川裁判「伊達判決」を破棄するための謀議密約があっ たこと、その内容を大使が、米本国国務省に報告した公電にあったのです。以上のように、50年 代砂川闘争は闘われ、かつ、権力の謀略によって、無罪から有罪に変化したばかりか、「統治行 為論」という、日本の立憲主義の否定が公に「合法」化されてしまったのです。 こうした歴史の上に、再び砂川基地に対する拡張計画が出され、それを阻止する闘争が日程に のぼったのが、67年だったのです。 67年2月以降、ベトナム反戦、さらには4月28日沖縄返還要求闘争が続き、そして5月16日、 「三派全学連」は中大学生会館において350人以上の学生参加の上で「砂川基地拡張実力阻止 闘争全学連総決起集会」を開きました。同じころ、明大二部の研究部連合会(研連)合宿が行わ れています(4月29日~5月3日)。 29 研連は執行部が、学苑会執行部に対案として名を連ねた人々に代わって、教育研究部幹事長の 諏訪さんらが中心となって新執行部を運営していました。この合宿には、教育研のクラケンや、現 思研の仲間も参加しています。(私の記憶 はあいまいですが、遠山さんと当時一緒に 参加した写真が残っています。) (1967.5.28 砂川現地闘争) 5月16日には、学苑会は5月末の定例学 生大会開催を決定しています。すでに4月 以降、新入 生を迎えた自治会の呼びかけで、反戦・反 基地闘争は広がっていきます。 全学連の呼びかけで、5月26日、砂川 基地拡張阻止の日比谷野音集会や、デモ が繰り広げられていました。この集会で、 革マル系の全学連と場所取りめぐって乱 闘になったとのことですが、私には記憶に ないです。この集会をふまえて、5月28日、 砂川現地において総決起集会が行われま した。 立川市砂川町に基地拡張予定地におい て、日共系の集会と、三派全学連の基地 拡張反対決起集会が別々に行われること になりました。当初は、社共統一行動を予 定していたのですが、結局、全学連の参加 をめぐって折り合いが付けられなかったの だと思います。明大新聞67年6月8日号によると、日共系の集会には3万人で、明大からは約20 人が参加し、安保廃棄・諸要求貫徹実行委員会主催の「ベトナム侵略反対・立川基地拡張阻止・ 米軍基地撤去諸要求貫徹、6・28砂川集会」として開かれました。当時の日共系の主張には、必 ず「諸要求貫徹」という言葉が使われていたのを思い出します。 一方、三派全学連は、約3,000人で、明大からは約250人が参加しています。そこから200 メートルほど離れた場所で、約500人の革マル系全学連も集会を開いていたと、明大新聞に載っ ています。当日は、私も現思研の仲間と共に参加しました。私たちの結集した全学連(三派全学 連)は機動隊と激しく衝突し、双方合わせて約100人の負傷者を出し、学生48人が逮捕されてい ます。私たちも、明大昼間部の自治会も「2・2協定」の敗北的事態をのりこえて、再建された社学 同勢力も勢いづいていました。まだ学費闘争指導部に対する処分が行われる尐し前であったので、 200人を超える人々が参加しています。 私も、現思研の仲間も、ブント社学同の隊列に加わり、「明治大学」としての隊列を組んで滑走 路北側の集会に参加しました。和泉校舎から現地にマイクロバスで乗り付けた部隊が200人と明 30 大新聞に出ているので、農・工学部の生田校舎や、神田駿河台校舎も含めれば、はるかに300 人を超えていたでしょう。このころ、現思研のメンバーは、研連や各学部自治会、学苑会執行部で 活動しつつ、学外のデモ、集会には15人から20人の仲間がデモに加わっていました。時には現 思研のみならず、学部学生も誘って、より多くの仲間が加わります。 この日は、新入生の経験教育もあったので、私たち上級生らもほとんど参加しました。13時から の集会を経て、4時過ぎからデモ行進に移りました。「江ノ島ゲート」と呼ばれる付近から大量の機 動隊が隊列を狭めるように規制し、それに抗議する学生たちは楯と警棒の暴力に阻まれてしまい ました。私たちは歩道側へと追いやられ、片側サンドイッチ規制のまま、立川駅方面へと向かいま した。私は青医連の人たちと、傘に大きく「救護班」と書いた紙を貼ってさし、腕にも同種の腕章を まいて、社学同の医学部の友人たちのグループと一緒に、緊急医療救護体制をとる一員として、 歩道をデモに並行して歩きました。衝突のたびに、頭を割られる怪我人が出ていました。それでも 学生側も機動隊の隙をついて、投石や駆け足行進で抗議します。基地正面ゲート付近になると投 石が激しくなり、投石を止めると、ゲート付近で急に一斉座り込みに入るなど、全学連の指揮のシ ュプレヒコール・笛に従ってスクラムを固めてシットインを行います。機動隊のごぼう抜きに対し、 退去させられたあとから再びスクラムを組んで態勢を立て直し、投石する学生たち。 (1967.5.28 砂川現地闘争) たまらず機動隊は、逮捕した学生を盾にして投石 に対抗するという卑务な行動にでました。 野次馬含めて「ナンセーンス!」「何だ!」と騒然 です。救護班と書かれた傘を目印に、怪我人が 次々と運び込まれてきます。白衣をまとった医学 連の友人たちが、即忚体制をとっています。 この友人たちは、かつて雑談の中で「手術には まだ立ち会っていない」とか、「縫ったことは一度 だけある」という医者の卵たちで、普段は活動の方に熱心な人もいます。でも、こういう場では未 経験でもそれどころではないと、果敢です。頭を割られて血がドクドクと出ています。その本人が 何か話すと、それに合わせるように血が更に流れ出ています。青医連の者たちは止血し、また縫 い合わせています。「大丈夫?」と私の方が不安になって尋ねると、真剣な顔で「消毒をしっかりし ていれば大丈夫。血が出ている方がまし。打撲で脳内出血で血が外に流れない方が怖いんだ」な どと言っています。これは頭から血を流し、縫ってもらっている人への励ましの説明かもしれませ ん。私は何もできず、もっぱら消毒か、必要物品を手渡すか、服をハサミで開いて医者の卵たち が治療しやすいような補助しかできません。私と行動を共にしていたのは遠山さんともう一人、女 性もいました。 夜8時半ごろ、デモ隊は、ジグザグデモや渦巻デモをくり返して、立川駅前で党派別というより大 学別に集まって総括的に逮捕者や怪我人などの安全確認をして、9時ごろにみんなで立川駅から 御茶ノ水へと向かいました。学館に戻り、現思研の仲間は、すでに新学期前に新入生逮捕の経験 から、よく注意していたので、みな無事でした。この日の明大からの逮捕者は1名でした。当時は 逮捕されてもだいたい2泊3日で釈放されていた時代です。長期勾留は指揮者のみだったと思い 31 ます。その後も6月も数次にわたって砂川基地拡張阻止の全学連の闘いは続きます。6月末に佐 藤首相の第一次東单アジア訪問に対する新たな経済侵略に対する、訪問阻止闘争が広がってい きます。 (1967.7.9 砂川現地闘争) 7月9日には、砂川基地拡張阻止大集会が社共 統一行動として行われました。雤の中、全学連、 反戦青年委員会も加わり、12,000人の人々が 集まっています。この日も激しい市街戦となり、機 動隊はデモのたびごとに、新しい防護服や乱闘 靴から、盾や指揮棒に替わっていくというのが、 当時の私の印象です。 学生は反撃して投石しますが、社共統一行動を 要求された反発もうまれます。このころの闘いか ら、反戦青年委員会は既成左翼や組合の無力さ や、しがらみを超えること、「自立・創意・工夫」のもと、独自に全学連との行動を重視するようにな っていきます。そしてまた、砂川闘争の先陣争い的な競合が闘いの中から育ち、党派間の内部矛 盾も顕著になっていったと思います。 ちょうどそのころ、明大ではすでに述べた学費値上げ反対闘争に関わった指導的な位置にあっ た学生たちに、不当な大量処分が、6月23日、学長名で発表されました。退学処分11名を含む2 1名に懲戒処分が科されました。退学処分には、学費闘争の始まりの学生会中執委員長の中澤 満正さん、全学闘争委員長の大内義男さん、全学連初代委員長だった斉藤克彦さんも、また「2・ 2協定」の混乱を収拾していた委員長代行の任を負っている小森紀男さんも含まれていました。 二部では、酒田全二部共闘会議議長や研連委員長だった岡田さんに退学処分が下されました。 ただちに、昼間部、夜間部の各執行部、各学部自治会は、不当処分に対し「処分撤回闘争」を 組み、ハンストや、授業ボイコット体制を取る宣告しました。それらはすでに述べたとおりです、 当時のブントの学生対策(学対)指導部は、中核派と競合しつつ、明大の「2・2協定」自己批判の 苦い教訓から、学園内闘争に対しても無理な急進的方針に執着していたのではないかと思いま す。街頭でも大学でも「改良と革命」の話はかつてのようには出ず、「革命的敗北主義」が主張さ れるようになりました。徹底的に非妥協に闘って敗北することによって次の勝利への展望をつくる とする考えです。私たちはそうした主張を大学の自分たちの活動の中では実践していないままで した。 私たちは、そういう意味では「社学同」といっても自分たち流のやり方で加わっていたので、仲間 意識を大事にし、相互扶助・共同のスタイルで、働きながら学ぶ範囲で、街頭政治闘争に参加し ていました。党内を、だれが指導していて、どんな派閥があるかも興味はなく、明大学生会館を中 心に出会う仲間たちと交流し、助け合っていたので、御茶ノ水周辺大学とは、ブント同士仲良しで した。明大・中大・医科歯科大、専修などの友人たちです。また、関西から東京に任務変えで常駐 する全学連や反戦活動家のブントの人たちも、明大学館を根城にしていたので親しく、頼まれれ ば、現思研の仲間が助けました。後の反帝全学連の委員長の藤本敏夫さんや、学対の山下さん、 32 村田さん、高原さんや佐野さんらです。 「2・2協定」以降、明大闘争の過ちを他党派に対しては謝罪しつつ、ブント内では「斉藤糾弾」を 求めて彼を探しまわったりはしていたけれど、ブント指導部自身の自己切開の痛みを伴うもので はなかったのだろうと思います。その分、東京に乗り込んで活動を始めると、「関西方式」をそのま ま持ち込んで、「関西派」的な人脈形成しつつ、自らを自己肯定したまま「革命的敗北主義」路線 を主張していたように思います。私の知る関西派の人たちは「政治主義」というか文化、芸術、文 学を語り合うことはありませんでした。 ブントは、全国の自治会数では中核派をしのいでいるのだということでした。中核派の断固非妥 協路線と競うように「革命的敗北主義」路線が主張されていたように思います。解放派やML派も もちろんライバルではあったけれど、「反中核派」でブントと共闘していたように思います。現代帝 国主義の規定、情勢分析、ベトナム連帯の位置づけなどー米帝国主義の侵略戦争か、スターリニ ズムと帝国主義の代理戦争かといったーあらゆる局面で論争し、他派批判を自らの立脚点とする といったやり方です。 当時の全学連中執のメンバーは、中核派11、社学同9、解放派5、第四インター2となっており、 議決においては、中核派の方針に反対して拮抗したまま進んでいきます。その結果、「非妥協性」 を競うような運動戦へと、全学連の活動が益々傾斜していったといえます。夏休みを経て、9月佐 藤訪韓阻止闘争から、500名をこえる実力部隊を先頭に街頭行動を更に重視し、9・20佐藤東 单アジア訪問実力阻止闘争を経て、10・8羽田闘争へと飛躍していくことになります。 No 516 重信房子 「1960年代と私」第二部第3回後半 2019年4月 8.67年の学園闘争の中で 67年街頭行動の中で、一番鮮明に忘れることができないのが、10・8羽田闘争です。 あの経験は私に、学生運動ばかりかその後社会に出ても教師として働きながら重視しようと考え る生き方に導いたといえます。67年は、私はまだ学苑会の財政を担当していたと記憶しています。 66年の対案によって、日共系から学苑会執行部を、いわゆる三派系の学苑会に転換して以降、 たしか5月の定例学生大会だったと思いますが(もしかして、それ以前にあった「2・2協定」に関す る3月の臨時学生大会だったかもしれない)私は財政担当として、会計報告の中で、民青の時代 の不正を糾弾しました。 この時の大会は、66年12月1日の一票差で勝利した大会と違って、大きな差で三派系が勝利 しています。私は、民青から引き継いだ会計帳簿を一つ一つチェックし、日共系の暁出版印刷所 の領収証が実際より多いと感じたので、私は印刷所に行って、原簿をチェクしてもらい、実際に支 払われた額を書き出したうえで、領収証の総計額の書類を再発行してもらいました。2回の印刷 代数万円が水増しされているのがわかりました。それを示しながら、民青時代の帳簿の不正を学 生大会で報告しました。印刷所の方も、私たちが三派系とか理解していなかったのか、妨害する こともなかったので、正確な数値が得られたのです。 民青は「清廉潔白」をこれまでも主張していたので、ダメージでしたし、日共内の中国派のパー ジと重なり、急速に学苑会奪還や「民主化」の中央奪還の活動は退潮していき、商学部、法学部 自治会死守体制をとり、文学部民主化委員会など、学部活動にシフトしていきました。そのころか、 その後のことですが、ブントの現思研活動に対して脅威を感じていたのか、今度は、ML派に属し 33 ていた会計監査委員が、私の会計処理の領収証に不正がある、デパートの食品や衣料の領収証 があったとして告発をはじめました。私に直接問い合わせや審査を行わず、ML派に報告し、ML 派からブントの指導部に話を持ち込んだことがありました。 それによって、私に自己批判を迫り、私を辞めさせようとしたのか、他の交換条件があったのか わかりません。私は、こうしたやり方で自治会のことを党派問題にしたことに、ML派に大いに憤慨 しました。まず、「私の会計処理は正当だ」とブントの人に言いました。「ML派こそ自己批判する必 要がある」と伝えました。ブントの人は驚いていました。これは実際に「不正領収証」だったので す。 理由は、学苑会委員長であり、全二部共闘会議議長のML派の酒田さんの授業料の一時穴埋 めだからです。66年12月の学生大会対案人事で酒田さんに委員長になるよう説得した時には、 授業料が払えず除籍になりそうというので、私が会社を辞めて貯めていた虎の子貯金を貸しまし た。それも返せず、3月再び授業料支払いが求められる季節となり、「2・2協定」後の処分含めた 大学側との闘いにおいて、委員長を除籍させるわけにはいかないと、中執内部で会議をして決め たことなのです。酒田さんが返却するまで一時的に中執財政で立て替えること、その会計処理は 私にお願いされた訳です。ML派も、立て替える考えもないし、私含めて、他人の授業料をもう払 えなかったからです。 私は「ML派の会計監査委員が、問題を党派的に歪曲したのは許せない。学生大会で、すべて 経過報告する」といきまいて怒りました。しかし、ML派が謝ったので、そうはしませんでした。その かわり、私は大会の新人事で私の財務部長の他、副財務部長にML派の人間を置くよう要求しま した。ML派に監視と責任を分担し、公明正大を証明してみせようと思ったからです。この人事は、 たしか67年5月の大会だったと思います。 ところが、この財務副部長のK君は、数か月の夏休み明けから大学に来なくなり、一時金として 常時支払いのため彼が管理していた金を使い込んだと謝りに来て、そのまま辞めたいと言い出す 始末でした。「使い込んだ金は働いて返す、ML派には言わないで」と言い、その後連絡不通にな りました。もちろん中執会議で報告しました。ML派とは、以来、冷ややかな関係となりました。また、 卒論もあり、10・8闘争後の67年秋の大会で、財政部長は現思研の宮下さんに後継してもらい、 学苑会活動は、一切、引き受けないようにしました。現思研が拠り所であり、また、卒論や、アル バトも多忙だったためです。 また、この66年から67年は、日共系の学生たちとの主導権争いがとても激しかった時代です。 66年にはじめて日共・民青系の人たちの激しい暴力を目撃したことがあります。これが初めてで、 衝撃的でした。三派系(都学連系)は、ラジカルでも、民青のソフト路線では考えられない光景だっ たのです。明大本館で、全国寮大会が開かれました。当時は、今の武道館の建つ前から、そこに は近衛兵の駐屯宿舎がありました。戦後、そこは苦学生たちの寮となっていて、「東京学生会館」 (東学館)と呼ばれていました。そこにはまた、活動家の拠点として、ML派などが活動の場にして いました。「東学館闘争」の立て籠もりなど、退去と建物の破壊に抗議した闘争を経て、66年11 月、学生たちはこの東学館から追放されました。 それ以前のことだったと思いますが、この全寮連の大会において、執行部の奪い合いで激しい 対立となったのです。当時の全寮連の執行部を牛耳っていたのは日共・民青系で、御茶の水女子 34 大など、いわゆる反日共系の寮の代表に対して資格がないから大会への入場を認めないと対立 が続いていました。結局、どちらが次期執行部を形成するのかの争いであり、また路線的には米 帝に従属した日本政府の文部行政を批判し、「諸要求貫徹」を主張する日共系に対する反日共系 の闘いでもありました。日共系は、鍬の柄のような棒を持った防衛隊を組織し、入場に押しかける 反日共系を入場させないと、暴力的に渡り合っていました。2階から突き落とされ、頭から血を流 し、よく死なずに済んだというような流血が続き、双方多数の怪我人が出ました。 学生会館にいた私たちは、緊急救援を頼まれて、怪我して本館中庭に倒れている学生を、青医 連の友人たちに治療してもらうために走り回りました。本館の現場に駆けつけてみると、代々木病 院からの救急車が正門脇にすでに停まっていました。代々木病院の救急車隊は、倒れている人 に「大学は?え?こいつはトロッキストの方だ」などと言いながら負傷した学生を選別して放り出し たりしているのを目撃しました。「ひどいじゃないか!」と私たちは泣きそうなほどの衝撃を受けな がら、倒れている者たち、選別排除の目にあった者たちを立て看を担架代わりにして、次々と学館 に運び入れました。「民青が・・・」話す程に、どくどくと流血します。糸は木綿糸まで消毒して縫って いたけれど、大丈夫なのか・・・と怖くなりました。一方、民青は、会場封鎖をして寮大会を続け、 「トロッキストの妨害にもめげず、新方針、新執行部を選出した」と後の日共機関紙「赤旗」にも載 っていました。 私は、反日共系の側にいるわけですが、民青の偽善的振る舞いにはうんざりするのですが、本 音では、どうして反日共系は先に手を出してしまうのかが不満でした。いつも民青系は、やられて からやり返すと思っていたのですが、この寮大会の時は、まったく違っていました。 民青の人たちは譲れない時には、暴力を「正当防衛」として先に手を出すものだと知ったのはこの 時です。 67年か68年に、明大二部の民青が本格的に暴力を仕掛けてきたことがありました。 きっかけは何だったのか・・・。とにかく明大二部の民青の勢力がずいぶん削がれてしまったこと が一つ大きな危機感だったと思います。また、三派系が民青のビラ撒きなどにも暴力をふるったり したことが原因だったかもしれません。 日共系に対し、三派系は横暴でした。学苑会執行部ばかりか、生協二部の学生理事選挙でも、 日共系は敗れて、議席を失っていました。残っている商学部と法学部自治会を拠点に、「政経学 部民主化委員会」や「文学部民主化員会」などを立ち上げて、巻き返しを図っていました。クラスに 討論やビラ撒きに入ると、日共系と反日共系が教室でぶつかって論争もしていました。時には、三 派系の活動家たちは、民青系の学生を無理やり三派系の自治会室に連れ込んできて、「自己批 判要求」なども暴力的に行っていて、民青、日共の神田地区委員会で、我慢の限度にきていたの だろうと思います。 ある日のこと、夜9時を回っていて、最後の授業が始まり、みな現思研の仲間も教室に向かい、 私は一人4階の現思研にいました。 35 (学館4階平面図・現思研は学生新聞委員会室) 「うオー」というようなとどろき、「あぶないー!」「民 青の襲撃だ!」遠くで怒鳴り声がしました。 「日共の暁部隊はすごい」「中大では民青の方が暴 力的だ」など、ブントの人たちから話は聞いていた ので、民青が攻撃を仕掛けてくることを、私たちも 話題にしていました。来た!私は現思研の部屋(マ ロニエ通りに面した4階)からすぐ走っていって、反 対側にあるエレベーターが3階にあったので、それ を4階に上げて非常ボタンを押して停止させました。 エレベーターを日共系に支配させないためです。そ して、そのすぐ脇の階段用の鉄扉を閉めようと急い で手をかけ、民青が来るのを遮断するべきだと思い ました。 襲撃隊は、すでに3階の学苑会に到着したのか、ガラスの割れる音や怒鳴り合い、ドアを突く豪 快な音がしています。覗こうとしたら、その一瞬に3階から4階へと黄色や白のヘルメットをかぶっ た集団が駆け上ってきました。「いたぞ!重信がいるぞ!」と先頭で2段跳びに駆け上がってきた のは商学部の民青のリーダーの和田さん。ぎょろ目でいつもキャンパスで反日共系に立ち向かい 論争している闘志満々の人です。私はあわてて鉄扉を引き、閉めてカチャリとロックしました。間 一髪で遮断しました。カンカンカンカンと鉄扉を叩き、しばらく怒鳴りながら鉄扉を壊そうとしていま したが、しばらくするとあきらめたらしく静かになりました。3階や隣の学生会館旧館の方に走って いったようでした。 旧館には、各学部自治会室があります。こちらの新館の4階には現思研のいる新聞会室以外、 和室、会議室がありますが、調べてみると、4階にいたのは、夜9時から10時近いため、私以外 誰もいませんでした。それも知らず民青は隣の旧館の窓からガラス張りの新館4階に板を渡して 渡るつもりか、うかがっていました。私は会議室すべての電気を付けました。民青の行動が、ちょ うど授業を終える学生たちによく見えるようにするためです。そして、現思研の新聞会室に戻り、ド アをロックして、ベランダからマロニエ通りの学生たちに呼びかけました。 「学友のみなさん!民青が地区民青や日共の人を引き連れて、ただ今、学館を襲撃中です。こ の暴力を監視してください!」と叫びました。ロープや板を渡って新館に乗り込んでも、民青が私 の部屋に入るには、もう一つドアを壊さなくてはなりません。私もハンドマイクはないので、大声で 訴えました。最後の授業を終えて夜間部の学生たちがぞろぞろと出てくる時でした。私の方からは、 何人の民青襲撃隊が加わっているのかは見えず、分かりません。ただ、「日共の暁部隊には半殺 しにされる」と中大の友人からも聞いていたので、現思研でも時々話題になっていたのですが、そ れが現実になりました。 当時の千代田区など第一区の選挙区の日共の衆議院議員候補は、紺野与次郎さんで、私の中 学時代の仲良しの友人の民子さんの父親でした。「大丈夫よ、もし日共に拉致されたら民子さん のお父さんに訴えればいいから!」などと軽口をたたいていたのですが、本当になってしまい、驚 36 きつつ、下には学生仲間がいるので、闘争心の方が湧いてきました。続々と学館の下に集まった 友人や野次馬が「日共は暴力を止めろ!」「ナンセーンス」と大合唱しています。そのうち、雄弁会 の友人で地理学科のMさんが、「警察が来たぞ!」と大声をあげました。すると、あっという間に日 共・民青は撤収を始めて、さっと消えてしまいました。撤退時は隊列を組みつつ全力疾走です。警 察は来ませんでしたが、Mさんの機転だったのです。民青は「暴力はふるわない」ことを原則とし ており、こんな暴力を白日にさらしたくなかったので、逃げ足は速かったのです。 もう1回の次の攻撃は、その後のことです。67年末か68年初めのことか、学館を道をへだてた 大学院裏の校舎の1階で、民青と反日共系が長い旗竿で小競り合いを始めました。解放派やML 派ら文学部の自治会と民青の対立のあった時です。この時の私は、やはり4階にいて、マロニエ 通りを見下ろしました。そこに大学院の裏の方からマロニエ通りを通ってデモ隊が整然とピッピッ ピッと笛に合わせて駆け足でかけつけてくるところでした。水色のヘルメット部隊の助勢です。 4階のみんなは援軍に手をたたき、下の野次馬や学生たちも拍手していたところ、突然、反民青 の部隊を襲撃し始めたのにはあっけにとられました。社青同解放派の党派性は水色のヘルメット なので、てっきり救援隊が仲間と思ったのですが、これが民青部隊だったのです。 「あっ、そういえば民青全学連のシンボルカラーは青だ!」と誰かが叫びました。全学連防衛隊 というのができ、トロッキストを粉砕するために駆けつけたということなのです。この時も、背後から 100人ほどが襲いかかり、反日共系は防戦に追い込まれ、コーナーに押されていた日共系の学 生の血路を開くと、あっという間に撤収するという見事な動きを示していました。よく訓練された組 織された暴力に、現思研の仲間たちと感心してしまいました。しかし、大学祭などは、右派も民青 の人々とも対立するばかりではありませんでした。 私自身の当時の関心や活動についても、ここで触れておきたいと思います。研連での合宿や行 事、ことに秋の駿台祭の文化祭にはみんな協力し合います。駿台祭には昼間部も夜間部も、駿河 台校舎を使う者たちが、共同して駿台祭実行委員会を結成します。66年にはそこで共同した忚援 団長のSさんらの協力のもとで、その後の学費闘争の時にはいろいろ助けられました。 体育会の危険な自治会破壊攻撃に、忚援団は「中立宣言」して、体育会の動きに歯止めをかけ てくれたし、本館で使用していた貸布団が体育会の占拠で妨害されて運び出せないのを、忚援団 員を動員して片づけを手伝ってくれました。貸布団屋に代金を支払う私には、当時、布団を失うこ とは深刻な問題でした。文化祭プログラムは、民青など含め、研連と昼間部の文連(文化部連合 会)、忚援団と協力し、学園祭はサークル中心の展示・発表・講演の催しをやります。実行委員会 で大きな講演や、広場での打ち上げパーティーも企画しました。 67年には、右翼体育会の拉致や暴力が2月は猛威をふるいましたが、入試も終わり、新入生を 迎えると、彼等は野球部の島岡監督の指揮で神田から引き上げ、生田など合宿所に戻っていき ました。忚援団は神田にいるので、引き続き交流していました。 67年の文化祭では、私も企画を担当しました。そのころ、「尐年サンデー」「尐年マガジン」「ガロ」 などマンガが大学生の読み物となっていると、社会的に話題になっていました。なぜマンガが流行 するのかといった「マンガ世代の氾濫」を問う企画をつくりました。また、当時、吉本隆明が学生に 読まれており、そのことにも注目しました。そこで、「ガロ」に執筆していた上野昂志、マンガ評論の 石子順三、最後の講演を吉本隆明として企画し、駿台祭に招請しました。 37 その前年、66年には、私たちは羽仁五郎を「都市の論理」の著者として招請しました。「交通費 しか払えないが、講演をお願いしたい」と私は交渉しましたが、「講演料はきちんと払ってもらいた い」と言われましたが、講演後、始めからそのつもりだったのでしょう。交通費分も含めて、すべて カンパしてくれました。 (「都市の論理」広告) 65年は、小田実も記念館でベ平連運動について 話をしてもらいました。ML派の人らがベ平連批判 と質問をすると、「ベトナム反戦に関して、君たちは 君たちのやりたいようにやったらいいでしょう。同じ ように、他の人がやりたいようにやるものまた、自 由に認めるのが民主主義だ。ベ平連は各々自分の やりたい方法で、やれる方法でやる。私もそうだ。 文句をいわれる筊合いはない」と返答していたのを 覚えています。 67年の学園祭の吉本隆明の講演は、ちょうど1 0・8闘争後の遅くない日となったので、10・8闘争について吉本の考えを知りたいと、学生会館5 階ホールには入りきらないほどの学生が集まりました。ちょうど、10・8闘争に関して知識人、文 化人と呼ばれる人々が「暴徒キャンペーン」を張る政府マスコミに対抗して、警察の過剰警備によ る弾圧を批判し、学生たちの闘いを孤立させまいと奮闘している最中だったのです。 吉本は、10・8闘争に関してそれまで発言していなかったので、学生たちへの「支持」をみな期 待し聞きたかったのです。ところが、おもむろに口を開いた吉本は、評価する、しないと表明するこ と自体がナンセンスなのだと述べて、みんなをしらけさせました。知識人の主体性とは何かを語り、 自分のやり方で表現していると述べたのです。学生たちが吉本に期待したほど、吉本の眼中には 学生たちの闘いが評価されていないことが、よくわかったのです。私自身は、67年10・8闘争ま では詩作をしていたので、吉本の「詩」や「抒情の論理」などの本を読んだことはありましたが、思 想的影響も受けていなかったのですが、友人の中にはがっかりする者もいました。 駿台祭のこうした講演のほか、日共系の社研(社会主義科学研究部)や民科(民主主義科学研 究部?)のサークル展示には支援し、当時のベトナム反戦など研連でも共同したりしました。私の 所属していた文学研究部は、部室を開放して、「駿台派」という同人誌を販売している程度だった と思います。
67年は、その「駿台派」の編集長として、私も短編から詩、エッセイを編集していました。この6 7年には、自分の情念の広がりや突出を詩の中で格闘していた感じです。世界・社会を変えること ができるという思いと、自分の意思を政治的な言語でなく、何とか表出したいと考えて、現代詩に 熱中していたように思います。政治的言葉、ことに学生活動家たちの自己陶酔的なアジテーション のパターンの政治用語から排されている心情を表現したいという思いにかられていたのです。 「駿台派」では、小説や評論で、詩の発表の場が不十分と感じて、文研の詩人仲間に呼びかけ て、67年には詩集「一揆緑の号」を発行しました。9月に編集を終え、印刷中にちょうど吉田茂の 死があり、はさみこみのしおりで「臣茂」が死んでも「臣人々」は生き続ける憂国的心情を記しまし 38 た。この詩集は、10・8闘争のあと発行されましたが、10・8闘争を契機に、私自身は詩作を一旦 やめて、政治的声を拒否せず聴こうと思ったのです。 (詩集「一揆緑の号」) 「やりたいことをやり、なりたい自分になる」「自分の 欲望・意志に忠実に生きる、生きることができる!」 そんな思いにあふれていました。社会を変えられる と信じていました。高校を卒業して就職し、新卒新 入社員として社会に出た64年から65年に大学に 通える道を見つけ、夢中で「学生」をやっていたとい えるかもしれません。 大学生活、学習も詩作もアルバイトも、学生運動も、 すべてが楽しくて充実感を味わっていました。自分一人の人間の能力は限られているけれど、思 いっきり自分の可能性を開いて生きようとしていました。寝る間を惜しんで、常に好奇心を持って 前向きなエネルギーにあふれていた自分を今、振り返りつつ、その情熱を認めることができます。 しかし、当時、私に欠けていたことを、今ははっきりわかります。自分のことに精一杯だったので す。友人たちの悩みや困難に一緒に悩み、耳を傾け、解決に尽力していたつもりでしたが、今か ら捉え返すと、自分の関心角度からしか結び合っていなかったのだろうと思います。それを若さと いうものかとも今は思います。そうしたあり方は友人にも、家族、特に父や母に対しての配慮を欠 いていました。大学を受験し、自分の意思通りに生きる私を、家族はみんな忚援してくれました。 そして学生運動にも理解を示してくれました。私も何でもすべて家族に、特に父親に語りました。 でも、私が両親や兄弟たちに支えられていたほどには、私は家族をかえりみる余裕がなかったの だと、今ではとらえ返すことができます。若さは身勝手で思い切りよく、時には傷つけていることを 自覚できないものなのでしょう。 このころ、替歌もたくさんバリケードの中で歌われました。学費闘争のころには校歌や明大の戯 れ歌(ここはお江戸か神田の町か 神田の町なら大学は明治・・・)なども歌っていましたが、ブント の歌もありました。67年にはブントの先輩たちが歌う「ブ ント物語」の歌(「東京流れ者」の曲で歌う)を知りました。 この歌をコンパなどでインターナショナルやワルシャワ労 働歌で締める前に、みな楽しんで歌っていました。「ブント 系の軽さ」といえますが、なかなか当を得た戯れ歌です。 ブント物語 1.ガリ切ってビラまいて一年生 アジッてオルグって二年生 肩書並べて三年生 デモでパクられ四年生 ああわびしき活動家 ブント物語 2.勉強する気で入ったが 39 行ったところが自治会で マルクス レーニン アジられて デモに行ったが運のつき ああ悲しき一年生 ブント物語 3.いやいやながらの執行部 デモの先頭に立たされて ポリ公になぐられけとばされ いまじゃ立派な活動家 ああ悲しき二年生 4.デモで会う娘に片想い 今日も来るかと出かけたら 今日のあの娘は二人連れ やけでなったが委員長 ああ悲しき三年生 ブント物語 5.卒業真近で日和ろうと 心の底では思えども 最後のデモでパクられて 卒論書けずにもう1年 ああ悲しき四年生 ブント物語 6.先生、先生とおだてられ 今じゃ全学連の大幹部 奥さんもらって落ちついて 今更就職何になる ああ侘しき活動家 ブント物語 ※ 管理人注 この替歌は、「戯歌番外地 替歌にみる学生運動」野次馬旅団編(1970.6.15三一書房発行) には「悲しき活動家」という歌として載っています。 本に掲載されている歌詞と一部違うところがありますが、替歌なので、いろいろなところでアレンジ されて歌われていたと思うので、何が正しいということはないと思います。 No 521 重信房子「1960年代と私」第二部第4回 2019年7月 9.10・8羽田闘争へ 67年10月8日、この日の闘いによって、学生運動が転換したと言っても過言ではないでしょう。 砂川基地拡張反対闘争を闘いながら、三派全学連は矛盾や対立は続いていました。中核派のヘ ゲモニーに対して、他の党派もそうだったのでしょうが、私のまわりでは特にブントが対抗意識を 40 露わにしていました。中核派の「反帝反スターリン主義戦略」と「反帝戦略」のブントは、闘いの位 置づけ、分析において常に対立し、全学連の基調報告や政策にどう反映させるか、7月の全学連 大会でも争っていました。 私たち現思研は、それらを学対の村田さんや、山下さんから聞くとか、機関紙で知る程度で、主 体的な立場でどうとらえるというほどの考えもありませんでした。学内の党派的な拮抗や、民青と の対立には反忚しますが、党派的な大学外のやりとりは、あまり注目もしていません。 67年には、ベトナム反戦闘争が国際的な高揚を背景に、学生運動、ベ平連をはじめとする市民 運動も広がっていました。4月に美濃部革新都政が始まり、社共や総評・産別などの労働運動も 共同し、世論は平和と反戦を求める要求は強まっていました。再びアジア侵略によって経済成長 を遂げようとする独占企業、財・政界の露骨な動きに対し、多数の都民が美濃部都政に平和と民 主主義を託したといえます。 学生運動は、そうした時代を背景に学費闘争、砂川米軍基地拡張反対闘争を闘い、ラジカルさ を競うように各党派の街頭活動は先鋭化していきました。6月には佐藤首相が訪韓し、9月20日 には、第一次東单アジア訪問の日程が決まり、日韓条約を免罪符のように、日本政府は戦争の 責任をあいまいにしたまま、再びアジア経済侵略を開始しています。こうした佐藤政権下の67年、 8月には新宿で米軍タンク車衝突炎上事件が起き、9月には米政権が、日本への原子力空母エ ンタープライズ寄港を申し入れています。そして、10月8日、佐藤首相は单ベトナム傀儡政権の 招きによって、ベトナム訪問が行われようとしていました。佐藤首相のベトナム訪問には、ベ平連 も社共の既成政党も、連日、街頭抗議活動を行っています。 41 10月8日、全学連と反戦青年委員会5,000余名は、この日、激しい弾圧に抗して闘います。 実際には、前日に法政大学で行われた、中核派による解放派リーダーへのリンチ事件で、全学連 としての統一行動は不可能となってしまいました。10・8闘争の総指揮を執るはずだった高橋孝 吉さんらに対する中核派のリンチ、テロのやり口に、反中核派で社学同含めて爆発寸前の矛盾が 激化しました。ブントや解放派らは中大から法政大学へと抗議行動を起こし、衝突しそうな状況で あったようです。私たち現思研も、中大での決起集会に参加し、翌日の備えて明大学館に戻って、 みな泊り込みました。 法政大学での党派対立に備えて、各派は角材を準備したのでしょうが、この角材は内部対立で はなく、権力に向けて行使されるべきだということで 収拾したと聞きました。それが10・8闘争の新しい実 力闘争街頭戦に転じていったのです。 当時の私は、授業もあったし、文研サークルの活 動や詩集作りに熱中し、学苑会執行部も現思 研の後輩に財政部長を継ぐように説得し、やりたい ことを整理しながら、来年は卒論に集中しようと考え ていました。すでに必要な卒業の卖位はだいたいと っており、卒論と教職課程を中心に、来年の68年を 迎えようと計画していました。 このころ、関西から東京駐留で、学館に寝泊まりし ている佐野さんや藤本さん、また、その後、北海道 から学館に来ていた山内昌之(のちの小泉首相ブレ ーン)や吉田さんら、頼まれれば、現思研として雑務 を引き受けたりしていました。社学同の人々のことを 身内のように親しんではいましたが、だからといって 「同盟員」としての活動を特に義務付けられるわけで もなく、招請があればデモに参加し、機関紙を購読するくらいの活動です。もちろん学内での私た ちの自治会や生協の活動自身が、社学同にとってはメリットでもあるのです。 早稲田社学同の荒さんもよく私たち現思研の部屋に顔を出していました。彼いわく「現思研は心 の軍隊だな。お互い家族のように思いやるのはうらやましいが、それだけでは心情主義だ。学習 会をやったり、機関紙討論などの理論的活動をやっていない」と批判していました。のちに下級生 から思い出話として知らされたのですが、私は「あらそうかしら。観念的で大言壮語の『戦旗(機関 紙)』を読んでもピンと来ないのよ」と平気で言い返していたようです。 また、私が、じゃあ学習会をやろうかと言って始めるのはカフカの朗読だったり、ブント社学同の 学習会というので、私が準備しているので参加するのかと思ったら、医科歯科大の山下さんや早 稲田の村田さんにレクチャーを頼んでアルバイトに行ってしまったそうです。中国文化大革命にも 共感せず「あんな画一的なおかっぱ頭が社会主義なら、私はあんな革命はいりませんよ」と言っ ていたと荒さんは、のちに語っています。この頃から荒さんが私にニックネームで「魔女」「魔女」と 呼ぶので私は腹を立てていました。 42 「魔女って『奥様は魔女』のサマンサみたいなもんだよ。魔女らしくないのに魔女みたいなことす るからさ」と荒さんが言い出したので、以降、ブントや赤軍派の多くは「魔女」というニックネームで 呼んでいました。私が怒るので、私の前では当初は使わなかったですが、のちには、68年ころに はまあいいかと気にしなくなり。当時の通称となってしまいました。こうした雰囲気の中で羽田10・ 8闘争を迎えることになりました。 10月8日早朝。いつもは早々に知らされる集合場所が(すでに萩中公園に決まっていたままか もしれません)当日朝ブントから「今日はこれまでと違う。歴史的闘いとなる。ことごとく指揮には従 ってほしい。まず、何人かに分散して東京駅へ行ってほしい。そこで次の指示が出る」というので す。上原さんや、67年に入学した田崎さんら含めて、私たちは分散して三々五々、御茶ノ水駅か ら東京駅へと向かいました。東京駅のホームに着いてからか「品川駅京浜急行ホームにただちに 結集せよ」というのです。私たちは赤旗を巻いたまま、品川駅のホームへと向かいました。社学同 の仲間たちもどこに行くのかわからないし、乗り替えの改札があるので、みんな一番安い区間の 切符買うように言われて、10円区間だったか20円区間だったか覚えていませんが、京浜急行品 川駅に入りました。スクラムを組んで改札を無賃で突破するグループはいません。ホームいっぱ いに社学同の仲間らしいのがうろうろしています。成島副委員長や、佐野さんもいます。 しばらくすると「ピーッ」と笛が鳴って「乗れーッ!」との号令です。みな、あわてて乗り込みました。 私たちは30人くらいの明治の仲間たちです。現思研の仲間は仕事があるので、そんなに多くなか ったと思います。田崎さんはこの日、生まれて初めての街頭デモで、行く先も告げられず?みんな と行動を共にしたとのことです。昼間部には元気の良い池原さんらがいます。私は東京生まれで すが、品川から京浜急行で行く地域は、まったくなじみのない方角です。いつも通う小田急線より も狭い家の真近に迫ったようなところを電車が走っていきました。駅名を読みながら、指示がない かと耳を澄ませながら待機していました。「ピーッ」と笛が鳴り、「降りろーッ!」との指示がとびまし た。あわててみなホームに降りました。小さな駅のホームです。私たちが降りると列車はガラ空き で、残った尐ない乗客が何事かとホームをしきりに眺めています。ホームの駅名を見ると「大森海 岸」と書かれていました。ホームに立っていると、「飛び降りろーッ」の号令がどこからか。無賃下 車です。ホームの背は簡卖なコンクリートの柱が並び、そこに太い鉄棒が通してあります。これを またいで、駅脇の道に跳び降りろという要求です。かなりの高さで、みな元気よく次々跳び降りる ので、私たちも跳び降りました。 そこで1,000人を超える人々が集結して、緊急の集会です。「我々は決死の覚悟をもって羽田 空港へ突入し、佐藤訪ベトを阻止する。我々こそがその使命をやりとげるのだ!」成島全学連副 委員長が声を限りに演説しています。他の人の工事用ヘルメットではなく、成島さんだけオートバ イ用のヘルメットです。 どこから調達したのか、前方に角材が届きました。社学同ばかりか、社青 同解放派ら全学連の反中核派連合が結集しているようです。どどっと、角材が地面の置かれると、 先頭部隊が決まっていたのでしょう。早大の荒さんら、一人ずつ角材を握り、短いアジテーション が終わると、シュプレヒコールで景気付けながら旗棹を持った部隊に続いて角材部隊が続き、ジ グザグデモで出発です。 私たちは救護看護班なので、友人たちは、貴重品を持ってくれと私たちに託してきます。救急箱 もあり、それらを分担して荷物管理しつつ私たちは後方を歩くことにしました。デモ隊は1,0000 43 人~1,200人だったといわれています。ぎゅーぎゅー詰めの連結車両のほとんどがデモ隊だっ たのです。デモ隊は、角材か樫棒の前衛部隊100余人に続いて駅の広場から道路を渡り、デモ でジグザグ進みます。そこまでは予想外の展開ながらいつもの調子で、私たちはデモの最後尾に ついていました。 すぐそこには鈴ヶ森ランプの高速道路に乗るイ ンターチェンジの入口があります。その坂道の下 までくると笛が鳴り「羽田へ突入するぞーッ!」 「走れーッ!羽田はすぐそこだぞーッ!」と激が とんだのです。角材をもった連中は全速力で高 速道路の坂を上りはじめました。デモ隊が続き ます。置いていかれてはならじと、救護班は後に 続きました。 私たちの役割は、取り残されては果たせない からです。新入生たちも私たちと一緒に走りました。身軽に棒一本持った連中や、何も持たずに走 るデモ隊に対して、カバンや救急箱を抱えた10人ほどの私たちも走りました。たちまち引き離され ながら息を切らせて高速道路に上がると、すでに佐藤訪ベトに向けて一般車両の通行を禁止して いたらしく車は見当たりません。かわりに何十メートルおきくらいに見張りとして立っていたらしい 機動隊員は、学生たちの急襲攻撃で殴られたり倒れたりしています。それらの機動隊員たちを踏 まないように避けながら、デモ隊の後を追って疾走しました。 しばらく行っても「羽田はすぐそこだぞー!」という掛け声ばかりで、一向にそれらしい風景が見 えません。たちまち引き離されながら、必死に追いかけます。走りに差が出て、部隊はいくつかに 分かれて羽田へと向かっていたらしいのです。先頭集団を走っていた早稲田の荒さんらが、渋谷 方面へと道を間違えたようだというのが聞こえました。出口を逆走すれば羽田に向かうのですが、 入口をそのまま走ると、東京方面に向かってしまうようになっていたのをよく知らなかったのです。 (のちに知ったとのことです)そのうち機動隊が羽田方面からと、大森方面から追いかけて、私た ち百余名の集団を挟み撃ちにしようとします。 装甲車から降りてきて、殴られて孤立してぼう然としたり倒れたり休んでいる機動隊仲間を収容 する部隊と、学生デモ隊を攻撃する部隊に分かれています。彼らは、学生たちを包囲し、警棒で 乱打し、蹴ったり激しい暴力をふるっているのが見え、だんだんこちらに近づいてきます。高速の インターチェンジの尐し低いところで、「あっ!」という間に2,3人の学生が追い詰められて、飛び 降りました。「あっ!今落とされたんだ!ひどい!」。見ていた仲間が悲鳴をあげました。下を見る と倒れたままです。生きているのだろうかと心配です。機動隊は仲間の復讐に燃えて、容赦ない 暴力ふるい、血まみれの学生たちが、頭や顔から血を流してうずくまり、血の臭いが充満していま す。 機動隊は次々と殴りながら、何故か逮捕せず蹴散らす方針らしいのです。私たちの番です。ひ とかたまりに私たちは身を守り、包囲を縮めてくるので、身動きが取れません。小隊長らしい男の 指揮で殴りかかってきました。私たちは「救護班」の腕章を巻いているし、荷物を抱えているので 一目瞭然のはずなのですが、警棒で殴りかかってきました。「見ればわかるでしょ!救護班に何 44 する!」「女に何するんだ!」と私たちは口々にわめきました。私も頭は殴られなかったですが、肩 や背、腕をしたたか警棒で殴られました。あとで見たら腕には青アザが出来ていました。みな口々 に抗議しつつ、頭から流血している仲間を護るように立って対峙しました。 そこに首都高速道路公団のマイクロバスが通りました。ちょうど羽田方面から大森方面に向か って走っていくようだったので「運転手さん!助けて下さい。怪我人がいます!」私は道路に飛び 出して車の前の方に走り寄りました。運転手はきっと、ずっと先から学生たちが殴られ蹴られ、小 突き回され血を流してうずくまるのを憤りの思いで見ながら走ってきたに違いありません。うなずく と、運転手はすぐ車を止めて、降り、ドアを開けて、数人の近くにいた血だらけの学生を車に運び 入れるのを手伝ってくれました。機動隊に聞こえるように「ひでえことをするなあ」と大きな声で言 いながら、どこに行けばいいのか?と私に聞きました。機動隊員たちは指揮者の号令で、羽田方 面へと去って行こうとしています。私は運転手に「この近くに個人病院はありませんか?大きい病 院だと警察に通報されたりすると困るんです。お金は私が御茶ノ水の大学までもどって持ってくる ので、即金で払いますから」と言いました。「よし、わかった」と言って車をスタートさせました。 私は、一緒にいた他の現思研の仲間には気がまわらず、怪我人で頭がいっぱいで、みんなと 別れて私は車に乗り込みました。私たちの乗った公団の車は、鈴ヶ森ランプから普通道に出て、 道からちょっと奥まったところにあった個人病院に連れていってくれました。私は病院に飛び込ん で「おねがいします」と呼びました。年輩のやせた院長が出てきました。私は「デモで怪我した人が いるので治療してほしいのです。今、手元にあるお金をまず払います。これから、私が御茶ノ水に ある大学にとんぼ返りして治療費を持ってきますから、こちらの怪我人を助けて下さい。警察には 知られたくないんです。私自身もこの怪我をした人たちの名前も知りませんし、聞くつもりもありま せんから。とにかく私が責任を持ちますから助けて下さい」と院長に訴えました。 道路公団の運転手は、怪我人を運ぶのを手伝ってくれた上に、自分のポケットをさぐって、有り 金を差し出し「これ治療費に使って下さい。学生さんたち、がんばれよ!」と言って行こうとしました。 「あっ、すみません。名前教えて下さい。あとでお金返したいので」と言うと、笑いながら「いや、い いから。一市民ということでそれでいいでしょ」と言うと、院長にお願いしますと言って出て行ってし まいました。院長は怪我人の傷をざっと見ながら「まあ若いんだから大丈夫だろう」と言いながら 引き受けてくれたので、私はすぐにタクシーに飛び乗って御茶ノ水へと向かいました。そして、お金 を調達すると、また、タクシーに飛び乗って医院へと、とって返しました。 この時、大森に戻るタクシーの中で、運転手から「今、ラジオで聞いたんだけど、学生がデモで 殺されたらしい」と教えられました。えっ?!と息を呑み、ラジオのニューズを聴きました。私にとって は羽田近辺はなじみのない場所で、橋の名前をいわれてもわかりません。でも、鈴ヶ森ランプから 羽田方面に向かい、押し返されたデモ隊が、橋の上で攻防を繰り返しているらしいことがわかりま した。当初は私も羽田空港に通じる3つの橋の位置関係や橋の名前も、また、殺された学生という のがどのグループに属するかもわかりませんでした。 そこに社学同の仲間がいるのかもわかりません。とにかく大森の個人病院に戻って精算しまし た。治療した4,5人の学生たちは、どこの大学の人か聞きませんでしたが、必要な人には電車賃 を渡して別れました。その後、現思研や社学同の仲間と合流すべく、そこから歩いて行こうとして も、機動隊の通行止で方向もはっきりしません。現思研の仲間たちもどこかで闘っているはずです。 45 この日は、機動隊に追いかけられる学生たちを羽田周辺の住民たちがあちこちで助け、分散、蹴 散らされながらも学生たちはみな萩中公園の方に集まって行ったようです。 私は何人かの仲間に会い、御茶ノ水の学生会館に 戻りました。夜、萩中公園で追悼集会が開かれ、そ れに参加してきた仲間も戻りました。 仲間の話や報道から、殺されたのは京大1年生 の山﨑博昭さんで、中核派が中心に攻防しつつ羽 田へと突破を試みた弁天橋で殺されたことがわか りました。現思研の仲間たちは、突撃隊やデモ隊で 加わった者もおり、防衛戦を突破して、鈴ヶ森から 穴守橋をはさんで攻防を繰り広げたとのことです。 穴守橋を渡ると羽田空港です。 中核派は、社学同や解放派が萩中公園集会前に突撃隊を率いて、鈴ヶ森ランプをから羽田突 入を図ったと、ブントの成島副委員長の誇らしげな発言を聞いたので、集会を早々に引き上げ、突 撃体制に入ったと、政経学部の中核派の友人が語っていました。前日の中核派によるリンチ事件 から、全学連統一行動が分裂した結果でもありますが、穴守橋では、社学同や解放派、反戦青年 委員会、中核派は弁天橋、革マル派は稲森橋をはさんで、羽田空港突入攻防を繰り返したので す。 弁天橋では、橋の真中の障害物として置かれた装甲車に、車のキーが付いたままに置かれて おり、学生が運転して警備車を押し戻しました。そしてそこに出来たわずかなすき間から抜けて前 に進もうとする学生たちを、機動隊は警棒メッタ打ちにし、学生も投石と角材で対抗しつつ、警備 車を倒して道を広げようと、ワイヤーや丸太などで激しくわたりあったそうです。すき間から一番早 く向こう側に到達した一団に山﨑博昭さんがいて、無差別の警棒の乱打に虐殺されたのです。 (それらは、50年後に「10・8山﨑博昭プロジェクト」によって当時の公判、証言、資料の科学的 真相再究明の結果を本の中で明らかにしています。すでに当時から主張していた内容を再検証し たもので、警察の「学生が運転して轢き殺した」というデマがつくられたが、矛盾をきたして、結局 通用しなかったという事実なども明らかにしています。) また、ちょうど昼ごろには、山﨑さんの死が穴守橋にも伝わり、佐藤首相の飛行機がベトナムへ と飛び立ったこともあって、弁天橋に向かう者も多かったようです。川に落とされ、ズブ濡れの人や、 怪我人が多数いましたが、弁天橋のたもとでは、山﨑さんに連帯して「同志は倒れぬ」を歌い、1 分間の黙祷をしたとのことです。革共同の北小路さんが車の上に乗って「機動隊もヘルメットをと って黙祷しろ!」と糾したが、機動隊はリンチを止めなかったと話していました。攻防を経て、萩中 公園で夜遅くまで虐殺抗議集会が続きました。 この日のことを「戦旗」(ブント機関紙)は次のように記しています。「装甲車を先頭に学生はジリ ジリと橋の上を前進した。装甲車の前に近づき進み、橋を渡ろうとした。その時、これを見た機動 隊は、学生の群れに襲いかかった。逃げ場を失った学生が次々と川に飛び込んだ。残っている学 生に向かって警棒を振りかざした機動隊が狂犬のように襲いかかり、メッタ打ちにする。このメッタ 打ちされた学生の中に山﨑博昭君がいたのだ。学生の装甲車はやむをえず後退し、橋から引き 46 上げた。山崎君はこの機動隊の突進、警棒の乱打の中で虐殺された。」(「羽田闘争10・8→11・ 12と共産主義者同盟」より) 10.10・8羽田闘争の衝撃 この日、共に闘った一人の学生が殺されたことは、大きな衝撃となりました。「命を賭けなけれ ば、もはや闘えない時代なんだなあ・・・」社学同の昼間部の友人が、現思研の部屋に来てため息 をついてそう言いました。理屈抜きに、もう後には引けない新しい段階へと闘いが転じたのを、誰 も実感していました。「学校の先生になる者たちこそ、こういう闘いの中で日本社会の変革の担い 手になるべきだ」私たちの友人たち、教育研究部の人々も、下級生も元気がいい。私もまた、みん なの憤怒を聴きながら、もう詩を書いてはいられないな、もう書くのはやめよう・・・と思いました。 これまでは自分の中で、政治では言葉にできない情念や憤怒を詩に結晶させようとしつつ、カタル シスのように書いていたような気がするのです。10・8闘争による闘いの気分は、そんな私のあり 方を問うていたのだととらえたのです。詩にではなく、本当に社会を変えるために情熱を捧げよう、 そんな風に思いました。そして、新しい社会参加への関わりを模索しました。 その第一は、何よりも、来年には卒論を仕上げ、教育実習も終え、先生の職業に就いて、社会 変革の多くの担い手の一人として生きること、そこに私自身の生きがいがあると確かな思いを持 ちました。家に戻って、10・8闘争のことを父に話しました。学生が殺されたこと、それほど激しい 弾圧で数えきれない負傷者が出たこと、住民が学生たちをかくまったこと、首都高速道路公団の 運転手が怪我人を個人医院に運ぶのを手伝ってくれて、持っていた現金を差し出してくれて、名 前も名のらずに去ったこと・・・。テレビでは学生の暴徒化と、もっぱら、公安側の情報報道を流し ているけれど、現実は過剰警備が殺人に至ったことなど話しながら「私、先生になっても社会活動 はずっと続ける」そんな話をしました。 この時、父は、自分も若い時、民族運動に参加したことを 話してくれました。父の親類らの話から小耳にはさんで、昔父が何か「大それたこと」に関わったら しいことを、子供時代に聞き耳をたてて知ったこともありましたが、父からくわしく聴くのは初めてで した。 子供時代から私たちは、父と、どう生きるべきかとか、人間の価値や正義、どちらかといえば天 下国家を語り合う家族でした。博識の父を子供たちは、いつも質問攻めにしたものです。 財政的に商売は武士の商法でうまくいかず、貧しかったけれど、父の知識を社会への窓口として、 私たち兄弟は豊かな子供時代を過ごしました。父は子供たちを大学に行かせる財力がなかった せいもありますが、働くことを奨励し、社会から学ぶことを大切にしていました。自分が「知識人」的 な生活を体験した結果かもしれません。私が働きながら大学に行く手立てを見つけて、入学を決 めたあとに父に話すと、父は大変喜んでくれました。 でも、父はいつもの静かな口調で「房子、『物知り』にだけはなるな。物知りだと思った時から人 間が駄目になる」と言ったものです。子供時代から金の多寡(たか)で人間の価値をみる軽薄な人 間になるな、と教えた父。その父がこの日語ったのは、若い時の自分の民族運動の時代と友情、 そこで志を共にした人々が捕まり、刑を科されたこと、中学時代の親友池袋や、四元、血盟団の 井上日召の話などです。美しい日本が、資本主義の金の支配によって、人々の暮らしはたちゆか なくなり、餓死や飢えが広がり、娘を売らざるをえない農民たちがいる。その一方で、財界、資本 家、政治家や官僚たちは国民を犠牲に、利権と権力を謳歌しているとは何事ぞ!と若者たちは憤 47 り起ちあがったといいます。父も井上日召らの呼びかけに、池袋と共に加わったということです。 そんな話を私は、10・8闘争の夜に聴きました。そうか、そういう風に父も生きてきたのか。子供時 代に朝鮮戦争がはじまり、朝鮮人排斥の中で、父だけそうしなかったこと、近所の馬事公苑へと 「天皇の車がお通りになる」というおふれに、近所の人々が道路に並び、頭を下げているのに、父 は決してそういうことをしなかったこと・・・など、他の日本人の人々と反忚の違う父の姿を思い出し ながら、そんな父を誇りに思っていた小さい頃の自分をも思い出していました。それ以来、これま でよりも、もっと話し合う親子になったと思います。活動のために、会う機会は減っていきましたが、 どこにいても、のちにアラブに行った後も、父はずっと私の理解者でした。 10・8闘争はまた、チェ・ゲバラのボリビアでの戦死と重なりました。世界では、民族解放、革命 のために命をかけて闘っている、チェ・ゲバラの「二つ三つ、更に多くのベトナムを!それが合言 葉だ!」の呼びかけ、さらには、連帯はローマの剣士と観客の関係であってはならないというチェ の言葉は、私たちにベトナム反戦から国際主義精神に基づく革命を実現する道をさし示していま した。「たとえ、どんな場所で死がわれわれを襲おうとも、われわれの闘いの叫びが誰かの耳に届 き、誰かの手が倒れたわれわれの武器を取り、誰かが前進して機関銃の連続する発射音の中で、 葬送の歌を口ずさみ、新たな闘いと勝利の雄叫びをあげるなら、それでよい」とチェ自身が語った ような死に方だったのです。 また、チェはこうも言いました。「我々のことを夢想家というなら、何回でもイエスと答えよう」と。 チェの闘いと死。世界の若者たちを共感させ、心をつなげた人が死んだことは、私には大きな衝 撃でした。自分のことは後回しだ・・。求められた時は、私はいつでも忚えられる私でありたい!チ ェ・ゲバラの戦死に、また、山﨑さんの死に、私は一歩踏み出したのです。それは心情的レベルに すぎなかったかもしれません。 全学連もまた、10・8羽田闘争を教訓として、死を覚悟した闘いの時代だととらえました。そして、 それを乗り越えて闘う決死隊、先鋭部隊を先頭とする街頭戦のスタイルが、10・8以降、新しい闘 いのスタイルとなりました。決死隊はヘルメットをかぶり角材などで武装し、警察の警備の過剰な 攻撃に対処する先鋭化へと向かっていきます。権力側は、公安情報によってマスメディアを誘導し、 山﨑さん虐殺を「学生の運転した車が学生をひいた」というキャンペーンを張り、闘いの中で警察 の警棒の乱打によって虐殺されたことを認めようとしませんでした。 48 10月17日の、山﨑君追悼日比谷野音集会には、党派を越えた6,000余人の労働者、学生が、 山﨑さんを追悼しました。全学連 委員長の秋山勝行さんは、この 集会で「全学連は必ずや、この死 に報い、この虐殺の本当の張本 人を摘発し、粉砕するまで闘い抜 く。時が経つにつれて、羽田の正 義者は誰であり、犯罪者がどちら の側であったかが、ますます明 瞭なった。全学連の死闘こそ、佐 藤首相の单ベトナム訪問を最も 真剣に受け止め、くい止めようと した力であり、日本人民が当然 やらなければならないことを、もっ とも忠実に実行した」と語ってい ます。今からとらえれば、この1 0・8闘争を契機に、党派はこれ まで以上に運動の先鋭化と非妥 協性にもっとも価値を置く闘い方に進んでいくのです。私も、広範な運動や合法的なさまざまな多 様な活動を軽視し、それよりもラジカルであることが、もっとも使命を実践していると思うようになり ました。 全学連は、10・8闘争から11月12日の佐藤訪米阻止闘争へと引き続く闘いを準備しました。 10・8闘争で死者が出たことで、この日は決死隊として死を覚悟する者たちも多かったのです。 社学同のデモ指揮にたった早大の村田さんは、オートバイのヘルメットをかぶり、いつものしゃが れ声を嗄らして死をいとわぬ闘いの指揮をとると、アジテーションで絶叫していました。第二次羽 田闘争という位置づけで、全学連は、先頭に角材による「武装部隊」をすえて、3,000人の全学 連、・反戦青年委員会が闘いました。しかし、武装力を強化したのは、学生より機動隊の方でした。 この日かその後から新しく等身大の大きさのジュラルミンの盾で防衛する態勢をとりながら、催涙 弾を100発近くデモ隊に撃ち込んで、前進をはばみました。この日は大鳥居駅付近が、まるで戦 場のようになりました。 10・8闘争の時もそうでしたが、マスコミが学生を暴徒と悪宣伝していましたが、羽田付近の住 民たちは違いました。機動隊に追い立てられて路地に逃げ込む学生たちをかくまい、負傷した学 生たちを手当してくれます。「あんたたちは、一銭の得にもならないのによく闘っている」と感謝さ れたという仲間もいました。私自身の10・8の時の経験でも、正義と信じて自らをかえりみず闘う 学生たちに、住民たちは大変好意的でした。こうした高揚は、米欧各国でも同じようにありました。 ベトナム反戦運動は、国際的な各地の若者たちをかりたて、チェ・ゲバラに共感し、一つの大きな 力に育っていました。10・8闘争を経て、闘いの質はよりラジカルとなり、また、より多くの大学、高 校でベトナム反戦の闘いばかりか、授業料の値上げや大学自治、管理運営などで、当局との闘 49 いがますます広がっていったのです。67年の新しい闘い方は、68年を更にラジカルに高揚させ ていきました。




(私論.私見)