日本赤軍史その1

 更新日/2018(平成30).12.4日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 日本赤軍は、1971.2月、赤軍派女性幹部の重信房子と「京都パルチザン」グループの奥平剛士が偽装結婚してパレスチナへ赴いたことから始まる。1972年のロッド空港乱射事件(テルアビブ空港事件)いわゆるリッダ闘争でデビューし、イスラム人民の信頼を獲得する。

 1974年頃、正式に日本赤軍として分党する。ハイジャック闘争を次々と成功裡に敢行し、クアラルンプール米大使館占拠事件(1975.8月)とダッカ日航機ハイジャック事件(1977年)では超法規的措置で日本国内に拘置中のメンバーら計11名を釈放させた。

 しかし、国際警備網が整序されにつれて僅かの活動家が次々と逮捕され、イスラエルのレバノン攻撃により根拠地を失うことにより敗色濃厚に陥る。その後、爆弾闘争で失地回復を図るが、それも次第に封じ込められる。1980年代後半から2000年代にかけて、丸岡修、和光晴生等の中心メンバーが相次いで逮捕され、組織は壊滅状態に追い込まれる。党内対立も激化し、党の統制力を失う。

 2000.11月、日本赤軍幹部の重信房子が、潜伏していた大阪府高槻市で旅券法違反容疑で警視庁公安部によって逮捕される。後に支援者数名が犯人隠匿容疑で逮捕。これにより同組織の活動はほぼ壊滅したとされる。2001.4月、重信房子は、都内で開かれた支持者集会に、獄中から日本赤軍としての解散宣言を行なった。この過程を検証する。

 2009.5.28日 れんだいこ拝
 


【重信房子がイスラムのパレスチナ解放闘争との結合を決意する】
 (総合雑誌2009.3月号情況所収の和光晴生氏の「日本赤軍とは何だったのか第1回」その他を参照する)

 重信房子がイスラムのパレスチナ解放闘争との結合を決意する。この背景には、所属する赤軍派の混迷があった。既に最高指導部が逮捕され、田宮らは北朝鮮へ向かい、森恒夫が新指導者として登場していたが、既に古株の重信は新指導部とはソリが合わなかった。

 よど号派は北朝鮮の拘束下に入り、身動きとれなくなっていた。重信は、これを見て、既成社会主義国家ではない革命戦場に革命の根拠地を求め始めた。こうした折、「京都パルチザン」グループの奥平剛士と繋がり、革命の夢を語りあった。その結果、パレスチナ闘争への合流で意思統一した。重信は、森指導部に決意を伝えたところ反対された。ならば赤軍派を止めてでも行くという堅い決意を述べたところ、森は「行く以上は、赤軍派として行って欲しい」と述べ、これを承認した。

 重信の「わが愛わが革命」(講談社)は次のように記している。
 「67年の羽田闘争のあとだったと思う。泥まみれになって帰った私に、父が言った。『房子、今日の闘争は良かった。だけど、あれには、人を殺す姿勢がないな』。私は驚いて、酒の盃を手にしている父を見つめた。その日が、はじめてで、そして終わりであつた。父が、自分の青春時代の話をしてくれたのは。父は、昔、血盟団に加わっていて西田税やなんかと一緒にやっていたという。理科大かなんかに行っていて、東京に絶望して、九州へ帰ったのだという。父は、鹿児島の出身であった。

 父は続けた。2.26事件にしても、血盟団にしても、歴史は、あとで右翼だとか何だとかいうが、我々は正義の為にやったのだ。政治家が腐敗していたから、我々が権力を変えて、もっと人民が潤える社会にしたいと思ってやったのだ。房子は、いま左翼だといわれているけれども、とにかく、自分が正しいと思うこと、これが正義だと思うこと、それだけをやれ! 『物知りにだけはなるな』。ものごころついたころからよく聞かされた父の言葉である」

 「りんごの木の下であなたを産もうと決めた」(幻冬社)は次のように記している。
  「家に入りざま、敵のめちゃくちゃな所業の数々を家の者達に話しまくり、意気揚揚とお茶一杯飲み干した時、父がなんとんく厳かな感じで、昔の話をしてくれたのです。『いや、房子、本気で革命をやるのなら、あのようにやってはいかん。まず民心を重んじなければならぬのが第一。民族の心を知らぬ者が世界革命を唱えても、それはコスモポリタンに過ぎぬ。井上日召は一人一殺主義と言われているが、そうではなく、一殺多生と言ったのだ。一殺多生は一人では出来ぬ』と」。
 「あまり話したがらない父。父の前歴は知らなかったけれども、子供の頃、父と子の対話の中心は、人はどのように生きるべきかということ、そして天下国家を語ることでした」。
 「赤軍派になってから、ますます父の意見を反動的なものとして、退けるようになりました。けれども、父と娘の対話は熱意に満ちたもので、父の哲学は私の心に沁みわたりました」。
 「父は娘を信じるが故に、心強く励まし続けてくれました。『ちょっと仕事の都合で、外国へ行って来るからね』と旅立ちを告げた時、母は、明るく、着ていく服のこと、持ち物のことに気を配ってくれ、父は、『やすやすと帰ろうと思うな。しっかりと頑張れ』と言いました。もう会うことの無い娘の旅立ちを理解していたように思います。旅立って以降、家族から手紙は来ませんでした。『家族が手紙を書けば、房子に要らぬ気をかけさせる。誰も出すな』と、父の指示が家族にあったということを私は後から知るのです」。

【重信房子と奥平剛士がパレスチナへ向かう】
 1971.2.26日、赤軍派の女性幹部の重信房子(明治大)、「京都パルチザン」グループの奥平剛士(26歳、京大工学部)が偽装結婚してパレスチナへ赴いた。マルクス・レーニン主義に基づく日本革命と世界の共産主義化の実現を目的として結成されていた共産主義者同盟赤軍派の「国際根拠地論」に基づき海外に革命の根拠地を求めて脱出したものであった。マルクス・レーニン主義に立脚するPFLP(パレスチナ解放人民戦線)へ共同武装闘争を申し入れ、その支援庇護を受けレバノンで活動を始めた。 

【京都パルチザンメンバーが合流】
 10月、安田安之(24歳、京大工学部)、山田修、檜森孝雄がベイルート入りし、奥平達に合流した。アラブ赤軍は、過激な武装路線のマルクス主義セクトとして、パレスチナ・ゲリラと共同し、又は単独で、国際テロ組織の中でも極めて活発なテロ活動を世界各国で展開していくことになった。これを国際遊撃戦路線という。

【アラブ赤軍結成される】
 重信、奥平、安田、山田、檜森の5名はアラブ赤軍又は赤軍派アラブ委員会と称し活動を始めた。PFLPの諸部門のうちの国際ゲリラ作戦を担当するアブ・ハニ氏が率いる海外作戦部局に所属した。

 この年、若松プロが、ドキュメンタリー映画「赤軍−PFLP世界戦争宣言」を製作、真っ赤に塗ったマイクロバスを仕立てて、全国各地で上映隊運動を展開する。


 1972.1月末、山田修が、ベイルートの海岸の岩場で水泳中溺死する。檜森孝雄が遺体を日本に送り届けることになる。日本に帰国した檜森は、丸岡修と岡本公三のオルグに成功する。2月末、岡本が出国。3月、丸岡が出国。


【テルアビブ空港乱射事件】

 1972.5.8日、アラブ・ゲリラが、サベナ航空機をハイジャックし、イスラエルのテルアビブのロッド国際空港に着陸し、逮捕されている多数の同志の釈放を要求した。イスラエル政府は、強行手段によりゲリラを射殺した。PFLPは、報復作戦を計画した。

 「奥平剛士の両親宛遺書」は次のように記している。

 「あす、僕らは、この辺境の基地を出発します。羊の群れが出撃する我々を送るでしょう。ずっと仲艮くしていた子どもらが手を振ってくれるでしょう。彼らが、僕らのあとを継いで銃を握ること、世界中の飢えた子どもらが我々のあとにいることを僕らは確信しています」。

 1972.5.30日、奥平剛士(バーシム・奥平)、安田安之(サラーハ・安田)、岡本公三(アハマッド・岡本)らがイスラエル・テルアビブのリッダ国際空港(現在のベン・グリオン国際空港)の旅客ターミナルをチェコ製のVz-58(よくAK-47自動小銃と誤認される)と手榴弾で攻撃し、結果的に民間人ら100人以上を殺傷(死者24人)した。岡本公三が逮捕され、残りの2人は自決した。

 岡本公三氏によると、無差別射撃事件として報道されたが、真相は違うという。彼ら自身は警備兵に発砲したのであり、メンバーの一人である安田安之氏は投げた手榴弾が遠く壁にあたって遠くにいかず、他の一般客に被害が出ないようそれに体を覆い被せて亡くなったのだと証言している。真相は未だに不明である。

 なお、この事件の首謀者たちは日本赤軍とは名乗っておらず、日本赤軍結党前の事件なので、日本赤軍の前史に属する。日本赤軍は、これを「リッダ空港銃撃決死作戦」として記念し、毎年5.30日に声明を発表することになる。

 日本政府は、この襲撃事件に遺憾の意を表明して、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払った。


 1973.3.1日、重信が、PFLP幹部との間でできた長女を出産。この頃、アラブを訪問していた足立正生氏に家族宛の赤ちゃんの写真を託す。


【ドバイ事件】

 1973.7.20日、丸岡修と四人のPFLPメンバーが、「日本とパレスチナの革命を結合する世界革命戦争」の見地からパリ発アムステルダム経由東亰行きの日本航空ボーイング747型機をアムステルダム離陸後ハイジャックした。その後、アラブ首長国連邦のドバイ空港、シリアのダマスカス空港等を経由し、リビアのベンガジ空港へ向かった。乗員乗客141人の解放後、機体をベンガジ国際空港で爆破し、投降した。女性戦士1人が手榴弾の暴発で死亡した。


 1973.9.18日、和光晴生氏が、重信の兵員要請に応え出国。合流する。やや遅れて、西川氏が合流する。


【シンガポールのシェル石油製油所一部爆破事件】

 1974.1.31日、バセル・エル・コーバイシ隊と名乗るパレスチナゲリラと日本赤軍の混成部隊4名(日本赤軍2名―和光晴生、山田義昭と推認)が、「ベトナム革命戦争との連帯」作戦としてシンガポールのシェル石油製油所に侵入し、施設の一部を爆破、フェリーボートを乗っとり乗員を人質にして脱出のための飛行機を要求した。


【クウェート日本大使館占拠事件事件】
 1974.2.6日、パレスチナゲリラ5名がクウェートの日本大使館を占拠し、大使館員ら16名を人質にとり、和光らシンガポール事件の戦士と自らの脱出用飛行機を要求した。日本政府は要求をのみ、シンガポールに日航特別機を送り、クウェートの戦士と合流させ、日本赤軍.パレスチナ.ゲリラメンバー9名を南イエメンに飛行させた。部隊はアデンで南イエメン政府に投降した。

【ハーグ事件】

 1974.9.13日、西川純、奥平純三、和光晴生の3名が、先に逮捕された赤軍派メンバーの奪還目指して、オランダ・ハーグにあるフランス、アメリカ等の大使館を占拠し大使館員を人質にとり、同年7月パリで逮捕された山田義昭の釈放を求め、拘束されたメンバーの釈放を要求した(「外国大使館占拠による獄中者奪還闘争」)。

 9.18日、戦士と人質の交換が成立。フランス政府は超法規的措置として逮捕していたメンバーを釈放奪還に成功した。部隊はフランス航空機でシリアに向かい、ダマスカス空港で投降した。これが、日本赤軍単独の「独立作戦第一号」となった。


日本赤軍を名乗る
 1974.11月末、連合赤軍兵士追悼人民集会で決別宣言を出し、日本赤軍を正式名称とし、独自の路線を進むこととなった。以降、1980年代にかけてパレスチナ解放人民戦線などパレスチナの極左過激派ゲリラと連携し、一連のハイジャック事件を起こした。

 1975.2.2日、日本赤軍の西川純、戸平和夫、日高の3名が、ベイルートを出発し、コペンハーゲンに向かう。


 3.5日、スウェーデンのストックホルムのレバノン大使館付近で調査活動中、日本赤軍の西川純、戸平和夫が逮捕され、日本へ強制送還された。日高敏彦は逃走した。


【レバノン内戦起こる】
 1975年、レバノン内戦起こる。イスラエルが突如、空軍及び特殊部隊を用いて南レバノンやベイルートを攻撃し始めた。これに呼応するファランヘ党をはじめとするキリスト教マロン派とイスラム教各派、PLOが民兵組織を構築し内戦状態に突入する。10月以降、各宗派の民兵達は立てこもるホテルを要塞化し、互いの陣地と化したホテルに目掛けて銃撃や砲撃を繰り返し、この戦闘で多くのホテルが壊滅した(ホテル戦争)。こうした結果、ベイルートはイスラム教徒・パレスチナ難民の多い西ベイルートと、マロン派の居住する東ベイルートに分裂。東西の境界線には「グリーン・ライン」とよばれる分離帯が築かれ、民兵が相対峙する状況下に入った。日本赤軍は、この間隙を縫うようにハイジャック闘争を継続していくことになる。

【クアラルンプール事件】

 1975.8.4日、日本赤軍戦士6名(内3名は和光晴生、奥平純三、日高敏彦と推認)と他の3名が、マレーシア・クアラルンプールのAIAビル内の米領事館とスウェーデン大使館を占拠し、大使館員、アメリカ総領事を人質にとり、同年3月スェーデンのストックホルムで逮捕され、日本に強制送還された西川純ら2人と他の獄中赤軍メンバーらの釈放を要求した。

 三木首相下の日本政府は、出国を拒否した松浦、坂口を除いた5名(西川純、戸平和夫、坂東国男、松田久、松浦順一(以上赤軍派)、坂口弘(京浜安保共闘)、東アジア反日武装戦線の佐々木則夫)の釈放に応じ、超法規的措置により日航特別機でクアラルンプールに送った。部隊は釈放者と合流した後、8.7日、リビア・トリポリ空港に向かい、リビア政府に投降した。


 1976.9.23日、日高敏彦と奥平純三が、「ヨルダン調査」の任務を受け、シリアからヨルダンに偽造旅券で入国しようとして逮捕され、連日拷問責めに遭う。日高は死亡。


 10.13日、ヨルダン当局に拘束されていた奥平純三と遺体となった日高敏彦が日本に強制送還される。


 1977.5.30日、「団結をめざし、団結を求め、団結を武器としよう!」と題した「5.30声明」が発表される。「自己批判を軸に階級的団結を求める」、「思想闘争を基軸に、あらゆる人々と思想的団結を勝ち取り、新しい社会の建設を現在から展望する」、「そうした闘いは、更に日本赤軍の武装闘争実践を人民の意志の表現として、持久的で階級的な国際・国内遊撃戦として展開せしめるでしょう」云々。


【日航機ハイジャック、ダッカ事件】

 1977.9.28日、丸岡修、和光、佐々木則夫、戸平、坂東と思われる5名が、インドボンベイ空港を離陸直後の日本航空DC-8型機をハイジャックし、バングラデシュのダッカ国際空港に強制着陸させた。乗員・乗客151人の人質と交換に、日本で在監・拘留中の奥平純三(日本赤軍)、城崎勉(赤軍派)、大道寺あや子、浴田由紀子(東アジア反日武装戦線)、獄中組合・泉水博、仁平映(刑事犯)ら9名と現金600万ドル(当時約16億円)を要求し、日本政府の福田首相は、「人命は地球よりも重い」と述べ、クアラルンプール事件と同じくこれに応じ、超法規的措置として出国を拒否した3人を除いた拘束中のメンバーら6名(奥平純三、大道寺あや子、浴田由紀子、城崎勉、泉水博、仁平映)を解放し、600万ドルの身代金を支払った。

 釈放されたメンバーはダッカ国際空港で日本赤軍と合流し、シリアのダマスカス空港で給油した後、アルジェリアのダニエル空港で人質を解放した後、アルジェリア政府に投降した。日本政府がSATを設置する要因となった事件。


 1978年、アブ・ハニ氏が、旧東ドイツの病院で死亡する。


 1978年末、和光が、国際遊撃戦路線に疑問を抱くようになり、規約第16条の「組織員は自らの意思で脱退することができる」に従い「脱退届けを提出する(1982年、脱退の合意が正式に成立する)。1979年初頭、坂東国男を議長として審問会が開かれる。但し、物別れのまま二日間で審議を終了している。


 1979年、「5.30リッダ7周年によせて」声明を出し、パレスチナ解放闘争一辺倒の路線から日本革命闘争主体への転換を表明していた路線を、再度パレスチナ革命と日本革命を結合させる国際主義路線を打ち出した。


 1979.5月、和光が日本赤軍を離れ、PFLPのコマンドとして南部のナバティエ前線で活動し始める。


 1982.6月、イスラエルによるレバノン攻撃で、PLOが掃討され、シリア、イラク、南イエメンへの撤退を余儀なくされた。日本赤軍は本拠を失い、PFLPなどと共にシリア、南イエメンなどに非難した。


 1984年、重信が「大地に耳をつければ日本の音がする」を発刊。


岡本公三が捕虜交換で奪還される
 1985.5月、1982.6月のイスラエル軍によるレバノン侵攻を受け、本拠地ベイルートを撤退した日本赤軍は、国際赤十字の仲介によるイスラエルとPFLP―GC(パレスチナ解放戦線総司令部)との捕虜交換で釈放された岡本公三を迎えた。以降、再びテロ活動を再開させ、ジャカルタ、ローマ、ナポリと相次いでテロ事件を引き起こしすことになる。

【ジャカルタ事件】

 1986.5.14日、ジャカルタ事件。インドネシア・ジャカルタの日米両大使館に爆発物が打ち込まれ、同地のカナダ大使館前で車が爆破されるという同時テロ事件。日米捜査当局は、付近のホテルから日本赤軍の城崎勉の指紋が検出されたとして、城崎勉を犯人の1人と断定し、容疑者として手配。この事件では「反帝国際旅団(AIIB)」が犯行を声明。(最近の事件では日本赤軍自体は声明を発表していない。「反帝国際旅団(AIIB)」が日本赤軍をあらわすものと思われる)


【三井物産支店長誘拐事件】

 1986.11.15日午後3時頃、三井物産マニラ支店長が、ゴルフ帰りにフィリピン共産党の軍事組織、新人民軍(NPA)のメンバー5名に誘拐された。1987.1.16日、三井物産本社や報道各社に脅迫状や写真、テープが届いた。写真は、誘拐された支店長が虐待を受けているように見え、テープには弱々しい声が吹き込まれていた。

 その後、数回脅迫状が届き、同年3.31日の夜にケソン市内の教会脇で解放された。解放された被害者に怪我はなく、写真やテープは犯人の偽装であることが解った。このことから、この事件は身代金目的の誘拐事件と見られている。(NPA中央の声明によると、末端のメンバーが勝手に行ったことで、人質と引き換えに1000万ドルの身代金が支払われたとのこと)。1991年に逮捕された犯人達は、日本赤軍の協力があった旨の供述をしている。


【ローマ事件】

 1987.6.9日、ローマ事件。ベネチアサミット開催中のこの日、イタリアのローマにおいて発生した米、英両国大使館に向けた爆発物の発射等のテロ事件。「反帝国際旅団(AIIB)」が「反帝国主義国際旅団」の名で犯行を声明。イタリア当局は、奥平純三ら犯人と断定。


 1987.11.21日、丸山修が成田空港から入国し、箱崎ターミナルで逮捕される。


【ナポリ事件】

 1988.4月、イタリア・ナポリのナイトクラブ前に駐車していた車が爆破され、民間人、アメリカ空軍兵士ら5人が死亡した。イタリア当局は、奥平純三及び奥平(重信)房子を犯人と断定。日本赤軍自身はこの事件の犯行を否定している。


【マドリード米大使館手製ロケット砲事件】

 1988.7月、マドリードの米大使館に手製ランチャーよりロケット2発が撃ち込まれ、「反帝国際旅団(AIIB)」が犯行を声明。


 1991.8.13日、人民革命党が創設され、民主主義の徹底を水路として社会主義革命に継続させる反独占反米人民革命路線を打ち出す。


【赤軍派メンバーが相次ぎ逮捕される】

 1995.3月、日系ペルー人を装ってルーマニアに潜伏していた浴田由紀子を逮捕。

 1995.5月、ペルーに潜伏中の吉村和江を発見、6月8日に逮捕。

 1996.9月、城崎勉を潜伏中のネパールで拘束(現在、アメリカにおいて公判中)。

 1997(平成9).2月中旬、レバノン国内に身分を偽って潜伏していた日本赤軍のメンバー5人(和光晴生、足立正生、山本萬里子、戸平和夫、岡本公三)が発見され、レバノン当局に身柄を拘束された。ルミエ中央刑務所に収監される。5名は、旅券偽造、不法入国等の罪で起訴された。日本政府は、レバノンでの司法手続きの進展状況を見守りつつ、レバノン当局に対し5人の身柄の早期引き渡しを求めている。

 1997.11.12日、日本赤軍メンバー西川純が、ボリビアのサンタ・クルスにおいて、現地治安当局に身柄拘束された。警視庁は、国外退去処分によってボリヴィアを出国し、帰国した同人を、11月18日、「ダッカ事件」による航空機の強取等の処罰に関する法律違反で逮捕した。日本赤軍の本拠地ともいえるレバノンにおいて、レバノン政府当局によりメンバーが検挙されたことは、事実上、日本赤軍が最も重要な拠点を失ったことを意味している。

 1998.6月、レバノン破棄院(最高裁に相当)で、上告中の5名に対し、原審支持決定が下された。岡本は禁固3年となった。


 2000.3.17日、岡本がレバノンに政治亡命した。レバノン政府は、5名のうち岡本だけに政治亡命を認めた。足立正生(60歳)、)和光晴生(51歳)、山本万里子(59歳)、戸平和夫(47歳)が国外追放の上、強制送還された。 3.21日、岡本が、レバノンの刑務所を出所した。

 2000年、丸岡修の無期懲役刑が確定する。


【最高指導者の重信房子が逮捕される】
 2000.11.8日、日本赤軍幹部の重信房子(55歳)が、潜伏していた大阪府高槻市で旅券法違反容疑で警視庁公安部によって逮捕される。この時、大量の組織文書を記録していたフロッピーディスクやフラッシュカードが押収されている。

 1ヵ月後、日本赤軍の大衆組織とみなされた「希望21」の関係者全国20ケ所が家宅捜索され、支援者数名が犯人隠匿容疑で逮捕。これにより同組織の活動はほぼ壊滅したとされる。

【重信が、日本赤軍及び人民革命党の解散を宣言する】
 2000.12.12日、重信が、勾留理由開示法廷の場での意見陳述の際、日本赤軍及び1991年に日本国内向けに設立されたという人民革命党の解散を宣言する。

【重信の娘メイが日本国籍を取得】
 2001.3.5日、重信房子とパレスチナ戦士の間に生まれた娘の重信メイ(当時28歳)が、日本国籍を取得。

【最高指導者の重信房子が日本赤軍解散表明】
 2001.4.14日、重信房子は、都内で開かれた支持者集会に、獄中から日本赤軍としての解散宣言を行なった。

【重信裁判始まる】
 2001.4.23日、重信被告の裁判が始まる。重信は、被告人意見陳述の際に、改めて同様の解散宣言をする。

【丸岡修が、「日本赤軍の解散について」論文発表】
 2001.7.28日、丸岡修が、「日本赤軍」の解散について」を発表。文面は次の通り。

「日本赤軍」の解散について

丸岡 修/2001年7月28日

2001年 8月15日通巻 1084号

1、積極的意味での「解散」

 解散自体に、私は何ら異議も違和感もない。私自身が数年前から「武闘の停止を宣言せよ、日本赤軍の名称を変更せよ、公然合法の部隊を登場させよ」と広言してきた。厳密に言えば、私の言っていたのは「解散」というよりも「再編」であったが、名称の変更という意味では「日本赤軍の解散」ということではある。積極的意味における解散としてだ。その表明は、組織の代表である重信同志の被拘束以前になされるべきであった。遅きに失した。

2、消極的意味での「解散」

 残念ながら、今回の重信同志被拘束をめぐる問題の後では、消極的意味でも解散以外にはない。重信同志が犯した誤りは、そのまま私たち旧日本赤軍の誤りである。

(1) 誤りの第一

 誤りの第一は、重信自身のモットーであり、私たちのモットーでもあるはずの「最悪事態を想定して最善を尽くす」の結果の被逮捕ではなかったことである。

 私自身の1987年の被逮捕の教訓として、「順調に計画が進んでいくうちに、公安当局の力を過小評価するようになり、最悪事態に備えた活動ができていなかった」があった。私のときの不幸中の幸いは、自身と自組織への被害はもたらしたものの、ガサ入れ被害者たちのガサ理由になる「証拠」を公安当局には一切与えなかったことである。しかし今回は、私たちの初歩的な誤りから無関係の人々へのガサですら、敵に口実を与える物が多く押収されている。そのことに敏感な同志だったのに、どうしてかと思う。

 1995〜97年にかけて世界各地で多くの同志たち(党員及び非党員)が拘束された。96年までの敗北の教訓から、私は1998年に救援会誌の『ザ・パスポート』に次のようなことを書いた。「他人の失敗を他人事とせず、自身の戒めとせよ」、「白色地区で赤色地区と同じような活動をすることは許されない。白色地区でフロッピディスクに重要文書を残すなど言語道断である。同じ誤りを繰り返すならば、我々は革命組織の看板を降ろすしかない」等。その誤りを繰り返した。正に、革命組織の看板を降ろすしかないのである。(私たちは、レバノンでさえ、イスラエル軍の奇襲があるからとして「赤色地区」とはみなさず、中間地とみなしていたはず。)

(2) 誤りの第二

 誤りの第二は、使ってはならない手段をとってしまったことである。それは、入院「障害者」の身分利用である。重信自身は知らなかったようではあるが、少なくとも担当者は知っていたのであり、それは取りも直さず個人の責任というより、私たち組織全体の責任である。むろん、代表である以上、重信自身の責任も逃れえない。「人民性を党性とする」、「党は人民(の闘い)を支援する」等は、「赤」の口先だけの建前ではなく、実践のモットーであるはずだ。その基準が同志1人1人に徹底されていたならば、使っていいか悪いかの答えは明白。党員1人1人の行動に示される判断基準が、組織の思想を示す。そうである以上、「赤」自身がその存在意義を自ら否定する行動をとったという1点においても、私たちに残された道は解党的出直ししかあり得ない。


3、今回の事態で総括すべき点

 私が1987年に、泉水同志が1988年に、そして私たちとは無関係だが、1988年に菊村氏、「よど号グループ」の柴田氏が拘束される事態が続き、『人民新聞』が1988年5月25日号で批判特集「日本赤軍及び共産同赤軍派の諸君へ」を組み、11月頃まで投書等が続けられた。編集部からの批判の趣旨は、次のようなものであった。
(1)1987年から不用意に逮捕されすぎ。
(2)その結果多くの人々が関係ないのに権力から被害を受けた。
(3)日本革命は自分たちが指導しなければならないという思い上がった考えを持っているのではないか。
(4)その性急さと傲慢さは日本人民の地道な闘いを無視している。
(5)そういったあり方を自己批判した77・5・30声明の趣旨に反するのではないか。自らの利益より人民の利益を優先させるべきだ。

 当時の私はまだ接見等禁止中であったが、弁護士を通して回答を寄せ、その文章も8・5号から9・5号にかけて3回連載された。しかし、それはあくまで言葉でしかなく、「赤」の実際の行動によって、上記批判に応える義務が私たちにはあった。日本革命を唱える以上、私たちが国内に活動拠点を作ることは必然であるが、いざそれが発覚したときの弾圧を予測した態勢を組まねばならない。私たちに実際に関係する者たちへの波及はある程度の覚悟をせねばならないが、無関係の人々や運動団体への被害の拡大を防ぐ努力は絶対的に必要なのである。この12年前の教訓を私たちが生かしていれば、重信被拘束はやむをえないとしても、被害の無限的拡大を防ぐことはできたはずだ。私たちに対する批判を私たちの変革の力にせねばならない。

4、解散声明について

 党外の同志及び友人たちの一部から、「解散声明が重信氏個人の声明として出されたが、重信私党ではないか」という批判が出ている。「人民革命党の規約には被逮捕者の権利停止規定があるのに、重信が出すのはおかしい」という友人もいる。

(1) 重信の独断か否か

 たとえ組織代表であっても、組織つまりメンバーの総意を無視して代表個人の意志だけで組織を解散させたり、路線転換させることはできない。しかし、獄中同志たちからの私への伝言によれば、連絡をとれる範囲での皆の総意として用意されていたが、早急にという獄外同志たちからの要請で、重信が宣言する形をとったとのことである(私は刑の確定時に、諸決定はすべて同志たちに委任すると伝えている)。重信も声明の中で「同志たちの意志として宣言する」と述べている。また社会的には、私が解散声明を出しても(1997年に3人連名でレバノン問題の声明を出したが、ほとんどのマスコミに無視された)ニュースにはならないが、重信が言えばニュースになる以上、世間への告知として重信が宣言するのは妥当、と私は考える。

 すでに組織としては、レバノンで拘束された同志たちが帰国させられた昨年の3月以前から、「武闘停止の表明、名称変更、公然化」を決定していた。私が数年前から「1日も早く」と提起していたことでもあった。そして、その発表時機が遅れていたが(重信被拘束以前にしておくべきだったのだ!)、重信によれば今年の春に宣言する予定であった。その前に重信が拘束されたのである。内部的にも対外的(社会的)にも、彼女が「赤」の代表とされており、拘束によって路線転換の公表が遅れてはならないはずである(新組織の旗揚げは拘束によってまた延びたようである)。そうである以上、重信が拘束されても思想転向しておらず、また、拘束からそれほどの日数が過ぎておらず、かつそれが獄外の「赤」同志たちの総意である限り、そして重信が対外的には組織の代表としてある限りは、組織自体に障害はない。

(2) 規約の規定について

 友人たちは、前述の規約を「獄中の者が獄外を指導してはならない」とするもので規定としては正しい、と言う。だから重信が個人名で宣言するのはおかしい、と。実は、それは私たちにとって2番目の根拠であり、1番目の根拠は違う。少なくとも私が1987年に拘束されるときまでの「赤」の規約によれば、である。

 最大の根拠は、同志をあくまで信頼するとした上で、日本だけでなく世界の階級闘争の厳しさ(拷問の激しさ、精神的肉体的思想的攻撃)を前提にし、「被逮捕は敗北の1歩」と規定し、「転向」の可能性もありとして、「獄中メンバーは党の決議には関与できない(党員としての義務はあるが、権利は停止)」としたものである。出所後1年間は入党希望者と同様の扱いとするのも、同じ根拠からだ。

 そして第2の根拠が、一時の旧赤軍派のように獄中政治局員たちが獄外を指導するあり方はとらないとするもの。決して獄中からの意見表明や助言を禁じたものではない(指揮権はない)。むしろ党員の義務として、獄中にあっても獄外の諸運動に積極的に参加し発言するとした(「保安原則」に規定)。重信も指導指揮を禁じられるが、元代表としての意見表明権はあるし、同時にそれまでの代表としての義務を果たすべきものとしてある。


(3) 「赤」の組織原則

 私は人民革命党の規約を未だ知らないが、1991年までの規約では、「赤」は 主義的政治軍事組織として「民主集中制」をとってきた。日共と同じく、それに変更はないと思う。少数は多数に従い、下部は上部に従い、党員は決定に従う原則と共に、党の代表や中央機関は党内選挙で選出し、代表に対する不信任案提起にも制限はない。

 綱領、規約、総路線は重信1人で決めたものではなく、各委員会で討議した上で決議案を作成し、最高決議機関としての党大会で決議したものである。定期的選挙で選ばれた指導機関に指導権限が与えられ、日常的な諸決定は指導部に委ねられるが、重大な決定、路線転換などは党大会で決議されなければならない。

 1979年以降、党内民主主義が強調され、同志たちのカードル信任の判断基準の第1は、「普遍化能力(現場党員への政治路線や必要情報の共有化能力)」であった。重信に独裁的権限はなく、今回の宣言は代表としての責務による。

(4) 「宣言」批判にも理はある

 形式上問題ないと書いたが、一方で民主集中制が人々に理解し易いものではなく、反対の人々は多い。重信が獄中も含めた「赤」全体の意志を代表して代弁している点を強調すべきであったかと思う。

 1997年に、丸岡、浴田、吉村の3者名で出したように、重信を代表として「赤」メンバーとして公然化している獄内外の同志たちとの連名での「解散宣言」とした方が分かりやすかっただろう。

 昨年11月の文章で私は、接見解除されている同志、獄外の同志の4名が中心になり、接禁中の同志たちとも確認して共同声明を出したらどうか、と書いたが、具体的に提案すべきだったかと思う。ただし、獄中から出す以上、獄外同志たちの総意の下で、赤軍の解体、再編は既定の方針であったという明記が必要である。私たちにとって問題がなくても、人々がどう受け止めるのかという側からの発想が私たちには必要と思う。


【最高指導者の重信房子が日本赤軍解散表明】
 2001.12.11日、旧日本赤軍派が「連帯」を結成宣言。「宣言文」は次の通り。12.15日、「連帯」結成委員会が「連帯結党宣言」を発表する。

「連帯」結成宣言

2001年12月11日 「連帯」結成委員会

2001年 12月15日通巻 1096号

1、私たちは、闘いの歴史を継承する

 21世紀が幕をあけた今、グローバル化のもとに、地球規模で貧富の格差がますます広がり続けています。世界の大多数の人々は、安全な水、食料、教育、医療など人間らしく生きる最低の条件をさえ欠いた状態に置かれています。グローバリズムは、企業利益第1の国際秩序を作り上げ、1人ひとりの人間の生命、暮らし、権利はないがしろにされています。一握りの巨大企業が世界の富を独占し、世代を超えて引き継ぐべき自然や人間の生命でさえ企業の目先の利益のための犠牲になっています。そして、アフリカや中東では、米国の巨大軍需産業が兵器を売りつけ、それを手にした貧しいもの同士が限られた資源をめぐって合い争う紛争が繰り返させられています。その中で、世界大戦より多くの人たちの命が奪われ続けています。

 さらには、1991年の湾岸戦争、1999年のNATOによるユーゴスラビア空爆、そして、さる10月7日に始まった米国によるアフガニスタン空爆と、米国を中心にした世界の強国による、自らの意に添わない国々や人々を強大な軍事力で叩き潰すという蛮行が、人権や反テロなどの「正義」の名のもとに行われています。1991年の湾岸戦争も今回のアフガン戦争も、その背後にはグローバル化という言葉の陰に石油利権がからみ、世界中の情報ルートも一部巨大メディアと強国の意思に独占コントロールされてしまい、世界の人々に真実を伝えるはずの回路は宣伝戦の道具になり、大多数の人々は情報の共有からも締め出されています。このまま進めば、人々の権利の何もかもが奪われ、世界は巨大企業と米国などの強国の意図の思うままに変えられてしまいます。

 アフガン戦争の陰に隠れて、アメリカに支援された世界の軍事大国イスラエルは、アフガン戦争のモデルを利用しながら、パレスチナ自治区に対してやりたい放題の軍事攻撃をかけています。1993年11月に「平和の実現」の希望として取り結ばれた「オスロ合意」は、パレスチナに多くの犠牲を強いながらも、少なくとも和平を目指していました。しかし、イスラエルと米国はそれすらも反故にして入植地を拡大し、入植者保護の名目で自治区内の人々に対して武器を向けることを「反テロ」として正当化しています。子供たちまでが、石礫で抵抗していますが、彼らの怒りと泣き声が世界に届けられることは稀です。

 かって、私たちは、1970年代初めに世界の革命を夢見て、アラブの地にたどり着きました。パレスチナの人々は、1948年の欧米諸国の合意によるイスラエル建国で、生まれ育った土地と家から追われ、着の身着のままで周辺諸国への難民として生きることを余儀なくされていました。欧米の一方的な支援で強大な軍事力でパレスチナ人を追い出し占領地を拡大し続けるイスラエルに対しては、国際世論は「テロリスト」と言いませんでした。パレスチナ人は、国際社会からも民族の地位を無視され、生きる希望も薄れていたとき、1972年5月30日、パレスチナ抵抗組織と日本人の3戦士が命をかけた連帯の証として、決死作戦のリッダ闘争が戦い抜かれました。

 その闘いは、日本では単なる「テロ行為」としてしか伝えられませんでした。しかし、抑圧と虐殺の最中にあった、パレスチナ解放闘争の正義と祖国を希求するアラブ・パレスチナの人々には新たな息吹を与えました。パレスチナの人々にとっては、闘えばイスラエルに勝てるのだと言う確信が、遠い極東アジアの地から来た若者が命を投げ出して共に戦ったことへの連帯感と共に沸き立ちました。


 それ以降、日本赤軍とパレスチナ諸勢力との間の強い絆が育てられ、1970年代には数々の共同闘争が実現しました。リッダ闘争は、同時に、連赤の悲惨な敗北に打ちのめされたかに見える日本の革命家たちへの激励のメッセージでもありました。その後、私たちは、幾多の戦いの経験を通しながら、日本の人々との闘いの距離がどんどん大きくなっていくことに危惧を抱いていきました。そして、1977年のリッダ闘争五周年にあたって、私たちは、自らの実践の総括として、日本に向けて「団結を求めて」というアピールを発しました。主要には「私たちは、日本の革命運動が敵との非妥協な思想性によって対峙し得ていない観念論議であることに反発し、自らは行動によって非妥協性を表現することを自己目的化する狭い世界観に立脚していたこと」をとらえかえし、「敗北や弱さをありのままに伝え、ありのままの克服をこそ共有していくことがもっとも大切なことと実感し…」、「自己批判と改造を通して世界をより創造的に実現することができること」、「あらゆる機会にあらゆる人々に団結を求める」というものでした。これは、それから現在に至るまで、私たちにとって、変わることのない思想的な立脚点です。

 1982年イスラエル軍によるレバノン侵略に際して、私たちもパレスチナ勢力と共に一時的な戦線の後退を経験しました。それ以降、南半球の国々にとって「失われた10年」とさえ言われる1980年代は、パレスチナ勢力や共に戦ってきた世界各地の革命勢力にとって、公然たる軍事活動の拠点を失っていく困難な時代が始まりました。私たちは、アラブの地で得た人民勝利の確信を日本へ返していくための思想的理論的な作業を開始しました。特に日本共産主義運動の総括から、人民の生活原理に依拠する党の原理、人民が主体となる革命における党の役割、などを考えてきました。それらの総括や考え方は、この新しい時代の人々の生きる闘いの中で、これからも検証され培われていく必要があるものだと考えています。

 1991年、私たちは、私たちの総括から得た綱領草案に基づいて日本の革命を担う主体をつくる闘いへと出発しました。それは、政治面だけではなく、経済・社会のあらゆる面で人民がその力を行使できるようにする民主主義の徹底を水路とする日本の変革の道をまとめたのです。そこから、日本の文献を研究し、日本の志を同じくする人たちとの出会いと共同を求めました。人民革命党と名称を定めはしましたが、それは、日本の変革に責任を果たそうという思いからであって、決して自分たちが日本の革命を指導し得る勢力だと考えたわけではありません。むしろ、私たちの考えは、党組織をつくる努力の中で他の組織とも出会い、総括を1つにしながら共同実践の中から組織を1つにしつつ党を建設するという考えでした。日本の変革を志す人々と出会い、共に実践して、その総括を蓄積することで発展させるための器として準備を開始したものです。

2、私たちは、これまでの敗北の総括を実践する

 希望に燃えた出発ではありましたが、この出発のときは、ソ連邦の崩壊とも同時期でした。ソ連をはじめとする社会主義諸国は、米国と世界を2分していたという客観的な位置それ自体によって多くの革命や民族解放闘争にとっての後衛となっていましたし、具体的な支援連帯活動も活発に行っていました。その崩壊の結果、1980年代に開始された米国の一元的な支配への道が完成され、世界中で革命組織がつぶされ、革命家が犯罪者として追われる時代になりました。私たち自身、実践的には、世界中の革命家たちと各地で生き延びる闘いを続けましたが、1995年3月ルーマニアでの被逮捕、1996年6月ペルーでの被逮捕、同年9月ネパールでの被逮捕と続き、1997年2月私たちの出生の地であり第2の故郷ともいえるレバノンで5名が逮捕される打撃を受け、同年11月にはボリビアでの逮捕と続きました。そして、昨2000年ついに重信同志が国内で逮捕されるという敗北を喫しました。

 私たちの闘いが世界各地の革命勢力との結びつきのなかにあった分、この一連の敗北は、私たちだけの敗北にとどまらず、他の多くの勢力にも影響をもたらしました。日本国内でも、丸岡同志の被逮捕時に大規模かつ恣意的な弾圧をもたらし、今回の重信同志の逮捕時には膨大な文書の押収を許してしまった結果、多くの友人や無関係の個人・団体にまで直接間接の迷惑を及ぼしました。また、他人名義の旅券を使うという過ちも犯してしまいました。

 この敗北と過ちについては、私たちの革命性の弱さとして、関連する人々に心から謝罪します。その上で、この敗北と過ちの根本にある、私たちの主張していることと実体の間にある剥れをとらえて、それを総括改造する闘いの第1歩を開始していきます。

 私たちは、1990年代の初めから重信同志の逮捕に至るまで、私たちの名称が警察の行うあらゆる弾圧の正当化に使われることに、人々への申し訳なさと自分へのやりきれなさを抱いてきました。また、同時に社会主義勢力が崩壊していくなかで、多くの革命勢力が時代に見合った組織形態への転換を求めてきたのと同じように、この10年間の主体的な準備状況の総括を経て、組織としての解散と再編を計画してきました。その矢先に、昨年の敗北がありました。そのために、重信同志の被逮捕の過程で迷惑をかけた人たちへの謝罪の心もこめて、時期を早めての解散を行うことに決めたのでした。その「解散宣言」の仕方についても多くの意見を受けましたが、それらは私たちの弱さを正すべく批判してくれたものとしてとらえて、今後の総括実践に生かしていきます。
 そこから、私たちの過ちと敗北への総括実践を開始していきます。

3、私たちは、連帯を求め、連帯に生きる

 私たちのこれまでの一連の敗北は、これまでのような非公然な活動の仕方では、私たちにはもはや革命活動を担いきれないということを現していました。もう一方では、レバノンから送還された同志などがいて、少なくても、日本の国内で合法的な活動に切り替える条件を生み出しました。そして、一連の敗北のなかでも、岡本同志がレバノンへの政治亡命を認められたことは大きな喜びであり、リッダ闘争の行動が示した国際連帯の絆は、いまだアラブの地で正義として生きていることを示してくれました。

 私たちは、これらの実情から総括実践としての、新たな闘いを出発させたいと考えます。企業利益第一のグローバリズムに対抗して、世界各地や日本国内で、人々の正義を求めるグローバルな行動が開始されています。メキシコのチアパスに寄せられた連帯、シアトルでのWTOに対する行動からジェノバでのG7サミットに対する大規模なデモに至るまでの一連の行動、そして今米国主導のアフガン戦争に対して世界各地で起こっている平和を求める運動、、、と、人々は国境を越えてグローバルに正義を求めて、連帯して戦っています。このままでは、地球上の全ての人々が生きていけないだけでなく、次の世代には、グローバリズムの「正義」のために人々が否応なく狩り出され、更に生きる条件さえ奪われていくだろうことが明らかになり始めています。このグローバリズムに対して、あらゆる分野で、人々の生きる権利を守る戦いが開始されています。今、その人々の闘いと国境を越えて連帯していくことが問われている時代だと思います。

 私たちは、リッダ闘争の先達が自らの命を賭して新しい連帯の闘いの質を築いたことに習い、30年間の革命共同への感謝として、そして何よりも私たちの自己批判実践として、困難ななかにあるパレスチナの人々の解放を求める闘いへの連帯を、この日本の地から再開することから出発していきます。

 日本の草の根で活動してきた人々とともに、世界と日本の変革を求めていく組織「連帯」を結成します。世界中の変革を求める人々、組織と連帯して共に闘うことを目指します。荒廃しつつある日本社会のなかで、人と人との連帯を築くことを何よりも大切にしていく仕方が問われているし、今、それを実行すべきだと考えるからです。私たちの自己批判として、そのための具体的な活動を開始し、多くの人たちと出会い学び、連帯を求め合って、そのなかから日本の変革の道筋、問われている変革運動のありようを考えていきたいからです。

 私たちは、イスラエルの砲火に日々さらされているパレスチナとちがって、日本では徹底して平和を求める仕方こそが、正義の実現への道であると考えるからです。

 私たちは、ここに、軍事力によらない変革を、民主主義の徹底を水路として目指すことを重ねて表明します。 そして、あらゆる領域での民主主義の徹底の実現の鍵は、人々が主権権力を行使できるのに適した単位である地域自治の実現であると考えます。私たちが最も戦略的に重要な環として考えてきた陣地戦の観点の実現のためにも、人々の暮らす地域での力を蓄えていくことを目指し続けます。

 私たちは、「間違っても正していくことができる」ことこそが、私たちの確信の中心だと考えてきました。幾たび敗北しても、それを次の勝利の土台へと鍛えて転じるために、私たちは、自らの在りかたをただしながら進んでいきます。

 そして、私たちは、リッダ闘争を闘った同志たちが示した自己犠牲の思想、企業利益第一のグローバリズムに対して人を大切にする人間主義、国境を越えて結び合う連帯の思想を、これまでの経験の総括のなかからしっかりと握り締めていきます。


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【日本赤軍メンバー檜森孝雄が焼身自殺】
 2002.3.30日、檜森孝雄が日比谷公園で、焼身自殺した(享年54歳)。

【板橋事件】

 2005.1月、元メンバーが、東京都板橋区内のスーパーマーケットでサキイカ2点、1200円相当を盗み、取り押さえられた事件。この事件によって、元日本赤軍のメンバーでありながら生活保護を受けていたことが明るみになり、日本中を震撼させた。なお、この事件で逮捕された元メンバーは逮捕当時、別件で執行猶予中であった。


【第一審で、重信房子(60歳)に懲役20年が下され、控訴】
 2006.2.23日、東京地裁(村上博信裁判長)が、重信房子(60歳)に対し、懲役20年(求刑は無期懲役)を言い渡した。3.6日、重信の弁護人が控訴した。

【丸岡修が、「旧日本赤軍の路線の誤り(総括に向けて・その1)」を発表】
 2006.12.11日、丸岡修が、宮城刑務所病舎より弁護士宛に「旧日本赤軍の路線の誤り(総括に向けて・その1)」を発表する。「日本の左翼は滅んではいないが敗けてはいます」とした上で、「日本革命の手段を軍事に求めたことの誤り」を指摘している。更に、国外にあっては、日本赤軍は、国際義勇軍としての軍事的な闘いと、公然分野における平和的なボランティア活動や多様な連帯活動をすべきだったと提起している。2007.5.30日付けで「その2」を発想する。

【日本赤軍メンバーの城崎が帰国、逮捕される】
 2015.2.20日、警視庁公安部が、国際手配していた日本赤軍メンバーの城崎勉容疑者を(67)を現住建造物等放火未遂と殺人未遂の疑いで帰日した成田空港で逮捕した。同庁は認否を明らかにしていない。公安部によると、城崎容疑者の逮捕容疑は86年5月14日、インドネシア・ジャカルタの日米両大使館へ迫撃弾が発射されたほか、カナダ大使館が入るビル前で車が爆発した。迫撃弾が発射されたホテルの部屋から同容疑者の指紋が検出されたため、1992年に国際手配され、1996.9.23日、潜伏先のネパールで偽造旅券容疑で拘束された。後に、ジャカルタ事件の容疑でアメリカ合衆国に移送され、裁判で懲役30年の判決を言い渡された後、米南部ミシシッピ州のヤズーシティの連邦刑務所、テキサス州ボーモント連邦刑務所に服役していた。2015.1.16日、釈放され 、ミシシッピ州の収容施設へ移送、2.16日、同施設から釈放され、移民税関捜査局(ICE)に引き渡され、日本へ強制送還された。

 城崎容疑者は、共産主義者同盟赤軍派に参加。強盗罪などで服役中の77年、日本赤軍が日航機を乗っ取って拘束メンバーの釈放を求めたダッカ事件で、政府の「超法規的措置」で釈放され、日本赤軍に加わった。


 2022.5.28日午前8時前、過激派グループ「日本赤軍」の重信房子・元最高幹部(76)が、懲役20年の刑を終えて、弁護士らに付き添われ東日本成人矯正医療センター(東京都昭島市)の正門から車の後部座席に乗って出所した。重信元幹部が黒の帽子を深くかぶったマスク姿で車から降りると、多くの支援者や報道陣に取り囲まれ、近くでは街宣車が抗議活動するなど一時騒然となった。収容されていた施設の近くの公園に場所を移して報道陣の取材に応じた。「再出発にあたって」と心境をつづった直筆で計4枚の文書を報道関係者に配布したうえで、「50年前の戦いで、人質をとるなど、見ず知らずの無辜(むこ)の人たちに被害を与えたことがあった。おわびします。今後は病気の治療に専念します」、「多くの人たちにご迷惑をおかけしたことをおわびします」などと話した。「21年以上の獄中生活も、振り返ると、とても短かったようにすら感じられます」。

 重信元幹部は日本赤軍の解散を宣言しているが、現在もメンバー7人が国際指名手配されており、警察当局が今後の動向を注視している。
 報道機関から寄せられた質問については別の文書で回答。自身に下された懲役20年の判決を「不服はもちろんあり、再審(請求)も弁護士と相談したが、指導的な立場にあった自らの政治責任として断念しました」と胸中を明かした。国際手配中の日本赤軍メンバーに関し、レバノンに政治亡命中の岡本公三容疑者(74)はイスラエルで服役を終えているとして、「日本政府の指名手配は取り下げられるべきだ」と主張。他6人の状況を「私同様老齢ながら、社会に貢献する志で生き続けていることでしょう」と推し量り、「必要とされる場で生き抜いてほしい」と記した。
 新しく社会に参加するにあたって、まず私の逮捕によって被害を受け、御迷惑をおかけした方々に謝罪致します。私や、日本赤軍の闘いの中で政治・軍事的に直接関係の無い方々に、心ならずも被害や御迷惑をおかけしたこと、ここに改めて謝罪します。自分たちを第一としている闘い方に無自覚でもあり無辜(むこ)の方々にまで、被害を強いたことがありました。かつてのあり方を反省し、かつ、日本をより良く変えたいという願いと共に謝罪の思いを、私自身の今日の再出発に据えていく所存です。

 半世紀以上も前になりますが、世界も日本も高揚の中で、反戦平和を訴える時代がありました。ベトナム反戦の闘い、チェ・ゲバラの訴えに心動かされ、また大学の学費値上げ反対闘争に私は進んで参加しました。そして、闘いの攻防の中でのいきづまりを武装闘争によって活路を求めようとした赤軍派に私も加わりました。赤軍派は、闘い、失敗を重ね、弾圧の中で、うまく闘うことが出来ませんでした。「武装闘争路線」が間違っていたからです。でも当時はそう考えませんでした。出所を前にして、厄介なポリープが発見され、出所後の専門医による治療が必要になってしまいました。社会に戻り、市民の一人として、過去の教訓を胸に微力ながら何か貢献したいという思いはありますが、能力的にも肉体的にも私に出来ることは、ありません。まずもって、治療とリハビリに専念する中で、世界・日本の現実を学び「新しい生活様式」を身につけたいと思っています。そして、求められれば、時代の証言者の一人として、反省や総括などを伝えることを自らの役割として応えていくつもりです。
「過ちはありつつも、世の中をよりよく変えたいという願い通りに生きてこられたことをありがたいと思っております」
「獄中で20年以上過ごしている間に世界も大きく変わりました」

【国際手配されている日本赤軍メンバー】
岡本公三 74 1972年のイスラエルの空港乱射事件
松田久 73 1988年偽造入国カード使用 クアラルンプール事件の超法規的措置で釈放
坂東国男 75 1972年あさま山荘事件、1977年ダッカ事件 クアラルンプール事件の超法規的措置で釈放
佐々木則夫 73 1974年三菱重工爆破事件、1977年ダッカ事件 クアラルンプール事件の超法規的措置で釈放
奥平純三 73 1974年ハーグ事件、1975年クアラルンプール事件 ダッカ事件の超法規的措置で釈放
大道寺あや子 73 1974年三菱重工爆破事件 ダッカ事件の超法規的措置で釈放
仁平映 76 1976年東京都台東区の殺人事件 ダッカ事件の超法規的措置で釈放

日本赤軍参考資料】

もくじ


 千坂 恭二、2019.7.1日」。
 四元義隆といえば井上日召の血盟団の一員であり、戦後は政界の黒幕にして歴代総理の影の指南役としても知られていた。その四元の同郷の同士に重信末夫がいた。日本赤軍のリーダーの重信房子の父親だ。彼は日本赤軍リーダーとしての娘の活動を信じ、重信末夫の同士だった四元義隆は、重信房子を捕えた権力や警察に対して、きちんと戦士として処遇せよと言ったらしい。重信末夫は、重信房子や日本赤軍は、思想は左翼だが、精神は右翼と見ていた。それを聞いた左翼の者は驚愕したらしいし、右翼は怪訝に思うかもしれない。しかし、案外、重信末夫の直観は的外れでないかもしれない。戦後に育ち、極左とされた日本赤軍は自決をしている。これだけでもつまらぬ右翼より右翼的だ。

 革命運動の最前線には、何処の国でも左右の捻れがある。日本赤軍に右翼の要素があるならば北一輝には左翼の要素がある。三島由紀夫が東大全共闘に、一言、天皇と言ってくれればと言ったことは知られている。左右の捻れは枚挙に暇がない。そしてこの捻れが分からない者には革命の現場のリアリティが分からないだろう。また、それとは別に日本において革命について考える場合、北一輝と日本赤軍は、看過出来ない問題やテーマを持っていよう。そしていうまでもなく、これが分からないのは権力追従的な右の保守や口先だけの右翼と反革命的な左の社民左翼やリベラルあたりか。




(私論.私見)