第二次ブント考


 (最新見直し2015.08.20日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、東京ブントについて考察しておくことにする。史実的には東京ブントと云う名はないが、関西ブントとの対比的な意味で東京ブントとして位置づけ確認しておくことにする。

 2010.05.10日 れんだいこ拝


【吉本氏の第二次ブント擁護論】
 第二次ブント結成の潮流につき、吉本氏が、「SECT6について」(「詩的乾坤」所収)で次のように記している。ブント解体後の左翼思想の混迷と頽廃の様子が描かれていて興味深い。その前半部分は次の通り。
 「60年安保闘争の終息のあと、真向うから襲ってきたのは、政治運動の退潮と解体と変質の過程であった。この闘争を主導的に闘った共産主義者同盟は、この退潮の過程で、分裂をはじめ、分裂闘争の進行してゆくなかで、その主要な部分は、革共同に転身し吸収されていった。この間の理論的な対立と分岐点については、あまり詳かではないし、ほとんど、わたしなどの関心の外にあったといつてよい。ただ、あれよ、あれよというあいだに、指導部の革共同への転身がおこなわれたという印象だけが、鮮やかに残っている。 この間に、指導部からいわば置き去りにされた学生大衆組織としての社会主義学生同盟にはいくつかの再建の動きがあり、まことにおっくうな身体で、それらの会合に附き合ったことを記憶している。 わたしのかんがえ方では、社会的には楽天的な評価が横行しているのに、主体的には、ほとんど崩壊にさらされている学生大衆組織に、もし内在的な逆転の契機があるならば、<嘘を真に>としてでも、社会的評価とのバランスがとれるまで、支えるべきであるとおもわれた。しかし、これは甘い、ほとんど不可能に近いものであることをいやおうなしに思い知らされた。安保闘争に全身でかかわった学生大衆は、この間に上部との脈絡を絶たれて、ほとんどなす術を知らず、指導部と同じくマルクス主義学生同盟に移行する部分と、個にまで解体してゆく部分と、共産党の下部組織に融著してゆく部分とにわかれた。こういう外部的な表現は、あまり意味をなさないかもしれない。別の云い方をすれば、指導部の転身と分裂によって方途を失った社会主義学生同盟は、政治過程の遙か下方にある暗黒の帯域で、それぞれの暗中模索の過程に入つたというべきなのかもしれない。

 当時、共産主義者同盟の同伴者というように公然とみなされていたのは、たぶん清水幾太郎とわたしではなかったかと推測される。わたしは、組織的な責任も明白にせずに、革共同に転身し、吸収されてゆくかれらの指導部に、甚だ面白からぬ感情を抱いていた。おまけに、同伴者とみなされて上半身は<もの書き>として処遇されていたわたしには、被害感覚もふくめて、ジャ―ナリズムの上での攻撃が集中されてきたため、この面白からぬ感情は、いわば増幅される一方であった。 公開された攻撃を引きうけるべきものは、もちろん革共同に転身したかれらの指導部でなければならない。しかし、かれらは逆に攻撃するものとして登場してきたのである。内心では、これほど馬鹿らしい話はないとおもいながら、それを口に出す余裕もなく、まったくの不信感に打ち砕かれそうになりながら、ただ、言葉だけの反撃にすぎない空しい反撃を繰返した。 この過程で、わたしは、頼るな、何でも自分でやれ、自分ができないことは、他者にまたできないと思い定めよ、という者え方を少しずつ形成していったとおもう。

 わたしは、もっとも激烈な組織的攻撃を集中した革命的共産主義者同盟(黒田寛一議長)と、かれらの批判に屈して、無責任にも下部組織を放置して雪崩れ込んだ、共産主義者同盟の指導部(名前を挙げて象徴させると森茂、清水丈夫、唐牛健太郎、陶山健一、北小路敏、等)を、絶対に許せぬとして応戦した。おなじように、構造改革派系統からは香内三郎などを筆頭とし、文学の分野では、「新日本文学会」によって組織的な攻撃が、集中された。名前を挙げて象徴させれば、野間宏、武井昭夫、花田清輝などである。わたしは、これに対しても激しく応戦した。ことに花田清輝は、某商業新聞紙上で、わたしの名前を挙げずに、わたしをスパイと呼んだ。わたしが、この男を絶対に許さないと心に定めたのは、このときからである。それとともに、対立者をスパイ呼ばわりして葬ろうとするロシア・マルクス主義の習性を、わたしは絶対に信用しまいということも心に決めた。わたしは、それ以来、スパイ談義に花を咲かす文学者と政治運動家を心の底から軽蔑することにしている。

 後に、香山健一(現、未来学者)、竹内芳郎などが、わたしを「右翼と交わっている」と宣伝し、ことに竹内芳郎は雑誌『新日本文学』に麗々しく「公開状」なるものを書いた。わたしは、この連中が、どういうことを指そうとしているかが、直ぐに判ったが、同時にそれが虚像であることも知っていたので、ただ嘲笑するばかりであった。もっとも「新日本文学会」が竹内芳郎の「公開状」の内容に組織的責任を持つならば、公開論争などをとび越して、ブルジョワ法廷で、竹内芳郎および「新日本文学会」を告訴し、その正体を暴露してもいいと考えて注目していた。しかし「新日本文学会」は、その後の号の雑誌で、小林祥一郎署名で責任を回避した。わたしは竹内芳郎というホン訳文士などを相手にする気がないのですっかり調子抜けしてそのままになった。わたしは、たとえ百万人が評価しても、竹内芳郎や「新日本文学会」などを絶対に認めない。かれらが、いつどういうふうにデマゴギーをふりまくかを知ったので、その後、いっさい信用しないことにしている。これらの多角的に集中された、批難と誣告とは、ただひとつの共通点をもち、また共通の感性的、思想的な根拠をもっている。それは、どんな事態がやってきてもわたしが決して彼等の組織の同伴者などに、絶対にならないだろうということを、彼等が直観し、あるいは認識しているということである。そしてこの直観や認織は当っているといってよかった。そして、またこれこそが、誰れにも頼るなというわたしの安保体験の核心であった。

 ここで、わたしは、いつも衝きあたる問題に衝きあたる。退潮してゆく雪崩れのような<情況>の力は、ほとんど不可避的ともいうべき圧倒的な強さをもっているということであを。この退潮を防ぎとめる術がないという意味は、かつてわたしが戦争責任のようなものを提起したときに認識していたよりも、はるかに根底の深いもののようにおもわれる。抗することの不可能さといつてもよいくらいである。<情況>雪崩れに抗するということは、もちろんみせかけの言辞や、政治行動のラヂカルさということとはちがう。また、身を外らしてしまうことともちがう。比喩的な云い方をすれば、科学的な技術の発達が、政治体制の異同や権力の異同によって、抑しとどめることができない、というのと似ている。なぜそうなのか。それは、科学技術を支えている基礎的な推力が<そこに未知のことがあるから探求するのだ>といった内在的な無償性に支えられているように、<情況>の本質もまた、<そこに状況があるからそうなるのだ>という、自然的必然に根ざした面をもっているからである。個々人の<情況>についての意志の総和が、<情況>の物質力として具現する、という考え方は、たぶんちがっている。そして<情況>に抗うことの困難さ、不可避さということだけが、あとにのこされる。
(中略)

 おなじような<情況>のもとで、安保体験を経た中大杜学同のグループを中心に、「Sect6」を機関紙に、社学同再建の動きがはじめられた。わたしは、その内部的な動きを知らないし、組織化がどのように進められ、どのように展開されたかも知らない。むしろ、その意味では「Sect6」に結集した中大社学同グル―プとは私的に付き合っていたという方がよいかもしれない。この中心グループは、政治的には、谷川雁と大正行動隊の労働者の自立的な政治運動への越境から、多大の影響を受けたのではないかと推察する。わたしは、いくらか労働者の運動の実体を、それ以前に知っていたので、大正行動隊の活動に、それほど過大な実効性を認めていなかった。「Sect6」の中心グル―プが、大正行動隊と接触し連帯する志向性を示したとき、私的にはむしろわたしは、止め役だったとおもう。わたしの止め役の理由は、<労働者から学ぶものは、じぶんも労働者になるという位相以外のところでは、なにもない>ということであった。もちろん、わたしの<私語>は、「Sect6」の中心グループには通じなかったのではなかろうか。現在、残されている機関紙「Sect6」を読めば直ぐに判るが、このグループの政治意識には、わが国の左翼的な常識にくらべて、開明的なところがみられる。それとともに問題提起の仕方に学生運動を独自的な大衆運動として固有にとらえようとする態度が、かなり明確に打ち出されている。この態度は、学生運動を、政治党派の<学生部>の運動とみなしてきた既成の概念と、枠組が異なっているということができる。このことが組織体として有利に作用したかどうかは、まったくわからない。ただ萌芽としては、その後にジグザグのコ―スをとりながら行われた60年代の学生運動の問題意識は、ほとんどこのグル―プの問題意識のなかに含まれているといってよい
」。

 「No119 「週刊読売臨時増刊号」各党派インタビュー 社学同編」を転載しておく。

  No109で1969年11月13日号の「週刊読売」臨時増刊号について紹介したが、その中の各党派代表者へのインタビューを、党派ごとに抜粋して紹介する。第2回目は社学同。明大は社学同の拠点校だったので、党派の中では一番なじみがある。

 週刊読売 1969.11.13臨時増刊号
 【70年安保から世界革命戦争へ】(引用)
 『社会主義学生同盟(社学同)全国委員会 中島 弘(中央大)
 (インタビューではなく編集部への文書回答です。)

 <70年安保について 闘争方針(方法・戦術)>

 世界革命戦争を切り開く武装中央権力闘争―戦略的マッセン・ストライキを基軸とする。武装戦略拠点構築→市街戦形態を推進し、正規軍建設を目指してゲリラとカンパニア闘争を結合し、政治的危機創出・永続的革命戦争の開始。(中略)

 <安保前衝戦としてのこの闘争の評価>

 11月は安保前衝戦ではない。なにか70年6月が決戦なのではないかという人たちがいるということを聞くが、国会をめぐる政治流動―安保という条約をどうするのかという机上の論議を並びたてることは空文句である。安保は日米両帝国主義の反革命同盟であり、その実体(米軍―自衛隊)の解体が直接的課題となる。今秋は、安保決戦として位置づけられる。

 <沖縄について>

 沖縄問題は、本質的に領土問題ではないということが、明確されなければならない。したがって沖縄領土の返還要求運動(社・共)は、日本帝国主義の沖縄戦略を補完する反革命的な役割をしている。沖縄問題の本質は、なしくずしファシズムー安保再編―侵略反革命戦争への日帝の侵略反革命前線基地化として把握されねばならない。政府自身も沖縄問題を安保の重要な一環として位置づけていることだけでも、それが一般的な領土問題でないことの証左である。(中略)

 <70年安保をめぐる統一戦線に関して>

 一党では革命をなしとげることはできない。プロレタリア権力機関―ソビエトを展望する統一戦線として、当面六派―七派の反帝統一戦線を形成する。しかし、それは諸党派の大衆運動における共同行動のための戦術的統一戦線から、世界革命戦争勝利を基準にした戦略的統一戦線への再編を推進しなければならない。それを日本共産主義者党協議会として創出する。権力闘争―党派闘争の基準を明確にし、党派闘争(内ゲバ)多発的今日的状況を止揚するのは、統一戦線の戦略的革命論的意味を認識しえない党派のプラグマティズムによるものである。

 <統一戦線指揮系統のできる可能性はあるか>

 現在の六派―八派統一戦線は分解を余儀なくされるだろう。質的に飛躍した統一戦線の創出と、その運動、前衛領域における統合を実現しなければならない。

 <ノンセクト・ラジカルをどう評価するか>

 ノンセクト・ラジカルの形成は、党派の弱さの表現であると同時に、統一戦線の破産の結果である。ノンセクト・ラジカルを統合する媒介として、統一戦線の強化・党の純化・階級形成を図らなければならない。また、ここで赤軍の問題について触れておく。赤軍とわれわれとを分けたものは歴史的認識の相違(時期の問題)であるが、その後の情勢の急速な変化によって、赤軍の行動はある面で認めざるを得ないところに来た。われわれ八派連合でも、赤軍の統一戦線への参加を確認している。(中略)

 <学園闘争と政治闘争との関係について>

 帝国主義の対外侵略の時代は、同時に経済闘争を激成させるものである。個々の大学の個別的な矛盾として見られる問題も、帝国主義のなしくずしファシズムの個別表現以外のなにものでもない。個別学園闘争は、全人民的政治闘争に飛躍させられなければならない。全人民的政治闘争の質をもった指導が行なわれなければならない。問題を個別のわくに押しとどめ、反大学解放運動や、大学コミューンを夢想するごときはサンジカリズム、ドン・キホーテである。帝国主義の打倒―革命戦争の一環として社会革命的質をもった多様な運動、組織形態が考えられるべきである。ブルジョア大学―反大学という個別主義は、運動の現実が乗り越えている。個別大学の自足した解放などありえず、革命戦争の根拠地にこそしなければならないのである。


 戦旗派コレクション」の「戦旗派とは──共産同(戦旗派)および戦旗・共産同について」を転載しておく。
 トップページで記したように、このサイトでいう「戦旗派」とは、1970年代から1990年代にかけて「共産主義者同盟(戦旗派)」および「戦旗・共産主義者同盟」という呼称で活動した新左翼の一団体をさします。歴史上では、1920年代のプロレタリア文学運動における『戦旗』派や、1960年安保闘争をたたかった第一次ブント分裂時の「戦旗派」などもありますが、それらとは関係ありません。1966年に再建された共産主義者同盟(第二次ブント)と社会主義学生同盟全国委員会が、1970年安保・沖縄闘争を前後して分裂していく過程で、共産主義者同盟の一分派という意味で「共産主義者同盟(戦旗派)」を名のった、その一派の歴史を、写真を通して記録しようというのがこのサイトの趣旨です。

 さて、上記のごとく、戦旗派という呼称は、それだけでは対象を特定しにくい煩らわしさ・紛らわしさを伴っています。1970年前後の第二次ブント分裂時には、赤軍派に対する「戦旗派」、叛旗・情況派に対する「戦旗派」という呼び方もありました。共産主義者同盟の機関紙が『戦旗』だったので、分派に対する「中央派」ないし「書記局派」の仮称ともなったようです。
 ともあれ、呼称問題はこの程度にして、このページでは、1970年~1990年のいくつかの結節点に絞って、写真では表現しえない戦旗派の歴史を注記しておきます(人名:敬称略、主に筆名。派名は自称・俗称混淆)。
 第二次ブントの1970年分裂と「戦旗派」
 1973年 「戦旗派」の分裂
 1980年 戦旗・共産主義者同盟への改称
 【メモ】「ブント」と「ブンド」

 第二次ブントの1970年分裂と「戦旗派」

 1969.7.6赤軍分派後の第二次ブントは、もともと強力な主流派を欠いていたこともあって諸グループや地方での独自化や合従連衡のような状態がいっそう進みました【革共同中核派や革マル派、社青同解放派などは、比較的強力な主流派が存在していたのかも知れません。ML派や構造改革系も、強力な主流派が不在の場合は分裂・消滅の道を歩みました】。

 1969年1月の東大安田講堂攻防戦や4.28以降の安保・沖縄闘争で学対・社学同中枢部が相次いで投獄され、さらに残る学生の半数ほどが赤軍派にいき、学生・高校生組織は混乱の極致となります。そんな中で、さほどの動揺もなく、図らずも首都圏での主流派的位置に付いてしまったのが中大ブント系の叛旗派でしょう。逼塞していた明大独立社学同系の情況派も、明大の左派部分が大方いなくなってしまったので生気復活。関西では、関西上京組を中心とした赤軍派以外の残留学生は赤ヘルノンセクト化し、大阪中電などの労働者組織を中心とした「関西ブント」へと回帰しつつありました。佐々木書記長やそのほかの東京残存学対などの努力にもかかわらず、1969年秋期安保決戦は不完全燃焼におわり、出獄した藤本敏夫(反帝全学連委員長)なども離脱していく、といった苦境のなかで1970年を迎えることになります。

 1970年初め頃の第二次ブントは、中央機関紙の『戦旗』とは別に、地方・府県・地区委員会などの機関誌が数多く発行され、それが各グループの結集軸となっていました。その後数年の分岐や行方も含めて大雑把にあげると、
  『戦旗』『共産主義』 共産主義者同盟発行(第一次ブントの機関紙誌名を継承)。1969-70年頃の『戦旗』編集発行人は佐々木和雄・野田晋らで、中央の書記局・編集局が諸派を調整。総武線水道橋駅近く(千代田区三崎町2-7-6)滝沢ビル地下1階にあった事務所(戦旗社)が各派の争奪対象になったことも。

 『叛旗』 東京・三多摩地区委員会(1968/11創刊)。三上治・神津陽(中大ブント)ら→1970年6月、叛旗派結成(6月11日、東京池袋の豊島公会堂で開かれた共産同政治集会のさなか、叛旗・情況連合が戦旗派連合にゲバルトを仕掛け、分裂確定)。青山学院大学初め首都圏や全国の学生の中にシンパ層は多かった→1975年三上退派→1976年末自主解散。【9.16東峰十字路戦被告らの救援などを目的として発足したと思われる「旧叛旗派互助会」は、神津らを中心に今も存続】

 『鉄の戦線』 東京・南部地区委員会。8回大会議長・仏徳二(さらぎ とくじ)ら。南部地区や専修大社学同、医学連の学生など→1970.12.18「蜂起戦争派」→「鉄の戦線」派→蜂起派(機関紙『蜂起』、共産主義者同盟発行)と蜂起左派(佐藤秋雄ら→共産同プロレタリア通信編集委員会)などに分岐。【→1998年頃、仏徳二離脱、機関紙を『赤星』に変更→2009年3月、槙渡&赤井隆樹(共産同蜂起派)らが、畑中文治(情況派系流の共産同首都圏委)、旭凡太郎(神奈川左派→共産同プロレタリア通信編集委員会)らとともに「共産主義者協議会」(機関紙『赤いプロレタリア』)を結成】

 『左派』 神奈川県委員会(1970/1創刊)。旭凡太郎(関西上京組・7回大会政治局員)ら→1970.12.18「蜂起戦争派」→(神奈川)「左派」派。【→その後、共産同プロレタリア通信編集委員会(「豊島グループ」。消息通によれば、蜂起左派と赤報派少数派が合流)→2009年、上記「共産主義者協議会」】

 『烽火』 関西地方委員会(1970/8再刊1)→1970.12.18「蜂起戦争派」→「烽火」派→共産主義者同盟全国委員会(烽火派)と、榎原均ら「赤報」派=共産主義者同盟(RG)などに分岐。【→2004年、全国委派は戦旗西田派と組織合同、共産主義者同盟(統一委員会)を名乗る】

 ※RGはドイツ語Rote Gewalt(ローテ・ゲヴァルト。直訳「赤い威力」「赤い暴力」。意訳「共産主義突撃隊」)の略でエルゲーと読む。もともとは、一向健(関西上京組・7回大会政治局員、塩見孝也赤軍派議長)らの発案。1969.4.28沖縄闘争で前夜から御茶の水のMD(東京医科歯科大)を武装占拠し、機動隊の壁を破って秋葉原駅→首都中枢へ突撃した社学同ほかの部隊に名付けられた。その後、一向健らはより軍事色の強い「赤軍」建設へと向かい、他方、赤軍派分裂後のブントでは1969年秋期安保・沖縄決戦にむけて、叛旗・情況系をのぞく各派が少数精鋭軍の意味合いを持たせて「RG」を組織した。のち、榎原均らが烽火=関西派からの分裂にさいして、自派名に利用。

 ※蜂起戦争派は、1971.4.28沖縄デーのさい、東京・清水谷公園で共同集会を持った12.18連合ブント(神奈川左派・関西地方委派・さらぎ派の三派)、共産同赤軍派、京浜安保共闘や、赤ヘル系ノンセクトの同志社大学全学闘・京都大学C戦線などの共同戦線の自称で、分派的名称では必ずしもない[さらぎ派は集会参加せずデモのみ合流?]。日比谷公園西幸門口で戦旗派と激突(→1971年参照)したのは、組織としては12.18連合ブントのみだった。

 『理論戦線』 社会主義学生同盟→共産主義青年同盟理論機関誌。野田晋(「戦旗」編集局長)、日向翔(社学同委員長)、伊勢洋(学対)、城山徹(同)、村中泰、赤井文人、西田輝ら、のちの戦旗派を形成する主要メンバーが執筆。「理論戦線派」という他称はこの機関誌名から。

 なお、情況派(明大独立社学同→6回大会議長・松本礼二、同学対・古賀暹ら)は1970年6月の分裂後、機関紙『ローテ』(共産主義者同盟再建準備委員会)を発行。【のち、松本礼二は『遠方から』を発行。古賀暹は1990年、廣松渉と共に第2期『情況』創刊。情況派系は遊撃派→革命の旗派→赫旗派などの変遷を経て、系流の一派=首都圏委員会が2009年、上記「共産主義者協議会」を結成】

 これら以外に、B4サイズの藁半紙にガリ版刷り・ホチキス綴じの「機関誌紙」も数多く出されており、そのなかで、のちの戦旗派の結集軸となったのが、『赤きテキサス』 東京・西部地区反帝戦線発行。これは、1969年秋「安保・沖縄決戦」後の首都圏の学生・高校生組織の一部と東大闘争保釈組などとが結合した「妖雲亭」フラクションによる発行で、主要論文はのちに『理論戦線』に収録されました。関西・中央の諸グループに距離を置く、九州・北海道・愛知などの諸組織もこれに連携して「連合党から単一の中央集権党」をめざす潮流が形成され、新たに作られた「青学組織委員会」がその結集軸となります。そして1970年6月叛旗・情況派、12月「12.18連合ブント」(蜂起戦争派系三派=関西地方委派・鉄の戦線派・神奈川「左派」派)との分裂を経て、1971年4.28日比谷公園での会戦勝利後、戦旗派は「分派闘争の止揚と対権力闘争への転換」を宣言し、ブントの一分派という意味で共産主義者同盟(戦旗派)と称したのでした。

 しかし、それによって分派間や諸派との武力衝突(ゲバルト)が解消したかといえば、否。これ以降、沖縄返還をめぐる数々の対権力闘争を展開していく一方で、1970年前半の赤軍派やML派(ブントの流れを汲む毛沢東派「マルクス・レーニン主義者同盟」、1970年6月以降分裂・消滅)、後半~71年4.28までの叛旗派、4.28以降の蜂起戦争派系諸派や情況派、さらにノンセクト(明治大学新聞会=MUP共闘など)とのゲバルトが1973年初頭まで断続していきます(MUP共闘襲撃および「破防法裁判闘争を支える会」K氏への襲撃は後に『戦旗』紙上で自己批判)。その過程で、戦旗派には内部分裂の芽も生まれていたのでした。

 1973年「戦旗派」の分裂

 1973年6月、神奈川県下▽▽ランドで開催された第12回中央委員会で共産主義者同盟(戦旗派)は事実上分裂します(10月確定)。1970年初頭、「妖雲亭」フラクション以来の戦旗派第一期建設はここに頓挫し、再出発を迫られたのです。組織の在り方や武装闘争・路線問題を巡る対立点や弁明は、その後、各派から表明されました。その内容は煩瑣な上、当時の中央委員らの動きのいちいちを知る由もなく、加えてここは正統を云々する場でもないので、外形的に俯瞰しておくことにします。
 ちなみに、この時期の組織は、大会─(拡大)中央委員会─(常任)中央委員会のもとに、各地方・地区委員会が運営されており、「第○回」と付される(拡大)中央委員会は、常任の中央委員と地方・地区の代表によって構成され、同盟員大会が開かれていない当時は最高の決定機関となっていました。

 時系列的にふり返ると、1972年末には渋谷グループ(→国際主義派)が、1973年3月には「足立商会」グループ(西田・大下・城山→西田・大下派と城山派に分岐。足立商会はこのグループが構えた事務所の仮名)が形成されます。西田らによれば、これは1972年夏以降の「日向中央派による分派的組織運営への対抗」とされていますが、日向らによれば「西田らがそれぞれの担当地区・地方を囲い込み、Nc の官僚的運営に対する反発をも利用して分派を形成した」ということになります。
 また、各分派の勢力概要を図式化すると、以下の通り(地区などは多数派を分類、少数は不記。重複はほぼ二分の場合。★は概数比。各派名称は発行機関紙誌名に「派」を付けた)。

 戦旗派(日向他) 東京西部、埼玉、神奈川、愛知、中国(鳥取) ★★★★★★★★
 戦旗派(西田他) 東京中北部・南部・東部、神奈川、中国(山口)、九州、沖縄、三里塚現闘団、部落解放戦線 ★★★★★★★★★★★
 プロレタリア戦旗派(城山他)  北海道 ★★★★
 国際主義派  首都圏の学生・労働者の一部 ★

 1973年分裂で特記すべきことは、内ゲバ(武力衝突)へと至らなかったことでしょう。その後、殴り合いなどが皆無だったとは言えませんが、互いに他派の武力的消滅・物理的解体を目的化することはありませんでした。1970年前後から激烈化・常態化していた新左翼内部の内ゲバへののめり込みを回避すべく舵を切ったこと──、戦旗派的にはMUP共闘襲撃への自己批判など、独断的セクト主義・内ゲバ主義的偏向への反省の具体化として、その後の経緯のなかで積極的に評価しています。ま、それはその通りだが、ちょっと格好良すぎるか? 喪った仲間、そして苦楽を共にした仲間が、分裂に至る過程やその前後に相次いで戦旗派を去っていった……。もともとベトナム反戦や安保・沖縄問題、学園闘争などを契機にブントに結集した戦旗派活動家の精神は、諸派・ノンセクトとの内ゲバやあいつぐ組織の分裂で消耗・疲弊しきっており、もはや権力とたたかう以外の気力も部隊も残ってはいなかったし、内ゲバ無しなら活動を続けようと考えた者も多かったはずです(それによって傷が癒えることはないとしても)。そして、1974年7.7「血債・猛省」をかかげた政治集会で再出発を決意し、狭山差別裁判糾弾闘争、反天皇闘争、三里塚現闘団の再建など、多くの人々に学び・支えられ・鍛え直しながらの戦いに向かっていったのでした。なお、この過程で、戦旗派は機関紙『戦旗』の自力印刷発行体制を整備していきます。当初は和文タイプ、やがて写真植字機を導入し、印刷機を備え、B4判のホチキス綴じという時代がしばらく続きます。それがようやく新聞の体裁(タブロイド判)となるのは、戦旗・共産主義者同盟への名称変更後の1980年暮れもおしつまった頃でした(1981年新年号)。

 最後に、1973年分裂諸派のその後を簡単に記しておきます。

 戦旗派 共産主義者同盟(戦旗派)→1980年「戦旗・共産主義者同盟」に改称→1993年「共産主義者同盟」→1997年「ブント」(革命戦略としての共産主義を放棄)→2008年「アクティオ・ネットワーク」(平和・環境団体へ変貌【共産主義者同盟&ブントの解消】)
 戦旗派 共産主義者同盟戦旗派【戦旗派にカッコ( )が付いていなかった、かな?】→2004年、共産主義者同盟 (全国委員会)=烽火派と統合し、「共産主義者同盟 (統一委員会)」を名のる。機関紙は『戦旗』に統合。
 プロレタリア戦旗派 プロレタリア戦旗編集委員会・共産主義者同盟(戦旗派)北海道地方委員会→1976年「北海道共産主義者同盟」→
 国際主義派 「国際主義」編集委員会→日本共産党(行動派)→

 1980年 戦旗・共産主義者同盟へ改称

 名前って重要だなぁ。現在のアクティオ代表もどこかでそんなことを言ってたっけ。時代・路線・人的要素などなどを無視するな! と怒られるかもしれませんが、戦旗派が組織的飛躍を遂げたのが、「戦旗・共産主義者同盟」と改称した1980年代に入ってからであったことは紛れもない事実でした。

 1973年分裂時、「足立商会」グループ(戦旗西田派)の後塵を拝していた戦旗派が、1974年7.7集会を機に再出発し、1975-76年頃には組織的にやや上回る勢力に回復していたとはいうものの、分裂から7年経てもなお二つの「戦旗派」と二つの『戦旗』が存在する状況は、双方にとってどうだったのか。三里塚集会などでは両派とも赤いヘルメット、旗も横断幕も戦旗派、せいぜいゼッケンが多少違うだけだから大変紛らわしい。結集したてのメンバーなどは当然のごとく混乱せざるをえなかったでしょう。

 しかし、名称=正統派争いとすれば、相手に改名を迫ったところでどうなるものでもない道理、選択肢は自ら改名することしかないのは世の習い。とはいうものの、「アクティオ」のように内容がまるっきり変わってしまうのと違って、基本は継承なので「戦旗」も「共産主義者同盟」も棄てがたい。浮かんでは消える名前案(というより迷案)……、あれこれ議論の末、「戦旗・共産主義者同盟」への改称案が採択されました。

 時に1980年1月(だったと思います)、都区内で開催された第1回同盟員総会でのこと。「戦旗」と「共産主義者同盟」のつなぎを「・」(ナカグロ)にするか、「-」(ハイフン)にするか、などという、決まってしまえば瑣末となるような問題もまっこと真剣に議論されたのでした。名称変更とともに新規約も採択し、組織や路線・政策の基本なども決定しました。ブント系の一分派とか、二つある戦旗の片割れというような、いわば呪縛から解き放たれたかのように、これ以降、戦旗・共産同の飛躍的伸張が始まります。同年6月には社会主義学生同盟を再建し、1980年韓国・光州民衆蜂起連帯の安保・日韓闘争、1983年反対同盟の分裂を前後しながらの三里塚二期阻止闘争、反天皇制闘争などをめぐるゲリラ・パルチザン戦闘と連携した大衆的実力闘争を展開しつつ、機関紙『戦旗』のタブロイド判化→ブランケット判化や本部ビル建設など、組織的にも大きく前進していきます。

 この同盟員総会は事実上、戦旗・共産主義者同盟の大会に相当します。なのに、なぜ大会ではなく総会なのか? 「大会は共産主義者同盟の再建大会=10回大会でなければならない」(第二次ブントの大会は、再建の6回大会~1969年9回大会までなので、次は10回大会)という意識が多少ともあったためでしょう【かつて、理論機関誌名をブント機関誌の『共産主義』とせず、自分たちの出自たる社学同全国委の『理論戦線』としたのも同様】。もっともそれは、「第2次ブント系諸派・個人の大結集による再建」ではなく、戦旗・共産同自身の党派的伸張を基盤にして、というのが共通認識でした。第2次ブント系の諸派・個人の一部には、こうした考えを指して「日向革マル主義」などとする批判もあるようです。第2次ブント総括の視点や状況認識の違いのしからしむるところでしょう。1980年代を通じて、ブント系諸派のなかには、野合的な離合集散を繰り返しながら「党派」を名のる人たちがいたことも確かです。しかし、野合して「党」を名のったりせず、異なる綱領・規約を有した党派が共通の課題を前に結成する統一戦線という形態をとっていれば、各々の系譜はもう少しスッキリ理解しやすいものとなったのではないか、などという老婆心はいらぬお世話。
 10数年後の1993年8月、北海道で開催された同盟員総会での「共産主義者同盟」への改称が、戦旗派自身の変容への最初の小さな舵切りになろうとは、もちろんその当時は知る由もなかった……。

 【メモ】 「ブント」と「ブンド」(Bundの読みについて)

 共産主義者同盟の略称「ブント」は、もともとドイツ語「Bund」(=同盟)の音読みをカタカナ表記したもの。 ドイツ語で「党」はParteiと表記し「パルタイ」と読む。1950年代、日本左翼のなかでパルタイといえば日本共産党を指した。第一次ブントが、パルタイ(党)への対蹠として「ブント」(同盟)という呼び方を通称として用いたのは、マルクス・エンゲルスが1847年、それまであった亡命者組織を改組して結成した「共産主義者同盟」(der Bund der Kommunisten)の原点と当時の日本新左翼運動をつなごうとする思惑があったと思われる【なお、英語ではCommunist Leagueと訳される】。ところが、日本の新左翼関係者などに、Bundを「ブンド」と読む人が時々いるのはなぜだろう? Bundをローマ字風に読んだ(「d」→「ド」)のか、あるいは「ブント」だと語調が弱いと思った(最後の「ト」を「ド」にすると力強い?)のか、それとも(後述の)レーニン『なになす』好きが昂じて「ブンド」読みとなったのか、ブントの連合党的性格をレーニンが批判した「ユダヤ人ブンド」になぞらえて批判的蔑称としようとしたのか? さらには、単なる外来語取込における日本的な曖昧さのなせる業であるのか???(そういえば、国名自体、ニホンとニッポンが共存している) 他に、Wikipediaによれば、イディッシュ語では「bund」を「ブンド」と発音するそうで、たしかにロシアの革命家・レーニン『なにをなすべきか?』の邦訳などに「ユダヤ人ブンド」と日本語表記される組織(ロシア社会民主労働党の結成に参加したユダヤ系労働者の組織)が批判対象として登場するけれど、まさか、日本の左翼関係者がBundという表記に限ってイディッシュ語読みを意図的に選択しているとも思えない、なんとも不思議なことである。
 ともあれ、しかし、今まで「ブンド」と発音・表記してきた方がもしいらっしゃったら、これからは「ブント」と呼んでくださるようお願いします。

 1971年 「共産主義者同盟(戦旗派)」を名のる

 1971.4.28 日比谷公園 西幸門付近

 【メモ】 この頃の分派闘争の一形態が、統一集会への他派の登場を阻止することだった【1970年分裂については「戦旗派」とは参照】。1970年6月、豊島公会堂で開かれた共産同政治集会で、登壇・演説中の三上治の合図で開始された叛旗・情況派の戦旗派へのゲバルトとそれへの反撃→撃退以降、叛旗派との旗竿部隊による勝負は、1971.4.28まで主なもので十数番に及び、戦旗派の完勝に終わった。この写真は、こうした分派闘争の頂点とも言える1971.4.28の一齣。清水谷公園で赤軍派や赤ヘルノンセクトと「蜂起戦争派」共同集会をもち、その勢いで戦旗派を圧倒して分派闘争に決着を付けようとする「12.18ブント」(鉄の戦線派・左派派・関西烽火派)を、日比谷公園西幸門口(日比谷図書館<右上>前)で待ち構える戦旗派の鉄マスク・旗竿部隊。結局、赤軍派や赤ヘルノンセクトらは戦旗派との対決には加わらず、組織としては「12.18野合ブント」と戦旗派との激突となり、しばし持久の後、野合ブントは敗走した。叛旗派はこの日、12.18ブントとの連携による戦旗派挟み撃ちを潔しとせず、野合ブントの敗退と、戦旗派部隊の態勢立て直しを待って(カッコいい!?)一戦に及んだが、勝利の勢いに乗る戦旗派の反撃にもろくも潰走。これが大衆集会場での最後の一戦となった。

 1971 日本反帝戦線総決起集会

 【メモ】 反帝は「反・帝国主義」の略。「日本反帝戦線」は、1960年代後半の学生・労働者の組織形態であった全学連・労働組合/全共闘・反戦青年委員会という形態に対して、その区別を越えた戦闘組織をめざして1970年初めに準備され、叛旗派分裂後の7月、正式に結成された。反帝戦線(AIF=Anti Imperialism Front)の組織的位置づけについては諸説あるが、叛旗派も反帝戦線という名称を継承している。もともと社会主義学生同盟系列の大衆組織として、○○大学反帝戦線・○○大学反帝学生戦線などの名称があったが、その後の経緯を考えると労働者組織としては無理があったと思われる。なお、西田派・共産同(統一委員会)系では、「日本反帝戦線三里塚現闘団」などの名称が今日も存続している模様。

 1971.6.17沖縄返還協定調印阻止闘争 東京渋谷・宮下公園付近

 【メモ】 「♪お~きなわを返せ 奪還!」などと叫んで中核派にぶん殴られた人はいないだろうか? 揶揄は人の感情を逆撫でする。やはり論争は真正面からやるのが礼儀というものだろう。とはいえ、沖縄返還粉砕(戦旗派など)か沖縄奪還(中核派など)かをめぐる論争の激化と情勢の煮詰まりのなかで、1969年9月以来の八派共闘はついに分裂(1971.6.15 明治公園で社青同解放派と革共同中核派がゲバルト)。17日、戦旗派、社青同解放派、フロントなどの沖縄返還粉砕派は宮下公園での集会後、火炎ビン・旗竿で進撃した。この頃の、沖縄人・返還粉砕派の主張の一端がネット上に収録されているので紹介します。
 「我々は、はっきりと断言する。『七二年(沖縄)返還と対決しえない日本人民の運動は、無意味であり、敗北である』と。協定不満派としての復帰後の七二年返還の枠の中での運動に対して、返還粉砕派は、いまだ沖縄問題における一政治潮流としても本土においては登場しえない痛苦な現実をはっきり見なければならない。沖縄問題における復帰=屈服派と、返還粉砕派の分岐を鮮明にさせ、10・21大統一行動を準備する中から、徹底した大衆的討論で全人民に深化・浸透させ、強大な共闘機関をめざしつつ、10・21大統一行動を広汎な結集で闘い抜かねば、今日の主体の危機を突破できないであろう」……沖縄青年委員会(海邦)の呼びかけ文より。

 資料:戦旗派年表 1971年

 2.22 三里塚第一次強制代執行阻止闘争始まる
 4.27 共産同政治集会 東京・南部労政会館
 4.28 沖縄闘争。東京・日比谷公園で野合右派・叛旗派を粉砕
 5.23 『戦旗』266号「階級的暴力の原則的駆使に関する我々の立場」:「我々は内ゲバの止揚を提起する。原則的な大衆闘争の組織化を通じての党派闘争という、本来の領域への我々の闘いの止揚と、敵権力との闘いへの全面突入を訴える」
 5.29 沖縄返還協定調印阻止・外務省突入闘争に反帝戦線5戦士が決起
 5.30 沖縄返還協定調印阻止闘争 明治公園から日比谷公園
 6.17 沖縄返還協定調印阻止闘争 東京渋谷・宮下公園。
 7.16 日本反帝戦線第2回大会(~17日)
 9.16 三里塚第二次強制代執行阻止闘争(~20)
10.14 共産同(戦旗派)政治集会 牛込公会堂
10.21 沖縄返還協定批准阻止闘争 清水谷公園
11.6 戦旗派、社青同解放派、フロントなど沖共闘(沖縄返還粉砕共闘)結成 東京お茶の水・明治大学7号館
11.19 沖縄返還協定批准阻止・抜き打ち強行採決弾劾闘争 東京後楽園・礫川公園

 1972.5.13神田遊撃戦 東京御茶ノ水駅~明治大学前

 資料:戦旗派年表 1972年

 2.6 自衛隊の沖縄派兵阻止全九州総決起集会
 2.19 (連合赤軍、浅間山荘銃撃戦)
 3.13 反帝戦線三戦士、自衛隊西部方面総監部(熊本市)突入戦
 5.13 沖縄返還粉砕!神田武装遊撃戦 駿河台一帯を武装制圧。128名逮捕される
 7.12 日本反帝戦線第3回大会 九州大学学生会館。7.15北熊本現地闘争に向けた決起集会でもあるが、記録上もっとも長寿な台風(昭和47年台風第7号)により、首都圏などから九州へ向かう列車は乱れに乱れ、疲労困憊のなか開催された。大会とは別に、各地区指導部のみ集めて「4人委員会問題」の報告が行われた。後に、「足立商会」グループはこれを「怪文書」と呼ぶ。
 7.15 自衛隊の沖縄派兵阻止!北熊本現地闘争
 8.6 ベトナムに戦車を送るな!米軍相模補給廠前に座り込み。テント村闘争始まる
11.8 革マル派による早大生川口君虐殺。以後、諸派と連携し早稲田解放闘争へ
12月 全国労働者共闘会議の組織化開始

 1973

 1973.10.21国際反戦闘争 東京六本木・桧町公園

 資料:戦旗派年表 1973年

 2.11 ベトナム連帯・紀元節粉砕全国行動
 3.24 労共闘春闘集会 東京渋谷区・幡ヶ谷区民会館
 5.15 沖縄返還1年・侵略反革命体制粉砕闘争 東京・日比谷野外音楽堂
 5.30 早稲田大学解放闘争・対革マル戦つづく。~6.4
 6.15 田中政権打倒闘争 東京・明治公園
 6月 共産同(戦旗派)第12回中央委員会。紛糾し、戦旗派分裂へ。1973年 「戦旗派」の分裂参照
 8.8 金大中氏拉致事件
 9.15 ミッドウェー横須賀母港化阻止闘争 横須賀臨海公園
10.2 韓国・ソウル大学の学生らが朴政権打倒に決起
10.14 タイで学生と軍が衝突、タノム政権崩壊
10.21 国際反戦闘争 桧町公園。戦旗派両派、別行動により分裂公然化

 1974年

 1974.5.15沖縄返還粉砕2周年 総決起集会 東京渋谷・山手教会

 1974.5.23狭山差別裁判糾弾闘争 東京・日比谷公園

 1974.5.30戸村一作世直し大集会 東京・日比谷公会堂

 1974.7.7戦旗派政治集会 東京渋谷区・代々木八幡区民会館

 【メモ】 1970年代、といっても1974年以降だが、戦旗派政治集会といえば代々木八幡区民会館(東京都渋谷区代々木 5丁目 )と決まっていた。定員200人ちょっと、そこに収まりきれない日がやがて来ることを期してのこと、思えば(思わなくとも)少数派左翼であった。新宿駅から小田急線に乗って、代々木八幡駅下車、降りたばかりは大体しまっていることの多い、カンカン鳴る踏切が開くのを待って渡り、徒歩5-6分。同会館の会議室などもあれこれと利用したから、あの道を何度通ったかしれない。その始まりがこの日の集会。基調報告は日向翔。1973年分裂からおよそ1年、苦難の再出発だった。

 1974.818狭山現地調査 埼玉県狭山市

 1974.9.22狭山ハンスト戦 埼玉県狭山市役所前

 1974.9.26狭山差別裁判糾弾闘争 東京・日比谷公園(小公園)

 1974.10.26日韓連帯集会

 1974.10.31狭山差別裁判糾弾闘争 東京・日比谷公園(小公園)

 1974.11.18フォード米大統領来日阻止闘争 東京蒲田・中蒲田公園付近

 1974.12.15 東京渋谷区・代々木区民会館

 資料:戦旗派年表 1974年

 1.8 韓国・朴政権、「大統領緊急措置」発動
 2.3 春闘総決起集会 幡ヶ谷区民会館
 4.3 韓国民青学連事件=緊急措置4号発動、金芝河氏らを逮捕
 5.15 沖縄返還2周年・侵略反革命体制粉砕集会 東京渋谷・山の手教会
 5.30 三里塚世直し集会 東京・日比谷公会堂。三里塚芝山空港反対同盟委員長の戸村一作さんの参院選出馬を支援する集会
 7.7 共産同(戦旗派)政治集会。いわゆる「血債・猛省」集会で、戦旗派第2期建設の始まり。東京渋谷区・代々木八幡区民会館。
 8.18 狭山現地調査。石川一雄さん宅を訪問、ご両親からお話をうかがい、「物証」とされる万年筆が発見されたという鴨居を見せていただき、石川さんの無実への確信を深める。
 8.31 埼玉県狭山市内で狭山差別裁判糾弾のハンストに突入
10.31 狭山裁判高裁決戦。東京高等裁判所(寺尾裁判長)が石川一雄氏に有罪「無期懲役」判決
11.17 米大統領・フォード来日阻止集会 東京渋谷・宮下公園 【以下は別ページ】
11.18 フォード来日阻止闘争 東京大田区・中蒲田公園
12.15 労共闘政治集会 東京渋谷区・代々木八幡区民会館

 1975年

 1975.3.1朝鮮独立決起56周年・日韓連帯集会

 1975.4.19日韓連帯集会 東京六本木・桧町公園

 1975.6.15安保─日韓闘争 東京・清水谷公園からデモ

 1975.7.17皇太子訪沖阻止羽田現地闘争 東京大田区・本蒲田公園

 1975.8.2三木首相訪米阻止羽田現地闘争 東京大田区・本蒲田公園

 1975.8.10戦旗派政治集会 東京・代々木八幡区民会館

 1975.8.28日米軍事首脳会談粉砕闘争 東京六本木・桧町公園

 1975.9.14日韓閣僚会議粉砕闘争 多摩川緑地公園からデモ

 1975.9.28労共闘総決起集会

 1975.9.30天皇訪米阻止闘争 多摩川緑地公園

 1945.10.12鉄塔決戦準備集会 三里塚第二公園

 1975.10.31狭山上告審闘争 東京・日比谷公園からのデモ

 1975.12.21労共闘集会 東京・代々木上原区民会館。

 1976年

 1976.5.23 狭山上告審闘争 東京・日比谷野外音楽堂

 1976.6.20 ロッキード犯罪弾劾闘争 清水谷公園

 1976.10.31 狭山上告審闘争 明治公園

 1976.11.10 天皇在位50年式典粉砕闘争 清水谷公園

 1977年

 1977.3.19福田首相訪米阻止羽田現地闘争 仲蒲田公園

 1977.6.19東山薫君虐殺抗議 三里塚空港を廃港へ

 1977.8.9狭山裁判上告棄却弾劾

 1977.8.23狭山裁判上告棄却弾劾闘争 東京・明治公園

 1977.12.7三里塚・岩山要塞棟上げ式ころ

 1978年

 1978.2.5横堀要塞鉄塔建ち上げ 6-7横堀要塞戦

 1978.3.26三里塚開港阻止決戦 空港突入・管制塔占拠

 1978.7.29 戦旗派政治集会 代々木八幡区民会館

 1978.10.7 管制塔戦士らを守れ!

 1978.10.15 原子力船「むつ」入港阻止闘争 長崎県佐世保

 1978.10.21 安保・日韓闘争 東京・芝公園

 1978.12.16 労共闘政治集会 東京・主婦会館

 1979年

 1979.1.26 狭山裁判再審要求闘争 東京千代田区・日比谷野外音楽堂

 1979.2.11 日本原基地撤去闘争 岡山県奈義町

 1979.3.25 三里塚現地闘争 千葉県成田市・三里塚第一公園

 1979.3.27-28 開港阻止決戦の戦士たち、保釈・出獄

 【メモ】 上掲 3.25集会から2日後、前年3.26-5.20の開港阻止決戦で逮捕・投獄されていた仲間たちのうち、管制塔被告以外が保釈となり、出獄。上の写真は保釈直後、弁護士と共に三里塚を訪れたさい、岩山要塞での記念写真。下の写真は、第4インターやプロ青同の開港阻止決戦仲間たちとともに初夏の鎌倉を訪れたときの写真【H・Uさん提供】。

 1979.5.23 狭山裁判再審要求闘争 東京新宿区・明治公園

 1979.6.23 東京サミット粉砕・国際連帯集会

 1979.6.28 東京サミット(先進国首脳会議)粉砕闘争 東京港区・芝公園~

 1979.7.23 三里塚 木の根風車建ち上げ

 1979.11.23-25 管制塔戦士奪還ハンスト 東京・数寄屋橋公園

 1979.12.2 三里塚第31団結小屋 増改築 完成式

 1980年 戦旗・共産主義者同盟へ改称

 1980.9月 金大中氏らの救出を!

 1980.10.19 三里塚東京集会 東京・代々木公園

 1980.12.2 三里塚 松明デモ

 1980.12.16  金大中氏らの救出を!日韓連帯闘争

 資料:戦旗派年表 1980年

 1月 共産主義者同盟(戦旗派)から戦旗・共産主義者同盟へ名称変更。6月には社学同再建をおこない、1980年代は「戦旗・共産同と労共闘・社学同の時代」となる。韓国での激動と連帯しつつ、安保─日韓体制打倒闘争、三里塚闘争を軸に展開していく。
 5.18 韓国で全斗喚軍事独裁打倒の光州民衆蜂起
 5.22 三里塚現地闘争(千葉・成田市三里塚第一公園)
 6.21 社会主義学生同盟再建集会(東京・豊島区民センター)。社学同機関誌として『若きボリシェヴィキ』を発行。もともと社学同の理論機関誌は『理論戦線』だったが、同誌が戦旗・共産主義者同盟の理論誌となったため、1960年代、社学同早大支部の理論誌として発刊された『若きボリシェヴィキ』を理論誌名とした。
 6.22 光州蜂起連帯・サミット粉砕闘争(東京・清水谷公園)
 8.3 戦旗・共産同政治集会(東京・新宿文化センター
 9.21 安保・日韓闘争(東京・清水谷公園)
10.19 三里塚東京集会(東京・代々木公園)
12.13 日韓・三里塚をたたかう労学集会(東京・南部労政会館)

 1981年

 1981.3.1-6 三里塚ジェット燃料輸送阻止決戦

 1981.6.5 米空母ミッドウェー横須賀入港阻止闘争 横須賀臨海公園

 1981.8.28 巻原発公開ヒアリング阻止闘争 新潟県巻町町営グラウンド

 1981.12.13 全国労働者総決起集会 東京・日比谷公園野外音楽堂

 資料:戦旗派年表 1981年

 1.1 機関紙『戦旗』のタブロイド判化。新年号(425号)から。実際の発行は前年末。1974年以来の機関紙自力発行は、新宿区内のマンションの一室で和文タイプ・写真植字して版下作成、フィルム製版外注後、B4判の上質紙にオフセット印刷し、ホチキスで綴じるというものであった。1980年夏、東京都練馬区内に新たな印刷所を開設し全工程内製化、年末までにタブロイド判の新聞発行が可能となった。
 3.1 ~6 三里塚ジェット燃料輸送阻止決戦(千葉)
 5.4 日米首脳会談粉砕闘争(東京・清水谷公園)
 6.5 米空母ミッドウェー横須賀入港阻止闘争(神奈川県・横須賀臨海公園)
 8.1 戦旗・共産同政治集会(東京・豊島区民センター)
 8.28 巻原発公開ヒアリング阻止闘争(新潟県巻町・町営グラウンド)
10.11 三里塚現地闘争(千葉県成田市・三里塚第一公園)
11.3 管制塔戦士奪還・二期決戦勝利集会(東京・南部労政会館)
12.6 右翼労戦統一粉砕総決起集会(東京・渋谷商工会館)




(私論.私見)