唐牛 健太郎(かろうじ けんたろう、1937−84)
I 函館市生まれ。
新左翼を象徴する共産主義者同盟(ブント・書記長島成郎、31−00)が指導する60年安保全学連の伝説的な委員長。波乱に満ちた短い生涯は、マスコミの話題を一身に集め、終生尽きることはなかった。同時に、自己の存在自体が生きることへの苦闘の歴史でもあった。
1953年 道立函館東高校入学。高校生時代は無口で文学好きな紅顔の美少年であり、苦境の中を独りで生み、育ててくれた母親思いの多感な青年であった。
1956年 北海道大学教養部(文類)に入学、その夜は友人達と僻地教育について夢を語り合った。1年生の夏休み、北大を休学して上京、第二次砂川闘争に参加。そのまま学生運動に身を投じた。
1957年 北海道に戻り復学、北大教養部自治会委員長、日本共産党北大細胞に入党。
1958年 同大学全学中央委員会を再建。北海道学連委員長に選出。全学連第11回定期全国大会で中央執行委員に選出。その全学連大会の終了翌日、日本共産党・東京都委員会会議室で起きた「6・1事件」(党中央との暴力的衝突事件)に立ち会うことになった。この事件を直接的契機にして、日本共産党が指導する安保闘争に限界を感じて、共産党学生細胞を主体にしたブント結成大会に参加。
1959年、ブント書記長島成郎の強い説得を受けて、全学連第14回定期全国大会で中央執行委員長に就任。委員長就任直後は、関西地方学連、京都府学連の主導権確立のために「貼り付けオルグ」として5ヶ月間関西地方に常駐。同年末に帰京し、首都圏における学生運動の舞台に本格的に登場。これが「唐牛物語」の幕開けとなった。
当時の活躍ぶりについて、かつての盟友や知人は、唐牛の霊前に次のような弔辞を捧げてその功績を称えた。
「君は1959年初夏、彗星のごとくにわれわれの前に現れ…君の登場に新しい時代の到来を予感せずにいられなかった。君の全存在は官僚主義に対する自由闊達、権威への盲従にかえるに明朗な自立への志向、優柔を圧倒する決断と意志の力を発揮してやまなかった」(青木昌彦=姫岡玲治、38−、唐牛健太郎追想集)。
「昔なら唐牛さんは、農民運動の名指導者になっていたのではないだろうか。人間を見る目の確かさ、鋭さ、暖かさは、保守・革新の枠を超え、われら『60年安保世代の親分』と呼ぶにふさわしいものだった」(加藤紘一、39−、唐牛追想集)。
青木昌彦は、ブント結成大会議案書などを執筆するなど、第1次ブントを代表する若きイデオロ−グであった。加藤紘一は元自民党幹事長、東大学生時代の60年安保闘争当時、父が自民党代議士でありながら、全学連主流派のデモに「3回だけ参加した」経験をもつ。この二人が回想するように、唐牛は「輝ける全学連委員長」として60年安保闘争の頂点に立った。アジテーターとして傑出した才能を発揮し、強烈な個性と卓越した指導力で異彩を放った。そのカリスマ性も、肩書きを遙かに越えるキャラクターと実力を兼備していた。「ゼンガクレン」「赤いカミナリ族」の異名とともに、外電にも載って全世界を駆けめぐった。
1960年1月 「1・16首相岸信介渡米阻止、羽田空港ロビー占拠闘争」で逮捕、起訴、1ヶ月後に保釈。
4月 「4.26国会前バリケード突破闘争」で再逮捕、拘留7ヶ月。
11月 保釈。
唐牛が、実際に歴史の表舞台に登場して活動した期間は、わずか通算3ヶ月間という短期間に過ぎなかった。それに比べると、60年安保闘争が展開された期間は、安保改訂阻止国民会議第1次統一行動から第20次統一行動(59年4月〜60年7月)まで、約15ヶ月間であったから、唐牛の実質的活動期間は短かった。理由は、全学連委員長就任直後に地方オルグのために首都圏を離れていたという事情もあったが、もう一つの理由は、けた外れの長期拘留であった。
当時では、超例外にも等しい長期拘留であった。最後に保釈されたのは、安保闘争終了の半年後であった。にも拘わらず、マスコミを介して世間の脚光を浴び、時代の寵児として栄光と名声を一身に集めた。だから、唐牛が浴した栄光と名声は、いわば文字通り歴史に輝いた一瞬の光芒であり、かつ、時代を画す激動に刻まれた残映に過ぎなかった、というべきかも知れない。
ところが、後述するように過ぎ去ったはずの栄光と名声は、未来に生きようとするこの若者にとって運命的な足かせであった。文字通り、想像を超えた晒し者にされるという悲哀を余儀なくされた。そうした内的葛藤を強いられるなかで、唐牛は、持ち前の超人的な意志力によって耐え抜き、生きることへの不屈の情念の人であり続けたのであった。
II 60年安保闘争、その宿命的な影の始原
唐牛が活躍した当時の全学連は「実力闘争路線」を自己貫徹したが故に、結果として、孤立無援を強いられた。学生逮捕者を受認する弁護士が見つからないという異常事態も生じた。その直接的な原因は、闘争の「突出性」「過激性」にあった。全学連は「学生運動・先駆性論」の立場から、日本社会党や日本共産党が指導する街頭デモに対して、これを「お焼香デモ」と批判して、自らは警官隊との激突も辞さない戦闘的デモを極限志向した。この突出性・過激性を背後で支えた理論的、思想的根拠とはどのようなものであったか。
第1の根拠は、既成理論や思想へのアンチテーゼとして自ら対置した、歴史的、社会的、政治的情勢認識と行動方針である。当時、階級闘争を理論的に主導していた共産党主流派は、対米従属論を根拠にした反米民族独立民主革命(民民革命路線)であった。スローガンは、全面軍縮、核非武装、基地撤去、日中国交回復、護憲中立等であった。運動路線としては、幅広い国民の統一と団結、議会主義、平和・民主主義革命路線であった。
これに対して、ブントは日本帝国主義復活・自立論、反帝実力闘争路線を対置した。その内容は以下のように要約できる。
「復活した日本帝国主義は自らの政治的経済的地位に相応しい衣装を付けるために、国家的威信の回復と帝国主義的野望を秘めて、日米安保条約改訂(片務協定から双務協定への改変を目指しすべく、不平等条約改訂)に死命を賭している。故に、日本人民に課せられた歴史的使命・役割は、自国帝国主義打倒を媒介にしてプロレタリア世界革命の一翼を担うこと。そのスローガンは、日本帝国主義打倒、侵略と抑圧の日米安保改訂粉砕、岸内閣打倒である。」(『新左翼運動全史』蔵田計成、流動出版)
このような歴史、情勢認識の妥当性たるや如何に、というべきかも知れない。やや脇道にそれるが、このようなブント政治路線の前提となった「経済現状分析」に関しては、闘争にかかわった当事者の一人として、いささか歴史への重い責任が残る。
確かに、当時の日本経済の対米・対世界シェアは増大の一途をたどっていたことは明白である。56年版「経済白書」は「もはや『戦後』ではない」と高らかに宣言した。ブント=全学連は、このよう経済的理由を根拠にして描き出した歴史シェーマは、日本帝国主義は政治的自立志向を経て、帝国主義的侵略と野望の自己貫徹へと突き進むであろう、という未来予測・展望であった。
だが、現実の政治・経済過程は決してそのような単直コースをたどらなかった。実際は、日米安保体制下でひたすら経済大国への道を歩み、中曽根→小泉に至る対米政策に体現されるような、骨がらみのアメリカン・コンプレックスであった。結局、安保ブント=全学連は「反帝実力闘争」の正当化のために、「日帝の(政治的)自立化」願望を意図的に過大視することによって、「実力闘争主義」と結びつけた。
この点に、安保ブントの歴史的限界性が内在していた。また、この論理的立論の思考回路には「総括→情勢分析→任務・方針」という三味一体論的手法があった。このブント的手法は、情勢分析の誤りや不十分性が、そのまま任務・方針の誤りへと継起していくという好個な見本でもあった。
第2の根拠は、突出性と過激性の思想的背景である。全学連をして実践的極点へと押し上げていった決意性の根拠はどこにあったか。それは闘争=運動を組織するに際に発揮される、学生=プチブル・インテリゲンチアに特有の、時代の動きに鋭敏に感応する知性と行動力にその淵源を発していた。と同時に、そのような献身的自己犠牲によって闘争局面を切り拓き、次なる社会的大衆的決起へと繋げるために、闘争を先駆的に組織化していくという、闘争の激発連鎖への主観的願望・期待感・使命感・確信にあった。
これがブント=全学連が掲げた「学生運動・先駆性論」「捨て石運動論」(社青同解放派流にいえば「一点突破全面展開論」)といわれた運動組織論であった。
なお、このように運動を組織していくための路線として措定される「運動組織論」と、それを特徴づける理論的イデオロギー構造は、必ずしも新左翼学生運動の専有物ではなかった。過去のあらゆる歴史上の戦争局面、戦闘場面、難局において汎用されてきた「自己犠牲」「英雄主義」「玉砕主義」「散華」等に類似点をもっており、これらはいずれも連綿と通底している。このような論理と思想は、60年安保闘争において全面開花し、ある種の自己完結をみせたのであった。
以上のような理論や思想をもとに、全学連は「6・15国会構内突入闘争」を敢行した。文字通り、身に寸鉄を帯びずの喩え通り、スクラムだけで警棒・盾で武装した警官に立ち向かい、重軽傷者数百名と、東大生・樺美智子(37−60)虐殺という高価な代償を支払った。その犠牲と引き替えに、最後の土壇場を迎えた6月18日には、社会運動史上空前の「国会包囲33万人デモ」へと連動する歴史的快挙を成し遂げた。その結果、岸内閣打倒、アメリカ大統領アイゼンハワーの訪日中止を実現するという金字塔を打ち立てたのであった。全学連委員長唐牛健太郎はその歴史的闘いの頂点に位置付けられた。
60年はあわただしく過ぎた。
60年6月 唐牛は「6・15国会突入闘争」のニュースを獄中で聴いた。
7月 全学連第16回定期全国大会が開催され、獄中にあって委員長に再選された。
8月 ブント崩壊。
11月 保釈。直後に分派「戦旗派」所属、同時に、革共同全国委員会に合流。
61年 全学連第17回定期全国大会で委員長を辞任、国際部長に転任。
62年 唐牛を中心に、旧ブント系社会主義学生同盟と革共同系マルクス主義学生同盟の大連合組織=共産主義学生同盟結成を画策したが事前に発覚(共学同事件)、その首謀者責任をとって革共同全国委を脱退、同時にすべての新左翼政治活動からも身を引いた。
60年安保闘争は、その後の唐牛にとっては自己存在を映し出す影に他ならなかった。過去の栄光という宿命的な十字架であり、それを背負わされたまま、わずか47年の太く短い生涯を駆け抜けたのであった。その足跡をたどる前に、まず、60年安保闘争から没年に至るまでの、24年間の短い境涯を俯瞰することから起筆しよう。<(2)に続く> |