唐牛健太郎委員長論

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.5.11日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 蔵田計成氏の「時代に生きた新左翼・歴史群像〜唐牛健太郎」を転載しておく。

 2003.4.26日再編集 れんだいこ拝


【唐牛健太郎(1)】
 蔵田計成氏の2007.5.12日付け「時代に生きた新左翼・歴史群像〜唐牛健太郎(1)」を転載しておく。
 唐牛 健太郎(かろうじ けんたろう、1937−84)

 I 函館市生まれ。

 新左翼を象徴する共産主義者同盟(ブント・書記長島成郎、31−00)が指導する60年安保全学連の伝説的な委員長。波乱に満ちた短い生涯は、マスコミの話題を一身に集め、終生尽きることはなかった。同時に、自己の存在自体が生きることへの苦闘の歴史でもあった。

 1953年 道立函館東高校入学。高校生時代は無口で文学好きな紅顔の美少年であり、苦境の中を独りで生み、育ててくれた母親思いの多感な青年であった。

 1956年 北海道大学教養部(文類)に入学、その夜は友人達と僻地教育について夢を語り合った。1年生の夏休み、北大を休学して上京、第二次砂川闘争に参加。そのまま学生運動に身を投じた。

 1957年 北海道に戻り復学、北大教養部自治会委員長、日本共産党北大細胞に入党。

 1958年 同大学全学中央委員会を再建。北海道学連委員長に選出。全学連第11回定期全国大会で中央執行委員に選出。その全学連大会の終了翌日、日本共産党・東京都委員会会議室で起きた「6・1事件」(党中央との暴力的衝突事件)に立ち会うことになった。この事件を直接的契機にして、日本共産党が指導する安保闘争に限界を感じて、共産党学生細胞を主体にしたブント結成大会に参加。

 1959年、ブント書記長島成郎の強い説得を受けて、全学連第14回定期全国大会で中央執行委員長に就任。委員長就任直後は、関西地方学連、京都府学連の主導権確立のために「貼り付けオルグ」として5ヶ月間関西地方に常駐。同年末に帰京し、首都圏における学生運動の舞台に本格的に登場。これが「唐牛物語」の幕開けとなった。

 当時の活躍ぶりについて、かつての盟友や知人は、唐牛の霊前に次のような弔辞を捧げてその功績を称えた。

 「君は1959年初夏、彗星のごとくにわれわれの前に現れ…君の登場に新しい時代の到来を予感せずにいられなかった。君の全存在は官僚主義に対する自由闊達、権威への盲従にかえるに明朗な自立への志向、優柔を圧倒する決断と意志の力を発揮してやまなかった」(青木昌彦=姫岡玲治、38−、唐牛健太郎追想集)。

 「昔なら唐牛さんは、農民運動の名指導者になっていたのではないだろうか。人間を見る目の確かさ、鋭さ、暖かさは、保守・革新の枠を超え、われら『60年安保世代の親分』と呼ぶにふさわしいものだった」(加藤紘一、39−、唐牛追想集)。

 青木昌彦は、ブント結成大会議案書などを執筆するなど、第1次ブントを代表する若きイデオロ−グであった。加藤紘一は元自民党幹事長、東大学生時代の60年安保闘争当時、父が自民党代議士でありながら、全学連主流派のデモに「3回だけ参加した」経験をもつ。この二人が回想するように、唐牛は「輝ける全学連委員長」として60年安保闘争の頂点に立った。アジテーターとして傑出した才能を発揮し、強烈な個性と卓越した指導力で異彩を放った。そのカリスマ性も、肩書きを遙かに越えるキャラクターと実力を兼備していた。「ゼンガクレン」「赤いカミナリ族」の異名とともに、外電にも載って全世界を駆けめぐった。

 1960年1月 「1・16首相岸信介渡米阻止、羽田空港ロビー占拠闘争」で逮捕、起訴、1ヶ月後に保釈。

 4月 「4.26国会前バリケード突破闘争」で再逮捕、拘留7ヶ月。

 11月 保釈。

 唐牛が、実際に歴史の表舞台に登場して活動した期間は、わずか通算3ヶ月間という短期間に過ぎなかった。それに比べると、60年安保闘争が展開された期間は、安保改訂阻止国民会議第1次統一行動から第20次統一行動(59年4月〜60年7月)まで、約15ヶ月間であったから、唐牛の実質的活動期間は短かった。理由は、全学連委員長就任直後に地方オルグのために首都圏を離れていたという事情もあったが、もう一つの理由は、けた外れの長期拘留であった。

 当時では、超例外にも等しい長期拘留であった。最後に保釈されたのは、安保闘争終了の半年後であった。にも拘わらず、マスコミを介して世間の脚光を浴び、時代の寵児として栄光と名声を一身に集めた。だから、唐牛が浴した栄光と名声は、いわば文字通り歴史に輝いた一瞬の光芒であり、かつ、時代を画す激動に刻まれた残映に過ぎなかった、というべきかも知れない。

 ところが、後述するように過ぎ去ったはずの栄光と名声は、未来に生きようとするこの若者にとって運命的な足かせであった。文字通り、想像を超えた晒し者にされるという悲哀を余儀なくされた。そうした内的葛藤を強いられるなかで、唐牛は、持ち前の超人的な意志力によって耐え抜き、生きることへの不屈の情念の人であり続けたのであった。

 II 60年安保闘争、その宿命的な影の始原

 唐牛が活躍した当時の全学連は「実力闘争路線」を自己貫徹したが故に、結果として、孤立無援を強いられた。学生逮捕者を受認する弁護士が見つからないという異常事態も生じた。その直接的な原因は、闘争の「突出性」「過激性」にあった。全学連は「学生運動・先駆性論」の立場から、日本社会党や日本共産党が指導する街頭デモに対して、これを「お焼香デモ」と批判して、自らは警官隊との激突も辞さない戦闘的デモを極限志向した。この突出性・過激性を背後で支えた理論的、思想的根拠とはどのようなものであったか。

 第1の根拠は、既成理論や思想へのアンチテーゼとして自ら対置した、歴史的、社会的、政治的情勢認識と行動方針である。当時、階級闘争を理論的に主導していた共産党主流派は、対米従属論を根拠にした反米民族独立民主革命(民民革命路線)であった。スローガンは、全面軍縮、核非武装、基地撤去、日中国交回復、護憲中立等であった。運動路線としては、幅広い国民の統一と団結、議会主義、平和・民主主義革命路線であった。

 これに対して、ブントは日本帝国主義復活・自立論、反帝実力闘争路線を対置した。その内容は以下のように要約できる。

 「復活した日本帝国主義は自らの政治的経済的地位に相応しい衣装を付けるために、国家的威信の回復と帝国主義的野望を秘めて、日米安保条約改訂(片務協定から双務協定への改変を目指しすべく、不平等条約改訂)に死命を賭している。故に、日本人民に課せられた歴史的使命・役割は、自国帝国主義打倒を媒介にしてプロレタリア世界革命の一翼を担うこと。そのスローガンは、日本帝国主義打倒、侵略と抑圧の日米安保改訂粉砕、岸内閣打倒である。」(『新左翼運動全史』蔵田計成、流動出版)

 このような歴史、情勢認識の妥当性たるや如何に、というべきかも知れない。やや脇道にそれるが、このようなブント政治路線の前提となった「経済現状分析」に関しては、闘争にかかわった当事者の一人として、いささか歴史への重い責任が残る。

 確かに、当時の日本経済の対米・対世界シェアは増大の一途をたどっていたことは明白である。56年版「経済白書」は「もはや『戦後』ではない」と高らかに宣言した。ブント=全学連は、このよう経済的理由を根拠にして描き出した歴史シェーマは、日本帝国主義は政治的自立志向を経て、帝国主義的侵略と野望の自己貫徹へと突き進むであろう、という未来予測・展望であった。

 だが、現実の政治・経済過程は決してそのような単直コースをたどらなかった。実際は、日米安保体制下でひたすら経済大国への道を歩み、中曽根→小泉に至る対米政策に体現されるような、骨がらみのアメリカン・コンプレックスであった。結局、安保ブント=全学連は「反帝実力闘争」の正当化のために、「日帝の(政治的)自立化」願望を意図的に過大視することによって、「実力闘争主義」と結びつけた。

 この点に、安保ブントの歴史的限界性が内在していた。また、この論理的立論の思考回路には「総括→情勢分析→任務・方針」という三味一体論的手法があった。このブント的手法は、情勢分析の誤りや不十分性が、そのまま任務・方針の誤りへと継起していくという好個な見本でもあった。

 第2の根拠は、突出性と過激性の思想的背景である。全学連をして実践的極点へと押し上げていった決意性の根拠はどこにあったか。それは闘争=運動を組織するに際に発揮される、学生=プチブル・インテリゲンチアに特有の、時代の動きに鋭敏に感応する知性と行動力にその淵源を発していた。と同時に、そのような献身的自己犠牲によって闘争局面を切り拓き、次なる社会的大衆的決起へと繋げるために、闘争を先駆的に組織化していくという、闘争の激発連鎖への主観的願望・期待感・使命感・確信にあった。

 これがブント=全学連が掲げた「学生運動・先駆性論」「捨て石運動論」(社青同解放派流にいえば「一点突破全面展開論」)といわれた運動組織論であった。

 なお、このように運動を組織していくための路線として措定される「運動組織論」と、それを特徴づける理論的イデオロギー構造は、必ずしも新左翼学生運動の専有物ではなかった。過去のあらゆる歴史上の戦争局面、戦闘場面、難局において汎用されてきた「自己犠牲」「英雄主義」「玉砕主義」「散華」等に類似点をもっており、これらはいずれも連綿と通底している。このような論理と思想は、60年安保闘争において全面開花し、ある種の自己完結をみせたのであった。

 以上のような理論や思想をもとに、全学連は「6・15国会構内突入闘争」を敢行した。文字通り、身に寸鉄を帯びずの喩え通り、スクラムだけで警棒・盾で武装した警官に立ち向かい、重軽傷者数百名と、東大生・樺美智子(37−60)虐殺という高価な代償を支払った。その犠牲と引き替えに、最後の土壇場を迎えた6月18日には、社会運動史上空前の「国会包囲33万人デモ」へと連動する歴史的快挙を成し遂げた。その結果、岸内閣打倒、アメリカ大統領アイゼンハワーの訪日中止を実現するという金字塔を打ち立てたのであった。全学連委員長唐牛健太郎はその歴史的闘いの頂点に位置付けられた。

 60年はあわただしく過ぎた。

 60年6月 唐牛は「6・15国会突入闘争」のニュースを獄中で聴いた。
   7月 全学連第16回定期全国大会が開催され、獄中にあって委員長に再選された。
   8月 ブント崩壊。
  11月 保釈。直後に分派「戦旗派」所属、同時に、革共同全国委員会に合流。

 61年 全学連第17回定期全国大会で委員長を辞任、国際部長に転任。

 62年 唐牛を中心に、旧ブント系社会主義学生同盟と革共同系マルクス主義学生同盟の大連合組織=共産主義学生同盟結成を画策したが事前に発覚(共学同事件)、その首謀者責任をとって革共同全国委を脱退、同時にすべての新左翼政治活動からも身を引いた。

 60年安保闘争は、その後の唐牛にとっては自己存在を映し出す影に他ならなかった。過去の栄光という宿命的な十字架であり、それを背負わされたまま、わずか47年の太く短い生涯を駆け抜けたのであった。その足跡をたどる前に、まず、60年安保闘争から没年に至るまでの、24年間の短い境涯を俯瞰することから起筆しよう。<(2)に続く>

【唐牛健太郎(2)】
 蔵田計成氏の2007.5.12日付け「時代に生きた新左翼・歴史群像〜唐牛健太郎(2)」を転載しておく。
 唐牛 健太郎(かろうじ けんたろう、1937−84)

 V 虚実の狭間に演じた擬態

 人は無名の存在であればあるほど社会的な自在性を許されるが、唐牛は、まさにその対極に在ることを強いられた。「元全学連委員長」という肩書きは、疑いもなく、輝ける歴史の栄光に彩られていた。そのために、容易に払拭し難い過去として社会的に刻印され、やがて重い十字架を背負わされる羽目になった。唐牛が受けた各様の社会的処遇のうちで、最も象徴的な例はマスコミの扱い方であった。

 没後2年に、「唐牛健太郎追想集」(86年、刊行会代表・島成郎)が刊行された。その追想集の巻末には、唐牛個人に関係する雑誌・新聞等の関連特集記事の目録が収録されている。その数は、60年安保闘争以来の24年間で、実に130本にのぼる。年間平均は5本以上という計算になる。この過熱した数字は、明らかにある種の社会現象であることを雄弁に物語っている。では、このような異常とも言える「唐牛現象」の社会的淵源はどこにあるか。

 例えば、それに類した闘争としては、70年安保・沖縄闘争・全共闘運動がある。この闘争は、それ自体が胚胎した論理性・思想性の深さ、対権力闘争における対峙性=武器質、規模、形態等のあらゆる領域において、歴史的にはきわめて重要な問題を提起した点において、60年安保闘争の質を遙かに凌駕していたと言えよう。

 このような相互の対比が可能であるにもかかわらず、60年安保闘争は、明らかに闘争の縦軸というよりも横軸としての規模や広がりにおいて70年闘争の枠組みを十分に越えるだけの社会性を帯びていた。より厳密には、60年安保闘争は、国会審議が大詰めを迎えた段階で衆議院強行採決=議会主義破壊という暴挙を直接的契機にして、平和と民主主義、戦後・非戦デモクラシーの延長線上で大爆発したマグマであった。

 そのマグマが、市民主義的社会的現象として全面開花したのであった。その渦中で、ブント=全学連の死闘は、直接的・間接的・起爆的契機としての役割を果たした。また、その死闘は歴史に刻んだ足跡ともいうべき階級社会への歴史的波動性となって、社会的余韻や共感として広範に伝播したという歴史的事実が、社会的政治的背景にあったのではなかろうか。

 唐牛は、結果的にその中でたまたま歴史の偶然として主役を演じたのであり、その歴史的偶然の落とし子としてデビューを果たしたに過ぎなかった。ところが、そのカリスマ的キャラクターが歴史的必然の主役であるかの如く扱われる羽目になった。やがては、マスコミが提供した晴れがましい舞台で「人間ドラマ・唐牛物語」を余儀なくされ、重いヨロイを身につけたまま、終生それを演じきった、といえるのではなかろうか。

 もちろん、唐牛は初めから舞台の主役を演じる決意を固めていたわけではなかった。しかし、持ち前の比類のない強靱な意志力と決断力が身を救った。とりわけ、理屈よりも直感を先行させるという果断さを終生貫いた。決断した行動は最後まで貫徹した。表面的にみる限り、態様も極めて積極果敢な生き方であった。つまり、過去を滅却させないで、これを全的に受容し、敢えて話題性に己を晒すという大胆な選択であった。当然のことながら、この選択的決断の先には、二つの世界が待っていた。

 第1は、閉じた世界で仮構を演じるという他在な「虚像の世界」、第2は、開かれた空間で己をさらけ出すという自在な「実像の世界」。いうまでもなく、この二つの世界は、虚像と実像が混在する二律背反的な「虚と実の世界」であるが故に、二つが独立した個別併存の世界でなければ、存立不可能なような過酷な世界であった。唐牛はどこまでも自己貫徹するために、あくまでも、その同時一体的な併存世界において生き抜く他はなかった。そのために、この対極的な異次元空間にあって、同時的自存=二元的人格を余儀なくされ、止むを得ず仮構=擬態を演じるという過酷な負荷を強いられたのであった。

 では、何が「虚実の世界」なのか。唐牛の無二の盟友であり、かつ、生涯の知友であり続けた島成郎は、唐牛追想集の中で、次のように述べている。

 「彼が真剣に心を痛めたのは『たかだか20歳の若造が東京に出てきて、1年そこそこの間、酒を飲み飲みデモをして暴れ、何度か豚箱に入ったくらいのこと』が、いつの間にか『戦後最大の政治闘争の主役全学連委員長』というシンボルとなって一人歩きし、自分にまとわりついてしまっているという事態であり、あの運動と組織の象徴を担わされているということを、初めて自覚したことにあった。」(『唐牛追想集』)

 この引用は虚実の意味を極めて簡潔にいい当てており、唐牛の世界を知る上で、大いに理解を助けてくれる。とはいうものの、引用する際には補記が必要かも知れない。つまり、引用の前半部分では、行動の外形的側面が強調されているが、こうした記述の仕方には、齟齬を覚えるのは筆者ばかりではないだろう。もちろん、唐牛の実像に対する受け止め方の違いは、歴史に立ち会った者達が各自各様の想いを込めて追念する濃淡にかかわる。だが、少なくともある一側面だけをディフォルメしないで等身大の全体像を語るには、やはり、外形的行動の裏面にある政治目的、決意性、意識性をも含めた総体的な記述法を用いることが必要ではなかろうか、と思うからである。

 それはさておいて本論に戻ろう。所詮は歴史の虚名に過ぎないあの肩書きが、マスコミによって厚化粧を施された。世間からも思い思いのラベルが勝手に貼り付けられた。挙げ句の果ては、身動きできなくなるほどの虚像の世界が作り上げられた。その虚像という仮面の裏には、生身の実像があった。この二つの引き裂かれた双対の世界にあっては、いつの間にか実像が影をひそめ、栄光や名声という実体のない虚像が独り歩きして肥大化してしまったのである。その結果、ある種の仮構=擬態の世界で主役を演じ、徹することを余儀なくされた。唐牛の悲喜劇人生がそこにある。

 もし、世人をもってすれば、その仮構=擬態を余儀なく演じる過程では、心理的葛藤によるストレスは鬱屈し、屈折した暗闘の中でもがき苦しみ、やがては破局的結末という必然の事態に立ち至るはずである。ところが、唐牛は通有の軌跡をたどらなかった。剛胆に生きる自分のスタイルを懸命に模索しながら、自己流に生き抜いた。

 唐牛は、虚実の狭間=異次元空間においても懊悩の心情を表出したり、のたうち回るような不格好な姿を衆目に露出することはなかった。そのために世間は最後まで、その深奥を伺い知ることはなかった。それどころか、唐牛は親友達にさえ屈折した心情の一端さえも自己開示することは皆無であった。そのために、親友達はそのような表層の振る舞いを、唐牛の性格的な強さや閉鎖性と解釈して、カリスマ性を補完した。

 いまにして思えば、その演出には舌を巻く他はない。仮構=擬態の真の意味を見破られることなく、また、演じきることから生じる耐え難い孤独感に気付かれないままに、実に見事にして完璧に、虚実を演じきったわけである。そのために、特殊な例外を除いて、親友達でさえ、唐牛の苦闘の欠片をも真実共有しきれないままに、孤独な天涯に追いやってしまった。まさに、友人として慚愧に耐え難い痛恨と無念さに、胸が締め付けられる思いだし、「唐牛物語の悲劇性」をいまにして思い知るばかりである。
  
W 転身の彼岸にみる愚昧

 結果論になるが、唐牛はブント崩壊の後、戦旗派を経て革共同黒田派(黒田寛一、27−)へ移行した。このことは、「政治的にも思想的にも体質が全く異質な世界への迂遠な回り道であったのかも知れない」(佐藤浩=飛鳥浩次郎、36−)という見方もある。そうした余分な回り道を通過しながら、深い挫折を余儀なくされ、政治党派を離脱して職業革命家への途を断念したのは25歳の時であった。

 重い過去を背負わされた白晢の青年にとって、新しい生きざまの選択として最初に下した転身=決断は、それ自体が過酷に過ぎたと思いきや、その選択的決断は、昂然たる確信に満ちたものであった。イデオロギー的には右翼である反共=右翼民族主義・田中清玄事務所への転身は、はた目には過去の栄光や誇り、変革志向や情熱をすべて捨て去ったも同然で、なりふり構わない行動に思えた。だが、後述するように実際はそうではなかった。

 唐牛は、どこまでも、自己流のやり方で此岸を歩んでいった。最後まで過去の栄光と誇りに生き、決して過去とは断絶しなかった。過去にこだわり続け、正面から向き合って生きた。過去を封印しないと決意した瞬間から、逃げ出そうとはしなかった。自分の能力を信じて抱くべき矜持を決して失なうこともなかった。その苦闘は、過去からつながる未来を目指して生き抜いていく途を模索したが故に、覚悟の受苦であった。

 唐牛にとっての「過去」はそれほどまでにあらゆる意味において大きな存在であった。その好個な対極を演じた例外的人物がいる。その対比のなかに、唐牛を含めた60年安保世代の生きざまの一端を垣間見ることができる。例えば、西部邁(39−)である。彼は一切の過去を放擲して、天空の自由な飛翔を気取るという芸当を演じた。

 「この西部の態度は、ある過去の重苦しい原体験に起因しているのかも知れない。彼は、その原体験を“自分は何事に対しても責任を取らない、取り得ない存在である”ことを自覚する(いわば精神の無頼漢になると決意する)ことで耐えようとしたのではないか」。そう語るのは、60年安保闘争当時、東大教養学部ブント細胞指導部=LC河宮信郎(39−)である。では、重苦しい原体験とは何か。

 59年、数万名の労働者、市民、学生が三方向から国会正門を目指して「11・27国会請願行動」(国民会議)を開始し、最後には、「国会構内大抗議集会」(全学連)をかちとり、夜遅くまで国会構内に民衆の赤旗が林立する、という歴史的闘争を実現した。その翌日、東大教養学部自治会委員長選挙が行われた。活動家数では「圧倒的劣勢」という力関係があったにもかかわらず、ブント系委員長西部が日共系候補を破った。この「奇跡」は、西部自身が後年、公に暴露(『諸君』85年7月)したように「投票用紙の一部すり替え」という作為的操作によってはじめて実現可能であった。

 たしかに、その作為的操作には、「政治目的実現のための自己権力維持」という組織的政治決定があった。だが、このような前提のもとで決行された行為であったとしても、結果に対する道義的責任感や受け止め方は、各自各様であった。例えば、その際に自治会副委員長(佐竹茂=渚雪彦、39−)は、耐えきれずに郷里北海道に帰り、戦線復帰したのはすべてが終わった2年後であった。また、河宮自身も「政治を一生の仕事にしてはいけない」と覚悟を決めた。ところが、当時の西部はそのような途を選択しなかった。

 「表面的には、何らの心情吐露も、態度表明もしなかった。たんに与えられた役割を何気なくこなしているようにみえた。その事件後の約半年間、安保闘争高揚期にはアジテーターとして弁舌をふるったが、組織活動への熱意は完全に失っていた」(河宮)、という。

 この証言にあるように、西部が、ひたすらアジテーターとして振る舞ったのは、政治組織の決定とその非道義的行動に対して、あくまでも自己責任を果たすためであったと思われる。このような開き直りと思しき振る舞いを可能にした裏には、「精神の無頼漢」(河宮)という、ある種の断絶意識を読みとることができる。つまり、自己の政治的背理へのこだわりや道義的責任については、できるだけこれを自分自身から遠ざけて、これと断絶するという責任回避の態度であった。

 その後、西部は「6・15国会突入闘争」で逮捕された。統一公判では途中から分離・離脱した。その後、大学に復帰して、東大教授の椅子を得たが、教授採用問題(中沢新一、50−)で職を辞し、思考遍歴の末に日本的美学を説くことになった。

 ところが、その日本的美学の基底部には、「形式」「責任」における日本的美意識が深く介在しているはずであるが、くだんの「精神の無頼漢」は、決して、過去の己に臆することはなかった。近代原理としての「個人責任原理」に加えて、天皇主義=血統を援用した絶対主義イデオロギー構成のもとで、アメリカニズムに対するアンチ、日本型真生保守主義へと、身軽るな転身を成し遂げた。原点移動それ自体が問題なのではない。

 原点移動は自己選択の範囲かも知れない。ところが、いさぎよく過去を精算して未来への華麗な転身の口実にするためには、慎ましやかに原点移動するだけでは物足りなかった、と思われる。西部にとっては、青春の輝きさえもゴミ屑に等しかった。滅却したはずの過去を遍歴の道連れにするだけではない。「行きがけの駄賃」とばかり商品化して憚らない。しかも、見えみえの得意顔で、自分の過去を貶めるという愚昧を演じてしまい、旧い仲間のひんしゅくを買い、旧怨をかき立てた。筆者の友人がそのこだわりを代弁する。「怨嗟の的! どこかで偶然出遭ったら、面罵だけではすまない。皆なそう思っている」(司波 寛・元東大中央委員会議長、34−)

 その西部は、唐牛との間で交わした「二人の対話ゲーム」の顛末を次のように披瀝している。

 「思い返せば、奇妙とも、当然ともいえるのだが、相互のこのような錯綜した心理ゲームをやりつづけながらも、私達はまともな言語ゲームをほとんどなにひとつなさなかった。馬鹿話の連続の挙句、ほんのちょっとした言葉のもつれから、『うるせい馬鹿野郎』といいあって別れ、数年後にまたなにくわぬ顔で馬鹿話を始める。おおよそそんな光景であった。その意味で、酒という生の精は私達に沈黙をもたらしたのではないかと思う」(『唐牛追想集』)

 どうやら、西部にとっては、「過去」という自己史に関して、双方の間に存在していた距離感や位置付けが、完全に欠落しているようだ。唐牛が、西部流の真正保守主義に対して、どのような視線を送っていたかという事柄とは無関係に、また、その視線が共感、非共感、無関心、反対等のいずれの立場に位置していようとも、対話が成立するための最低条件が存在するはずである。その点で、唐牛は過去に対してはあくまでも“こだわる”という頑なな態度をとったのであり、西部とは全く逆な立場に立っていた。

 では、二人が「政治、文学、金、女」(西部)等について語り合うときには、何が必要だろうか。言うまでもなく、それは誠実に己の過去と向き合うという共通視点から生じる共通言語であり、それが出発点となるはずである。たとえ過去において互いに共通な政治的挫折を経験していたとしても、両者間で「共通な論座」が成立するためには、共通な原体験に対して、「過去を貶めない」という暗黙の了解が必要である。また、そのような暗黙の了解事項を可能にする前提は、現在的立場性というよりも、より厳密には、過去から通底する現在的な生きざまを模索する「主観的意志の内実」にある。

 どのようなたぐいのタコツボを選ぼうが、その大小各種各様の外形や歪みなどが問題なのでは全くない。必要な前提条件は、過去の自分を、現在の自分とどこで、どのように繋げてきたのかという、今日に、明日に生きることへ繋がる内実である。重い過去を切断したのか否か、切断したとすれば、どのように切断して、転身したのか。切断しなかったとしても、どのように再構成をしてきたのか。それはたんに、醸造酒の中身が古酒か新酒かの違いではないだろう。

 ところが、過去の共通な原体験に対して両者は全く対極に在った。そのような過去への共通言語はどこにも存在していなかった。にもかかわらず、自ら唐牛の「親友というよりも、信友(ママ)の関係と呼ぶのがふさわしく」(西部))を自称しておきながら、その致命的な欠落感については全く無自覚であった。

 唐牛にとっては、そのときの言語ゲームは無味乾燥で、この上なく退屈に過ぎたはずである。二人が言語ゲームのよほどの達人でない限り、対話の訣別はまさに自明であり、必然であった。にもかかわらず、「まともな言語ゲーム」が成立しなかった事実を、「奇妙とも、当然ともいえる…」(西部)という曖昧な修辞を用いて取りつくろうのは的外れではなかろうか。

 しかも先の引用のように、沈黙の意味や、対話における訣別の要因が「酒という生の精」(ママ)とするに至っては無自覚の駄目押しではないか。そもそも、初めから「まともな言語ゲーム」は成立しなかったはずであり、それを「酒」のせいにすり替えるべきではないだろう。

 私事というには深刻に過ぎるかもしれないエピソードがある。先の西部の一文を読み返すたびに、ある出来事が鮮烈に思い出される。後述するが、ある研究会へ唐牛が復帰して、筆者とは数年ぶりの再会であった。唐牛は、研究会では朝鮮半島問題を包摂した極東アジア問題に、漠たる関心を寄せていたように思えた。それから1年以上経ったある日、ガン手術後の静養先・千葉県鴨川の病院から突然、筆者のもとに電話がかかってきた。その電話の時期は、西部が「死の影が迫った最後の1年間…照れ気味であった言語ゲームをやり始めていた」(同、西部邁)と回想している事実から推定すれば、唐牛が、押し寄せるような激痛との格闘に最後の死力をふりしぼっていた時期である。電話の一件が、その間の、ある日の、ある瞬時の出来事であった、とすれば筆者の想像世界の中では全ての点で符節が合う。

 「いま西部がきている。いまから、来ないか」

 この唐牛特有の簡潔な電話にどのような意味が込められていたのか、当時は全く理解不能であった。ところが、あの西部の一文に接してはじめて全てが了解できるような思いがした。病院から我が家までの道のりは2時間近いことは十分承知しているはずだ。しかも、かって西部と筆者は互いに東京都学連副委員長という間柄でありながら、いまだに、明白に敵同士の間柄に等しいことも承知している。にもかかわらず、何故、私達二人の出会いを演出しようとしたのだろうか。

 それとも、別な意図が隠されていたのだろうか。皆目見当がつかなかった。ともかく、唐牛がわざわざ電話をかけてきたことの意味の奇妙さと、唐牛独特の簡潔なセリフのナゾは、長い間筆者の記憶のかたすみに溶解し難いわだかまりとして、長い間、一言一句正確に残っていた。

 ところが、いまあらためて、あのときの受話器の主=唐牛と来客=西部との乾いた対話がもたらした「馬鹿話」「沈黙」がもたらしたであろう“いらだち”に想いを馳せてみると、ある光景の輪郭がくっきりと浮かび上がってくる。おそらく、来客との「照れ気味な言語ゲーム」は、この上なく苦痛で、無味乾燥であっただろうし、退屈に過ぎただろう。苦痛に向き合う死の床からの呻き、叫びであったのではないか、という推理も十分に成り立つ。全く別な動機があったのか否か、いまは確かめる術もないが、少なくとも筆者には肺腑がえぐられるような思いがした。

 1本の電話の意味にこだわる理由は、この問題が、唐牛の個人史にとって極めて重要な位置を占めており、それに直結しているからである。後に詳述するが、もし、受話器の主=唐牛にとって、来客=西部やその他の来客が強いたと思われるような苦痛、勝手なお節介、不快な瑣事でさえもが、ガン死を目前にして最後まで支払おうとした、覚悟の代償であったとすれば、それは余りにも酷たらしい代償というべきかも知れない、という事実を堤示しておきたいからである。唯一の救いは、我がお祭り男が、この上なく淋しがりやで、アルコール以外には、人々の出入りや雑踏が活力源であったという幸運にある。それに、どんな客人をも、厭な顔を少しも見せないで丁重にもてなすのが、終生の流儀と作法であったという確かな事実も、もう一つの幸運であったかも知れない。

 なお、余談ながら、同文中には西部の勝手な思い込みともいうべき重大な事実誤認がある。この際、歴史の名誉のために、訂正しておくべきだと考える。これは補稿部分に譲る。

【唐牛健太郎(3)】
 蔵田計成氏の2007.5.12日付け「時代に生きた新左翼・歴史群像〜唐牛健太郎(3)」を転載しておく。
 唐牛 健太郎(かろうじ けんたろう、1937−84)

 X 「唐牛、お前は何で食っているんだ?」

 「俺は、安保の遺産で食っているよ」(島成郎『唐牛追想集』) 

 このエピソードの引用は、すぐれて真実の一端を雄弁に物語っている。このような冗談めかした酒席の会話は、60年安保闘争から20年も経て交わされたものとはいえ、そこには、引き裂かれた虚実の世界で演じた擬態がもたらした開き直りとニヒリズムが、色濃くにじみ出ているからである。

 唐牛が終生にわたってみせた、あの奇想天外な職業選択に見る意外性と、「徹底的な非一貫性」(友人・長崎浩、37−)こそは、つねに「俺は見られている」「背負わされている」ことから余儀なくされた主役の苦衷を彷彿させるに十分であった。また、それは唐牛特有の過剰な自意識に翻弄されながらも、開き直らざるを得なかった己自身の投影であり、これも過去の栄光の代償であった。

 しかも、後にみるように、敢えて「虚」を演じて、それを「実」にみせるという大胆かつ完璧な演出によって、マスコミを思惑通り手玉に取り、ときには大向こうを狙う意図的な嫌らしさで、虚実を演じ続けた。唐牛は、いわば計算し尽くして諧謔を弄んだ。世間も、気が利いた面白い冗談を演じたドラマの観客であった。その意味では、たんなる「虚勢、実勢」(西部邁)という平板な表現では厳密さを欠くことになる。その行動は積極果敢という意味において剛胆に演じ抜かれた。その一点において「唐牛物語」は面目躍如と言うべきかも知れない。

 動物が演じる仮構=擬態の世界を、自身、断固として生き抜いた悲運の境涯をたぐり寄せていくと、一つのルーツに辿りつく。それは、唐牛が函館の温泉街で母一人の手で育てられたという、その出自ではなかろうか。当時、同じような境遇で育った「兄弟」も珍しくはなかった。唐牛はそのような過去を決して隠そうとはしなかった。だから、自己を晒すべき必然の局面では、あの一流のジョークで開けっ広げに応接した。

 当然のことながら、そのような覚悟や開き直りの背後には、ある種の決意性があったのかも知れない。その決意性とは、真実を隠蔽したり、己を虚飾したりするような作為的自己欺瞞に向けて発した、高らかな拒絶宣言であった。そして、裏も表もあるような生き方を峻拒し、それを時間的場所的に最後まで貫き通したところに、決意性に込めた強靱さの秘密があったのかも知れない。

 その結果はけだし当然というべきだろう。その強靱な精神力と背骨が、豪放磊落、八方破れに見えながら、じつは「ストイックで、繊細で、優しく、剛直な精神の持ち主」(友人・今井泰子、33−)であり続けることを可能にしたのではなかろうか。以下、併せて別な人物像も補足しておこう。そこには、唐牛とは無二の親友であり続けた確かな目線がある。

 「彼は、自分の持つ優れた能力を自覚しないほど凡庸な男ではなかった。逆に、自分と自分のもつ優れた潜在的能力を知悉していた。想像もできないほどスケールの大きなステージで、再び自分の能力を縦横無尽に発揮できることを夢に見ない日はなかった。彼は何処にいてもその機会がないことを焦慮し、天がその機会を与えないことを嘆き、人を欺き通しても自分をごまかすことは出来ず、心の奥底で悲嘆にくれ、いつも淋しく孤独であった。安保闘争の後の長きにわたる年月、彼にはメランコリックでない日々はなかった。」(東原吉伸、38−『唐牛追想集』)

 一度なりとも、己を歴史の激闘の渦に仮託した者であれば、経験の差異はあるにしても、過去への想望の念をさまざま抱くはずである。しかも、政治党派からの離脱という政治的挫折は、何よりも、職業的革命家という変革への最短の大道を断念したことを意味する。また、この離脱は、政治路線上の実践回路を自ら絶ち、かつ絶たれたという現実認識の受容である。

 しかし、その大道への志を思想的、理論的、政治的、個人的理由で断念したとしても、その周辺には大小さまざまな自己実現=社会変革への小径が未来へと通じている。しかも、あの闘争に賭けた青春の情熱、歴史変革への決意性、人間的自己実現への無限の渇望等、鮮明に描いた過去の抽象世界は、その抽象性のゆえに容易に消え失せるものではない。そのような過去への想望がさまざまな色合いや形態をとって時代を逆照射し、その中で人々は未来を選択していくのである。唐牛も決して埒外で生きたのではなかった。

 Y 人生美学総集編

 60年安保闘争後の唐牛を、ことのほか憂鬱にしたのは、安後時代に経験した歴史の変貌であった。60年安保闘争は二つの挫折をもたらした。左翼においては、政治的ヘゲモニーの挫折感であり、市民社会においては、平和と民主主義、戦後・非戦デモクラシーの挫折=終焉であった。

 そうした社会的挫折を追い風にして、池田内閣の所得倍増と高度成長政策が本格的に始動した。やがて、過去の社会的熱気は絡みとられ、歴史的、政治的、社会的に大きな変容を遂げていった。数が力=正義という力学政治が台頭し、大量生産と大量消費、拝金主義と物取り経済主義への傾斜、東京オリンピックも花を添えた。その底流では総評解体と労組右傾化という社会的脱力感も進行するという、不本意で由々しい事態が、眼前では音を立てて進行した。

 唐牛は、歴史の歯車が軋みながら回転していくこのような時代の流れに対して、自己の流儀で敏感に反応した。あるときは、そのような時流に乗ってメディアに登場する有名タレントから取材を受け、その不快な扱いに対して、腹立たしい思いを強いられた。そのタレント達は、高度成長推進キャンペーン役を務めるオーケストラのコンダクターにも思えた。その姿が度し難いほどの偽善と虚業であるという自己流の論理から、ことのほか激しい個人的憎悪心や、殺意さえもかき立てられた。

 とはいうものの、新聞記事から拾った程度の知識、分析力、批判的精神は持っていたとしても、このような時代の地殻変動に対しては、実践的に抗う術を持たなかった。組織に属さない一匹狼にとっては拱手傍観する他はなかった。酔っぱらって愚痴るのが、精々のカタルシスであった。だが、そんな愚痴裏にさえ、捲土重来へのかすかな遠望を求めるメランコリックな想いが潜んでいたのかも知れない。

 マスコミは、「ユニークな人生」「アイドル・タレントの宿命」と評して唐牛の訃報を伝えた。わずか死後10日間、30数本もの記事・特集が組まれた。そのタイトルの行間からは、これまで半世紀にわたって「唐牛物語」に舞台を提供した商業主義的メディアが、最後の狂想総集編を演じたのであった。

「壮烈“闘争人生”ガンに敗る」
「有名になりすぎた自然児」
「フットライトを浴びて、虚像の人となり」
「異色の軌跡を描いた男」
「安保は遠く…波乱の死」
「ある男の死」。

 その人生美学を「インテリやくざ」と評すべきかどうか。その短い境涯は、一見して無頼であり、己が大道を闊歩したかに見える。だが、後述するようにその反面にみる強面の裏面には、深い懊悩を背負った彷徨の日々が隠されていた。そのような波乱万丈に満ちた数奇な生涯を通して、じつに多くの人達との出会いがあった。包容力、おおらかさ、繊細さ、優しさを合わせ持ったこの傑物は、人々を魅了せずにはおかなかった。はじめて出会った人達は誰もが、その存在感の大きさに瞠目した。

 唐牛が席を立った後にはぽっかりと大きな穴が空いた。通り過ぎた後にはいつの間にか豊かな人脈が遺存されていた。おそらく、在野の一私人の下に集まり散じた人達の質量たるや、世人の数倍にも達したはずである。「追想集」には、130人もの知友人達が心を込めて追想の言葉を寄せ、その多彩で華麗な交友ぶりを窺わせた。

 大柄で異彩を放つ風貌は、この上なく魅力的な好男子でもあった。面食いな唐牛は、女性とのつかの間の情誼に安らぎを求めたと思われるが、それらしき残映の片鱗さえも友人が語る言葉や活字から拾い出すことはできない。個々のケースが断片的なのかも知れないし、推論の前提がそもそも予断なのかも知れない。いずれにせよ、側聞さえもが互いに横につながらないのは、希有の例ともいえるだろう。その理由は、たんに相手を深追いしなかった、後も濁さなかった、というだけではないだろう。

 おそらく、ある一定の時空を経て熱愛したと思しき二人の女性と結婚し、優しい伴侶として、また良き理解者として、ある時代を隔てて巡り逢うという幸運を得たからだ、と思われるからである。以上が、唐牛健太郎の彫塑である。さらに時間的経過を追いながら、素顔の断面を概括しよう。

関連記事:
時代に生きた新左翼・歴史群像〜唐牛健太郎(2)

【唐牛健太郎(4)】
 蔵田計成氏の2007.5.12日付「時代に生きた新左翼・歴史群像〜唐牛健太郎(4)」を転載しておく。
 唐牛 健太郎(かろうじ けんたろう、1937−84)

 Z 62年、革共同全国委員会を脱退


 政治党派を脱退した直後の唐牛は、誰もが例外なくそうであったように、明らかに深い挫折感を抱いていた。同時に、現実の社会生活へのニヒリズムをない交ぜたある種の諦念と、自分に対する開き直りがあった。唐牛が筆者にふと漏らした一言は、今も印象に残っている。

 「俺達若者に残されている選択的人生は、せいぜい大人達が建てた巨大にそびえ建つビルの隙間を、埋めることくらいだろう……。野良犬だよ!」

 決断は素早かった。革共同脱退と同時に、唐牛は巨大ビルを建てるという正面突破作戦を断念して、一番手っ取り早い手段を選んだ。それは寄らば大樹の陰、一見して「寄食」という受動的な立場=「子飼いの犬」と思われるような選択の途であった。たが、実態はそうではなかった。したたかに生き抜くこと、野良犬に徹するという積極的立場の選択であった。その飼い主とは、60年安保闘争の真っ只中で知り合った、反共=右翼の大物・田中清玄(06−93)である。

 「田中清玄さんに相談すると、唐牛は清玄さんの東京事務所に、東原は名古屋の田中さんの共同企画に、私は神戸の山口組の組長(田岡一雄、三代目)さんが社長をしている甲陽運輸という会社に就職することになりました。」(篠原浩一郎『60年安保、6人の証言』同時代社)

 唐牛は、田中が社長を務める丸和産業に早々と身を寄せた。だが、そこで高禄を食んだわけではない。出入り自由な非常勤の嘱託という名刺の肩書き=身分証を手に入れたに過ぎなかった。入社直後には、見聞を広めるために、田中のヨーロパ旅行に同行し、東ドイツも単身見学させてもらった。それは未知な世界への出立でもあった。

 田中は多彩な顔をもっていた。元武装共産党委員長の経歴を持つ。獄中で脱党し、反共=右翼民族主義者へと右転回した人物であり、田中と唐牛がたどった青年期の軌跡は酷似していた。また、田中は東南アジア・中東の植民地独立運動にも深く係わり「トウキョウ・タイガー」と呼ばれる「熱血漢」であった。

 さらに、60年安保闘争の最終局面では、闘争の大爆発に恐怖して、「体制の危機」を予感した戦後反共=右翼の頭目・児玉誉志夫(11−84)から、左翼=全学連デモ隊に対抗する右翼武装行動隊への参加を要請されたが、田中と血盟関係にあった山口組暴力団組頭田岡一雄(13−81)と共に、その要請を拒否した。逆に、反米右翼民族主義、反岸内閣の立場から、ブント=全学連を財政的に支援した人物である。

 唐牛が田中の下へ寄食した初発の動機は、必ずしも明確ではない。二つの仮説が成り立つ。第1は、田中清玄の一匹狼としての反骨、人柄、世界志向、手法等に共感、私淑して己の未来指向への可能性を求めた。第2は、たまたま、興味深い手短な知り合いとして、一宿一飯の居候を快諾してくれるような身柄引請け人がそこにいた。強いて言えば、「虎穴に入って、虎児を得る」という程度の決意性に過ぎなかった。

 この二つの仮説は、すぐ後にみるような「予期せぬ事態」に見舞われてしまって寄食先をあぶり出された恰好になり、文字通り、唐牛にとっては仮説に終わってしまう。短い寄食時代のある日の夜中に、田中はわざわざ唐牛を呼び出したことがあった。「便所が詰まった。来てくれないか。」このような狡知な手法は、相手の羞恥心と自尊心を奪い、己に跪拝させて恭順を誓わせるために、親分衆が張ってみせる常套手段でもあった。だが、若い「野良犬」は老獪な「飼い主」の意図を即座に見抜いてしまい、その企図は通用しなかった。

 間もなく、下記にみるTBS事件が起きてしまって、唐牛は田中事務所を止めざるを得なくなったが、その後も、両者の間では、このような緊張をはらんだ対峙関係は続いた。この対峙関係の持続が、逆に、両者の関係を終生持続させた要因かも知れない。

 [ 事態は想定外

 63年、TBSラジオ『ゆがんだ青春/全学連闘士のその後』(吉永春子)が放送された。安保闘争当時、島成郎や唐牛達が反共=右翼・田中清玄から資金援助を受けていた事実が、「衝撃的な事実」として放送され、大きな反響を巻き起こすという「予期せぬ事態」が突発した。TBS担当デスクには真偽の問い合わせの電話が、5日間鳴りっぱなしであった、と言うからその反響の大きさうかがえる。このセンセーショナルでスキャンダラスな過去の事実は、さっそく、マスコミの好餌となった。

 商業メディアは特集を組んで興味深いネタを満載して紙面を飾り立てた。共産党機関紙『アカハタ』は、この事実を取り上げて、一方的に批判・誹謗・中傷の記事を長期間にわたって連日掲載した。メディアが演じた狂騒劇には世の「知識人」たちも、不毛な理屈を持ち込んで唱和した。事件は政争の具になって、国会にまで持ち込まれた。糾弾され、袋叩きにされ、社会的好奇に曝されるという異様な様相を呈した。

 そればかりではなかった。新左翼諸党派や過去の仲間達でさえ、機関紙誌上で厳しい批判を浴びせた。お決まりの非難声明を発表して降りかかる火の粉を振り払うかのように、競って身の潔白証明を試み、「脱落した転向者」とさえ断罪して切り捨てたり、無関係を装ったのであった。全学連=唐牛を弁護したのは、吉本隆明(24−)ただ一人という有様で、痛罵に包まれて逃げ場を失った。

 世間の反響は当事者の予想と思惑を遙かに超えた、というのが当人達の実感であった。反響の大きさのまえに、「メシが胃袋まで届かなかった」と言うから、受けた精神的衝撃は大きかったものと思われる。不運にも「活字のテロル」に出くわしたわけである。

 安保闘争が終わった後にも、田中清玄と、元ブント=全学連指導部の一部との個人的付き合いは、唐牛達を除いても、口利き程度の恩義を受けた者は他にもいた。田中の肝いりでアメリカ留学をさせてもらったり、大学除籍を解除してもらった者もいた、という東原証言もある。もし、このたぐいの気軽な気持ちが初発の動機として作動していたとすれば尚更のこと、予想外に厳しいリアクションは当事者の思惑を遙かに越えていたはずである。

 唐牛は、この事件に直面してはじめて、自分が置かれている立場性の重大さ深刻さの意味を思い知る他はなかった。60年安保全学連委員長の肩書きはたんなる虚名ではなくて、重い十字架であった。もはや、田中清玄への寄食問題に関しては、たんなる開き直りの態度だけでは、マッハ級の風圧を受け止めて自分を支えることはできない、と判断したはずである。また、その風圧を跳ね返すには、唐牛流の「リクツ」の建て直しが必要であった。

 第1に、寄食問題に関しては、当初余儀なくされたような「寄らば大樹」という受動的な気持ちや、たんなる「野良犬」という身分意識ではダメだ。明確な目的意識を掲げ、それを目指すべし!第2に、60年安保時代のブント=全学連の資金援助問題に関しては、弁明は新たな弁明を生み、自分以外の当事者を傷つけるだけではなかった。自分の過去の全否定につながる危険性さえあった。弁明は一切無用!一身に汚れ役を引き受けるべし!第3に、風圧を真っ正面から受け止めて、積極果敢に仮構=擬態を演じるべし!

 この3点を自己確認して不退転の決意を打ち固めた、という推論が成り立つ。当事者達自身の言葉によって、資金援助問題に関する闇の真相=詳細が初めて明らかにされたのは、約40年後であった。『60年安保とブントを読む』(情況出版、02年)に掲載された「追想の中の二人の改革者」(元全学連財政部長・東原吉伸)であった。誰かが、一度は、歴史の真実を書き残しておくべき過去の奇譚として、真実を吐露したものである。

 この記述から類推すると、唐牛は、島成郎の口添えを得て、田中清玄事務所に在籍し、何種類かの名刺を持ち歩いたという、ただそれだけの経過と事実によって、60年安保闘争当時、資金提供を受けた主役に仕立て上げられた、という構図が浮かび上がってくる。だが、運命の女神は、結果的には唐牛に対して慈悲を施すことはなかった。また、唐牛自身も、敢えて60年安保ブント=全学連の身代わり役を引き受けざるを得ない立場に追い込まれるに及んで、女神の慈悲を峻拒した。その瞬間から、どこまでも運命の皮肉に翻弄されつつ、虚実が織りなす「唐牛物語」を自作自演していくことになった。

 関連記事:時代に生きた新左翼・歴史群像〜唐牛健太郎(3)

【唐牛健太郎(5)】
 蔵田計成氏の2007.5.12日付け「時代に生きた新左翼・歴史群像〜唐牛健太郎(5)」を転載しておく。
 唐牛 健太郎(かろうじ けんたろう、1937−84)

 \ 追想の仲間達にも異変


 資金援助問題や就職問題の政治的余波は、予期しない所にも微妙な影を落とした。それはTBSラジオ放送から、実に、23年後に刊行された「追想集」に寄稿した執筆者達の顔ぶれにも示されていた。

 『唐牛健太郎追想集』には、既述したように、実に多彩な人達が寄稿した。その幅広い人脈、広がり、深さは想像を遙かに超え、既述したように執筆者は130人に達した。そのうち、かつての多くの戦友達のなかで、追想文に寄稿した者と、寄稿しなかった者との顔ぶれの違いは、そのまま、追想集刊行当時における、唐牛と戦友達の間に横たわる社会的・政治的な「距離感」を示すバロメーターでもあった。

 個人的立場性においては、全員が「同期の桜=等距離」という関係に等しく、個人的交通も各自各様のレベルで厳存していた。にもかかわらず、それが一転して社会的・政治的な距離感、立場性が表出していく「公の場」においては、筆者も含めて、幾人もの「同期の桜=戦友」が自己の社会的政治的立場性を配慮して、唐牛追想集への寄稿を敢えて見送らざるを得なかった。勿論、刊行当時、熾烈に展開されていた中核派VS革マル派との内ゲバ(革共同戦争)が影響を及ぼした、という物理的特殊事情もあった。しかし、それが決定的な影響を与えたとは言い難い。

 このような執筆陣の顔ぶれにみる微妙な差異の存在を、さらに鮮明に浮き彫りにしたのが、『60年安保ブントを読む』『ブント書記長島成郎を読む』(島成郎記念文集刊行会・情況出版、02)として刊行された、2冊の『島成郎追悼記念文集』に執筆した多くの戦友達の顔ぶれである。記念文集には、かつての多くの戦友達が名を連ねた。その顔ぶれを一瞥すると、ある種の印象的な事実が浮き彫りされる。

 その印象的事実の一つは、執筆陣のズレにある。4名〜5名(森田実・32―、西部邁、革マル派、生来の筆無精)のごく限られた例外を除いて、島・唐牛両遺稿集への執筆者達のうち、かっての戦友達はいずれも、個人的かつ非公式の立場性においては、いま述べたように、島への対応も、唐牛への対応も、長い年月を通してほとんど両者に対して「等距離の関係」にあった。その限りでは、両遺稿集への執筆の可否に関しては、個人的な物理的理由を除けば、さしたる異同や異存の余地はなかった。執筆メンバーもほとんど重なるはずであった。にもかかわらず、かつての戦友達に関する限り、両者への執筆メンバーには、あからさまなズレを露呈してしまったのである。

 この事実は、明らかに唐牛が歩んだ屈折した境涯に直結していた。この示唆的事実が物語っていることは、唐牛が背負わされた十字架は、没後においてさえも、運命に翻弄され続けた、と言うことであり、それは宿痾というに等しかった。なお、TBSラジオが放送したブント=全学連資金援助問題に関して2点を付記しよう。当事者の言い分と本質な問題の提起である。

 第1点、まず、当事者の言い分について、島成郎は以下のように述べている。

 「当時としては大口といえる寄付者の一人に田中清玄氏はいた。しかし、大金持とは決していえぬ氏のカンパは、ブント全学連の全闘争資金からすれば数%に過ぎず、ましてや、これによってブントや全学連が動かされたなどという話は笑止の限りといえよう……。その行動のスケールの大きさ、驚くほど異色な交友関係の広さ……ロマンを追う若さと情熱など、そう簡単にお目にかかれる人物ではない。氏が安保闘争とブントに共感を覚え、身銭を切って私達を応援してくれたのも、老獪な右翼陰謀家の策略などではさらさらなく、戦前の挫折した左翼指導者の夢が蘇り、また氏が求めて止まなかった戦後日本社会批判の新生の芽を、本能的にかぎ取ったからであろう。そのような人間を見る目ぐらいは、如何に若かったとはいえ、私や唐牛にしても持ち合わせていた。」(島成郎『唐牛追想集』)

 この引用は、TBS放送事件後23年目に初めて、当事者が語った言い分である。だから、あのとき集中砲火のように浴びせられた誹謗、中傷、嘲罵は、黙して語らなかった当事者達に対してなされたことになる。この驟雨のような批判の立場、基準、論拠といったものは、同工異曲というべきか、すべてが「古典的転向=罪悪論」に基づく、道義的、情緒的、ピユリタニズムに依拠していた。

 第2点、はたして、資金援助・カンパ問題の本質はどこにあるか。たんに闘う主体の道義性や資金カンパの出所という、限定的な側面に止め置いて問題を論じるべきではない。もし、限定的側面だけから全体的評価を押し広げていくならば、森全体を見失うことになり、結果に対する本質的理解への到達を困難にしてしまう。また、政治運動における倫理性の問題を、一般的倫理観の次元で論じるとすれば、善か悪かの二分法によって、抽象化されてしまい、無意味である。そればかりか、真実を覆い隠し、結局は、あのようなブッシュの悪魔的所業に抵抗する論理的根拠さえも見失い、それを放免することにもつながっていく。その意味でも有害ですらある。ただ、この資金援助問題は個人史を扱う本稿のテーマからズレてしまうので、検証は、本稿末尾の補稿(2)に譲ることにする。

 ] 63年、宇都宮刑務所で懲役10ヶ月

 65年、唐牛は親友・元社学同委員長篠原浩一郎(37−)を介して、「太平洋ひとりぼっち」横断の快挙を成し遂げた堀江謙一(39−)と知り合い、三人で「(株)堀江マリン」を立ち上げた。他に革共同時代からの友人・五島徳雄(38−)も参加した。マスコミも「赤旗に替えて白旗を掲げ、湘南沖を帆走する唐牛君達」と報じ、幸先の良いスタートであった。だが、事業は順風満帆とはいかなかった。

 この若いトロイカの誕生を物心両面から支援した人物が二人いた。一人は、元労働大臣石田博英(14−89)と、もう一人は田中清玄と血盟関係にあった山口組田岡一雄であった。石田は「若い根っこの会」主宰者の一人であり、大海原を目指す若者のセーリングに対して夢を託し、堀江にエールを送った。田岡は、会社の部下でもあり、子息の家庭教師もしていた篠原に厚い信頼を寄せていた、という関係にあった。

 結果的には、唐牛にとってこの職業選択は、十分に納得できて、ストレスの少ない唯一の職業選択であったかもしれない。その理由は、社会的名声を共有して話題性に富んだ二人が、共同して未知への希望を託することが出来た唯一の職業選択だったからである。とはいえ、すでに当時においては、それさえも仮構=擬態であった、とは言うまでもないのだが……。

 (68年、新橋で飲み屋「石狩」開店

 唐牛は、すでに三十路を過ぎていた。この間にも異業種からの善意な申し出には事欠かなかったらしい。親切な申し出を受けて、幾つか新しい仕事を試みようとしたが、不発に終わった。その中から選んだのが、飲み屋であった。

 「唐牛はその程度の稼ぎじゃ、飲み代にもならないからというので、結局、自分で飲み屋を始めてしまいました」(篠原浩一郎『6人の証言』前出)。ところが、唐牛や周囲が抱いていた確かな不安は的中した。早速、マスコミにネタを提供することになった。「唐牛元委員長の飲み屋開店、“輝く安保の闘士”8年目の変貌」「“安保の英雄”いまいずこ」……。

 このような外野席の喧騒は、あぶく銭を稼ぐには効果抜群。スタートは順調すぎるくらいであった。しかも、飲み屋の亭主の姿は、カウンターの内側には見当たらなかった、という。筆者はその当時、現役で活動を再開していたために、一度も出かけたことはなかったが、その光景は目に浮かぶ。飲み屋の亭主は「止まり木の客」に相応しかったはずである。新橋駅近くというから、店は地の利を得たものと思われる。趣味と実益を得て、金回りには苦労しなかった。むしろ収支は予想を十分に越えた。無類の酒好きにとって、これほどまでに「趣味と実益」が見事に合致した生業は他になかった。他人からみれば垂涎の的であった。

 ところが、このような解釈や見方それ自体が、唐牛にとってはゲスの勘ぐりに過ぎなかった。すでに前半で俯瞰したように、唐牛にとっては、世間並みの生業観は全く通用しなかった。店の経営とか、稼ぎなどは二の次、三の次であった。職業選択に関しても、世間的常識、論理、尺度では計測しがたい異相を基準にしていた。唐牛にとっては、ただ一点、心地よく身を置く場所でさえあればそれで十分過ぎたまでの話である。当時の唐牛は、すでに、まともな生業を断念して久しかった。直接的な原因は二つあった。権力の妨害と、晒し者の悲哀であった。

 前者の「権力の妨害」に関しては、あるゴルフ場のマネージャーに内定していたが、露骨な恫喝によってキャンセルになった。スネに傷をもった活動家であれば珍しくもない腹立たしい経験である。筆者の知人の妻でさえも、10数回目の転職で、ようやく家計を支える恩人に巡り会えた。ご多分にもれず、唐牛も人並みに何回か苦汁を飲まされた。そのために市民社会の紋章、背広にネクタイというたぐいの世間並みの正装は諦めて久しかった。

 後者の「晒し者の悲哀」に関しては、先の「ゲスの勘ぐり」それ自体が、煩わしい数匹のハエにも匹敵する。世間並みの目線で見られることに対しては辟易した。勝手な解釈と理屈によって判断され、その思い込みや身勝手さに調子を合わせることの苦痛は、当事者でなければ分からない。例えば「石狩」時代である。普通の「飲み屋の親父」であることが許されていれば、仕事に飽きるまでそのまま続けたいと思っていた。だが、それは許されなかった。

 早朝の築地の仕入れから1日は始まった。仕事にかこつけた、私的な電話も朝からかかってきたが、電話にも丁重に応答した。事件があれば記者がインタビューにやってくる。落ち込んだからといって、知友人達が元気をもらいにやってくる。見物人もやってくる。入れ替わり立ち替わり、逃げ場がないくらいの千客万来であった。しかも、やってくる相手は、仕事仲間でさえも、店の亭主の人柄がお目当てであった。にもかかわらず、全ての来訪者は金を払ってくれる「お客様」である。

 そのようなお客様に面と向かって「俺は、お前を知らないよ」とは言えなかった。先にご登場願った「信友」も、そのような来客の一人であったに相違ない。「うるせえ馬鹿野郎」と怒鳴れる客は、まだ、ましな客であったかも知れない。こうした四面楚歌の状態のなかで慇懃を装うには、聞き上手に徹する他はなかった。

 このように、同じ仕事や、同じ場所への長居は、全く無用であった。いつの間にか、野次馬的好奇心、お節介、親切心、慈悲心等のために、身のこなしは窮屈になり、時間も、話題も、興味も、空気さえも他人に簒奪されてしまう程であった。このような晒し者の日々は、耐え難いほど苦痛であった。先の「信友」に関してみたように、その苦痛を栄光の代償として、死の直前まで支払い続けたとすれば、阿鼻叫喚、無間地獄を覗いたはずである。

 「少なくとも、この当時の『ウシ(唐牛)』にみるかぎり、それは極限に近かった」(友人・惣川修、37−)と友人は語っている。一事が万事、憂鬱な気分は内攻した。沈黙の空間だけが安らぎという日々であった。






(私論.私見)