唐牛健太郎

 (最新見直し2006.11.2日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 蔵田計成氏の「時代に生きた新左翼・歴史群像〜唐牛健太郎」を転載しておく。

 2003.4.26日再編集 れんだいこ拝


【唐牛健太郎の履歴】
 1937(昭和12)年2.11日−1984(昭和59)年3.4日。
 1937年、唐牛は函館に生まれた。北大教養学部の自治会委員長となり、ブント(共産主義者同盟)に。59年、全学連委員長に担ぎ上げられ、60年安保闘争を指導した。その後は、右翼の田中清玄の世話になった時期も。ヨットクラブ、居酒屋経営、漁船乗組員、工事現場監督などをしながら全国を転々とし84年、直腸がんのため死去した。破天荒な人生。「石原裕次郎よりかっこいい」と言われた風貌。きっぷがよく男気があったという。闘争に敗れた唐牛は「無頼」「放浪」の道を選んだ。

【唐牛健太郎(1)】
 蔵田計成氏の2007.5.12日付「時代に生きた新左翼・歴史群像〜唐牛健太郎(1)」参照。
 唐牛 健太郎(かろうじ けんたろう、1937−84)

 新左翼を象徴する共産主義者同盟(ブント・書記長島成郎、31−00)が指導する60年安保全学連の伝説的な委員長。波乱に満ちた短い生涯は、マスコミの話題を一身に集め、終生尽きることはなかった。同時に、自己の存在自体が生きることへの苦闘の歴史でもあった。
 I 
 函館市生まれ。

 53年 道立函館東高校入学。高校生時代は無口で文学好きな紅顔の美少年であり、苦境の中を独りで生み、育ててくれた母親・きよ思いの多感な青年であった。母は芸者、郵便局員と女手一つで育ててくれた。

 56年 北海道大学教養部(文類)に入学、坊主頭のまま大学に入った。その夜は友人達と僻地教育について夢を語り合った。1年生の夏休み、北大を休学して上京、第二次砂川闘争に参加。そのまま学生運動に身を投じた。

 57年 北海道に戻り復学、北大教養部自治会委員長、日本共産党北大細胞に入党。
 58年 同大学全学中央委員会を再建。北海道学連委員長に選出。

 全学連第11回定期全国大会で中央執行委員に選出。その全学連大会の終了翌日、日本共産党・東京都委員会会議室で起きた「6・1事件」(党中央との暴力的衝突事件)に立ち会うことになった。この事件を直接的契機にして、日本共産党が指導する安保闘争に限界を感じて、共産党学生細胞を主体にしたブント結成大会に参加。

 59年、ブント書記長島成郎の強い説得を受けて、全学連第14回定期全国大会で中央執行委員長に就任。委員長就任直後は、関西地方学連、京都府学連の主導権確立のために「貼り付けオルグ」として5ヶ月間関西地方に常駐。同年末に帰京し、首都圏における学生運動の舞台に本格的に登場。これが「唐牛物語」の幕開けとなった。

 当時の活躍ぶりについて、かつての盟友や知人は、唐牛の霊前に次のような弔辞を捧げてその功績を称えた。
 「君は1959年初夏、彗星のごとくにわれわれの前に現れ…君の登場に新しい時代の到来を予感せずにいられなかった。君の全存在は官僚主義に対する自由闊達、権威への盲従にかえるに明朗な自立への志向、優柔を圧倒する決断と意志の力を発揮してやまなかった」(青木昌彦/姫岡玲治、38−、『唐牛健太郎追想集』)。
 「昔なら唐牛さんは、農民運動の名指導者になっていたのではないだろうか。人間を見る目の確かさ、鋭さ、暖かさは、保守・革新の枠を超え、われら『60年安保世代の親分』と呼ぶにふさわしいものだった」(加藤紘一、39−、『唐牛追想集』)。

 青木昌彦は、ブント結成大会議案書などを執筆するなど、第1次ブントを代表する若きイデオロ−グであった。加藤紘一は元自民党幹事長、東大学生時代の60年安保闘争当時、父が自民党代議士でありながら、全学連主流派のデモに「3回だけ参加した」経験をもつ。この二人が回想するように、唐牛は「輝ける全学連委員長」として60年安保闘争の頂点に立った。アジテーターとして傑出した才能を発揮し、強烈な個性と卓越した指導力で異彩を放った。そのカリスマ性も、肩書きを遙かに越えるキャラクターと実力を兼備していた。「ゼンガクレン」、「赤いカミナリ族」の異名とともに、外電にも載って全世界を駆けめぐった。

 60年1月、「1・16首相岸信介渡米阻止、羽田空港ロビー占拠闘争」で逮捕、起訴、1ヶ月後に保釈。4月、「4.26国会前バリケード突破闘争」で再逮捕、拘留7ヶ月。11月、保釈。

 唐牛が、実際に歴史の表舞台に登場して活動した期間は、わずか通算3ヶ月間という短期間に過ぎなかった。それに比べると、60年安保闘争が展開された期間は、安保改訂阻止国民会議第1次統一行動から第20次統一行動(59年4月〜60年7月)まで、約15ヶ月間であったから、唐牛の実質的活動期間は短かった。理由は、全学連委員長就任直後に地方オルグのために首都圏を離れていたという事情もあったが、もう一つの理由は、けた外れの長期拘留であった。当時では、超例外にも等しい長期拘留であった。最後に保釈されたのは、安保闘争終了の半年後であった。にも拘わらず、マスコミを介して世間の脚光を浴び、時代の寵児として栄光と名声を一身に集めた。だから、唐牛が浴した栄光と名声は、いわば文字通り歴史に輝いた一瞬の光芒であり、かつ、時代を画す激動に刻まれた残映に過ぎなかった、というべきかも知れない。

 ところが、後述するように過ぎ去ったはずの栄光と名声は、未来に生きようとするこの若者にとって運命的な足かせであった。文字通り、想像を超えた晒し者にされるという悲哀を余儀なくされた。そうした内的葛藤を強いられるなかで、唐牛は、持ち前の超人的な意志力によって耐え抜き、生きることへの不屈の情念の人であり続けたのであった。
 II 60年安保闘争、その宿命的な影の始原
 唐牛が活躍した当時の全学連は「実力闘争路線」を自己貫徹したが故に、結果として、孤立無援を強いられた。学生逮捕者を受認する弁護士が見つからないという異常事態も生じた。その直接的な原因は、闘争の「突出性」、「過激性」にあった。全学連は「学生運動・先駆性論」の立場から、日本社会党や日本共産党が指導する街頭デモに対して、これを「お焼香デモ」と批判して、自らは警官隊との激突も辞さない戦闘的デモを極限志向した。この突出性・過激性を背後で支えた理論的、思想的根拠とはどのようなものであったか。

 第1の根拠は、既成理論や思想へのアンチテーゼとして自ら対置した、歴史的、社会的、政治的情勢認識と行動方針である。当時、階級闘争を理論的に主導していた共産党主流派は、対米従属論を根拠にした反米民族独立民主革命(民民革命路線)であった。スローガンは、全面軍縮、核非武装、基地撤去、日中国交回復、護憲中立等であった。運動路線としては、幅広い国民の統一と団結、議会主義、平和・民主主義革命路線であった。これに対して、ブントは日本帝国主義復活・自立論、反帝実力闘争路線を対置した。その内容は以下のように要約できる。

 「復活した日本帝国主義は自らの政治的経済的地位に相応しい衣装を付けるために、国家的威信の回復と帝国主義的野望を秘めて、日米安保条約改訂(片務協定から双務協定への改変を目指しすべく、不平等条約改訂)に死命を賭している。故に、日本人民に課せられた歴史的使命・役割は、自国帝国主義打倒を媒介にしてプロレタリア世界革命の一翼を担うこと。そのスローガンは、日本帝国主義打倒、侵略と抑圧の日米安保改訂粉砕、岸内閣打倒である。」(『新左翼運動全史』蔵田計成、流動出版)

 このような歴史、情勢認識の妥当性たるや如何に、というべきかも知れない。やや脇道にそれるが、このようなブント政治路線の前提となった「経済現状分析」に関しては、闘争にかかわった当事者の一人として、いささか歴史への重い責任が残る。

 確かに、当時の日本経済の対米・対世界シェアは増大の一途をたどっていたことは明白である。56年版「経済白書」は「もはや『戦後』ではない」と高らかに宣言した。ブント=全学連は、このよう経済的理由を根拠にして描き出した歴史シェーマは、日本帝国主義は政治的自立志向を経て、帝国主義的侵略と野望の自己貫徹へと突き進むであろう、という未来予測・展望であった。だが、現実の政治・経済過程は決してそのような単直コースをたどらなかった。実際は、日米安保体制下でひたすら経済大国への道を歩み、中曽根→小泉に至る対米政策に体現されるような、骨がらみのアメリカン・コンプレックスであった。結局、安保ブント=全学連は「反帝実力闘争」の正当化のために、「日帝の(政治的)自立化」願望を意図的に過大視することによって、「実力闘争主義」と結びつけた。この点に、安保ブントの歴史的限界性が内在していた。また、この論理的立論の思考回路には「総括→情勢分析→任務・方針」という三味一体論的手法があった。このブント的手法は、情勢分析の誤りや不十分性が、そのまま任務・方針の誤りへと継起していくという好個な見本でもあった。

 第2の根拠は、突出性と過激性の思想的背景である。全学連をして実践的極点へと押し上げていった決意性の根拠はどこにあったか。それは闘争=運動を組織するに際に発揮される、学生=プチブル・インテリゲンチアに特有の、時代の動きに鋭敏に感応する知性と行動力にその淵源を発していた。と同時に、そのような献身的自己犠牲によって闘争局面を切り拓き、次なる社会的大衆的決起へと繋げるために、闘争を先駆的に組織化していくという、闘争の激発連鎖への主観的願望・期待感・使命感・確信にあった。これがブント=全学連が掲げた「学生運動・先駆性論」、「捨て石運動論」(社青同解放派流にいえば「一点突破全面展開論」)といわれた運動組織論であった。

 なお、このように運動を組織していくための路線として措定される「運動組織論」と、それを特徴づける理論的イデオロギー構造は、必ずしも新左翼学生運動の専有物ではなかった。過去のあらゆる歴史上の戦争局面、戦闘場面、難局において汎用されてきた「自己犠牲」「英雄主義」「玉砕主義」「散華」等に類似点をもっており、これらはいずれも連綿と通底している。このような論理と思想は、60年安保闘争において全面開花し、ある種の自己完結をみせたのであった。

 以上のような理論や思想をもとに、全学連は「6・15国会構内突入闘争」を敢行した。文字通り、身に寸鉄を帯びずの喩え通り、スクラムだけで警棒・盾で武装した警官に立ち向かい、重軽傷者数百名と、東大生・樺美智子(37−60)虐殺という高価な代償を支払った。その犠牲と引き替えに、最後の土壇場を迎えた6月18日には、社会運動史上空前の「国会包囲33万人デモ」へと連動する歴史的快挙を成し遂げた。その結果、岸内閣打倒、アメリカ大統領アイゼンハワーの訪日中止を実現するという金字塔を打ち立てたのであった。全学連委員長唐牛健太郎はその歴史的闘いの頂点に位置付けられた。

 60年はあわただしく過ぎた。

 60年6月、唐牛は「6・15国会突入闘争」のニュースを獄中で聴いた。7月、全学連第16回定期全国大会が開催され、獄中にあって委員長に再選された。8月、ブント崩壊。11月、保釈。直後に分派「戦旗派」所属、同時に、革共同全国委員会に合流。

 61年 全学連第17回定期全国大会で委員長を辞任、国際部長に転任。

 62年 唐牛を中心に、旧ブント系社会主義学生同盟と革共同系マルクス主義学生同盟の大連合組織=共産主義学生同盟結成を画策したが事前に発覚(共学同事件)、その首謀者責任をとって革共同全国委を脱退、同時にすべての新左翼政治活動からも身を引いた。

 60年安保闘争は、その後の唐牛にとっては自己存在を映し出す影に他ならなかった。過去の栄光という宿命的な十字架であり、それを背負わされたまま、わずか47年の太く短い生涯を駆け抜けたのであった。その足跡をたどる前に、まず、60年安保闘争から没年に至るまでの、24年間の短い境涯を俯瞰することから起筆しよう。<(2)に続く>
 蔵田計成氏の2007.5.12日付「時代に生きた新左翼・歴史群像〜唐牛健太郎(2)
 V 虚実の狭間に演じた擬態
 人は無名の存在であればあるほど社会的な自在性を許されるが、唐牛は、まさにその対極に在ることを強いられた。「元全学連委員長」という肩書きは、疑いもなく、輝ける歴史の栄光に彩られていた。そのために、容易に払拭し難い過去として社会的に刻印され、やがて重い十字架を背負わされる羽目になった。唐牛が受けた各様の社会的処遇のうちで、最も象徴的な例はマスコミの扱い方であった。

 没後2年に、「唐牛健太郎追想集」(86年、刊行会代表・島成郎)が刊行された。その追想集の巻末には、唐牛個人に関係する雑誌・新聞等の関連特集記事の目録が収録されている。その数は、60年安保闘争以来の24年間で、実に130本にのぼる。年間平均は5本以上という計算になる。この過熱した数字は、明らかにある種の社会現象であることを雄弁に物語っている。では、このような異常とも言える「唐牛現象」の社会的淵源はどこにあるか。

 例えば、それに類した闘争としては、70年安保・沖縄闘争・全共闘運動がある。この闘争は、それ自体が胚胎した論理性・思想性の深さ、対権力闘争における対峙性=武器質、規模、形態等のあらゆる領域において、歴史的にはきわめて重要な問題を提起した点において、60年安保闘争の質を遙かに凌駕していたと言えよう。

 このような相互の対比が可能であるにもかかわらず、60年安保闘争は、明らかに闘争の縦軸というよりも横軸としての規模や広がりにおいて70年闘争の枠組みを十分に越えるだけの社会性を帯びていた。より厳密には、60年安保闘争は、国会審議が大詰めを迎えた段階で衆議院強行採決=議会主義破壊という暴挙を直接的契機にして、平和と民主主義、戦後・非戦デモクラシーの延長線上で大爆発したマグマであった。

 そのマグマが、市民主義的社会的現象として全面開花したのであった。その渦中で、ブント=全学連の死闘は、直接的・間接的・起爆的契機としての役割を果たした。また、その死闘は歴史に刻んだ足跡ともいうべき階級社会への歴史的波動性となって、社会的余韻や共感として広範に伝播したという歴史的事実が、社会的政治的背景にあったのではなかろうか。

 唐牛は、結果的にその中でたまたま歴史の偶然として主役を演じたのであり、その歴史的偶然の落とし子としてデビューを果たしたに過ぎなかった。ところが、そのカリスマ的キャラクターが歴史的必然の主役であるかの如く扱われる羽目になった。やがては、マスコミが提供した晴れがましい舞台で「人間ドラマ・唐牛物語」を余儀なくされ、重いヨロイを身につけたまま、終生それを演じきった、といえるのではなかろうか。

 もちろん、唐牛は初めから舞台の主役を演じる決意を固めていたわけではなかった。しかし、持ち前の比類のない強靱な意志力と決断力が身を救った。とりわけ、理屈よりも直感を先行させるという果断さを終生貫いた。決断した行動は最後まで貫徹した。表面的にみる限り、態様も極めて積極果敢な生き方であった。つまり、過去を滅却させないで、これを全的に受容し、敢えて話題性に己を晒すという大胆な選択であった。当然のことながら、この選択的決断の先には、二つの世界が待っていた。

 第1は、閉じた世界で仮構を演じるという他在な「虚像の世界」、第2は、開かれた空間で己をさらけ出すという自在な「実像の世界」。いうまでもなく、この二つの世界は、虚像と実像が混在する二律背反的な「虚と実の世界」であるが故に、二つが独立した個別併存の世界でなければ、存立不可能なような過酷な世界であった。唐牛はどこまでも自己貫徹するために、あくまでも、その同時一体的な併存世界において生き抜く他はなかった。そのために、この対極的な異次元空間にあって、同時的自存=二元的人格を余儀なくされ、止むを得ず仮構=擬態を演じるという過酷な負荷を強いられたのであった。

 では、何が「虚実の世界」なのか。唐牛の無二の盟友であり、かつ、生涯の知友であり続けた島成郎は、唐牛追想集の中で、次のように述べている。
 「彼が真剣に心を痛めたのは『たかだか20歳の若造が東京に出てきて、1年そこそこの間、酒を飲み飲みデモをして暴れ、何度か豚箱に入ったくらいのこと』が、いつの間にか『戦後最大の政治闘争の主役全学連委員長』というシンボルとなって一人歩きし、自分にまとわりついてしまっているという事態であり、あの運動と組織の象徴を担わされているということを、初めて自覚したことにあった」(『唐牛追想集』)

 この引用は虚実の意味を極めて簡潔にいい当てており、唐牛の世界を知る上で、大いに理解を助けてくれる。とはいうものの、引用する際には補記が必要かも知れない。つまり、引用の前半部分では、行動の外形的側面が強調されているが、こうした記述の仕方には、齟齬を覚えるのは筆者ばかりではないだろう。もちろん、唐牛の実像に対する受け止め方の違いは、歴史に立ち会った者達が各自各様の想いを込めて追念する濃淡にかかわる。だが、少なくともある一側面だけをディフォルメしないで等身大の全体像を語るには、やはり、外形的行動の裏面にある政治目的、決意性、意識性をも含めた総体的な記述法を用いることが必要ではなかろうか、と思うからである。

 それはさておいて本論に戻ろう。所詮は歴史の虚名に過ぎないあの肩書きが、マスコミによって厚化粧を施された。世間からも思い思いのラベルが勝手に貼り付けられた。挙げ句の果ては、身動きできなくなるほどの虚像の世界が作り上げられた。その虚像という仮面の裏には、生身の実像があった。この二つの引き裂かれた双対の世界にあっては、いつの間にか実像が影をひそめ、栄光や名声という実体のない虚像が独り歩きして肥大化してしまったのである。その結果、ある種の仮構=擬態の世界で主役を演じ、徹することを余儀なくされた。唐牛の悲喜劇人生がそこにある。

 もし、世人をもってすれば、その仮構=擬態を余儀なく演じる過程では、心理的葛藤によるストレスは鬱屈し、屈折した暗闘の中でもがき苦しみ、やがては破局的結末という必然の事態に立ち至るはずである。ところが、唐牛は通有の軌跡をたどらなかった。剛胆に生きる自分のスタイルを懸命に模索しながら、自己流に生き抜いた。

 唐牛は、虚実の狭間=異次元空間においても懊悩の心情を表出したり、のたうち回るような不格好な姿を衆目に露出することはなかった。そのために世間は最後まで、その深奥を伺い知ることはなかった。それどころか、唐牛は親友達にさえ屈折した心情の一端さえも自己開示することは皆無であった。そのために、親友達はそのような表層の振る舞いを、唐牛の性格的な強さや閉鎖性と解釈して、カリスマ性を補完した。

 いまにして思えば、その演出には舌を巻く他はない。仮構=擬態の真の意味を見破られることなく、また、演じきることから生じる耐え難い孤独感に気付かれないままに、実に見事にして完璧に、虚実を演じきったわけである。そのために、特殊な例外を除いて、親友達でさえ、唐牛の苦闘の欠片をも真実共有しきれないままに、孤独な天涯に追いやってしまった。まさに、友人として慚愧に耐え難い痛恨と無念さに、胸が締め付けられる思いだし、「唐牛物語の悲劇性」をいまにして思い知るばかりである。
 W 転身の彼岸にみる愚昧
 結果論になるが、唐牛はブント崩壊の後、戦旗派を経て革共同黒田派(黒田寛一、27−)へ移行した。このことは、「政治的にも思想的にも体質が全く異質な世界への迂遠な回り道であったのかも知れない」(佐藤浩=飛鳥浩次郎、36−)という見方もある。そうした余分な回り道を通過しながら、深い挫折を余儀なくされ、政治党派を離脱して職業革命家への途を断念したのは25歳の時であった。

 重い過去を背負わされた白晢の青年にとって、新しい生きざまの選択として最初に下した転身=決断は、それ自体が過酷に過ぎたと思いきや、その選択的決断は、昂然たる確信に満ちたものであった。イデオロギー的には右翼である反共=右翼民族主義・田中清玄事務所への転身は、はた目には過去の栄光や誇り、変革志向や情熱をすべて捨て去ったも同然で、なりふり構わない行動に思えた。だが、後述するように実際はそうではなかった。

 唐牛は、どこまでも、自己流のやり方で此岸を歩んでいった。最後まで過去の栄光と誇りに生き、決して過去とは断絶しなかった。過去にこだわり続け、正面から向き合って生きた。過去を封印しないと決意した瞬間から、逃げ出そうとはしなかった。自分の能力を信じて抱くべき矜持を決して失なうこともなかった。その苦闘は、過去からつながる未来を目指して生き抜いていく途を模索したが故に、覚悟の受苦であった。

 唐牛にとっての「過去」はそれほどまでにあらゆる意味において大きな存在であった。その好個な対極を演じた例外的人物がいる。その対比のなかに、唐牛を含めた60年安保世代の生きざまの一端を垣間見ることができる。例えば、西部邁(39−)である。彼は一切の過去を放擲して、天空の自由な飛翔を気取るという芸当を演じた。

 「この西部の態度は、ある過去の重苦しい原体験に起因しているのかも知れない。彼は、その原体験を“自分は何事に対しても責任を取らない、取り得ない存在である”ことを自覚する(いわば精神の無頼漢になると決意する)ことで耐えようとしたのではないか」。そう語るのは、60年安保闘争当時、東大教養学部ブント細胞指導部=LC河宮信郎(39−)である。では、重苦しい原体験とは何か。

 59年、数万名の労働者、市民、学生が三方向から国会正門を目指して「11・27国会請願行動」(国民会議)を開始し、最後には、「国会構内大抗議集会」(全学連)をかちとり、夜遅くまで国会構内に民衆の赤旗が林立する、という歴史的闘争を実現した。その翌日、東大教養学部自治会委員長選挙が行われた。活動家数では「圧倒的劣勢」という力関係があったにもかかわらず、ブント系委員長西部が日共系候補を破った。この「奇跡」は、西部自身が後年、公に暴露(『諸君』85年7月)したように「投票用紙の一部すり替え」という作為的操作によってはじめて実現可能であった。

 たしかに、その作為的操作には、「政治目的実現のための自己権力維持」という組織的政治決定があった。だが、このような前提のもとで決行された行為であったとしても、結果に対する道義的責任感や受け止め方は、各自各様であった。例えば、その際に自治会副委員長(佐竹茂=渚雪彦、39−)は、耐えきれずに郷里北海道に帰り、戦線復帰したのはすべてが終わった2年後であった。また、河宮自身も「政治を一生の仕事にしてはいけない」と覚悟を決めた。ところが、当時の西部はそのような途を選択しなかった。

 「表面的には、何らの心情吐露も、態度表明もしなかった。たんに与えられた役割を何気なくこなしているようにみえた。その事件後の約半年間、安保闘争高揚期にはアジテーターとして弁舌をふるったが、組織活動への熱意は完全に失っていた」(河宮)、という。

 この証言にあるように、西部が、ひたすらアジテーターとして振る舞ったのは、政治組織の決定とその非道義的行動に対して、あくまでも自己責任を果たすためであったと思われる。このような開き直りと思しき振る舞いを可能にした裏には、「精神の無頼漢」(河宮)という、ある種の断絶意識を読みとることができる。つまり、自己の政治的背理へのこだわりや道義的責任については、できるだけこれを自分自身から遠ざけて、これと断絶するという責任回避の態度であった。

 その後、西部は「6・15国会突入闘争」で逮捕された。統一公判では途中から分離・離脱した。その後、大学に復帰して、東大教授の椅子を得たが、教授採用問題(中沢新一、50−)で職を辞し、思考遍歴の末に日本的美学を説くことになった。

 ところが、その日本的美学の基底部には、「形式」「責任」における日本的美意識が深く介在しているはずであるが、くだんの「精神の無頼漢」は、決して、過去の己に臆することはなかった。近代原理としての「個人責任原理」に加えて、天皇主義=血統を援用した絶対主義イデオロギー構成のもとで、アメリカニズムに対するアンチ、日本型真生保守主義へと、身軽るな転身を成し遂げた。原点移動それ自体が問題なのではない。

 原点移動は自己選択の範囲かも知れない。ところが、いさぎよく過去を精算して未来への華麗な転身の口実にするためには、慎ましやかに原点移動するだけでは物足りなかった、と思われる。西部にとっては、青春の輝きさえもゴミ屑に等しかった。滅却したはずの過去を遍歴の道連れにするだけではない。「行きがけの駄賃」とばかり商品化して憚らない。しかも、見えみえの得意顔で、自分の過去を貶めるという愚昧を演じてしまい、旧い仲間のひんしゅくを買い、旧怨をかき立てた。筆者の友人がそのこだわりを代弁する。「怨嗟の的! どこかで偶然出遭ったら、面罵だけではすまない。皆なそう思っている」(司波 寛・元東大中央委員会議長、34−)

 その西部は、唐牛との間で交わした「二人の対話ゲーム」の顛末を次のように披瀝している。

 「思い返せば、奇妙とも、当然ともいえるのだが、相互のこのような錯綜した心理ゲームをやりつづけながらも、私達はまともな言語ゲームをほとんどなにひとつなさなかった。馬鹿話の連続の挙句、ほんのちょっとした言葉のもつれから、『うるせい馬鹿野郎』といいあって別れ、数年後にまたなにくわぬ顔で馬鹿話を始める。おおよそそんな光景であった。その意味で、酒という生の精は私達に沈黙をもたらしたのではないかと思う」(『唐牛追想集』)

 どうやら、西部にとっては、「過去」という自己史に関して、双方の間に存在していた距離感や位置付けが、完全に欠落しているようだ。唐牛が、西部流の真正保守主義に対して、どのような視線を送っていたかという事柄とは無関係に、また、その視線が共感、非共感、無関心、反対等のいずれの立場に位置していようとも、対話が成立するための最低条件が存在するはずである。その点で、唐牛は過去に対してはあくまでも“こだわる”という頑なな態度をとったのであり、西部とは全く逆な立場に立っていた。

 では、二人が「政治、文学、金、女」(西部)等について語り合うときには、何が必要だろうか。言うまでもなく、それは誠実に己の過去と向き合うという共通視点から生じる共通言語であり、それが出発点となるはずである。たとえ過去において互いに共通な政治的挫折を経験していたとしても、両者間で「共通な論座」が成立するためには、共通な原体験に対して、「過去を貶めない」という暗黙の了解が必要である。また、そのような暗黙の了解事項を可能にする前提は、現在的立場性というよりも、より厳密には、過去から通底する現在的な生きざまを模索する「主観的意志の内実」にある。

 どのようなたぐいのタコツボを選ぼうが、その大小各種各様の外形や歪みなどが問題なのでは全くない。必要な前提条件は、過去の自分を、現在の自分とどこで、どのように繋げてきたのかという、今日に、明日に生きることへ繋がる内実である。重い過去を切断したのか否か、切断したとすれば、どのように切断して、転身したのか。切断しなかったとしても、どのように再構成をしてきたのか。それはたんに、醸造酒の中身が古酒か新酒かの違いではないだろう。

 ところが、過去の共通な原体験に対して両者は全く対極に在った。そのような過去への共通言語はどこにも存在していなかった。にもかかわらず、自ら唐牛の「親友というよりも、信友(ママ)の関係と呼ぶのがふさわしく」(西部))を自称しておきながら、その致命的な欠落感については全く無自覚であった。

 唐牛にとっては、そのときの言語ゲームは無味乾燥で、この上なく退屈に過ぎたはずである。二人が言語ゲームのよほどの達人でない限り、対話の訣別はまさに自明であり、必然であった。にもかかわらず、「まともな言語ゲーム」が成立しなかった事実を、「奇妙とも、当然ともいえる…」(西部)という曖昧な修辞を用いて取りつくろうのは的外れではなかろうか。

 しかも先の引用のように、沈黙の意味や、対話における訣別の要因が「酒という生の精」(ママ)とするに至っては無自覚の駄目押しではないか。そもそも、初めから「まともな言語ゲーム」は成立しなかったはずであり、それを「酒」のせいにすり替えるべきではないだろう。

 私事というには深刻に過ぎるかもしれないエピソードがある。先の西部の一文を読み返すたびに、ある出来事が鮮烈に思い出される。後述するが、ある研究会へ唐牛が復帰して、筆者とは数年ぶりの再会であった。唐牛は、研究会では朝鮮半島問題を包摂した極東アジア問題に、漠たる関心を寄せていたように思えた。それから1年以上経ったある日、ガン手術後の静養先・千葉県鴨川の病院から突然、筆者のもとに電話がかかってきた。その電話の時期は、西部が「死の影が迫った最後の1年間…照れ気味であった言語ゲームをやり始めていた」(同、西部邁)と回想している事実から推定すれば、唐牛が、押し寄せるような激痛との格闘に最後の死力をふりしぼっていた時期である。電話の一件が、その間の、ある日の、ある瞬時の出来事であった、とすれば筆者の想像世界の中では全ての点で符節が合う。

 「いま西部がきている。いまから、来ないか」

 この唐牛特有の簡潔な電話にどのような意味が込められていたのか、当時は全く理解不能であった。ところが、あの西部の一文に接してはじめて全てが了解できるような思いがした。病院から我が家までの道のりは2時間近いことは十分承知しているはずだ。しかも、かって西部と筆者は互いに東京都学連副委員長という間柄でありながら、いまだに、明白に敵同士の間柄に等しいことも承知している。にもかかわらず、何故、私達二人の出会いを演出しようとしたのだろうか。

 それとも、別な意図が隠されていたのだろうか。皆目見当がつかなかった。ともかく、唐牛がわざわざ電話をかけてきたことの意味の奇妙さと、唐牛独特の簡潔なセリフのナゾは、長い間筆者の記憶のかたすみに溶解し難いわだかまりとして、長い間、一言一句正確に残っていた。

 ところが、いまあらためて、あのときの受話器の主=唐牛と来客=西部との乾いた対話がもたらした「馬鹿話」「沈黙」がもたらしたであろう“いらだち”に想いを馳せてみると、ある光景の輪郭がくっきりと浮かび上がってくる。おそらく、来客との「照れ気味な言語ゲーム」は、この上なく苦痛で、無味乾燥であっただろうし、退屈に過ぎただろう。苦痛に向き合う死の床からの呻き、叫びであったのではないか、という推理も十分に成り立つ。全く別な動機があったのか否か、いまは確かめる術もないが、少なくとも筆者には肺腑がえぐられるような思いがした。

 1本の電話の意味にこだわる理由は、この問題が、唐牛の個人史にとって極めて重要な位置を占めており、それに直結しているからである。後に詳述するが、もし、受話器の主=唐牛にとって、来客=西部やその他の来客が強いたと思われるような苦痛、勝手なお節介、不快な瑣事でさえもが、ガン死を目前にして最後まで支払おうとした、覚悟の代償であったとすれば、それは余りにも酷たらしい代償というべきかも知れない、という事実を堤示しておきたいからである。唯一の救いは、我がお祭り男が、この上なく淋しがりやで、アルコール以外には、人々の出入りや雑踏が活力源であったという幸運にある。それに、どんな客人をも、厭な顔を少しも見せないで丁重にもてなすのが、終生の流儀と作法であったという確かな事実も、もう一つの幸運であったかも知れない。

 なお、余談ながら、同文中には西部の勝手な思い込みともいうべき重大な事実誤認がある。この際、歴史の名誉のために、訂正しておくべきだと考える。これは補稿部分に譲る。
 蔵田計成氏の2007.5.12日付「時代に生きた新左翼・歴史群像〜唐牛健太郎(3)」参照。
 X 「唐牛、お前は何で食っているんだ?」
 「俺は、安保の遺産で食っているよ」(島成郎『唐牛追想集』) 

 このエピソードの引用は、すぐれて真実の一端を雄弁に物語っている。このような冗談めかした酒席の会話は、60年安保闘争から20年も経て交わされたものとはいえ、そこには、引き裂かれた虚実の世界で演じた擬態がもたらした開き直りとニヒリズムが、色濃くにじみ出ているからである。

 唐牛が終生にわたってみせた、あの奇想天外な職業選択に見る意外性と、「徹底的な非一貫性」(友人・長崎浩、37−)こそは、つねに「俺は見られている」「背負わされている」ことから余儀なくされた主役の苦衷を彷彿させるに十分であった。また、それは唐牛特有の過剰な自意識に翻弄されながらも、開き直らざるを得なかった己自身の投影であり、これも過去の栄光の代償であった。

 しかも、後にみるように、敢えて「虚」を演じて、それを「実」にみせるという大胆かつ完璧な演出によって、マスコミを思惑通り手玉に取り、ときには大向こうを狙う意図的な嫌らしさで、虚実を演じ続けた。唐牛は、いわば計算し尽くして諧謔を弄んだ。世間も、気が利いた面白い冗談を演じたドラマの観客であった。その意味では、たんなる「虚勢、実勢」(西部邁)という平板な表現では厳密さを欠くことになる。その行動は積極果敢という意味において剛胆に演じ抜かれた。その一点において「唐牛物語」は面目躍如と言うべきかも知れない。

 動物が演じる仮構=擬態の世界を、自身、断固として生き抜いた悲運の境涯をたぐり寄せていくと、一つのルーツに辿りつく。それは、唐牛が函館の温泉街で母一人の手で育てられたという、その出自ではなかろうか。当時、同じような境遇で育った「兄弟」も珍しくはなかった。唐牛はそのような過去を決して隠そうとはしなかった。だから、自己を晒すべき必然の局面では、あの一流のジョークで開けっ広げに応接した。

 当然のことながら、そのような覚悟や開き直りの背後には、ある種の決意性があったのかも知れない。その決意性とは、真実を隠蔽したり、己を虚飾したりするような作為的自己欺瞞に向けて発した、高らかな拒絶宣言であった。そして、裏も表もあるような生き方を峻拒し、それを時間的場所的に最後まで貫き通したところに、決意性に込めた強靱さの秘密があったのかも知れない。

 その結果はけだし当然というべきだろう。その強靱な精神力と背骨が、豪放磊落、八方破れに見えながら、じつは「ストイックで、繊細で、優しく、剛直な精神の持ち主」(友人・今井泰子、33−)であり続けることを可能にしたのではなかろうか。以下、併せて別な人物像も補足しておこう。そこには、唐牛とは無二の親友であり続けた確かな目線がある。

 「彼は、自分の持つ優れた能力を自覚しないほど凡庸な男ではなかった。逆に、自分と自分のもつ優れた潜在的能力を知悉していた。想像もできないほどスケールの大きなステージで、再び自分の能力を縦横無尽に発揮できることを夢に見ない日はなかった。彼は何処にいてもその機会がないことを焦慮し、天がその機会を与えないことを嘆き、人を欺き通しても自分をごまかすことは出来ず、心の奥底で悲嘆にくれ、いつも淋しく孤独であった。安保闘争の後の長きにわたる年月、彼にはメランコリックでない日々はなかった。」(東原吉伸、38−『唐牛追想集』)

 一度なりとも、己を歴史の激闘の渦に仮託した者であれば、経験の差異はあるにしても、過去への想望の念をさまざま抱くはずである。しかも、政治党派からの離脱という政治的挫折は、何よりも、職業的革命家という変革への最短の大道を断念したことを意味する。また、この離脱は、政治路線上の実践回路を自ら絶ち、かつ絶たれたという現実認識の受容である。

 しかし、その大道への志を思想的、理論的、政治的、個人的理由で断念したとしても、その周辺には大小さまざまな自己実現=社会変革への小径が未来へと通じている。しかも、あの闘争に賭けた青春の情熱、歴史変革への決意性、人間的自己実現への無限の渇望等、鮮明に描いた過去の抽象世界は、その抽象性のゆえに容易に消え失せるものではない。そのような過去への想望がさまざまな色合いや形態をとって時代を逆照射し、その中で人々は未来を選択していくのである。唐牛も決して埒外で生きたのではなかった。
 Y 人生美学総集編
 60年安保闘争後の唐牛を、ことのほか憂鬱にしたのは、安後時代に経験した歴史の変貌であった。60年安保闘争は二つの挫折をもたらした。左翼においては、政治的ヘゲモニーの挫折感であり、市民社会においては、平和と民主主義、戦後・非戦デモクラシーの挫折=終焉であった。

 そうした社会的挫折を追い風にして、池田内閣の所得倍増と高度成長政策が本格的に始動した。やがて、過去の社会的熱気は絡みとられ、歴史的、政治的、社会的に大きな変容を遂げていった。数が力=正義という力学政治が台頭し、大量生産と大量消費、拝金主義と物取り経済主義への傾斜、東京オリンピックも花を添えた。その底流では総評解体と労組右傾化という社会的脱力感も進行するという、不本意で由々しい事態が、眼前では音を立てて進行した。

 唐牛は、歴史の歯車が軋みながら回転していくこのような時代の流れに対して、自己の流儀で敏感に反応した。あるときは、そのような時流に乗ってメディアに登場する有名タレントから取材を受け、その不快な扱いに対して、腹立たしい思いを強いられた。そのタレント達は、高度成長推進キャンペーン役を務めるオーケストラのコンダクターにも思えた。その姿が度し難いほどの偽善と虚業であるという自己流の論理から、ことのほか激しい個人的憎悪心や、殺意さえもかき立てられた。

 とはいうものの、新聞記事から拾った程度の知識、分析力、批判的精神は持っていたとしても、このような時代の地殻変動に対しては、実践的に抗う術を持たなかった。組織に属さない一匹狼にとっては拱手傍観する他はなかった。酔っぱらって愚痴るのが、精々のカタルシスであった。だが、そんな愚痴裏にさえ、捲土重来へのかすかな遠望を求めるメランコリックな想いが潜んでいたのかも知れない。

 マスコミは、「ユニークな人生」「アイドル・タレントの宿命」と評して唐牛の訃報を伝えた。わずか死後10日間、30数本もの記事・特集が組まれた。そのタイトルの行間からは、これまで半世紀にわたって「唐牛物語」に舞台を提供した商業主義的メディアが、最後の狂想総集編を演じたのであった。

「壮烈“闘争人生”ガンに敗る」
「有名になりすぎた自然児」
「フットライトを浴びて、虚像の人となり」
「異色の軌跡を描いた男」
「安保は遠く…波乱の死」
「ある男の死」。

 その人生美学を「インテリやくざ」と評すべきかどうか。その短い境涯は、一見して無頼であり、己が大道を闊歩したかに見える。だが、後述するようにその反面にみる強面の裏面には、深い懊悩を背負った彷徨の日々が隠されていた。そのような波乱万丈に満ちた数奇な生涯を通して、じつに多くの人達との出会いがあった。包容力、おおらかさ、繊細さ、優しさを合わせ持ったこの傑物は、人々を魅了せずにはおかなかった。はじめて出会った人達は誰もが、その存在感の大きさに瞠目した。

 唐牛が席を立った後にはぽっかりと大きな穴が空いた。通り過ぎた後にはいつの間にか豊かな人脈が遺存されていた。おそらく、在野の一私人の下に集まり散じた人達の質量たるや、世人の数倍にも達したはずである。「追想集」には、130人もの知友人達が心を込めて追想の言葉を寄せ、その多彩で華麗な交友ぶりを窺わせた。

 大柄で異彩を放つ風貌は、この上なく魅力的な好男子でもあった。面食いな唐牛は、女性とのつかの間の情誼に安らぎを求めたと思われるが、それらしき残映の片鱗さえも友人が語る言葉や活字から拾い出すことはできない。個々のケースが断片的なのかも知れないし、推論の前提がそもそも予断なのかも知れない。いずれにせよ、側聞さえもが互いに横につながらないのは、希有の例ともいえるだろう。その理由は、たんに相手を深追いしなかった、後も濁さなかった、というだけではないだろう。

 おそらく、ある一定の時空を経て熱愛したと思しき二人の女性と結婚し、優しい伴侶として、また良き理解者として、ある時代を隔てて巡り逢うという幸運を得たからだ、と思われるからである。以上が、唐牛健太郎の彫塑である。さらに時間的経過を追いながら、素顔の断面を概括しよう。
 蔵田計成氏の2007.5.12日付「時代に生きた新左翼・歴史群像〜唐牛健太郎(4)」を転載しておく。
 Z 62年、革共同全国委員会を脱退
 政治党派を脱退した直後の唐牛は、誰もが例外なくそうであったように、明らかに深い挫折感を抱いていた。同時に、現実の社会生活へのニヒリズムをない交ぜたある種の諦念と、自分に対する開き直りがあった。唐牛が筆者にふと漏らした一言は、今も印象に残っている。

 「俺達若者に残されている選択的人生は、せいぜい大人達が建てた巨大にそびえ建つビルの隙間を、埋めることくらいだろう……。野良犬だよ!」

 決断は素早かった。革共同脱退と同時に、唐牛は巨大ビルを建てるという正面突破作戦を断念して、一番手っ取り早い手段を選んだ。それは寄らば大樹の陰、一見して「寄食」という受動的な立場=「子飼いの犬」と思われるような選択の途であった。たが、実態はそうではなかった。したたかに生き抜くこと、野良犬に徹するという積極的立場の選択であった。その飼い主とは、60年安保闘争の真っ只中で知り合った、反共=右翼の大物・田中清玄(06−93)である。

 「田中清玄さんに相談すると、唐牛は清玄さんの東京事務所に、東原は名古屋の田中さんの共同企画に、私は神戸の山口組の組長(田岡一雄、三代目)さんが社長をしている甲陽運輸という会社に就職することになりました。」(篠原浩一郎『60年安保、6人の証言』同時代社)

 唐牛は、田中が社長を務める丸和産業に早々と身を寄せた。だが、そこで高禄を食んだわけではない。出入り自由な非常勤の嘱託という名刺の肩書き=身分証を手に入れたに過ぎなかった。入社直後には、見聞を広めるために、田中のヨーロパ旅行に同行し、東ドイツも単身見学させてもらった。それは未知な世界への出立でもあった。

 田中は多彩な顔をもっていた。元武装共産党委員長の経歴を持つ。獄中で脱党し、反共=右翼民族主義者へと右転回した人物であり、田中と唐牛がたどった青年期の軌跡は酷似していた。また、田中は東南アジア・中東の植民地独立運動にも深く係わり「トウキョウ・タイガー」と呼ばれる「熱血漢」であった。

 さらに、60年安保闘争の最終局面では、闘争の大爆発に恐怖して、「体制の危機」を予感した戦後反共=右翼の頭目・児玉誉志夫(11−84)から、左翼=全学連デモ隊に対抗する右翼武装行動隊への参加を要請されたが、田中と血盟関係にあった山口組暴力団組頭田岡一雄(13−81)と共に、その要請を拒否した。逆に、反米右翼民族主義、反岸内閣の立場から、ブント=全学連を財政的に支援した人物である。

 唐牛が田中の下へ寄食した初発の動機は、必ずしも明確ではない。二つの仮説が成り立つ。第1は、田中清玄の一匹狼としての反骨、人柄、世界志向、手法等に共感、私淑して己の未来指向への可能性を求めた。第2は、たまたま、興味深い手短な知り合いとして、一宿一飯の居候を快諾してくれるような身柄引請け人がそこにいた。強いて言えば、「虎穴に入って、虎児を得る」という程度の決意性に過ぎなかった。

 この二つの仮説は、すぐ後にみるような「予期せぬ事態」に見舞われてしまって寄食先をあぶり出された恰好になり、文字通り、唐牛にとっては仮説に終わってしまう。短い寄食時代のある日の夜中に、田中はわざわざ唐牛を呼び出したことがあった。「便所が詰まった。来てくれないか。」このような狡知な手法は、相手の羞恥心と自尊心を奪い、己に跪拝させて恭順を誓わせるために、親分衆が張ってみせる常套手段でもあった。だが、若い「野良犬」は老獪な「飼い主」の意図を即座に見抜いてしまい、その企図は通用しなかった。

 間もなく、下記にみるTBS事件が起きてしまって、唐牛は田中事務所を止めざるを得なくなったが、その後も、両者の間では、このような緊張をはらんだ対峙関係は続いた。この対峙関係の持続が、逆に、両者の関係を終生持続させた要因かも知れない。
 [ 事態は想定外
 63年、TBSラジオ『ゆがんだ青春/全学連闘士のその後』(吉永春子)が放送された。安保闘争当時、島成郎や唐牛達が反共=右翼・田中清玄から資金援助を受けていた事実が、「衝撃的な事実」として放送され、大きな反響を巻き起こすという「予期せぬ事態」が突発した。TBS担当デスクには真偽の問い合わせの電話が、5日間鳴りっぱなしであった、と言うからその反響の大きさうかがえる。このセンセーショナルでスキャンダラスな過去の事実は、さっそく、マスコミの好餌となった。

 商業メディアは特集を組んで興味深いネタを満載して紙面を飾り立てた。共産党機関紙『アカハタ』は、この事実を取り上げて、一方的に批判・誹謗・中傷の記事を長期間にわたって連日掲載した。メディアが演じた狂騒劇には世の「知識人」たちも、不毛な理屈を持ち込んで唱和した。事件は政争の具になって、国会にまで持ち込まれた。糾弾され、袋叩きにされ、社会的好奇に曝されるという異様な様相を呈した。

 そればかりではなかった。新左翼諸党派や過去の仲間達でさえ、機関紙誌上で厳しい批判を浴びせた。お決まりの非難声明を発表して降りかかる火の粉を振り払うかのように、競って身の潔白証明を試み、「脱落した転向者」とさえ断罪して切り捨てたり、無関係を装ったのであった。全学連=唐牛を弁護したのは、吉本隆明(24−)ただ一人という有様で、痛罵に包まれて逃げ場を失った。

 世間の反響は当事者の予想と思惑を遙かに超えた、というのが当人達の実感であった。反響の大きさのまえに、「メシが胃袋まで届かなかった」と言うから、受けた精神的衝撃は大きかったものと思われる。不運にも「活字のテロル」に出くわしたわけである。

 安保闘争が終わった後にも、田中清玄と、元ブント=全学連指導部の一部との個人的付き合いは、唐牛達を除いても、口利き程度の恩義を受けた者は他にもいた。田中の肝いりでアメリカ留学をさせてもらったり、大学除籍を解除してもらった者もいた、という東原証言もある。もし、このたぐいの気軽な気持ちが初発の動機として作動していたとすれば尚更のこと、予想外に厳しいリアクションは当事者の思惑を遙かに越えていたはずである。

 唐牛は、この事件に直面してはじめて、自分が置かれている立場性の重大さ深刻さの意味を思い知る他はなかった。60年安保全学連委員長の肩書きはたんなる虚名ではなくて、重い十字架であった。もはや、田中清玄への寄食問題に関しては、たんなる開き直りの態度だけでは、マッハ級の風圧を受け止めて自分を支えることはできない、と判断したはずである。また、その風圧を跳ね返すには、唐牛流の「リクツ」の建て直しが必要であった。

 第1に、寄食問題に関しては、当初余儀なくされたような「寄らば大樹」という受動的な気持ちや、たんなる「野良犬」という身分意識ではダメだ。明確な目的意識を掲げ、それを目指すべし!第2に、60年安保時代のブント=全学連の資金援助問題に関しては、弁明は新たな弁明を生み、自分以外の当事者を傷つけるだけではなかった。自分の過去の全否定につながる危険性さえあった。弁明は一切無用!一身に汚れ役を引き受けるべし!第3に、風圧を真っ正面から受け止めて、積極果敢に仮構=擬態を演じるべし!

 この3点を自己確認して不退転の決意を打ち固めた、という推論が成り立つ。当事者達自身の言葉によって、資金援助問題に関する闇の真相=詳細が初めて明らかにされたのは、約40年後であった。『60年安保とブントを読む』(情況出版、02年)に掲載された「追想の中の二人の改革者」(元全学連財政部長・東原吉伸)であった。誰かが、一度は、歴史の真実を書き残しておくべき過去の奇譚として、真実を吐露したものである。

 この記述から類推すると、唐牛は、島成郎の口添えを得て、田中清玄事務所に在籍し、何種類かの名刺を持ち歩いたという、ただそれだけの経過と事実によって、60年安保闘争当時、資金提供を受けた主役に仕立て上げられた、という構図が浮かび上がってくる。だが、運命の女神は、結果的には唐牛に対して慈悲を施すことはなかった。また、唐牛自身も、敢えて60年安保ブント=全学連の身代わり役を引き受けざるを得ない立場に追い込まれるに及んで、女神の慈悲を峻拒した。その瞬間から、どこまでも運命の皮肉に翻弄されつつ、虚実が織りなす「唐牛物語」を自作自演していくことになった。
 蔵田計成氏の2007.5.12日付「時代に生きた新左翼・歴史群像〜唐牛健太郎(5)」を転載しておく。
 \ 追想の仲間達にも異変
 資金援助問題や就職問題の政治的余波は、予期しない所にも微妙な影を落とした。それはTBSラジオ放送から、実に、23年後に刊行された「追想集」に寄稿した執筆者達の顔ぶれにも示されていた。

 『唐牛健太郎追想集』には、既述したように、実に多彩な人達が寄稿した。その幅広い人脈、広がり、深さは想像を遙かに超え、既述したように執筆者は130人に達した。そのうち、かつての多くの戦友達のなかで、追想文に寄稿した者と、寄稿しなかった者との顔ぶれの違いは、そのまま、追想集刊行当時における、唐牛と戦友達の間に横たわる社会的・政治的な「距離感」を示すバロメーターでもあった。

 個人的立場性においては、全員が「同期の桜=等距離」という関係に等しく、個人的交通も各自各様のレベルで厳存していた。にもかかわらず、それが一転して社会的・政治的な距離感、立場性が表出していく「公の場」においては、筆者も含めて、幾人もの「同期の桜=戦友」が自己の社会的政治的立場性を配慮して、唐牛追想集への寄稿を敢えて見送らざるを得なかった。勿論、刊行当時、熾烈に展開されていた中核派VS革マル派との内ゲバ(革共同戦争)が影響を及ぼした、という物理的特殊事情もあった。しかし、それが決定的な影響を与えたとは言い難い。

 このような執筆陣の顔ぶれにみる微妙な差異の存在を、さらに鮮明に浮き彫りにしたのが、『60年安保ブントを読む』『ブント書記長島成郎を読む』(島成郎記念文集刊行会・情況出版、02)として刊行された、2冊の『島成郎追悼記念文集』に執筆した多くの戦友達の顔ぶれである。記念文集には、かつての多くの戦友達が名を連ねた。その顔ぶれを一瞥すると、ある種の印象的な事実が浮き彫りされる。

 その印象的事実の一つは、執筆陣のズレにある。4名〜5名(森田実・32―、西部邁、革マル派、生来の筆無精)のごく限られた例外を除いて、島・唐牛両遺稿集への執筆者達のうち、かっての戦友達はいずれも、個人的かつ非公式の立場性においては、いま述べたように、島への対応も、唐牛への対応も、長い年月を通してほとんど両者に対して「等距離の関係」にあった。その限りでは、両遺稿集への執筆の可否に関しては、個人的な物理的理由を除けば、さしたる異同や異存の余地はなかった。執筆メンバーもほとんど重なるはずであった。にもかかわらず、かつての戦友達に関する限り、両者への執筆メンバーには、あからさまなズレを露呈してしまったのである。

 この事実は、明らかに唐牛が歩んだ屈折した境涯に直結していた。この示唆的事実が物語っていることは、唐牛が背負わされた十字架は、没後においてさえも、運命に翻弄され続けた、と言うことであり、それは宿痾というに等しかった。なお、TBSラジオが放送したブント=全学連資金援助問題に関して2点を付記しよう。当事者の言い分と本質な問題の提起である。

 第1点、まず、当事者の言い分について、島成郎は以下のように述べている。

 「当時としては大口といえる寄付者の一人に田中清玄氏はいた。しかし、大金持とは決していえぬ氏のカンパは、ブント全学連の全闘争資金からすれば数%に過ぎず、ましてや、これによってブントや全学連が動かされたなどという話は笑止の限りといえよう……。その行動のスケールの大きさ、驚くほど異色な交友関係の広さ……ロマンを追う若さと情熱など、そう簡単にお目にかかれる人物ではない。氏が安保闘争とブントに共感を覚え、身銭を切って私達を応援してくれたのも、老獪な右翼陰謀家の策略などではさらさらなく、戦前の挫折した左翼指導者の夢が蘇り、また氏が求めて止まなかった戦後日本社会批判の新生の芽を、本能的にかぎ取ったからであろう。そのような人間を見る目ぐらいは、如何に若かったとはいえ、私や唐牛にしても持ち合わせていた。」(島成郎『唐牛追想集』)

 この引用は、TBS放送事件後23年目に初めて、当事者が語った言い分である。だから、あのとき集中砲火のように浴びせられた誹謗、中傷、嘲罵は、黙して語らなかった当事者達に対してなされたことになる。この驟雨のような批判の立場、基準、論拠といったものは、同工異曲というべきか、すべてが「古典的転向=罪悪論」に基づく、道義的、情緒的、ピユリタニズムに依拠していた。

 第2点、はたして、資金援助・カンパ問題の本質はどこにあるか。たんに闘う主体の道義性や資金カンパの出所という、限定的な側面に止め置いて問題を論じるべきではない。もし、限定的側面だけから全体的評価を押し広げていくならば、森全体を見失うことになり、結果に対する本質的理解への到達を困難にしてしまう。また、政治運動における倫理性の問題を、一般的倫理観の次元で論じるとすれば、善か悪かの二分法によって、抽象化されてしまい、無意味である。そればかりか、真実を覆い隠し、結局は、あのようなブッシュの悪魔的所業に抵抗する論理的根拠さえも見失い、それを放免することにもつながっていく。その意味でも有害ですらある。ただ、この資金援助問題は個人史を扱う本稿のテーマからズレてしまうので、検証は、本稿末尾の補稿(2)に譲ることにする。
 ] 63年、宇都宮刑務所で懲役10ヶ月
 65年、唐牛は親友・元社学同委員長篠原浩一郎(37−)を介して、「太平洋ひとりぼっち」横断の快挙を成し遂げた堀江謙一(39−)と知り合い、三人で「(株)堀江マリン」を立ち上げた。他に革共同時代からの友人・五島徳雄(38−)も参加した。マスコミも「赤旗に替えて白旗を掲げ、湘南沖を帆走する唐牛君達」と報じ、幸先の良いスタートであった。だが、事業は順風満帆とはいかなかった。

 この若いトロイカの誕生を物心両面から支援した人物が二人いた。一人は、元労働大臣石田博英(14−89)と、もう一人は田中清玄と血盟関係にあった山口組田岡一雄であった。石田は「若い根っこの会」主宰者の一人であり、大海原を目指す若者のセーリングに対して夢を託し、堀江にエールを送った。田岡は、会社の部下でもあり、子息の家庭教師もしていた篠原に厚い信頼を寄せていた、という関係にあった。

 結果的には、唐牛にとってこの職業選択は、十分に納得できて、ストレスの少ない唯一の職業選択であったかもしれない。その理由は、社会的名声を共有して話題性に富んだ二人が、共同して未知への希望を託することが出来た唯一の職業選択だったからである。とはいえ、すでに当時においては、それさえも仮構=擬態であった、とは言うまでもないのだが……。

 (68年、新橋で飲み屋「石狩」開店)

 唐牛は、すでに三十路を過ぎていた。この間にも異業種からの善意な申し出には事欠かなかったらしい。親切な申し出を受けて、幾つか新しい仕事を試みようとしたが、不発に終わった。その中から選んだのが、飲み屋であった。

 「唐牛はその程度の稼ぎじゃ、飲み代にもならないからというので、結局、自分で飲み屋を始めてしまいました」(篠原浩一郎『6人の証言』前出)。ところが、唐牛や周囲が抱いていた確かな不安は的中した。早速、マスコミにネタを提供することになった。「唐牛元委員長の飲み屋開店、“輝く安保の闘士”8年目の変貌」「“安保の英雄”いまいずこ」……。

 このような外野席の喧騒は、あぶく銭を稼ぐには効果抜群。スタートは順調すぎるくらいであった。しかも、飲み屋の亭主の姿は、カウンターの内側には見当たらなかった、という。筆者はその当時、現役で活動を再開していたために、一度も出かけたことはなかったが、その光景は目に浮かぶ。飲み屋の亭主は「止まり木の客」に相応しかったはずである。新橋駅近くというから、店は地の利を得たものと思われる。趣味と実益を得て、金回りには苦労しなかった。むしろ収支は予想を十分に越えた。無類の酒好きにとって、これほどまでに「趣味と実益」が見事に合致した生業は他になかった。他人からみれば垂涎の的であった。

 ところが、このような解釈や見方それ自体が、唐牛にとってはゲスの勘ぐりに過ぎなかった。すでに前半で俯瞰したように、唐牛にとっては、世間並みの生業観は全く通用しなかった。店の経営とか、稼ぎなどは二の次、三の次であった。職業選択に関しても、世間的常識、論理、尺度では計測しがたい異相を基準にしていた。唐牛にとっては、ただ一点、心地よく身を置く場所でさえあればそれで十分過ぎたまでの話である。当時の唐牛は、すでに、まともな生業を断念して久しかった。直接的な原因は二つあった。権力の妨害と、晒し者の悲哀であった。

 前者の「権力の妨害」に関しては、あるゴルフ場のマネージャーに内定していたが、露骨な恫喝によってキャンセルになった。スネに傷をもった活動家であれば珍しくもない腹立たしい経験である。筆者の知人の妻でさえも、10数回目の転職で、ようやく家計を支える恩人に巡り会えた。ご多分にもれず、唐牛も人並みに何回か苦汁を飲まされた。そのために市民社会の紋章、背広にネクタイというたぐいの世間並みの正装は諦めて久しかった。

 後者の「晒し者の悲哀」に関しては、先の「ゲスの勘ぐり」それ自体が、煩わしい数匹のハエにも匹敵する。世間並みの目線で見られることに対しては辟易した。勝手な解釈と理屈によって判断され、その思い込みや身勝手さに調子を合わせることの苦痛は、当事者でなければ分からない。例えば「石狩」時代である。普通の「飲み屋の親父」であることが許されていれば、仕事に飽きるまでそのまま続けたいと思っていた。だが、それは許されなかった。

 早朝の築地の仕入れから1日は始まった。仕事にかこつけた、私的な電話も朝からかかってきたが、電話にも丁重に応答した。事件があれば記者がインタビューにやってくる。落ち込んだからといって、知友人達が元気をもらいにやってくる。見物人もやってくる。入れ替わり立ち替わり、逃げ場がないくらいの千客万来であった。しかも、やってくる相手は、仕事仲間でさえも、店の亭主の人柄がお目当てであった。にもかかわらず、全ての来訪者は金を払ってくれる「お客様」である。

 そのようなお客様に面と向かって「俺は、お前を知らないよ」とは言えなかった。先にご登場願った「信友」も、そのような来客の一人であったに相違ない。「うるせえ馬鹿野郎」と怒鳴れる客は、まだ、ましな客であったかも知れない。こうした四面楚歌の状態のなかで慇懃を装うには、聞き上手に徹する他はなかった。

 このように、同じ仕事や、同じ場所への長居は、全く無用であった。いつの間にか、野次馬的好奇心、お節介、親切心、慈悲心等のために、身のこなしは窮屈になり、時間も、話題も、興味も、空気さえも他人に簒奪されてしまう程であった。このような晒し者の日々は、耐え難いほど苦痛であった。先の「信友」に関してみたように、その苦痛を栄光の代償として、死の直前まで支払い続けたとすれば、阿鼻叫喚、無間地獄を覗いたはずである。

 「少なくとも、この当時の『ウシ(唐牛)』にみるかぎり、それは極限に近かった」(友人・惣川修、37−)と友人は語っている。一事が万事、憂鬱な気分は内攻した。沈黙の空間だけが安らぎという日々であった。

【加藤紘一の追悼文】
 「唐牛健太郎追想集」に自民党の加藤紘一が次のような追悼文を寄せている。ちなみに、加藤氏は安保闘争当時東大生であり、父が自民党代議士であったにもかかわらず、全学連のデモに「3回だけ参加した」という。
 昔なら唐牛さんは、農民運動の名指導者になっていたのではないだろうか。人間を見る目の確かさ、鋭さ、暖かさは、保守・革新の枠を超え、われら『60年安保世代の親分』と呼ぶにふさわしいものだった。

【西部邁の唐牛健太郎論】
 2022年1月23日、西部邁「唐牛健太郎 悲哀の感覚」。
 唐牛と私は通り一遍にいえば親友の関係ということであり、周囲もそうみなしていたのであるが、あえて自分の実意にこだわってみれば親友というよりも、信友の関係と呼ぶのがふさわしく、もし死者にも発言が可能ならば、唐牛もその方を選ぶであろう。自分の弱味を哂すようなことは断じてすまいという暗黙の約束が成立っているとき、人間関係はそう親密ではおれない。越えることのできない距離があるという思いは、否応もなく、ある種の冷やかさを彼我のあいだに発生させる。だから、私たちが幾度もなした喧嘩には、傍のものには親友の痴話と見えたのかもしれないが、相手の背骨に手をかけんばかりの死活の真剣さが多少込められていたのである。今現在も、唐牛について語るとなると、そうした穏やかならぬ気分に誘われる。しかも、死者の民主主義を奉じる私としては、唐牛の真意をも代弁しなければならず、必然、一人二役でこの冷たい関係を演じなければならないのであるから、とてもそこらの雑誌の「唐牛健太郎伝」において見かけるような安穏な語り口とはいかない。

 自分らのささやかな精神の城を厚い障壁で囲んでいはしたのだが、彼も私も相手の弱点についてはよく承知していたように思う。そこに誤解が多々含まれていたのだとしても、付合いが二五年にわたって維持されるとなると、誤解にもそれなりの重みが出てくるわけである。相手の弱点を窺い見たと思うとき、友人同士の会話に厄介な荷重がかかりはじめる。つまり、相手の発言が虚勢なのか実勢なのかを、さらには両者のどの程度の混合なのかを、逐一見分けなければならなくなる。自己の弱点を隠蔽するような発言は虚勢であり、自己の弱点を見すえたうえでの発言は実勢である。ひと誰しもこの虚実のあいだで平衡を保つよう努めるものであろうが、唐牛も私も、その努力の成否について、どちらかといえば鋭敏な判断力をもっており、おまけに、その判断を辛辣に表現してしまう癖を持っていた。もっと正確にいうと、他所では鈍感かつ温和に振舞うことができるのに、二人が顔を合わせると、しかもかならず酒を相伴させているというのに、そうはいかぬという設定になってしまいがちなのである。

 私が唐牛のことを信友と呼びたいのは、このような設定のなかで彼が律儀なまでに平衡をめざしてくれたからである。その精進ぶりにはどこか人間の真実を決して欺くまいという構えが見てとれた。ここで真実というのは、想像力が果てしなく不安定に拡がっていくという人間の可能性の次元に対して尽きせぬ関心をよせながら、同時に、生き抜くためにはさまざまの拘束に服従しなければならぬという人間の現実性の次元に対しても徹底した注意をはらうという生の根本的課題のことである。そして、この際疾い作業のなかで、あくなく平衡感覚を鍛えることである。この課題に取り組む際の知力、体力そして胆力において、私の友人知人のなかでみるかぎり、最も信じうる能力を持ったもののひとり、それが唐牛である。私は自慢してみせたいのだが、彼がそうした人間であることを早期に見抜いていた。そして、私がそう思っていることを唐牛は知っており、それが彼の辛い人生に対する、ほんの僅かとはいえ、励ましになったであろうと思いたい。少なくとも私の側からいえば、六〇年安保のあと、社会的存在の様式としてどんどんかけはなれていくばかりであった唐牛と私のあいだにあって、私のなしえた唯一の励ましは、彼のかかえた真実をくもりなく理解することだけなのであった。

 思い返せば、奇妙とも当然ともいえるのだが、相互にこのような錯綜した心理ゲームをやりつづけながら、私たちはまともな言語ゲームをほとんどなにひとつなさなかった。馬鹿話の連続の挙句、ほんのちょっとした言葉のもつれから、「うるせい馬鹿野郎」といいあって別れ、数年後にまたなにくわぬ顏で馬鹿話をはじめる。おおよそそんな光景であった。その意味で、酒という生の精は私たちに沈黙をもたらしたのではないかと思う。ところが、癌細胞が唐牛の肉体を喰い荒して死の影がどんどん強まっていった最後の一年間、私たちは、むろん照れ気味ではあったものの、言語ゲームをやりはじめた。できるだけユーモラスであろうと心掛けつつ、金、女、政治、文学、学問など思いつくまま話題にした。私たちのあいだにも安らいだ会話が可能なのだと知ったのは、私には、そしてたぶん唐牛にも、心楽しいことであった。

 彼の死の十日ぐらい前のことであろうか、癌センターの病室で暫しのおしゃべりのあと、私は喫煙室に行き、そして唐牛に別れを告げようと病室にもどった。唐牛は上半身を起こして、膝の上に給食を置き、頭を垂れていた。これが最後の出会いになるとも知らずに、「じゃ、また来るな」と私は声をかけ、それに対し唐牛はかすかに身をゆすって応えた。癌の激痛が襲っている模様であった。戸口でもう一度振り返ってみると、春の西日をあびて、まぎれもなく死につつまれた人間の孤影がシルエットのようにうかびあがっていた。私は息をのんで一瞬立ち止まり、そして、なにかに追われるような気持で街の雑踏のなかに逃げ込んだ。以下に描いてみたいのは、唐牛の賑やかな人生の裏側にいつもぴたっと寄りそっていた孤独というものについてである。彼が、終生、他人の眼にさらすまいとはかった悲哀の感情についてである。私の見たあの西日のなかの孤影は、唐牛の人生の裏面にほかならないのではないか。実は、私の視線はずっと唐牛の裏面ばかりを向いていた。それでおぼろに思いうかべていた唐牛の孤影があのとき不意にありありと眼前に出現して、私は息をのんだのである。その孤影を言葉で描くのが私の仕事であって、戦後の英雄列伝の末席に彼をのせるというようなことは私にはできない。
 生活
 青木昌彦と私とで宇都宮刑務所まで唐牛に面会しに行ったことがある。唐牛が田中清玄の事務所に籍を置いて間もなくであり、また青木が東大の大学院で近代経済学の勉強をはじめたあたりの頃であるから、一九六二年の夏場と思う。東北線の車中で、青木は、唐牛が庶子であること、そしてそのことをめぐって「語るも涙、聞くも涙の物語を唐牛の奥さんの和子さんから教えられた」ということについて語った。和子さんは唐牛の母親のきよさんから知らされたのだという。刑務所ではひとりしか面会が叶わぬということがわかり、青木が会いに行った。私は、待合室で、そうした関係にある母子が、一方は函館で他方は関東の刑務所でどんな思いに至るものであるか、たぶん少しは想像をめぐらしたにちがいないのだが、記憶が定かではない。あるいは私にそういう心の余裕はなかったのかもしれない。

 唐牛とともに連座した一・一六羽田事件には執行猶予がついたが、私にはまだ六・三首相官邸事件と六・一五国会事件が残っていた。自分はいずれ実刑になって獄に下るだろうと確信しながら、毎日を無為に暮すという結構疲れる生活をしていたのである。三人を宇都宮につなげたのは、一切の政治党派から離れたものたちがこれから独りびとり勝手な方向にころがっていくことに関する連帯の挨拶のようなものにすぎなかったのであり、それ以上の心の働きは、少なくとも私に関するかぎり期待すべくもなかったようだ。

 しかしそれ以来、時が経つにつれてますます、唐牛がその背に庶子の悲哀とでもいえるものをひそかに負っていると私には見えはじめた。「唐牛にはそうした生いたちからくる暗さはなく、生まれついてヒマワリの花のような明るさを持っていた」というような評言を私は何度か眼にした。間違ってはいないが表面的にすぎる観察といえる。酒と歌と革命を愛した男として唐牛を描くのはあまりにもオールドーボルシェヴィキ流であり、またあまりにも凡庸である。唐牛は濃い暗闇をかかえて生きていたのであり、彼の示した明るさの半分は天性のものであろうが、あとの半分は自己の暗闇を打消さんがための必死の努力によってもたらされたものである。彼の明るさには心の訓練によって研磨された透明感のようなものがあり、その透き通ったところが私には寂寥と感じられた。

 他人から露悪や被虐と受け取られることを厭わずになんでもかんでもを話題にのぼせたあの唐牛が、自分の生い立ちについては一言もなかった。周囲がそれを知っているということを彼は知っているのに、ついにそのことについて述懐せずにおわった。私はそれを、唐牛の母親に対する敬愛の念とみるようになった。だから、癌と闘っていた最中、ある女性が芸者の職業を称賛するようなことをいったとき、彼が「おめえらに芸者の気持がわかってたまるか」と怒鳴って酒席をひっくりかえしたというのはよく腑に落ちる話である。誤解されないよう念を押せば、唐牛はそうした生い立ちに劣等感を持つような人間ではなかった。庶子の悲哀あるいは暗闇と私がいうのは、母子のあいだで世間の尺度では測れぬ質量の愛情関係をもってしまったものに特有の精神の型、つまり語り得ぬこと伝え得ぬことがあると骨の髄から知ってしまった人問の生に対する構え方のことである。

 北海道大学に入るとすぐ、「学生運動なんかしゃらくさい、労働運勁だ、と思って上京した」という唐牛の言を幾人かの評論家が真にうけている。言葉に対する軽信というものであろう。あの時代、あの函館の温泉街で育った一八歳の人間が政治についてそういう種類の判断を下し、しかも入学したばかりの大学を離れるまでの固い決断に到達するわけがない。「あなたの東京行きは私の過去となにか関係があるのでしょうか」という母親の手紙が、おそらく、正鵠を射ているのである。そして、高校時代における唐牛の恋愛、つまり同じく庶子に生まれ育った女性とのおそらくは幼い恋の顛末もそこに介在しているのであろう。

 故人の秘密をさぐりたくてこんなことをいっているのではない。唐牛の言葉遣いの方法をわからなければ、彼の言葉の片言隻句を集めて唐牛伝なぞ物しても無駄だといいたいのである。そしてその言葉遣いはブント流表現のひとつの典型をなしていたのであった。たとえば、四・二六事件で唐牛は、「恐れることはない。諸君、障碍物を乗り越えて、一歩一歩進みたまえ!」と叫んで装甲車から機動隊のなかに飛び込んでいったという。世人はその姿に若さのエネルギーをみて拍手喝采する、あるいは罵詈讒謗をあびせる。世の習いとはいいながら残酷な光景ではある。私には唐牛の疲労や枯渇やの一切が手にとるように伝わってくる。その日、私は池袋でトリュフォーの『大人はわかってくれない』という映画を観ていたので、現場には居なかった。逮捕される時期を延ばすためである。しかしそれでも、当日の唐牛の情熱が虚無に裏打ちされていたであろうことを疑わない。中垣行博はいっている、「俺が装甲車を越えて向うがわに出たら、唐牛が私服警官の列の方へ足をひきずって歩いていき、そして逮捕された。その寂しそうな姿のことが忘れられない」と。はしなくも、装甲車の前と後で唐牛の心情の表と裏が演じられていたのである。

 唐牛の場合がひとつの見本であるように、政治にかかわった人間の人生はいつも悪しき政治にもとづいて語られる傾向にある。つまり人生の表面だけをわかりやすい定型によってとらえようとする。たとえば、田中清玄の仕事を手伝っていたとき、唐牛が「俺は野良犬になる」といえば、「奴は市民生活を捨てた、立派だ」とか「奴は市民社会から捨てられた、駄目だ」とかいったような評価が寄せられる。下らぬ評価である。無頼になり切るには知的にすぎ、知的になり切るには無頼にすぎるという二律背反に挟撃されている、それが唐牛の実相である。彼はその挾み撃ちの前でたじろがずに、与えられた条件のなかで、決断をなしつづけたのである。二律背反を生きるという人間の根本問題に、その正誤などはさておき、休まずに解答を与えるよう努めたという点において、唐牛の人生になにひとつ特別のものも異常のものもありはしないのである。

 彼の与えた解答は、結果としては、社会の庶子となるということであった。ブント派全学連の委員長になったこと、田中清玄に協力したこと、新橋で飲屋をやったこと、与論島で土方をしたこと、紋別で漁師になったこと、徳田虎雄の選挙参謀をしたこと、それらのすべてが社会的認知をうけにくい種類の事柄とみなされた。そうみなされることを承知のうえで、唐牛は社会への同調ではなく社会からの逸脱の方を選んだ。だが、それらは本当に逸脱なのだろうか。私の知るかぎり、唐牛の選んだ途は彼にとってほとんど避けることのできない行程であったと思う。「政治は個人的心情の賭事だ」と唐牛はいったそうである。まったくその通りで、政治的実践にかぎらず、日常的実践も認識的実践もふくめて、生の全局面が本質的にそうしたものなのだ。しかしそのことは文字通りの意味での選択の自由を意味しはしない。庶子にうまれっていたのがいかんともしがたい宿命であるのと同じように、唐牛にあって賭事の種類も規則もおそろしく限定されたものとして現れていた。彼はそのせまくるしい賭場に素直に赴いて賽を振ってみたまでのことである。

 「餌にとびつく人生」という言葉がある。唐牛は、私もそうなのだが、餌にとびつく人生というものにたいし、戯れつつも、生まじめに取り組んだ。たとえば、新橋で一杯飲屋をひらいたことを世間は唐牛の無頼もしくは酔狂として取沙汰した。しかし、それも唐牛にとっては不可欠の餌なのであった。それまでの数年、私は彼と音信が途絶えていたので詳しいことは知らぬが、唐牛が千円の金にも窮する生活をしていたことをあとでまわりのものからきかされた。その直後、私は唐牛と再会した。ちょうど全共闘が暴れていた時期、酒と花札と駄法螺をまじえて、三〇歳をこえたばかりの男たちが五、六人、あるときは暴発し、ほかのときはのたうつといった調子で毎夜を過していた。私のような貧乏人がスポンサーにならなければ酒席が成立しないという夜も少なくなかったのだから、みんな餌に飢えていたのである。

 全学連委員長になって上京して以来、唐牛が飢えから解放されたことは一度もなかったといってよいだろう。この方面の問題について、ブントの連中は酷薄なまでに相互扶助の精神をきらった。みんな自分のことで精いっぱいだったともいえるし、相互の自立を重んじたともいえるが、もっとざっくりいえば、自分のことしか考えぬエゴイストが大半だったということである。さらには、かつての同志が社会の階梯を滑り落ちていくのをみることに、いわば自己安堵の快感を感じるものもかなりいたというのが私の判断である。唐牛なんかと付合っていてもろくなことはないぞ、という忠告を私はなんどもきかされた。これが人間社会の残酷な現実であり、ブントもまたその例外ではありえなかったというだけのことであろう。また、滑り落ちた人間およびはずれた人間のがわからいえば、ひとたび革命や自由のことを口にしたからには、自分の不遇について不平を口外する権利はなにひとつない。これが過激派政治の鉄則である。唐牛は、全学連委員長であったという一事によって、この鉄則の一番手の適用例になるほかなかったわけである。

 六〇年代の前半、二番手か三番手かははっきりしないが、私もまたそうした適用をうける立場にあった。私は、自分の砕けた破片を拾い集め、張り合せようと心に決めた。そして万が一そういう機会がくるものならば、社会という名の坂をよじのぼってみるのも悪くないと考えていた。そして、そうした試みが失敗に帰したら、北海道にわたる以前の先祖の地であるらしい北陸で農夫にでもなろうかと夢想していた。そのとき唐牛は、田中清玄に近づいたことを最初の一歩として、次々と社会からずれていく径路、少なくともそうみえる径路を選んでいた。むろん、どちらでもよいのである。唐牛の漁師的やり方と私の百姓的やり方のあいだに優劣の差も善悪の差も美醜の差もないと私は思っている。結局は、うまれついての性分が岐路において作用したのだろうとしかいいようがない。

 ただ、ひとつだけ気になることが残る。私には両親と兄妹がそろっていた。帰ろうと思えば帰れる家族の小宇宙というものがあったのである。唐牛にないものが私にはあった。実際には、家族がなにか計量しうる効力を発揮するのは、貨幣とか権力によってであり、私の家族はそういうものとは無縁である。しかし、家族があるという感覚それじたいが、人生のぎりぎりの地点で効力を発揮するのだと私は思う。孤独の深さや大きさが画然と異なってくるのである。呑気に惰眠をむさぼることのできる場所があるかどうかが決定的な作用をおよぼすような人生の局面というのもあるのである。唐牛の場合、家族の規模は極微であり、しかもそこには哀切の情が抑えようにも抑えがたく充満していたはずである。そうした事柄に思いをめぐらすとき、それが幸運なのか不運なのかは解釈次第というわけだろうが、唐牛が人並ではない悲哀の感覚にとらわれていただろうことに無関心でおれなくなるのである。

 唐牛の一周忌に、情報収集というおおいに気のすすまぬ仕事をかねて、函館へいってきたときのことである。彼の高校時代の同級生にあたるある女性が「横浜に唐牛さんのお孫さんがいるんですって」と問いかけてきた。唐牛の語り口を想い起こしながら、私は「それはまったくの嘘です」と答えた。彼女は、「やっぱり」と認めつつも、「でも、あれだけ真剣に、なんども孫の話をされれば、本当かなと思っちゃうわよね」と呟いていた。卒直にいって唐牛は、あのように生きあのように死ぬことによって、三つの家族を破壊した人間である。母親のきよさん、最初の奥さんの和子さん、そして次の奥さんの真喜子さん、それぞれの女性が彼を愛し、信じ、許しつづけたと思われはするものの、世の常識的基準からいって、つまり観念的には拒否しえても時間の経過とともにじわっと襲いかかってくるあの基準からみて、癒しがたい傷を負ったと思われる。唐牛は家族という最小単位の社会からもずれる種類の人間であった。しかし、その喪失、その欠落を補おうとする唐牛の意欲も、孫の話を虚構するというような幻想形態においてであるとはいえ、激しいものがあった。

 「真喜子がお産のために与論島から京都へ帰る途中、船が台風にあって、死産してね。俺は子供のために鹿児島に墓をつくったんだ」と、唐牛がぽつりぽつりとした口調で話す。私の妻は、「台風の季節に妊婦を船にのせるなんて、なんていうことをしたの」とすっかり気を高ぶらせている。「うん、失敗だった。俺は阿呆だからねえ」と唐牛は神妙にしている。数年後、私たち夫婦が真喜子さんとも友人になってから、この話が嘘だとわかった。真喜子さんによれば「健太郎の悲しい物語なのよ」ということである。
 
 唐牛は餌にくいつきながら、社会の端へ端へとずれていった。しかし、そのほとんど必然のコースはつねに彼独得の物語によって色付けされていたのである。ブントにおいては、政治を賭事とみなした。清玄事務所では、野良犬として生きることの人生美学を語った。与論島にむかう際には、言葉は腐るというランボー風の物語をつくった。紋別では、自然との闘いというドラマをつくった。そして癌との闘病においては、死を嘲笑する勇気という物語を懸命に語ろうとした。自分の人生を物語の系列として構成しようとするこうした営みは、ともすれば自己劇化さらには自己正当化のにおいを呈しかねない。実際、ジャーナリズムの取材に応えるという脈絡におかれたとき、唐牛の言動にそのような傾斜がかかったことは否定できないであろう。ジャーナリズムがその傾斜をいっそう急勾配にしたのはむろんのことである。

 しかし、唐牛の信友としてどうしても弁護しておきたい点がふたつある。ひとつは、唐牛のつくった物語のほとんどが現実のものとなりおおせることなくおわったのだが、それはある意味で致し方ない話だという点である。唐牛の現実界はきびしく閉ざされており、そんな窮屈な世界のみでは彼は生き切れなかった。死の二年半前、コンピューター会社のセールスマンの仕事が暗礁にのりあげていたとき、私にしては珍しく彼に文句をいったことがある。朝方まで飲み、路上に立看板を横たえて、そのうえで寝るというようなことがつづいているというからである。なにものかにたいする怒気をたっぷりとふくんだ酔眼で私を睨み、彼は「うるせえ、死ねばいいんだろう」とはきすてた。唐牛の現実界はおおよそこのように薄氷のうえをすべっていたのである。虚構の物語であれ希望の物語であれ、そのほかなんであれ、なにかの物語をつくらなければ呼吸も叶わぬ次第であったろう。コンピューター会社では彼流の物語が創作できなかったのである。要するに、唐牛の物語は見果てぬ可能界に想像を馳せるためのものであって、現実界はそれとして残酷に進行していたということである。

 弁護したいふたつめは、平凡な物言いをあえてするが、唐牛の物語は六〇年安保の全学連委員長という十字架のうえに刻まれていたという点である。それがちっぽけな十字架であることを彼は承知していた。しかし背負ってみれば、当事者でなければわからぬ重みがあったのだろうと推察される。また、苦痛の種ともなれば快楽の種ともなるその重量感に親しんでいるうち、その十字架は彼の肉体の一部に化さんばかりになっただろうとも推察される。唐牛は委員長にふさわしい生き方を追い求めていた。六〇年安保が昔話の一項目にくくられる時期になっても、なおもそれを追い求めなければならないのが彼の宿命であった。自分の気性、能力、環境条件などを吟味した結果として選んだのが、あるいは選ばされたのが、「ずれていくスタイル」である。それ以外のスタイルを彼はみつけられなかったのだ。委員長としての恰好をつける仕事において彼は合格点をあげたということなのだろう。そのような仕事にたいしどんな社会的評価が与えられるにせよ、仕事が与えられれば、それに精出すのが彼の流儀とみえた。もっとも私個人にかんしていえば、唐牛がどれほど恰好を失おうともまったくかまわなかった。私の彼にたいする関心は主に彼の暗闇の領域にむけられており、明るみのなかで彼がなす演技の意味は、私のものもまたそうであるように、自明の領域に属していたからである。

 長崎浩は、唐牛が「ぶらぶらしつづけた」のは「世代の暴力」によるのだ、といっている。本当にその通りだ。もっといえば、直接に手を下したのはブントである。高校時代は無口な文学少年で、北大時代は僻地で子供を教えることを私の兄と語らっていたような、母親思いの変哲のない青年に十字架を背負わせたのはブントである。むろんこんなことは、歴史とはたいがいそんなものなのだから、いったとて詮ないことではある。しかし、世代および組織の暴力にかんする最低限の自覚すらない唐牛評がこの二五年間につもりにつもったという事実を前にしては、十字架を背負ったもののパッションについて再度注意をうながしたくなるわけである。

 パッションとは情熱であるとともに受苦である。「船の上で、狂暴な漁師が中学を出たばかりのがきを苛めるんだなあ。俺がそのがきをかばえば、喧嘩になり、港につけば喧嘩の延長戦さ。五分も殴り合えば、こっちも年だから疲れはてて、ぶっ倒されて踏んづけられて、鼻血がだらだら、気を失いながらパトカーがピーポーピーポーと近づいてくるのをきいていると、おい西部、パトカーのサイレンてのはきれいなもんだぜ」。こういうやり方が唐牛の情熱であり受苦である。この話が嘘か真か、誇張か控え目か、そんなことはどうでもよい。いずれにせよ、唐牛の精神の型とはそうしたものであった。彼の生活がその精神の型をほとんど職人の器用仕事のようにして彫りつづけていた。情熱という能動的行為と受苦という受動的行為のあいだで平衡をとろうとする彼の生活術は、ちょっとした変換をほどこせば、たとえば私の仕事である文章にも通じるものである。その意味で、唐牛という死者は私のなかでまだ生きているといわなければならない。
 政治
 政治、といえるほど大袈裟なものではないが、とりあえず私たちが二五年前にやったことを政治とよぶならば、私の場合、政治における唐牛との接触はほとんど皆無である。集会や会議で袖擦りあうことはあったが、直かに対面するという形で政治について語ったことはないのである。その理由は、ひとつに、共産党との闘いのために私が東大教養学部(駒場)を離れることが難しく、いきおい、全学連書記局との関係が疎遠になったということである。ふたつに、私は当時の書記長でいまは中核派の最高幹部であるらしい清水丈夫と、お前ら精神的ホモ・セクシャルかと周囲からいわれたことがあるぐらいに仲が良く、私にとって、書記局とのつながりはそれで十分なのであった。

 それのみならず、政治運動の流れに即してみても、彼と私はすれちがいが多かった。唐牛が全学連委員長になった一九五九年の初夏から秋にかけて、私は札幌で無為に暮していた。その年の一一・二七国会突入事件のときは、唐牛は関西にオルグにいっていたとのことである。またすでにのべたように、彼が装甲車をのりこえていた六〇年の四・二六事件のとき、私は池袋の映画館にいた。私が首相官邸や国会へむけてのデモをなんとかかんとか指揮していた五月から六月にかけては、唐牛は巣鴨の拘置所にいた。お互いにその年の末に拘置所を出てから、六一年の春までのブント崩壊期にあっては、唐牛は戦旗派という分派にいて革共同(革命的共産主義者同盟) への移行を画策しており、私は、清水が可哀相なので彼の組織したプロ通派(プロレタリア通信)という分派に所属していたが、要するにブントに最後の時の鐘が鳴るのをじっと待っていた。結局、二人が一緒にいたのは羽田空港の喫茶店においてだけということかもしれない。そこでコーヒーを飲んだというのではない。六〇年の一・一六に、指導者の全員投入というブント中央のおそるべき革命的方針のもと、みんなして喫茶店という袋のなかの鼠になりはてたときの話である。こんな次第であるから、唐牛の政治的側面については遠景しか描けないのである。

 しかし、唐牛と私のあいだにある種の政治的信頼感情が交換されていたことはたしかである。それには同郷の友誼、しかも私の兄が唐牛の友人であったことがあるという友誼も作用していたろうし、また、ブント最高のオルガナイザーであった清水がその感情交換をうまく媒介してくれたという事情も作用していたにちがいないが、それだけではない。気障ときこえるのをおそれずにいえば、アクティヴーニヒリズムを共有するという相互理解が、曖昧なものであったとはいえ、成り立っていたと思う。時期も場所も思い出せないのだが、ともかく安保闘争の途中、「最近なにやってる」と唐牛がきくので、「マルローの『レーコンケラン』を読み直して空気を入れてるところさ」と答えたことがある。彼は「ああ、あれは俺のバイブルだよ」と嬉しそうにしていた。一九二五年の広東蜂起を題材にしたその書物は、私のみるところ、マルローの活動的虚無主義の思想がもっとも濃厚に凝縮されたものである。因みに、「空気を入れる」というのは気力を充実させることで、たぶん清水あたりが留置場から仕入れてきた隠語であろう。

 それゆえ、六〇年の三月の末か四月の初め、ブントの組織に羽田事件で穴があいて空気が抜け切っていたとき、都内の自治会の代表者会議(都自代)で、唐牛が「いまヒットラーの『マインーカンプ』を読んでいる。共産党との闘いをすすめるうえでいろいろ有益である」というような文句を報告のなかにまじえたとき、私にはその真意がすぐ理解できた。それは、アクティヴーニヒリズムを掻き立てなければ切り抜けられないような危機がブントに迫っているということをいうための隠喩なのだと思われた。そのころの私たちに書物をじっくり読む暇も気持の余裕もなかったのであって、『征服者』にせよ『わが闘争』にせよ、ちょっと斜め読みするだけのことであり、それであと一週間を生きるためのイメージが湧けば上出来なのであった。

 唐牛のアクティヴーニヒリズムの淵源がどこにあったか、私の場合を下敷にしてのことであるから大雑把な類推にすぎないが、次のようなことかと思う。まず少数者の感覚というものがあった。少数派は短期においてはかならず敗北するであろうと予感し、そこからニヒリズムへの接近がはじまる。しかし長期においては、少数派の言い分が勝利しないまでも他者に通じるであろうと思い込むことによって、活動へと誘われる。おおよそこんな心理の仕組によって少数派にアクティヴーニヒリズムのにおいがたちこめるのである。

 ただし、少数派の感覚というものにも二種類あって、ひとつはエリート的のもの、もうひとつはアウトサイダー的のものである。唐牛はあきらかに後者に属しており、私も東大生としては珍種といえるぐらいに後者に与していた。なぜそうなったか、知る由もないが、唐牛についていえば、高校二年のとき、それまでの野球部の仲間が「ちょっと恐くて近づけなくなった」というほどにグレたこと、また私については、同じく高校の二年まで、あとで暴力団の幹部になった本格的な不良少年と親友であったことなどを思い起こすと、アウトサイダーへの傾きは生来の気質や幼児期の体験にふかく根差しているのだろうと推測される。むろん、そうはいっても、大学に入って左翼の集団運動をやるわけであるから、局外者の精神といってもたかが知れている。私のいいたいのは、ブントがそうした傾きを秘めていたこと、唐牛がその傾きをいささか如実に体現していたこと、そして私がそれを好ましいと感じていたことにすぎない。

 しかし、安保闘争のあいだの唐牛には、アウトサイダー的の気分が特殊に増幅される要因が、ふたつばかりあったことを認めなければならない。ひとつは、北大生であるために、都内の大学に足場がなく、いわば大衆運動のデラシネとなりがちであったという点である。根無草であるにもかかわらず街頭ではいつも先頭に立たなければならないというのは、ずいぶん不安定な気分であったろうと、いまにして同情される。世人にはわかりにくいかもしれないが、デモ隊が街頭に出てくるまでには、数週間さらには数カ月におよぶ宣伝煽動の活動そして組織化の活動がなければならない。その過程に直接に関与することが少ないというのは、私的には安楽かもしれないが、政治的には不安である。唐牛にあって、その種の不安がアウトサイダーの気分を加速したであろうことは想像しやすいところである。

 ふたつに、全学連のイニシアティヴにたいして東大が依然として大きな影響力を与えつづけており、唐牛はなにほどか外様の地位におかれつづけたという点である。書記局トロイカとでもいうべき、唐牛、清水そして青木の人間関係は、それじたいとしては、支障なくすすんでいるようにみえたが、実際には、清水の卓越した活動力に権力が集中し、少なくとも東大ブントは、本郷にせよ駒場にせよ、清水のいうことならば信頼しようという構えにあった。もっといえば、彼の信友としてはいいにくいことだが、東大の連中には唐牛にたいする軽侮の念が、それほど強いものではないが、ひろくゆきわたっていたと思う。唐牛のもっている非理論的な雰囲気にたいし東大ブントは、そしておそらく早大ブントあたりも、反発しないまでも、心配そうに眺めている気配であった。そういう集団心理の動きをあの敏感な唐牛が察知しないわけがない。激しい運動の連続であったから、そういう政治組織につきものの心理的確執が深刻化する余裕はなかったのであるが、ともかく、そうした意識が運動の流れに密着できないという感じを唐牛に与えたのではないか。

 よくいわれているように、唐牛は「全学連のシンボル」にはちがいなかったが、その象徴には小さくない屈折と亀裂が走っていたのである。またそのことを考慮に入れなければ、六〇年の春に唐牛がなぜあれほどに虚無的に生きていたか、そしてその虚無を発条にして、肉体を言葉に化するような行動へと突っ走りえたかをよく説明することができない。私は、いってみれば東大のなかの唐牛というような立場にいたからわかるような気がするのだが、街頭でアジって逮捕されて裁判所にいく役割のものたちのなかの大立者、それが唐牛なのであった。唐牛はその役割をみごとに果たした。役割を全うしたとて、そのあと組織の支援はなにひとつ期待できない状況にあったという事情を加味すれば、彼の役割完遂は最大級に立派だったといえる。だがそれは、アウトサイダーに特有の「個人的心情の賭事」として実行されたのであって、そうであってみれば、唐牛の心胸にどんな思いが去来した挙句、装甲車にとびのったものであるか、せめて私ぐらいは考えてやりたいのである。

 「唐牛のやつ、こんな忙しいときに、金もって箱根にいっちゃったよ」と清水がこぼしていたのは、やはり、六〇年の四月のころだろうか。それをきいても、私は、清水がしんどかろうと同情した以外は、とりわけどういうこともなかった。後年になって、そのころブントが田中清玄から資金援助をうけていたと知らされたときも、その金の一部が箱根で費消されたのかしらんとごく当り前の推理をしてみただけで、どうということもなかった。こうした問題についてはいろいろの解釈が可能だろうが、ぎりぎりのところでなされた行動ならば、私に直接の被害がこないかぎり、気にしないのが私の癖のようだ。私には、むしろ、唐牛の心の虚無のことが、自分もまたそうしたものをかかえていたという背景もあって、思いやられた。四・二六における唐牛の果敢ぶりをきいたとき、それが彼のふかい絶望の証しであると察せられたのはそのためである。

 それゆえ、彼が革共同への移行を率先したのは、ながいあいだ、私にとって不愉快な事実であった。限界的な組織としてのプントにおけるもっとも限界的な人間として、唐牛の政治生命はブントとともに終わるべし、というのが私のひそかな物語であった。私自身もまた、書記局トロイカのいわば弟分にふさわしく、その物語にのっとって行動する腹づもりでいたのである。

 六一年の正月、清水が札幌の我家にやってきて一週間ほど泊っていた。清水も私も、政治についても個人生活についても、なんの展望ももちえず、ほとんど陰惨といってよい有様であった。店牛がちょっと顔を出したが、学生運動における新権力となりつつあった革共同への移行を実現している最中のこととて、意気揚々の感があった。はっきりいえば、傲慢の風情があった。東京へ帰る列車が偶然に同じで、清水と私が座席がなく立っていると、唐牛と篠原浩一郎が食堂車にでもいくのか、通りかかった。私は「よお、唐牛」と声をかけたのだが、二人はお前らなんぞ歯牙にもかけぬといった調子で、見向きもせずに通りすぎていった。たしかに、清水のことはいざしらず、私については歯牙にかけるほどのものではなかったようだ。あえてそのようなものになろうと決意した矢先でもあった。

 私は清水にたいして「政治的に生き延びよびようとするなら、革共同にいくしかない」という話はしていた。そのころの清水は変に私の直観を評価するところがあったので、私の仮定法の話も参考材料くらいにはなったのかもしれないが、間もなく彼も革共同への加入を決心した。私はといえば、すでに五九年の春、ブントに厭気がさして、革共同に加入してみようかと思ったことがある。革共同の連中が四、五人、駒場の矢内原公園にあつまってくれており、そこにむかおうと駒場寮を出たところで、清水に遇った。清水は、誰しもの胸襟をひらかせずにはいないような、あの人なつっこい笑顔で近づいてきた。「この男と訣別したら、あとで後悔することになるな」と咄嗟に判断して、私はブントにとどまった。革共同の人々が呆れ、怒ったことはいうまでもない。そんなこともあって、六〇年のあと革共同にいくことなど私の念頭を横切りもしなかったのである。

 清水は私の会った人間のうちでもっとも純粋な政治人間であるから、彼が革共同にいったことに不思議はなかった。しかし唐牛については不可解なものが残ったのである。彼自身にとっても不可解だったのであろう、一年かそこらで革共同をやめ、清玄事務所に転じた。結局、唐牛の革共同加入について私の思いつくのは次の二点である。ひとつは、唐牛がまじめな人間だったということである。彼は、せめて一度くらいは、共産主義、革命、組織といったような事柄について自力で理屈づけ、自力で方針を捉示しながら行助してみたかったのではないか。青木によれば、「あのころの健太郎は毎日机にむかって真剣だった」と和子さんがいっていたそうである。プロ通派にはなにかをまともに考える力はもうなかった。東大本郷を中心とする革通派(革命の通達)は、宇野弘蔵の経済理論に依拠しながら、革命についての空論を通達していた。唐牛が革命についてまじめに考えようとしたら、とりあえずの寄る辺を戦旗派そして革共同に求めるしかなかったのであろう。

 ふたつめは、平凡なことだが、唐牛はひとりぼっちになるのがこわかったのではないかという点である。北大はすでに除籍になっていたし、彼の生きる基盤は、さしあたり政治的に延命することだけだと考えられたのではないか。また、全学連の委員長ともなれば、私の選んだような虫のように生きるやり方を採用するわけにもいかなかったろう。そしてここでも、帰ることのできる家族すらないという感覚が意識の底に流れていたであろう。だが、どんな動機があったにせよ、革共同が唐牛の住処にはなりうるはずもなかった。要するに、組織の論理がつらぬく革共同はアクティヴーニヒリストとしての唐牛にもっともふさわしくない場所だったのである。

 七五年、紋別の唐牛の家で、夏にもかかわらずストーブを囲みながら、彼と私は例によって馬鹿話をつづけていた。真喜子さんと私の家族はもう寝入っている。彼は三日間の漁から戻った直後で、疲れのためであろう、いつになくはやい酔いっぷりである。私の方も、慣れぬオホーツクの気候のせいで妻と娘が喘息になり、その看病でへとへとといったところで、同じ具合である。両者の心身がどろんと麻痺してしまったと思われたとき、唐牛が不意に、話の脈絡なしに、「俺、革共同にいかなきやよかったな。ありゃ、まずかったな」といったまま、じっと床をみつめている。私の錯覚かもしれないが、唐牛は泣いているようにみえた。私は一瞬、あれから一五年たち、もうほとんど誰もことの次第など憶えていないのに、唐牛の時間は六〇年でとまったままなのか、とびっくりした。私が憶えているということを唐牛は知っていて、そういったのだろうか。それとも、革共同がふたつに割れ、中核派と革マル派が殺し合いをしていることについて、あのとき自分が革共同加入の旗を振らなければ、と悔いるところがあってのことだろうか。それとも、彼独得の潔癖で、アクティヴーニヒリストとしての自画像に小さな汚点がついたことを嫌悪したのだろうか。いずれにせよ、私のいえたのは「ありゃ、仕方がなかったんだよ」ということだけであった。

 私たちが政治をやったといえるのはほんの一年かそこらなのだから、ブントや全学連を背負って生きる必要などなかったのだ、という気がせぬでもない。唐牛自身が、藤本敏夫との対談(朝日ジャーナル、八三年二月一一日)で、「大体、学生運動ってのは、たぶん、かなりくだらないんですね」と認めているのである。また、司会者の「六〇年安保全学連は何を残しはったんですか」という質問にたいして、「そりゃ、何も残らんかった」と答えて、聴衆を笑わしてもいる。そこまでわかっていながら、なぜ唐牛は記憶としてのブントや全学連を、しかも幻影としてのそれらを、ああまで執拗に引受けなければならなかったのか。それがあてがわれた役割の演技であることはすでにのべた。しかし、役割を取得する積極的動機が唐牛のがわにもいかほどかあったと考えるのでなければ、あの執拗さをうまく説明できない。

 彼が意気がり屋であり、目立ちたがり屋であり、寂しがり屋であったということを動機に数えあげるひともいる。それはそうなのだ。しかし、紋別で十年間にわたり黙々と漁師をやりつづけたのはほかならぬ唐牛である。意気がるまい、目立つまい、寂しがるまいとする彼の努力もまた相当のものだったのである。夜の二時、三時に、たとえば花咲港の飲屋から電話がきて、ダミ声で演歌をうたっているというようなこともなんどかあったが、それも数カ月ぶりに陸にあがった解放感のためとなれば、ごく通常の振舞といえる。

 私は唐牛がインテレクチャルでありつづけたということに注目したいのである。信じていただけないだろうが、唐牛と私の会話はうわべは馬鹿話であったが、ひと皮むけば、おおいに知的なのであった。知性主義的な語彙や論理は極力回避されたけれども、おたがいに知力を総動員して馬鹿話を組立てていた、といってもそれほど誇張ではない。だから、先の対談で、「何かインテリがばかにされたような話が、藤本さんから出ましたけれども、私は自分では正真正銘のインテリだと自負しております」と唐牛はいったが、それは本気でそういっているのである。彼はたしかに感覚的に行動する人間ではあったのだが、自己の感覚の流れ、揺れ、渦巻を観察するもうひとつ別の自己を手放すことがなく、そのもうひとりの唐牛がはっきりと知識人の風貌をもっていたのである。少なくとも、知識人の重要な仕事がヒューマンーネイチュアーを論じることに、つまり人性論にあるとするならば、彼は優秀な知識人であったといえる。

 ただし、私のみるところ、唐牛が人性論をやるとき、その素材が六〇年をめぐる事件およびその関連に求められすぎた、という気がする。逆にいえば、彼は知識人でありつづけるためには、六〇年にとどまらなければならなかったし、ブントや全学連にこだわらなければならなかった。私とてそうだということもできるが、正直いって六〇年は、知識人としての私にとって、二五分の一とはいわぬまでも、まあ五分の一の重みである。それが唐牛にあっては五分の四だったような気がするのである。彼は土方や漁師をやることによって人性論の素材をたっぷりと獲得したのだが、それは六〇年問題との対比において分類され分析されるのであった。六〇年を引受けることにおける唐牛の執拗さにはこうした知識人への志向が関係していたと思わずにはおれないのである。

 真喜子さんによれば、死の何年か前、「西部みたいな学者と話しているのが一番気が落着く」と唐牛がいってくれたことがあるそうである。私のことはどうでもよいのだが、こういう話をきいたときに私の思うのは、生活者として非知識人もしくは反知識人でありながら、知識人の精神で生きざるをえなかった人間のうちに蓄積される疲労のことについてである。自分の疲労を人前ではおくびにも出すまいと努める点で、唐牛の強靭さは群をぬいてはいた。しかし、そんなことをしても疲労がたまることに変りはないどころか、いっそう疲労が大きくなるのである。私は、唐牛の癌はそうした疲労に由来するものと、半ば以上、信じている。まだ彼の癌が軽微だと考えられていた段階で、私は思わず、「癌が治ったら、もう面倒だから、まるごと知識人になっちゃったらどう」といったことがある。彼の返答は、予想どおりのもので、「馬鹿こけ」というものであったが。

 彼の「ずれるスタイル」は自己主張の途であるとともに自己犠牲の途であったといえる。人それぞれこうした途を歩むものではあるが、唐牛の場合、その不可逆性がきわだっている。つまり、良いことか悪いことかそれは解釈次第だが、引返しようのない途だったようだ。その決定的な一歩は、やはり、田中清玄のところにいくことによって印されたのだと私は思う。イデオロギーや組織やなにやかやにおいてあくまで嫡子の系統を重んじるのは政治の世界ばかりではない。世間一般が正統性を重んじることにおいて成立っているのである。世間は、唐牛の庶子的行動を許しはしなかった。その行動を非難しないとしても、清玄と結託したものという標識をはりつづけた。彼もそれを覚悟のうえで踏み切ったはずである。いや彼のみならず、ブントそのものが清玄からの資金援助をうることによって、左翼政治の庶子としていつまでも記録されることだろう。この点でいえば、唐牛はここでもブントの宿命を背負ったのである。

 すでにのべたように、私は庶子的行動にたいして、寛大というよりも好意的であるから、ブントや唐牛が切羽詰まって、少なくとも詰まったと思って、清玄から金をもらったのだろうとしか思わない。しかし、近年になってなんどか田中清玄という人と面談してみた結果、自分には折合えない人だということがわかった。だから、想像してみるだけだが、もし自分がブントの資金担当者だったら、ちょっと違う行動をとったかもしれないと考えたりする。また、ブントにせよ唐牛にせよ、切羽詰まったと思うのが早すぎたかもしれないと思う。当初から切羽詰まったところにはじまった六〇年だったのだから、じっとしているのもひとつの手だったとも思われる。しかし、それが後思案だといわれればその通りで、それ以上、私のいうべきことはない。

 なぜ清玄の問題にこだわってみたかというと、そのことに関連して、私自身に忘れられない小さな出来事があったからである。唐牛が宇都宮刑務所を出たあと、彼と青木と私の三人で渋谷のある酒場のとまり木に坐っていたことがある。当時の私は、いってみれば、切羽詰まった状態にあった。唐牛は私に「おい、お前いくとこないんだろ。清玄のところにこないか」と誘った。私は黙っていた。数分後、唐牛がトイレに立っているあいだ、こんどは青木が「おい、大学院を受けてみろよ。近代経済学の本を貸してやるよ」と勧めた。私は、またぞろ咄嗟に、青木の勧めにのることにした。いずれ実刑になると予想していたのだが、それまでのあいだ、勉強とかいうものをしてみたいという欲望が急にこみあげたわけである。結局、奇跡のようにして私は実刑にならず、大学院を出て、学者になって、いまこのように非学問的な文章を書いている。もしあのとき唐牛の誘いに応えていたら、いまごろなにをしているのだろうか。

 いや、架空の因果の糸をたどってみても致し方ない。ともかく唐牛は清玄事務所を振り出しにして、もはや引き返しようもなく、逸脱者として生きつづけた。正確にいえば、それからはなにをしようとも逸脱者とみなされることになった。週刊誌ジャーナリズムが間歇的に元全学連委員長を追い、軽い揶揄をまじえて逸脱者の浪漫を二頁ものの記事に仕立てあげた。唐牛の方も逸脱者として、言動を提供することに便利を見出しはじめた。逸脱者は、それがひとつのイメージにまとめあげられるならば、それなりに社会のなかで流通するものだからである。

 この方面において、唐牛はある意味で政治的に行動しつづけたといえる。世間が「逸脱者の浪漫」とみなすだろうような仕事に就きつづけたということである。たとえていえば、僻遠の地での土方はそういう浪漫を世間に与えることができるだろうが、都会における学習塾の教師ではそれができない。本人の好みもあるにはあったが、自己のイメージをめぐる世間との政治的駆引の要素もそこにはあったのではないかと思われる。

 しかし実際には、清玄事務所を出てから彼のなしていたことはといえば、逸脱も浪漫もありはしなかったのである。仕事の規則や必要にひたすら忠実に従って働くこと、それが唐牛のやり方であった。とくに紋別における一〇年間の漁師生活は、社会の仕組に莫正面から同調しようとする、健気といってよいような営為であった。世間がそれを逸脱のポーズととることは承知のうえで、彼は修行者のような面持で働いていた。世間のみならずブント関係者のほとんどがそのことを知らない。しかし、その漁師も二〇〇海里問題の余波でやめざるをえなくなり、それから母親の死を看取ったあと、彼は上京してきた。彼の上京を歓迎する集まりがあったとき、彼は私の耳元で「勘弁してくれ。北海道で完全に乾上っちやってな」という。私が勘弁するもしないもない話だが、またしても餌にとびつくしかない破目になったことの報告なのであった。そしてその報告をきいて私は、まさか彼の死までは予感できなかったが、かすかに不吉なものを感じていた。

 これで唐牛健太郎のことをおおよそ語りえたと思う。つまりは、彼は彼で、吾は吾で、どうしようもなくこうなってしまう仕儀だったという平凡な話におわるのかもしれない。ただ、私の六〇年以降の人生において、いままでは、ずっと唐牛の姿がみえていた。それは、近づいたり遠去かったりしながらも、つねに私の視界のうちにあった。彼の生活や彼の政治が私の人生に影響を与えつづけてきたことは疑うべくもない。ということは、唐牛が故人となってしまったこれからは、私の人生の風景が変るということである。私の記憶力そして想像力の限界からして、彼の姿が少しずつおぼろになってゆくと予想されるからである。しかし、死の間際における唐牛のあの顔は、ひょっとして、「俺のことを忘れてくれるな」という要求だったのではないか。そうだったと思いたい。そうでなければ信友の間柄とはいえないからである。死ぬのも大変だったろうが、生きているのも大変だという次第である。

 「私の中の唐牛健太郎  島成郎」。
 一九八四年三月四日、午後八時半過ぎ、沖縄宣野湾の我が家に独りいた私に電話がかかってきた。東京の芹澤誠治が、いつもの底が抜けたような大声とはちがった淡々とした口調で「唐牛が死んだ」ことを伝えた。すでにその数週間前から、真喜子さんとともに病床につきっきりでいた篠田邦雄らから殆んど毎日、遠く南大東島の巡回診療先まで、危篤状態に陥った唐牛の病状が伝えられていたのだったが、この報せの瞬間に私の時間はとまってしまった。

 あわただしく鳴り続いた電話の応対も上の空、やがて夜が明け、一番の飛行機で羽田へ飛び、待っていた佐藤粂吉の案内で築地の癌センター地下の霊安室に辿りつき、既に解剖を終え静かに横たわっていた唐牛にあうまでの十数時間、私は殆んど完全に唐牛と二人だけで過した。

 あのブントの時代、初めて相知ってから二十七年、私の中に生き続けてきた唐牛と二人だけの時間は、余りにも生々しく鮮烈なものだっただけに、現実の彼の死顔を見た瞬間迸った感情の爆発の中で、凍りつきカプセルに閉ざされ、私の奥深い所に追いやられてしまった。

 そして──その時からもう二年以上の月日が過ぎた。

 通夜、葬儀、納骨、一周忌、三回忌といった儀式に否応なくつき合いながら、私は同じような時問をもったに違いない多くの人たちと知りあった。そしてその一人一人の中の唐牛について聞いたのだが、その多くが私にとって未知のものであったことに驚かされた。もっといってしまえば、私は唐牛が生きた四十七年の生の実際を殆んど知らなかったとさえいえる。御両親のこと、函館の少年時代のこと、北大での活動、最初の奥さんの和子さんのこと、ヨット、石狩、与論島時代の話、長かった紋別での漁師の生活、コンピューター・セールス、徳洲会や奄美選挙活動、そして筑後まで一緒だった真喜子さんのことも、さらにこれらの時代を通してつきあった様々な分野にわたる人々のことも、聞く話が一つ一つ耳新しく、しかもそれぞれの思い入れを吐露したもので、私の唐牛の像を遙かに超えたものであった。

 この私の中でさらに大きくなっていった男の軌跡を自分なりにたどってみたいという気にもなり、函館や紋別などの地にも行き、彼を愛した人々と会うことによって、唐牛の生活に少しでも触れ、実感しようともした。しかし、知れば知る程奥行きは深く、行動は八方破れで、しかもその心情は屈折しており、到底、私が確かめうるものではないことをあらためて知らされた。そんな私が今、唐牛について何を語ることができるのか。あの死の報せの後の十数時間、すべての現実が止まったまま、私の心のすべてを占めた彼と交わした独白のいくつかを、私の中の唐牛健太郎の虚像を記す以外にはありえない。
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 一九五九年五月の或る日、私はひそかな、しかし固い決意をもって独り東北本線の列車に乗っていた。行先は北海道、札幌。当時では丸一日を要した長い旅であったが、私の頭の中は、一人の男をどう口説き落とすかという思いだけで占められていた。一人の男──それが唐牛健太郎であった。その前年の一九五八年十二月十日、私たちは、それまで所属していた日本共産党に叛旗をひるがえし、共産主義者同盟(ブント)を結成した。一九五〇年共産党に入った私は、以来、青春のエネルギーをこの党のために投入してきたのだが、五五年「六全協」と呼ばれた会議以後、開始された党改革の闘いに不退転の姿勢で立ち向かった。生田浩二、森田実、星宮煥生、小泉修吉、片山廸夫、佐伯秀光らとともに、戦前からの多くの神話のベールに覆われたこの党の誤りに挑みながら、すでに指導力を失っていた党中央にかわって自力で学生運動の再建と闘いを続けてきた。批判は進めば進む程、党内にとどまることができなかった。学生とはいえ、戦後日本の社会運動の中で一つの政治潮流をつくってきた全学連という組織を担っている以上、闘いは政治的にならざるをえない。しかも党中央によって改革の道がたたれた以上、これと常に対立しながら自立した運動をすすめてきた学生党員たちが、この党と袂別し新たな組織をつくることは必然の勢いであった。

 物心つく頃から党とともに過し、この体臭を身につけて育った私は、逡巡と躊躇の末、最後は断崖から飛び降りる気持でブント結成に踏みきったのだった。長い間の呪縛から解放された私のような経歴をもったやや年長のグループとともに、党の権威に全く捉われず自由に運動に参加していた若い学生達がこの組織に結集した。結成大会に北海道代表として出席した唐牛もその一人だった。五六年に北大に入学、その一年後には自治会委員長、更に道学連委員長、全学連中央執行委員となっていた唐牛は、この時すでに全学連とブントを支える最も若い中核の一人となっていた。

 結成とともに書記長の役を担わなければならなかった私は、当初から多くの難問に直面した。日共に対抗するのみならず、国際共産主義運動を律していたスターリン主義に反対し「世界革命」を謳い、既成のあらゆる組織への反逆を宣言したのだが、その実体は無い無いずくしの学生小集団である。マルクス主義を掲げながらも、既成マルクス主義に反発する実に多様な心情の集まりだったともいえる。このような頼りない小組織が徒手空拳でいかにエスタブリッシュメントに立ち向かうのか。そんな思いで香村正雄、古賀康正、樺美智子らの無償で働く人たちの助けをかり、事務所をつくり、雑誌を発行しながら年を越したのだが、休む間もなく一つの決断に迫られたのだった。一つは当然予想された日共の大々的赤狩りとの闘いであり、二つには結成当時から内蔵していた革共同との競合である。一時革共同との共存、吸収を考えていた私も、この組織の陰湿さと教条主義に愛想をつかし、五九年三月にはこの両者を排してブントによる全学連の全面掌握を考えねばならなくなっていた。外部からみればたわいない人事争いともいえようが、結成したブントの意図をいかに明瞭に世に示すかに頭を悩ましていた私たちにとっては、依拠すべき唯一の組織といえる全学連を破壊工作から守り、ブント流学生運動を創る上で真剣な課題であったのだ。

 共産党的体質を持たない新しい世代による全学連幹部の一新──到達した結論は極めて単純であったが、いざとなるとそう簡単には進まない。当然のことながら焦点はシンボルといえる全学連委員長に誰を立てるかである。ブントには若い優れた人材が多く集まっていた。清水丈夫、青木昌彦、北小路敏、加藤昇、伊藤嘉六、篠原浩一郎らの面々である。委員長は中央常駐だから東京のものがあてられるのが順当だろう。東大、早大、京大といった学生運動、ブントの拠点校といわれる所から出すべきだ、等々の議論を経て何人かの候補者があげられたが、すべてそれぞれの理由で本人や組織から否定され最後に登場したのが唐牛健太郎であった。五五年以降、学生運動と党活動に明け暮れていた私の家には、いつも全学連の学生たちがたむろ寝泊まりしていたが、そんな若者の中で一際印象づけられていたのが唐牛であった。別に雄弁であったわけでない。殊更親しく個人的につき合った仲でもない。いつも二コニコと笑って他の連中からみればむしろ控え目でいるのだが、東京の者にはみられない大ざっぱでカラリとした明るいたくましさと、直観的に本質を見抜く詩人の感覚を併せもった風格は、スラッとした長い足とまだ幼なかった紅顔の少年の容姿とも相俟って鮮やかな存在として私の中にあった。勿論、ブント結成に至る過程で北海道の責任者として活躍していた彼の組織力は抜群であった。だが後年になっても唐牛に様々な場で出逢った人が一目で魅了されることになるのも、彼が若い頃から発散していた人間の匂いともいうべきものによってではなかったか、と思うのである。

 そんな唐牛を委員長にという私の提言は、最初は唐突にさえ思われ、素直に受けいれられたわけではなかった。全国闘争の経験がなく未知数である彼を危ぶむ声も多かった。また北海道の組織や本人が強く反対するだろうとの予想もあり、あれやこれやの議論が続いたが、私はこの中で逆に、ブント全学連を象徴する委員長は唐牛以外にはあり得ないと確信するに至り、最後は「島に一任する」との同意を漸くとりつけ北海道に向かったのだった。札幌でどのような会議と議論があったのかは覚えていない。しかし灰谷慶三らの北海道ブント指導部はすでに労対部長として予定してある唐牛を中央に持っていかれたら困る、島が来たら酒を飲ませて追い返せと予めきめてあったらしく、話はかなり難航したように思う。しかし執拗にねばった揚げ句、最後は本人の意志次第ということに持ちこみ、一対一の膝詰談判ということに相成った。その後の彼とのつき合いが何時もそうであったように、この時も昼間からビールを飲みながらの話であった。「東京には偉れえ人がウジャウジャいるじゃねえか、なんで俺みてえな田舎者が委員長にならなければいけねえんだ」と最初はゴネていた唐牛も、「うんというまで俺は帰らないよ」という私に面倒臭くなったのか、最後は「とにかくやってくれ」という私の懇願に「しゃ─ないな、行くことにするよ」ということで決着がついた。この時は負っていた重荷が下りた気になり、すぐ東京へ電話を入れた後、夜中までまた飲み出したのだが、新たな遙かに重い荷物を唐牛のみならず私もずっと背負うことになったという思いには、全く至らなかった。

 口説いた私に心配がなかったわけではない。東京に出てくれば当然一人で食っていかなければならないが、ブントや全学連に彼の生活や棲家を保障する力などありやしない。委員長になっても自分の依拠する場を持たないとうるさい連中の多い東京ではとかくやり難い。おおらかな北海道育ちの唐牛がそれまでの生活とは異質の体験をすることは明らかだった。そんな私の心配をよそに「東京の奴は酒をのまねえんじゃないかな?」とて一言いっただけで引き受けた彼の態度には、その後一貫してあった「生活は賭けである」という信条が既にあらわれていた。賭けはなされた。

 その1ヵ月後一九五九年六月、全学連十四回大会でブントは革共同、日共との争いを経て執行部多数を獲得、唐牛健太郎は中央執行委員長に選出される。この時、唐牛、二十二歳。
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 唐牛が全学連委員長となって東京に移り住んだのは、あの安保闘争の最中であった。生活に馴染む間もなく、闘いの場におかれたが、その場その場をしっかりと生き抜くという彼の流儀は全学連の中でも遺憾なく示され、委員長としての実力を誰もが認めるのにさほどの時間を要しなかった。七面倒な議論を嫌い行動によって決断する唐牛のスタイルはブント全学連の新しい魅力を創り出し、代々木や革共同を圧倒して大衆的支持を一挙に拡げる発条となったのだ。こうしてブントは創立一年にして全学連主流派の位置を確保したが、私たちはただ多数派を維持するために組織をつくったのではない。時あたかも日米安保条約改訂が政治日程に上ってきたのに対し、これが戦後政治の一つのキーとなると判断した私たちはこの闘いに組織を賭けることにした。五九年十一月二十七日、全学連を先頭にした数万の学生・労働者が社共らの指導部をのりこえ、警官隊を突破し国会構内に入るという闘いによって、ブントは公然と社会の前に出ることになり、翌六〇年の六月までの半年間、唐牛を委員長とする日本全学連は闘いの全局面で運動の牽引車たる役割を演ずる。この嵐の日々、唐牛は何をしていたのか。

 すでに四分の一世紀を過ぎた今でも、この時代をふり返ると、私にとってかくも濃密に日々が躍動して過された時はなかったといえよう。それはただ青春の冒険に充たされたということだけでなく、日本最大の政治闘争の中に身をおき、その大衆的運動とともに浮沈したという経験によるのであろう。繰り返された一つ一つのデモの相貌とその中での熱っぽい議論、行動を共にした多くの友の顔が私の中で浮かんでくる。委員長となってから十ヵ月の間に三回も官憲に逮捕されるという激しい状況におかれ、また組織の責任者の役割を負わされた唐牛にとっても生涯忘れ得ぬ試練の日の連続であったろう。しかし今、私の中の唐牛をブント・安保闘争の脈絡でふり返ってみると、その鮮明な画像は意外とこの闘いの主道とは離れた所で結ばれていることに気付く。それは、公式の記録からは絶対に窺い知ることのできない独特の行動パターンをもったブントの性格にもよるのだろうが、この時を生きた唐牛の奔放、型破りな行動と屈折極まりない心情に由来する。

 私の中の像は、深夜に終わる会議の後、新宿に出て飲み明かし夜が白々と明ける頃別れていくという場面ばかり明るく、公式の会議や集会で喋る唐牛など一つとして輪郭のはっきりしたものはない。はっきりしないのは当然で、重要と目された会議でも何時の間にか姿を消しているのが普通であった。本郷金助町にあった全学連の事務所でも彼の姿を見ることは余りなかったように思う。始終会ってはいたのだが、お互い私生活には口をいれず、泣きも愚痴もなく陽気に馬鹿話をするのが私たちのやり方だったせいか、唐牛があの日々どんな生活をしていたのか、詳細は今になっても定かでない。そんな唐牛であったが、私にとっては最も頼りになる友であった。政治状況が完全に流動化し、通常のありきたりの思考と行動では処しきれない局面に終始立たされ、日々賭けに似た決断が要求されていた私にとって、問わず語らずのうちに通じあう友の存在が最大の力の源泉であった。ブントには数多く優れた同志たちがいたが、私が心情的にも依拠できたものはそう多くはない。その一人が亡き生田浩二であったが、彼とは全く違った意味あいで、いわばいつもピッタリと波長があったのが唐牛であった。順風にのっている時は余り必要でないのだが、方向定まらぬまま大波にもまれている時にこそ彼の存在は私には欠かせない貴重なものだった。

 そのような唐牛の姿が私の中で今に至るも生き生きと浮かび上がってくるのが六〇年四月二十六日未明の場面である。すでに大詰めに近づいていた安保闘争は、この日に予定されていた国会デモをめぐって激しい議論に包まれていた。相変わらずのスケジュール闘争でお茶を濁そうとする社共ら指導部にたいして、全学連は再度国会へとの方針を出したが、その具体的戦術についてはブントの内部で最後まで一致がみられなかった。しかしこの日の闘い方如何がその後の展開に決定的影響を持つと判断した私は不一致をおして強行突破の方針をきめ、これに賛成するものをひそかに集めて前夜から全都をオルグしてまわっていた。全学連書記局も東大も東大駒場も反対するなかで賛成したのが唐牛だった。彼は現場指揮を志願し、方針は彼に委ねるということで学連を了承させた後、私たちとともに夜を徹して都内各大学のブント細胞や自治会執行部を説き伏せてきた。漸く一段落して新宿の寿司屋に辿りついたのは明け方に近かった。一緒にいたのは、篠原、藤原(慶久)、陶山(健一)、常木守らだったと思う。

 当日のデモに備え国会正門前に急ごしらえの装甲車を並べてバリケードをつくっている状況を見てきた私たちは、これを突破するには火を付け車を燃やすか、車によじ上って飛びこむしかないな、ということになり、アジ演説で直接呼びかけ、一人一人飛びこんだらどのくらい学生が続くか、誰がどの順番でやるかなど話しあった後は、今度は相当長く豚箱に入らなければならないだろうから、今日はゆっくり食い飲んでおこうとまた馬鹿話を交わしていた。「もし百人以上の学生が続いたら何を賭ける、酒と彼女を差し入れろ」などといいながらも唐牛は私の顔をじっと見いり「俺達は今日でパクられて終わりだからいいが、島は後、まだまだ、反対した連中ともつき合わなけりゃいけないし大変だろうな」とつぶやくようにいって杯をまたぐっと飲みほした。数刻の後「じゃな」と別れていった時には夜は完全に明けていた。

 その日の午後、国会前に集まった万余の学生たちを前に「バリケードを突破し国会へ」と叫ぶような演説をした後、装甲車に上り警官隊の中に飛び降りた唐牛は篠原らとともに逮捕され、投獄される。彼らに続いてバリケードをよじ上っては飛びこんだ学生たちは、私たちがその朝予想した数の十倍を超え、この日のデモの性格を一変させ、五月へと続く闘いの大きなうねりをつくった。

 五月、六月と大衆の参加は雪だるまのようにふえ、国会周辺は連日デモによって埋められた。そしてブント・全学連は六月十五日、再度国会へ突入する。樺美智子を失ったこの闘いは岸政権をゆるがせたが、六月十八日、空前の規模の群衆が取りまく中で安保条約は自然承認され、安保闘争は敗北の中に終熄する。しかしこのクライマックスともいえる五月、六月、唐牛はすでにいない。唐牛にとっての安保闘争は四月二十六日をもって終焉したのだった。後年語られるような、水際だった演説をし颯爽として全学連デモの先頭に立つ若き獅子、唐牛委員長の姿は、四・二六をもって最後とする。そして──私の中に現在まで鮮明に残っている唐牛は、同じ六〇・四・二六の日付であっても午後の国会前の英姿ではなく、暁の新宿の飲み屋で私につぶやくような言葉を吐いて別れた後姿である。
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 六〇年十月、六ヵ月の巣鴨生活を終え娑婆へ出てきた唐牛は、引く手あまただったブント諸派の誘いをふりきって最初に私の所にやってきた。安保終了後のブント分裂の中、手を拱いて全く無為の毎日を送っていた私にとっては、まさに遠来の客であったせいか朝まで飲んで揚げ句の果てはともどもひっくり返って寝てしまった。唐牛にしてみれば半年の隔絶された独居のうちに、あれよあれよと移り進んでしまった世の中の動きを掴んで現職委員長としての身のふり方を相談する気があったのだろう。しかし、すでにブント崩壊すべしと判断し、なるようになれと書記長としては無責任極まりない態度でいた私は、「好きなようにすればいいのじゃないか」といった調子で、彼も「じゃ、そうするか」などで終わったように思う。ただ、あの四月以降の闘いとその後のブントの内部闘争の筋道を、私の酔っ払った勢いの片言隻句からピタリと察知しただけでなく、ふて腐れたように事態収拾にも動かなかった私の心内を鋭く感得した唐牛にあらためて深い親近感を抱いたことだけは確かな感覚で残っている。

 この日以来始まった唐牛の逡巡と彷徨の歩みは、安保闘争の敗北とブント分裂・崩壊の中で私たち一人一人が味わった苦渋に満ちた模索と著しく異なったものではなかった。例えばブント分裂諸派の一時の選択において唐牛は、最も近かったといえる清水、青木らの全学連グループと袂を分かち、古賀、常木らの戦旗派に属した。その後、戦旗派の一部が黒田寛一らに屈伏し、更に清水、北小路らが同じく革共同に移行する流れの中にあって、後年最も唐牛らしからぬといわれた行動──革共同加盟の道をとる。この六一年のブント転向劇の進行にはさすがに私も唖然として、真底ブントは崩壊したと自分の行為とともに、苦く苦く噛みしめていた。当然のことだが、本質的に相容れぬ革共同との同棲は長くは続かず、やがて政治的生活から離れた唐牛の無頼の日々が続く。夜になるといずこからともなく集まっては飲み、夜明けまで町を徘徊し、朝になると綣どこかの家でぶったおれるように重なりあって寝てしまう。そんな生活があくことなく繰り返されたが、この頃、最もよく唐牛と一緒にいたのが篠原であり東原吉伸であり、青木であり、そして私であった。この時代でも私たちは何時も陽気であり、酔えば子供じみた悪ふざけに興じていたが一人一人の胸のうちにはさまざまな思いが渦巻いていたのであろう。

 そしてなによりも、熱気に溢れていた学生運動の現場から離れてみた時に、磐石の重みで襲いかかってくるのは食わねばならぬ生活の苦痛である。私も共産党時代から女房の稼ぎで漸く生計を維持していたのだが、毎日することのなくなった六〇年以降の数年間、十円の電車賃がないために一日痴呆けたように寝て過したこともすくなからずあった。それでもまだ食えるものと酒だけはなんとかいつもあったためか、蛸部屋のような私の家には金のない連中がいつも誰か泊まっていた。そして仕事をしていた女房の金を虎視眈々と狙っていた筆頭が唐牛であった。ない酒代をどこからとなくせしめたり、ただ酒の場を探してくるのに天与の才を発揮した第一人者でもあった。しかし、いかに若さに任せて奔放にふるまおうとも、自分の手で食うことをしない生活は所詮書生っぽの馬鹿騒ぎに過ぎない。今考えれば懐かしい無頼な彷徨の数年の後、一九六三年、唐牛も私もそれぞれ生活の道を歩むことになる。病いに倒れた女房に代わって私は塾をひらくことで急場をしのぎながら、ながらく捨てていた医学の道に再挑戦することを決意、悪戦苦闘の末、六五年、医師の免許を手にした。唐牛も六〇年以来親しくつき合っていた田中清玄氏の事務所で働くことになる。二十六歳のことである。
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 ところがこの実社会での再出発という最初のとばくちで、唐牛は生涯ついてまわった「六〇年安保闘争の全学連委員長」という称号の負の力をまず味わわねばならなかった。唐牛ならずとも、若き日革命を論じ左翼運動に走ったものならば誰でも、社会の報復の厳しさに一度は身を哂さなければならないだろう。唐牛がエネルギー・コンサルタント企業なる会社でサラリーマンの生活に入ったとき寄せられる非難も本質的にはその次元のものに過ぎなかったといえよう。しかしそこでの登場人物があの田中清玄であり、あの唐牛健太郎であったことから、左翼諸党派やマスコミの悪意ある攻撃を一斉に浴びることになったのである。この「事件」はその後も繰り返し流布され、「唐牛物語」の一つの色合いにもなり、胸くそ悪い評論や憶測を多くつくりだしてきたので今さら多く述べる気もしないのだが、唐牛と田中氏との交わりに当初から最も近くにおり、あの報道の最中にも彼と共に過すことの多かった私としては、やはり一言だけはいっておかねばならないだろう。

 悪煽動の一つ、金のことについていえば、政治組織をつくり闘いをしようとするならば金が要るのは自明の理である。あの安保闘争が私たちの当初の予想を遙かに超えた大闘争になった中で、ブント書記長としての私の仕事の大半は金づくりであったとさえいえる。記録には全く残らぬこの労多き仕事に黙々としてあたった生田、香村、東原、神保誠らの手をかりながら、これまたブント流に大らかに金をつくったが、その中で当時としては大口といえる寄付者の一人に田中清玄氏がいた。しかし大金持とは決していえぬ氏のカンパは、ブントや全学連の全闘争資金からすれば数パーセントに過ぎず、ましてやこれによってブントや全学連が動かされたなどという話は笑止の限りといえよう。更に田中氏についていうならば、この人もまた世の様々な虚のレッテルを受け続けた人である。ここではただ安保の最中初めで出逢って以来、私にとっても唐牛にとっても生涯の深いつき合いをすることになった人であるとだけいっておこう。その行動のスケールの大きさ、驚くほど異色な交友範囲の広さ、更にいくつの年になってもロマンを追う若さと情熱など、そう簡単にお目にかかれる人物ではない。氏が安保闘争とブントに共感を寄せ、身銭をきって私達を応援したのも、老獪な右翼陰謀家の策略などではさらさらなく、戦前の挫折した左翼指導者の夢が甦り、また氏も求めて止まなかった戦後日本社会批判の新生の芽を本能的に嗅ぎとったからであろう。このような人間を見る目ぐらいは、いかに若かったとはいえ、私や唐牛にしても持ち合わせていた。

 またこの田中氏の企業に入ったことをもって右翼への転向とするような事大主義的錯誤の思想とも私たちは無縁であった。したがってあの左翼的デマゴギー自体に痛痒を感じたわけではない。事実、唐牛はあの時もその後も弁解じみたことは一言も発せず、彼流の週刊誌向けのせりふで流していたのだが、終始一緒にいた私は、あの攻撃の中におかれた唐牛が少なからぬ衝撃を受けていたことも認めないわけにはいかない。

 彼が真剣に心を痛めたのは「たかが二十歳の若僧が東京に出てきて、一年そこそこの間、酒を飲み飲みデモをして暴れ、何度か豚箱に入った位のことが何時の間にか「戦後最大の政治闘争の主役全学連委員長」というシンボルとなって一人歩きしてしまっているという事態であり.あの運動と組織の象徴を担わされていることを初めて自覚したことにあった。また「安保も全学連もブントも、今のあっしにや関わりのないことでござんす」といってしまうには、まだあの体験は余りにも生々しく、そして彼も若かった。後にも先にも一度たりとも私に見せたことのない苦渋の色を露わにしながらも、ここでも彼は男らしく、優しかった。

 報道に狼狽し唐牛の責任にして逃げの一手を計ったかつての盟友をも許容し、また私についても「島まで巻きこまれるとヤバイからな」と一切を自分の所で引き受けて過したのだった。しかしその中にあっても、妄論飛び交う中でただ一人真正面から向かった吉本隆明の論がでた時には「少しホットしたよ」と弱気の告白を私に吐いたり、函館の母親に「悪評にめげず頑張れ」と電報をうったりしていた苦悩の唐牛を、今まじまじと身近に見つめるのである。この時知らされた虚像の重荷は、その後彼が拒否し、更に無視し、そして時代を経て風化した時期にはこれを楽しんだ気配もあったものだが、その意志とは離れて終生唐牛にまとわり続けたものであった。三年余の田中事務所勤務を皮切りに続けられたさまざまな流転の生活も、常に「あの唐牛が」という語り口から免れることができなかったのである。

 ともあれこのような苦汁をなめながらも、他人の下で働き給料をもらう生活に入り、ここでも人一倍の仕事をした唐牛であったが、似たような強い個性を持つ田中氏の下では堪えられなかったのであろう。やがてここを出て、堀江謙一らとヨット会社をつくったり、新橋の一杯飲み屋「石狩」を引きうけたりして、その度毎に週刊誌に話題を提供し、「唐牛物語」を自演していく。

 意識して過去を切り捨て、ただ医師の道を歩むことにのみ専心していた私は、この時代の唐牛の生活は殆んど知らない。しかし時々会う度に、新しい道を模索しながら生き抜こうとする強い意志と現実の厳しい辛酸を読みとらずにはいられなかった。そして齢三十をこえた自分の生を見つめて一つの跳躍を考えていたのであろう。一九六九年、彼は私にも一言もなく忽然と東京から姿を消したのだった。ちょうど時を同じくして、私も遠く沖縄の地に移り、以後十五年この島の医療にあたることになる。間違いなく、一つの大きな転回が唐牛にも私にもおこったのだった。
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 お互い個人的なややこしいことには余り触れない私たちの習わしから、唐牛が全く沈黙のまま去っても、また何年も消息がなくても「あいつも頑張っているんだな」と思っただけで、なにがどう彼の中におこっているのか憶測することもなかった。辛うじて私のもとにとどいたのは、南の与論島で上方をしていたかと思うと、今度は一転して北の最果てオホーツクの海で漁師をしているというような噂だけであった。その唐牛が、全く突然、沖縄の我が家に芹澤と二人で下駄履き姿で現れたのは一九七五年の冬のことだった。私は南島に移り住んでから数年経っていたが、病院や保健所の診療に追われている毎日だったので、「オホーツクの海は冬は凍ってしまって仕事にならねえから出稼ぎの旅をしているんだ」とかなんとかいいながら五、六日も腰を据え昼間から酒を飲んでいる彼らの応待は女房にまかせていたが、夜になると一緒になって始まる酒宴はいつまでも終わらず、駄法螺と与太話の連続で楽しい再会であった。しかし今、私の脳裡に刻みこまれているのはその会話ではなく、久し振りの再会で示した唐牛の、口に出さなかったありようである。精神科の医者として飯を食うようになりながらも、私は人の心の奥底にことさら触れたがらない性向をもっている。或る意味では鈍感であるといえよう。そのせいか当時は何気なく見過していたのだが、ずっと後になって──彼の死後最近になって知った話の脈絡から、あの日の唐牛をひときわ彼らしかったなと偲ぶのである。

 六九年東京を去った彼の生き様が一つの転回であるといったが、それが全学連を背負った社会的生活への袂別を意味しただけでなく、若き日よりの伴侶であった津坂和子さんとの別れとともに真喜子さんとの出発でもあったことを、私はうかつにも全く知らなかった。二十代の日々私の家によく現れた唐牛は和子さんを伴ってきたこともあり、私たち夫婦も親しみを抱いていた間柄であった。女である女房が彼女のことを話題にのせたのも自然の成行きであったが、一瞬の沈黙と暗い翳りをちらっと見せた後、唐牛はすぐ話を変えてしまった。そしてその時には一緒になって五、六年も経っているはずの真喜子さんのことなど一言も触れずに、沖縄滞在を終え別れたのだった。しかも後日きいたところではその前日まで一緒だった真喜子さんを与論島に残しての来沖だったという。事実、私が真喜子さんを実際に知ったのはその七年後、八二年に徳洲会の活動で沖縄に来た時が初めてであった。剛毅な半面、極端なほど含羞(がんしゅう、はにかみ恥じらい)な彼の性格を示したともいえるが、それだけでなく六九年の遍路が唐牛の深く屈曲した心の旅路と転生であったことを物語るものであったと思えるのである。元来は無口であった唐牛は、後年特に酒が入ると饒舌なほど多弁になりその語りは人を惓きさせなかったが、自分自身の心の襞は頑ななまでに人に見せることを拒んだ。そんな寡黙の男──唐牛を私はこよなく愛したが、その姿を彷彿させるものでもあった。

 袂別は常に新たな道への出発である。いくばくかの遍歴の後一九七一年、唐牛は紋別に居を定め北海に漁る海の男となったが、遙か遠くにいた私はこの期の彼の生活がいかなるものであったか知る由もない。しかし、私は一見恰好よいこの転身に、またまたつくられた自然児物語も、羨望の念で唐牛らしい生き方と拍手を送った人たちの憶測をも殆んど信じない。四十近くなった男が全く見知らぬ土地に住み、体一つで稼がねばならぬ生活がそんなに簡単なことでなく、またそう面白おかしくあった筈がない。唐牛流にただひたすら漁師になりきろうとしたのであろうが、頑健だった彼の肉体の極限が試されるような日日の繰り返しだったに違いない。しかしまた、沖縄での私の経験に即して考えてみると、十年近くに及んだ紋別の生活は唐牛健太郎の人生において最も大きな意味あいを持っていたことも確かであろう。

 彼の死後その足跡に少しでも触れてみたい思いで零下二〇度という寒さの紋別の地を訪れ、船を下りた時彼が毎夜のように行ったという小さな店で真喜子さんや当時の友人たちと酒をくみ交わしながら吹雪の夜を過した。その人々の姿と雪の中の港街の風景から辛うじて当時の彼の匂いを感じることしかできなかったが、この流氷の地に唐牛が長く住んだ心うちが伝わってくる気がして、一夜のつき合いの彼の友人がずっと以前からの私の友であったように思えてならなかった。
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 長い空白を経て、再びよく会うようになったのは、船を下り、病いに斃れた母親をつきっきりで看病し、その死を葬った後もなおとどまっていた函館時代のことであった。無聊をかこっていたためであろうか、私の本土への短い旅先で、北海道からあらわれた唐牛に出くわすことが多くなった。安保以後すでに二十年の歳月が過ぎていた。しばらく振りだったせいか唐牛は一見驚くほど変わったように私には映った。短刈ながら薄くなった頭髪、酒焼けしふてぶてしい感さえ受ける顔貌、長い漁師生活で鍛えられたがっしりとした体型などの肉体的変貌に、変転しながら生き抜いた豊富な社会体験からのたくましさがあらわで、二十代の長幼の差が完全に逆転した感さえ受けた。また生活の場をはるかに超えた広さと深さを持つ人々との交わりにも裏打ちされたのであろうか、その語りも絶妙で味わいがあり、何人かの友人たちとの席もいつの間にか唐牛の独壇場になってしまうのにも感嘆した。しかも最果て僻地での長い肉体労働の生活にも拘わらず、社会と文化を見据える鋭い知的感性はいささかも衰えず言動には若さが漲っていた。

 しかし、若干の戸惑いの後、一貫して変わらぬ唐牛を見てとりながらも、何か彼にそぐわない不安定さをも感じざるを得なかったことも事実だった。ある京都の夜でのことだった。今泉正臣や佐野茂樹らと昼間から飲み続けていた私が、唐牛のお喋りに突如向っ腹を立て、酒をぶっかけ杯を投げつけ怒り出したことがある。酒乱相手では経験豊かな彼だけに、その場を引くことによって喧嘩にもならず、次の朝にはまた泊まり先の今泉の所で一緒に飲み出すといった酔っ払いのとるにたらぬ一幕だったが、今よく考えてみると、この時期唐牛はなにかを求めて一歩踏み出そうとしながら、未だ行方定まらずにいるための苛立ちを、彼自身の言動に垣間見せていたように思う。そして沖縄での精神医療にのみ限定して仕事を続けていた私に対して、ことさら挑発的な毒舌を浴びせた彼に、決断と行動という私の中の唐牛と異質なものを感じさせたことが私の暴発を誘ったのではなかったか、などと思ったりもする。

 一九八一年、唐牛は十二年振りに再度の東京出奔を決意する。唐牛が背広姿にネクタイといういでたちでコンピューター・セールスに汗を流していた東京でのある日、ちょうど上京していた私に呼び出しがかかり真昼間のレストランで酒宴が始まった。一緒だった小泉修吉や片山迪夫と別れた後、私はふと沖縄で知り合った徳田虎雄の事務所が近くの赤坂にあることを思い出し、「面白いやつがいるから一寸会ってみないか」と唐牛を誘って大平元首相の事務所があったというビルの八階に陣取る徳洲会本部を訪れた。すでに相当量の酒が入っている私たちを迎えた徳田もすぐ沖縄の泡盛を出して応じたが、これが唐牛と徳田の最初の出会いだった。昼間の突然の訪問であり、この時は小一時間の雑談で別れたのだが、わずかのやりとりの中にも両者に閃くものがあったことは確かで、窓から見える国会議事堂を指さし天下を取る話を始めた徳田の大法螺に唐牛がすこぶる生真面目に応酬しているのを私は側で黙ってきいていた。しかし沖縄に帰りすっかりそんなことを忘れていた一、二カ月後、またまた突然の電話で「徳田と一緒に仕事をやることにしたんだがマスコミがまた騒ぎそうなんでおめえには知らせておくよ」といってきた時には最初はまた与太話かと思った。だが、若干のはにかみをみせながら極めて神妙に話を続けるのに、こりゃ本気だな、とすぐ察知して、彼らしい決断に拍手を送りながらもそれまでに気がついていた徳田虎雄についてのコメントと危惧をのべた。私の話を珍しく素直に「ふんふん」ときいて電話をきった後は例によって音沙汰がなく、その後の話は、この奇妙なコンビを伝える週刊誌の記事で知ったのだった。

 二十四時間診療をスローガンに全国に次々と病院チェーンをつくり医療革命を叫ぶ徳田に、最初は拍手を送っていた人々も、やがて彼が在来の保守政治にのめり込むに至って次第に冷ややかな目を向けるようになっていったが、それにもまして「体制に常に挑戦し続けたわが英雄、唐牛健太郎」が「俗物二流政治屋の徳田虎雄」と手を組み、こともあろうにその選挙運動に血道をあげたことに多くの友人たちが首をかしげ、更には死後までこの選択に非難を浴びせるものも少なくなかった。しかし、唐牛の人生で最後になってしまったこの闘いの時、直接つき合うことの多かった私は、彼のこの行動と心情を殆んど了解することができる。彼が東京に再度出た理由はさまざまであろうが、俗な言葉でいえば「もう一旗あげて」社会に再挑戦したいという誰しもが襲われる衝動であったことは間違いない。そしてその方向と場を探し求めていたのだが、すでに平和な安定した世の現在の日本では容易にこんな道がみつかるわけがない。 唐突な行動の連続に見えた唐牛は、決して世をすねた彷徨の旅人でもなければ、奇を衒って自己を顕示する芸能文化人でも一発事件屋でもなかった。また観念の世界に上昇し、そこから社会を討つ思索の人となるには余りにも生臭い生活の人であった。彼は真剣に四十年の自分の生きた体験を踏んで、日本の社会と政治に挑む現実の行動をまさぐっていた。その道筋の中に医療・福祉・教育といった人間の弱みにつけこんで栄える現代社会の討つべき標的があった。そして同時に、人と人との関係が稀薄になりながらも高度な技術に依拠して肥大してしまった経済官僚的政治国家ともいうべき日本の構造に、最も人間臭い政治を求めて楔を打ちこみたいという強力な願望があった。そんなことを唐牛風に構想していた中での徳田との邂逅であり決断であったのだ。

 唐牛の交遊関係は知られるように私たちには想像できないほど多様であった。その一方の極に田中清玄や徳田虎雄、田岡一雄らの世を騒がす強烈な個性の持ち主がいた。騒がしつつすでに社会的場を確保した有名人といってもよい。この関係でも一貫していたのは、彼らの感性を共感した限りにおいて最後までまっとうにっき合い通すということであり、彼らを利用しようという根性は爪の垢ほどもなかった。徳田虎雄との間もそうであった。桁はずれのバイタリティに感心しただけでなく、異常なまでに出世・名誉といった世俗に固執し続け、その馬鹿馬鹿しさを知りながら、倦むことなく行動し実践し演出していく徳田にある共感と親愛感をさえ抱いたのだった。そして共働をきめた限りいささかの手抜きもしなかった。医療の知識を貪慾につめこみ全く馴染まない医者たちとのつき合いも含め、病院づくりにも全力投球をしていた。また徳田が選挙に突入した局面では、最も困難だった喜界島を受け持ち、ここに独り住みつき、島の人々と生活を共にしながら徳田の勝利のために労を嫌わなかった。極めて短い期間であったのに、各地の徳洲会病院の医師・看護婦・事務員などが唐牛に示した親愛の情と信望のあつさに直接触れて私は舌を巻いたものだった。むろん激しい気性で波長もちがう二人が長く共存することは当初から考えにくかった。私の提言もいれ、唐牛は徳洲会と徳田を援助しながらも経済的には全く独立し、秋山肇氏の厚意で提供された市ヶ谷のアパートに事務所をひらき「R燿社」なる看板を掲げたのだが、これも独自の社会政治の行動を構想しようという唐牛の決意を物語るものだった。

 唐牛が徳田との活動の中からどのような次の道を拓くであろうか、私が最も期待し見守っていたところであったが、その端緒を見ることもなく終わってしまった。徳洲会での闘いの日、沖縄中城村での徳田の講演会に、初めて会った真喜子さんともども私も酔っ払って参加したのだが、唐牛がいとも真剣な顔をして地元の青年たちに話をしているのを二十年前と錯綜しながら聴いていた。考えてみればあの全学連時代でも私が唐牛のまともな演説を聴いたことは稀れだったのだ。やがて選挙戦が熾烈になっていき一九八三年も明けたとき、あの運命の日がやってきた。
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 一九八三年二月二十二日、那覇の小さな酒場で私は唐牛と二人だけで静かに飲んでいた。喜界島で体調に異変を感じ沖縄徳洲会病院に入院中であったが、全検査を終了したといって病院を抜け出し、保健所に居た私や保健婦らと一緒に食事をした後のことであった。どこで仕入れた知識なのか、自分の症状を分析して「直腸癌か、潰瘍性大腸炎か、内痔かだな」など医者の私を前に診断まで下すのだったが、病気らしい病気をしたことなく、恐らくはじめて病院と医師に全肉体を委ねてやはり内心複雑な思いだったのだろう、いつになく早い時問にきり上げ病院に戻っていった。その翌朝だった。病院で診察していた私に電話で「やっぱり癌だったな」と自分で告げたのだった。告げられた私の方が狼狽していう言葉も失っているのに「すぐオペをするが、日本で一番の医者にかかりてえからすぐ東京に行く。人工肛門に似合った衣裳のデザインを考えておくからな」と例の調子を崩さず一人で喋って、会う間もなく上京していったのだった。この日から唐牛健太郎の最後の闘いが始まる。医者でありながら私は彼の病いとの闘いに何ら手をかすこともできず無力であった。そんな苛立ちを終始感じながら、癌センターや千葉の病院などに彼を見舞ったが、その闘病振りにはいつも心うたれるものがあった。自分を冒している病いから日をそらすことなく、恐るべき意志力で立ち向かっていた。一時一時に精一杯の賭けをしているようでもあった。最初の手術から死に至るまで、小山靖夫先生を初めとする医師団は日本最高の技術をもって治療にあたったのだが、どの医師も看護婦も一人の患者という以上に唐牛を愛し、文字通り一緒になって癌と闘う姿に逆に私たちが励まされる始末であった。しかしまた私はこのような状態の唐牛に会うのは堪えきれない程辛かった。私の唐牛は強靭でたくましく美しい肉体を持ち、豪酒で笑いながら悪態をついている男でなければならなかった。たとえ手術とはいえ、彼の身体がメスによって傷つけられるのは許すことができないとさえ思った。ベッドに縛りつけられるように点滴注射をうけ、苦痛に眉をひそめる唐牛はあってはならなかった。唐牛もまたそのことを知っていた。自分の心の痛みをみせるのを拒み続けてきた彼は、身体の病いに冒されている自分の姿を他人に曝すことにも極度のはじらいと苦渋を隠さなかった。特に私に対してはそうだったようにも思えた。

 手術後のリハビリも終え半年振りに退院してきた折の挨拶状に「酒は飲むべし」と一言だけ書き、人工肛門を抱えながらも豪快にウィスキー一本をあける姿をみ、また真喜子さんや主治医の天願勇先生を従えながらも、沖縄まできて飲みあうようになった時には、ああ唐牛は甦ったなと歓喜したのだが、その直後から癌は急速に全身に転移、容態悪化、再び癌センターに入院するに至った。

 年の暮、病院に行った時には、唐牛はすでに死期を予知していたのだろうか。見てはならない姿を見た私は、その場に居たたまれず、同席していた草間孝次氏とともに早々に帰ることを告げたが、唐牛も「もう帰るのか」とやや弱々しくいっただけで引きとめることもしなかった。これが最後であった。南島に戻った私の所に、時々刻々容態の変化が報告され、意識あるうちにもう一度会いたい思いに捉われ続けたが、死の病床にある唐牛を見たくないという本能的感情が優位をしめたまま、三月四日を迎えたのだった。

 最後の対面で見た唐牛の顔は、私が終生好きだった美しく爽やかな笑顔だった。すでに敢えて覆う必要もなくなった心の奥底の襞も解き放った安堵の相もみせていた。私はこの最後の一年、それまでの目まぐるしかった動とは対照的な静の場で、唐牛とつき合えたことを幸せだったと思う。この中で深く知り合うことができた夫人真喜子さんが「この一年ほど楽しかったことはなかった」と死の直後としては不謹慎とも思えることを昂然といっているのをきいて、その心情を痛い程共感した。彼女にとって「健太郎を二十四時間看護し続けた」日々は最も充実した生であったのだろう。唐牛にしてもそうであったと私は思う。波瀾に満ちた、しかし短かった生の最後の日々、彼の脳裡に何が浮かんだのか、それは誰も知らない。しかし、「もう帰るのか」とつぶやいた後に「俺はさきにいくからな、島はまだ大変だな」といおうとして呑みこんでしまった唐牛の言葉が、二十四年前の投獄前のせりふと重なりあって、その後ずっと今に至るまで私の心耳に響いてくるのである。

 一握の灰になってしまった唐牛を葬るために、四十九日後、真喜子さんや数人の友人とともに生地函館に赴いた。そして一周忌、三回忌と三度この地を踏んだ。生まれ育った湯ノ川町の湯川寺の広間で昼間から賑やかに酒を飲んだだけのことだが、親族の方々やいつも夜まで騒いだ幼い時からの友人たちの暖かい雰囲気に包まれながら、あの唐牛にとっての故郷はこの地以外にはなかったのだ、との感をしみじみ抱いた。そして長い旅の後、この地に帰り、ただ一人の児として母と同じ場所に眠ることになった、自然のままの唐牛を、いま一度、はっきりと、見たのだった。





(私論.私見)