諸氏の第一次ブント論 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.3.14日
(れんだいこのショートメッセージ) | ||
2002.6.15日、島成郎記念文集刊行会から「60年安保とブントを読む」、「ブント書記長島成郎を読む」が発刊された。ブントがなぜ今見直しされねばならぬのか、されようとしているのか、これを訪ねたい。 現中核派の最高指導者・清水丈夫氏の次の感性はさすがである。
直接的であるが、これこそかってのブント魂であろう。 思えば、ブントの功績が語れなさ過ぎて来過ぎた。それは総帥島成郎が黙し過ぎたことにもよる。しかし、れんだいこはそうは考えない。日本左派運動の逸材・島氏を評価したがらない情況が生み出され過ぎて、余儀なくされた沈黙であったのが史実なのではなかろうか。もっと端的に云えば、よってたかって圧殺されたのではないのか、そう受け止めている。 日本左派運動に金字塔を打ち立てているブント運動の功績を封殺した勢力は、左派系に限って見ても二潮流ある。一つは宮顕系日共運動であり、もう一つは革共同系運動である。60年安保闘争前後の渦中においてはこの三つ巴の勢力が真偽不明で拮抗していた。渦に巻き込まれた者は、そういう意味で判断停止に追い込まれたのも致し方ない。しかし歴史はくっきりさせてきつつある。ブントを解体したこれら二潮流が日本左派運動をどこに漂着させたか。あまりにも無残な結末しか見せていないことで明らかではなかろうか。 こういう経過から、今や我々ははっきりと主張することができる。ブント運動の見直しとそのエキスの継承こそが任務とならねばならない。この観点抜きに闇雲に取り組んでみても、それは不毛の大地に再々度立ち返ることにしかならないであろう。歴史を主体的に学ばねば何も生み出されない。ここ数十年の不毛はこれに尽きるのではなかろうか。そういう観点からブント運動論を構築していきたいと思う。 その際の基準は、当時の東大法学部緑会委員長・有賀信男氏の指摘するように「批判するにしろ、是認するにしろ、議論される場合には、事実関係についての正確な知識が前提でなければならない」であろう。これを「簡にして要を得る」よう綴る事は至難であるが心掛けだけでもそうしたいと思う。 |
【ブント運動の発生パトス】 | |||||||||||||||||||
ブント運動の発生状況とパトスが次のように語られている。
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【ブントwhat】 | ||||||||
ブント主義、特徴について次のように語られている。
ブントに拠り集った面々の特徴が次のように語られている。
ブントの組織的特徴が次のように語られている。
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【ブント運動の組織図】 | |
最高指導者 | |
島成郎 | 東大医学部3年生・共産党東京都委員でもあった。 |
指導部 | |
生田浩二 | 52.9月駒場の細胞キャップになり、以降所感派系東大細胞のリーダー、共産党文京地区活動。地区委員。「島の無二のパートナー」。この系譜に、古賀(生田の片腕。、共産党文京地区活動)、佐伯秀光(山口一理)、森田実、中村光男らがいる。 |
富岡倍雄 | 全学連書記局員、生田の後を次いで細胞キャップ。6.1事件は彼の中央委員弾劾で始まった)。 |
陶山健一 | 「社学同委員長、卒業後農林省に勤め、ブントの労働者を指導し、その後も最後の最後まで労働者の闘いを信じ、革命運動に一生を捧げた人であり、教条主義的マルクス・レーニン主義者でもなく、空論を労働者に振りまいた人でもない。まさしく島さんも認めているように、全ての労働者から信頼された人だった」(佐藤正之))。 |
側近G | |
常木守 | |
青山(守田典彦) | |
理論G | |
佐伯秀光(山口一理) | |
青木昌彦(姫岡玲治) | |
佐久間元(片山) | |
門松暁鐘 | |
機関紙G | |
香村正雄 | 機関紙発行の責任者。 |
大瀬振 | 機関紙「戦旗」編集長。 |
組織G | |
清水丈夫 | |
田川 | |
反戦学同(AG)G | |
森田 | |
中村光男 | 57年反戦学同委員長。 |
多田靖 | 57年反戦学同書記長。 |
西部邁 | |
林紘義 | |
星野中 | |
鈴木啓一 | |
早稲田G | |
佐久間元(片山) | |
東原吉伸 | |
蔵田計成 | |
小野正春(中国研究会) | |
中央大G | |
藤原慶久 | 60年社学同委員長。 |
京大G | |
今泉 | 「東の島、西の今泉」と云われた。 |
小川登 | |
北小路敏 | |
北海道G | |
灰谷 | |
唐牛 | |
女性G | |
今井素子 | |
中村 | |
須原 | |
鎌塚 | |
印刷所グループG | |
山本 | 常任。 |
藤本 | 常任。 |
手伝いとして、今井素子、荒木、下土井、大島康子、松崎才子他数名。 |
【60年安保闘争観】 | ||
60年安保について次のように語られている。
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【島氏の指導能力、ブントの政治的感性】 | |||
島氏の指導能力を示す「金平糖理論」が次のように語られている。
他にも次のように語られている。
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【ブント綱領の特質】 |
【ブントの暴力主義傾向考】 |
革命論・戦略論については日共と明確に対峙し得たが、組織論、運動論では同じ殻を引きずったのではないのか。これは共産党の党活動の作法をそのまま下敷きにしていたことを語っている。「自分たちの為す事は正しい」とする確信があり、ともすれば「目的が正しければ、どんな手段を使っても許される」という「目的は手段を合理化する論」に依拠していた面があることは否定できない。「政治の原理は、『奴は敵だ。敵は殺せ』だ」(埴谷雄高「幻視の中の政治」)、「党は選民であり、党外の者は賤民であるという固定意識」(埴谷雄高「永久革命者の悲哀」)的論理を受容していた面がある。つまり、民主主義の素養と更に練磨するという点での意識が決定的に欠如していた。第一次ブントが持っていたみこの面での未熟さが、その後の暴力礼賛の水路となっていったのではないか。 |
【ブントの資金調達考】 | |||||
ブントの資金調達について次のように語られている。
安保の3年後、東原吉伸氏は、「ごく軽い気持ちで、田中清玄や多くの人たちから資金援助を受けたことを漏らした」。マスコミの好餌となった。 田中清玄との関係について次のように語られている。
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【6.18の感慨】 | ||||
60年安保を通過させた6.18の感慨が次のように語られている。
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【この時代の公安当局の弁え】 | ||
この頃の治安当局、公安当局の弁えが次のように語られている。
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【その後のブント】 | |||
ブントのその後が次のように語られている。
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【ブント運動の感慨】 | ||||
ブントに関わった人たちの懐旧が次のように語られている。
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【島氏のその後考】 |
「ブントの魂を持続し、ブントの衣装を脱ぎ捨てる」これが、ブント後の島が自らに課した命題である」、「転身は本物」(佐藤粂吉)。同様に去ったのが古賀、常木。 |
島成郎「未完の自伝―1961年冬のノート1.22日」 私が考えたもう一つの実態。第一に、革命を考えた。こういったからとて、東大の諸君の云うように、あの時やれば「革命的」危機が生じて・・・云々という意味におけるものではない。しかし、それにも拘らず、10年間の私の共産主義者としての歴史の中で、革命というものを実感を込めて、数世代後の理想ではなく、我々の世代が直面し、私が当面しなければならない現実的なものとした革命というものを考えた。 その時、私は「如何なる革命を汝は欲しているのか?」、「如何なる社会をつくろうとするのか」という問いに答えることを全く知らなかった。ブント綱領も、素朴に問題を提出する労働者に何の実感もイメージも与えない、干乾びたものであったのだ。私の全思想体系、ブントの全理論はこの実感の前に崩れ去った。この実感の上に批判が開始されねばならなかった。 第二、4月〜6月の行動、そして三池の闘争。私は、革命というのは人民大衆が行うものだと思わざるを得なかった。予想は出来た。だが誰があのエネルギーの横溢と、全学連主流派、三池労働者に表される革命的情熱・パトスを信じえたかだ。革命は資本主義そのものが生み出すのだ。この矛盾の進行を、私は内在的に知ることが絶対に必要だと思った。 もちろん私はここで、自然発生的客観主義者や、傍観的民主主義評論家がわいわいと騒いでいるような意味で、この大衆行動を礼賛したのではない。いや逆に、このエネルギーを認めればこそ、逆にこれを意識された階級としてでなく、小ブル的市民主義の塊(かたまり)、ゼロとして取り扱うのに狂奔した人々に怒りを感ずるのだ。そしてまた、ブントのみがあの学生の革命的行動を導いた事を隠しはしない。ケチ臭いマルクス主義文化運動者のように旗だけ大きいのを立てて、さも、自分達が闘ったのだというのを見たり、また、ブント戦旗派の転向論者がブントと並んで革共同をこの位置に置くのを見ると、虫酸が走る。 明らかにブントの指導と思想なくしては、安保闘争のあの展開はありえなかったろう。しかしそれにも拘わらず、ブントの意識は大衆に振り回されていた。労働者の矛盾を捉えることは出来なかった。惨めな小ブル派政党に対置した思想の具体化、スローガン一つ区別して与えることはできなかった。 資本主義の矛盾と展開、労働者の思想と行動、階級意識の運動法則、意識せる部隊と労働者、そのなんたるかを知らないままに、大衆運動は展開されてしまったのだ。いってしまえば、私は余りにもこの社会のカラクリを知らなさ過ぎたのだ。いわば社会の外部にいて眺めていたような「前衛」、政治闘争。この二つに直面して、私の思想と行動、そしてブントは大転換を遂げねばならなかった。 何から始めるべきか。私は、ブルジョア社会の中に今一度入りこまねばならぬ。この社会の矛盾をとことんまで、an sich und fur sichに認識しなければならない。そのためには、この社会の内在的法則を知らねばならぬ。 私は、マルクス主義を今一度学ぶことに決めた。そしてそれは教条を暗記するためでなく、その社会を今一度捉え直ささんがために、経済学が先ず私の対象になる。 |
島成郎「未完の自伝―1961年冬のノート1.24日」 全学連の危機的状況は、ブントの危機の止揚、革命的な止揚無しにはあり得ない。しかも、そのことを為し得る鍵は、ブントの思想、理論、行動の本質的批判にこそあるのことは、疑いの無い事実である。プロ通派も戦旗派も、ともにこのことを行っていないとするならば(戦旗派はこの立場を取ろうとしたが貫徹し得ないで、俗流のマルクス主義者に転落しつつある)、学生運動の再建それ自体もプロ通対戦旗の分派闘争によっては為しえないことも明らかである。 本質的批判に近づこうとしているのは、私の見るところ古賀のみである。生田もその過程をたどってはいるが、それ以外の者は、すべて過渡的潮流のように見える。もし、この過渡を意識しないで固定化した場合、それは腐敗し堕落し、妨害物以外にはなり得ないであろう。だから私の立場は、一方では本質的批判―しかも私がブントの代表であった点において自己打倒を目指した―を準備しつつ、他方プロ通派、戦旗派の固定化を防ぐ、混乱させる意地悪の役目を担う。 ブントが世界の、とはいわなくとも日本の革命運動に新しいものを加えたとするならば、それはなんであろうか。ブントは、トロツキーと宇野と黒寛の模倣にしか過ぎないというならば、それは何ら核心を突かない評論であろう。 日本共産党から分離し(組織的に)、分離しただけでなく、この党を堕落せる小ブル政党と弾劾し、新しい共産主義プロレタリア革命党、前衛党の創設を公然と目指したこと、そのことによって、初めて小ブル政党の幻影に悩まされていた革命的部分に前衛党の創設を自らの課題として提示したこと、これは明らかにブントの功績と云える。 もし、トロツキー連盟、革共同が俺の方が先だといっても、それは事実に違いないが、それにも拘わらずプロレタリア運動の現実的課題としたのはブントであろう。しかも、その創設と同時に、既に20年前に全世界に新しい共産党を呼びかけた第四インター(革共同)との闘争の開始によって、共産党からの分離は直ちには前衛党の創設にはならないことを明らかにしたのもまたブントではなかったか。 そしてこのことを黒田が既に為したとはいえ、ブント創出と同時に為された、かの大衆的闘争と組織闘争が無ければ、黒田は関西派との闘争を全国委員会結集という方法で為しえただろうか。いやその形式よりも、あの大衆の場での討論と、その過程における分離・組織的確立という過程をたどらなかったならば、この第四インター批判―トロツキー批判は既成の革共同の中でのお喋り的な宗派闘争に終わっていただろうということもまた明らかである。 それとともに、ブントの功績は、革命的学生運動の創設という独特の方法によって、この反スターリン運動を打ち立てたという点に求められる。このことは明らかに他の反スタ組織がサークルになりさがっていたのに比して、ブントの組織方針の優位を為したが、同時にそのことはブントの性格をも規定したといえる。東大派、プロ通派などは、そのブントの悪しき縮小再生産である。 このようなブントの功績、それはもちろん自らを正しいとしたり、一時的にジャーナリズムの脚光を浴びたことをもって、常にこの光を追い求めるためにあげるのではなく、このブントの運動が、明白に日本プロレタリア運動の一画期を開いた現実を正しく見つめるためにも必要なのである。 「前衛党不在」、新左翼の結集などということを左翼インテリの流行語と為したこと。この2年間のブントの為したことは、一つの遊戯ではなく、歴然とした人民の運動と厳然としているとき、これを避けて通ることはできないし、これをただ否定的に、清算的に批判することはできないのだ。 |
島成郎「未完の自伝―1961年冬のノート2.27日抜粋」 マルクス主義者の幸福、今までの思想と行動は、なんといっても一つの信仰の上に成り立っている。思想の格闘が無い行動。恐らく、全ての人々がそうであろう。だからその行動は容易であった。だが疑い、科学を志したと同時に、この10年間の思考方法は瓦解せざるを得ない。思想と科学の優位。このような思想の構築に、如何にして取り組むのか。俺は心細い。云うならば17歳の懐疑にとりつかれている。 |
(私論.私見)