場面7 第一次ブント論

 (最新見直し2007.10.12日)

 2002.6.15日島成郎記念文集刊行会から「60年安保とブントを読む」、「ブント書記長島成郎を読む」がりブントがなぜ今見直しされねばならぬのか、されようとしているのか。現中核派の最高指導者・清水丈夫氏の次の感性はさすがである。
 「かってのブント時代、共に闘ったかなりの人々(有名な!)が、今日とんでもない政治的スタンスをとって、出版物やマスコミなどで大口を叩いているのを見ると、なんということかと思います。かって共産主義だ、革命だといったことは、そんなに薄っぺらなことだったのかといいたい気持ちです」。
 「ブントを右から汚すものにはがまんできない」。
 直接的であるが、これこそかってのブント魂であろう。

 思えば、ブントの功績が語れ無さ過ぎて来過ぎた。それは総帥島成郎が黙し過ぎたことにもよる。しかし、れんだいこはそうは考えない。日本左派運動の逸材・島氏を評価したがらない情況が生み出され過ぎて、余儀なくされた沈黙であったのが史実なのではなかろうか。もっと端的に云えば、よってたかって圧殺されたのではないのか、そう受け止めている。

 日本左派運動に金字塔を打ち立てているブント運動の功績を封殺した勢力は、左派系に限って見ても二潮流ある。一つは宮顕系日共運動であり、もう一つは革共同系運動である。60年安保闘争前後の渦中においてはこの三つ巴の勢力が真偽不明で拮抗していた。渦に巻き込まれた者は、そういう意味で判断停止に追い込まれたのも致し方ない。しかし歴史はくっきりさせてきつつある。ブントを解体したこれら二潮流が日本左派運動をどこに漂着させたか。あまりにも無残な結末しか見せていない。

 こういう経過から、今や我々ははっきりと主張することが出来る。ブント運動の見直しとそのエキスの継承こそが任務とならねばならない。この観点抜きに闇雲に取り組んでみても、それは不毛の大地に再々度立ち返ることにしかならないであろう。歴史を主体的に学ばねば何も生み出されない。ここ数十年の不毛はこれに尽きるのではなかろうか。そういう観点からブント運動論を構築していきたいと思う。

 その際の基準は、当時の東大法学部緑会委員長・有賀信男氏の指摘するように「批判するにしろ、是認するにしろ、議論される場合には、事実関係についての正確な知識が前提でなければならない」であろう。これを「簡にして要を得る」よう綴る事は至難であるが心掛けだけでもそうしたいと思う。


【第一次ブント運動の誕生過程その1、ブントの発生経路】
 ブントとはどのような経路で生み出されたのか、まずここから検証せねばならない。次のように云えるのではなかろうか。

 戦後の左派運動は主として日共によって担われた。数の面では常に社会党がリードしたが、それは日共の貯水池的な位置付けもあるからして、深部で担ったのは日共であったとして捉えることはあながち間違いでは無かろう。
 「激しい弾圧、獄中にあっても主義を守り、節を曲げなかった共産党の神話化された権威」が支配し、「『党』といえば、それは日本共産党のことであったといっても過言ではなかった」。

 戦後直後の党運動は、徳球―伊藤律系譜がこれを領導した。この時までの党運動は、世の中のあれこれ社会の不合理を考える多くの若者の心を捉え、学生時代に左傾化するのは時代のニューマで有りトレンドであった。

 ところが、徳球―伊藤律指導にも限界があった。「2.1ゼネスト時の対応の拙劣さ」を内向させ、1949年の9月革命に挫折させられ、「1950年初頭のスターリン批判による脳震盪」で党内分裂に誘い込まれた。1950年の年頭、海を越えてスターリン評論が伝えられてきた。評論は野坂を痛烈に批判し、遠巻きに日本の戦後革命の流産の責任を問うていた。これを契機に日共党内は大揺れに揺れ党中央大分裂に向かうことになる。歴史はめくるめく廻る。レッドパージで国内を離れ中共に渡った徳球指導部の方が今度は「左傾路線」に急旋回し、国内での武装闘争を指針させる。山村工作隊が組織され、火炎瓶闘争が呼号される。これを担ったのが徳球党中央所感派系である。

 武井昭夫氏を指導者とする全学連主流派はこの時、宮顕系国際派に与して、「左」から徳球系党中央を揺さぶった。後に第一次ブントを創出する島氏もこの系譜に位置しながら活動家としての地歩を固めていった。全学連主流派は宮顕の指示に従い傍観し、専ら平和運動に取り組み始める。

 武装闘争路線は至る所で不発し破産する。徳球はかの地で客死し、同じくその片腕伊藤律も幽閉される。この間、徳球の後継者と見なされていた伊藤律派を駆逐して台頭してきたのが志田派であり、散発的無計画的な武装闘争路線を指導し破産する。その後、志田系は野坂派を経由して急速に宮顕派と結託する。それと共に党内に急激な右旋回路線が敷かれていくことになった。

 1955年六全協が開かれ、党中央の分裂にピリオドが打たれた。野坂―宮顕系が新指導部として登場することになった。新指導部は、徳球系の急進主義運動を断罪した。六全協時点では玉虫色にされた為見えてこないが、宮顕が次第に権力を掌中にしていく過程であり右翼的傾向がますます強まっていくことになる。宮顕が指導し始めたことにより日共及び全学連はとめどない右傾路線に向かい始め、「以降の宮顕右派路線の策動開始」で全く異質の党運動が展開されるようになる。  

 学生運動はこの経過の悲劇をもろに被った。当時武井昭夫氏らがこれを指導したが翻弄される。その詳細は割愛するが、「左」の観点から徳球―伊藤律運動を批判し続け、その際有り得てならない宮顕グループと結託するという愚昧ぶりであった。「六全協による宮顕宮廷革命」で宮顕が党中央に登場するや、その右派系的な本質を公然化させていった。武井ら当時の全学連指導部は懐柔され取り込まれていく。

 学生運動家には「50年分裂による党内闘争のゴタゴタ」で嫌気が生まれ、「所感派の武装闘争の失敗」が党の権威を失墜させ、「六全協による宮顕宮廷革命による右傾化」という三重ショックが走った。かくて急進主義者の居りどころが無くなり、右往左往するばかりとなり、或る者は徳球系から宮顕系へ転身し、或る者は行き場を失った。

 「突如勃発したスターリン批判と平和共存政策への転換」で党への疑惑の限度が越え、「ハンガリー事件」で事態の容易ならざることを知らされ、「日本トロツキスト連盟の創出」で党の権威が瓦解させられた。

【第一次ブント運動の誕生過程その2、日本トロツキスト連盟の先行的動き】
 第一次ブント運動に先行して日本トロツキスト連盟−後の革共同系が活動を開始する。革共同系は、日共運動の限界理由にスターリニズムの汚染を見て取り、生前スターリンと覇を競い敗れ去ったトロツキーの方こそ真性マルクス主義の継承者であると称揚し、この観点からの新左派運動を手がけていくことになった。1956年末頃の動きである。全学連は、この当時も日共に指導されることが当たり前であり、それに何ら違和感も無かったが、革共同は逸早くこの神話を打ち砕いていった。革共同系は、学生運動のイニシアチブを手中にせんと組織的潜入を開始した。

 革共同は党中央のスターリニズム性を弾劾し、次第に学生運動活動家の先進的部分を獲得し始めた。但し、この頃より革共同系に付き纏うものは公然とした理論闘争ではなく、イニシアチブを廻っての陰謀含みの運動スタイルであり、同時に党内が分裂含みという状況に規定されてか歩みは遅かった。当初より、トロツキー運動を継承する世界組織第4インターとの距離の取り方を廻って内部対立が発生しており、早くも創設期の重要メンバーの一人太田竜派が飛び出ている。

【第一次ブント運動の誕生過程その3、島グループの核形成】
 日本トロツキスト連盟−後の革共同系の運動が開始された時、島氏らがどう対応したのか。ブント発生の秘密はここに求められる。この時既に5年有余の活動歴を持ち国際派系活動家として名を知られつつあった島氏らは、革共同に向かわなかった。というか自前の党派づくりへと歩を進めて行った。なぜか。れんだいこには分かる。一言でいえば、体質的な臭いの違いであった。この違いは後に詳述しようと思うが今は先を急ぐ。

 島氏は、「俺はやはり医師になる前に革命家になる」(島「未完の自伝―1955年のノート」)と記している。島氏をこう決意せしめた時、その先に見据えていたものは、色あせた武井に代わりその理論を高次に継承し、全学連が大きく羽ばたく世界であった。島氏らは、「六全協による宮顕宮廷革命による右傾化」に反発し、且つ「日本トロツキスト連盟」の流れを拒否していく。ここに第一次ブントの起点がある。ブント運動は、この時の快男児の頭脳に映じた造反有理から始まる。同じ状況にあって他の者も気づくことぐらいは出来たが、その気づきを映像としてデザインするには距離があった。この差が大きいように思われる。ただ一人、くっきりとアウトラインを引くことが出来た者がいる。さて、その人の名は島成郎である。以降、着々と同志的結合をネットワークしていくことになる。

 島氏の周りにケルンが結集し始めた。この一群は待ってましたとばかりに革共同に移行した連中の身軽さに較べて腰の重い急進主義者達であった。革共同のトロツキズム研究、日共批判に触発されながらも、何とかして党内批判派として棲息しようとしていたとも云える。だが、次第にこの使い分けが出来なくなる。なぜか。宮顕のとめどない右傾化路線と統制主義が堪忍袋の緒を破らせたからであろうし、宮顕派も追い出しに掛かっていたので相乗的にこの流れが加速した。

 1957年暮頃、いわば旧国際派のリーダー島と旧所感派のリーダー生田の阿吽の呼吸での同盟が成立し、それぞれの派に列なる一騎当千の兵(つわもの)達が結集し始めた。その景観は一種梁山泊であった。やがてブントとして結成されることになるが、山口一理論文を始めとして日共の右傾化路線を激しく弾劾し、革共同式スターリニズム批判を継承し、他方で革共同理論とも異なる現状規定、運動指針、組織論、運動論を創造していった。その際惜しむらくは、革共同理論の影響そのままに宮顕宮廷革命をスターリニズム一般に解消し批判していったことであった、ように思われる。

 革共同とブントとは、その理論においてトロツキズムを取り入れていたことでは共通している。そういうこともあってか、この両派は反目しつつ提携した。反日共という点では常に一致し、人的交流的にも常に交叉し共同戦線を張っていくことになる。が、奇妙なほどに組織論・運動論では正反対的であった。だがしかし、島―生田ラインはその違いを明確にさせていかなかった。時の政治課題への取り組みを優先させ、目先の運動のファナティックな展開にのみ傾注努力していくことになった。この欠陥が、60年安保闘争の総括劇で露呈することになる。

【第一次ブント運動の誕生過程その4、第一次ブント運動の発展】
 この時より全学連は三方向に分岐していくことになる。ここに三潮流が渦巻き、以降激しい主導権争いを演じていくことになる。一つは宮顕新執行部の下に団結を強めていった民青同系であった。分かりやすく云えば穏和主義系がこちらに列なった(民青同系については別途考察するので省く)。後二つは急進主義系である。党中央の宮廷革命を最も鋭敏に感じ取った連中がこの系列に向かうことになる。一つは後の革共同系を創出し、後一つは島氏らのブント系を生み出すことになる。

 史実は次のように歩みを進める。日共の殻を破って生まれた革共同、ブント両派は共に支持を増し続ける。但し、この頃革共同派内は関西派系と全国委系に再分裂している。革共同派内のそういう対立を尻目にしながら、60年安保闘争を領導したのは島氏を最高指導者とするブントの方であった。

 ブントの戦術は凄まじい。まさに「一点突破全面展開」式に情況をこじあけていった。国会構内突入、羽田空港突入、再度国会突入へ全力で立ち向かった。道徳的にこれを批判するのは容易(たやす)い。問題は、ブントのこの革命の捨て石路線により大衆のうねりが次第に強まっていった、という効果が問われねばならないのではなかろうか。この間、社会党、共産党、マスコミは徹底的に全学連を誹謗した。しかし、海の向こうからは革命的行動として称賛され続けた。我々は、どちらの見解に立つべきであろうか。

 60.6.15日再度の国会突入時にブント活動家・樺美智子女史が圧死した。構内にこれを糾弾するブント指導者の一人北小路氏の怒りが響いた。再び乱闘となり更に負傷者を増した。この日以来大衆の憤激が頂点に達した。連日連夜数十万のデモ隊が国会を包囲した。この「熱き日々」は我らが左翼運動の空前絶後の歴史となっている。岸首相は自衛隊の出動を要請したが、赤城長官以下これを拒否した。岸内閣は退陣した。

【第一次ブント運動の誕生過程その5、第一次ブント運動の解体】
 ところが、60年安保闘争終焉後ブントは、その総括を廻って4方向に向けて対立し分裂する。この時島ー生田の最高指導部はいわば燃え尽きており、後事を次の世代に委ねた。結果、ブントの指導部の多くが雪崩を打つかのようにして革共同に向かって行くことになり、孤塁を守ったグループも独立の政治勢力足りえず、かくしてブントは解体の憂き目に遭った。全学連中央は、革共同全国委系の学生組織マル学同の手に移り、無血開城されることになった。

 しかし、歴史は更に廻る。新たに社会党系の学生運動が組織され、日共からも構造改革派系が誕生し、追って第二次ブントが結成される。やがてこの三派が共同行動を取り始めることになると、その関わり方を廻って革共同全国委内に対立が発生する。共同行動路線を否定する黒田氏を最高指導者とする革マル派と推し進めようとする本多氏をそれとする中核派へと分裂する。興味深いことは、この時かってのブントの多くは中核派の方へ移行している。いわばブントが本多氏を引き連れて先祖返りした格好になった。以降、五流十派と云われる戦国絵巻が繰り広げられつつ70年安保闘争へと向かう。以上の俯瞰図はれんだいこ史観に拠る。


 「東Cと京大教養、早稲田という学生運動の三大拠点」(小川登)。
「 東大細胞が革命化すれば、全学連書記局細胞が革命化し、書記局細胞が革命化すれば、全学連全体が革命化する」(冨岡倍雄・後の神奈川大教授)。

 「認識の進歩は、まず問題を意識すること、大胆に仮説を立てること、それを批判的に検討し、誤りから学ぶことによって保証される」、「認識の進歩は、経験からでも理論からでもなく、問題を意識すること、それを解こうとする意欲から出発する」(佐伯秀光)

 「歴史とは、過去に起こった出来事の記述ではなく、起こった出来事の解釈です」(佐伯秀光)
「革命は、現実に目前にある問題を解決する人間の闘いであって、それは指導者の鋭い問題意識と、精確な状況認識と、決断力と、自覚した参加者の強烈な遺志にかかっている」(佐伯秀光)

 「亡命時代のトロツキーのボディーガードを勤め、彼の右腕と云われたジャン・ハイエヌールトは、トロツキー暗殺後、ゲーデルの理論の研究者として数学基礎論に貢献しました。彼は既に1948年、共産党宣言から百年にあたって、次のように書いています。『代わるべきよりよい理論が見つかるまで古い仮説にしがみついていても得るところは何も無い。答えを見出すには、まず問題を立てねばならない。そして困難にはっきり立ち向かう以外に答えは得られない。それを怠るのは、政治に背を向けるに等しい。どちらにしても、問題は現実にあるのだ』。私達は巨人の肩の上に立つことができねのですから、巨人よりも遠くを見通すことができるはずです。一歩ずつでもより遠くを見通しながら、前進しなければならないのです」(「90年安保とブントを読む」文中佐伯秀光)

()
 「激しい弾圧、獄中にあっても主義を守り、節を曲げなかった共産党の神話化された権威が、」(前田裕日吾)。が、等々。以降の全学連の砂川、安保闘争の進め方を廻っての党中央との対決。これらがブントを結成せしめていくことになった。

 「当時の日本共産党は、戦後革命敗北の責任を取ろうとせず、若者から見て権威失墜していた」、「56年入学から60年までの時期は、日和見主義的・権威主義的なスターリン主義ではなく、本当のマルクス主義があるはずだ、という大激論の時代でした」(金田路世・東京女子大学友会副会長)。

 「全世界の獲得」
「ブントはスターリニズムのくびきから身を解き放ち、100年を超える国際共産主義運動の原点に戻って突き出した『共産主義世界革命』の理念の復活をめがけて闘った」(常木守)
「稀に見る政治思想家としての運動感覚」(常木守)
「当時の日共の1・二段階革命論に対する直接式社会主義革命論、1・ナショナリズム的な反米独立運動に対するアンチ、2・一国社会主義運動に対するアンチ、世界革命論、永続革命論、3・日本帝国主義との正面からの闘い。共産主義世界革命へ向けての国際的なプロレタリアート運動の組織化へ向けての新前衛党創り」
「当時都下最強と云われた日本共産党港地区委員会のほとんどの中核メンバーが、一人一人ブントへの加入に踏み切った」、「ヨッちゃんこと全電通の高橋良彦もその一人」
「日本共産党内での党内闘争の中から、東大細胞を中心とする学生党員の反乱によって生まれた。党中央との公然たる対決に進んでいった」
「相互に驚き呆(あき)れながら異質な感性を接触させ、その交錯によって成立していた運動体でもあった。」(常木守)
「一種の白熱した坩堝だった」(常木守)
概要「当時、共産党を見捨て、新しい前衛党としてのブントに結集した我々は、国際共産主義運動における、世界の労働者の解放闘争における、ブントの意義と役割を完全に自覚し、意気軒昂たるものがあった。我々にとっては、労働者の階級的運動こそ救いであり、しかもその運動は共産党によって、スターリン主義によって、世界中で数十年間にもわたって『堕落』させられ、解体させられてきたのだ。その結果として、世界の労働者の闘いは衰退と停滞を余儀なくされ、ファシズムなどに『敗北』し続けてきたのだが、しかしブントこそ、その限界を打ち破り、新しい運動の道を切り開いていくべき役割と運命を担って、世界に先駆けて、この日本に誕生したのであった」(林紘義)
「『ブント主義』とは、『革命求心主義』であり、革命への限りなき情念である。その情念を支え、政治的実践に根拠と合目的性を与えたのが、ブント理論であった。その理論たるや様々あった。政治学、経済学、社会学、哲学などから演繹される革命綱領、革命思想をはじめ、戦略目標、戦術目的、スローガンなど、革命テーゼやテーゼ化された革命理論、思想、行動への指針や動因力となるべき様々な理論であった」(蔵田計成)。


(ブント主義)
 ブントは労働者階級が担うべき闘争を学生運動に代行させようとしていた。それを支えるイズムがブント主義と云われるものであり、「先駆性理論」、「捨て石運動論」、「革命的敗北主義」、いみじくも社青同解放派が名づけた「一点突破全面展開論」等々の運動組織論であった。

「学生運動の大衆的な展開を大胆に展開することに賭けるという、島君の大らかな資質」(武井昭夫)
「島は安保闘争から40年後に行った講演の中で、ブントの旗揚げに際して、基本的な考え方としたのが次の三点であったと要約しています。第一に、あらゆる権威にとらわれないこと。第二に、開かれた組織が良いこと。第三に、革命は世界革命だということ」(佐伯秀光)。
(集い来る人たち)
「一体、島を頂点とするブントに結集した人々は、一人一人思い浮かべても実に多種多様、多芸多才であつたが、しかしご本人も含め、押しなべて大雑把で、愉快で、女子大の同志諸君も含め、革命の『妄想男』や『妄想女』が大変多かった」(東原吉伸)
(ブントの組織図)
「ブントは官僚組織を持たなかったので、書記局の決定は政治的なことだけで、事務的なことは、私(香村正雄)と島、私(香村正雄)と生田、古賀という具合で何となく進行させた」(香村正雄氏証言)

「ブント指導部が解体したにも関わらず、6.15闘争を打ち抜くことができた最大要因の一つは、ブントのコミューン的組織実態にあった。ブントは官僚的ヒエラルキーとは無縁であり、ブントの成員一人ひとりが綱領的、政治的、思想的主体の党的体現者集団であり、運動・闘争組織であつた点は特記事項に値する」(蔵田計成)。


「歴史的な1960年の安保闘争を指導したブント系全学連を担った人として、3人の名前をまず挙げたい。山口一理(佐伯秀光)、清水丈夫、島成郎の3人である」(日本共産党京大細胞キャップ・小川昇)。

 「ブントと社学同は組織的には別であるが、厳密に区別されていなかった」


島成郎 (東大医学部3年生・共産党東京都委員でもあった)
(指導部) 生田浩二(52.9月駒場の細胞キャップになり、以降所感派系東大細胞のリーダー、共産党文京地区活動。地区委員。「島の無二のパートナー」。この系譜に、古賀(生田の片腕。、共産党文京地区活動)佐伯秀光(山口一理)、森田実、中村光男ら、富岡倍雄(全学連書記局員、生田の後を次いで細胞キャップ。6.1事件は彼の中央委員弾劾で始まった)。
陶山健一(「社学同委員長、卒業後農林省に勤め、ブントの労働者を指導し、その後も最後の最後まで労働者の闘いを信じ、革命運動に一生を捧げた人であり、教条主義的マルクス・レーニン主義者でもなく、空論を労働者に振りまいた人でもない。まさしく島さんも認めているように、全ての労働者から信頼された人だった」(佐藤正之))。
(側近G) 常木守青山(守田典彦)
(理論G) 佐伯秀光(山口一理)青木昌彦姫岡玲治)、 佐久間元(片山門松暁鐘
(機関紙G) 香村正雄(機関紙発行の責任者)、大瀬振(機関紙「戦旗」編集長)、
(組織G) 清水丈夫富岡倍雄、田川、
(反戦学同(AG)G) 森田中村光男(57年反戦学同委員長)多田靖(57年反戦学同書記長)、西部邁、林紘義、星野中、鈴木啓一
(早稲田グループ) 佐久間元(片山)、東原吉伸、蔵田計成、小野正春(中国研究会)
(中央大グループ) 藤原慶久(60年社学同委員長)
(京大グループ) 今泉(「東の島、西の今泉」と云われた)、小川登、北小路敏
(北海道グループ) 灰谷、唐牛
女性グループ 今井素子、中村、須原、鎌塚ら。
(印刷所グループ) 常任は山本、藤本。手伝いとして、今井素子、荒木、下土井、大島康子、松崎才子他数名。


(60年安保とは)
「60年安保闘争―民衆の直接的な政治行動とブントの革命理論を交錯させた運動」(常木守)
「安保闘争は、日本共産党の党内闘争の中から国際共産主義運動の鬼子として生まれ、反体制運動の『邪魔者』として現れたブントが、民衆の直接的な政治闘争と切り結び、既存の指導部を越えた民衆の運動の先端に突き抜けた政治闘争だったが、それゆえにまた、その墓場ともなった闘争でもあった」(常木守)


島氏の指導能力、「金平糖理論」
 「金平糖ってどうやってできるか、おめえ知っているか」ある時、島が云った。「薄い砂糖水の中にけしの実を入れて、砂糖(それと小麦粉だったか?)を注ぎ込みながら掻き回していると、砂糖の濃度があるレベルまで高まった瞬間に、それがけしの実の回りにバッと結晶するんだ」。彼は手真似で、砂糖水を入れた瓶を揺さぶり、砂糖を入れる手つきをしながら「バッと結晶するんだ」と愉快そうに大声で笑いながらいった。「バッとだよ。バッと」その笑いにはいつも島独特の魅力があった。「状況が大きく動くとき、その状況の核心をつかむことさえできたら、必ずその状況の中にある一番優れた要素がそこに引き寄せられ、集まってくる。(私注・もちろんガラクタも一緒にだが)」という文脈の中での語だった。(「60年安保とブントを読む」の、常木守氏の「不可視の核 私にとっての島成郎とブント」より)。

「政治闘争というものは、それが真剣勝負である以上、恐るべき困難や危機が絶えず立ち現れるのは当然だし、その中で逆風に逆らってギリギリのところで勝ち抜き、生き抜く―そういうものだ」ということを島さんから実地に叩き込まれたと思っています。(清水丈夫)
「『マルクスを捨ててマルクスに生きる』これが、ブント後の島の精神を貫いた一本の太い線である。『マルクスを捨ててマルクスに生きる』とは、『マルクスを求めずマルクスの求めたところを求める』ことであり、もっと平たく言えば『マルクスと決別し、歴史の大道に就く』ことを意味する。ブント前の島にとって、マルクスを生きることがすなわち歴史の大道を生きる事であった。それゆえに、島は何人にも劣らぬ誠実さにおいてマルクスを生きたのである。しかしある瞬間、マルクスを生きることが歴史の大道を生きることではないことを自覚した。その転回点こそブント第5回大会である」(佐藤粂吉)

(ブント綱領の特質)
(ブントの暴力性について)
 革命論・戦略論については日共と明確に対峙し得たが、組織論、運動論では同じ殻を引きずったのではないのか。これは共産党の党活動の作法をそのまま下敷きにしていたことを語っている。「自分たちの為す事は正しい」とする確信があり、ともすれば「目的が正しければ、どんな手段を使っても許される」という「目的は手段を合理化する論」に依拠していた面があることは否定できない。「政治の原理は、『奴は敵だ。敵は殺せ』だ」(埴谷雄高「幻視の中の政治」)、「党は選民であり、党外の者は賤民であるという固定意識」(埴谷雄高「永久革命者の悲哀」)的論理を受容していた面がある。つまり、民主主義の素養と更に練磨するという点での意識が決定的に欠如していた。第一次ブントが持っていたみこの面での未熟さが、その後の暴力礼賛の水路となっていったのではないか。
(資金調達について)
 1.16日羽田闘争後の救援闘争が始まった頃、「『どのような色がついていようが金に変わりはない。必要な資金を調達すること』。一言でいうと、これが方針であった。島が私にそれを直にねじこんだ。その意味が、無謀で、無茶苦茶であることは、承知の上だった」(全学連書記局の次長兼財務担当・東原吉伸)。「全学連の活動が、従来の学内運動をはみ出し、社会運動の中に桁外れに大きく膨張・展開していたので、当時の全学連の財政状況の内情は火の車だった」(全学連書記局の次長兼財務担当・東原吉伸)。

 安保の3年後、東原吉伸氏は、「ごく軽い気持ちで、田中清玄や多くの人たちから資金援助を受けたことを漏らした」。マスコミの好餌となった。
(田中清玄との関係について)
次のような認識の共同化ができていたのではないか。
1、岸―児玉ラインに対する田中のアンチの立場。民族主義者に移し身していたが、岸―児玉ラインとは一線を画していた。新興勢力の糾合に尽力していた。
2、戦前の武装共産党時代の委員長の経験を持つ田中との理論的一致
3、ソ連、中国等に指導される日本左派運動からの脱却という点での認識の一致。

 武装共産党時代の委員長、その後の獄中生活、コミンテルンとの遣り取り等々の経験から学ぶことが多かった。「一方で、田中清玄の目から見れば、背中に重い十字架を背負わされたこの若き革命家に、自分の過去をダブらせていたに違いない。彼は、革命運動はまさに殉教であることを見すぎてきた人物であった。その為に、自分の生き様をさらけ出すことで、自分の持つ多くのものを、とりわけ革命闘争の持つダイナミズムを経験した先輩として、この若き革命家に感じ取って欲しいと希求していることが、同席している者にも強く伝わってきた」。概要「田中氏は過去の日々を想いめぐらせ、自己の体験から築き上げたすべてを、その行動哲学や人脈を、この時点から船出した若き革命家に、参考になったり役に立つなら継承してもらいたいと希求していた」。

 島と田中氏とは概要「議論は結構噛み合い、延々と続いた。それ以来、二人はよく会った。お互い話題には事欠かなかった。島は遣り繰りして、不思議にこの会合のスケジュールは確保した」(東原吉伸)
(6.18の感慨)
「恐ろしいほどのバイタリティーで動いている日本産業社会の構造に迫り得る、何らの武器も持たなかったことも思い知らされた」。「自ら拠って立ち、自らを促してきた原理への確信の揺らぎ」、「最も基本的諸問題についてのイメージさえ描けない」(「ブント私史」島)

「私達はあの時、何に対して『敗北』したのか。また、『敗北』したのは何だったのか。その後の状況が鮮明にしたように、私達が高度資本主義の経済的な新たな自己展開力に『敗北』したことは、誰の目にも明瞭である」。しかし、私達はそれによって吸引され、形成され始めていた民衆社会への混沌とした転換期にある民衆それ自体に『敗北』したことを理解できなかった」(常木守)

「安保闘争の総括は敗北の確認に尽きるものではない。人民の闘いの偉大な経験として積極的総括こそ為されるべきであろう」(多田靖)


「60年安保闘争に象徴されるラディカルな闘争戦術、時々の情勢への対応と闘争戦術の根幹は、いわゆるシミタケ(清水丈夫)全学連書記長によって体現されていた、といってよい。色の白い男前の彼は、全国の女子学生の憧れの的であった」(小川登)。
(この時代の公安当局の弁え)
「焦土と化した日本の国土と、敗戦による荒廃した人心をいかに立て直すか、これが当時有為の人間の、言葉に出さない共通命題だった。『学生は未来の社会の宝だ。出来ることなら逮捕を避けろ』といった公安幹部が、当時、少なからずいたという」(東原吉伸)。

「自衛隊の治安出動についても岸側から要請が出されたが、当時の赤城防衛庁長官は、『世界で唯一、自国民に銃口を向けたことがないのが日本軍の伝統と誇り』として、岸首相の要請を斥けていた」(東原吉伸)。
(その後のブント)
「彼のいった通りにブントは『潰れた』が、その予想に反してブントを超える『新しい前衛党』が生まれることは遂になかった。彼が迎えた状況は確かに『新しい状況』ではあつたが、彼が期待し、描きだそうとしたのとは全く違うものだった」(常木守)

「退いていく波と共に退きながら独自の『後退戦』を闘う器量も持ち合わさなかった。そして波の退いた砂浜に取り残されて、蟹のように立ち竦(すく)み、干乾びた砂の上で足掻きながら死んでいった」。
(ブント運動総括)
「嫌なことや苦しいこともあったはずだが、今残っているのは高揚感と充実感だけ」(大瀬振)
「ブントが生まれることによって、初めて一定の大衆的基盤を持った非共産党的革命派の運動が出現した。いわゆる『新左翼運動』は、ブントと共に始まったといってよいだろう」(大瀬振)
「20代の青春の真っ只中を燃え立たせた、結果や失敗や損得を無視して、情熱・理想の赴くままに疾走していつた。掛け替えの無い青春の一時期だったと思う。この時期、最も抜きん出ていた友人の一人が島成郎であった。彼を知りえたのは私の人生にとっても限り無い、良き歴史の一ページであつたと思う」(星宮*星)

「60年のブントを体験し、中途半端な燃焼と中途半端な総括のままである自分」(山田恭*)
(島氏のその後)
「ブントの魂を持続し、ブントの衣装を脱ぎ捨てる」これが、ブント後の島が自らに課した命題である」、「転身は本物」(佐藤粂吉)。

同様に去ったのが古賀、常木。
(活動家達のその後)
 「東大生の転身は早かった」(小川登)。東大系の者は概ね転身に成功した者が多い。つまり彼らは、闘争終焉後大学に戻り、1、2年回り道はしたとしても通常の東大出身者と同じように社会的上層部の立場を得た。大学教授や医者、弁護士が少なからずいる。


 島成郎「未完の自伝―1961年冬のノート1.22日」

 私が考えたもう一つの実態。第一に、革命を考えた。こういったからとて、東大の諸君の云うように、あの時やれば「革命的」危機が生じて・・・云々という意味におけるものではない。しかし、それにも拘らず、10年間の私の共産主義者としての歴史の中で、革命というものを実感を込めて、数世代後の理想ではなく、我々の世代が直面し、私が当面しなければならない現実的なものとした革命というものを考えた。

 その時、私は「如何なる革命を汝は欲しているのか?」、「如何なる社会をつくろうとするのか」という問いに答えることを全く知らなかった。ブント綱領も、素朴に問題を提出する労働者に何の実感もイメージも与えない、干乾びたものであったのだ。私の全思想体系、ブントの全理論はこの実感の前に崩れ去った。この実感の上に批判が開始されねばならなかった。

 第二、4月〜6月の行動、そして三池の闘争。私は、革命というのは人民大衆が行うものだと思わざるを得なかった。予想は出来た。だが誰があのエネルギーの横溢と、全学連主流派、三池労働者に表される革命的情熱・パトスを信じえたかだ。革命は資本主義そのものが生み出すのだ。この矛盾の進行を、私は内在的に知ることが絶対に必要だと思った。

 もちろん私はここで、自然発生的客観主義者や、傍観的民主主義評論家がわいわいと騒いでいるような意味で、この大衆行動を礼賛したのではない。いや逆に、このエネルギーを認めればこそ、逆にこれを意識された階級としてでなく、小ブル的市民主義の塊(かたまり)、ゼロとして取り扱うのに狂奔した人々に怒りを感ずるのだ。そしてまた、ブントのみがあの学生の革命的行動を導いた事を隠しはしない。ケチ臭いマルクス主義文化運動者のように旗だけ大きいのを立てて、さも、自分達が闘ったのだというのを見たり、また、ブント戦旗派の転向論者がブントと並んで革共同をこの位置に置くのを見ると、虫酸が走る。

 明らかにブントの指導と思想なくしては、安保闘争のあの展開はありえなかったろう。しかしそれにも拘わらず、ブントの意識は大衆に振り回されていた。労働者の矛盾を捉えることは出来なかった。惨めな小ブル派政党に対置した思想の具体化、スローガン一つ区別して与えることはできなかった。

 資本主義の矛盾と展開、労働者の思想と行動、階級意識の運動法則、意識せる部隊と労働者、そのなんたるかを知らないままに、大衆運動は展開されてしまったのだ。いってしまえば、私は余りにもこの社会のカラクリを知らなさ過ぎたのだ。いわば社会の外部にいて眺めていたような「前衛」、政治闘争。この二つに直面して、私の思想と行動、そしてブントは大転換を遂げねばならなかった。

 何から始めるべきか。私は、ブルジョア社会の中に今一度入りこまねばならぬ。この社会の矛盾をとことんまで、an sich und fur sichに認識しなければならない。そのためには、この社会の内在的法則を知らねばならぬ。

 私は、マルクス主義を今一度学ぶことに決めた。そしてそれは教条を暗記するためでなく、その社会を今一度捉え直ささんがために、経済学が先ず私の対象になる。
 島成郎「未完の自伝―1961年冬のノート1.24日」

 全学連の危機的状況は、ブントの危機の止揚、革命的な止揚無しにはあり得ない。しかも、そのことを為し得る鍵は、ブントの思想、理論、行動の本質的批判にこそあるのことは、疑いの無い事実である。プロ通派も戦旗派も、ともにこのことを行っていないとするならば(戦旗派はこの立場を取ろうとしたが貫徹し得ないで、俗流のマルクス主義者に転落しつつある)、学生運動の再建それ自体もプロ通対戦旗の分派闘争によっては為しえないことも明らかである。

 本質的批判に近づこうとしているのは、私の見るところ古賀のみである。生田もその過程をたどってはいるが、それ以外の者は、すべて過渡的潮流のように見える。もし、この過渡を意識しないで固定化した場合、それは腐敗し堕落し、妨害物以外にはなり得ないであろう。だから私の立場は、一方では本質的批判―しかも私がブントの代表であった点において自己打倒を目指した―を準備しつつ、他方プロ通派、戦旗派の固定化を防ぐ、混乱させる意地悪の役目を担う。

 ブントが世界の、とはいわなくとも日本の革命運動に新しいものを加えたとするならば、それはなんであろうか。ブントは、トロツキーと宇野と黒寛の模倣にしか過ぎないというならば、それは何ら核心を突かない評論であろう。

 日本共産党から分離し(組織的に)、分離しただけでなく、この党を堕落せる小ブル政党と弾劾し、新しい共産主義プロレタリア革命党、前衛党の創設を公然と目指したこと、そのことによって、初めて小ブル政党の幻影に悩まされていた革命的部分に前衛党の創設を自らの課題として提示したこと、これは明らかにブントの功績と云える。

 もし、トロツキー連盟、革共同が俺の方が先だといっても、それは事実に違いないが、それにも拘わらずプロレタリア運動の現実的課題としたのはブントであろう。しかも、その創設と同時に、既に20年前に全世界に新しい共産党を呼びかけた第四インター(革共同)との闘争の開始によって、共産党からの分離は直ちには前衛党の創設にはならないことを明らかにしたのもまたブントではなかったか。

 そしてこのことを黒田が既に為したとはいえ、ブント創出と同時に為された、かの大衆的闘争と組織闘争が無ければ、黒田は関西派との闘争を全国委員会結集という方法で為しえただろうか。いやその形式よりも、あの大衆の場での討論と、その過程における分離・組織的確立という過程をたどらなかったならば、この第四インター批判―トロツキー批判は既成の革共同の中でのお喋り的な宗派闘争に終わっていただろうということもまた明らかである。

 それとともに、ブントの功績は、革命的学生運動の創設という独特の方法によって、この反スターリン運動を打ち立てたという点に求められる。このことは明らかに他の反スタ組織がサークルになりさがっていたのに比して、ブントの組織方針の優位を為したが、同時にそのことはブントの性格をも規定したといえる。東大派、プロ通派などは、そのブントの悪しき縮小再生産である。

 このようなブントの功績、それはもちろん自らを正しいとしたり、一時的にジャーナリズムの脚光を浴びたことをもって、常にこの光を追い求めるためにあげるのではなく、このブントの運動が、明白に日本プロレタリア運動の一画期を開いた現実を正しく見つめるためにも必要なのである。

 「前衛党不在」、新左翼の結集などということを左翼インテリの流行語と為したこと。この2年間のブントの為したことは、一つの遊戯ではなく、歴然とした人民の運動と厳然としているとき、これを避けて通ることはできないし、これをただ否定的に、清算的に批判することはできないのだ。
 島成郎「未完の自伝―1961年冬のノート2.27日抜粋」

 マルクス主義者の幸福、今までの思想と行動は、なんといっても一つの信仰の上に成り立っている。思想の格闘が無い行動。恐らく、全ての人々がそうであろう。だからその行動は容易であった。だが疑い、科学を志したと同時に、この10年間の思考方法は瓦解せざるを得ない。思想と科学の優位。このような思想の構築に、如何にして取り組むのか。俺は心細い。云うならば17歳の懐疑にとりつかれている。




(私論.私見)