第二章 大衆運動へ ― 学生の大衆的左傾化とトロツキズムの浸透
一 日本トロツキズム運動の新段階
極く少数のメンバーによって結成された日本トロツキスト連盟の活動は、一九五七年の後半から一九五八年にかけて新しい組織建設の段階に突入することとなる。すなわち、日本のトロツキズム運動がはじめて学生運動というひとつの大衆闘争と結合し、この学生運動を推進している数千名の規模で存在していた日本共産党の学生党員たちのなかにトロツキズムの影響力をまさに一挙的に、きわめて劇的に拡大するのである。こうして、日本のトロツキズム運動は創世紀の数人のメンバーの歴史の段階から新しい大衆的規模で組織建設を構想しうる段階を迎えるのである。 われわれは蛇足ながら次の点を確認しておかねばならないであろう。 日本のトロツキズム運動は戦前にその歴史を持ち合せていない。戦前においていくつかのトロツキーの著作が翻訳され紹介されたものの、日本の共産主義運動に対する天皇制権力の徹底的な弾圧と当時の日本共産党の理論がほぼ全一的にスターリニズムによって支配されていたという歴史的条件のもとにおいて、トロツキズムは運動としては存在しえなかったのである。すなわち、一九二二年の日本共産党の結党から一九五七年の日本トロツキスト連盟の結成に到る三十五年間、日本共産党内の分派闘争でトロツキズムは登場してこなかったのである。 したがって、第四インターナショナルの各国支部が第三インターナショナルの各国支部(=共産党)の反対派闘争を経由して形成されていった歴史を日本においては持っていない。この伝統の欠如は日本のトロツキズム運動に幾多の障害をつくり出し、ジグザグを強制し、犠牲を生み出すこととなるのであるが、もちろん、このことはこれからの歴史のなかでのことである。いずれにせよ、いまや日本トロツキスト連盟はひと握りの個々人の寄り合い組織から綱領や政治方針や組織工作や大衆的宣伝と煽動を要求される段階、真の前衛政党の機能を必要とされる歴史のなかに入り込むことになるのである。 創始者たちの個人的サークルの水準から新しい共産党へ挑戦するための水準へと日本トロツキズム運動を飛躍させ、その可能性をひらいた客観的な要因をわれわれは次の四つに要約することができるであろう。 第一は非スターリン化の進行である。 ソ連共産党二十回大会はフルシチョフ=ミコヤンの秘密報告によって官僚の側からの非スターリン化政策の出発点を画した。それまで一切の批判も許されない絶対無謬、全知全能の“神”の座にあったスターリンは、まさにかれの後継者の手によって”神”の座からひきずり隆されたのである。 フルシチョフ秘密報告はスターリンが行ったいくつかの犯罪的行為をとりあげて弾劾はしたものの、あくまでもフルシチョフを頂点とするスターリニスト官僚体制を防衛するための観点からスターリン個人の犯罪行為として取り上げたにすぎなかった。したがって、フルシチョフは彼らの存在をおびやかすようなボルシェビキの指導者トロツキー、ジノビエフ、カーメネフ、ブハーリンらの名誉を回復することまではしなかったのである。 したがって、非スターリン化は官僚たちがその特権を防衛せんがために行った予防的措置の性格を一面においてもっていたのである。しかし、たとえ官僚の手になる限定されたスターリン批判であれ、スターリニスト官僚の最高指導部がスターリンの誤りと犯罪行為を公然と認めたということは、スターリニズム衰退の決定的な契機を与えることとなるのである。 スターリン批判は巨大な衝撃となって全世界の共産主義運動を襲った。 スターリニズム体制の“弱い環”であった東ヨーロッパ各地では、官僚支配に反対し、労働者民主主義を要求する大衆の闘争が暴動へとつき進んでいった。とくに一九五六年六月のポーランド・ボズナンの暴動と同じ十月のハンガリー・ブタペストの蜂起は非スターリン化の歴史を画する革命的闘争であった。ポーランドにおいては“民族派”的傾向がヘゲモニーをとって事態の“収拾”がなされたが、ハンガリーではスターリニスト官僚支配と蜂起した労働者大衆の直接的衝突へと発展し、ソ連軍が蜂起した労働者を鎮圧するという反革命行為が発生するのである。 ハンガリー革命に対するソ連軍の鎮圧行動はスターリン批判に次いで世界の共産主義運動に衝撃を与えた。スターリニスト官僚たちはソ連軍の介入を正当化するために、政治革命に決起したハンガリーの労働者を、あるいは東ヨーロッパの労働者を“反革命分子”、“帝国主義の手先”として断罪したのである。 しかし、ハンガリー革命はスターリニズムの歴史的没落の過程を鮮明に映し出した。スターリニスト官僚たちがどのようにあがこうとも、その没落の過程を逆戻りさせることは不可能である。労働者国家の官僚体制はその支配を持続するためには労働者、農民に対して一定の譲歩を余蟻なくされた。また、神聖にして侵すことのできないスターリンの理論体系は崩壊し、スターリニズムが理論においても完全な支配を貫徹してきた歴史が幕をとじ、マルクス主義の新しい歴史の可能性がひらかれたのである。かくて、全世界の共産党に絶対的権威をもって君臨していたソ連共産党の地位は没落し、スターリン批判、ハンガリー革命を転機として、国際共産主義運動はそれまでのソ連共産党を頂点とするヒエラルキーが崩壊して多極的中心主義へ、すなわち各国共産党がソ連共産党から相対的に離れつつ、先進帝国主義国にあっては共産党が体制内の党へと“社民化”する過程が開始するのである。 日本においてのスターリン批判とハンガリー革命への対応は比較的に鈍感であった。一九五六年という年は日本共産党の六全協の翌年であり、いわば日本共産党がどん底からはいあがろうとする時期に当っていたといえよう。日本共産党指導部はスターリン問題は六全協においてすでに克服された問題として“処理”したのである。党員たちは、ソ連軍の介入が正当であり、ハンガリー労働者を反革命分子であるというソ連共産党官僚を支持した党中央に従ってソ連官僚の口まねをしていた。 しかし、党のなかで当時もっとも理論と実践のうえで活発であった学生党員たちはハンガリーの事件を釈然としない気持で考えていた。この疑問の芽はかつての極左冒険主義の時代においてその誤った路線による犠牲をもっとも多く強制された学生たちの党中央批判の気運のなかで次第に成長し、五八年における学生党員の日本共産党からの分裂、思想的、理論的にスターリニズムから訣別するための決定的な要因となるのである。 かくして、日本のトロツキズム運動の前には、スターリン批判とハンガリー革命の衝突を受けて学生党員が層をなしてスターリニズムから離れていこうとする極めて有利な、可能性に満ちた条件が与えられたのである。 日本トロツキズム運動に可能性をひらいた第二の要素として、われわれは国際的、国内的な情勢の過渡的性格をあげることができる。 日本のトロツキズム運動が日本の階級闘争の舞台に公然と登場した一九五〇年代の後半は、国際的には第二次世界大戦直後の激動期から現状維持的米ソ平和共存構造が形成される時期への移行期であり、過渡期であった。米ソ平和共存の成立には、アメリカ帝国主義の核兵器独占が終了し、核兵器においてソ連労働者国家とアメリカ帝国主義の均衡状態が必要な前提としてあったが、なによりも帝国主義陣営においてはヨーロッパ帝国主義の没落、アメリカ帝国主義のヘゲモニーの完全確立がその条件をつくりだしていったといえる。 一九五六年のハンガリー革命と同じ時期にイギリス、フランス両帝国主義はナセルのスエズ運河国有化宣言に対して出兵し、スエズ戦争の冒険を行った。中東進出を狙っていたアメリカ帝国主義はイギリス、フランスの出兵に反対し、ためにイギリス、フランス両帝国主義はスエズからの撤退を余儀なくされた。このスエズ戦争はアラブにおけるイギリスとフランスのヘゲモニーを決定的に衰退させた。 かててくわえて、アルジェリア革命はこの衰退過程を一挙におし進めた。そしてフランス帝国主義に破局的な危機をもたらしたのである。 アルジェリア民族解放戦線(FLN)の武装解放闘争は、インドシナに続いて、フランス帝国主義を文字通りの泥沼のなかにひきずり込んだ。五八年、FLNの攻勢が本格化すると、フランスの現地軍は反乱を起してアルジェに公安委員会を設置し、ド・ゴールをかつぎだそうとはかった。この右翼反乱によって第四共和制が崩壊し、フランス帝国主義の没落はいっそう決定的となるが、アルジェリア植民地支配持続のために右翼軍部がかつぎだしたド・ゴールは、その後、アルジェリアの独立を認めざるをえない立場に追い込まれていく。 このアルジェリア革命はFLNに対して第四インターナショナルが一定の影響力を与えていたこととフランス帝国主義母国のフランス共産党が革命的敗北主義の立場に立てず、「アルジェリアに平和を!」というスローガンに表現される帝国主義侵略への屈服の路線をとっていたがために、アルジェリア革命に対する関心の増大は日本の学生たちをしてスターリニズムからの離脱の傾向を促進させずにはおかなかった。すなわち、アルジェリア革命に対するフランス共産党の立場を批判することを通して非スターリン化が具体的方針をめぐって進んだのである。 日本の全学連の活動家たちは平和共存の帰結がフランス共産党の「アルジェリアに平和を!」というスローガンになることを教えられた。スターリニズムによるもうひとつの “革命の裏切り”が同時代的に進行していたのである。アルジェリア革命への関心の強まりは、同時に具体的革命を媒介としたスターリニズムへの批判の強化であった。 さらに、アルジェリア革命はフランスの政治情勢を危機の局面に追いやった。目まぐるしく変化するフランスの政治情勢は、当時のスターリニズムの理論ではとうてい生々と分析して把握することは不可能であった。まさにこのとき、山西英一が訳した「次は何か?」や「唯一の道」が学生活動家のなかでむさぼるようにして読まれた。トロツキーの躍動するようなドイツ情勢の分析と展望を導く方法は当時のフランス情勢を分析する最上の武器であった。 こうして、ヨーロッパ帝国主義が没落し、そこに政治危機がつくり出され、植民地革命の勝利的前進が示されるという一九五〇年代後半の情勢は、トロツキズムが大衆的に影響力を拡大し得る条件をつくり出していた。 一方、国内情勢においてもその性格は基本的に過渡的転換期を示していた。一九五五年のいわゆる「五五年体制」は保守合同、社会党統一、共産党六全協、春闘方式の開始などの象徴的事実をあげてその成立を説明することができるか、まだその体制は未完成であり、出発したばかりてあった。「五五年体制」は安保、三池の試錬をのりこえてはじめてその安定をブルジョアジーは手にすることかできたのである。五五年の春闘方式の開始から六〇年安保に到る期間、ブルジ∋アジーとその政府は総評を形成している支柱をひとつひとつ各個に撃破する攻撃をかけたのである。それは日鋼室蘭から鉄鋼労達への賃上げゼロ回答の攻撃、国労新潟への攻撃、日教組への勤評攻撃、三池を軸とした炭労への攻撃……これらの各個撃破を通じてブルジョアジーは右翼的労働運動のヘゲモニーを育成しつつ高度成長時代を準備したのである。 政治的にもブルジョアジーは未完成の支配体制をこの時期に整備強化しようとした。すなわち、教育、警察・自衛隊などの制度を国家支配の強化にむかって再編しようとしたし、またブルジョア議会での絶対多数を確保しようとして小選挙区制法案の成立を狙おうとしたのである。総体的には一九五〇年代後半は日本帝国主義が離陸にむけて序走のスピードをあげていこうとしていた時期といえる。この時期の集約点が政治的・軍事的には占領下の軍事同盟から帝国主義間の反革命軍事同盟をめざして改訂をはかった安保条約の六〇年における成立であり、労働者階級への攻撃の集約点としての三井三池労組に対する大量の首切り合理化であった。 この高度成長期に移行する直前の数年間の国内情勢はひと口でいって戦後民主改革への“反動”攻勢としての性格をもっており、したがって当時の労働者人民に戦後改革の成果がなしくずしにされていくのではないかという危機意識を醸成していったのである。この危機意識は砂川闘争、原水爆禁止闘争に対する平和主義意識からの大衆的共感、戦後民主教育に対する攻撃としての勤評への反対闘争の大衆的ひろがり、警職法攻撃を意図した岸政府への大衆の憤激、そして六〇年安保の六月段階における民主主義の危機=安保強行採決に対する大衆の怒りの爆発……などによってみることができる。そして、まさに政治的に敏感な学生層がこの時期の“平和と民主主義の危機”という情勢にもっとも生々と対応し、大衆闘争の最前線にたつこととなったのである。この学生運動が一九五〇年代後半の日本大衆闘争に果した役割は、当時の労働運動が基本的に右傾化の方向をたどっていたという条件が加わることによって、その役割の重さが倍化されていったといえよう。この特殊に重要な役割を果していた学生運動の活動家が日本トロツキズム運動の最初の大衆的規模における結合の可能性を形成したのである。そしてまた、当時の労働運動と学生運動の提携のあり方をめぐって日本トロツキズム運動は試錬にたたされることとなるのである。 日本トロツキズム運動に可能性をあたえた第三の要因として、共産党綱領論争をあげねばならない。このことはすでに第一章でふれてきたが、一九五七年九月に発表された党章草案(党章とは綱領と規約をまとめて呼ぶ)をめぐって展開された綱領論争は日本トロツキズム運動が共産党の党内論争に介入する可能性をつくりだしたのである。 五五年七月の六全協は、戦後革命の敗北から五〇年分裂(コミンフォルム批判をきっかけにして発生した国際派と所感派の大分裂)とそれにつづく極左冒険主義の時代を経過して、日本共産党がどん底の状態から再出発を開始する契機であった。共産党は「五一年綱領」を改定して新しい綱領をつくることを決定し、五七年九月に党章草案として発表された。この草案をめぐって、共産党内に大規模な論争が展開された。論争点は草案が当面する日本革命の性格を「民族独立民主主義革命」とし、この戦略を導くために支配権力の性格規定をアメリカ帝国主義に従属した半植民地国の権力であるとしたことに対して、草案の反対派は日本帝国主義の復活を重視し、当面する革命を社会主義革命であると草案反対の戦略を対置したのである。 論争は五七年九月から五八年七月の第七回大会までほぼ一年間にわたって展開するが、この時期の日本共産党はこの党の歴史にはまれな“自由の季節”をむかえ、百花斉放の感でさまざまの見解が発表された。後に述べることになるが、沢村論文も共産党の見解のひとつとして、党の機関紙(京都府党報)に掲載されたことでもわかるように、この論争の期間、共産党の官僚的権威は低下し、官僚体制による統制はきわめて微弱なものとなっていた。「前衛」や綱領討論のための「団結と前進」において、民族独立民主主義革命派、社会主義革命派の立場、及びその内部の見解の相違をふくめて論争は全面化していった。 綱領論争は日本トロツキズム運動に共産党への介入の好機を提供した。論争がスターリニズムの枠内で展開されているのに対して、日本トロツキスト連盟は「反逆者」や「第四インターナショナル」誌上で草案の段階革命論や一国社会主義論にトロツキズムの立場から批判を展開していったのである。この介入は直接的組織的成果につながらなかったとしても、学生党員を中心とする反対派がスターリニズムから脱却するための促進要素となったことは明らかである。とくに沢村論文が果した役割は具体的成果を生みだすものとして重大であった。 論争を通じて共産党内にはさまざまな反対派のグループが形成された。党組織としては東京都委員会、関西地方委員会が草案反対派の拠点となり、全学連主流派の学生党員たちはさらに強力な全国的反対派として存在した。また、いくつかの拠点的経営細胞において反対派が多数派をつくるという状況が生れた。六全協を契機に党のヘゲモニーを掌握した宮本は第七回大会までをこの“自由”な論争の期間として見送りつつ、第七回大会以降、一転して反対派の排除を断行するのである。この反対派排除によって党外にさまざまの小党派が結成されることになったが、まずその最初にして最大の組織が五八年十二月に結成される共産主義者同盟になる。われわれはこの過程にのちほど立入るであろう。 日本トロツキスト連盟は共産党綱領論争への介入を通じて主として学生党員に接近して組織的成果を獲得することになるが、綱領論争はスターリニズムの綱領的立場の破産をまた示すことでもあった。 日本トロツキズム運動に可能性をひらいた第四の要因として、われわれは全学連を中心とする学生運動の昂揚をあげねばならない。五六年から開始し、六〇年安保をもってひとつのサイクルを描いて終った学生運動の昂揚こそ、日本のトロツキズム運動を神話的段階から現実の歴史過程として推進させるエネルギー源であったといえよう。 戦後激動期に第一期黄金時代を印した全学連の運動は日本共産党の五〇年分裂によって決定的な打撃をこおむり、沈滞にむかった。すなわち、五〇年分裂の当時の全学連指導部はほぼ全面的に国際派に所属していた。しかし、党の実権を握った所感派は国際派が多数を握る全学連指導部からの国際派の追放を断行した。所感派の学生運動論は“層としての学生運動”を否定して、共産党のメンバー供給源として学生運動をとらえ、学生そのものへの方針としては身のまわり主義の改良主義的運動としてその方針を提起したのである。したがって、学生党員たちは山村工作隊や火炎ビン闘争の“兵士”として動員される一方、学生大衆を“歌え踊れ”の路線で組織するという任務が与えられたのである。五〇年分裂から五五年の六全協までの間、学生党員は共産党の冒険主義路線によって多大の犠牲を払わされるのである。学生自治会やサークルを指導する大学細胞はかくて壊滅的打撃を受けた。 先に見たように五六年以降の学生運動が担った役割の特殊な重要性は全学連の闘争の歴史によっても明らかとなる。すなわち、朝鮮戦争直前におけるレッドパージによって日本共産党の労働者階級に与えていた影響力はほとんどゼロにまで崩壊させられてしまったのである。このレッドパージは当然にも大学にむけられ、アメリ力の反共主義者イールズは各大学で“赤い教授”の追放を煽動したのである。イールズの全国遊説において、彼を迎えた東北大学の学生たちは逆にイールズを糾弾して追い帰してしまい、大学における反レッドー・パージ闘争の火ぶたを切ったのである。結局、全学連の反レッドー・パージ闘争によって大学にまでのパージは貫徹されなかった。すなわち、日本の大学は唯一残された共産党の橋頭堡ともいうべき役割をもっていたのである。この歴史的伝統と情勢の危機は全学連をふたたび大衆闘争の前面へ押し出していった。 六全協によって学生党員たちはキャンパスに戻り、国際派に属していた理由で党を離れていたメンバーが党に戻っていった。学生運動の再建が開始された。 五六年一月の国立大学授業料値上反対闘争をきっかけに、教育三法、小選挙区制反対闘争に取り組んだ五六年の四、五月闘争は学生運動の昂揚を確定した。こうして、全学連は五六年秋には砂川闘争に取り組み、五七年に入ると平和擁護闘争を展開、五八年の勤評、警職法闘争を経て、六〇年安保闘争へむかっていく。 このような学生運動の昂揚をバネとして、この運動の中心を担った学生共産党員たちはハンガリー革命の再検討を通じて理論的にスターリニズムからの訣別を準備し、平和共存路線の誤りを大衆闘争の展開を通じて運動的に確認し、スターリニズムの理論と組織からの離別にむかうのである。 日本トロツキズム運動の巨大な可能性の対象は具体的にはこの日本共産党から離れようとする学生党員たちとして出現する。そして、五七年から五八年にかけての日本トロツキスト連盟(五七年十二月からは日本革命的共産主義者同盟=JR)はこのスターリニスト党から分離していこうとする学生党員たちを対象とする活動にむかうのである。
二 平和共存路線と学生活動家の左傾化
四つの要因に整理してわれわれは日本トロツキズム運動の可能性を与えた前提的諸条件をみてきた。そして、トロツキズムにとっての有効な可能性とは具体的に学生活動家たちの左傾化、非スターリン化にほかならないことを結論づけた。われわれは、これから、五七年の終りから五八の十二月のブント結成に到る過程を学生運動の路線的転換、学生運動指導部の政治的諸傾向への分解、そして共産党との抗争、この過程へのJRの介入の歴史としてたどっていくことにしよう。 砂川闘争から五七年春のクリスマス島、エニウエトク環礁での水爆実験反対闘争、そして原水爆禁止世界大会、十一月一日の原水爆禁止国際統一行動と、全学連の運動は五七年いっぱい平和擁護闘争を展開していった。 この五七年いっぱいにわたって展開された平和擁護闘争は、その当時の日本の労働者人民の平和主義的気分に依拠し、かつまたソ連共産党二十回大会路線としての平和共存路線にのっとり、この路線を促進させる運動として成立したのである。したがって、この日本の学生運動は平和共存路線の戦闘的な左の翼として位置していたといえよう。 しかも、そのうえに平和擁護闘争は共産党内部の路線対立を表現していた。すなわち、共産党の五〇年分裂で発生した所感派と国際派のふたつの流れは六全協後も決して解消されることなく政治路線上でも対立を深めた。国際派のグループがヘゲモニーを握っていた全学連はソ連共産党二十回大会にいち早く反応し、全学連の第一義的課題を「平和と民主主義を守る」というスローガンで表現される戦闘的平和共存路線、平和擁護闘争に設定した。これに対して共産党の所感派は「民族独立」を第一義的任務としていたため、平和共存派=国際派、民族独立派=所感派という対立の構造かつくられた。そのため、同一の政治課題を取組むとしても、所感派が民族的視点から強調すれば、国際派は平和共存的視点から強調していった。 一九五七年の年末に発せられたモスクワ宣言は世界の共産主義者の第一の任務を平和を守ることであると言明した。全学連グループの学生たちは双手をあげてモスクワ宣言を歓迎し、党内の民族独立派に対して自分たちが正しいことを国際的にもモスクワ宣言が確認したと喜んだのである。 しかし、全学連の戦闘的平和共存路線はモスクワ宣言が発せられたその時に既に壁につき当っていた。フルシチョフの平和共存が米ソ二大陣営による世界の現状維持をめざし、この路線のもとに世界各国の共産党の平和を守る運動が展開され、フルシチョフ路線に奉仕する運動として位置づけられたのであるが、この平和共存路線のもっとも左に位置し、しかも数万の学生大衆を動員して平和擁護を大衆闘争として展開した日本の全学連の運動はフルチショフの枠を左へ突破することになるのである。 全学連の運動は平和共存という日和見主義の戦略下にありながら、戦術的には急進的であり、しばしば極左主義的ですらあったのである。そのため、平和共存という戦略的日和見主義の流れのなかでせいいっぱいの急進化をとげ、運動そのものをもって平和共存の限界にぶつかるのである。 フルシチョフは平和共存に現状維持を求めたが、全学連は平和を守ることの先に革命を求めようとしたのである。この全学連の平和擁護闘争の激発から革命へむかうという誤った理論の典型として、五七年七月危機説というのが反戦学生同盟(AG(アージェー))から提起された。AGは、七月に原子戦争が勃発するかも知れないという危機感を煽りたてることによって、一種デマゴギッシュに学生を平和擁護闘争に動員しようとした。しかも、平和擁護闘争を指導していたのは学生運動の“先駆性”を確信しているグループであったがために、平和擁護闘争は現実の政治情勢と階級的力関係とは無縁ななかで煽動をエスカレートさせて運動を自転車操業的に回転させる状況に入り込んだのである。 五七年十一月一日の原水爆禁止国際統一行動は全学連の平和擁護闘争の最後のピークを示す闘争であったが、十一・一以降、学生運動は下降に向い、やがて五八年の転換の年に入っていくのである。 精一杯の闘争の展開は学生活動家層をしてきわめて政治意識を尖鋭にした。五七年がまた共産党の綱領論争の年でもあったために学生活動家は文字通り層として政治化していた。その当時の全学連は五〇年分裂の痛手、六全協ショックを克服して政治的に安定し、組織拡大の気運がみなぎっていた。全学連の運動を支える活動家組織たる反戦学生同盟は正確な数字は不明であるが、少くとも二千名位は結集していたであろう。そして、各大学にはほとんど共産党の学生細胞が組織されていた。その数も拠点大学では五十名から百名は下らず、どんな大学でも十名位の共産党員がいて自治会、AG、サークル等を指導していたのである。 学生活動家たちの“群をなす”政治化は同時にその内部での政治的分解の進行を伴っていた。 八中委―九大会路線をもって再建された全学連も五七[/五六]年の第二次砂川闘争の総括をめぐってまず最初の分解を経験する。 砂川基地拡張阻止闘争は現地の反対同盟の戦闘的実力阻止路線とそれを担い包んで支援した全学連、東京地評、社会党の力によって勝利し、米軍と日本政府は拡張を中断しなければならなくなり、砂川闘争は勝利した基地闘争として歴史の金字塔をうちたてたのである。とくに、この闘争のなかでの学生たちの戦闘的で献身的な闘いぶりは日本国中に知れ渡り、全学連の名を一挙にたかめることとなった。 勝利の要因の評価をめぐり残留書記局派と現地指導部派の対立が発生した。残留書記局派は共産党中央の総括にのっとり勝利は平和擁護勢力の前進にこそ求められると主張し、現地指導部は大衆の戦闘力、農民、労働者、学生の闘いにこそ求められると総括するのである。当初は党中央派―全学連書記局派が主流派であったが、この日和見主義部分はすぐに少数派に転落し、砂川の現地闘争を担ったグループが全学連の主流を形成することになる。こうして、六〇年当時の全自連にまで連らなる全学連反主流派が早大、教育大、神戸大などを拠点にして形成される一方、主流派は東大を中心に数的には圧倒的多数で全学連のヘゲモニーを掌握し、ここにいわゆる全学連主流派が形成されたのである。 全学連主流派は十一・一闘争の総括をめぐってその内部に政治的分解をつくりはじめた。分解が生じた前提には、いくら戦闘的闘争を平和共存のために展開しても、それが情勢と歯み合わないという学生活動家たちのいらだちが存在していた。さらに、共産党の綱領論争とからんでスターリニズムへの不信をいっそうつのらせていた学生たちは、平和共存路線そのものがスターリニズムの枠内にあることを気づきはじめたのである。 しかし、決定的に主体的に学生たちをして平和共存路線から離反させた力はJRの学生たちへの介入であった。この典型的過程をわれわれは京都で見ることができる。 西京司が、五七年[三月]の初頭、日本トロツキスト連盟の存在を知って連絡をとり連盟に加入し、京都でトロツキスト運動を開始したことはすでに第一章で述べたところである。西は共産党において行動を共にしてきた岡谷進を連盟に加入させ、このことによって京都の地に最初のトロツキストの核が形成される。西は共産党京都府委員会の府委員となって学対部長のポストに就き、ちょうど五七年の平和擁護闘争が盛んなころ、京部府学連の指導メンバーと接触する。西は学生党員たちに対して真向うから平和共存反対の論争をもってのぞんだ。平和共存路線にもとづいた平和擁護闘争こそが共産主義者の第一義的に重要な正しい任務であると信じ、学生運動の昂揚をバックにして西の平和共存反対をナンセンスといって反発してきた学生指導メンバーは、西の理論によって平和共存理論が完膚なきまでに粉砕されてしまうのを経験して、次第に西の主張の正しさを認めるようになっていった。 当時、京都の学生運動の指導部で全学連中執の星宮がまずはじめに西、岡谷の工作によってトロツキズムに獲得された[?]。星宮は学生メンバーのなかで最古参であり、関西の学生運動を代表していたので、星宮の獲得はトロツキズム運動において決定的に重要な意味をもっていた。星宮は出身の立命館大学の共産党細胞の中に次第にトロツキズムの影響を拡大していき、寺岡らその中心メンバーをトロツキズムに獲得していったのである。かくて、五七年十二月の細胞総会では十一・一の総括をめぐって平和共存派と論争し、平和共存反対の決議を支持するものが多数を制した。 立命館大学学生細胞の平和共存反対の決議は全国的にも先頭を切ったフルシチョフ路線への公然たる反乱の突破口であった。平和共存路線はスターリン死後のフルシチョフが代表した新たなスターリニズム官僚体制の総路線の中心軸であった。したがって、日本の学生共産党員がこの平和共存路線に公然と反対したことは、学生たちの非スターリン化を質的に飛躍させたことを意味していたのである。共産党綱領論争の次元では対立はいまだ一国主義のコップの中の対立であった。それが平和共存反対によってスターリニズム批判を国際的次元で展開する端初についたということができるのである。 JRの介入は、まずこのようにして学生運動の指導メンバーがつき当っていた平和共存路線への疑問に対して階級的、革命的立場からの批判として遂行され、京都においてはその成果が確認された。立命館の決議を突破口として、京都、大阪で西、岡谷、星宮らの討論の洗礼を受けた学生活動家たちは自分たちが卒先して推進してきた戦闘的平和共存のための運動を自己批判的に総括していくことによってトロツキズムに接近したのである。 この傾向は、JRの介入が具体的に成功した関西だけにとどまらず、各地方学連において共通して見られる現象であった。各地方学連と拠点自治会の指導メンバーは実践を通してもっとも深刻に平和擁護路線の壁に直面していたのである。したがって、平和共存に対するもっとも根底的な批判を通してスターリニズムからの離反を開始しうる条件は客観的に醸成されていったといえよう。 しかし、このときの学生メンバーのスターリニズムからの離反は決して一様になしとげられたわけではない。そこには内部でいくつかの政治傾向に分解するという現象が発生した。この分解を具体的に東京の例でみてみよう。分解は四つのグループをつくりあげていったのである。 第一に全学連書記局グループ(香山、森田ら)があげられる。このグループは最後まで平和共存路線に執着した右派であった。ちなみに、彼らは六〇年安保闘争後に見事な転向をとげて、いまや札つきの反共主義者として高名である。 第二のグループは東大共産党細胞の指導部(島、生田、富岡、山口一理ら)である。このグループは全学連運動の“陰の最高指導部”であり、かつブントが結成されたときの指導部を形成する。このグループは全学連主流派を総体として代表していた。かつまた、学生活動家がスターリニズムから離脱するための思想的、理論的イニシアチブもここから生れてきていた。 第三のグループは青木、清水らを代表とする東大駒場グループであった。彼らは本郷の指導部より一段若い層であり、六〇年安保において全学連とブントを牛耳りJRに対するもっともセクト的イニシァチブをとっていくのである。 第四のグループとして都学連グループ(塩川、鬼塚、土屋ら)が形成された。彼らは香山、森田ら平和共存派をもっとも強く批判し、東京都学連に依り、最左派に位置していた。 西、岡谷の指導のもとに星宮はこの分解状況を利用して各地区の指導的メンバーをトロツキズムへ獲得する工作をすすめた。東京の塩川、鬼塚、土屋ら、東北の今野らは、こうした関西の星宮からの工作によってトロツキズムに接近していった。五八年五月の全学連第十一回大会ごろにはJR系のグループが形成されだしたのである。
一九五八年一月に発表されな山口一理の論文「十月革命の道とわれわれの道」は学生活動家に大きな衝撃を与えた。この山口論文は共産党東大細胞の機関誌『マルクス・レーニン主義』第九号に掲載され、全国の学生党員をはじめ学生活動家にむさぼり読まれた。山口論文はスターリン批判を中心テーマとして、綱領論争のちっぽけな枠組を突破してロシア十月革命の教訓をもう一度学ぶべきであると主張し、いまやレーニンかトロツキーかという図式でレーニンとトロツキーを対立させるべきでなく、レーニンかスターリンかと問うべきであると言い放った。山口論文はこうしてスターリンをレーニン主義とは対立するものとして位置づけ、レーニン-スターリンという歴史の継承を否定してボルシェビキの伝統はレーニン-トロツキーに引き継がれていると暗に示していた。 山口一理は共産党東大細胞の指導メンバーで自然弁証法研究会に所属していたが、太田竜や黒田寛一は何度か山口と会談していた。したがって、山口論文はトロツキズムの影響が拡大していく過程のひとつの指標であるといえよう。 山口論文は、これまでのスターリン批判の水準を飛躍させることによって、学生党員たちのスターリニズムからの離反を一挙に促進させる役割を果したのである。山口論文の出現によって“トロツキー・タブー”は決定的に学生の間では破壊された。学生たちは先を争って山西英一が訳したトロツキーの著作に飛びついていった。そして、トロツキーの著作は学生たちに驚天動地ともいうべき衝撃を与えずにはおかなかった。はじめてトロツキーによって知らされたスターリニズムの歴史的な裏切りと犯罪行為は学生たちの慎激をいや増していったのである。 こうして、五七年秋から京都府学連指導部には西からの工作が進行してトロツキズムが浸透していったが、東京においても山口論文の出現によってトロツキズムの禁忌は解かれ、学生たちの間では“公認”されたのである。山口論文の影響は単に東京にのみ限定されず全国的に学生の間では広がっていき、全体として学生党員が日本共産党から分裂していくための思想的準備となったのである。 しかし、同じトロツキズムの浸透といっても、関西においては組織工作を伴っていたが、東京ではそれがなかったのである。それが以後のトロツキズム運動を規定することとなるのである。 東大細胞の機関誌に山口論[文字化け初め]文が掲載された時期に、時を同じくして京都では沢村論文か『京都府党報』に発表された.沢村論文は同志西の当時における共産党での組織名にち々んて呼称された論文であるが、沢村論文はもっと具体的に革共同への学生メンバーの獲得という成果かこもたらしたのである 沢村義雄(西京司)は、先に述べた共産党の綱領論争に対してトロツキズムの立場から党章草案の批判として「レーニン主義の綱領のために」といういわゆる沢村論文を著わしたのである。沢村論文は、党章草案の中に流れているスターリニズムの理論を平和主義、一国主義、民族主義、議会主義の理論として断定し、完膚なきまでに論破した 沢村論文は、トロツキズムによってスターリニズムの綱領を全面的に批判しかことによって、山口論文の抽象的な問題提起をはるかにこえた次元で学生たちに影響をあたえることとなった。すなわち、山口論文が十月革命への復帰という一般的提起にとどまり、国際革命運動の歴史との結合、すなわちトロツキズム、第四インターナショナルの歴史との現在的結合をめざすよりも過去の歴史にさかのばり、それ以降をスターリンの裏切りの歴史として把握する誤りの側面をもっていたのにくらべ、トロツキスト組織の一員として西は現実のスターリニスト党の綱領を批判することを通して、トロツキズムの立場を展開していったのである。 五七年の年末に執筆された沢村論文は、西が京都府委員であるために『府党報』に発表されることになった。府委員はみんな西の沢村論文を『府党報』に掲載することに反対しなかったという。五八年一月の『府党報』は沢村論文を掲載した。初めのうち、この論文は共産党内のしかも京都という地区に限定されてしか配付されなかったが、京都の革共同系学生メンバーは沢村論文を積極的に全国の学生に持ち込んだ。 例えば、立命館のメンバーで福島出身のSは沢村論文を東北大の今野に渡した。今野はこれを一読して共感し増刷りして、仙台、福島、山形などの東北の学生グループに配付したのである。こうして、かねてからの星宮の工作とあいまって、沢村論文は学生メンバーのなかで全国的に革共同の影響を拡大するテコとなったのである。 しかし、不思議なことに沢村論文は学生連動の中心地であった東京の学生たちには何故か持込まれなかった。東京の学生たちがこの論文を見たのは五九年であった。塩川や鬼塚らJR系の東京の指導的メンバーもブント結成前後の流動的時期にこの論文を活用できなかったのである。沢村論文が東京に浸透していたならば、東京におけるトロツキズムと中間主義のヘゲモニー争いに大きな変化を与えていたであろう。
三 学生運動の転換
五六年四月の全学連八中委と同じく六月の儿大会をまとめて八中委-九大会路線と呼んで、それまでの七中委路線と対置し、学生運動の再建と政治闘争への進出の路線として意味づけている。五七年六月の十回大会は平和擁護闘争の路線を確立した大会であった。五七年十一・一の総括を契機に全学連の路線はトロツキズムの影響のもとに転換を模索する。 五八年五月の全学連第十一回大会ははっきりと学生運動の転換の開始を知らせた。五七年の平和擁護闘争の限界の実践的確認がなされたうえで、国際情勢はアルジェリア革命の前進によるフランス帝国主義の危機を焦点として、六〇年代前半の米ソ平和共存世界構造が形成される以前の過渡的で流動的情勢の特徴を示し、学生運動の左傾化の背景をなした。さらに決定的には国内情勢における勤評闘争の昂揚があった。五七年の国鉄新潟闘争にはほとんど関心を払わなかった全学連も、五七年秋の愛媛県教組を皮切りとする岸政府の日教組への攻撃に対応していこうとした。各県の段階で教育系自治会が教組との共闘を組み、勤評闘争は全学連の上からの指導を待つことなく下から突入していったのである。 日教組への勤評攻撃は、鉄鋼労連、紙パ労連、炭労、国労へと展開された総評の主柱への各個撃破の意図をもって、さらに、当時、教育を通じて日本の大衆の平和主義に大きな影響を与えていた日教組をたたきつぶそうとするものであった。当時、革同派の平坦書記長を擁する日教組への攻撃はまさに総評運動の最後の背骨をたたきわろうとする敵の意図は明らかであり、その危機感は平和教育への攻撃として全国民的な運動の基盤を形成しており、学生の勤評闘争への動員はきわめて自然に展開されたのである。 勤務評定は校長が教師の勤務状況を評価し、その評価を給与や人事にとり入れることを狙ったもので、明らかに日教組という教育労働者の組合破壊を意図していた、当時、日教組は総評内でもっとも政治色の強い労働組合として存在しており、その教師を通じての平和教育や民主教育の実践を通しての影響力は全国民的な規模で与えていたのである。勤評実施はまさにこの日教組による教育労働者の運動に打撃を与え、教育に対するブルジョア権力の支配統制を回復せんとする策謀だったのである。 また、勤評闘争と併行して道徳講習会阻止闘争が取組まれた。文部省は教育反動の一環として道徳科目の設置を強行し、この科目設置に伴う教師への講習会を全国各地で開催しようとした。全学連は勤評と並んでこの講習会阻卍闘争に取組み、東京、奈良では警察権力との激しい衝突が展開された。 五八年九月一五日にむけて日教組は勤評闘争のヤマを設定し、全国的に十割休暇闘争に突入することを決定したが、各県教組とも後退をかさね、唯一、福島県教組が十割休暇闘争に突人する体制をつくりあげていった。こうして九月勤評闘争は福島を全国的拠点として闘われようとしていた。 一方、文部省は西日本の道徳講習会を九月に奈良で開催することを決定し、奈良を中心とする関西の各教組は阻止闘争を準備することとなった。こうして、福鳥県教組の十割休暇闘争と奈良における道得教育講習会阻止闘争が東と西の拠点闘争となっていた。 福島大学学芸学部自治会は県教組の闘争に連帯して無期限ストに突人し、警察からの弾圧、大学当局からの自治会解散命令の弾圧に抵抗して試験ボイコット、バリケート封鎖など当時の学生運動においてもっとも鋭い闘争を展開した。全学連は福島闘争を全国拠占として設定し、当初、東北学連の副委員長であった今野をオルグに派遣した。さらに、闘争の発展とともに全学連書記長の小野寺、東大駒場から清水、伴野らが送り込まれた。 福鳥大の闘争は、結局、敗北するが、この闘争はいままでの平和擁護カンパニア闘争から学生が労働者と提携して闘った政治闘争としての高い質をつきだしたということができよう。 しかし、福島大の闘争の後半における指導はジグザグをくり返した。そして、この指導の責任を追及されて、結局、書記艮の小野寺はに五八年十二月の第十三回大会で辞任する二ととなるのである。 東の福島と並んで、同じ九月に西日本の拠点として奈良闘争が闘われた。奈良闘争は京都府学連のヘゲモニーの下で取組まれ、実力阻止のための具体的戦術が採用され、数多くの逮捕者を出しつつ、何度となく警察権力との衝突をくり返すという激しい闘争を展開した。 この闘争に対して、後にふれるように西・岡谷による極左主義批判が提出されることになるが、大衆闘争としては日教組の敗北によって勤評闘争が後退し、学生運動もまた下降の局面に入り込んだのである。 路線としては転換をかちとりつつも日教組の敗北によって学生運動も困難な状況をむかえ、運動として突破していく手がかりを失いつつあった。このような情勢のなか、五八年十月、岸政府は警察官職務執行法の改正案を国会へ突如として上程したのである。この改正は警察権力の弾圧の強化執行に法的根拠を与えて、来るべき安保闘争への権力としての準備を行わんとする意図があったのである。ようやく戦後民主主義が大衆の中に浸透してきた当時において、警職法改正はオイコラ警察の復活として、極めて露骨な反動攻撃として全大衆の反対を受けたのである。勤評闘争で後退を余儀なくされた労働戦線は一挙に息を吹き返し、東京地評は緊急重要事態宣言を発してゼネストの断行をアピールしたのである。学生はさらに敏感に反応し、各大学がいっせいにストライキに突入し、労働者にゼネストを呼びかけた。大衆のあまりに強い反対の声の前に窮地に立たされた岸政府は、当時の鈴木社会党委員長との党首会談という妥協の方策によって危機を回避するために改正案を取り下げたのである。 平和擁護カンパニア闘争の時代においてはその指導性が幾分かは認められていた香山、小野寺、森田らの当時の全学連指導部は、勤評闘争から警職法闘争へとめまぐるしく展開され、情勢に生き生きと対応しなければならないこれらの闘いにおいては完全にその指導性を喪失してしまった。勤評、警職法闘争は各地方学連の実践的指導部のヘゲモニーを強化し、全学連中央の権威を低下させ、学生グループの政治分解を決定的に促進することとなったのである。そして、警職法闘争の直後に開催された五八年十二月の全学連第十三回臨時大会は、いっぽうでブントが結成されるという条件のなかにもかかわらず、勤評、警職法闘争を通して学生運動の転換を推進してきたJR系グループを全学連の指導部へと押し上げるのである。
四 太田-黒田の対立と太田派の分裂
五八年一月、第四インターナショナル第五回大会に出席していた太田竜が帰国した。学生運動の転換が開始され、関内では内、岡谷のヘゲモニーのもとにJRの影響力が理論的にも組織的にも拡大しようとしていた時期である。関西よりも学生への工作がはるかに遅れていた東京において、帰国した太田の任務は収大であった。 しかし、太田は流れに逆うように学生への工作をほとんど放棄して、JRを即時に全面的な社会党への加入活動へむけた方針を提起したのである。ここから約半年間、東京のJRは太田と黒田の対立が進行し、学生への介人と工作の活動は不活発となる。そして五八年七月の太田派の分裂にまで進み、東京でのJRの組織体制は最悪の事態に陥ってしまうのである。 関西でのトロツキズムの運動が共産党京都府委員会の学対部といういわば戦略的高地から開始され、確実に成果を拡大していったのにくらべて、東京でのトロツキズム運動は学生運動の周辺部から開始され、学生活動家の流れの外側から持ち込まれていったというハンディキャップかあった。しかも、政治組織としての統一性を持ち合せることなく、太田と黒田という思想も理論も気質も異った二頭立ての体制で学生に工作することはその失敗が見えていたといえよう。二人はお互いにいがみ合い、足をひっぱりあって相手を嘲笑していた。東京においてはトロツキストが外へ向ってスターリニズムから離れていく学生たちに攻勢をかけるよりも、内輪の喧嘩に浮身をやつしていたのである。 さて、われわれはここで日本トロツキスト連盟結成後の東京における黒田と太田のグループ形成をみておかねばならない。 黒田のもとに形成されたグループは束京の数名の学生メンバーと、埼玉県の民青メンバーであった。彼らは黒田のスターリン主義批判の著作を読み、黒田に直接連絡をとることによって、黒田のもとにサークル的に結集しはしめた。東京の学生メンバーは遠山、山村、広田などであり、それに五七年終りころ、当時、早大新聞会にいた本多延嘉が加わった。また九州の青山[青山到=守田典彦]もこのころ黒田グループにつながっていった。彼らは当時の全学連運動の本流とは相対的に離れた存在で、いわば“頭から”、理論から黒田にひきつけられていった分子といってよいであろう。一方、埼玉グループは大川によってつくられていった。大川は民青埼玉県委員会の指導的メンバーであったが、スターリン批判を通じて黒田と結びついていった。当時、埼玉の民青の拠占として国労大宮工場があったが、大川は大宮工場の班の主要メンバーを自己のグループとして獲得した。そのなかのひとりに後の動労の松崎もはいっていた。黒田グルーブに入った埼玉のメンバーは当時の日本トロッキス卜連盟のほとんど唯一の労働者部分であったが、この部分が今日まで黒田の影響下にあることによって、その後の黒田派の分裂や革マル派の誕生の要因となったこと、すなわち、黒田はこの国鉄労働者メンバーを握っていたことによって組織分裂のイニシアチブをとったことをわれわれは後にみることになる。 太田竜グルーブはふたつのルートを通じて形成された。ひとつは東学大グループであり、もうひとつは日比谷高校グループである。 五七年夏、当時、反戦学生同盟の中央書記局メンバーであった東学大の小山は「連盟」から送付されていた「第四インターナショナル」に目をとめ、全教学協(教育系自治会全国組織、五八年五月に学連へ統一)の事務局長をしていた西山(鈴木英夫)とともに太田竜との接触をはじめた。こうして、東学大にトロツキスト運動のきっかけが生れた。一方、小島を中心とした日比谷高校グループは当時民青袵であったが、平和共存路?に疑問を抱いていたところ、グループのひとりが東大の社研のサークルにいて、『第四インターナショル』に接して太田を講師に招いて学習会を開き、太田の理論的影響のもとに入っていった。日比谷高校グループのメンバーは五七年から五八年にかけて東大か東学大に進んだため、小山、西山と合流し、ここに東大駒場と東学大に太田竜グループがつくられることとなった。小山、西山は五八年初めに同盟に加入し、日比谷グループは第四インターナンヨナル・シンパサイザ・グループ(FISG)をつくって太田を経由してJRと結合していた。 第五回世界大会に出席した太田は当時のIS(国際事記局)派の指導者パブロとの結合を強めて帰国した。彼は、帰途、セイロンに立ち寄り、ランカサマサマジャ党(LSSP、第四インターナショナルセイロン支部)を訪れた。セイロンの階級闘争で労働者階級の多数派を占めているLSSPの現実をつぶさに見て、太田は加入戦術の即時実施を決意したのであろう。帰国すると太田は、五八年二月に開かれたJR第六回全国代表者会議において社会党への即時全面加入活動の方針を提出した。 太田の加入戦術方針は、もちろん、単なる第四インターナショナルの組織決定であるからこれを適用するというだけの形式的方針ではなかった。太田はきわめて近い将来に日本において階級的総対決が訪れるであろう、この対決に間に合うようにトロツキストを既存の労働者の党へ加人させ、来るべき対決にそなえねばならないと考えた。来るべき対決においては労働者階級がまず左傾化の第一歩として既成指導部に対して左の圧力を強めるであろうと予測し、この既成指導部に流れ込む労働者階級の左への圧力を内部にいるトロツキストが結合して社民の枠を突破することが必要であるという展望にたっていた。したがって、太田にとっては対決に“間に合う″かどうかが決定的であった。だから、ちょうどその頃、学生たちが何千という数で日本共産党から別れようとしていたこと、日本トロツキズム運動にとってまたとないチャンスが生れようとしていたこと、このような客観的条件は太田にとってはどうでもいいことであったのである。 黒田は太田の加入活動方針に真向うから反対した。“哲学ぼっちゃん″の黒田にとって、高度な統一戦線戦術である加入戦術については政治的に本質的に理解することはできなかったのであろう。当時、黒田は次のように太田を批判していた。 「………パブロ修正主義者のいう『加入戦術』は本質的にスターリニスト党からのトロツキストの疎外感の必然的産物でしかないこと、逆にいうならばスターリニスト党を革命的に解体するためのトロツキストとしての主体的な組織戦術を迫求することが欠落しているがゆえに、いわば応急手段として『加入戦術』が即時的に提起されているにすぎない」(『日本の反スターリン主義運動1』黒田寛一、九四頁) 太田の加人戦術方針に反対した黒田はすでに太田の留守の間に第四インターナショナルとトロツキズムへの敵対の路線をかためており、加人活動をめぐる太田・黒田の対立は七月の太田派の分裂(いわゆる第一次分裂)にまで進んでいくのである。 黒田は、五七年九月執筆の論文「日本革命とわれわれの課題」において、早くも第四インターナショナルを「乗り越え」た新しいインターナショナルの展望を打ち出していたが、太田が世界大会に出席して日本にいなくなるとトロツキズムと第四インターナショナルヘの敵対の路線を公然化させた。 黒田は『探究』第二号においてソ連核実験擁護という労働者国家防衛の路線から導かれる正しい方針に反対した。彼はサルトル的実存主義、小市民的平和主義からすべての核実験に反対した。三月、『探究』第三号で黒田は第四インターナショナルそのものの批判を公然と行った。 「トロツキーによってうちたてられた第四インターナショナルは、堕落したコミンテルンに敵対するものとして、その存在理由をもっている。それは、トロツキズムがスターリン主義に敵対するものとして意義をもつということの国際的組織形態にほかならない。第四インターナショナルはスターリン主義に敵対するトロツキズムの世界的政治組織である。」(『革命的マルクス主義とは何か?』黒田寛一、一〇六頁) 黒田にとっての第四インターナショナルとは反スタ・インターナショナルに過ぎない。また、黒田にとってのトロッキズムとはスターリンを批判するためにのみ意味があるのである。 彼はトロツキーの理論を密輸人しながら、トロツキーをののしった。それは決して“世界に冠たる反スタ哲学者″黒田寛一氏にふさわしい内容ではなく、ヨーロッパの中間主義者たちの陳腐な批判の口移しであった。 「……この現実政治のパラドックス、階級闘争における非合理的なモメント、敵対するもののあいだの非合理的な力関係 ― これが政治のダイナミックスをなすのであって、これを本当に理解することなく、ただ丈学青年的に割り切ったところに、革命家たらんとしたトロツキーがたんなる理論家となり、真の(レーニン的意味における)政治家たりえなかった根本的な理由があるのだ。 (略) このようにロシア革命前後のトロツキー自身が現実政治の弁証法的展開をほとんど理解していなかったこと ― ここから理論的にはトロツキーの組織論の致命傷が不可避となり、政治的実践においては、その理論的正当性と正統性にもかかわらずスタリーンとその一派に完全に敗北してしまったのだ ― 」(『革命的マルクス主義とは何か?』黒田寛一、四五頁) 「ところで、現代トロツキストの革命的主体性喪失にもとづく今日の第四インターナショナルの組織的弱体化、その四分五裂と堕落を決定的なものとした直接の根拠は、その組織論の欠陥にある。つねに既成左翼諸政党への「加人戦術」をめぐっての論争しかおこなわれたことがないという点に象徴されているところのものは、まさしくトロツキストとしての独自の、本質的な意味での組織論が欠如しているということである。」(『日本の反スターリン主義運動1』黒田寛一、九一頁) われわれは、その後、この黒田の経文を耳にタコができるほど聞くことになる。トロツキーに組織論がないと断定したわれらが黒田寛一は、日本のトロツキズム運動の組織論として「反スタ統一戦線」方針を提唱する。この“世界に冠たる組織論”反スタ統一戦線がいかなる代物であるかは、ここに記述するまでもなく、黒田派→全国委員会派→革マル派の歴史過程をひと目みれば明らかであろう。 六月に入って黒田は彼の体系を完成する。彼は、当時、アルジェリア革命によってつくられたフランスの危機の情勢において、第四インターナショナル・フランス支部(PCI)が「社会党、共産党、CGTの政府」という統一戦線のためのスローガンを提起して反ド・ゴール闘争を展開していたのに対して、反ドーゴールは同時に反トレーズ(当時の共産党書記長)でなければならないと批判し、彼自身の基本戦略を「反帝反スタ」として定式化し、この論文を本多が編集長をしていた早大新聞に掲載したのである。 “スターリニスト官僚打倒を「従属的戦術」とし、「反帝・労働者国家無条件擁護」を根本戦略とする第四インターの基本方針にたいして、われわれは、われわれの闘争をより有効におしすすめるための世界革命戦略として「反帝・反スターリニズム」のスローガンを提起した。”(『逆流に抗して』「反帝・反スター リニズム」のスローガンについて、黒田寛一、八三頁) もはや黒田はトロツキズムが理解できないから、第四インターナショナルの方針が理解できないから誤っているのだと善意に判断すべき人物ではなくなり、公然かつ悪質な反トロツキストに転化したのである。そして、五八年にブントが結成されるや、“黒田理論”はブントによるJR批判・トロツキズムと第四インターナショナルの批判として利用されるこのになるのである。 このような反トロツキズムの理論を完成させてきた黒田の第四インターナショナルからの離脱はもはや時間の問題であった。ところが、五八年七月の組織分裂では、黒田がJRに残り、黒田からトロツキー・ドグマチスト、一〇〇%トロツキストといわれていた太田竜がJRから分裂するのである。まだ、日本のトロツキズム運動は理論や組織原則の尺度をもっては測定できない“神話的”性格が残されていたといえよう。 七月、同盟の拡大政治局会議において太田は黒田と分裂するために「第四インターナシーナル日本支部再組織準備委員会」を組織すべきだと提案する。(太田竜氏は組織をデッチあげるのが大好きで、この趣味は終生変ることはないだろう。彼がいくつの組織をつくったか正確に数えられるのは彼自身の他にいない。いや、自分でも忘れたか?!) 当時、書記局は太田、黒田の話し合いの場にすぎず、同盟の組織指導機関ではなかった。しかも、ここ 出席していたメンバーは圧倒的に黒田派であった。黒田、大川、遠山らは太田提案に反対し、太田は小山とともに退場した。太田にとって太田提案の否決は分裂の口実であった。 この様子を聞いた京都の西は太田の分裂を阻止しようと太田を説得した。太田は西の説得を受け入れ、同盟への復帰を約束した。 しかし、太田は西との約束にもかかわらず、結局、第七回全国代表者会議(七月二七日)において分裂する。 太田は西と組んで闘うことも放棄し、だれにも文句をいわれず、太田竜を無謬の指導者として仰ぐ太田グループだけで、彼はすぐさま加人活動に着手することを選ぶのである。 太田はこのとき小さいながら自分の思うままになる二つのグループ(東大・東学大の火曜会と日比谷高校グループ)をもっていた。このことが太田をして分裂を決意させたのであう。 JRから分裂した太田は、五八年八月、トロツキスト同志会をほんの数名で組織した。トロ同には東学大のメンバーと新たに都学連と社学同都委員会の東大メンバーが参加した。間もなく、黒田から一八〇度コペルニクス的に転回した遠山も加わった。太田はかねて念願の加人戦術を実行に移した。トロ同にはもはや太田を批判する者は一人もいなかった。太田はトロ同で“天皇”のようであった。彼はすぐさま、トロ同を政治組織にし、機関紙『労働者の声』を週間で発行しだした。また、月間で機関誌『永久革命』も発行し、そのほかトロソキーの論文をパンフレッ卜にして送り出した。トロ同の文章活動は確かに旺盛であった。JRがちょうど中央書記局活動が停止し、九月から『世界革命』も刊行されていないのにくらべてトロ同の活動は活発で、東京では第四インターナショナルの活動はJRではなくトロ同か代表した観を呈していた。 トロ同は五八年秋から加人活動に入っていった。すでにこの頃になると、東大、東学大の他にいくつかの大学や看護学院などにトロ同のメンバーが拡大していたが、加入は即時・全面的になされた。“顔の割れている”太田を除いて、トロ同のメンバーは全面的に社会党の地区組織に入党手続きをとった。 その当時、社会党には組織も運動もなかった。党は議員と労働官僚の連合寄合い所帯にすぎず、大衆運動の活動家はサハラ砂漠のダイヤほどもいなかった。とくに東京の社会党は地区活動もなく、地区労運動も共産党のヘゲモニーに握られていて、大衆運動の可能性は極めて乏しかった。 この時、加入して、後の三多摩加入活動に到るまでの一貫した地区加人活動を推進したのが遠山[吉村]である。三多摩は同じ東京でも、地区活動の可能性を幾分かはもっていた。 加入活動メンバーかはとんとすべて学生であることによって、社会党による地区政治運動動の展望は絶望的であった。いまだ社青同運動も開始していなかった。 加入活動が遅々として進まず、一方において学生活動家が群れをなしてブントヘ流入していく状況は、卜口同のメンバーのあせりをたかめていったのである。
五 六・一事件とブント結成
全学連の学生党員たちが日本共産党から決定的に分裂するきっかけをつくった事件が発生した。それは、五八年六月一日に代々木の共産党本部で開かれた全学連代議員グループ会議が混乱し、全学連主流派のメンバーが党中央の幹部と衝突し、一時的に会議場を占拠するという事件である。 前日の五月三一日に終了した全学連十ー回大会は階級路線への転換をめざして勤評闘争への取組みを決定した重要な大会であったが、大会は初日から荒れた。砂川闘争総括で形成された主流派と反主流派かトー回大会においてぶつかりあった。反主流派は主流派の中心人物・森田中執が学席を失っている失格者であることを追及しようとしたため、大会は主流派と反主流派の激突の場となった。数で優る主流派は大会をおしきったが、反主流派の背後には党中央の指導が働いていると信じており、反主流派との争いは党中央との争いであるという意識が主流派の学生党員の意識を支配していた。大会は、終始、興奮状態のなかにあった。六・一グループ会議はその大会の翌日に開かれたのである。 主流派の中執グループの前夜の打ち合せは単に党中央の学対指導を追及しようというだけのものであった。当日、党中央から紺野、鈴木(市)、高原ら中央委員と津鳥学対部長が出席して会議は開かれた。初めから議事内容と議長選出で対立がつくられた。党中央は鈴木を議長にして、紺野のあいさつから強行しはじめた。紺野のあいさつは恐ろしくお粗末であった。全学連の主流派メンバーは紺野を追及した。彼か立住生すると、反主流派かやり返した。議長は混乱を口実に閉会を宣言した。この措置に一挙に主流派の学生たちは怒り出した。“暴力的“衝突が生れた。 党本部を一時的に“占拠″した学生グループは十一回大会で委員長に再選された香山を議長にして議事を進行させた。学生グループは党中央委員の全員の罷免、党中央の全学連への支持、反主流派学生党員の除名、津鳥の除名などを決議し、紺野にこの会議が正当なものであるという確認の一札をとって引き上げた。 このいわゆる六・一事件は、対立・抗争のエスカレートによるもののはずみに発生したといえる。全学連主流派には党内闘争に対する明確な自覚した方針があって、そこまで突出したわけではなかったのである。 共産党中央は、早速、この“不祥事”をとりあげ、全学連、トロツキス卜狩りに乗りりだすのである。すでに『アカハタ』は十一回大会前に全学連主流派へのトロツキズム・キャンペーンを開始していた。宮本ら党中央からすれば、砂川闘争以来、対立を深めていった学生グループか党の統制を無視し、公然とスターリニズムに敵対し、急速にトロツキズムに接近しつつある事態に危機感を覚えていたであろう。すでに関西では西が西が公然とトロツキズムの立場から党中央への批判を展開し、学生メンバーが西の影響下に入っている状況が生れていたのである。六・一事件は朿の間に訪れた日本共産党の“自由な季節”という官僚統制の崩壊期の現象であった。宮本らは、六・一事件以降、テルミドール的反対派排除の路線をとるのである。 六・一事件は、理論上、実践上、党中央と分裂していた全学連主流派の学生メンバーを党組織からも分裂させるきっかけを与えた。香山をはじめとするグループ会議出席者たちに対して除名の処分が次々と出された。党中央はトロツキズムは“帝国主義の手先″であり、“国際反革命陰謀団”であるというあの古典的な反トロツキズム宣伝をもって学生グダループ排除を進行させた。学生細胞での力関係は圧倒的に全学連主流派が多数を制していた。したがって、六・一事件は潜在的に存在していた学生細胞での全学連派と党中央派との対立を公然化させた。この対立は、事実上、共産党細胞が学生のなかで解体されていったことを意味している。すなわち、主流派は、党との関係を自分の方からも党機関の方からも絶ち切ることによって、共産党細胞ではなくなっていった。そして、反主流―党中央派は分裂して独自に党と結びついていったのである。 党から排除された主流派の学生グループは分裂→別党コースをたどらねばならなくなった。 六・一事件の直後、七月に開催された日本共産党の第七回大会は“自由な季節″の終了を印した。党章草案反対派は大会代議員の三分の一を上廻った。そこで、宮本顕治は迂回作戦をとり、党章草案のうちの規約部分だけを採決して成立させ、綱領部分の採決を第八回大会にまで持ち越したのである。第七回大会では旧所感派か決定的に没落し、宮本体制が確立された。宮本はこれから八回大会まで綱領反対派を排除して八回大会で綱領を成立させ、つづいて志賀・鈴木らソ連派を排除し、返す刀で次に中国派を切り捨てるのであるが、六・一事件による全学連グループ追放は十年間にわたる宮本の反対派排除路線のはじまりてだったのである。宮本の反対派追放は極めて巧妙に行われた。彼は必ず時差を設けて切っていった。まとめて除名するようなことはしなかった。したがって、党内で対立していたグループが党外へ出ても、決して団結することはなかった。 七回大会前に学生メンバーの排除を行った党中央は、また、正式の代議員として選出されていた西の代議員権を剥奪し、大会後に除名処分をもってのぞみ、トロッキス卜狩りを強行したのである。 六・一事件から七回大会、そして反対派排除の路線の始りによって、学生党員たちは“別党コース”へ向いはじめた。 別党コースが一直線にブントヘと向っていったのではない。そこには、いくつかの迂余曲折が存在していた。 全学連主流派の最高指導部であった東大細胞の島、生田、富岡らは初めに党内反対派の連合を意図していた。すなわち、各地の社会主義革命派を結集して新党樹立を構想したのである。しかし、社会主義革命派はその内部にさまざまの潮流が混在しており、統一した反対派として形成されていたわけではなかった。島の呼ぴかけに対して、都委員で、かつて全学連委員長であった武井も拒否した。全学連グループは党内では孤立していた。こうして反対派連合の構想も破産し、森田らが工作しはしめた革同との新党構想も崩れてしまい、現実の流れは全学連の学生党員だけによる新党 ― すなわち学連新党 ― が唯一の可能性として残されたのである。そして、五八年の秋、学半たちはブント結成にむかって進んでいくのである。 ブント結成に対してJRの関西の指導部はむしろ攻勢的であった。星宮たちは、ブントは所詮寄り合い世帯の連合体に過ぎないのであり、JR派が強固に結集してブント内で多数派工作を展開すれば、ブントの多数派はJRによって制することが可能であるという展望をたてていた。このブントヘの方針は、黒田の反スタ統一戦線という誤った路線に一脈通ずる側面もあったが、この方針の中心はむしろブント内党派闘争を通じて多数派を獲得しようとする統一戦線戦術の立場にあったということができる。事実、ブント結成にいたる期間、理論上も、学生運動の実践上もそのヘゲモニーはJR派が掌握していたのである。したがって、星宮のブントヘの攻勢的方針には理実的根拠が存在していたといえよう。 島たちが構想していた組織は本質的に連合組織であっか。彼らは特定の理論や立場でブントに加入させないとか排除するとは考えていなかった。むしろ、ブントを大連合組織として組織するうえで、これに参加しないものをセクト主義者として非難したのである。 JRからのブント構想への介人は二つのルートからなされた。ひとつは関西の星宮から鳥への工作であり、もうひとつは黒田、大川による島への工作である。 太田竜が分裂したJR第七回全国代表者会議は、太田なき後の体制として、黒田政治局員のもとに、書記局に大川、遠山、山村を任命したのである。五八年七月に発足したこの中央体制の任務は学連新党への動きが具体化する状況のなかにあって重大であった。しかし、この書記局は与えられた任務を遂行することなく崩壊してしまったのである。 遠山は太田が分裂して行ったのを追い、黒田に絶縁を宣言してトロツキスト同志会に加盟した。 書記局の中心を担った大川はその活動をJRの独しした組織活動として維持することを放棄して、ブント構想への便乗に主カを注いだのである。黒田は後になってこの間の政治責任を大川の島との野合、遠山の寝返りなどに帰しているが、遠山の寝返りは黒田自身の破産の宣告に他ならなかっかし、大川の島への接近はとりもなおさず黒田の反スタ統一戦線のための具体的実践であったのである。 黒田理論を実現しようとした大川は、九州の青山とも一緒になって、島や生田らブマント構想の中心人物に接近していった。しかし、島ら東大グループにしてみれば、同じJRのメンバーにしても、星宮は長い間の全学連の戦友であり、同志であった。しかし、大川や黒田たちは全学連にとっては関係のないところにいる人物であった。したがって、大川がブントの一角に座る位置を獲得しようとしても、そうは問屋が卸さなかったのである。むしろ大川はジレンマに陥った。ブント構想へ乗ろうとすれば、JRの独自活動は第二義的に扱わねばならない。JRの活動を進めれば、ブント構想には入り込めない。大川はJRの独自活動を放棄して、ブント構想への介入に主力を注いだのである。しかし、彼らは黒田や大川を無視してブント結成へ向っていった。黒田や大川の路線は破産した。 ブントの中心人物たちにとって、JRを代表するのは星宮であった、したがって、JRと彼らとの意志の疎通は星宮を通じてなされていた。しかし、星宮からのブントヘの工作は大きな障害にぶつかっていた。それは東京のJR、すなわち黒田、大川らの存在である。彼らはJRのメンバーでありながら、その理論は反スタ主義であり、このことは鳥たちにとってけ関西のJRと東京のJRとは別組織であるかのように映ったであろう。 こうして、太田竜の分裂や黒田の反組織的性格がブント結成に向う学生たちにトロツキズムのイメージを著しく低下させたことは明らかである。東京におけるJRの現実の有様は、星宮によるJRのブントヘの介人のイニシアチブに障害を与えたのである。 JRは東京で新しいメンバーとして都学連グループを五八年十月ころ組織し、ブント結成における全国的ヘゲモニーに備えたが、都学連グループの支配的意識はいかにJRである自己を他の中間主義的流れと区別するかというもので、ブント結成への攻勢的イニシアチブをとることはできなかった。むしろブント結成には反対で、結成の動きに受身で対応していたのである。 したがって、これらの諸条件が星宮を中心とするJRのブントヘの積極的イニシアチブを弱める働きをなしたのである。 五八年十二月、全学連主流派の学生党をほとんど結集て共産主義者同盟=ブントか結成された。この組織の結成は学連新党の名にふさわしく、全学連の学生党員たちが、綱領による統一もなく、国際共産主義運動の歴史的継承性もあいまいにしたまま、共産党中央との争いの結果、党外に出て新党を樹立したにすぎず、新しい政治的内容を表現してはいなかった。 しかし、ひとたび紺織が形成されると、それは独自の力学で動きだす。理論、綱順、路線など一切合切があいまいなまま留保されていたのが、やがて左翼中間主義者としての政治性格を明確化させつつ、反スタ主義へ傾斜していくのである。この結果からすれぱ、ブント結成をJRの組織建設のための有利な一過程として介入したJRの方針は失敗したといえよう。JRは学生たちの可能性のうちの少数しか刈り取ることができなかったのである。ICPはさらに極少数しかその可能性を成果にすることができなかったのである。 ブント結成は五六年の学生運動の昂揚から開始したトロッキズムにとっての「開かれた可能性]に終始符をうった。ブントは左翼中間主義としての性格をあらわにして、トロツキズムと敵対する過程に入るのである。
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