第一章 創生期 ― 「反逆者」の発刊と「日本トロツキスト連盟」の結成
一 「連盟」結成の前後
一九五七年一月二七日、日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)の前身である「日本トロツキスト連盟」が第四インターナショナル日本支部準備会として結成された。その前年の五六年三月、内田英世・富雄兄弟を中心とする群馬政治研究会の手によって創刊された『反逆者』が「連盟」の機関紙となった。このとき、はじめて日本にトロツキズムと第四インターナショナルの旗を掲げた独立した組織が独自の機関紙をもって登場したのである。
「連盟」結成を直接に担ったのは、『反逆者』を軸に結集した内田英世・富雄、太田竜、黒田寛一ら数名のメンバーであった。『反逆者』は群馬という一地方の思想同人的なサークルともいえるグループによって発行されはじめた新聞ではあったが、それは最初からトロツキズムと第四インターナショナルの立場から編集され、このもとにいくつかのトロツキスト・グループが結集し、「連盟」結成が準備されたのである。
この五六年三月の「反逆者」の創刊から五七年一月の「連盟」結成によってはじまった日本における「新しい共産党をつくる」ための運動は、国際的にも国内的にも戦後の新たな情勢の展開を背景にして明らかに歴史的必然性をもっていたということができる。
一九五〇年前後から五五、六年にかけての時期は、国際的にも国内的にも戦後の帝国主義の危機と革命的動乱の一時期が終息させられ、ひとつの転機を迎える過渡期にあたっている。そして、まさにこの時期にその後『反逆者』→「日本トロツキスト連盟」の流れに結集してくるトロツキスト・グループが形成される。相互にまだばらばらで連絡もついていない状況ではあったが、この五〇~五五、六年にかけて五つのトロツキストグループが存在した。
それは山西英一の社会党への「加入活動」によって形成された三多摩の社会党内グループ。日本共産党の「五十年分裂」に端を発し、「国際派」の流れから出てくる内田英世・富雄の兄弟を中心とする群馬グループと西京司・岡谷進を中心とした関西グループ。社会党青年部への「加入活動」とその失敗のあとに「独立活動」へのイニシアチブをとっていく太田竜とそのグループ、そして黒田寛一とそのグループであった。
この五つのグループがさまざまの契機と時期的ズレを伴いながらトロツキズムと第四インターナショナルの立場に接近してくるなかで、太田のイニシァチブのもとに『反逆者』を軸にして「連盟」への結集がはかられていく。ただ五七年一月の結成の時点で参加してくるのは太田とそのグループ、「反逆者」グループ、黒田グループのみであった。したがって、結成大会に出席しているのは、内田英世・富雄、太田竜、黒田寛一と学生が一人か二人という五、六人のメンバーであった。関西グループが結集してくるのは「連盟」結成後の五七年三月以降であり、山西の指導下にあった三多摩の社会党グループは「時期尚早」として結成に反対であり、これに結集してこなかったのである。この「連盟」結成にいたる経過を当時の情勢との関係においてもうすこしくわしくみてみよう。
周知のように、日本で最初に自覚したトロツキストとしての活動を開始したのは山西英一である。軍部独裁の鉄の枠のなかで一切の大衆運動が絞殺され、批判的精神をともなったあらゆる思想活動が窒息させられていた戦時中から、トロツキーの諸文献の翻訳に手がつけられていた。そうして、一九四九年から五二年までのあいだに『裏切られた革命』、『ロシア革命史』『中国革命論』、『次は何か』などの邦訳が刊行されていく。この時期はちょうど戦後史の重大な転換期にあたっていた。第二次大戦後の帝国主義の危機と革命的動乱の一時期は終息させられてしまったあとである。それは、一つには「反ファッショ人民戦線」の政策によって英・米・仏帝国主義との協調政策をとってきたスターリニストの路線によって混乱させられ、下から労働者階級が重大な打撃を与えられたことにある。他方では、四七年のトルーマン・ドクトリンとマーシャル・プランをとおして、軍事力と経済力をフル動員したアメリカ帝国主義のイニシァチブのもとに戦後の資本主義世界の再建がはかられていった。つまり、アメリカの経済援助によって、いわば上からヨーロッパと日本の戦後における革命的闘争の高揚は鎮静させられてしまったのである。この点で、日本共産党の「解放軍規定」による二・一ゼネストの裏切りは明らかにスターリニストの国際的路線によって規定されたものであり、ヨーロッパにおける共産党の入閣によって資本主義の復興がはかられていく過程と対応していた。
たしかに、ヨーロッパとアジアにおける帝国主義の危機と疲弊は植民地後進国革命の未曾有の高揚のなかで東欧と中国を世界市場から切断し、「社会主義」陣営の拡大をもたらすことになった。これは第二次大戦後の世界情勢を規定する根本的な変化である。この新たな変化は一方で労働者国家ソ連を国際的孤立から脱却させた。同時に他方では、「一国社会主義」の上に君臨していたクレムリン官僚支配の基盤を掘り崩すことにもつながっていったのである。とくにユーゴと中国の革命がスターリンの指導と支配の枠をこえ、それと衝突しながらすすめられたことは、まさに「非スターリン化」の萌芽的あらわれにほかならなかった。とはいえ、この段階ではもちろんまだ国際共産主義運動はクレムリン官僚の一枚岩の統制下にあったし、「非スターリン化」という言葉さえ聞かれはしなかった。チトーの位置は明らかにまだ「異端」にすぎなかった。それにもかかわらず「非スターリン化」への胎動はすでにはじまっていたのである。
各国共産党の場合はもうひとつの側面から、すなわち大衆的にテストされることをとおして、それは進行していった。戦後のヨーロッパと日本における階級闘争の高揚期に圧倒的影響力をおよぼしたスターリニストのもとから労働者大衆は離反しはじめていた。とくにドルの援助による資本主義経済の再建と復興が軌道にのりはじめてからは大衆運動も後退局面に入りつつあったし、労働者階級にたいするスターリニストの影響は決定的に衰退した。かわって社会民主主義が資本主義の復興に支えられ、それと歩調を合せて抬頭してきた。
こうして、ヨーロッパと日本の戦後革命が敗北させられ、資本主義経済の再建復興がすすむなかでドルと核の傘によるアメリカ帝国主義の反共軍事網が全世界にはりめぐらされていった。このなかで一九四九年の中国革命の勝利をひらいた戦後のアジアにおける植民地革命の高揚の波も「朝鮮戦争」を境にして封じこめられてしまったのである。日本においても、アメリカ帝国主義の経済的・軍事的バックアップのもとにブルジョア支配は安定をとりもどしつつあった。四八年にドッヂ・プランが出され、レッド・パージの嵐のなかで、民間だけでなく官公庁・公企体においても「定員法」による大量人員整理が強行された。二・一ストの敗北後、日本共産党指導下の産別は崩壊し、反共民同がこれにとって代りつつあった。
このようななかで、五〇年に日本共産党は「コミンフォルム批判」をめぐって「所感派」と「国際派」に分裂していった。この不毛な分派闘争は大衆的影響力を決定的に衰退させただけでなく、敵のレッド・パージ攻撃に手を貸してさえいた。かくして産別が崩壊するなかで、朝鮮にたいする米帝の侵略を支持し、国際自由労連へ一括参加を推進しようとする反共民同の手によって「総評」が結成された。だが、こうしたなかで四七年の新憲法下第一回の総選挙で第一党に進出した社会党も民主、国協、自由の三党と連立して「片山内閣」を組閣するが、傾斜生産方式を継続し、合理化によって企業再建をはかろうとするブルジョアジーの忠実な代理人としてふるまうことしかできなかった。労働者人民の期待と幻想をになって成立しながら、もう一つのブルジョア政府でしかなかった片山内閣はわずか半年足らずで崩壊し、つづく芦田内閣も昭電疑獄でつぶれ、四八年十月には第二次吉田内閣が成立する。このもとでレッド・パージとドッヂ・プランの強行、朝鮮戦争と単独講和とつづき、ドルと核の傘の中でのブルジョア支配の安定が固められていくのである。この過程で社会党も大きな打撃をうけたあと、さらに五一年の「講和条約」をめぐって左・右に分裂する。
以上のような情勢を背景にして、トロツキーの邦訳と紹介の努力をつづけてきた山西英一は、一九五〇年になってようやく第四インターナショナル国際書記局(以下IS)と連絡がとれた。そして、五一年秋に社会党が左・右に分裂したあと、ISの方針にそって左派社会党に加入し、五三年から五五年にかけて三多摩を中心にトロツキストグループを形成し、一定の成果をあげる。
さきにのべたような、労働者階級の運動が大きく後退させられ、前衛的指導の崩壊状況と共産党の分裂といったなかでは共産党への「加入活動」は問題にならなかっただろう。労働者階級の左傾化の動きは左派社会党のうちにかろうじて表現される以外にない状況にあった。このなかで三多摩を中心にしたグループは二十人くらいの「研究会」を組織して、トロツキーの著作を読みつづけていたし、また「社会党三多摩支部ニュース」をとおしてトロツキストの立場からの情勢分析や国際問題についての解説を提起しつづけた。しかしながら、それにもかかわらず労働者運動は全体として壊滅的打撃をうけたあとであり、高度成長の軌道にのって労働者階級が新たな戦闘力を回復していくのはさらに後であった。そしてまた、日本の労働者階級が五五、六年から安保闘争への時期にかけて戦闘性を回復していくとき、日本の左翼の政治的分解と流動はまず最初に「全学連」に組織された学生運動をとらえたのであった。この点で、トロツキズムは、最初、全国的大衆運動としての全学連運動の内部に潮流形成のための大衆的基礎を獲得するのである。したがってまた、それは日本共産党の党内闘争を媒介にしたのであった。これがちょうど『反逆者』から「連盟」結成にはじまるトロツキストの「独立活動」の開始と一致したのであった。
だが、のちにトロツキストの潮流形成を媒介するこの日本共産党の党内闘争はすでに「五十年分裂」のときにその胎動を開始していたといってよい。すでにのべたように、結成後に参加してくる関西グループを含めて「反逆者」→「日本トロツキスト連盟」の流れには四つのグループが結集してくる。このうち群馬グループと関西グループは日本共産党の流れからでてきた部分であり、その点で大衆運動と党=組織活動の経験をもっていたのはこの二つのグループだけであった。だが、この二つのグループはそれぞれ異った役割りを果すことになる。この二つのうち、群馬グループは、日本共産党の六全協後、党中央が旧国際派の復党を呼びかけた際、復党しなかったが、関西グループは共産党に復帰している。この違いは、群馬グループが六全協以前にスターリニズムの枠から脱却しトロツキズムの立場を獲得していたのにたいして、関西グループの場合は、六全協後の混乱と共産党の再建過程で彼らが学生を中心とした大衆運動への影響力を拡大し指導的地点を獲得していくのとあわせて、急速にトロツキズムに接近していくのである。前者は「早すぎた」ためにかえって地域における大衆運動との結びつきを欠いた、というより正確にいえば、その後の共産党内部の党内闘争と政治的分解の過程に党の内部にあって介入する地点をもてなかったのである。したがって、彼らのその活動は外側から働きかけるということにかぎられたし、また思想同人的サークルのような性格を強める結果になる。この点、後者はトロツキズムの立場を獲得していったのが六全協後であったといういわば「立ち遅れ」が逆に共産党への「加入戦術」をとらせるのに最も好都合な効果を発揮するのである。以上のような事情から群馬グループが「独立活動」への指向を強くもっていたのは当然であった。
戦前、治安維持法違反で逮捕された経験をもつ内田英世・富雄の二人は戦後ただちに日本共産党に所属して活動をはじめるが、「五十年分裂」の際に「国際派」として除名される。そこで二十~三十人の群馬国際派グループとして活動をつづけ、グループの機関紙として『建設者』という新聞を発行する。そのうち、経済学を専門的に勉強していた内田英世は五二年に発表されたスターリンの『ソ同盟における社会主義経済の諸問題』に疑念をいだき、やがて「スターリン論文批判」を書く。そのとき対馬忠行の『スターリン主義批判』をとおしてより一層確信を強め、対馬と連絡をとる。その連絡を介して太田竜が来訪し、山西英一贈呈のトロツキー『次は何か』を持参する。このときはじめてトロツキーを読み、その後『中国革命論』その他をとおして急速にかつ決定的にスターリニズムから離反し、トロツキズムの立場に接近する。こうした経過のなかで、スターリニズム批判をよりはっきりさせたグループの手によって『建設者』につづく『先駆者』という新聞が発行される。彼の「スターリン論文批判」はそれに掲載された。
この時期は「非スターリン化」がより一層はっきりしはじめていったときである。まず五三年二月のスターリンの死につづいて、六月には東独において反官僚闘争が爆発した。それはソ連軍の武力弾圧によって敗北させられたとはいえ、労働者国家圏における政治革命の最初の火花であった。これは、その後、「ベリア事件」にはねかえって、スターリンの死の直後、二月~六月にかけて急速に進展しつつあった内政の改革と外交面における宥和政策に「反動的」な退却をもたらすことになった。再びスターリン時代に逆戻りするかにみえた。しかし、歴史は一定のジグザグを経ながらも決定的に後戻りすることはできない。ソ連国内における工業化の進展、その結果としての工業労働者の増大と都市化の進展、さらに東欧、中国革命による労働者国家圏の拡大とソ連の孤立からの脱出。これらは明らかにスターリニスト官僚支配の基礎となっていた諸条件に大きな変化をもたらした。かくして、スターリン死後のジグザグは相乗してクレムリン官僚をゆさぶりつづけ、ついに五六年二月に開かれたソ連共産党二十回大会における「スターリン批判」、さらに六月のポーランド・ボズナニにおける官僚支配にたいする労働者の反乱、十月のハンガリア革命へとひきつがれていった。 この五六年二月の「スターリン批判」直後、三月にトロツキズムと第四インターナショナルの立場にはっきりたって『反逆者』が創刊される。こうして群馬のグループは、旧国際派グループの機関紙として出していた『建設者』にはじまり『先駆者』にひきつがれていく活動の延長上にトロツキズムの立場にたった『反逆者』の創刊に踏みきっていくのである。その過程でグループの数も二十~三十人くらいから六~七人へとしぼられていく。
この「反逆者」グループを三多摩の社会党グループと結びつけつつ「独立活動」へのイニシアチブをとるのが太田竜である。太田は山西英一と対馬忠行の影響下に五二年からトロツキストとして活動を開始する。まず社会党青年部への「加入活動」を行い、はじめのうちは「最初の成果は青年部から生まれるかのような様相を呈した」と太田自身は書いている。だが、五三年十月には太田は社会党青年部の活動から高野派によって排除された。そのあと、五四年頃から「独立活動」を提起するのである。太田はつぎのように書いている。「社会党加入活動の経験を基礎にしてトロツキストの独立活動をはじめなければならぬという問題がK(太田)によって一九五四年に提起された。山西氏はこれに反対した。五四年十一月、東京で開かれたアジア社会党会議にオブザーバーとして出席したLSSP(セイロンのランカサマサマジャ党)のコルビン・デ・シルバと山西氏、Kの間でこの問題に関して短時間の討論が行われた。だが、ここでも事態になんらの改善も与えられなかった。Kは社会党を脱退して、独立のトロツキスト活動を組織するためのイニシァチブをとった」と。(太田が五八年夏の分裂後組織したトロツキスト同志会
― 後に国際主義共産党 ― の機関誌『永久革命』第五号(五八・一二・二九)の「日本トロツキスト運動の諸段階」より) こうして太田は「独立活動」を主張するが、社会党内で一定の大衆的影響をもちはじめていた三多摩グループの参加をえなければ、それは困難でもあった。ところが「山西氏は執拗に独立活動の必要を否定し、あるいはその時期尚早を力説した」(前掲『永久革命』第五号)という。だが、その後も、「連盟」結成まで太田はIを通じて三多摩グループに働きかけ、「独立活動」へ踏み出すよううったえつづけるが、結局、このグループは結成に参加しなかった。この太田と山西・三多摩グループとのあいだの「独立活動」をめぐる対立は、情勢の評価や組織建設のテンポについての意見の相違だけでなく、その背後にあった第四インターナショナルの分裂という事態にも関係していた。
当時、第四インターナショナルは、パブロやジェルマン(マンデル)を中心とした国際書記局多数派とアメリカのSWPを中心にした国際委員会(IC)派(キャノン派)とに分裂していた。第四インターナショナルは、五一年に開かれた第三回世界大会において、ユーゴと中国の革命によって大きく切り開かれた大戦後におけるプロレタリアートに有利な新しい世界情勢の転換を評価する「テーゼ」を採択した。そして、このパブロによって起草されたテーゼによって第四インターナショナルを全体として政治的に再武装し統一させるとともに、組織戦術としての「長期加入戦術」をうち出した。だが、その後この「テーゼ」のもっていた大きな欠陥を含めて(その内容はここでは省略する)、インターナショナル内部に意見の対立が発生し、分裂にまでいたる。最初はフランス支部の共産党への加入戦術をめぐってISとフランスのランベール派とのあいだに対立が発生し(五二年)、やがて五三年春から夏のアメリカ(SWP)内部の対立とからんで、秋にはインターナショナル全体の分裂に発展する。
ところで、五〇年からとられていた山西と国際書記局との連絡は主として中国支部のメンバーであり国際執行委員であったペン(彭述之)を介して行われていたのである。そして、インターナショナルの分裂という事態のなかでランベール派を支持したペンは、国際執行委員会多数派から実質的に排除され、反パブロの立場をとるにいたる。そのため、山西とインターナショナルとの関係はペンを介してICと関係をとることになった。これにたいして、五四年以降、太田は当時のIS(パブロ派)と連絡をとることになる。ともかく、このような事情を背景にして、山西・三多摩グループは太田の提起する「独立活動」への参加を「時期尚早」として拒否しつづけた。そのため、一年以上、太田は具体的な動きをすすめることができなかった。
ところが、五六年に入ると情勢は急速に展開しはじめる。前年には国内において、保守合同、左・右社会党の合同、六全協による共産党の合法面への復帰がなされ、その後の相対的安定期へむけた政治支配体制が確立される。また国際的にも、五四年のバンドン会議のあとをうけて「冷戦」から米・ソ平和共存体制へ移行しつつあったし、さらに二月のソ連共産党二十回大会の「スターリン批判」から六月のボズナニ暴動、十月のハンガリア革命へと情勢は急展開していく。すでにのべたように、この情勢のなかで三月に『反逆者』が創刊される。太田は別個に『レーニン主義研究』を五月に創刊する。そして、その年の夏、太田は「ISからの最初の連絡を受け」とったのである。五六年八月二一日付の太田のIS宛の手紙には、日本におけるトロツキスト勢力の現状についてつぎのように報告されている。「(イ)
社会党東京都連グループ五名(都連執行委二名)『研究資料』五百部、不定期刊。(ロ) レーニン主義研究グループ六名、同情者二名含む(二名は共産党細胞と弱い接触あり)、理論誌『レーニン主義研究』百部。(ハ)
反逆者グループ、正式メンバー四名(一九五一年の日共反対派) 機関紙『反逆者』四百部」と。(イ) の社会党東京都連グループというのは、おそらく三多摩を中心とする社会党グループであると考えられる。(ロ)
の「レーニン主義研究」グループというのは太田のグループのことである。最初のうち、太田はほぼ単独で『レーニン主義研究』を出しながら、群馬グループと三多摩グループをそのもとに結集しようと努力する。ところが、七月か八月頃になると、『レーニン主義研究』の発行をやめて、『反逆者』を軸に結集する方向を追求する。ただ三つのグループのあいだにはいろんな点で意見の対立があったが、太田はその意見の対立を含みながら「独立活動」への準備をすすめていく。
同年の九月十八日付のISへの手紙にはつぎのように書かれている。「レーニン主義グループと反逆者グループは八月二九日付のISの手紙(これがISからの最初の手紙であり、独立活動と支部結成の必要を示唆した内容のものであろう
― 引用者)を支持している。そこで、この二つのグループはその手紙の見解にもとづいて統一の準備をすすめている。そして、多分十月六か七日に会合をもって統一するだろう。社会党グループには、その手紙を支持するのはわずか一人か二人だけである。残りの部分はそれに反対である。社会党グループの正式の会議は九月末に開かれるだろう。」と。この太田のIS宛の手紙によると、まず前二者のグループが統一し、その後、社会党グループの参加をまって日本支部を結成するというのが最初の構想であったことがわかる。その見通しについても、「最終的には年内には日本支部を結成することができるだろう」というテンポで考えられていた。それにむけて社会党グループを参加させるためにも、この点についての教育的内容のISの手紙(=テーゼ)を早急に送るように、くり返し要請している。こうして、五六年十月十日付の手紙にはつぎのようにある。「われわれは十月七日、三つのグループの代表者会議をもち、そこで第四インターナショナル日本支部準備会を結成しました。われわれは基本綱領草案、規約草案を決定し、この草案を各メンバーの討論にかけることに決定しました。準備会の決定機関は各グループの代表者から構成される代表者会議であり、そのメンバーは反逆者グループの内田英世、レーニン主義研究グループの栗原登一(太田)、社会党のIの三名です。また、代表者会議は日常の支部準備会の活動を処理するために、仮書記局をもうけ、そのメンバーとしてKほか二名を指名した」と。ついで、十二月二二日付のISへの手紙ではつぎのように書かれている。「機関紙の発行。支部準備会は『反逆者』を支部準備会機関紙とすることに決定しました。一月からは月二回、六百部の線で発行します。社会党グループの問題。準備会に参加している社会党員は現在一名のみです。社会党グループの多数は支部結成に熱意がありません。彼らはメンバーが十名やそこらでは支部を結成するのは早いとか、その他いろいろな理由をならべたてていますが、とにかく支部結成の問題、ISの書簡等もまじめに討論する様子が見えません」。「われわれは次のように考えます。現在、支部結成に賛成しないメンバーは除外して、つまり社会党グループの大多数は除外して、支部準備会に参加しているもののみで支部を結成する以外に方法はない。われわれは一月二七日に支部準備会の会議をひらき、そこで支部結成の段どりをつけるつもりです」と。
しかし、このあと、Iは三多摩グループの会議をへて、「支部準備会」には加わらない。そこで、太田はこの間に黒田寛一と連絡をつけ、そのグループを結集させていく。黒田との関係は太田の方から連絡をつけるのである。この点については、『黒田寛一をどうとらえるか』に収録されている、吉沢功司編の「黒田寛一年譜」によるとつぎのように書かれている。(これは黒田自身の書いたものからの引用によって構成されている。以下の黒田に関する引用は全て同様である) 一九五六年「九月下旬、トロツキー『裏切られた革命』と手紙が太田竜から送り届けられる。この本の内容は五七年一月以後、黒田の頭脳に流しこまれる」。さらに、「十月九日、黒田と太田が日本における共産主義運動のボルシェヴィキ化について討論」とあるから、二人はこの段階であっているわけであるが、それは太田が「準備会を結成した」といっている「十月七日の会議」以後であったということになる。黒田の年譜によると「(五七年)一月一七日、”日本トロツキスト連盟”結成のための準備会……一月二七日、日本トロツキスト連盟(第四インター日本支部準備会)が太田、黒田、内田英世らによって結成される。……内田の個人紙だった<反逆者>が連盟機関紙となる。……鶴見、野村、大川、[文字化け始り]遠山正ら加入」と書かれている。
以上の経過からみて、五六年十月以降、何度かの準備会議が開かれたあとご五七年一月に「日本トロツキスト連盟」(第四インターナショナル日本支部準備会)が結成されたといっていいだろう。その間、Iを含めて三多摩グループは一人も参加せず、内田英世、太田、黒田の三つのグループによって結成されたのである。そして、「反逆者」→「日本トロツキスト連盟」→「日本革命的共産主義者同盟」の流れが、その後、日本共産党内の政治分解をとおして全学連の多くの学生ガードルを獲得し、学生中心であったとはいえ、日本においてはじめてトロツキズムと第四インターナショナルが大衆的基礎をもった同盟建設への一歩を踏み出したのである。
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