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1968年(昭和43年)1月15日の午前10時過ぎ、東京駅の14番線に12両編成の客車急行列車が止まっていた。前の5両が佐世保ゆきの「西海」、後の7両が長崎ゆきの「雲仙」だった。このうち、自由席2等車に当たる3号車は、ほかの車両とは異なり、座席が学生たちで埋まっていた。
・・・「網だなの上には上には白いヘルメットやサブザックが置かれ、アノラック姿やビートルズカットの学生たちが(中略)発車を待ち、見送りの仲間から弁当などの差入れを受け取っていた」(「朝日新聞」68年1月15日夕刊)。彼らは「三派全学連」と呼ばれた新左翼のセクトに属する学生たちだった。19日に米軍の原子力空母エンタープライズが佐世保基地に入港することに反対し、入港すれば佐世保がベトナム戦争の出撃基地になるとして、実力で阻止すべく佐世保に向かおうとしていたのだ。2等車のボックス席は、事前の密談には打ってつけだった(中略)・・・。(この前日、彼らは東京駅に集合する段階でも各所で機動隊と衝突している )
・・・列車は10時30分に東京を発車した。名古屋や大阪などでも学生が加わり、翌16日朝の6時45分に博多に着いた。同駅で降りた彼らは、待ち構えていた機動隊と構内で衝突し、逮捕者を出しながらも活動の拠点となる九州大学教養部に向かった。
(角材や危険物を隠しているのではないかと博多駅の改札口で待ち構えていた機動隊と衝突した。「博多駅事件」である。その事件の法廷では、私たちが刑法を習った井上正治教授が、過剰警備で逮捕されたり負傷した学生側に立って論陣を張った。佐世保駅への出撃拠点とした九州大学教養部へ入る時も、開門をめぐり大学当局と衝突した。「教養部開門事件」である。この当時3年生だった私は、六本松にあった教養部から7~8㎞ほど離れた専門課程の箱崎キャンパスで学んでいた。確かその日登校したら、通用門にもバリケードが築かれ中に入れず、数日それが続いた記憶がある)
・・・17日、彼らは再び博多から急行「西海」に乗った。途中停車駅の鳥栖、肥前山口、武雄では、角材やこん棒が車内に持ち込まれた(同、1月17日夕刊)。9時47分に佐世保に着くと、彼らは線路に降りて基地に向かおうと引き込み線を進んだ。その途中佐世保川に架かる平瀬橋で機動隊と衝突し、多くの学生が逮捕された。
・・・逮捕を免れた学生は、九大に戻るため連日列車で博多ー佐世保間を往復したが、車内では車掌から「ご苦労さまです」と言われたという(島泰三『安田講堂』)。米軍に対して実力で立ち向かおうとする彼らの姿勢は、狭いセクトの範疇を超え、幅広い共感を集めていたのだ。
・・・エンタープライズが佐世保港を出港したのは1月23日だった。同日朝、学生たちは佐世保駅を清掃して駅員を驚かせた(同、1月23日夕刊)。そして往路同様、急行「西海」に乗って帰京した。「雲仙・西海」が「全学連列車」と呼ばれたゆえんである(『闘いは大地とともに』)。
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