4281641 | 大逆事件(幸徳秋水事件)考 | 大逆事件(幸徳秋水事件)への流れ |
(最新見直し2006.5.31日)
【「宮下太吉」考】 | |||||||||||
「無政府主義 1910年、天皇打倒から革命へ 宮下太吉・爆裂弾を製造した労働者」を参照する。→トップページへ 大逆事件の引き金となった宮下太吉の動きから事件を解析していく。宮下は、熟練の機械工で、ロシア・ナロードニキの影響を受けた労働者、無政府主義者であった。1876年、長野県東筑摩郡生まれ。小学校を卒業し、すぐに鍛冶屋に見習いにはいり、官営明科製材所の職工となった。彼は社会主義文献に触れる前から労働者が置かれている環境に疑問を持っていた。日刊平民新聞を入手してからさらに労働者の組織化に目覚め、自分の職場に組合を結成し「亀崎鉄工所友愛義団」と名付けた。 弁護人が残した大審院特別法廷覚書によると、宮下は法廷で次の様に述べている。
予審調書では次の様に述べている。
1908.1月、片山潜の講演会も地元で主催したが片山の議会主義には納得しなかった。2月には再び森近を訪れ、秘密出版されたアナキスト、ローレルの『総同盟罷工論』を貰っている。森近運平が『日本平民新聞』13号(1908 年2月5日号)に「脳と手」と題して宮下の印象記を載せている。
同11月、内山愚堂から「無政府共産 入獄紀念 革命」が送付されてきた。これを一部抜粋転載する。
宮下太吉は内山愚堂と面識はなかった。内山は平民社の購読者リストに基ずき、秘密出版した『無政府共産』のパンフレットをそれぞれに複数部、送付したのである。宮下は、その内容に大いに共感し、たまたま11月10日に天皇ムツヒトが関西行きのため、近くの東海道線大府駅を通過するという新聞記事を読み、集まる住民に配布することを決意した。神格化され絶対権力者としての天皇への批判・否定のパンフレットは所持しているだけでも「不敬罪」の取締対象である。現実に何人かが内山から送られたものを所持しているだけで弾圧され、不敬罪で起訴され5年の実刑攻撃をうけている。 宮下は森近運平や平民社からの影響を受け急速に社会主義の文献を読み始めていた。自分の職場の仲間にも広めようとしていたが、すぐに反応は返ってこなかった。そこへ『無政府共産』の送付である。職場の労働者以外にも、さらに多くの人々に天皇と政府の支配から脱し革命に参加することを訴えようとしたのである。宮下は工場を休み、『無政府共産』を15部所持し大府駅へ向かった。配布しながら天皇神話を崩そうとしたが、人々の反応は宮下にとって満足の行くものではなかった。しかし天皇への不満を述べる者もいた。 1909.2月、東京への出張の帰りに、巣鴨の平民社を訪ねた。そこで幸徳秋水に初めて会い、ムツヒトの暗殺を計画していることを話している。宮下の、これらの交流、活動の一端は予審で供述調書を作られてしまい、大審院の判決理由で虚構の物語に組み込まれていく。 「大審院判決」は次のように述べている。これを一部抜粋する。
宮下は神格化された天皇の存在を打破するところから社会主義思想、無政府共産主義思想に近付いていった。宮下の眼には触れていなかったと思われるが、1907年の11月3日、すなわち天皇ムツヒトの誕生日に合わせて、サンフランシスコ在住の社会革名党員(幸徳が滯米中に組織化した在米日本人の党派)が『ザ・テロリズム』と題した新聞を配布した。その内容が「日本皇帝睦仁君に与う」というタイトルでムツヒトへの暗殺通告そのものであった。現実に暗殺を計画したというより日本の国家権力の追求が届かない海外から、脅かしをかけたというところであろう。 11月3日当日にサンフランシスコの日本領事館正面玄関に貼り付けられたという。また日本国内にも送られたようである。一部が関東の社会主義者の家に残されていた。 「日本皇帝睦仁君に与う」。これを一部抜粋する。
内容は天皇の神格を歴史的に否定し、侵略と奴隷使役を繰り返してきた一族の末裔にすぎないこと。現在も日本人民は奴隷道徳のもとに支配されている。人間として自由を求めるのは当然である。その自由を訴える新聞、雑誌記者、労働者が投獄され、日本社会党も解散を命じられた、という主張である。 国家権力の中枢に位置していた山県有朋はタイミングを計り「赤旗事件」直後、天皇ムツヒトに『ザ・テロリズム』を発行した社会革命党の存在を伝え、国内の社会主義者と結びついていると語った。その結果が大杉栄、堺利彦、山川均らに対する一年から二年半の禁錮、重刑攻撃につながり社会主義者の活動が封じこめられた。 1902年『近世無政府主義 、1903年『社会主義神髄 、1908年『麺麭の略取』の出版と社会主義、無政府主義の纏まった文献がようやく広まった時代である。それに伴って日本という国の政治体制を分析していった場合、天皇一族の存在が歴史的、国家論の視点から検証され始めたのである。 前出、その天皇の存在に対する歴史認識から、東大を追われた久米邦武の『日本古代史』も大きな役割を果たしている。宮下は幸徳、森近らの平民社との交流、内山愚堂の『無政府共産』から天皇観の影響を受け学び、天皇の存在が労働者、小作人、戦争に駆り出される人々を苦しめている元凶だと認識したのである。 宮下が使用していた1908年の市販の日記帳には皇室欄が付録として付いていた。そこに宮下の書き込みが残されている。 〈皇 室〉 寄生虫ノ集合体 革命ノ時ハ皆殺ス 〈皇 族〉 寄生虫ノ集合体 革命ノ時ハ殺ス可者 〈御歴 代表〉 寄生虫ノ経歴表 〈陸軍管区表〉 社会ノ害物 〈貨幣明細表〉 新社会ニハ不必要 〈印 紙 税〉 新社会ニハ不必要 宮下の決意が率直に表現されている。陸軍管区表というのは師団の所在地のことである。反軍の立場、革命時の障害になるということで記したのであろう。 大府駅での『無政府共産』の配布から数ヶ月を経て1909年の2月には、天皇暗殺の決意が出始めている。自分は命を賭けて革命のための礎になろうと決意したのである。残されている資料を検討する限り、煙山専太郎の『近世無政府主義』からの影響であろうか。 煙山専太郎は後に早大の教授になる。長男が1971年にエッセイで次のように記している。
煙山専太郎の思想的な立場はわからないが、「警世の書」というのは当局への対応上主張していたのかもしれない。もしくは出版時の予想に反して、無政府主義者に影響を与えたり、宮下太吉の蔵書にもあったということで、「保身」的言辞にならざるを得なかったのであろう。出版当初は余り売れず、幸徳秋水が米国から帰国後、無政府主義の立場を明確にしてから購入され始めたようである。その内容はナロードニキの闘争、無政府主義の理論、ヨーロッパの無政府主義運動史となっている。宮下はロシア皇帝アレキサンドル二世の暗殺場面を天皇ムツヒトへのそれと重ねたのであろうか。 第4回予審調書は次のように記している。
宮下の予審での第21回調書が残されている。
幸徳は、自分自身が参加することは曖昧にしていたが、菅野スガは積極に反応していた。菅野スガ・第二回聴取書には次のように記されている。
この6月の平民社での話し合い以降、宮下の活動は爆裂弾の材料集めと製造に集中して行く。7月5日 甲府の薬屋で、塩酸カリ九百 入手。7月10日 鶏冠石、入手依頼の手紙を亀崎の知人に出す。7月19日 塩酸カリ、入手依頼の手紙を新宮の新村に出す。7月31日 鶏冠石千二百 、明科の宮下の下に届く。8月11日 塩酸カリ四百五十 、新宮の新村から届く。11月3日 明科背後の大足山中で爆裂弾を試発させる。 |
【「中浜鐵」考】 |
中浜鐵は幸徳秋水達の処刑から10年程後に、ギロチン社を結成したアナキストである。ギロチン社や周辺のアナキストが関わった銀行員襲撃、爆弾を使用した「事件」の実行行為には加わっていない。しかしながら検事に控訴され、一審の無期懲役から死刑判決を下された。ギロチン社のリーダーと目され報復弾圧を受けたのである。報復の極刑判決の理由は、1922年に訪日していた英国皇太子の暗殺計画や当時の摂政宮、ヒロヒトの爆殺計画を中浜鐵が考えていたことにあるとする論もある。『黒パン党戦言』は爆裂弾の原料の配分比をパンの製造に比喩させている。 中浜たちギロチン社のメンバーはロシア・ナロードニキの活動を紹介した文献を読み、彼女彼等の爆裂弾を武器にした闘いを参考にしていた。革命を目指す闘いの一つとして爆裂弾の使用を考えていたのである。国家権力によるテロリズムがアナキストに向けられる時、反撃の手段は限られてくるのである。中浜が『黒パン党戦言』を著わしたとき、どのような思いがあったのか。関東大震災の直後に大杉栄、伊藤野枝、社会主義者、朝鮮人、中国人らが虐殺された。わずか十数年前には幸徳、菅野、宮下らが絞首刑というテロリズムにより抹殺されているのである。同志古田大次郎も二週間前に処刑されている。自らもいずれ縊り殺される状況であった。監獄の内からの激烈なメッセージは、自らが為しえなかった革命への決起を獄外の同志に訴えたものか、中浜鐵の叫びが伝わってくる。 1926.4月、処刑され辞世の歌を残した。「弥生空 魏櫓沈高く 霞み往く 黒蝶ぞ我 散る花に舞う」。 |
(私論.私見)