42815 | 戦前中国共産党考 |
(最新見直し2007.5.17日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
歴史を学ばない者はその愚昧さによって相応の咎めを受ける。これは古今東西に通用することであろう。今日、日本国内に右派イデオロギーの進捗が甚だしいが、それは左派が左派たる仕事をしていないことによって加速されていると見る。今や我々は日本史の歩みさえろくに知らされていない。当然のことながら、中国の歴史についても知識が希薄なように見える。 そういう風潮を受け、れんだいこも断片的にしか知らないので、取り合えず覚書を書き付けておき次第に整備していくことにする。 2005.5.1日再編集 れんだいこ拝 |
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428151 | 清朝末期考 |
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428154 | 中国共産党考その1 |
428155 | 第一次国共合作考 |
428156 | 第二次国共合作考 |
428157 | 国共内戦考 |
428158 | 人民解放軍考 |
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(私論.私見)
2001年8月5日赤旗。「『歴史教科書』(扶桑社)は中国にたいする侵略戦争をどう書いているか」(不破 哲三論文)
(これを下敷きにしつつ改訂中)
中国情勢のあらましの動き・中国の政治情勢の変転 |
はじめに
元々中国人は「華夷秩序」の誉れを持つ民族であった。確かに歴史的に見れば、長い間アジアにおける「華夷秩序」は存在した。ところが、近代になって我が国が明治維新を遂げた頃より明らかに日中間の殺序に逆転が起った。それまでの「中国>朝鮮・日本」という秩序から「日本>中国>朝鮮」という構図になってしまった。日本が植民地支配によって朝鮮・中国に進出した頃より、日本人には中国人、朝鮮人に対する拭いがたい優越感情が生まれた。これは他方で、中国人や朝鮮人に反日感情が生まれたことを意味する。ナショナリズムの相克絵巻の世界であるが、これをWHYと問うてみても説明し難いので、まずは史実として確認しておこう。
大東亜戦争の敗戦と中国革命の成就により、戦後には再び「華夷秩序」が形成された。但し、その後日本は奇跡の経済成長による国家再建に成功した。ここに、「華夷秩序」と日本主導による大東亜秩序構想が再び衝突する芽を生みつつ今日に至っている。不幸なことに、朝鮮は、北土を北朝鮮、南土を韓国に二分されたまま今日に至っている。とはいえ、韓国の経済成長も目覚しく、今日では日中の谷間から自立した国家再建に成功しつつある。この日・中・韓の国際関係は、今日においても協調と対立の微妙なバランスの上に位置している。以上の認識を踏まえながら、以下日本軍の大陸進出の実際と実態を素描してみたい。
第一期
(一)関東軍が侵略拡大の中心部隊となる。
日本は、日露戦争のあと、ロシアから遼東半島南部の租借地を取り上げ、これを「関東州」と呼んで日本の支配下においた。1900年義和団事件(北清事変)が発生し鎮圧された。このとき、この事変に関する「最終議定書」(1901年)が取り交わされ、日本は、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランスなどとともに、北京周辺への駐兵権を手にいれた。この駐兵権というのは、北京と海岸にある港とのあいだの「自由交通を維持」するために特定の地点に駐兵するという、きわめて限定されたものであったが、日本軍はこの権利をたてに北京周辺での兵力の増強を勝手にはかり、それを中国中心部に侵略を拡大する足場にすることを企てた。こうした突出行動は、「議定書」関係国のなかでは日本の専断となった。
第一次世界大戦に先立つ1911年10月、孫文が指導する辛亥(しんがい)革命がおこり、1912年2月、清朝がたおれて、共和制の中華民国が成立する。袁世凱(えんせいがい)が大総統となっ。しかし、袁政権は軍閥(軍事力を背景にした政治的勢力)政権の性格をあらわにして行き、中国革命に要求されている民族独立・祖国統一の歴史的期待に応えなかった。
1916年、袁が死ぬと、中国にはさまざまな軍閥が群雄割拠し、相対立して政権を争いあう軍閥抗争に入った。この頃の中国人民の悲願は、「不平等条約によって中国に権益をもつ外国勢力を排撃する」ことであり、その為に「中国ナショナリズムによる国内統一」の要望であったが、軍閥抗争はこの時代的要請に逆行し反発を買った。
第二期
これにたいして、1917年、孫文らの国民党=革命派が再び決起し、1921年に広東に新政府を樹立した。こうして、中国国内には孫文らの広東新政府と北京の軍閥政権とが南北で対抗する情勢が生まれた。この頃の1921年もう一つの革命派として中国共産党が結成された。以降、この三者鼎立がどう推移していくのかが中国の新情勢となった。
この間、日本軍の動きとして、1919年、ここに天皇に直結した軍隊として「関東軍」が置かれ、関東州の防衛と、やはりロシアから譲り受けた南満州鉄道の保護にあたることにした。これを中国人民から見れば、「中国侵略の最初の中心部隊として関東軍が進入してきた」という史観となる。この関東軍は、発足当時の公式の任務を越えて、満州(中国の東北部)から華北(北京、天津をふくむ中国の北部)、モンゴル(内蒙古)にまで政治・軍事工作の手をのばし、中国にたいするその後の侵略拡大の中心部隊となっていった。
1919年朝鮮で「3・1運動」が発生している。「3・1運動(「万歳事件」とも呼ばれた)」は朝鮮民族の独立運動であり、3.1日、各界の名士が署名した独立宣言書をかかげ、「独立万歳」を叫ぶ民衆デモがソウル、ピョンヤンなど各地に起こり、3月〜4月のあいだに朝鮮全土に広がり、日本の軍隊と警察の残虐な弾圧をうけ鎮圧された。
1924年、孫文が率いる国民党は、共産党と連合する「国共合作」方針に踏み出し、反帝・反軍閥の方針をいよいよ明確にした。国民党と共産党の間には主義主張に大きな食い違いがあり、特に共産党がロシア革命の影響を受け過激的であったことにより一枚岩とはならなかったが、勢力を拡大してくる日本に対する日本商品のボイコット運動、日本人の排日運動を強化するという点で意思一致させていた。こうして、日本の中国侵略を最大闘争課題として「中国ナショナリズム」の抗議と怒りを、「外国勢力」一般にではなく、日本に集中させていくことになった。
1925年3月孫文が病気で死亡した。孫文亡きあと、政権と党の内部で、共産党との合作を続けようとする左派と右派との対立が激しくなったが、右派の蒋介石が台頭した。
第三期
翌1926年の7月、蒋介石が指導する国民党政府は、軍閥支配を打ち破って中国を統一するための「北伐(ほくばつ)戦争」を開始した。「北伐」は急速な成功をおさめ、1926年12月には、揚子江南部の主要な地域が支配下におかれ、首都も広東から揚子江岸の漢口に移して、武漢政府が成立した。
ところが、北伐軍が上海と南京を占領すると、蒋介石は、1927年4月、軍事クーデターをおこして、激しい共産党弾圧にのりだし、その弾圧を後方の広州地方にも広げて、南京に反共国民政府をうちたて、ひきつづき「国共合作」の立場に立っていた武漢政府に対決を挑んだ。この対決は、蒋介石の反共国民政権の勝利に終わり、武漢政府は9月、蒋介石政権の軍門にくだった。
この頃の日本軍の動きは次の通りである。蒋介石の国民政府軍が、軍事クーデターのあと、「北伐」再開を宣言して、揚子江をこえて華北への進撃を開始したとき、日本は、在留する日本人の安全のための「自衛」措置と称して、ただちに山東省の青島(ちんたお)に関東軍の一部を派遣した(山東出兵・27年5月)。これは、中国に租借地や権益をもつ「外国勢力」のなかでも、突出した行動であった。山東出兵は、1回にとどまらず、翌28年4月、5月と3回にわたってくりかえされ、とくに第3次の出兵では、総攻撃で山東省の首都済南市をほとんど壊滅させた。この乱暴な軍事行動は、中国の人民のあいだに「排日」の気運を一気にひろげ、日本軍の暴虐ぶりが世界でも有名なものとなった(「北伐」を口実に山東出兵)。
日本軍は、満州とモンゴル(内蒙古)を早くから侵略の要衝地としてねらっていた。第一次山東出兵のさなかの1927年6月〜7月に、田中義一首相(陸軍大将)の主宰で「東方会議」が開かれ、「対支〔中国〕政策綱領」が指示されたが、ここでは、“「満蒙」地方は日本の国防上も国民的生存の上でも重大な利害関係のある地方だから、この地方における日本の「既得権益」「特殊権益」を確保するためには、必要な場合、軍事行動も辞さない覚悟をする必要がある”と、強調されていた。日本政府は、中国の領土である「満蒙」(満州とモンゴル)を日本の支配下におくことを、公然と日本の国策とするにいたった(「満蒙」生命線論を国策に)。
第四期
蒋介石は、クーデターのあとも、北伐の継続を宣言し、揚子江を渡って、さらに華北(中国の北部)への前進をめざし、1928年6月には北京に入城して、「北伐」を完成、中国の統一政権という体制をととのえた。こうして、中国国民党の指導者蒋介石は、各地の軍閥と戦い国内統一を目指し、1928年、北京をおさえて新政府を樹立したので、その勢力は満州にも及ぶようになった。
この頃の日本軍の動きは次の通りである。当時、満州では、軍閥の一人である張作霖が力をもっていた。日本は、最初は、この張作霖を味方として満州に支配の手をひろげるつもりで、いろいろ工作した。張作霖がそう簡単には日本の言いなりにならないことがわかると、関東軍は方針を変えて、秘密工作で張作霖を消すことにし、1928年6月、張が乗っていた列車が通る線路に爆弾をしかけ、爆殺した(この真相が明らかになったのは、戦後)(満州支配をねらって張作霖(ちょうさくりん)爆殺)。しかし、父のあとを継いだ張学良が、国民党政権の一翼をになう立場をとったので、爆殺によって満州の実権をにぎるという関東軍の思惑は成功しなかった。
主だった事実をあげただけでも、日本は、中国の領土である満州、モンゴル、華北を侵略しようとして、1927〜28年にこれだけのことをやっている。これを思えば、中国人民の抗議と怒りが日本のこの帝国主義的行動に集中したのは、あまりにも当然のことであった。日本の侵略行動は、その他の「外国勢力」が「不平等条約」によって租借地などの「権益」をもっていたこととは、まったく比較にならない、中国の主権と独立にたいする野蛮で乱暴な攻撃だったと見なすことが出来る。こうした事実を不問にさせて、日中関係悪化の主要な原因を、中国側の「過激な」排日運動にあったかのように歴史を描くことはご都合主義である。
一方、中国共産党は、農村での武装闘争に移り、1931年には華南(中国の南部)の江西省を中心に「中華ソビエト共和国」をうちたてるが、国民党軍によるはげしい包囲攻撃をうけて、1934〜35年、約1万キロの行軍をおこなって西北地区に移動し、1935年、延安(陝西省)を中心に、解放運動の根拠地をうちたてた。
第五期
日本の中国侵略が公然と侵略戦争の形で展開したのが、1931年に始まった満州事変であった。「1931(昭和6)年9月18日午後10時20分ごろ、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖(りゅうじょうこ)で、満鉄の線路が爆破された。関東軍はこれを中国側のしわざだとして、ただちに満鉄沿線都市を占領した。しかし実際は、関東軍がみずから爆破したものだった(柳条湖事件)。これが満州事変の始まりである。
「満州事変は、日本政府の方針とは無関係に、日本陸軍の出先の部隊である関東軍がおこした戦争だった。政府と軍部中央は不拡大方針を取ったが、関東軍はこれを無視して戦線を拡大し、全満州を占領した。これは国家の秩序を破壊する行動だった」。
満州事変はたしかに直接的には「関東軍がおこした戦争」であり、関東軍のこの行動は「国家の秩序を破壊する行動」であった。満州事変が、まさに謀略で世界をあざむきながら全満州を占領したという戦争であった。これが経過の客観的な叙述である。
柳条湖事件と呼ばれる線路爆破事件が、関東軍のしわざであることは、軍の中央部はもちろん、政府のあいだでも、秘密のことではなかった。外務省が編集した『日本外交年表竝主要文書 1840〜1945』(1965年刊)には、爆破事件がおきた翌日(9月19日)、奉天にいた林総領事が幣原(しではら)外相に打電した三通の極秘電報がおさめられていますが、そのなかで、林総領事は、“支那〔中国〕側に破壊されたと伝えられる鉄道箇所の修理のために満鉄から保線工夫を派遣したが、軍は現場に近寄らせてくれないと、満鉄の理事が言っている。今回の事件はまったく軍部の計画的行動に出たものだと想像される”と、関東軍の謀略の核心を正確に指摘した報告をおこなっている。
また、朝日新聞社発行の『太平洋戦争への道 開戦外交史 別巻・資料編』(1963年刊)には、当時の「参謀本部第二課機密作戦日誌」が収録されています。それには、9月19日午前に開かれた政府の閣議の様子が次のように記録されている。“南陸相がまず情報の説明をしたのに続いて、幣原外相が、外務省が得た各種の情報を朗読した。その情報は陸軍にきわめて不利なものが多かった。たとえば、撫順(ぶじゅん)の独立守備隊があらかじめ満鉄に列車の準備を請求していたのに、前の日になって17日には出動しない、18日に準備を変更せよ〔18日は事件の当日〕との要請があったとか、関東軍司令部も、18日の夜半に出動する準備をととのえた、などがあった。外相の言葉は、それとなく今回の事件はあたかも軍部が何らか計画的にひき起こしたものと推測しているようだった。それを聞いた閣議の空気をみて、南陸相は意気がややくじけ、朝鮮軍〔朝鮮に配置されていた天皇直属の部隊――不破〕の増援が必要だという提案をおこなう勇気を失ってしまった”。
これによれば、政府は、この事件が「中国側のしわざ」などではなく、関東軍の陰謀であることを、事件の翌日にはすっかり承知していたということになる。ところが、日本政府は、事件の6日後の9月24日、「9月18日夜半奉天付近において中国軍隊の一部は南満州鉄道の線路を破壊しわが守備隊を襲撃しこれと衝突するに至れり」と、事実をいつわって中国を非難する政府声明を出した。この声明で戦争の「不拡大」方針がうたわれていたが、政府自身が謀略による開戦を正当なものとして追認している以上、この時点で、政府は、この侵略戦争にたいして、関東軍と基本的には同じ立場に立ち、同じ罪をになったことになる(日本政府――謀略を承知のうえで戦争を正当化した)。
しかも、軍隊にたいする統帥権をもっていた天皇は、関東軍の行動についても、続いて勝手におこなわれた「朝鮮軍」の満州出動についても、「此度(このたび)は致方(いたしかた)なき」といってこれを容認し、さらに翌年1月には、関東軍の将兵を最大限の言葉でたたえる勅語まで発表した(天皇――最大限の言葉で関東軍をたたえた勅語を)。
「満州事変に際し関東軍に賜わりたる勅語」
「曩(さき)に満州に於(おい)て事変の勃発するや、自衛の必要上関東軍の将兵は果断(かだん)神速(しんそく)寡(か)克(よ)く衆を制し速(すみやか)に之(これ)を芟討(さんとう)せり。爾来(じらい)艱苦(かんく)を凌(しの)ぎ祁寒(きかん)に堪ヘ各地に蜂起せる匪賊(ひぞく)を掃蕩し克(よ)く警備の任を完(まっと)うし或は嫩江(のんこう)・斉々哈爾(ちちはる)地方に或は遼西・錦州地方に氷雪を衝(つ)き勇戦力闘以て其禍根を抜きて皇軍(こうぐん)の威武を中外に宣揚せり。朕(ちん)深く其忠烈を嘉(よみ)す。汝将兵益々堅忍自重(けんにんじちょう)以て東洋平和の基礎を確立し朕が信倚(しんい)に對(こた)へんことを期せよ」
こうして、関東軍の勝手な行動は、政府と軍中央部からも、最高の権力者である天皇からも簡単に追認されていった。関東軍の戦争行動そのものが、いわば時間の問題の突発であり、背景に天皇制政府の国策にそっていたという事情があったものとみなすことができる。今日よりする関東軍への告発は、政府・軍部・天皇の責任をも伴って複合的に総括されねばならない。
1932年3月、関東軍が政府をさしおいてカイライ国家「満州国」の建国に独走し、日本政府はこれを追認し、9月には「日満議定書」を結んで「満州国」を承認した。
満州事変にあたって、国際連盟(第一次世界大戦後につくられた国際機構)はリットン調査団を満州に派遣し、その調査報告(リットン報告書)をもとに、この国際紛争の解決にあたろうとした。リットン報告書は、満州での「日本の権益」の尊重をうたうなど、かなり妥協的なものであったが、これをうけての国際連盟の会議のなかでは、より妥協的な解決策を探る動きもすすんだ。しかし、1933年2月、日本政府はこの問題についてのいかなる妥協にも応じないという立場でこれを拒否し、3月、国際連盟から脱退した。日本は、国際連盟からの最初の脱退国という不名誉な地位を歴史の上に刻印した。
「リットン調査団の報告書は、……日本軍の撤兵と満州の国際管理を勧告した。日本政府はこれを拒否して満州国を承認し、1933(昭和8)年、国際連盟脱退を通告した」。
ここには、年代的な記述の大きな間違いがある。日本政府は、リットン報告書を「拒否して満州国を承認し」たのではない。日本が「日満議定書」を結んで「満州国」を承認したのは、1932年9.15日で、リットン報告書が日本に送付されたのは、その15日後の9.30日、それにもとづく討議が国際連盟で始まったのは12.2日で、日本が提出された解決案(委員会の決議案)を採決で拒否したのは、翌33.2.24日である。
日本の中国侵略をめぐる国際関係を叙述するにあたって、このような誤りをするということは、歴史教科書にとっては、きわめて重大な改竄であり、もしもこれが、たんなる記述ミスではなく、日本政府による「満州国」承認を、国際連盟の強硬策への対抗措置として描こうという思いからのことだったとしたら、そういう書物は歴史書の名には値しない。
国民党政権とのあいだでは、その後も国内戦争がつづいたが、1936年12月の西安事件(その地方の軍の責任者だった張学良〔ちょうがくりょう〕が、蒋介石を監禁して抗日のための国共合作をせまった事件)を転機に、二つの党のあいだの共同闘争の気運が強まり、時代は、日本帝国主義とたたかう第二次「国共合作」の時代へと転換することになる。
「満州国」の現実をどう書いているか
カイライ国家として樹立された「満州国」の状態について。「満州国は、五族協和(ごぞくきょうわ)、王道楽土(おうどうらくど)建設をスローガンに、日本の重工業の進出などにより経済成長を遂げ、中国人などの著しい人口の流入があった。しかし実際には、満州国の実権は、関東軍がにぎっており、抗日運動もおこった」。この『教科書』によれば、“悪い面”は、関東軍が実権をにぎるという政治面にかぎられ、経済面は、重工業化など経済成長を特徴とした“よい面”で、中国人の大量の流入があったほど、「五族協和」「王道楽土」のスローガンがいかにも現実的な響きをもっていたかのように聞こえる。これも、まったく現実ばなれした記述である。
中国政府がさる五月、日本政府に手交した『歴史教科書』についての「覚書」は、これに反論し、数字もあげながら、満州国の経済的な実態に関して、次の四つの点を指摘している。
――関東軍自身が、1932年7月に制定した「満州経済編成の基本方針案」のなかで、“満州の重要事業は国策上重要な意義を有しており、日本国が経営することを理想とする”とはっきり述べている。この方針のもとで、「満鉄」、「満業」(満州重工業開発株式会社、1937年創設)など日本資本の企業が、中国東北地方の経済命脈を完全に支配し、日本が中国にたいして勢力を拡大し侵略戦争をすすめることに、直接貢献した。この地方の経済成長なるものは、実際には、中国にたいする侵略戦争のための経済成長であった。
――日本は、中国東北地方からほしいままに略奪をはたらいた。不完全な統計によれば、1931年から44年の間に、東北地方から2億2800万トンの石炭(全生産量の30%)、1200万トンの銑鉄(同じく40%)および大量の良質な木材が日本に運ばれた。さらに大量の戦略物資が、日本軍によって、中国内地にたいする侵略と太平洋戦争のために直接用いられた。
――日本はニセ「満州国」の政権と結託して東北地方に大量の移民をおこなった。不完全な統計によれば、1932年から36年7月までの間に、日本は五度にわたって東北地方への移民をすすめ、日本人71万7千人、朝鮮人87万7千人が移り住んだ。それ以後も、さらに30万人以上が移民した。日本軍は、こうした移民のために土地を強制的に占領し、当時の東北地方の耕作地全体の十分の一以上を占領することで、多くの中国の農民を困難な状況に陥れた。
――いわゆる中国人が東北地方に顕著に流入したのは、日本軍が、華北地方から1200万人の中国人を強引に徴用し、強制や欺まんなどの手段で東北地方に連れてきて、ここの労働力に充当した結果である。
「満州国」で中国人民がどんな被害を受けたのかについての、具体的事実をふまえての中国政府の指摘は、重く受け止めるべきであろう。いま、日本でも「満州国」の実態について、少なからぬ研究・調査がおこなわれて、それにもとづく一連の著作が発表されているが、その多くが、中国政府の指摘を裏付けている。カイライ国家「満州国」の現実には、“悪い面もあったがよい面もあった”式のごまかしの議論を許す余地はまったくない。
「1937(昭和12)年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で、演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおこった。翌朝には、中国の国民党軍との間で戦闘状態になった(盧溝橋事件)。現地解決がはかられたが、やがて日本側も大規模な派兵を命じ、国民党政府もただちに動員令を発した。以後8年間にわたって日中戦争が継続した」。
停戦協定を無視してむりやり全面戦争に
“何者かの発砲”から日中戦争が始まったが、現地の日本軍は、このたびは満州事変の場合とちがって、偶発的なトラブルとして事件を解決する方針で、中国側との交渉にあたり、この交渉は、事件の二日後には妥結点に達して、7.11日午後6時、日本側の北京特務機関長と中国側の現地師団長とのあいだで「停戦協定」が調印された。「事件」は、これで解決するはずであった。
ところが、この日夕刻、日本政府は、現地のこの状況をまったく無視して、「華北派兵に関する声明」を発表した。この声明は、7.7日の「事件」はもちろん、その後の現地での交渉の経過もすべてねじまげた上で、「以上の事実にかんがみ、今次事件は、まったく支那〔中国〕側の計画的武力抗日なること、もはや疑いの余地なし」と決めつけ、「よって政府は本日の閣議において重大決意をなし、北支派兵に関し、政府としてとるべき所要の措置をなすことに決せり」と内外に発表した。
これにたいして、国民党政府の側には、抗戦に踏み切るかどうか、最初の段階では動揺があったが、盧溝橋事件に先立って、国民党・共産党間の合作の動きがすすんでいたことも大きな力となって、8月半ばには、国民党政権も対日抗戦を決意し、全国総動員令が発せられる。
これは、事件を意図的に中国全面侵略への転機にしようという日本の政府・軍部の侵略的野望を、むきだしに現したものでした。そして、7月下旬には、朝鮮軍・関東軍の部隊も続々華北に侵攻して、北京・天津地方を占領、8月には、日本から三個師団が海を渡って華北に上陸、中旬には上海方面にも戦線を拡大するなど、全面戦争への道を突きすすんだ。つまり、日本軍は中国全面侵略に足をふみだす絶好のチャンスとしてとらえ、この事件を無理無体に日中全面戦争の口実に仕立てあげていったという経過を見せている。
後の結果から見れば、日本軍は、「目的不明の泥沼戦争」に入った。「中国大陸での戦争は泥沼化し、いつ果てるとも知れなかった。国民党と手を結んだ中国共産党は、政権をうばう戦略として、日本との戦争の長期化を方針にしていた。日本も戦争目的を見失い、和平よりも戦争継続の方針が優位を占めて、際限のない戦争に入っていった」。
日本軍は、一撃すれば相手は屈服するだろうとの甘い見通しで全面戦争をはじめたものの、予想に反した中国側の強固な抗戦の意思に直面して、戦争の「長期化」が避けられなくなった。
日本の戦争の目的は次のことにあった。「日本の戦争目的は、中国の東北地方(満州)、華北、モンゴルなどにたいする日本の支配権を中国に認めさせ、さらに中国全体を日本の軍事的・政治的・経済的な影響下におくことです」。1937年に対中全面戦争に踏み切って以後、日本は、天皇出席のもとでの御前会議の決定をふくむ公式の政府決定で、戦争目的をくりかえし確認しているが、そこには、表現はいろいろあったものの、次の諸項目が必ずふくまれていた。(イ)中国が「満州国」を承認すること。(ロ)華北、モンゴルを中国本土から切り離した特別の地域とし、日本軍の駐屯を認めること。(ハ)中国のその他の地方(上海など)にも、日本軍を駐屯させること。(ニ)日本・満州・中国の経済的一体化をすすめること。
つまり、大規模な領土拡張と全中国の従属国化が、日本の戦争目的であった。日本が、この戦争目的を放棄し、侵略軍を中国から撤退させれば、戦争は「泥沼化」することなく、ただちに終結にむかったと思われるが、歴史の流れはそのようにはならなかった。日本があくまでこの戦争目的に固執し、見通しのない「泥沼戦争」に追い込むことになり、さらには、東南アジア侵略・対米英戦争といういっそう無謀な戦争拡大への道へ進んでいった。
中国側の戦争目的は、日本の侵略を打ち破り、日本帝国主義を東北地方(満州)をふくむ中国全土から追い払って、中国の主権と独立を全面的に確立することに定まった。中国側は、「戦争の長期化」をも覚悟して、この戦争目的を実現するまで徹底抗戦するという態度を堅持した。それは、20世紀を彩る英雄的な叙事詩の一つをなすものとなった。蒋介石の国民党政権も、一部の動揺はあっても、全体としてこの立場を崩さなかった。中国共産党の確固とした立場と闘争が、国民党政権のこの態度をささえる大きな力となり、このことは中国共産党の誇りとなる歴史でもある。
日本の戦争指導者たちの立場に立った「日米交渉」論
1941年に開始された東南アジア侵略および対米英戦争を正当化する「大東亜戦争」肯定論をどうみなすべきか。この問題は、1941年の「日米交渉」論の考察を抜きにしては語れない。『歴史教科書』は、「大東亜戦争」を日本の「自存自衛」のための戦争――やむにやまれぬ“自衛戦争”として描きだしている。「ABCD包囲網」を論じ、「経済封鎖で追いつめられる日本」という見出しのもとに、日本が、各国の連合戦線に包囲され、追いつめられる被害国として、描きだされている。「日本は石油の輸入先を求めて、インドネシアを領有するオランダと交渉したが断られた。こうして、アメリカ(AmericaのA)・イギリス(BritainのB)・中国(ChinaのC)・オランダ(DutchのD)の諸国が共同して日本を経済的に追いつめるABCD包囲網(ほういもう)が形成された」(274ページ)。
これは「当時の政府・軍部の説明をそのまま蒸し返し」たものである。オランダとの石油輸入交渉が事実上の決裂となったのは1941年6月である。この「ABCD包囲網」論は、侵略者とそれに反対する者との関係を、まったく逆さまに描きだした、日本側の戦争宣伝用の議論である。もともと、対中国戦争のために東南アジアの資源を武力で確保しようという「南進」政策は、かなり早い時期から日本の国策の一つとなっていた。
(一)ドイツのポーランド侵略によってヨーロッパ戦争が開始された一九三九年の十二月、陸相・海相・外相の三大臣(当時の政府は阿部内閣)が協議して「対外施策方針要綱」を決定しましたが、三大臣は、そのなかで、この国際情勢をうまく利用して、対中戦争の処理を促進するとともに、「南方を含む東亜新秩序の建設に対し有利の形勢を醸成する如く施策するものとす」という重大な方針を打ち出した。これは、ヨーロッパ戦争のなりゆきのなかで、イギリス、フランス、オランダなどの力が弱まったら、そのすきにつけこんで東南アジアに侵攻し、この地域の資源を奪い取ろうという思惑を、早くもあらわにしたものであった。
(二)一九四〇年九月、第二次近衛内閣は、大本営政府連絡会議で、日本の「生存圏」についての決定をおこないました。これは、ドイツおよびイタリアとのあいだで三国軍事同盟を結ぶにあたって、それぞれの国の「生存圏」を決定し、たがいに確認しあおうということからつくられたものです。「生存圏」というのは、日本が独占的に自分の支配下におくことをめざす地域をさした言葉である。
この会議で決定した文書「日独伊提携強化に対処する基礎要件」は、いちばん最初に、日本の「生存圏」の範囲を次のように規定しました。「独伊との交渉において、皇国〔天皇が統治する日本という意味――不破〕の大東亜新秩序建設のための生存圏として考慮すべき範囲は、日満支を根幹とし、旧独領委任統治諸島、仏領インド及び同太平洋島嶋、タイ国、英領マレイ、英領ボルネオ、蘭領東インド、ビルマ、濠州〔オーストラリア〕、ニュージーランドならびにインド等とす」。
なんと、東南アジアの全域に西はインド、東は大洋州の広大な地域を勝手に日本の「生存圏」だと決め、ドイツやイタリアにもそのことを認めさせて、その全体を日本の支配下におさめようと計画していた。「ABCD包囲網」などという議論のでたらめさは、三国軍事同盟の締結交渉にあたって近衛内閣が決めたこの決定をみただけで、すぐさま明らかになる。日本政府は、「ABCD包囲網」などの話をもちだすはるか以前に、アジア・太平洋のこれらの地域を侵略と支配の対象とする計画を決め、そのことをドイツやイタリアとの同盟交渉の主題にしていた事実を見ねばならない。
1941年の時点での、「ABCD」諸国と日本との矛盾や対立というものも、すべて、日本が中国への侵略戦争に固執し、戦争継続の条件を確保しようとしたところからおこった矛盾・対立であった。当時、ヨーロッパでは、ヒトラー・ドイツの侵略にイギリスが対抗し、アジアでは、日本の侵略に反対して中国が抵抗戦争をたたかっていた。アメリカは参戦してはいなかったが、これらの侵略に反対し、イギリスや中国を援助する立場を明らかにしていた。
アメリカが日本の戦争継続を助ける戦略物資の対日輸出を次第に制限しはじめたのも、この立場からであった。また、ドイツの侵略によって本国をじゅうりんされたオランダ政府が、日本の石油輸入の要請に応じなかったことも、ドイツと同盟した侵略国であるという日本の地位を考えたら、何も不思議なことはなかった。
これにたいして、日本は、「生存圏」内の資源を武力で奪取しようとし、フランスがドイツに降伏して三カ月後の一九四〇年九月にはフランス領インドシナの北部に軍隊を進出させ、さらに一九四一年七月にはインドシナ南部に日本軍を進出させて、公然と「南進」作戦の態勢をととのえた。
そして、ドイツのソ連侵攻(一九四一年六月二十二日)という新情勢をうけて開かれた七月二日の御前会議では、「南方進出の歩を進め又情勢の推移に応じ北方問題を解決す」として、「南進」重点の方針を決め(「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」)、つづいて九月六日の御前会議では、日米交渉で十月下旬までに要求貫徹の目途がえられない場合には「ただちに対米英(蘭)開戦を決意す」との戦争方針を決定、東南アジア侵略と対米英戦争に踏み切る国策上の準備も着々と進行させた。
「ABCD包囲網」というのは、この「南進」作戦を受け身の防衛的なものに見せかけて、国民の戦意を動員するための、政府・軍部の宣伝の手段にすぎなかった。
次に、日米交渉論を考察する。『教科書』は、日米交渉は、アメリカが「ハル・ノート」という強硬条件をつきつけたために決裂したとして、次のように書いている。「日本も対米戦を念頭に置きながら、アメリカとの外交交渉は続けたが、11月、アメリカのハル国務長官は、日本側にハル・ノートとよばれる強硬な提案を突きつけた。ハル・ノートは、日本が中国から無条件で即時撤退することを要求していた。この要求に応じることが対米屈服を意味すると考えた日本政府は、最終的に対米開戦を決意した」(275ページ)。
この叙述のいちばんの問題点は、日本側がこの日米交渉でアメリカに何を要求したのかについて、なにも語っていないところにある。さきほど紹介した九月六日の御前会議の決定は、十月下旬までに要求貫徹の目途が得られない場合には「ただちに対米英(蘭)開戦を決意す」とあったのですから、日米交渉の経緯を理解するうえで、いちばん肝心な問題は、御前会議が「貫徹」を求めた日本側の「要求」の内容にあったはずです。
この日米交渉では、ドイツとの軍事同盟の問題など一連のことが検討の対象となりましたが、最大の焦点は、日中戦争をどう終結させるか、なかでも中国を侵略した日本軍の撤兵の問題にありました。日本は、わが国には中国に日本軍を駐留させる権利があると主張し、日米交渉で、アメリカにこの権利を認めさせようと、あらゆる努力を払ったのです。
しかし、アメリカが、これを認めるはずがありませんでした。日米交渉が断続的に続いていた八月十四日、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相は、大西洋上で会談して「大西洋憲章」を発表し、戦後の世界が立脚すべき基本原則を明らかにしました。この憲章は八項目からなるものでしたが、最初の三つの項目で、民族自決の原則とともに、いかなる国にも不当な領土の拡大を許さない立場がきびしく明記されていました。
「第一に、両者の国は、領土的たるとその他たるとを問わず、いかなる拡大も求めない。第二に、両者は、関係国民の自由に表明する希望と一致しない領土的変更の行われることを欲しない。第三に、両者は、すべての国民に対して、彼等がその下で生活する政体を選択する権利を尊重する。両者は、主権及び自治を強奪された者にそれらが回復されることを希望する」。
これらの原則は、第二次世界大戦中、連合国の諸宣言のなかでさらに発展させられましたが、アメリカとイギリスが、この立場を、世界がまもるべき原則として宣言したことは、大きな国際的な意味をもった。
そのアメリカ政府が、もしも日米交渉のなかで、中国にたいする日本の駐兵権など、中国国民の「自由に表明する希望」と一致しない「領土的変更」やカイライ「政体」のおしつけを認めるようなことがおきたとしたら、自ら宣言した「大西洋憲章」の諸原則との矛盾に苦しまざるをえないことになったでしょう。
「大西洋憲章」のなかで表明された諸原則は、その後の国際政治の発展にてらして、それだけの重みをもっていた。
ところが、日本側は、“満州事変、支那事変以来の成果を壊滅させるものだ”といって、中国からの撤兵問題で本質的な譲歩をするつもりはさらさらなかった。たとえば、日米交渉が大詰めを迎えつつあった11.2日、大本営政府連絡会議は、ゆきづまっている対米交渉を前進させるための「緩和」案だとして、甲案および乙案の二つの案を決定している。それは、次のような内容のもので、中国の人民はもちろん、侵略に反対する世界の世論が求めているものとは、かけはなれたものでしかなかった。
〔甲案〕中国に派遣されている日本軍は、中国の北部とモンゴルの一定地域と海南島については、平和の成立後、「所要期間」駐屯する。この「所要期間」とは、おおむね25年とする。その他の軍隊は、2年以内に撤退を完了する。
〔乙案〕南東アジアおよび南太平洋地域に武力進出をしないことなど、南方方面の問題だけを交渉の対象にし、そこで合意が成立すれば、フランス領インドシナ南部に進出した日本軍は北部に引き揚げる。
交渉が大詰めを迎えているこの段階でも、日本側は、「満州国」の現状維持はもちろん、中国の北部とモンゴルの要所に日本軍を置いて、この地方を自分の支配圏として確保し、さらには南部の海南島に軍隊を置くことまで、妥結の条件として要求していた(甲案)。
乙案にいたっては、交渉を東南アジアの問題だけにしぼって、中国からの撤兵問題は日米交渉の議題にはしない、話がまとまれば、フランス領インドシナの南部からの撤退は認めるから、日本軍の中国駐屯問題は日本にまかせてくれという、いっそう虫のいい「緩和」案であった。
続いて開かれた11.5日の御前会議では、東条首相は、アメリカから示された回答(10.2日に受け取った四原則の回答)に反論して、とくに日本の中国駐兵は交渉の絶対条件だということを、あらためて力説した。
「さらに重大問題は駐兵・撤兵の問題なり。彼〔アメリカ〕の言うのは、撤兵本位でこれを中外に宣明し、駐兵は蔭(かげ)の約束では、とのことなり。おもうに撤兵は退却なり。百万の大兵を出し、十数万の戦死者、遺家族、負傷者、四年間の忍苦、数百億の国幣を費したり。この結果は、どうしてもこれを結実せざるべからず。もし日支条約にあるに駐兵をやめれば、撤兵の翌日より事変前の支那より悪くなる。満州・朝鮮・台湾の統治に及ぶにいたるべし。駐兵により始めて日本の発展を期することを得るのである。これは米側としては望まざるところなり。しかして帝国のいうておる駐兵には、万々無理なるところなし」(「昭和16.11.5日 御前会議」の記録から 『太平洋戦争への道 開戦外交史 別巻・資料編』566ページ)。
大本営政府連絡会議で決めた二つの案のうち、甲案は11.7日、乙案は11.20日、アメリカ側に提出された。それらを検討したうえで、11.26日、ハル・ノートが日本側に手渡されたが、その時点では、日米両国とも、中国からの撤兵問題では妥協が不可能なことを知って、それぞれなりに戦争への決意をかためていた。しかし、その準備は、日本側がはるかに先行していた。
戦争を始める具体方針については、日本側は、甲案・乙案を決定した11.2日の大本営政府連絡会議で、対米英開戦の方針を決定し、11.5日の御前会議で最終的な確認を得ていた。
「一、帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし、大東亜の新秩序を建設するため、この際対米英蘭戦争を決意し、左記措置をとる。
(一)武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す」(「帝国国策遂行要領」)。
これには、「対米交渉が12.1日午前零時までに成功せば武力発動を中止す」という保留条件がついていましたが、その期限をまたないで、空母6隻からなる攻撃部隊は、11.26日、真珠湾をめざして千島列島の基地を出発した。これは、ハル・ノートが日本側に渡されたのと同じ日のことであった。そして、12.1日の御前会議は、「対米交渉は遂に成立するに至らず 帝国は対米英蘭に対し開戦す」という最終決定をおこなった。
この全経過を見るならば、日米交渉を決裂させ、日本の戦争を対中国戦争から東南アジア侵略と対米英蘭戦争に拡大させるにいたった最大の原動力が、ここでも、あくまで中国侵略に固執した日本の態度にあったことは、明らかである。