428151 | 清朝末期考 |
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「(れんだいこ仮称)横山歴史講義」、「3 アジア諸国の変革と民族運動」、「ウィキペディア(Wikipedia)のアヘン戦争」
【阿片戦争】 |
1840年、清国と英国との間に1840年から二年間行われた戦争で、南京条約をもって終戦とした。名前の通り、アヘンの密輸入が原因となっておきた戦争であった。 発端は、英国が、植民地のインドで栽培させたアヘンを清国に持ち込むことにより莫大な利益を上げ始めたことにあった。1796年(嘉慶元年)、清国がアヘンの輸入を禁止する。しかし、密輸入はやまず、国内にアヘン吸引の悪弊が広まりる等社会風紀も退廃していき由々しき事態となった。官僚の許乃済から「弛禁論」が出たものの一蹴され、道光帝は林則徐を欽差大臣に任命し、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。1839年(道光十九年)、林則徐はアヘン商人たちに「今後一切アヘンを持ち込まない」と言う誓約書を出す事を要求し、英国商人が持っていたアヘンを没収し、これをまとめて処分した。しかし、その間隙を縫うように米国商人が登場し始め、英国商人との更なる摩擦が生じた。 1839.11.3日、英国が戦火を開き、清国船団を壊滅させた。麻薬の密輸が原因などという開戦理由にはイギリス本国の議会でも反対の声が強かったが,結局,清に対する出兵は僅差で承認され、イギリス東洋艦隊が清に向けて進発した。艦隊は直接広州へ行かず天津沖に姿を現した。北京に近い天津に軍船が現れたことに驚いた北京政府は林則徐を解任し、イギリスに対する政策を軟化させた。 1840.11月、英国艦隊は清政府に対して香港割譲などの要求を出す。北京はこれを拒否し、翌1841.1.7日、艦隊は攻撃を開始した。制海権を握り、火力にも優っていた英国側の一方的な勝利で決着した。 1842.8.29日、江寧(南京)条約に調印した。清国は、この条約で多額の賠償金と香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認め、また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権の放棄、最恵国待遇条項の承認などを余儀なくされた。英国と清国との不平等条約は他の列強諸国も便乗するところとなり、アメリカの望厦条約、フランスの黄埔条約などが結ばれた。 |
【アロー戦争】 |
1857年、英国及び仏国連合によりアロー戦争が引き起こされた。1860年まで続き、最終的に北京条約で終結した。この条約でキリスト教の布教が認められ、内地への伝道が開始された。これにより清国の半植民地化が決定的なものとなった。第二次アヘン戦争とも云われる。 その絶好の口実とされたのがアロー号事件である。1856年10月8日に清の官憲はイギリス船籍を名乗る中国船アロー号に臨検を行い、清人船員12名を海賊の容疑で逮捕した。これに対し当時の広東領事ハリー・S・パークスは清の両広総督・欽差大臣である葉名?(?は王ヘンに深の旁)に対してイギリス船籍の船に対する清官憲の臨検は不当であると主張し、また逮捕の時に清の官憲がイギリスの国旗を引き摺り下ろした事はイギリスに対する侮辱だとして抗議した。葉名?はこれに対して国旗は当時掲げられていなかったと主張したが、パークスは強硬に自説を主張し、交渉は決裂した。 実際には事件当時に既にアロー号の船籍登録は期限が過ぎており、アロー号にはイギリス国旗を掲げる権利は無いし、官憲によるアロー号船員の逮捕はまったくの合法であった。 パークスの行動を見た清国駐在全権使節兼香港総督バウリングは現地のイギリス海軍を動かして広州付近の砲台を占領させた。これに対して広州の反英運動は頂点に達し、居留地が焼き払われた。 イギリス首相ヘンリー・パーマストンは現地の対応を支持し、本国軍の派遣を決定するが、議会の反対により頓挫した。パーマストンはこれに対して解散総選挙を行い、今度は議会の支持を受けて、現地に前カナダ総督エルギンと兵士5000を派遣した。同時にフランスのナポレオン3世に共同出兵を求め、フランスは宣教師が逮捕斬首にあった事を口実として出兵した。 アメリカ・ロシアは戦争には加わらないものの条約改正には参加すると表明した。 1857年12月、英仏連合軍は広州を占領して葉名?を捕らえた。翌年2月には英露仏米の全権大使連名により北京政府に対して条約改正交渉を求めた。しかしこれに対する清の回答に不満を持った英仏連合軍は再び北上して天津を制圧し、ここで天津条約を結んだ。この条約の内容は公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の商船の航行の承認・英仏に対する賠償金などである。またこの条約による関税率改定により、阿片の輸入が公認化された。条約締結を見た連合軍は引き上げた。 しかし連合軍が引き上げた後の北京では天津条約を非難する声が強くなり、この条約内容を変更しようと動いていた。 1859年6月17日、英仏の艦隊は天津条約の批准のために天津の南の白河口に来た。これに対する清の迎接は無く、また白河には遡行を妨げる障害物が配置されていた。これを清の条約に対する批准の意思が無いと決め付けた英仏艦隊は強引に白河へ侵入した。 この艦隊はモンゴル人将軍サンゴリンチンの軍に敗れて上海へ引き返した。軍を再編した英仏は再度進軍して清の砲台を占領し、清側との交渉に当たった。しかしここでパークスらがサンゴリンチンに囚われると言う事件が起こったために決裂し、連合軍は北京に迫った。狼狽した咸豊帝は熱河に避難した。 この時に英仏連合軍は円明園を略奪し、最後には放火して証拠を隠滅すると言う蛮行を行った。 連合軍は北京を占領し、ロシア公使の調停の下に北京条約が締結された。この条約により天津の開港・イギリスに対し九竜の割譲・中国人の海外への渡航許可などを認めさせられた。最後の渡航許可と言うのは実際には奴隷貿易のためのものである。また調停に入ったロシアに対して沿海州を渡す事になったのである。 |
【日清戦争】 |
1894年、日清戦争。 |
【康有為の変法運動】 |
日清戦争の敗北は中国の知識人(士大夫)層に深刻な衝撃を与えた。下関条約調印の報が伝わると、折から会試(科挙の第2段階)のために北京に集まっていた挙人(郷試に合格して会試を受ける資格の出来た者)1200余人が康有為の呼びかけに応じて連名で「条約を拒否し、政治制度の改革を行って屈辱から抜けだそう」という上書を清朝に提出した(1895.4)。 この出来事の中心人物であった康有為(1858〜1927)は、広東省の名門に生まれ、初め儒学や仏教学を学ぶ一方で欧米思想にも接して西洋に関する書物を広く読み、のち公羊学(くようがく、孔子を革命主義者としてとらえ、政治的実践を尊ぶ学説)に転じて変法運動を提唱し、1888年には光緒帝に上書し、科挙合格後(1895)もしばしば上書した。 変法運動(変法自強)は、洋務運動が西洋の軍事技術の導入を中心として政治の改革に至らなかったことを批判し、その反省から日本の明治維新を手本にして国会を開き憲法を制定して立憲君主制を樹立するという政治改革(変法)を主張する運動である。 変法運動が広まっていく中で、革新的な若い知識人たちは各地に結社(学会)をつくり、新聞や学校を通じて啓蒙運動を行った。特に梁啓超(1873〜1929)は科挙に失敗した後、康有為に師事し、上海で新聞を発行して変法自強の論をひろめ(1896)、また翻訳を通じてヨーロッパの学芸の紹介に努めた。 康有為のたびたびの上書は若い光緒帝(位1874〜1908)の心をつかみ、光緒帝を動かした。1898年6月、光緒帝は変法の詔書を発布し、康有為・梁啓超・譚嗣同(たんしどう、1865〜98)ら変法派を登用し、戊戌(ぼじゅつ)の変法(1898.6〜98.9)を開始した。 科挙の改革、近代的な学校の建設、農工商業の振興、新式陸軍の建設、官庁の整理などの詔勅が次々に発布された。しかし中央・地方の守旧派官僚の非協力などのために改革はほとんど実現されなかった。 改革に反対する保守派は西太后を動かして変法派の弾圧をはかった。 西太后(1835〜1908)は、清朝末期の咸豊帝(かんぽうてい、位1850〜61)の妃で同治帝(位1861〜74)の生母である。満州旗人(八旗に所属し、各種の特権と土地を与えられた満州人貴族)の出身で、18歳で咸豊帝の側室となり、同治帝を生み、同治帝が5歳で即位すると咸豊帝の皇后(東太后)とともに摂政となり、西太后と呼ばれるようになった。 西太后は、嗣子のない同治帝が没すると(死因は天然痘とされているが西太后によって毒殺されたとも言われている)自分の妹の子でわずか3歳の光緒帝を強引に擁立して自ら摂政となり、東太后の急死(1881、西太后が関係していると言われている)以後は独裁権をふるった。 西太后は、光緒帝が親政すると(1887)離宮の頤和園に退いたが、依然として政治に干渉し、実権を握り続けた。これに反発する光緒帝が康有為らを起用して戊戌の変法を行うと保守派と結んでこれを弾圧した。 1898年9月、西太后は光緒帝を幽閉し、変法派を逮捕・処刑した。康有為や梁啓超は日本に亡命したが、譚嗣同は処刑された。新政はわずか3ヶ月で終わった(百日維新)。この出来事を戊戌の政変(1898.9)という。光緒帝は以後紫禁城内に幽閉され、1908年11月に急死し、その翌日に西太后が亡くなった。 戊戌の政変後、西太后は三度摂政となり、保守・排外派が政治を動かすようになった。 |
【義和団事件】 |
この頃、中国では民衆による排外運動が激化していた。既に、「1860年の北京条約でキリスト教の布教が認められ、内地への伝道が開始されると、各地で仇教運動と呼ばれるキリスト教排斥運動が起こった。まず地方の役人や郷紳が教会を敵視し、彼らの指導する軍隊や民衆による教会の襲撃や宣教師の殺害・信者への迫害事件が各地で起こった。仇教運動は外国の中国侵略に対する抵抗運動であったので排外運動と結びついた」。 1897年、山東(シャントン)省におけるドイツ人宣教師殺害事件が発生。それを口実にドイツが山東半島に進出。 この頃、義和団の活動が活発化し始めていた。義和団は、義和拳という中国武術を修練した宗教結社で白蓮教の一派ともいわれる。彼らの間では義和拳を修練すれば不死身の身体となり、さらに練術すれば天を飛翔する魔力を得ることが出来ると信じられていた。義和団は、1897年以降、華北一帯の災害のために窮乏した農民・流民・下層労働者が加わって急速に勢力を拡大していた。 列強は、これを機に在留外国人の安全が脅かされたとしてその保護を名目に8カ国(日本・ロシア・イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリア)が共同出兵にふみきった。当時、イギリスは南ア戦争、アメリカはフィリピンのアギナルド軍と戦争中で兵力に余裕がなかったので、地理的に近い日本(最大の約1万2000人)と極東進出をねらうロシア(約6000人)を主力とする8カ国連合軍が組織され(1900.7)、天津を占領し、8月には北京に入城し、公使館区域に籠城していた外国人を救出した。連合軍の北京入城の翌日、西太后は光緒帝を伴って北京を脱出して西安に逃れた。 なおこの時、北京・天津などでは連合軍によって前代未聞の掠奪・暴行が行われ、多くの貴重な文化財が海外に持ち去られたが、こうした中での日本軍の勇敢さと規律の正しさは列強を驚かせた。 |
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この問題はよほど重要と考える。確かに、「日本軍の勇敢さと規律の正しさ」は認められよう。しかし、事の重大性はそのことにあるのではなく、日本が欧米列強の尖兵として歴史的に繋がりの深い同胞アジアの中国に対して武威を振るったということにある。その後、この流れが定着する。それは日本の白色帝国主義化の途であった。 2004.5.4日 れんだいこ拝 |
1901年9月、李鴻章を直隷総督に復帰させて講和の交渉にあたらせた。 敗れた清は11カ国(出兵した8カ国とベルギー・オランダ・スペイン)との間で北京議定書(辛丑(しんちゅう)和約)を結んだ。事変の結果、清朝は、1・列強軍隊の北京駐屯、2・責任者の処罰、3・多額の賠償金(4億5000万両の39カ年賦払い)、4・日本とドイツへの謝罪使の派遣、5・北京周辺地域の防備の撤廃、6・排外団体への加入や運動の厳禁、7・武器弾薬及び製造材料の輸入の2年間禁止等々屈辱的な取り決めを余儀なくされた。こうして、中国に対する外国の干渉はさらに強まり、中国の半植民地化が更に促進することとなった。
この間にロシアは満州を占領し、同地への侵略を狙う日本との緊張を高めていくことになる。これが日露戦争の伏線となる。
(私論.私見)
義和団は、白蓮教系の義和拳教という宗教を奉じる秘密結社で、当初は山東省方面にあった。義和拳教は、拳法の練習によって神通力を得るとし、団ごとに神壇を持って孫悟空、洪鈞老祖、諸葛武候など(「西遊記」「封神伝」「演義三国志」などの劇中の人物)を神として祭っていた。
一方、このころの中国では、内地に教会が建てられてキリスト教の布教が行われ、一般民衆との摩擦・紛争事件が各地で起きていた。地方官憲や郷紳は、はじめ民衆側についていたが、教会のうしろだてに外国の領事・公使・軍隊があることが明らかになってくると、やがて民衆の味方とはいえなくなってきた。
また、外国資本により汽車・汽船・電信・電話などの交通通信手段が進んでくると、従来の古い作業に従事していた人々は失業を余儀なくされた。
1897年から1900年にかけての水災・干害などの天災も、人々の生活を一層苦しくした。
これらの民衆の不満を背景に、義和団は団員を増やしていった。
義和団のスローガンは、はじめ「打富済貧」「官逼民変」「反清復明」といった仁侠的なものであったが、日清戦争後になると「扶清滅洋」(清をたすけ西洋を滅ぼす)に変わった。
保守排外的な傾向に傾いていた清朝政府としても、弾圧がしにくくなった。
当初は、1898年から1899年にかけて、山東省で急速に団員の数を増やし、教会や外国人への破壊活動を行った。当時、山東省長官であった袁世凱が弾圧を行うと、1900年には運動は天津・北京へと向かい、ますます強大な勢力となった。北京での団員は20万人にのぼったという。
西太后の清朝政府はこの運動を支援し、官軍も行動をともにするようになった。
清朝政府が列国に対して宣戦を布告するにいたると、8か国(日本・ドイツ・イギリス・フランス・ロシア・アメリカ・イタリア・オーストリア)の連合軍が北京に進撃した。日本では「北清事変」と呼ばれる。義和団は討伐され、清朝は降伏した。
【参考ページ】
1900年 北清事変(列強が清へ出兵〜1901)
義和団事件最終議定書調印
1901/09/07
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義和団事件は、どういう事件ですか? |
上の質問に対する磐南総合研究会の答えです。 |
ご質問ありがとうございます。
乃木希典論に詳細は譲りたいと思いますが、簡単に述べれば以下の通りです。
日清戦争後に清は、知識人を中心に変法自強運動という名の近代化運動が起きた。しかし、この運動は西太后ら、現状維持派によって鎮圧されてしまった。次いで起こるのが義和団事件です。
義和団とは何でしょうか?
清末の華北一帯では、列強の圧迫による世情不安と、生活の急迫を背景として秘密結社に入る民衆が多かったのです。山東省で起こった義和拳もそのような秘密結社の一つでした。お札を飲み、呪文を唱えれば、剣や銃弾を跳ね返すことが出来ると称して、多数の熱狂的な信者が存在していました。当初は反清的な傾向が強かったのですが、清朝官憲が義和拳を排外運動に利用しようとして、これを団練(地方自衛軍)として公認し、ひそかに支援する態度を取ったことから、彼等は義和団と称し「扶清滅洋(清を扶け、西洋人を撃滅する)をスローガンとして、全国で大々的な排外運動を展開しました。
明治三三(一九〇〇)年義和団が北京に迫る勢いになり、同年六月ついに北京入りすると、ただちに外国公使館を包囲しました。これを勢力挽回への好機と判断した西太后らは、列強に宣戦布告します。これに対して列強は日本・ロシアを中心とする共同出兵を行い鎮圧したのです。
また、事件解決後もロシアは撤兵せず、逆に朝鮮への圧力を強めました。明治維新以来、日本は朝鮮半島が列強の手に落ちることを憂慮していました。黒船の来訪によって、開国し、近代化を推し進めた日本は他国からの侵略を最も恐れておりました。朝鮮半島が大国ロシアの手に落ちれば、次に侵略されるのは日本であるとの危機感が強かったのです。
こうして日露戦争へとつながっていくわけです。
義和団事変(ぎわだんじへん)は中国清代に華北地方でおこった排外主義を伴った大衆運動と、その後の欧米列国軍との一連の戦闘を指す。
義和団事件、義和団の乱とも。また北清事変(ほくしんじへん)との呼び方もある。
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義和団の興りは、清の中期に山東省に生まれた義和拳という宗教的秘密結社であり、白蓮教の流れを汲んでいた。信者らは拳法の修練によって身体を鍛え上げ、呪文を唱えれば刀や鉄砲でも身体が傷つかないと信じていた。また、各集団ごとに民間小説のヒーローである諸葛孔明(『三国志演義』)や孫悟空(『西遊記』)などを神として祭るなど、その信仰も極めて土俗的なものであった。
清末の山東省は元来の農業生産力の低さと人口過多のために、多くの民衆が生活の苦しさにあえいでいた。加えて19世紀末以降の市場開放に伴う欧米諸国の製品の流入は地域経済を破壊するに至った。
そうした状況の中に多くの外国人宣教師が山東省に入り込み、与えられた特権をたてに強引な布教活動や用地の取得を行うと、住民の怒りは彼らに向かい、教会の破壊・教徒の殺害を行うに至った。義和拳はこうした民衆と結びついて急速に巨大化し、盛んに排外活動を行った。1899年の年初から年末にかけての時期のことである。
排外活動を行う中で巨大化する義和団に対して、欧米諸国の手前もあり、清朝は当初鎮圧の意向を見せた。1899年12月より山東巡撫の任を受けた袁世凱は、持ち前の軍事力で弾圧し、「刀や鉄砲を受け付けない」と自称する義和団の幹部を公開銃殺して民衆の信仰心をそぐなどの強硬な姿勢を見せた。その結果、1900年の春には義和団は山東を駆逐され、直隷など華北各地に流入するようになった。また、この春は山東省一帯を中心に大干ばつが起き、大量の浮浪民が発生。義和団を更に膨れ上がらせた。
しかし、こうした経過の中で義和団は「扶清滅洋」(清朝を助け、西洋を滅ぼせ)をスローガンとして掲げるようになる。これが清朝内部の満州族を中心とした守旧派の歓心を誘い、「義和団を保護すべきである」との声もあがるようになった。李鴻章などの漢族大官や光緒帝はそうした動きに反発し、議論は紛糾した。この間も義和団は京漢鉄道沿線・東三省(満州)・内モンゴルの漢族を取り込んで鉄道や電信の破壊、西洋商店の打ち壊しなどを継続し、欧米諸国からの義和団鎮圧要請はひきもきらなかったが、清朝内部は活動を活発化する義和団に対して有効な手立てがとれないでいた。
そうした中で1900年6月21日、清朝の事実上の最高権力者西太后がついに義和団側に傾き、欧米列国に宣戦を布告した。清朝の公認を受けた義和団はついに北京まで侵入し、各国大公使館を包囲攻撃、日独の外交官を殺害した。北京周辺の清朝の軍隊も、西太后の命令のもと列国を攻撃し、事態は清朝と列国との武力衝突に至った。しかし列国側に援軍が到着するとともに戦況は清朝に不利となり、同年7月には天津が落城、さらに8月14日には日本・ドイツ・イギリス・フランス・ロシア・アメリカ・イタリア・オーストリアの8国の連合軍が北京を陥落させたことで事変は終焉した。各国の公使館は包囲されて実に55日目の開放となった。これと相前後して西太后と光緒帝は西安に逃亡、西太后の別荘であった頤和園は列強の軍隊に略奪・破壊し尽くされた。
また、ロシアは居留民の救出と東清鉄道の保護を理由として同年7月に東三省に侵攻、八旗兵を中心とした清朝の軍隊を撃破し、8月にはほぼ全域を占領下に置いた。
同年9月7日、ついに西太后は列国との和議に応じることを決断し、慶親王奕?・李鴻章を全権に指名して交渉に当たらせた。同時に清朝の軍隊に転じて義和団を攻撃するように命じ、ここに義和団は壊滅した。その後、ロシアが清朝(李鴻章)と極秘に交渉し、東三省での利権を一方的を確保しようとしたために英・日・米の猛反対を受けるなどの列国間の利害の衝突が発生、和議調印が長引いたが、翌1901年9月7日、列国と清朝の間で北京議定書が調印された。
話が前後するが、ほとんどの漢族官僚は当初から義和団の鎮圧を強く主張し続けた。しかし満州貴族に押し切られて1900年6月21日に西太后が列国に宣戦を布告すると、早くも同27日には両広総督李鴻章・両江総督劉坤一・湖広総督張之洞・山東巡撫袁世凱などの地方長官らは、宣戦布告以降の上諭を無効として、諸外国と東南互保の盟約を結んだ。この盟約は、自ら統治する領域内の列国の利権を保障し、独自の友好関係を保つものであった。
こうした地方長官の行動を、清朝の権威失墜と地方権力の自立という観点で論じ、民国期の軍閥時代とつなげて考える見方が多かった。しかし、漢族官僚らは西太后が列国への和議を認めると再び服従に転じており、特に李鴻章などは老体に鞭打って和議交渉に当たり、寿命を縮めている。張之洞や袁世凱もその後専心して光緒新政に取り組み、また張は自ら作った近代化軍隊5000名の清朝中央への吸収を承知している。東南互保は、事情に鑑みた緊急退避的なもので、清朝は官僚に対してはまだこの時期は求心力を保持していたと考える見方が近年では多くなっている。
義和団事変の戦闘が未だ継続中の1900年7月、アメリカは国務長官ヘイの名で、門戸開放宣言 (Open Door Doctrine)を発した。1899年の宣言を再度繰り返したもので、終戦後の列強諸国による利権争いの牽制を目的としているが、とりわけ東三省(満州)へ派兵したロシアへの警戒がその最たる理由であった。ロシアは既に清国より遼東半島を租借して港湾都市大連・旅順を建設し、さらに東清鉄道の敷設やハルピンなどの植民都市を整備するなど、着々と東三省への勢力扶植を行っていた。一方で大豆粕など肥料を中心として、日本・アメリカ・イギリスなどは年々東三省との貿易額を増しており、当地のロシアの植民地化は望むところではなかったのである。また、南下するロシアに対する防波堤を朝鮮に設定していた日本からすれば、東三省がロシアの勢力下に落ちてしまうことは大きな恐怖であった。
その警戒を裏付けるようにして同年8月、ロシアは東三省を完全に占領し、官庁・軍隊なども完全に自らの支配下に置いた。さらに11月、ロシア極東総督アレクセーエフ中将と清朝の奉天駐留の盛京将軍増祺との間で満州還付予備条約が締結された。これは奉天などの主要都市にロシアの駐兵権を認めるなどの一方的なものであった。しかしこの条約は清朝中央の認めるものではなく、李鴻章が対露交渉の全権となり、新たに交渉に当たらせたが、ロシア側の強気の姿勢は変わらず、交渉は難航した。
明けて1901年2月16日、ロシアは清朝の楊儒駐露公使に対して、極秘に12カ条からなる満州返還条約案を提示した。この文案には、ロシアの東三省における軍事・行政権の掌握、鉄道・鉱山・土地に対する特権取得など、さらに強硬なものであった。3月1日にはロシアは清朝に対して、もし調印を拒否すれば、東三省を永遠に返還しないと脅迫し、李鴻章は清朝にこの条約を早く締結するよう求めた。
こうした中、2月27日に駐露公使楊儒が日本にこの情報をリークした。日本はアメリカ・イギリスとともにロシアに抗議し、さらに対露交渉全権の李鴻章と仲の悪い劉坤一・張之洞にこの情報を流し、彼らを通して清朝の内部へもこの条約を調印しないよう圧力をかけた。
結局こうした圧力にロシアは屈し、東三省から無条件で全面的に撤兵する旨を列強諸国に約束した。しかし北京議定書調印後もその約束は履行されず、日英同盟、日露戦争へとつながっていくのである。
革命派でこの騒乱を利用しようとする勢力が現れた。孫文・鄭士良らを中心とする興中会で、1900年10月8日、広東省恵州で600余名を率いて蜂起した。これを恵州事件という。一時は清国軍相手に善戦し、軍勢も1万以上になるが、連携の悪さなどから11月には壊滅した。
この蜂起には、後に大陸浪人とよばれることとなる日本人も多く参加し、戦死者も出している。また、台湾総督兒玉源太郎は武器援助と軍事顧問の派遣を極秘に約束したが、10月19日に児玉と親しい山県有朋の内閣が倒れ、その後日本政府からは援助禁止の指示が出たために、実行に移せなかった。
日本でもマルクス主義が盛んであったころは、「輝かしい民衆の反帝国主義闘争」とイデオロギーの視点から称揚する歴史家も多かった。しかし、現在ではごく普通の土俗性の深い民衆が日ごろの不満を外国人排斥運動として爆発させ、清朝が尻馬に乗ったものという見方が一般的である。
しかし、その爆発は欧米諸国の圧倒的な武力によってあえなく粉砕されてしまった。すると多くの特に知識を持った人々の多くは、新たな不満の対象として、侵略から国を守ることができない清朝自身に向かうようになった。特に留学生として日本に渡った者は、ナショナリズムという概念を取り入れ、国家存亡の危機感とともに、「漢民族による国家の樹立」「滅満興漢」といった考え方を持つようになっていった。多くの留学生がそれに賛同して革命組織が生まれるようになり、清末には彼らによる蜂起・テロがたびたび発生した。
一方で漢民族の清朝の高官らも大きな危機感を抱き、光緒新政の名の下改革に取り組むようになった。自ら西洋の知見を取り入れようとも考え、1905年には岩倉使節団と類似した形で出使考察を行った。しかし、改革は満州貴族の反対や、議定書の賠償金に苦しみ、軍事面を除きなかなか進行しなかった。そして1911年の辛亥革命を招くことになるのである。