428159 日本軍の果たした皮肉な歴史的役回り考

 19世紀の清朝中国は老大国化し、西欧列強による帝国主義的植民地化政策に抗することができなかった。それはアジア、アフリカ全域がそうで、極東アジアに於いても台湾、朝鮮も然り。唯一、日本のみが明治維新を通じて稀有なる新時代対応能力を見せた。その原因を探ることも一興であるがここでは問わない。

 19世紀末、日清戦争が勃発し、これに敗北した清朝中国は加速的に帝国主義の餌食にされていった。露・仏・独による三国干渉の時から列強による中国分割が始まった。大まかに云えば、ロシア(万里の長城以北の満蒙及び新疆地区)、ドイツ(華北)、イギリス(華中)、フランス(華南)により侵奪されていった。最後の列強国アメリカが後から「門戸開放、機会均等」と声高に叫びつつ侵入を目論んだが時期既に遅かった。ともかく、こうしてん清朝中国は列強による中国分割の流れを阻止することが出来なかった。

 この間、中国では軍閥と匪賊が割拠し、清朝没後の政権争奪戦に乗りだしていた。中国国内に政府が乱立し、どの政権も我こそが正統政府であると主張し、それぞれが外交交渉も行った。欧米列強はこれに対応できず、「中国人自身が自分達の問題を解決できない以上、列強が介入しても解決の道には至らない」と音を上げ、第一次大戦をきっかけに次第に手を引いていった。これとは逆に日本は一層積極的に容喙していき、次第に深みにはまり泥沼に誘われていくことになる。

 近代化に遅れを取った末期清朝は、欧米列強によって席捲されるままとなり、日清戦争後次第に強まった日本軍の軍靴の襲来にも抗すことが出来なかった。まさに老大国となっていた。その眠れる獅子中国を立ち上がらせ、世界植民地戦時代を行きぬく力を与えたのが国民党と共産党であった。それぞれが統一国家中国の新生に向かったが、この創出は一大革命事業であった。しかし、両党は、次第に中国の国内勢力を整序していき二大勢力となった。ここに日本軍の軍靴が入り込んだ。

 満州事変から日支事変にかけての時代、それぞれの党内は親日派、反日派、国際派、民族派、その他に分岐しており、それが次第に整序され国民党反日派、国民党親日派、共産党に収斂され、これに日本軍の侵略が加わり三つどもえ四つどもえに入り組んで対立するという複雑な政治状況に陥っていた。  

 ともあれ、1924年から27年に亘って「第一次国共合作」時代を迎えた。思えば、国民党と共産党は共に親ソ的で党派ルーツは同床であった。しかし、1925.3.12日、国民党の指導者孫文が夢を果たせぬまま生没する。

 孫文後の国民党を掌握した親日派にして国際派の蒋介石派は、日本軍と闘うよりは専ら共産党を主敵とする戦略の下で殲滅戦に乗りだしていった。中国共産党は1930年代に入っても、国民党の蒋介石軍に対して劣勢で、江西省の山岳地である井崗山(せいこうざん)で包囲されていた。当時の共産党軍は、後の八路軍の兵力3個師団3万人のみで、国民党軍に包囲され全滅の危機に瀕していた。

 共産党軍は井崗山から脱出すべく、長征の途についた。目的地の陝西省北部の延安までは中国の辺境といわれるチベットとの境界や青海省などの峻険な山岳地帯が選ばれた。この途上、毛沢東が本格的に共産党の主導権を握った。

 ケ小平は次のように述べている。概要「あの戦争が始まる前、我々は井崗山(せいこうざん)から、長征の途についた。延安にたどりついたときは気息奄々、靴もちびはて、人数も2万人に減って全滅寸前でした」。つまり、結果的に、日本軍の介入が中国共産党を救ったことになった、ことを指摘している。

 歴史は皮肉である。この危機を救ったのは日本軍の介入であった。国民党優位のままに雌雄を決しようとしていたまさにその時期に間隙を盗むが如くにこの状況下に日本軍が攻め込んできて、共産党軍を包囲していた蒋介石軍を撤退させた。蒋介石軍は重慶まで後退を余儀なくされた。以降、日本軍の介入によって国民党軍は対日本軍戦にも戦力を割かねばならなくなった。

 この局面で西安事件が勃発する。1936.12月、西安を訪問中の蒋介石は東北軍を率いる張学良に捕らわれ、抗日体制確立のため共産党との内戦を停止するよう説得を受ける。張学良はもともと満州を支配していた張作霖の長男であり、日本軍に爆殺された父の仇を討つという思いもあって国共合作を衷心込めて具申し、蒋介石の助命と引き換えに国共合作を確約させた。これを西安事件と云う。

 この合作過程も一大革命事業であった。1936年秋の西安事件までは、蒋介石は日本とことを構えるより、共産党制圧を第一目標にしていた。それが西安事件で順番が逆転する。これにより共産党が生き延びる道が開かれ、戦後の「国共内戦」まで国共合作時代が続いていくことになる。
1937.7月、日中戦争勃発。国・共両党は恩讐を預けて「第二次国共合作」し、対日抗戦に向けて提携していくことになった。

 国民党が重慶に撤退している間、共産党は日本軍支配区域下で勢力を温存伸張させていくことになった。共産党にとって、日本軍の拡張主義は打倒対象であったと同時に「慈雨」でもあったとは。

 且つ、概要「共産党軍は日本軍の後方で勢力を拡大した。8年後に3万人の兵力は120万人にまで増えたし、さらに数百万人の民兵組織までつくった。 日中戦争が始まりや、共産党軍を包囲していた蒋介石軍は日本軍によって次第に南部に押し込まれていく。袋のネズミだった我々はそれで息を付くことになり、日本軍の後ろに回って、着々と工作をしていった。そして戦争終結時には数百万の正規軍を擁する軍事勢力にのし上がった」。 


 1945.8月、日本軍国主義が敗北した。終戦後の1945.8月から10月にかけて当時の臨時首都だった重慶で、蒋介石と毛沢東がトップ会談し(重慶会談)、内戦回避や協力継続を再確認したが、両党の雌雄を決する勢いは止まらなかった。翌年7月、遂に国・共両党は内戦に突入していった。今や外部勢力に煩わされず雌雄を決する時が来た。

 この過程は近代中国の三国志絵巻そのものであり、これに興味を覚えない革命家がいたとしたら、速やかに舞台から逝って良しとれんだいこは思う。内戦に破れた国民党は台湾に逃げ込み決着した。

 れんだいこが「国共内戦」に興味を覚えるもう一つの理由に、それが一大イデオロギー戦争であったという理由がある。今日共産党が中国本土を、国民党が台湾を領有しているが、このことは一大イデオロギー戦争が共産党の優位に推移していったものの未だ未決着の火種を有しているということでもある。この考察をしてみたいが力不足にして及び腰にならざるをえない。

 以上のことから次のように言えるのではなかろうか。
 「日本帝国主義軍の中国大陸侵略は眠れる老大国を覚醒させ、戦後における新中国建国の起爆剤的役割を担った。日帝の中国侵略は奇しくも欧米列強の中国分割化を阻止し、続いて中国の内戦を終結させ、新中国建国の触媒的役割を担った。補足しておけば、それは何も日本帝国主義が中国の為にそのように立ち働いたというのではない。それは全くの反対であり、彼らの八紘一宇思想が皮肉にも、こと彼らの志とは反してそのような果実をもたらした、という意味でのことである。案外認識されていないが、そういう風に概括しえるのではなかろうか」。

 この史観は、毛沢東の次のような言葉で裏付けられる。
 「中国が統一され、人民共和国政権が誕生したのは、みな日本の中国侵略のおかげだ。我々は日本に感謝しなければならない」。

 黄文雄・氏は、毛沢東のこの言を次のように解析している。
 「随分皮肉に聞こえるが、長い歴史の流れを考えれば、それが真実である。パワー・オブ・バランスの関係で云えば、歴史とはこのような因果関係によってつくられるものである」。


 以下、ネットサイト「萬晩報」(主宰・伴 武澄)の「1198.11.29日、ケ小平が自衛隊OBに語った日中戦争の新解釈」、「魁け討論-春夏秋冬」(伴 正一)の1998.6.6日、日中戦争のおかげで全滅を免れた中国共産党−トウ小平語録を参照する。次のように記されている。
 西安にあった周恩来の地下指令室が保存されているが、そこに展示されていた古い雑誌に日本軍が蒋介石軍を破って南京に迫ってゆく様子を「形勢好」と表現している。「形勢好」とは「形勢はいいぞ」という意味であるからして、日本軍の蒋介石軍追撃戦の開始が当時の共産党にとって「慈雨」であったことを証している。

 ケ小平も次のように発言している。これを概述する。1198.11.29日、元陸軍で自衛隊の将官もつとめた一行5、6名が訪中した際に、予期外のケ小平との会見が実現した。この時、ケ小平は次のような意表を衝く発言をした。この会談は人民大会堂で行われ、中国側の出席者はケ小平、廖承志、王暁雲、孫平化、金黎、単達析であった。

 日本側が先の戦争の歴史的責任を謝罪すると、ケ小平は発言をさえぎるようにして「我々は日本軍をそんなに悪く思っていませんよ」と切り出した。ケ小平の説明は、日本軍の蒋介石軍追撃戦が当時の共産党にとって「慈雨」であったこと、共産党がこの間隙で勢力を挽回させていくことが出来たというものであった。
 概要「これらを思えば、中国共産党の幹部は日本へは足を向けて寝られないほどの恩義があるはずだ。確かに共産党軍も日本軍と戦争しているが、ゲリラ戦であり正規の戦争はもっぱら国民党軍が戦った。共産党が勝利したといえるのは大戦後の内戦においてであり、対日戦争の勝利の主役とはとてもいえない、戦勝国としては、あまり大きな顔は出来ない。むしろ戦中戦後の混乱に乗じて政権を奪い取ったに過ぎない」。

 これが歴史の実相である。それにしてもケ小平はよくもこんなきわどいことを日本の軍人たちに言ったもので、その度胸には度肝を抜かれた、とある。

 してみれば、1972年の日中国交回復交渉過程での次のような毛主席指示もむべなるかな。
 概要「毛主席は常にこう云われた。両国は100年間は喧嘩したが、いまは共通の問題がある。過去、中国人民は日本の軍国主義に対抗してきたが、『過去のことは水に流そう』」。


 落ち着いて考えれば次のように云うことができる。
 「日中の交流は、漢の武帝の時に始まったといわれるがそれから約2000年、短くみても1500年になる。100年は喧嘩状態だったが、1400年は友好的だったのだ。100年の喧嘩は長い間におけるエピソードにすぎないと言えよう。将来も、1500年よりももっと長く前向きの姿勢で友好的にいこう。今後の長い展望でも当然友好であるべきである」。


 これが、歴代中共政権の史実に基づくところから汲み出された歴史的観点であった。この観点は概ね、1989年に胡耀邦総書記が亡くなるまで維持された。しかし、江沢民が中国国家主席になって以来、批判が激しくなってきた形跡がある。しからば、何によってそういう観点の変更が生起したのか。これを洞察するのが政治論評であろうが、この種の考察が聞こえてこない。

 たまに目にするのが次のようなものである。
 「中国の首脳がもっぱら靖国神社のA級戦犯を言い立てるのは、東京裁判を正当化させるための、アメリカの民主党勢力の入れ知恵によるものだろう。何しろ中国共産党は靖国に祀られたA級戦犯たちによって危機を救われたのだから、A級戦犯を名指しして批判をするのは筋の通らぬ話だ」。

 この謂いは、れんだいこを満足させない。せいぜい半面のこじつけ真理でしかないように思われる。なぜなら、中共側の言は、日帝の中国侵略は、「皮肉にも」中国新生の触媒的作用を齎(もたら)したという歴史事実の指摘であり、「日帝の中国侵略を感謝する」という意味合いのものではない。ここを勘違いしてはならない。

 「A級戦犯たちによって危機を救われた」なる観点は倒錯していよう。しかし、こういう曲解を恥じない自称インテリが大手を振って徘徊しているとは。歴史を学べば賢くなるところ、逆を行く手合いのように思える。

 2004.12.13日再編集 れんだいこ拝





(私論.私見)