戦後党史プレ期 第2部 1945年終戦までの歩み 第二次世界大戦前の動き

 (最新見直し2006.5.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 この頃既に「満・蒙は日本の生命線である」と認識するのが時代の空気となっていた。満州とは、中国の東北三省をひっくるめた総称で、これに内蒙古の東部を加えて「満・蒙」と呼んでいた。その一部−南満州一帯の権益を関東軍が後生大事に守っていた。いわば中国大陸への足がかりであり、橋頭堡でもあった。次第に全満州を掌握したいという欲求が強まっていったとしても、それが既に時代の流れとなっていた。

 他方、中国国内では、対支21カ条要求以来、排日から抗日へと気運が醸成されつつあった。日本外交は、幣原喜重郎的な国際協調派路線を目指したり、帝国主義的な植民地主義を目指したり、時計の振り子のように揺れ、「ダブル・スタンダード」下に陥る。


【以前の流れは、「第ニ次世界大戦への流れ」の項に記す】

 (「あの戦争の原因」)からかなり引用しております。


1931(昭和6)年、満州事変発生後の動き

 (この時代の総評)


【柳条湖事件勃発→満州事変発生】

 9.18日、柳条溝事件が発生した。ここから満州事変と云われる一連の経過が始まる。柳条湖事件とは、9.18日夜、奉天に近い(奉天駅から8キロ北東に位置している)柳条溝付近で、南満州鉄道の線路が何者かの手によって爆破され、関東軍がこれを張学良系中国軍の仕業だとして一挙に軍事行動を満展開していくことになったその引き金になった事件のことを云う。関東軍は、これを中国軍の仕業として守備隊が付近の張学良指揮下の中国軍北大営を奇襲攻撃した。睡眠中の中国兵は算を乱して逃亡し、19日午前2時、日本軍弟29連隊は奉天城に無血入城した。

 翌9.19日の朝日新聞報道は次の通り。

 「奉天発18日、至急電。本日午後10時半、北大営の西北において支那兵が満鉄線を爆破し我が守備兵を襲撃したので、我が守備兵は時を移さずこれに応戦し大砲をもって北大営の支那軍を砲撃し、その一部を占領した」。

 ちなみに関東軍とは、日露戦争後の1906(明治39)年に遼東半島南端の関東州租借地と満鉄付属地の守備のために組織された関東都督府陸軍部が前身。簡単に言えば、日露戦争で得た、満鉄・租借地などの中国での日本の利権を守るための植民地駐留軍ということになる。

 今日では時の関東軍参謀・大佐板垣征四郎、関東軍参謀(作戦主任参謀・中佐)石原莞爾、奉天特務機関員・花谷正、張学良顧問補佐・今田新太郎などが参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らと連絡を取り合いながら仕掛けた謀略であり、火付け実行役は無政府主義者大杉栄を殺害した甘粕大尉グループが請け負ったとされている。ちなみに、甘粕大尉は大杉栄夫妻と橘宗一殺人の咎で10年の刑期を受け服役していたが、三年で千葉刑務所から出所していた。


 石原たちは満州の関東軍(約1万)を勝手に動かし、中国北方軍閥の張学良軍(約22万)に戦いを挑み、見事にこの事変を成功させる。この満州事変は国家の閉塞状況を打破してくれる物として不況のさなか国民の拍手喝采を浴びる。この事変を成功させた石原は国民的英雄となった。


【政府「事件の不拡大方針、現地解決」方針を決定】
 事件の翌日9.19日早朝ラジオの臨時ニュースは、興奮におののくアナウンサーの声で柳条湖事件の勃発を伝えた。第二次若槻内閣は緊急閣議を招集し、「事件の不拡大、現地解決方針」を決定し、陸軍三長官(南陸相・金谷参謀総長・武藤教育総監)に杉山次官、小磯軍務局長を交えた陸軍三長官会議が開かれここでも不拡大方針を決定している。とはいえ、「軍の安全を保障する上において占拠せる諸地確保のため必要ならば障害除去のため積極的行動を採るもやむを得ぬ」としていた。但し、関東軍を抑え、軍事行動を抑止する具体的な措置は何も採られなかった。

【抑制派(石原完爾)とヨウ懲派(東条英機)が対立。勢いとまらず関東軍の暴走始まる】

 この時石原完爾は、ソ連南下防止のため日支が提携する必要を力説し、「平和的な解決を目指せ、戦争は阻止しなければならない」と説得に努めている。 しかし、「暴れる支那は懲らしめるぺ゛し(暴支ヨウ懲)」と主張する関東軍参謀の東条英機、参謀副長の今村均らの勢いが勝り、政府や軍中央が事件の処理方針を廻って議を練っている間にも現地では新たな軍事行動を発生させていた。9.19日本庄繁関東軍司令官に圧力をかけ関東軍を出撃させ満鉄沿線を制圧。

 9.21日、関東軍司令官・本庄繁と朝鮮軍司令官・林銑十郎は、柳条溝事件勃発直後打ち合わせ、在満居留民への驚異をあおり、それを理由に独断で部隊を越境派兵。海外に派兵する為には天皇の奉勅が必要で、これ無しのままの派兵は重大な軍規違反であったが、軍中央に事後承認を迫った。

 この時陸軍参謀総長は内閣の閣議決定を待たずに直接、天皇に上奏しようとするが、これに猛反発したのが永田鉄山(陸軍省軍事課長・大佐)。「閣議の承認を得ずに上奏するのは、天皇に対する道でない」と主張し強硬に反対。直接上奏は取りやめられ、閣議決定を待つことになる。つまりたかが軍事課長の意見が陸軍トップの三長官の考えをひっくり返している。

 9.22日、閣議で朝鮮軍の越境が承認される。軍中央は、この林の天皇の統帥権干犯罪に値する独断の報に接しても問題とせず、翌日の閣議において朝鮮軍出兵を認めさせ、天皇の事後承諾を仰いでいる。天皇のしぶしぶながらも裁可が為され、こうして既成事実の追認化への道が開かれていくことになった。現地関東軍はこれに味を占め、その後更に軍事行動を拡大していくことになった。こうして、柳条溝事件に端を発して満州事変が勃発していくことになり、日本帝国主義はこれを契機に暴力的な局面へと傾斜していくこととなった。

 9.24日、政府は日本軍の行動を自衛のためとし、事態不拡大をうたった声名を発表。

 張学良指揮下の中国軍隊は寝込みを襲われ敗走させられている。続いて早くも二日後吉林に進撃、10.8日には退却を続ける中国軍を追って張学良政権の移転先であった錦州を爆撃、調子づいた関東軍は北部満州にも軍を進めハルピンを陥落させ、11.9日にはチチハルを占領した。こうして、日本軍はまたたくまの短期間で全満州を手中にした。

 翌昭和7年2月5、ハルビン占領。これで満州の主な都市を全て占領。以後、満州国樹立に向かう。同年3月1日、満州国設立宣言。清朝最後の皇帝溥儀を皇帝として担いだが、完全に関東軍の傀儡政権。政府の実体を見ても、名目上は大臣に満人を据えたものの、実権は日系官僚が握っていた。


【昭和天皇は「東洋王道」を捨て、「西洋覇道の犬」を選んだ 】

 (出典元失念)
 
張作霖爆殺の収拾策について、昭和天皇が田中義一首相に「食言」であると叱責したことについては、昭和天皇自身、『昭和天皇独白録』のなかで、次のように記している。
 「この事件の首謀者は河本大作大佐である。田中総理は最初私に対し、この事件ははなはだ遺憾なことで、たとえ自称にせよ、一地方の主権者を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表するつもりである、ということであった。……田中は再び私のところにやって来て、この問題をうやむやのなかに葬りさりたいということであった。それでは前言とはなはだ相違したることになるから、私は田中に対し、それでは前と話がちがうではないか、辞表を出してはどうかと強い語気でいった」。(この部分『昭和天皇の謎』より引用。鹿島が現代かなづかいに直している)

 鹿島は、この天皇の物の言い方はおかしいと考えた。なぜならば、陸軍の規定によると、国外に駐屯する軍隊を統括するのは総理大臣でも陸軍大臣でもなく、参謀総長であるからである。では、その参謀総長は、自分の裁量でいかようにも軍隊を動かせるのかというと、それはできない。大日本帝国憲法の第一一条には「天皇は陸海軍を統帥する」とあり、帝国陸海軍のトップは、名実ともに天皇なのである。天皇から命ぜられて軍隊を動かすのが、参謀総長をトップとする陸軍参謀本部であり、軍令部総長をトップとする海軍軍令部であった。

 このあたりのことを、もう少し詳しく説明すると、まず陸軍のなかには、陸軍省と参謀本部の二つがあり、陸軍省のトップは陸軍大臣で、参謀本部のトップは参謀総長であった。海軍のなかにも、海軍省と軍令部の二つがあり、海軍省のトップは海軍大臣、軍令部のトップは軍令部総長であった。東條英機が出てきてややこしくなったのは、陸軍大臣であった彼が、総理にもなり、陸軍参謀総長までをも兼任したからである。

 天皇の国家統治の大権(明治憲法による)は、国務と統帥が、天皇の国家統治の二つの大権であった。次のように機能を分けていた。
国務  政府(行政)、議会(立法)、裁判所(司法)の各機関が輔佐し、内閣の輔弼により、これを総撹。
統帥  参謀総長(参謀本部)と軍令部総長(軍令部)の輔翼により、これを総攬。

 参謀本部と大本営の関係、陸海軍省と参謀本部・軍令部の関係は、次のようになっている。
参謀本部  平時における国防用兵の府(常設組織)。
大本営  国家非常(有事)の際に臨機設置される大本営は陸軍と海軍の二指揮系統に分かれ次のように構成されていた。
陸軍 参謀本部  大本営陸軍部の主体となる。
参謀総長  大本営陸軍部幕僚長となる。
陸軍省十参謀本部  (昭和一九年以降、東條陸軍大臣が参謀総長を兼ねる)
海軍 軍令部  大本営海軍部の主体となる。
軍令部総長  大本営海軍部幕僚長となる。
海軍省+軍令部 (昭和一九年以降、嶋田海軍大臣が軍令部総長を兼ねる)

 これらの軍の組織と天皇との関係については、憲法で輔弼(ほひつ)と輔翼(ほよく)という言葉を使って規定されていた。当時の日本の国家の形は、明治憲法に基づく立憲君主国であり、天皇が国家の統治権を総撹(そうらん)(政事・人心などを一手に掌握すること)するとされていた。その天皇の大権は、一般行政と統帥の二つに分かれていて、国務上の輔弼は政府が、統帥権のほうは参謀総長(陸軍)と軍令部総長(海軍)が輔翼(ほよく)(補佐したすけること)するということになっていた。

 「輔弼」というのは、天皇の行為としてなされ、あるいはなされざるべきことについて進言し、採納(採用)を奏請(そうせい)(天皇の決定を求めること)し、その全責任を負うことであり、「輔翼」とは補佐というような意味である。
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 昭和天皇の叱責により、田中内閣は総辞職し、田中義一は急死する

 陸軍参謀総長であっても、海外に、駐屯している軍隊を自由に動かせないことについては、陸軍参謀であった瀬島龍三が、さまざまな著書のなかで「一兵卒足りとも(天皇の裁可がなければ)動かせない」と述べている。瀬島参謀は、そのために鳥の子紙(雁皮を主原料として漉いた(すいた)和紙。平滑・綿密で光沢がある)に攻撃命令を書き、それとは別に、「別紙の件につき、允裁(いんさい)(御裁可のこと)を仰ぎ奉り候なり」というのを書き、それらを持って参謀総長が宮中に赴き、そこに天皇が墨で裕仁とサインをし、侍従が「天皇御璽(ぎょじ)」の四字を刻んだ金印を捺(お)して(御璽御名が揃って)、はじめて軍隊が動いたのである。

 ちなみに、戦後に防衛庁の戦史室の人が調べたところ、大東亜戦争中の陸軍に関する陸軍部命令は二二〇〇通ほどもあり、そのうちの七〇〇通くらいに起案者・瀬島龍三の判が押してあったそうである。だから、張作霖爆殺の報に接したとき、天皇のなすべきことは、次のとおりであったというのが、鹿島の主張である。

 最初田中義一首相から報告があったとき、天皇はまず陸軍参謀総長に事件の調査を命令すべきだったのである。天皇が事件の責任者にみずから命令せず、権限のない田中に「辞表を出してはどうか」と強い語気でいったのは、天皇みずからいう「私の若気の至りである」にしても、田中を責めるのはおかどちがいであり、なすべきことは自分にあった。

 関東軍は海外に駐屯している部隊であるため、総理大臣はもちろん陸軍大臣にも動かす権限がない。陸軍は、陸軍省と参謀本部からなる組織であり、海外に駐屯している関東軍を動かす権限は参謀本部にあり、そのトップは参謀総長であり、その参謀総長が「天皇陛下の御裁可をいただいて」はじめて、兵を動かすことができる。

 だから、張作霖爆殺事件については、田中義一総理大臣を叱責するのは筋違いであり天皇みずからが参謀総長に事件の真相解明を命じ、「河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する」のが正しいと判断したならば、そのようにさせればよかったというのである。それが筋でありながら、昭和天皇は田中首相を叱責し、内閣総辞職から二ヵ月後の急死へと、追いやったのである(実は築地の割烹旅館高野屋にて頓死した)。

 そればかりか、関東軍は図に乗って、三年後には、柳条湖(りゅうじょうこ)事件を、引き起こした。鹿島も含めて、日本ではこの事件を「柳条溝事件」と呼んできた。それは新聞の誤報に、端を発する、地名の誤りであり、柳条糊が、正しい地名であることが、1981年に、中国の研究によって、確認されている。

 朝鮮軍司令官であった林銑十郎(せんじゅうろう)は、柳条湖事件直後に、独断で鴨緑江を渡って満州に出兵し、あとで昭和天皇に対して進退伺いを出したが、昭和天皇はこれを免責している。

 満州はこのとき、関東軍、朝鮮軍の侵攻により、わずか半年足らずで実質的に日本のものとなった。柳条湖事件を画した板垣征四郎、石原莞爾、それに独断出兵した林銑十郎は、厚く遇され、関東軍に対しては「朕深くその忠烈を嘉す(ほめる)」との勅語が与えられた。

 張作霖爆殺からのことを、ここでまとめておくと、まず独断専行してこの大事件を起こした河本大佐(および陸軍上層部)は、おとがめなしとなった。しかし、それでは諸外国に対してマズイということで、田中内閤を総辞職させ、田中義一を死に至らしめた。同じころ、孫文は神戸で次のような演説をしている。
 「日本人は、今後、西洋覇道の犬となるか、東洋王道の牙城となるか、慎重に研究して選ぶべきである」。


【中国国内で排日から抗日運動への転換。「打倒日帝運動」開始される】
 これに対し、中国国内では排日から抗日運動への転換が為され、「打倒日本帝国主義」の声が怒涛の如く広がっていくことになった。

 満州事変に対する日本労農党(日労党)の党声明。「隣邦中国に対する政府並びに軍部の取りつつある帝国主義政策は、世界戦争を誘発すべき危険をはらむものとして我等は断乎反対する」。党内に「対支出兵反対闘争特別委員会」を設置し、長老・堺利彦が委員長、委員として宮崎竜介、河野密、加藤勘十、室伏高信、田部井健治、岡田宗司、織本、山花秀雄、三輪寿荘、水谷長三郎、浅原健三、川上丈太郎、浅沼稲次郎、鈴木茂三郎らが名を連ねている。


【満州事変の諸影響としての軍部の台頭考】

 あの戦争の原因は次のように記している。

 概要「満州事変は、石原完爾の構想では、意図的に対外危機を作り出し、それをテコに国家改造も成し遂げようという、いわば対外クーデターと見るべき事件です。早い話が、たかが植民地軍の一部の軍人達が謀略を企て、それが不況で苦しんでいた国民の指示を得たため、政府もその独断専行を処罰するどころか、その動きを追認した。つまりこの時点で政治の主導権を握っていたのは首相でなく満州で勝手に軍事行動をしている石原達軍人の手に移っている。対外クーデターはひとまず大成功といったところ。あとは自分達軍の主導で、国体改革を実現すればよい」、「この石原・永田の二つの事例が示しているのは、『無為無策』の政府、『事なかれ主義』の軍上層部、などの情けない指導層に対して軍の中堅クラスの実力者が上からの指示を受けずに独自に動き始めており、また指導層はこれを止める実力もなくただ右往左往して事態に流されるだけの存在に成り下がっている。つまり指導層が指導層としての役目を果たせなくなっているわけで、石原はこの状態を見抜き「独断専行」により事変を成功させたわけである。(中国が内戦中のため、行動するのに最適の時期であった事も大きい)これ以降この「独断専行」と実力のある者が上部を無視して行動する『下克上』の雰囲気が軍部に蔓延する」。

 「石堂清倫 /米田綱路(聞き手・本紙編集)」は次のように記している。

 概要「前年に発生した1929年の国際的経済危機は、日本経済を直撃した。日本農村は深刻に疲弊した。1931年満洲事変が発生する。満洲事変は日本にとって運命的な岐れ道となった。この間農村では、小作人と地主間の争議が続いており、この時期になると、小作料減免をめぐる経済闘争から、地主的土地所有の廃止が農民の要求になりかけていた。これに軍部が介入し始め、30年暮から31年夏にかけ、全国的に満蒙開拓の大宣伝運動を敢行した。165万人を動員し、1866回の講演会をひらいている。参謀本部や陸軍省の作成した種本にもとづき、佐官たちがはげしい煽動演説を試みた。彼らは農民の歓心を買うため、窮乏脱出の手段として地主制度の廃止をさえ叫んでいた。詰まるところ、日本における人口過剰と土地狭小の現状では、たとえ土地分配を実行しても零細所有に変りはなく、空しく餓死するよりは、満蒙の沃野を入手せよ。そうすれば、農家は一躍して十町歩の地主になれる。そのためには、天皇をいただき国内政治を一新しなければならない、と世論誘導していった。自由主義者も左翼もこの悪煽動に抗し得なかった。露骨な満蒙侵略論がこうして世論になった。日本の農村は軍部のヘゲモニーのもとに組織された。1880年の軍人勅諭が、とくに全国各地の在郷軍人会支部網をつうじて、農村を天皇信仰の碁盤にしてきた事実がある」。

 9.21日、イギリスが金本位制停止。「従来の国際金融市場において卓越する地位を占め、ポンド貨こそは世界貨幣であるとまで云われたそのイギリスが金の輸出を禁止するに至ったのであるから、この報道を受けた我が国では為替市場のみならず、金融財界全般に亘って非常な衝撃を受けた」(斎藤栄三郎「昭和経済50年史」)。以降、ポンドに変わってドルが台頭していくことになる。


【桜会による2回目のクーデター未遂事件「十月事件」が起こる】

 10.21日、満州事変と呼応する形で、桜会による2回目のクーデター未遂事件「十月事件」が起こる。第一師団の10個中隊を動員して政財界の要人を殺害するという本格的暴力的手段を用いての国内クーデターを起こす計画で、橋本欣梧郎、大川周明、北一輝、西田税、井上昭、橘孝三郎らが首謀し、若槻首相、幣原外相、牧野内大臣、その他清浦、斉藤実、岡田啓介、伊沢多喜美、後藤文夫、郷誠之助、池田成彬、岩崎小弥太らを殺害対象、西園寺元老、一木喜徳宮内大臣、鈴木貫太郎侍従長ら6名を襲撃対象にしていた。計画成就後は、東郷平八郎元帥を首班とし、田中国重、末次信正、荒木貞夫らを閣僚に予定していた。

 が、計画は事前に軍首脳部に漏れ、首謀者らは憲兵隊に拘束されて未遂に終わる。例によってこの事件も軍部の方針によりもみ消され箝口令が敷かれた。桜会は解散させられたが、最も重い処分は橋本の重謹慎20日。

 この事件はかなり情けない事件だったらしく、首謀者達は明治維新の志士気取りで待合いで豪遊していたうえに、クーデター後、首相に担ぐ予定の荒木貞夫にはなんの話も付けていなかった(このルートで漏れたらしい)という状態ですから、失敗するのも当然の話。桜会は所詮、陸大出の陸軍省エリート将校を中心とした集まりであるため、何か世間とずれていた様です。クーデター未遂事件に対して、処分は謹慎だけと言うのも酷い話で、軍上層部の「事なかれ主義」的処分が、軍内部に「なにをしても罰せられない」という雰囲気を作り上げることになる。

 この不明朗な結果に対して、クーデターの実働部隊として参加していた、若い尉官クラスの将校たちが、あきれ果てて桜会グループから離脱。国家改造を目指して独自の活動を開始する。この活動は20代から30代前半の陸軍将校が中心だったため、後に「青年将校運動」と呼ばれる。


 国内の世相としてやたらと愛国的な風潮になり、右翼が活況を呈する。彼等の主張を要約すると・陸軍の支援、・英米依存外交を排し自主外交の確立、・財閥と結んだ政党政治の打破、・強力政権の樹立。


 財政的には、満州事変による緊急事態を名目にした軍事費膨張により、井上蔵相の緊縮財政、完全に破綻。財源不足のため、年度末には減債基金繰り入れ中止(国債償還の停止)4400万円のほか、「満州事変公債」7700万円を含めて一般・臨時軍事費特別会計における新規公債発行は1億8900万円にたっする。11月には井上蔵相も昭和7年度予算では歳入補填公債、つまり赤字公債を発行せざるを得ないことを認めた。


 11月、清朝最後の皇帝溥儀が、天津の自宅から旅順の関東軍の本拠地へ脱出した。


【若槻内閣→犬養毅内閣】

 12.11日、若槻内閣は、幣原外交と軍部との対立、イギリスの金本位制問題、安達内相による連立内閣提案を廻る閣内不一致、その他軍部の独走を止められず総辞職を余儀なくされた。

 12.12日、安達内相は、同志7名を連れて民政党を脱党、国民同盟を結成した。

 12.13日、犬養毅内閣(政友会)成立。犬養首相は外相を兼任、蔵相には高橋是清が再び登板、陸相には荒木貞夫大将、海相には大角*生大将。軍部との強調路線に進む。

 就任直後には、前蔵相・井上のとった金の輸出を再び禁止し、金本位制を停止させた。第60議会で、金輸出問題を廻って、高橋蔵相と井上前蔵相が論争した。結果的に、軍事インフレ路線に転換させた。かくて「デフレーションからインフレーションへ」の財政政策転換が大胆に為されていくことになった。


 12月、全国労農大衆党の運動方針で、麻生久が「帝国主義ブルジョアジーとの徹底的な闘争を回避して実現せんとする社会主義は、究極においては社会ファシズムに転落せざるを得ない」と主張している。この後、近衛内閣擁立運動に乗り出すことになる。


1932(昭和7)年の動き

 (この時代の総評)

 昭和恐慌の頂点の頃であり、恐慌のさなか、資産が五大財閥特に三井、三菱に集中するようになりその経済的支配力を高めていた。さらに政党と結びついた金権政治への世間の反発も激しく、この為財閥は左右両翼の非難の的になっていた。


【高橋是清蔵相による積極財政政策】
 高橋是清蔵相は、経済不況を脱出するため積極財政を開始した。金解禁と財政緊縮政策が今回の深刻な経済政策を招いたと指摘し、景気回復のため財政政策を積極政策に転換させた。この積極政策の財源は公債による赤字財政に拠った。高橋蔵相は、「経済が沈滞している時期だから、増税による経済への圧迫は避け、経済力の回復増進を第一に考えるべきである。そのために一時公債が増えても産業が復興すれば、国民の税負担能力も増え、税収の増加も期待できる。その時に公債も償還できる」と考えていた。

 その政策の内容は、

軍備拡張  井上財政では予算の3割に満たなかった軍事費は、高橋財政では5割近くに膨張し、満州事変の原資とさせた。軍需物資、特に重化学工業製品の生産が増え、雇用も増えた。つまり満州での軍事的緊張を国内の景気・雇用対策に利用したということになる。
農林土木事業  農民経済を救済し、農村不安を鎮静する事を中心政策に掲げた斉藤内閣は、8月の臨時議会で時局匡救事業を提案、主として農林土木費に財政支出を増やした。7年度から10年度まで継続事業で実施されることになった。これは公共土木事業を中心とし、農家負債の整理、農村金融の拡充等を目的とした諸政策である。
輸出振興  輸出振興のため政府は外国為替の低位安定政策を採る。さらに井上前蔵相の「産業合理化」政策の効果が出てきており、日本企業は国際競争力をつけていた。このため世界中の貿易が沈滞している中、日本の輸出だけが躍進。特に綿製品の輸出増加はめざましく、インド市場を巡ってイギリスと激しい争奪合戦。日英綿戦争とまで言われる。しかしこれには諸外国からダンピングだとの批判もでる。

 この高橋財政で特に問題なのは、禁じ手である日本の中央銀行・日銀による公債引き受けを始めた事である。7年度から「歳入補填公債」(赤字国債)を発行し、それを高橋蔵相が深井英五・日本銀行総裁と組んで、新規公債を日銀引き受けにより発行する新方式を提案、実行した。これで政府は資金が必要な場合、公債を発行し日銀に引き受けさせることで、簡単に資金を調達できる。つまり事実上、政府が自由に日銀券を発行出来ることになった。しかも、同時に日銀券の保証準備発行限度を大幅に増やしている。これは通貨制度において、金本位制度を放棄し、現在と同じ管理通貨制度に中途半端に移行していることを意味する。沈滞した経済界に通貨を供給し、刺激を与えるための資金が、公債を発行することで容易に得られることになったということである。

 この公債政策のためには、日銀の発券能力の拡大が必要となる。このため関連法を改正、日銀券の保証準備発行限度(「金」の裏付けの無い発券限度、裏付けがある発行は正貨準備発行と言う)を1億2000万円から10億円に拡張、制限外発行税を5%から3%に引き下げた。さらに、景気回復対策と国債償還を円滑に進めるため、低金利政策も必要となり、実施している。 これらの政策のため一般会計歳出は、・昭和6年度 14億8000万、・昭和7年度 19億5000万、・昭和8年度 22億5000万と次第に膨張していく。

  元来、中央銀行の役目とは、政府による自由な通貨発行を許していては、通貨価値が安定せず、経済不安を招くため、通貨の番人として政府から独立して金融政策行う役割のはずである。管理通貨制度の場合、この役目はより重要になってくる。金本位制度にある「金」という通貨価値の裏付けが無くなる、代わりに、中央銀行では景気・経済対策のため、柔軟に通貨量を決める事が可能となる。ただし、通貨量・金融政策の管理をよほどしっかりやらないと、簡単に通貨はその価値を喪失する。紙幣が文字通り単なる紙切れになる可能性がある。日本はこの管理通貨制度に、なし崩し的に、中途半端に移行した。

 公債を日銀が引き受けるという高橋政策は、日銀からこの通貨管理能力を、政府が奪った上で、政府の公債発行の歯止めを取り払ったことになる。もし政府が公債=通貨の発行を過剰にした場合、簡単に悪性インフレーションを引き起こし、しいては日銀券が通貨としての信用を失うことになる。つまりは日本の金融制度が破綻する。

 この財政政策は、近代金融制度・市場経済原理を理解している高橋蔵相の管理下で、高橋蔵相の読み通りに経済が回復すれば何とかなるが、一端その管理を離れると暴走を始める危険性がある。管理通貨制度が管理不能の事態に陥る危険性を含んでいた。

 とはいえ、取りあえずは日本は世界で一番早く世界恐慌から脱出することに成功し、ここから昭和12年度までの日本の実質GNP成長率は7%に達する好況の時代を迎えることになった。この時期が、戦前の日本を代表する時代と言われる。(「あの戦争の原因」)

【マスコミ提灯記事で関東軍の暴走を煽る】
 正月の朝日新聞社説は、関東軍の暴走を諌めるどころか「我が東洋民族が共存共栄のため、宿載(しゅくさい)の禍を転じて、永遠の福をもたらさんとする意図に発するもの」と論じ、自存自衛の正しき軍事行動論で提灯記事を掲載している。これが当時の進歩的文化人の思潮であった。

【国際連盟動く、リットン委員会が現地調査

 1.4日、国際連盟は、英国のリットン伯を団長とする米仏独伊各国委員計5名の調査団を編成。1.29日国際連盟派遣の現地調査段(リットン委員会)が東京に到着し、数日の滞在後上海から南京、満州へと向かった。リットン調査団は、3、4月は中国を、4、5、6月は満州を調査。 


【桜田門外事件】
 1.8日、朝鮮独立運動の活動家・李奉昌(イ・ボンチャン)が、桜田門外において陸軍始観兵式を終えて帰途についていた昭和天皇の馬車に向かって手榴弾を投げつけ、近衛兵一人を負傷させた事件が発生した。これを「李奉昌事件」あるいは「桜田門不敬事件」又は「李奉昌不敬事件」と云う。

 時の首相犬養毅は辞表を提出するも慰留された。9.30日、李は大審院により死刑判決を受け、1932.10.10日、市ヶ谷刑務所で処刑された。1946年に在日朝鮮人が遺骨を発掘、故国である朝鮮において国民葬が行われ、「義士」として白貞基、尹奉吉らと共にソウルの孝昌公園に埋葬されている。(→桜田門事件

【上海事変前兆事件】
 昭和七年の年が明けると、満洲情勢は一層緊迫の度を増していた。

 1.18日、上海で日蓮宗僧侶殺害される。上海江湾路にある妙法寺の僧侶2名が、上海の市街をうちわ太鼓を叩きながら托鉢に歩いていた。それは排日に興奮している中国人に対する挑発のような役割を持ち、憤激した三友実業公司の労組員が取り囲み、1名を撲殺し1名が重傷を負った。

 翌1.19日、日本側の自衛団体・上海青年同士会の十数名が三友実業公司に殴り込みをかけ、日華双方に多数の死傷者を出した。翌20日には日本人倶楽部で、上海居留民大会が開かれ、陸軍の即時派兵を要請することが決議された。大会の散会後、居留民はデモに移り領事館に押しかけ出兵要求を突きつけ、武器の引き渡しを迫り、70挺ばかりの拳銃を受け取った。次に海軍陸戦隊本部へ向かい、即時行動開始を要求し、共々戦うとの気勢を挙げている。

 日本人居留民を保護するため陸戦隊が応戦せざるを得なくなった。


 1.21日、上海危機の報に軍艦大井その他4隻の駆逐艦が呉軍港を出港し、1.23日の夕方上海に入港。直ちに特別陸戦隊を上陸させて居留民の保護にあたった。中国側に対して上海市内に武装警官8千、警備軍2個師団を配備し、境界線に土嚢、鉄条網などの防御工事を進め始めた。上海の形成悪化は日増しに増していった。 

【上海事変勃発】

 1.28日、北西川路の衝突。上海事変勃発。「果然、事件は事件を生み、中国側を一層興奮させたばかりでなく、日本側居留民も激昂した」(川合貞吉「ある革命家の回想」141P)とある。

 2.1日、現地より出兵要請。2.2日、閣議で出兵決定。2.5日、ハルピン占領。2.7日、下元旅団上海に上陸。2.7日、日本政府は第12師団の前原混成旅団を派遣。2.13日、には第9師団が増援された。2.20日、第9師団攻撃開始。中国軍も兵力を増強し、双方の死力戦が繰り広げられた。2.29日、上海派遣軍司令官・白川大将は、幕僚と共に新たに増援された第11師団、第14師団の後を追って揚子江に到着、戦闘は全面的に拡大した。3.1日、上海派遣軍が上海上陸。


【血盟団事件】

 2.9日、前蔵相にして民政党の領袖・井上準之介が右翼血盟団・小沼正のテロにより暗殺される。2.20日予定の第18次総選挙の選挙戦の最中であった。

 3.5日、三井財閥総帥、三井合名理事長・団琢磨氏が右翼血盟団・菱沼五郎のテロにより暗殺。犯人は農村青年や東京帝大を含む各大学の学生からなるグループに属する菱沼五郎の犯行だった。(「血盟団事件」)。

 「血盟団事件」とは、国家改造運動グループの一つであった血盟団(日蓮僧・井上日召とその門下生)が、政財界及び特権階級の要人に対する「一人一殺」を標榜して行ったテロ活動によって引き起こされた事件の事を云う。

 井上日召はもと、大陸で活動する軍事探偵であったが、帰国後、大陸で学んだ野孤禅を更に深め、田中光顕の周旋で水戸大洗の立正護国堂の住職となり、加持祈祷のかたわら朴訥な農村青年を集めて国家改造について語り合い、題目を唱えて修行した。その思いが嵩じて、「一人一殺」テロ活動を目指すようになった。当初、日召は、西田貢などのグループとともに行動するつもりであったが、西田が荒木新陸相に期待して自重的になると西田を見捨てて、門下の青年とともに孤立してテロに走った。襲撃リストには西園寺公望、牧野伸顕らも入っていた。

 井上日召は、井上、団の射殺の後、頭山満のもとへ脱出したが、ついに進退窮まって自首した。このテロの動きは護国堂に出入りしていた海軍将校たちに引き継がれ、五・一五事件へと進展してゆく。


第18次総選挙
 2.20日、総選挙が行われ、政友会303名、民政党146名、その他17名となった。政友会は、議会始まって以来の多数を獲得、わが世の春を迎えた。

 2月、昭和天皇が、「安岡正篤、近衛文麿らと当局懇談、革命の危険性について語り合う」(木戸幸一日記)。


【海軍が国産軍用機の開発に着手】

 日本海軍は、この時の戦争で航空戦の重要性を認識するようになり、国産軍用機の開発に乗り出すことになった。横須賀海軍航空隊の隣に海軍航空廠を設立し、航空本部技術部長・山本五十六海軍少将の指揮の下、日本独自のオール国産航空機の設計−製作に着手した。それまでの外国戦闘機の性能は、複葉型二枚翼が多く、時速270キロ程度であったのを、「最高時速325〜370キロ、3千メートルまでの上昇時間4分以内、翼は無支柱単葉型とする」という性能を目標にした。

 三菱、愛知、中島の3社に試作機開発が言い渡され、中でも三菱航空機製造所の堀越二郎技師グループが傑出し、昭和10.1月に九試単座(一枚翼)戦闘機を完成していくことになる。テスト飛行で時速450キロを実証し驚かせた。その後、エンジンの変更、機体の一部改良を経て、昭和11年(紀元2596)に「96式艦上戦闘機」として実践配備されていくことになる。「96式艦上戦闘機」は、三菱名古屋製作所で782機、佐世保海軍工廠ともう一社で200機、合計で約1千機が生産された。又、航続距離の長い96式陸上攻撃機も三菱で636機が生産された。(吉村昭「零式戦闘機」その他参照)


【新官僚の登場】
 この頃、官僚内部にも新官僚と呼ばれる革新派が登場してきた。彼等の集まりであった国維会は、後藤文夫・近衛文麿などを理事として昭和7年1月に結成された。一、広く人材を結成し、国維の更張を期す。一、大いに国家の政教を興し、産業経済の発展を期す。一、軽佻詭激なる思想を匡正し、日本精神の世界的光被を期す、を綱領として掲げた。

 同会は、満州事変を契機とする日本内外の事態を国家滅亡の危機と捉え、これに対処して維新を遂行する志士を結集するものとしてスタート。一方でこの危機を招いてかつ、これを克服できない既成政党を批判し、他方でこの危機を利用して革命を成し遂げようとする共産主義者を排して、日本精神による維新を成し遂げようとした。

 国維会は昭和9年には解散しているので考えが同じであった訳ではないが、共通していたのは腐敗した既成政党の官僚支配に対する反発であった。実際、彼等の行った選挙粛正運動(選挙に金が掛かりすぎるため政党が腐敗する。政治の腐敗を無くすには正しい選挙を行う必要がある。という運動)は既成政党に打撃を与えている。(「あの戦争の原因」)

【満州国建国】

 3.1日、中国東北部に満洲国の独立が宣言された。3.9日、清朝最後の皇帝・溥儀(宣統帝)を執政に就任した。溥儀政権を傀儡政権と見るかどうかという問題がある。

 満州国では、「王道楽土」の建設、「五族協和」(日本人・満州人・漢人・蒙古人・朝鮮人)の実現を掲げ、国造りが進められた。これを理想と見るか、実質と見るかという問題がある。後年、陸軍の指導者が「八紘一宇」を喧伝することになったが、この思想の実体的根拠として満州国が利用されることになった。


 この頃、これには日本からきた、岸信介などの官僚グループが積極的に取り組んでいる。彼らは満州組と呼ばれ、官僚指導による統制政策を実施した。以後、満州国は日本の統制政策の巨大実験場となってゆく。彼ら満州組もまた新官僚と呼ばれる。 


 3.3日、上海派遣軍に停戦命令。


 4.15日、中国で、中華ソビエト共和国臨時中央政府が日本に対する宣戦布告。


 5.5日、日華上海停戦協定成立。


【5.15事件】

 5.15日、午後5時過ぎ、海軍将校と陸軍士官候補生9名による首相官邸襲撃事件が発生。白昼堂々、犬養毅首相が射殺(享年77歳)された。これを5.15事件と云う。この時の犬養首相と将校達とのやりとり「話せば分かる」、「問答無用、撃て!」は特に有名で、この後の政治家と軍部との関係を象徴する事になる。この「5.15事件」をきつかけに、国内情勢は以後軍国主義化の途を一直線に突き進んでいくことになった。

 5.15事件青年将校らの檄文は次の通り。

 「日本国民に檄す。日本国民よ! 刻下の祖国日本を直視せよ、政治、外交、経済、教育、思想、軍事! 何処に皇国日本の姿ありや。政権党利に盲ひたる政党と之に結托して民衆の膏血を搾る財閥と更に之を擁護して圧政日に長ずる官憲と軟弱外交と堕落せる教育と腐敗せる軍部と、悪化せる思想と塗炭に苦しむ農民、労働者階級と而して群拠する口舌の徒と! 日本は今や斯くの如き錯騒せる堕落の淵に死なんとしている。革新の時機! 今にして立たずんば日本は亡滅せんのみ。国民諸君よ。武器を執って! 今や邦家救済の道は唯一つ『直接行動』以外の何物もない。国民よ! 天皇の御名に於いて君側の奸を葬る屠れ。国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ! 横暴極まる官憲を鷹懲(ようちょう)せよ! 奸賊、特権階級を抹殺せよ! 農民よ、労働者よ、全国民よ! 祖国日本を守れ。 而して、陛下聖明の下、建国の精神に帰り、国民自治の大精神に徹して人材を活用し、朗らかな維新日本を建設せよ。民衆よ! この建設を念願しつつ先ず破壊だ! 凡ての現存する醜悪な制度をぶち壊せ! 」。

 この事件により、戦前の政党内閣制は終止符を打つ。事件首謀者には翌年、軍法会議により禁固15年の判決が下るが全国で減刑運動が展開されることになる。つまり、財閥と結びついた金権政治の横行、大局を見ず単に政敵を倒すためやっている国会論議、対策が打てない不況問題、などのために政党政治そのものが国民の信を全く失ってた。以後、国民の支持を失った既存政党は、終戦までじり貧状態。(首相に対するテロがあいついだため、なり手が無くなった点も大きい)

 「血盟団事件、10月事件、5.15事件と相次ぐテロリズムに恐怖し、政治は萎縮し、険悪な空気は日本を戦争へと一歩ずつ追いやる結果となった」(川合貞吉「ある革命家の回想」215P)。


【犬養毅内閣→斎藤内閣】

 5.26日、次の首相に斉藤実海軍大将が就任し、斎藤内閣が成立した。「挙国一致内閣」と呼ばれる。この人事は「現状打破派」(陸軍)と「現状維持派」(元老、政党、財閥)のバランスの上で成立。蔵相には高橋是清が留任。

 この人事に反対だった近衛は次のように評している。

 「政治の責任者は責任をとれる者でなければ駄目だ。軍部がその善悪は別として事実上の政治推進者であるのに責任をとらない。従って、軍部に責任を負わせて組閣させるか、そうでないのならあくまで政党内閣を貫くべきだ。どっちつかずの中間内閣は不可だ」。


【リットン委員会が再度現地調査】
 7.4日、リットン委員会は再度来京して、北京に向かった。

 7.18日、二本軍熱河浸入。


【政府が満州国を承認】
 9.15日、斎藤実内閣は、日満議定書に調印して満州国を承認している

【リットン委員会が、現地調査報告書を日本政府と国際連盟に提出】

 9.1日、リットン報告書が日本政府に手渡される。

 10.1日、リットン委員会が現地調査報告書を国際連盟に提出、10.2日、発表される。国際連盟は19カ国委員会を設け、ジュネーブ特別総会での採択を待つ状況となった。

 リットン報告書には、「満州は他に類例の無い地域であり、満州事変は一つの国が他の国を侵略したとか、そういう簡単な問題ではない」とも書かれており、報告書そのものの内容は日本の満州における特殊権益の存在を認める等、日本にとって必ずしも不利な内容ではなかったが、日本国内の世論は硬化した。


【松岡首席全権の国連総会演説】

 10月、松岡洋右が首席全権として国連総会に向け派遣された。その類まれな英語での弁舌を期待されての人選であった。12.8日、到着早々の松岡は、1時間20分にわたる原稿なしの演説を総会で行った。それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、概要「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」との趣旨のものだった。この演説は逆効果であったともいわれるが、松岡演説が史実に刻んだ意味は大きい。


 12.8日、山海関で日華両軍衝突。


【皇道派と統制派の対立】
 この頃、陸軍内部では「一夕会」の活動が実り、昭和6年12月、荒木貞夫が陸相に、翌年7年1月には真崎甚三郎が参謀次長に、林銑十郎が教育総監に就任している。そして同時に、若い尉官クラスの隊付将校たちによる国体改革運動が盛んになっている。彼らの運動は「青年将校運動」と呼ばれている。

 彼らの社会・政治の現状認識も桜会と共通したものであるが、民間右翼、北一輝の思想の影響を強く受けている。彼の著書「国家改造案原理大綱」の内容を要約すると、「天皇は国民の総代表であり、天皇の大権によって憲法を3年間停止し、その間に在郷軍人を主体にして、日本を改造する」と言うものであった。その具体的手法として、私有財産の制限、土地の国有化等々の一見社会主義的政策を掲げていた。なお、一旦天皇を中心に独裁体制を引き、これらを実現した後、通常に戻そうと構想していた。北一輝は右翼だが、若い頃「国体論及び純正社会主義」と言う本も自費出版しており、共産主義と国粋主義を結合させた独特の理論を展開していたことになる。


 北一輝に影響を受けた青年将校たちの考えでは、当時の日本の現状と、自分達の取るべき態度は、「現在の混乱は天皇の周りにいる奸臣共(軍上層部や政府高官達)が引き起こしているのであり、その奸臣逆賊を取り除き天皇しいては国家を守護するのは軍人としての責務である」としていたようである。彼らは陸軍省のエリートたちとは違い、実働部隊の将校たちであり、その部隊の兵士も徴兵された貧しい一般市民・農民出身者がほとんどであった。現実の国民の窮乏を肌身で感じ取っており、北一輝に共鳴する土壌があったということになる。とはいえ、20代,30代の青年の集まりで、やたらと観念的で理想主義に燃えている運動に過ぎなかったという恨みがある。

 荒木・真崎の両将軍も青年将校運動に理解を示し、彼らも両将軍を支持していた。両将軍は階級の差など構わず、青年将校たちと直に合って彼らの主張に耳を傾けたからである。「五・一五事件」が起きた時、荒木は次の言葉で彼らを弁護している。
 「本件に参加したのは、若者ばかりである。こうした純真な青年たちがこうしたことをやった心情を考えると、涙の出る思いがする。彼らは名誉や私欲のためにやったのではない。真に皇国のためになると信じてやったことである。だからこの事件を事務的に処理すべきではない」。

 両将軍はことあるごとに「世界に冠絶せる」国体と皇道の理念を説き、国軍を「皇軍」と読んだため、この荒木・真崎を頂点とする陸軍内の派閥は皇道派と呼ばれた。このほかのメンバーには小畑敏四郎・山下泰文などがいた。


 これに対して、青年将校運動は仰圧すべきとしたグループが統制派であった。彼らは、次のように主張していた。
 「軍人の政治活動は軍人勅諭によって禁じられた事であり、軍人は全て組織の統制に従うべきである。そんなことを認めれば国家のためになるなら、上官の命令に反抗しても良いことになる。これでは軍の規律が緩んでしまう。厳しく統制することにより、国家の危急に備えなければならない」。

 皇道派の運動に憂慮を募らせていた。メンバーは永田鉄山・東条英機・武藤章などで、陸軍省エリート幕僚を中心としていた。

 永田は皇道派を次のように批判している。
 「近世物質的威力の進歩の程度が理解出来ず、清竜刀式頭脳、まだ残って居ること、及び過度に日本人の国民性を自負する過誤に陥って居る者の多いことが危険なり。国が貧乏にして思う丈の事が出来ず、理想の改造が出来ないのが欧米と日本との国情の差中最大のものなるべし、此の欠陥を糊途するため粉飾するために、負け惜しみの抽象的文句を列べて気勢をつけるは、止むを得ぬ事ながら、これを実際の事と思い誤るが如きは大いに注意を要す」

 陸軍統制派は、暴力革命を放棄して、陸軍全体が統制を持って、陸相を通じて改革を行って行こうとする路線を取っていた。

 陸相になった荒木は政治力が弱く、予算・政策で永田ら幕僚の要求するものを内閣で押し通すことは出来ず、議論に負けることも多かった。これで永田ら省部幕僚の支持を失った。さらに、これまでの陸軍内主流派であった宇垣系の軍人を、軍中枢ポストから排除したまでは良いが、その空いたポストを自分達に近い人脈で占めた。この実務能力に基づかない人事は永田たちだけでなく、多くの軍人の反発を買った。また、国家改造を掲げて、反体制に走る青年将校運動と、それを煽る皇道派に対しては、陸軍以外の政治勢力(重臣・内閣・政党・財界)も憂慮を募らせていた。

 新官僚と言われたの者達の中には、国維会グループ、岸信介などの満州組グループ、平沼騏一郎の国本社に集まった司法官僚を中心とするグループ、松井春生を中心とする資源局官僚グループ、その他、各省内にも色々なグループが出来ていた。基本的に国維会と同じように「復古」的であり、かつ「革新」的性格を持ち、「現状打破」論者の集まりであった。彼ら新官僚たちは、この後、国家総動員体制の確立を目指す陸軍統制派と結びついてゆくことになった。(「あの戦争の原因」)

1933(昭和8)年の動き

(この時代の総評)

 重臣・財閥・政党の指導者を一斉に暗殺して、軍政府樹立を企画した、右翼団体によるクーデター計画が発覚する。「神兵隊事件」

 1月、中国で、中華ソビエト共和国臨時中央政府が紅軍に対して抗日戦線の構築を命じる指令を下達。しかし、この頃国民党政府は抗日戦争には向かわず、江西省瑞金に築かれていた朱毛紅軍の本拠地へ攻撃を開始し始めたため、抗日戦の構築は進まなかった。


 1.30日、ヒットラーが首相に就任。


 2月、昭和天皇が、「近衛文麿と共に平泉澄博士と会食、大学の赤化状況を聞く」(木戸幸一日記)。


 2月、近衛は、「世界の現状を改造せよ」と題する論文を発表し、文中次のように述べている。

 「今や欧米の世論は、世界平和の名に於て日本の満洲に於ける行動を審判せんとしつつある。或は連盟協約を振りかざし或は不戦条約を盾として日本の行動を非難し、恰も日本人は平和人道の公敵であるかの如き口吻を弄するものさへある。然れども真の世界平和の実現を最も妨げつつあるものは、日本に非ずしてむしろ彼等である。彼等は我々を審判する資格はない。ただ、日本は此の真の平和の基礎たるべき経済交通の自由と移民の自由の二大原則が到底近き将来に於て実現し得られざるを知るが故に、止むを得ず今日を生きんが為の唯一の途として満蒙への進展を選んだのである」。

 2.20日、斉藤実内閣が、リットン報告書が採択された場合は代表を引き揚げ、国際連盟脱退も止む無しと決めた。


 2.24日、国連総会で、リットン報告書の採択が為され、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ国)、投票不参加1国(チリ)の圧倒的多数で可決、松岡洋右は、予め用意の宣言書を朗読した後、日本語で「さいなら!」と叫んで国際連盟総会会場を退場した。


 2.25日、関東軍熱河討伐声明。


 3.4日、ルーズベルト大統領就任。「ニューディール政策」[救済(Relief)・復興(Recovery)・改革(Reform)の3R政策]を掲げた。


【国際連盟が、リットン報告書を採択】

 3.24日、国際連盟が、42対1(反対は日本のみ)でリットン報告書を採択。


日本が国際連盟を脱退

 3.8日、日本政府は、国際連盟脱退を決定。

 3.27日、日本は国際連盟を脱退。ジュネーブで国際連盟臨時総会が開かれた。日本代表の松岡洋右は、満州事変は日本の自衛権の発動であり、非は中国側にある、リツトン調査団の報告は一方的なものであり、それに基づく連盟の勧告案は不当であると熱弁をふるっている。遂に席を蹴って退出した。連盟脱退の瞬間であった。

 翌日の新聞には、「連盟よさらば!/連盟、報告書を採択 わが代表堂々退場す」の文字が一面に大きく掲載された。英雄として迎えられた帰国後のインタビューでは、「私が平素申しております通り、桜の花も散り際が大切」、「いまこそ日本精神の発揚が必要」と答えている。


 4月、米国が金本位制停止。


【関東軍が華北に侵入】

 5月、関東軍は華北に軍を進めた。「時あたかも、ヨーロッパにおいてナチス・ドイツの目覚しい躍進があり、それに比べて、あまりにも情けない日本の現状−深刻な農業恐慌と政治の腐敗−にうんざりしていた国民は、勇敢で、且つ歯切れのよい軍部の行動に、大きな拍手を送った」。華北に攻め込んだ日本軍は、続いて北京・天津の近くまで兵を進めた。この頃から、世界が日本軍の侵略行為を非難するようになる。


【「京大(滝川)事件」】
 京大(滝川)事件」を参照(転載)する。

日本が国際連盟を脱退した1933(昭和8)年に京都大学で起きた学問の自由および思想弾圧事件。ことの発端は、のちに天皇機関説問題で美濃部達吉を攻撃する貴族院の菊池武夫議員が貴族院で、京大法学部の刑法学者滝川幸辰(ゆきとき)教授の「トルストイの『復活』に現はれた刑罰思想」と題する講演内容(犯人に対して報復的態度で臨む前に犯罪の原因を検討すべき、という意味)を「赤化教授」、「マルクス主義的」と攻撃したことにはじまる(「自由主義は共産主義の温床」との思想がその背景にあった)。

これを受けて当時の鳩山一郎文相(戦後公職追放されるが、その後解除され、1954年に首相となる)は、滝川教授の著書『刑法読本』を危険思想として批判、大学の最高法規「大学令」に規定した「国家思想の涵養」義務に反すると非難した。1933年4月10日には、内務省が滝川教授の著書『刑法読本』と『刑法講義』を発売禁止処分とし、同年4月22日には、文部省は小西重直京大総長に滝川教授の辞職を要求する。

 これに対し京大法学部では学問の自由・思想信条の自由(基本的人権)の侵害であるとして抗議するが、文部省は同年5月26日、京大法学部の意見を無視、滝川教授の休職処分を強行する。

 当時、治安維持法を基礎法とする権力による苛酷な弾圧体制が確立され、その体制下で権力は、容赦ない取り締まりと厳しい反共宣伝を、あらゆるメディアを媒介に行っていたが、そうした状況下の京大では、宮本英雄法学部長・佐々木惣一・末川博両教授を筆頭に15人の教授の内8人の教授と、18人の助教授内13人が文部省に抗議の意思を貫き、「死して生きる途」(恒藤恭教授の言)を選び辞任し、一部の京大法学部の学生は、教授を支援する戦いを展開した。だが、京大の他学部教官をはじめ全国の大学の教員や学生は、権力の強権政治の前に屈伏して沈黙を守った。もっとも、東大の美濃部逹吉・横田喜三郎両教授らごく少数の教授は、京大法学部教官支持の論陣をはった。しかし東大法学部としてはなんの態度表明も行わなかった(敗戦後、東大総長に就任し、講和条約締結に際して全面講和論を展開して、当時の吉田首相から「曲学亞世(きょくがくあせい)の徒」と批判された南原繁博士は、このことを「終生遺憾」とした)。そのため全国的運動に発展せず、京大事件は教授辞職で終結をむかえることとなった(なお、滝川教授は36年弁護士を開業)。

さて、戦後教育界の民主化政策の下での1945(昭和20)年11月19日、京都大学法学部は、全学生を法経第1教室に集め、「京大(滝川)事件」に関して、黒田法学部長が、時の鳩山文相が、京大法学部教授会の意向を無視、さらに小西総長の文部省に対する教授辞職の具申もないままに、法学部の滝川幸辰教授に辞職を迫った(形の上ではは休職処分)ため、ついに時の京大法学部全教授も辞表提出を見るにいたったという全貌を説明するとともに、学内自治による清新な京大再建の方針を明らかにし、すでに定年年令をすぎていたため、名誉教授として復帰の佐々木愡一教授と南方にいる宮本英雄教授を除く滝川幸辰(後京大総長に就任)、恒藤恭、田村徳治教授と立命館大学の学長に就任していた末川博教授に対して、直ちに大学への復帰を懇請した(また、同月21日には九州帝大法学部教授会が、向坂逸郎、石浜知行、高橋正雄、佐々弘雄、今中次麿教授ら5人の復職を、東北帝大は服部英太郎と宇野弘蔵両教授の、23日東京産業大学〔後の一橋大学〕は大塚金之助教授の復帰をそれぞれ決定した)。

ただ京大(滝川)事件の真相に関しては、たとえば、その真相にせまる一つの資料である滝川教授の処分を決定した「文官高等分限委員会」の議事録が、国立公文書館に保管されているが、政府はその公表を、事件からすでに70年近くが経過しているにもかかわらず、拒否し続けている。それはそこに、これまでの研究で明らかになったものとは異なる事実が記載されており、今日においても、権力を維持してきた一定の勢力にとって問題になるほどに重要な内容を含んでいるとしか思えない措置である。それにしても、国民としての知る権利が、政府によって閉ざされている現実は、戦後半世紀しか経過していない日本における民主主義の歴史の軽さと、その成熟度の程度を見せつけている。

 京大事件の結末そのものは、強大な天皇制国家権力の前に敗北という形で終結したが、京大教授や学生のかかる権力に対して行った教授支援運動が、敗戦後、誤った歴史とそれに抗して運動を学ぶ契機となり、それが学問の自由と大学の自治法理確立の礎になった。

 憲法第23条が保障する学問の自由の原理と、教育公務員特例法第4条〜第12条が明記する採用、昇任、転任、降任、免職、休職、懲戒、勤務評定等々関しては、大学の管理機関の審査が必要としたことに代表されるような大学自治の原理は、歴史的には、京大事件の顛末がその起源といえる。


 5月、昭和天皇が、「十一会にて赤の問題、滝川事件等論議する」(木戸幸一日記)。


 6月、昭和天皇が、「池田克司司法書記官より、学習院赤化事件の様子を聞く」(木戸幸一日記)。

 10月、国民党の兵力50万人が約100機の航空機に支援されて、共産党の根拠地江西省瑞金への第5次攻撃を開始。四方から包囲された共産党軍10万は、瑞金の放棄を余儀なくされることになる。


 10.14日、ドイツ、国際連盟脱退。


 この年、ハンガリー出身の物理学者・レオ・シラードが、ロンドンの道路を横断中、中性子による核分裂の連鎖反応が原子爆弾の仕組みになり得るとひらめく。(リチャード・ローズ「原子爆弾の誕生」)



1934(昭和9)年の動き

(この時代の総評)

 1.23日、陸相が荒木から統制派の林銑十郎に交代し、軍務局長には永田が抜擢された。この時の人事で、皇道派は陸軍省中枢ポストから排除されている。参謀次長から教育総監に転じていた真崎もこの時罷免された。

 基本的には皇道派・統制派の両派ともに、国体改革が必要な点では一致していたが、この時点で改革の方針を巡り、陸軍内部の改革派は二つに分裂したということになる。これ以降、二・二六事件まで陸軍内部では、怪文書が飛び交う皇道派と統制派の激しい対立が続くことになる。

 この頃軍は、軍隊内務書を改訂し規律強化をはかる。しかし現場を知らない軍上層部の作成のため、上司への絶対服従・細かい規則の積み重ねを増やしただけの内容。結局、軍隊内務は厳格化・硬直化の方向に進んだ。内務規定があまりにも厳しくなり、現実からの隔たりが大きくなれば、逆に実際には守れない規則を形式上守ったことにするため、外面的辻褄合わせが横行する。内務規定厳格化は全くの逆効果になっていた。


 1月、米国でドル通貨の40.94%切り下げ。


【溥儀が初代の満州国皇帝に擬せられる】

 溥儀が初代の満州国皇帝に擬せられ、「五族(日・満・漢・蒙・朝)協和」が奏でられた。この満州国創設が「八紘一宇」の足がかりとなった。


【「帝人事件」発生で斉藤内閣総辞職】

 昭和9年には政財界を巡る疑獄事件「帝人事件」が起きる。これで斉藤内閣総辞職。この事件は、帝国人絹株式会社の売り渡しを巡り、大蔵省幹部と財界との間で背任・汚職があったとする、大疑獄事件。しかし事件そのものが検察による全くのでっち上げであった。昭和12年には全員に無罪判決が出る。

 右翼勢力の倒閣運動と、大蔵省と司法省の政治的対立にその原因があり、事件当時から検察ファッショ・司法ファッショであるとして批判されている。(事件の黒幕は平沼騏一郎だと言われている)

 しかし本来なら司法内部の責任問題に発展すべきところが、当事者の検事正には何のおとがめも無く、後には司法次官に栄転する。これを見るに当時は軍部・官僚だけで司法でも「身内優先」「事なかれ主義」という、腐敗が蔓延していた様です。


【斎藤内閣→岡田啓介内閣】

 7.8日、岡田啓介内閣が成立。蔵相には高橋是清が再び留任。


 8.2日、ヒットラー総統に就任。


 9月、昭和天皇が、「今西京子と中条百合子の件」(木戸幸一日記)。


【中国共産党紅軍が長征開始】
 中国共産党紅軍は、8月より36年(昭和11)の10月にかけて約1万キロの長征に成功している。毛沢東と朱徳、周恩来らに率いられた紅軍は、西に向かって大きく迂回した後、チベットの高山地帯を通過して北へと転じ、一年後の35.10月には甘粛省と*西町の境界に位置する新たな根拠地・呉起鎮へと辿りついた。後に「長征」と呼ばれることになるこの脱出行は、全行程約1万2500キロに及ぶ苛酷極まりない徒歩行軍であり、紅軍はその道程で兵力の約9割を失ったと云われている。だが、これによって生き延びた共産党勢力は、新天地の呉起鎮を拠点として、勢力を扶植拡大させていくことになった。

【日本政府がワシントン海軍軍縮条約の破棄通告】

 12.29日、日本政府は、ワシントン海軍軍縮条約の破棄を閣議決定し、通告。


1935(昭和10)年の動き

 (この時代の総評)

【東大教授・美濃部達吉氏の「天皇機関説」が非難される】

 2.28日、帝国議会で、東大教授・美濃部達吉(1873−1948)の「天皇機関説」が非難され、右傾軍国主義のスピードを増した。この問題では、政党が進んで軍部のお先棒を担ぎ、学問と言論の自由圧殺に加担した。


 3.16日、ドイツ再軍備宣言。


 5.29日、華北問題重大化。


 6.28日、フランス人民戦線結成。


 7.25日、第7回コミンテルン大会。


 8.1日、中国共産党が抗日救国声明。


【「相沢事件」】
 8.10日、陸軍内部では皇道派と統制派の対立が頂点に達し、この日陸軍省内部で白昼堂々、統制派リーダ永田鉄山(軍務局長・少将)が、皇道派の相沢中佐に斬殺される事件が起きた(「相沢事件」)。

 9.5日、川島陸相就任。


 10.6日、グルー駐日米国大使は日本政府に対して抗議の書簡を送る。日本は門戸解放・機会均等の原則を守らず、中国におけるアメリカの正当な権益を侵していると抗議。これに対して近衛首相は二度の声名を発し、「帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り、今次征戦究極の目的亦此に存すまた国民政府といえども、「従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更正の実を挙げ、新秩序の建設に来たり参ずるに於いては、敢えて之を拒否するものにあらずと述べた。つまり日中戦争の目的とは、アジアから欧米の影響を排して、日本主導による新秩序を作り出すことである、というもの。いわゆる「東亜新秩序」宣言。


 10.末、土肥原華北派遣。


 11.12日、関東軍兵力を山海関に集中。


 12.5日、ソ連で新憲法が制定される。


【積極財政行き詰まる】
 積極財政以降この頃まで日本は恐慌に喘ぐ世界を後目にめざましい発展を遂げていた。昭和6〜11年間に軍需品を中心とする全工業製品の生産額は2.5倍に増え、輸出も3倍に増えている。この間にインフレは卸売物価が1.4倍になった程度。しかし昭和10年頃から積極財政の継続が困難になり始める。これは次のようなプロセスで起きている。

@・景気回復により、公債の市場消化を成功させていた銀行融資が、軍需産業の設備投資に回る。
A・このため低金利の公債に資金が向かなってくる。
B・さらに好況が続き、市中資金が逼迫してくる。
C・これにより一般貸し出し金利が上昇する。
D・このため政府の低金利政策の維持が困難になってくる。

E・低金利の国債は、価格維持も難しくなる。

この様にして公債市中消化率が急激に悪化。昭和9年度のには128%だった消化率が、10年度末には消化率は77%に急落。

 この市中未消化公債が増えることは、日銀の公債引き受けが増える事を意味する。これは日銀の通貨発行量を増やすことにつながる。つまり、経済的裏付けの無い市中通貨量増大によるインフレ、という悪性インフレの危険性が現実化し始める。公債増発の結果、国債未償還額も累積し、総額は昭和6年末の64億円から、昭和10年度103億円まで、6割の増大。(参考までに昭和10年の国民所得推計額は144億円)

 昭和10年下半期には深井日銀総裁が、「悪性インフレの懸念が出てきた。もう危ない。日銀引き受けの赤字国債と軍事費の増大はもうやめるべきだ」と進言。高橋蔵相はこれを受け、11年度予算編成から公債漸減方針を打ち出す。つまり、歳出の膨張を押さえ、税収の自然増を目安に公債を削減しようとした。時局匡救予算を9年度限りでうち切り、軍事費も削減しようとした。この事は軍事費増額を要求する軍部の反発を買い激しく対立。結局、11年度予算でも軍事費の増額追加を認めざるを得なくなる。(「あの戦争の原因」)

1936(昭和11)年の動き

(この時代の総評)


 海軍が、「96式艦上戦闘機」を完成させた。やがて中国で使用され威力を発揮することになった。海軍大臣は米内光政。


【日本政府がロンドン軍縮会議から脱退】

 1.15日、日本政府は、ロンドン軍縮会議から脱退通告。


【2.26事件】

 2.26日未明(この日、記録的な大雪であった)、皇道派青年将校22名に率いられた下士官、兵士からなる歩兵第一、第三連隊を主とする1400名余が「昭和維新」に決起し、首相官邸や侍従長邸ほか重臣私邸を襲撃、首都中枢部を占拠するというクーデター事件が発生した。世に「二・二六事件」と云う。

 岡田啓介首相、斎藤実・内大臣、渡辺錠太郎教育総監(陸軍大将、彼は真崎の後任だったと言うだけで襲撃対象になった)、鈴木貫太郎侍従長、高橋是清蔵相、牧野伸顕前内大臣が襲われ、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監、高橋是清蔵相が殺害された。鈴木貫太郎侍従長には重傷を負い、岡田啓介首相は襲撃を受けるもからくも脱出した。

 彼らは政治の中枢、永田町周辺を占拠して国家改造の即時断行を要求した。天皇の一元指導下での天皇親政による昭和維新を訴えた。決起した青年将校たちは、天皇の周りから奸臣どもを排除すれば、天皇の真の意思が表れ、その天皇の真意に基づいて国家改造がなされるはずだと期待した。かねてよりの打ち合わせであったか、侍従武官長・本庄繁や陸軍大臣川島義之、真崎甚三郎大将らは「彼等の精神は、君国を思う心より出たもので、必ずしも咎むべきものではない」としてこの決起に連動したが、軍の上層部はこの反乱に対し、穏便に対処するべきか、軍隊を用いて鎮圧すべきか、判断がぐらつき右往左往するばかりで、説得に駆けつけた真崎大将は、「お前たちの気持ちは、ようくわかっとる。ようっわかとる。」と、くりかえすばかりであった。

 事件の報に接した天皇は、「自分の股肱の老臣たちが殺戮されたのだ。このような凶暴な将校たちであれば、その精神においても絶対に許すことが出来ない」として「暴徒を速やかに鎮圧せしめ鎮定せよ」との指示を為し、彼らの主張も分かると言った侍従武官長の本庄繁中将に対しては、「それは私利私欲のためにやったのでは無いと言うにすぎない。自分が信頼している重臣たちを殺すような凶暴な者を許すことは出来ない。もし陸軍が出来ないと言うのなら、自分がみずから近衛師団を率いて鎮定に当たろう」と、厳しく叱責した。天皇陛下万歳を叫ぶ軍人と、実際の天皇の意識の溝の深さが刻印された。

 もう一人、石原莞爾(参謀本部作戦課課長・大佐)も強硬に対処した。事件直後には、反乱軍占領下の陸軍省に強引に乗り込み、戒厳令を引き討伐命令を出すように上官を通じて天皇に奏上し、終始「討伐」の主張を貫いた。石原は昭和維新の必然性は認めながらも、軍部は革命行動に参加せず、本来の任務に邁進すべきと主張した。この事により事件後、陸軍内部での石原の発言力は強まることになる。

 軍上層部は、事件当初、何とか同じ日本軍同士の衝突は避けたいと考え、青年将校達の説得に当たる。彼らを義軍として認め、決起に対する共感の声も多かった。決起部隊には東京守備の辞令が出され、食料まで支給された。決起部隊は反乱軍とは見なされていなかった。しかし昭和天皇の意志を知り、軍上層部の考えが急変し、国賊とされ討伐の対象となった。

 2.27日、戒厳令が公布されることになった。決起部隊に原隊復帰が命ぜられ、2万4千名の兵力で反乱軍を包囲する事態となった。2.29日(この年は閏年)、鎮圧軍は決起部隊を取り囲み、最後の説得が試みられる。ビラとラジオ放送で帰順が呼びかけられ、さらにアドバルーンを空に上げ、「勅命(天皇の命令)下る、軍旗に手向かうな」の文字が掲げられた。これは効果を発揮し、決起隊の兵士たちは次々帰順した。陸軍省に集まってきた、

 2.29日、多くの兵士が脱落し始め、午後2時頃までには大部分が帰隊した。反乱将校たちには自決用のピストルが渡された。が、この時、自決したのは2名のみ、青年将校のうち安藤輝三大尉と野中四郎大尉が自決し、残りの者23名はこのまま自決しては、逆賊にされた上、事件の真相が葬り去られてしまう、生きて、なぜクーデターを起こさねばならなかったか日本中に訴える、として軍法会議に掛けられる道を選び、憲兵隊に逮捕された。将校15名、右翼思想家北一輝、元陸軍大尉村中孝次(5.15事件の関与が疑われ、免職されていた)ら民間人4名の計19名が陸軍軍法会議で裁かれ、銃殺された。

 以降、首謀の皇道派を大量処分制裁した軍統制派が実権を掌握し、内閣に対する軍の政治的発言権が強化されることになった。

 「2.26事件」の背景考察として、「当時は為政者も軍人も思想家も民衆も強力な閉塞感に支配されており支配者も被支配者もその所属階級を問わず『今までどおりの方法では体制が立ち行かない』状況にあった」ことが知られねばならない。

 この反乱は日本全土、特に軍部を震撼させ、この様な暴力革命を目指した反乱が二度と起きないように対策が取られる。この時の粛正人事により、皇道派の将軍は全て予備役に回される。以降、陸軍では皇道派が姿を消し統制派が主流となった。さらに予備役に編入した皇道派将官が陸相になれないように「軍部大臣現役制」が復活。これは現役軍人でなければ陸軍大臣、海軍大臣になれない制度。これ以前は予備役でも大臣になれた。 


 ※(大日本帝国憲法での内閣制度について)

 首相は天皇が指名し(これを「大命降下」と言う)指名された者は各省(内務省、外務省、大蔵省、陸軍省、海軍省、司法省など)の大臣をリストアップし本人の承諾を受けた上で天皇に報告。天皇がその人物を任命する。実際には重臣会議で首相候補者を選び、天皇に推薦して首相が決まる仕組。しかも各大臣の任命権は天皇に有り首相ではない。つまり首相は大臣のクビを切る事は出来ない。天皇は基本的には政治に口を挟む事はないため(立憲君主制は君主は君臨すれども統治せずが基本。口を挟めば担当大臣は無能と言うことになる)事実上、大臣と首相が意見不一致を起こしても首相に大臣を罷免する権限が無い、つまり自主的に大臣が辞めない限りは内閣総辞職をするしか無くなる。


 ここに「軍部大臣現役制」が加わると、軍が大臣候補者を出さなければ内閣は成立しないことになる。つまり軍は言うことを聞かない内閣を大臣候補者を出さないことで自由に総辞職させることが出来る。これが予備役でもよい場合、退役して民間に戻っている予備役者は大勢いますし、予備役者は暫く軍から離れていたので必ずしも現役軍人の意のままとは限らない。つまり、この「軍部大臣現役制」により、軍は内閣を意のままに出来る立場になる。(「あの戦争の原因」)


【岡田内閣→広田弘毅内閣】

 岡田内閣、事件の責任をとり総辞職。次の首相には近衛文麿が推薦されるが彼はこれを辞退、外相だった広田弘毅に組閣の大命が下る。この辺から誰もこの陸軍の暴走やら経済困難を乗り越えられそうに無いため、首相に喜んでなる人物がいなくなる。

 3.9日、岡田首相の後を広田弘毅が継いだ。新蔵相には前日銀総裁の馬場が就任し、陸軍の意向に沿った国防予算を積極計上に転じ、歳出規模は井上財政末期(昭和6年度)の2倍以上、軍事費は3倍と言う膨張ぶりを采配した。

 内閣組閣で早速軍部の介入が始まる。組閣人事に口を出し要求を飲まなければ陸軍より大臣を出さないと脅し、広田首相これを飲む。「現役武官制」を復活させられることになった。以後、政治の主導権は完全に軍部、特に陸軍に握られることになる。


 春頃、選挙。今まで5名の無産党系議員が23名。社会大衆党は18名。


 5.1日、帝国国防方針の改定。


 5.7日、民政党の衆院議員・斎藤隆夫が「粛軍演説」をしている。この日の日記に「満場静粛、時に万雷起る。議員多数、握手を求め、大成功を賞揚す」とある。


 5.18日、軍部大臣現役制復活。


 7.5日、陸軍刑務所内の特別法廷で参加将校たちの判決が下される。審議は非公開で進められており、弁護士もなし。裁判で決起の趣意を天下に明らかにしようとした青年将校たちの考えは甘かったのである。死刑=17名、無期=5名、禁固10年=1名、同4年=1名。特別軍法会議は一審のみで、上告は認められなかった。銃殺は2名を除いて7月12日朝、行われた。天皇のために生き、天皇のために死ぬことを誇りとしていた彼らは、「天皇陛下万歳」を叫びながら死んでいった。


 7.17日、スペイン内乱勃発。


 11.15日、内蒙古へ軍攻開始。


 11.25日、日独防共協定。


 12.12日、中国で、西安事件発生。これは、蒋介石国民党軍が第6次討共作戦を発動し、*西省の西安へ赴いたところ、張作霖の息子張学良一派に捕捉監禁され、共産党勢力に対する内戦の停止と抗日戦への取り組みを要求された。これに対し、蒋介石は「自分は脅迫されて書類に署名するよりは命を犠牲にする覚悟だ」と答え拒否した。いよいよ殺害の段になって、思いがけなくも共産党からの使者がやってきて、蒋介石の釈放を要求した。この背後事情にはスターリンの指示があり、カリスマ的な知名度を持つ蒋介石を生還させ、国共合作に向かわせることを良しとしていた。こうして、釈放された蒋介石と毛沢東を首班とする国共合作の再工作が始まった。


【準戦時経済体制】
 二・二六事件後成立した広田内閣の馬場蔵相は、公債削減政策の放棄、増税、低金利政策を発表。つづいて日本銀行の公定歩合の引き下げを求めて公債の大量発行の条件を整備する。さらに政府は次官以下の人事を一新して「革新」姿勢を示す。しかし、その実体は軍部主導による政策運営。この時点で内閣としては、暴走する軍部を押さえ込むのに手一杯で、とても軍事費そして公債の増大を押さえるところまで手が回らなくなる。

 その陸軍の政治的、経済的構想立案の中心は石原莞爾(参謀本部作戦課課長・大佐)。石原は昭和10年8月に陸軍中枢のこのポストに就いたが、その時彼は日ソ間の兵力差が年々開いていることに愕然とする。前年の6月時点でのその差3倍以上。特に航空機、戦車などは数でもその技術水準でもかなり劣っていた。これは満州事変での日本軍の動きを見て、脅威を感じたソ連軍が極東地方の軍備を増やしたことによる。このため石原は軍備強化を考えるが、昭和7年頃からようやく重化学工業が立ち上がったばかりの日本では航空機、戦車などの増産にはその産業的基盤が無かった。

 そこで石原はソ連に対抗する軍備を持つ為には、昭和16年頃まで一切外国と事を構えることなく、軍備拡充とその為の産業基盤の育成に専念すべきであり、その為には日本の産業構造の改革が必要と考える。この構想の具体的実現のため為に民間人から成る組織「日満財政経済研究会」を設け立案を委託。

 同研究会が出した計画書「昭和十二年度以降五年間帝国入歳出計画」の内容は、・財政に限らず、産業発展目標を重化学工業を中心に生産を2〜3倍に引き上げる。・これを日本7・満州国3の割合で実現する。・実現のため、日本国内の政治・行政機構を満州国に似た形の、官僚主導の体勢に改革する。簡単に言えば国家経済を統制し、軍需のための重化学工業化を強引に押し進める計画。

 こうして陸軍の一大佐、石原莞爾主導による政策「準戦時体制」が始まる。結局、昭和12年度予算で陸軍、海軍の軍事予算増大。予算も前年度から7億3000万円増えて30億3800万円に増大。その財源は赤字公債10億円弱と、大増税。法人所得税8割、個人所得税3割、相続税10割引き上げられる。これには財界からもう反発を受ける。

 また軍備拡張が声明されると、石油・鉄鉱石等の軍需物資の不足と先行きの値上がりを見越して、輸入が殺到する。このため輸入超過により国際収支は急激に悪化。大蔵省は「外国為替管理法」を改正し輸入を大幅に規制しようとする(これがいわゆる「官僚統制」の始まり)。しかし効果はなく、外国為替の支払いが困難になる。これにより馬場財政=広田内閣が行き詰まる。(「あの戦争の原因」)

【内閣情報委員会の設置】
 言論統制の中枢機関として内閣情報委員会が発足した。同委員会の職務が次のように語られている。
 「最近に於ける新聞通信の発達は言を俟たざるところとなるが、殊に無線科学の進歩に伴い、国内にありては放送施設により国民に直接ニュースを伝達し、国外に対してはいわゆる新聞放送により各国の新聞紙を通じて自国のニュースを弘布し、国内及び国際報道界に一大境地を展開するに至れり。故に今日に於いては、消極的に内務省の出版警察権あるいは逓信省の通信警察権による公安保持に止まらず、積極的にニュースの弘布に対し国家的批判を加え、国家の利益に資するところなかるべからず」(閣議決定「情報委員会の職務」)。

 積極的に民意を誘導し、国策世論を作り出す権力による世論操作の必要が明言されていることになる。このマスコミ操作が、新聞、放送、出版、映画、論評、その他あらゆるコミュニケーションメディアに及んでいった。

1937(昭和12)年の動き

(この時代の総評)

 陸軍が、「97式艦上戦闘機」を完成させた。設計技師糸川英夫。やがて中国で使用され威力を発揮することになった。大東亜戦争初期の1942(昭和17)年において、マレー戦線、ビルマ戦線で英空軍機を撃墜し、制空権を確保することになる。


【満蒙開拓団】
 この年より向こう20年間に百万戸の農家、一戸5人として5百万の農民を内地から満州に移住させる計画を決めた。当時の全国の農家戸数560万戸の約2割を動かそうという遠大な計画であった。こうして、毎年、2万戸程度の農家が満蒙開拓団として満州に渡っていった。「青少年義勇隊」ももそれに併せて結成された。

 日満両国政府の合弁で移民団の受入機関「満州拓殖公社」が設置され、日本国内の総耕地面積に匹敵する560万ヘクタールの耕作可能地を用意して、ソ満国境近くの奥地にまで開拓団を送り、大豆やトウモロコシ、コーリャンなどを作る農機具や営農資金などを貸し与えた。

 実際に終戦までに移住したのは10万6千戸、31万8千人に止まり、しかも開拓農民の働き手が現地で軍隊に召集されたりするなど杜撰であった。

【広田内閣→林銑十郎内閣】
 1月、議会で浜田国松代議士が軍の批判を行い、寺内陸相との間にいわゆる「腹切り問答」が発生した。寺内陸相の辞任により1.23日広田内閣総辞職にいたる。これは表向きの事情で、後に巣鴨拘置所で広田が語ったことによると外国為替事情の悪化がその真因であったと言われる。

 この後も貿易赤字は続き、3月、日本銀行は貿易の支払いのため昭和7年以来一切使わなかった「金」の現送を余儀なくされる。その額は3・4月だけで約1億1000万円。

 次に陸軍大将(予備役)宇垣一成に組閣の大命が降下していたが、陸軍が陸軍大臣を出さずに内閣不成立となり流産した。代わりに2.2日林銑十郎が組閣、首相になる。これは石原ら陸軍中堅幕僚が、政治力のある宇垣では自らのプランが押さえ込まれかねないと考え、軍官僚が御しやすい林を選んだためといわれる。

 また、岡田内閣辞職とともに深井英五日銀総裁も退任した。その時、次のような意味の演説を行っている。「生産力の余剰を利用し、または容易に生産力を増進しうる時期はすでに去りつつある。今後は生産拡充に努めると共に物資の節約に努めなければならない。」

 この頃から物価の上昇が現れ始める。東京卸売り物価指数(昭和9〜11年平均=100)で見れば・昭和10年1月: 99.5%、・昭和12年1月:123.2%、・昭和12年4月:131.0%。インフレが始まる。

【林内閣→第一次近衛内閣(昭和12〜13年 1937〜38年)】

 5.31日、林内閣総辞職。林内閣は議会運営能力が無く、ほとんど何もできぬまま5月に総辞職、短命に終わる。この間インフレが始まり国民の政党政治(憲政)への不信感は頂点に達する。

 6.4日、第一次近衛内閣が組閣された。この時近衛文麿首相は45歳、その長身の容姿とあいまって清廉潔白な清新味が国民に期待され、人気も高まった。彼は五摂家筆頭、近衛家の当主で貴族院議長も勤めたこともある人物。天皇家に近く、各方面にも顔が利き、腐敗した既成政党とも一線を画し、さらに革新官僚達ともつき合いがあり、若い頃には特権貴族で有ることに悩み平民に成りたいと漏らしたこともある革新思想の持ち主。これで国民的人気が無ければ嘘のような人物。彼は皇道派の意見にも一理あると認めており、国体改革の必要性も感じていた。彼の首相就任は国民の心を一時的に明るくさせた。しかし戦前においても大臣経験もなく、いきなりの首相就任はかなり異例の人事。つまり国難打開のため新しい政治が求められており、それに応じてフレッシュなイメージの人気政治家である近衛が実務経験もなく首相として大抜擢を受けたわけです。

 但し、河辺虎四郎少将回想応答録では次のように記されている。「近衛首相、広田外相など当時は軍に『オベッカ』を使っておった政府であります。何事でも、『軍はどういう風に思っておるか』というて心配する非常に勇気のない政府でありまして、『軍に問うては事を決するというやり方で、政治的に全責任を負い、戦うも戦わざるも国家大局の着眼からやっていこうというものはなかったことをつくづく思います」。石射猪太郎日記では次のように記されている。「日本は今度こそ真に非常になってきたのに、コンな男を首相に仰ぐなんて、よくよく廻り合わせが悪いと云うべきだ。これに従う閣僚なるものはいずれも弱卒、禍なるかな、日本」(8.20日)。 

 蔵相には軍備拡張に甘い馬場蔵相留任を望む軍部を何とか押さえて大蔵省次官だった賀屋興宣が就任する。「政策は金融緩和と借金による財政支出、軍事費たれ流しで、財政赤字と国債はどうにもならないところまで進行していくことになる」と評されている。

 国際収支の一層の赤字拡大により経済実状はますます困難になっている。しかし近衛は石原莞爾の構想に理解を示し「日満財政経済研究会」が昭和12年5月作成した「重要産業5ヶ年計画」の遂行が近衛内閣の至上命題となる。この経済状態では通常では金融引き締めと財政支出引き締めが行われなければ成らないところで、全く逆の経済政策が採られて行く事になる。

 賀屋蔵相はこの状況下では思い切った政策なしでは事態の切り抜けは不可能と考え「財政経済三原則」を設定し経済政策の中心に据える。その内容は、・「生産力の拡充」・「国際収支の適合」・「物質需給の調整」つまり生産力を拡充させるが、国際収支の赤字累積が増えないようにしなくてはならず、その為に必要な物資を調整する必要がある、という考え。更に言い換えると、金も無いのに軍備拡充とその為の重化学産業を育成するという無茶な計画を実現する為には、日本全体の産業を統制し重要産業の優遇、非重要産業の設備縮小または廃止をはかる、そのために政府が国全体モノの流れとカネの動きを直接統制する必要があると言う構想。


【カンチャス島事件】
 6.19日、黒竜江の中洲にあるカンチャス島にソ連軍の正規兵が上陸し、満州国人を追放、拉致する事件が発生した。これを「カンチャス島事件」と云う。重光葵駐ソ大使の抗議によりリトヴィノフ外相はソ連軍の撤退を約束したが、約束当日の6.30日、ソ連の小艦艇三隻が島の南側水道へ侵入し、カンチャス島の関東軍に射撃を加えてきた。これに対し、関東軍は速射砲で応戦し、ソ連艦一隻を撃沈、ソ連側死者2名、負傷者3名の損害を出した。7.1日及び2日、重光・リトヴィノフ会談の結果、ソ連側はカンチャス島から一切の兵力を撤収し事件は解決された。

 7.3日、カズロフスキー極東部長が、西参事官の来訪を求め、「約1個中隊の日本兵が、隣の小島に上陸し、陣地を構築しているのは、重光・リトヴィノフ会談の約束に反する」と抗議した。これに対し、西参事官は、「日本側はそれら諸島からソ連軍の撤兵を要求したが、日本兵を入れないと約束した覚えは無い」と突っぱねた。これがノモンハン事件の伏線へなっていく。

【盧溝橋事件発生】

 7.8日早朝、北平近郊の廬溝橋で日中両軍の衝突が発生した。これを廬溝橋事件と呼ぶ。この衝突はわずかの間に華北全域に広がり、やがて上海にも飛び火、中国全土を巻き込んだ戦争へと発展していくことになった。以降8年間も続くことになる日中全面戦争の始まりである。

 この廬溝橋事件で最も驚かされるのは、その異常なエスカレーションぶりである。この事件のそもそもの発端はほんの些細なできごと(夜間演習を行なっていた日本軍部隊の頭上を何者かが発射した十数発の銃弾が通過した)に過ぎなかった。しかし、たったこれだけのことが、一晩のうちに大隊規模の軍事衝突にまで発展してしまう。さらに、いったんは収まりかけたこの衝突が、一月もたたないうちに日中の全面戦争にまで拡大することになる。

 どうしてこうなってしまうのか。この事件の詳細を追っていくとまず浮かび上がってくるのが、面子にこだわり、功をあせる日本軍現地指揮官たちの姿である。この事件の場合、「発砲」を受けた部隊を指揮していた中隊長清水節郎大尉、その上官である大隊長一木清直少佐、連隊長牟田口廉也大佐の三人が、あたかも互いに煽り合うかのようにして些細な出来事を大事件にまで拡大してしまう。とりわけ、兵士一名が行方不明というだけの理由で大隊に出動を命じ、ついで再び銃声が聞こえたというだけで攻撃を許可してしまった牟田口の責任は重大である。その上、当然こうした軍の暴走を押さえるべき立場にあるはずの政府(首相:近衛文麿)が、逆に自ら先頭に立って戦線を拡大してしまう。

 関東軍による鉄道爆破という謀略で幕を開けた満州事変以来、日本は些細な「事件」(それもしばしば日本側によるフレームアップ)をとらえては中国側に難癖を付け、強大な軍事力で威圧しつつ利権と支配領域を拡大していくという、*なし崩し的侵略*を続けてきた。この廬溝橋事件も、この侵略路線の延長線上でいずれは起こらざるを得ない、いわば歴史的必然だったと言える。皮肉なことに、満州事変を引き起こした「功績」によって出世を果たし、陸軍内部にこの流れを作り出した石原莞爾は、盧溝橋事件ではその拡大を防ごうとして、自分の過去を忠実にまねた「後輩」たちに敗れ去る結果になる。【盧溝橋事件 -- 謎のエスカレーションろ溝橋事件考、満州事変考


 7.27日、日銀総裁に結城豊太郎が就任する。彼は就任直後の金融懇談会の挨拶で、「金融業者は悪戯に採算だけの観点に囚われず、多少手元が無理でも国債の所有を増やしていただきたい。このため生産力拡充資金に不足を来すようでは困るので、日銀は積極的に努力するから遠慮なく申し込んで頂きたい。日銀に貸し出しを仰ぐことを極力回避すると言った伝統はこの際打破すべきである。」と言う趣旨の話をしている。

 はっきり言って、石原莞爾は満州事変を見ても分かる通り軍事テクノクラートとしてはずば抜けて優秀な人物ある。「作戦の神様」とさえ言われていた。しかしこれはあくまでも軍事に関することのみ。近衛文麿にしても見識才能ともに卓越した人物である。しかし何せ実務経験がほとんど無い。従って両人ともに経済問題に対してはド素人に近い。しかもこの時点において、高橋是清を筆頭とする経済問題について見識のある人物達は、死亡・引退で全て第一線から退いている。後に残っているのは改革派の軍人と、国体改革に燃える新官僚達のみ。この経済素人集団のがこの後の日本経済を方向づける事になる。

 9月この頃より我が国は急速に自由経済から統制経済へ移行していった。最初の戦時立法「輸出入品等臨時措置法」が公布され、後刻毛製品に対するスフの強制混入等繊維業界への統制が始まった。これが走りとなり、翌年の「国家総動員法」で準戦時体制から完全な戦時体制に移行する。


 選挙。無産党系議員が42(←23名)。社会大衆党は37(←18名)。麻生も含めて最高点当選者19名、総得票数約百万票。
 1936−37年頃、迫り来る戦争の足音を前にして、コミンテルン派の小林陽之助、山本正美らを中心とする人民戦線が計画され、労農派の山川均、荒畑寒村、鈴木茂三郎ら、無産大衆党、全国評議会を中心に組織化されていった。

 麻生の指導する社会大衆党は拒否した。麻生は、1937.6月号の改造に次のように記している。「5.15事件以来5カ年間に、斎藤内閣2年、岡田1年半、広田1年、林3ヶ月なるに比して、社大党は3名から37名となった。鬱然たる政治勢力である。日本革新の展望はもはや左程遠方ではない」、「今後の問題は、現状打破、革新断行を為し得る革新的新政権が如何なる過程を辿り数年後に、如何なる勢力の合同の下に、如何なる形で出来上がるに至るかが問題であって、それが出来上がるべき方向は最早必至となりきたったのである」。「5.15事件は窮迫せる農民の絶望の表現として理解するのでなければ、その歴史的意義を汲み取ることは不可能であろう」。

【1937年の以降の動きは、「南京事件の直前の動き」の項に記す】


1938(昭和13)年の動き

(この時代の総評)

 1.11日、御前会議で、対華国策決定。


 1.16日、近衛首相が、「国民政府相手にせず」声明。「帝国政府は南京攻略後、シナ国民政府の反省に最後の機会を与うるため今日に及べり。然るに国民政府は帝国の真意を解せず、漫りに抗戦を策し内人民塗炭の苦しみを察せず、外東亜全局の和平を顧みる所なし。かくて帝国政府は爾後国民政府を相手とせず」云々(1938.1.17日付け「東京日々新聞」夕刊所載)。

 日華事変をいよいよ抜き差しなら無いものにしてしまった。


 2月、近衛内閣が、議会で国家総動員法、電力国有化法案を可決。


 3.13日、ドイツ、オーストリアを併合。


【国家総動員法成立】

 3.24日、国家総動員法成立。前年に成立した「統制三法」のお陰で、必要物資が殆ど軍需品に取られることになり、民需では全国的に物不足が深刻化してインフレが進む。政府は公定価格を設定し沈静化を狙うが闇経済が発達するだけ。そして支那事変の長期化により増大する戦費。昭和12年末の通常国会では、臨時軍事費として48億5000万円が提出される。(同じく提出された一般会計は35億1400万円。)この財源は公債と「支那事変特別税」でまかなわれることになった。

 さらに日本軍は兵器弾薬不足にも悩まされていた。近代戦においては莫大な数の弾薬を消費する。盧溝橋事件後6ヶ月で弾薬庫はほとんどからに近い状態になっていた。しかも日本にはこの莫大な消費に見合う生産能力がない。これらの問題を解決するため、昭和13年4月1日、企画院が提出した「国家総動員法」が成立。5月5日に施行される。

その詳しい内容は、

労働、物資、資金、企業、施設の動員統制
労働争議の禁止
新聞その他出版物の掲載、配布の統制
国民の職業能力の申告
技能者の養成
国民の物資の保有統制

等々。まさに国民生活全てを統制し(労働統制、物資統制、金融統制、価格統制、言論統制)、戦争に備えようとする法律。「国家総動員」体制の確立を理想として掲げてきた軍部と、それに接近していた革新官僚達による経済統制が実現段階にはいる。

 この法律は、「戦時に際し、国防目的達成のため、国の全力を最も有効に発揮せしめるよう、人的、物的資源を統制運用する」のを目的としており、我妻栄氏によると、「要するに、総力戦の始まったときに、議会の協賛なしに国内の総力を動員できるように、政府に対して広範な権限を与えておこうとする法律」であった。近代国家は司法・行政・立法の三権分立が基本である。それがこの法律では、戦時に限ってではあるが行政、つまり政府に臨時的に統制のための法律制定の権利が移る。これは政府が立法府、つまり国会から白紙委任状を受けたのと同じことである。国会は以後、完全にその機能の停止状態となり、軍部・政府の単なる言いなりになる機関となる。

 ちなみに、戦費は臨時軍事費特別会計により、戦争が終了した時点での一会計年度決算だったため、この時点で支那事変の戦費がどの程度掛かっていたのか不明の状態です。外から分からぬ内容のため軍部は好き勝手に予算を使えたようです。

 一般・臨軍両会計の歳入構成は、租税と公債の割合が11年度の時点では5対3だったものが、12年度以降は公債の方が多くなり、16年度には3対6にも達している。早い話、戦費の調達はほとんど公債の発行に頼る形になっている。この時点あたり、政府には公債発行を一定限度に押さえ込む考えは、全く無くなっています。


 5.19日、日本軍除州占領。


 5.26日、近衛内閣の改造で、宇垣大将が外相に就任。但し、在任僅か3ヶ月で辞任。板垣陸相就任。


【張鼓峰事件事件】

 7.11日、張鼓峰事件起る。突然ソ連兵が張鼓峰の頂上に現れ、満州側の斜面に陣地の構築を始めた。重大な挑発行為であった。


 この年8月、関東軍内部で支那事変不拡大を叫んで東条英機と対立していた石原莞爾は、病気療養を理由に勝手に帰国。12月には舞鶴要塞司令官に落ち着いている。


 8月、「経済警察」が発足し、この頃全国の警察署に経済保安係りが設置され、物資の横流しや闇値の暴利に目を光らせることになった。


 8月、米国に移住したアインシュタインが大統領に核爆弾の開発を促す手紙を送る。


 9月、ドイツがポーランドに侵攻。第二次世界大戦が始まる。


 10.21日、日本軍広東占領。


 10.27日、日本軍武漢三峰占領。


 11.3日、政府が東亜新秩序建設声明。「帝国が中国に望む所は、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことにあり、帝国は中国国民が能く我が真意を理解し、以って帝国の協力に応えんことを期待す。固より国民政府と雖も従来の指導政策を一擲し、その人的構成を切替して更生の実を挙げ、新秩序の建設に来たり参ずるにおいては、敢えて之を拒否するものにあらず」。弱音を吐いている。


 12月、11.7日のドイツでの「水晶の夜」(クリスタル・ナハト)事件を受けて、この年に最高国策検討機関として設置された首相、陸相、海相、外相、蔵相の五相会議が開かれ、ユダヤ人問題を討議した。「ユダヤ人対策要綱」が決定され、板垣征四郎陸相の提案によって、ドイツのユダヤ人迫害政策が人種平等理想に悖ること、ユダヤ人を他国人と同じように構成に取り扱うべきことが明記された。


 12.30日、おう兆銘が和平反共救国声明。


 この年、ドイツでウランの核分裂が発見される。翌1939.8月、米国に移住したアインシュタインが大統領に核爆弾の開発を促す手紙を送る。



1939(昭和14)年の動き

(この時代の総評)

【第一次近衛内閣→平沼騏一郎内閣】
 1.4日、第一次近衛内閣が退陣した。経済政策と支那事変処理に行き詰まった近衛文麿は疲れ果てて、ついに昭和14年1月4日内閣総辞職。後任には枢密院議長で国家主義団体国本社(右翼団体)の会長として政界官界の裏のボスで豪腕として知られていた平沼騏一郎。

 1.5日、近衛内閣から大臣の殆どを引きついで平沼騏一郎内閣が組閣された。


 この頃、日本軍の日中戦争における行為は、国際的に非難を受けており、イギリス・アメリカ・ソ連は中国側に立ってこの紛争に干渉、中国に積極的に資金援助・武器供与をしている。これに対抗して陸軍はドイツ・イタリアとの軍事同盟を結ぶことを主張。しかし海軍は、この同盟を結べばアメリカと戦争になる可能性があるため反対に回る。

 平沼内閣は、同盟早期締結派の陸軍と、慎重派の海軍の対立に悩み続けることになる。
【ノモンハン事件】

 5.11日、関東軍が越境してノモンハンでソ連・外蒙古軍と戦った。「約90名の外蒙古軍兵士がハルハ河を渡河してきた。これに対し、関東軍が射撃した。それを起点として飛行機、戦車を繰り出す両軍の死闘が開始された」ともある。政府と大本営は不拡大方針を示したが、これに対し現地関東軍の辻正信少佐と服部卓史郎中佐が独断専行。彼らはソ連軍の能力を過小評価し、関東軍の実力を思い知らせて国境侵犯再発を防止するとして、この紛争に関東軍を本格投入。ソ連軍と関東軍の大規模な武力衝突となる「ノモンハン事件」に発展した。(当時のモンゴルとソ連との関係は、日本と満州国の関係に似たような関係です。)

 この間ソ連軍は西側の技術者を雇い軍事技術の革新に取り組んでいた。「今日のソ連軍は帝政ロシア軍とは違う」との警告が為されていたが、その危惧通り関東軍はいやというほど技術革新の差を思い知らされることになった。

 ソ連の空軍と戦車のキャタピラに蹂躙され、日本陸軍はこの戦闘で出動兵力の7割を失うという惨敗を喫した。スターリンがヒトラーと突然「不可侵条約」を結んだのは、この戦闘の最中のことである。


 石原莞爾の心配が的中し、ソ連軍の圧倒的兵力、強力な火砲と戦車の前に、派遣された関東軍は壊滅的打撃を受ける。戦闘の主力となった小笠原第第23師団では、人員1万6000名のうち戦死・戦傷・戦病が1万2000を越えた。連隊長クラスでも戦死・戦場での自決が相次いだ。ソ連軍の優秀な戦車に対して日本軍の戦車は全く歯が立たず、対戦車兵器として最も有効な兵器は火炎瓶だったと言うから酷いありさま。


 6.14日、日本、天津の英仏領租界封鎖。


 8.23日、独ソ不可侵条約成立。ソ連とドイツは、形式上同盟関係に入った。


 8.30日、この頃平沼内閣が総辞職している。その後「独ソ不可侵条約調印」を見抜けなかった為、「欧州情勢は複雑怪奇なり」の迷言を残して総辞職。


【平沼騏一郎内閣→阿部伸行内閣】

 替わって組閣されたのが次の首相は陸軍大将(予備役)の阿部伸行内閣である。彼は政治的には何のキャリアも無かったが、とにかく陸軍を押さえ込むための起用された。特に何にもしないで総辞職することになる。


【第二次世界大戦が勃発】

 9.1日、ドイツ軍がポーランドに浸入し、第二次世界大戦が勃発した。ドイツ軍機械化部隊の目の醒めるような電撃作戦が、日本陸軍と国民を狂喜させた。


 9.15日、ノモンハン停戦協定成立。アジア方面にかまってられなくなったソ連との停戦協定が成立する。モスクワで東郷大使とモロトフ外相との間で、両軍の現在線での停戦に合意して停戦協定が結ばれた。この事件は日本側の参加兵力約6万、戦死・戦傷・生死不明者約2万の大事件だったにも関わらず、国民にはなにも知らされず闇に葬られる。

 この事件は当時の日本軍が、近代的軍隊としてはどの程度の実力か知らしめたものだった。この敗戦の責任をとらされ、関東軍では軍司令官と参謀長、大本営では参謀次長と作戦部長、実戦に参加した部隊でも軍指令官、師団長、連隊長が予備役になっている。しかしその真の敗戦原因の徹底究明は成されず、独断専行した辻・服部らの将校に対しても軍法会議も開かれず左遷のみ。

 最前線で戦い壊滅した第23師団の生き残った将校たちは自決を強いられ、またソ連軍に投降し停戦後に送還された将校達にも自決用のピストルを渡された。つまり関東軍参謀たち、及び関東軍上層部は、自らの責任は棚に上げ、日本軍の実力を直視することなく、第一線指揮官達がまともに働かないのが敗因である、と考えていたようです。


 この後、ヨーロッパでは世界大戦が本格化。9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告。9.16日、ソ連は独ソ不可侵条約の密約によってポーランドへ進駐。9月27日、ワルシャワ陥落。


 1939年、重慶爆撃。


 11月、元憲兵大意・甘粕正彦が満映の二代目理事長に就任。甘粕は、関東大震災時に大杉栄、内縁の妻伊藤野枝、甥の橘宗一少年を虐殺し、軍法会議で懲役十年の判決を受けていた。が、2年10ヶ月服役後に出獄。その後、軍の資金でフランスに出向く。帰国後満州に渡り、清朝の廃帝・溥儀を天津から満州へひそかに護送し、情報・治安活動などを通じて満州国建国の功労者となっていた。満州国唯一の政党協和会の総務部長に就任し、「満州の甘粕」の異名をとっていた。

 この頃、上海に「中華電影公司」が日中折半出資で設立された。軍が満州以外の占領地対策として作った初の映画会社で、実質的な責任者は川喜多長政氏であった。「新京(長春)にテロリストと言われた元憲兵大尉率いる満映があり、憲兵に父親を殺された映画人が率いる中華電影が上海にできた。私は満映の女優でありながら上海で活動するようになる」(2004.8.13日付け日経新聞「私の履歴書」、山口淑子K)


 この年、アインシュタインが、「米国に於ける原爆開発」をルーズベルト大統領に進言する手紙を送る。ハンガリー出身の物理学者・レオ・シラードも署名。




1940(昭和15)年の動き

(この時代の総評)


 海軍が、「零式戦闘機(ゼロ戦)」を完成させた。「ゼロ戦」も中国で使用され威力を発揮することになった。開発技師は堀越二郎。


 1.8日、東条陸軍大臣名で「戦陣訓」が出る。内容は、本訓その一、皇国・皇軍・軍紀・団結・協同・攻撃精神・必勝の信念。本訓その二、敬神・孝道・敬礼挙措・戦友道・率先躬行・責任・生死観・名を惜しむ・質実剛健・清廉潔白。本訓その三、戦陣の戒め・戦陣の嗜み、となっている。特に「名を惜しむ」の中の、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」の部分が有名。京都師団の石原莞爾はこれ読んで、「バカバカしい。東条は思い上がっている」と批判。東条は大いに怒り、石原は3月に予備役に編入された。


阿部伸行内閣米内光政内閣 

 1.14日、阿部内閣総辞職。結局、阿部内閣は様々な問題に対して無為無策のまま首相の座は現役海軍大将の米内光政に交替する。 

 1.16日、米内光政内閣成立。米内(よない)光政

 しかし、やはり軍事同盟を巡って陸軍と対立。海軍としては、アメリカと戦争をして勝てる見込みがつかない。当時、海軍の仮想敵国はアメリカであり、その実力を良く認識していた。それに対して陸軍の仮想敵国はソ連、アメリカに対してはなめてかかっていた模様です。結局、7月16日、畑陸相の単独辞職に伴い陸軍では陸相を出さず内閣総辞職。

 この間の目まぐるしい内閣の交替の間にもインフレと事変は泥沼化する。


 1.26日日米通商航海条約期限切れ、無条約時代に入る。マレー沖海戦。


【斎藤隆夫の除名問題発生

 2.2日、米内内閣成立直後の当時民政党の衆議院議員であった斎藤隆夫は、第75帝国議会2日目米内(よない)内閣の施政方針演説に対する代表質問で、丁度満3年目を迎えようとする日中戦争に関して、米内内閣の対応を問い、政府の日中戦争処理方針を巡って2時間の大演説をぶった。戦争の終結条件は何なのか、政府に展望を示すように要求。支那事変の戦争目的と見通しについて明らかにせよと迫った。日中戦争が聖戦とされ、国民に無限の犠牲を要求していることを批判。東亜新秩序とは何か、それは空虚な偽善であると決めつけた。演説の後には拍手喝采が起こり多くの議員が賞賛した。しかしこれは聖戦を冒涜するものであるとの問題になり、斉藤は衆議院から除名される。

 これが特に陸軍から、「聖戦目的の侮辱、10万英霊への冒涜(ぼうとく)」であり、「非国民」と攻撃され、衆議院議員の除名へと発展した。この経過は、政党の分解作用に深刻な影響を与えた。
非国民

 この時の斎藤議員の質問要旨は次の通り。「すべての戦争は力と力との衝突である。そうした戦争観を鏡とすれば、国際正義、道義外交、共存共栄、世界の平和等の美名を掲げて聖戦などと称することは、単なる虚偽にすぎない」と、いう約1時間半に及び斎藤の演説は、いうまでもなく軍部が主導する戦争政策全体への批判で、その要旨は、「@・1938(昭和13)年1月の近衛声明が「支那事変」処理の最善をつくしたものであるか否か、A・いわゆる東亜新秩序建設の具体的内容とはいかなるものか、B・江兆銘援助と蒋介石政権打倒を同時に遂行できるのか、C・「事変」勃発以来すでに戦死者10万、国民にさらに犠牲を要求する十分な根拠を示せ」というものであった。

 
斎藤の演説は拍手喝さいで終わったが、軍部のみならず、議会内でも、時局同志会、政友会革新派、社会大衆党が斎藤を非難、憂慮した小山松寿衆院議長と斎藤が所属する民政党幹部は、斎藤に演説速記録中の以下の「不穏当」部分の削除を要求、斎藤も議長に一任、議長は職権で演説の後半部分すべてを速記録から削除した。
なお、新聞社へは内務省から斎藤を英雄視するような記事の掲載は「まかりならん」との通達があった歴史のページ

さらに軍部の攻撃を恐れた民政党幹部は、斎藤に離党・謹虞を勧告、斎藤は同日党籍を離脱するが、これでおさまらず、衆議院懲罰委員会は満場一致で除名を決定、6日の衆議院本会議は、除名賛成296票、反対7票、棄権144票で可決した。

 議事録から削除された斎藤演説部分【2.3日付「東京日日新聞」】 
「国家競争は道理の競争ではない、正邪曲直の競争でもない、徹頭徹尾かの競争である(中略)弱肉強食の修羅道に向って猛進をしている、是がすなわち人類の歴史であり、奪うことの出来ない現実であるのであります。此の現実を無視して、唯徒(ただいたずら)に聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く、国際正義、曰く、道義外交、曰く、共存共栄、曰く、世界の平和、斯の如き雲を掴むような文字を列ね立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤れるようなことがありましたならば、現在の政治家は死しても其の罪を減ぼすことは出来ない。(中略)事変以来今日に至るまで吾々は言わねばならぬこと、論ぜねばならぬことは沢山あるのでありますが、是は言わない、是は論じないのであります。吾々は今日に及んで一切の過去を語らない、又過去を語る余裕もないのであります。一切の過去を葬り去って、成るべく速やかに、成るべく有利有効に事変を処理し解決したい、是が全国民の偽りなき希望であると同時に、政府として執らねばならぬ所の重大なる責任である。(中略)然るに歴代の政府は何を為したか、事変以来歴代の政府は何を為したか、二年有半の間に於て三たび内閣が辞職をする、政局の安定すら得られない、期う云うことでどうして比の国難に当ることが出来るのであるか、畢竟するに政府の首脳部に責任観念が欠けて居る。(中略)国民的支持を欠いて居るから、何事に付ても自己の所信を断行する所の決心もなければ勇気もない、姑息愉安(こそくゆあん)一日を弥縫(びほう)する所の政治をやる、失敗するのは当り前であります」

【汪兆銘を主席とする南京政府樹立】

 3月、上旬臼井大佐(参謀本部主務課)と鈴木中佐が重慶政府代表の宋子良と香港で会談(桐工作)。
 3.12日、汪兆銘、和平建国宣言を発表。
 3.30日、重慶にいた汪兆銘を連れ出して、彼を主席とする南京政府を樹立。この建国手法は満州国のそれに倣った。但し、米国のハル国務長官は南京政府否認声明を出している。

支那事変処理として撤退方針が決定される

 3.30日、支那事変処理に関する極めて重要な事項が、参謀本部の提案に基き、この日、陸軍中央部で決定された。それは、「昭和15年中に支那事変が解決せられなかったらば、16年初頭から、既取極に基いて、逐次支那から撤兵を開始、18年頃までには、上海の三角地帯と北支蒙彊の一角に兵力を縮める」というもので、事変処理の大転換であった。もともとこの撤兵案は陸軍省の発案になるものであり、陸軍省側では今すぐからでも、撤兵を開始するような剣幕であった。予算面からも間接的に参謀本部を抑制しようとした。事変解決に、参謀本部も陸軍省も手を焼いていることが分かる。当時参謀本部としても、内々黙認した形であった。昭和15年度の臨時軍事費は、こんな前提の下に確定せられていた。 [種村佐孝「大本営機密日誌」(ダイヤモンド社,昭和27年)P12-14] この本は公式の日記ではなく、元大本営参謀戦争指導班長の種村佐孝氏が、同僚の助けを得て書いた日記と記憶によって書かれたものです。 開戦前から終末期まで、時間を追って具体的に書かれた貴重な資料としてしばしば引用される本です。


 5月上旬、重慶爆撃開始。無差別爆撃となった。海軍航空隊の指揮官として、重慶爆撃に参加した巌谷二三男氏の証言「1940.6月上旬頃までの爆撃は、もっぱら飛行場と軍事施設に向けられていたが、重慶市街にも相当数の対空砲台があり、そのため味方の被害も増大する状況となったので、作戦指導部は遂に市街地域の徹底した爆撃を決意した。すなわち市街東端から順次A、B、C、D、E地区に区分して、地区別に絨毯爆撃をかけることになった」、「建物が石材や土などでできている中国の街は、一般に火災は起こしにくかったのであったが、重慶の場合はよく火災の起こるのが機上から見えた。これは市街中央部の高いところは、水利の便が悪かったのであろう。また使用爆弾も、戦艦主砲弾(四〇センチ砲弾)を爆弾に改造した八〇〇キロ爆弾から、二五〇キロ、六〇キロの陸用爆弾、焼夷弾などをこのごも使用した」、「六月中旬以降の陸攻隊は連日、稼働全兵力をあげて重慶に攻撃を集中した。その都度偵察写真が描き出す重慶市街の様子は、次第に変わり、悲惨な廃墟と化していくように見えた。何しろ殆ど毎日、五十数トンから百余トンの爆弾が、家屋の密集した地域を潰していったのだから、市街はおそらく瓦れきと砂塵の堆積となっていったことだろう」、「ことに[八月]二十日の空襲は陸攻九〇機、陸軍九七重爆十八機、合わせて百八機という大編隊の同時攻撃で、これまた一連空が漢口からする最後の重慶攻撃となった。この日、爆撃後の重慶市街は各所から火災が起こり、黒煙はもうもうと天に沖し、数十海里の遠方からもこの火煙が認められた」(巌谷二三男 「海軍陸上攻撃機」朝日ソノラマ)。

 陸軍航空隊独立第一八中隊(司令部偵察飛行隊)の一員として重慶爆撃に参加した河内山譲氏の証言「五月末迄2連空は夜間爆撃を主としていたが、途中で1連空と共に昼間に切換え、目標も重慶の軍事施設だけを選別していたのを改め、市街地をA・B・C・D・E地区に区分した徹底的な絨毯爆撃に変更した」。
 


 5.11日、有田外相、蘭印現状維持を各国駐日大使に申し入れる。


 5.18日、御前会議で対支処理方策を決定。


 5.25日、有田外相、バブスト駐日蘭大使に対蘭印13項目の要求を送る。


ヨーロッパ戦線で独軍が進撃開始

 5.10日、欧州で、ドイツ軍が華々しい実力を行使しはじめ、5月にはオランダ、ルクセンブルク、ベルギーを侵略、更にマジノ線を突破してフランス軍を席捲し、イギリス軍は「ダンケルクの悲劇」に追い詰められた。


 5.16日、イギリスにチャーチル内閣成立。


ヨーロッパ戦線で伊軍が独軍側で参戦


 6.10日、伊軍が独軍側で参戦し、イギリス・フランスに宣戦布告。

 6.14日、独軍がパリ入城、6.22日、独仏休戦条約調印。イギリスへの空爆も激しくなる。そのためイギリスのチェンバレン内閣、フランスのレイノー内閣が崩壊。


支那事変処理として戦線拡大方針が決定される

 この独軍の戦果拡大が陸軍部内の大転換をもたらすことになった。『バスに乗り遅れるな』的ムードがはやり出し、「撤兵」のはずが、「大東亜戦争」に拡大していくことになった。欧州情勢の急変転が陸軍内部の考え方を180度大転換させた。「わずか2ヶ月前、さる3月30日には、専ら支那事変処理に邁進し、いよいよ昭和16年から逐次撤兵を開始するとまで、思いつめた大本営が、何時しかこのことを忘れて、当時流行のバスに乗り遅れるという思想に転換して、必然的に南進論が激成せられるに至ったのである」(種村佐孝「大本営機密日誌」・ダイヤモンド社・昭和27年・P14) 。

 
東南アジアの植民地は事実上、無主の土地となり、南進論が現実味を増してきた。ドイツは、外相リッベントロップの信任厚いシュターマーを特使として派遣し、日本がアメリカをできる限り牽制するために、日独伊三国同盟を打診した。


 5.13日、第1回報国債券発売。


 6.3日、工作機械の対日輸出禁止。


 6.9日、ノモンハン国境確定交渉成立。


 6.12、日タイ友好条約締結。


 6.18日、米下院海軍委員会で海軍拡張案(両洋艦隊法案)が可決。


 6.24、ビルマおよび香港経由による蒋介石政権援助物資輸送停止をイギリスに申し入れる。


「基本国策要綱」が立案される

 6.25日、には「基本国策要綱」が立案され、7月27日の「連絡会議」で決定、上奏された。


 7.7日、商工、農林両省令で、「奢侈品等製造販売制限規則」(7.7禁止令)が公布され、国民生活に大きな影響を与えていくことになった。


米内光政内閣第二次近衛内閣

 7.16日、米内内閣総辞職。結局、米内光政内閣も陸軍に振り回され放しで終わる。
国民は官僚にも政党政治にもいやけがさし、「もう近衛しかいない、もう一度近衛に力を」の声が高まり、再度近衛が登場してくることになった。

 7.17日、第二次近衛内閣が組閣された。外相に松岡洋右、陸相に東条英機、海相に吉田善吾が起用された。「ウィキペディア松岡洋右」は次のように記している。

 松岡は、近衛が松岡、陸海軍大臣予定者の東条英機陸軍中将、吉田善吾海軍中将を別宅荻外荘に招いて行ったいわゆる荻窪会談で、外相就任受諾条件として、外交における自らのリーダーシップの確保を強く要求、近衛も了承したと伝えられている。20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰した松岡はまず、官僚主導の外交を排除するとして、赴任したばかりの重光葵(駐英大使)以外の主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐ソ大使を更迭された東郷茂徳らは辞表提出を拒否して抵抗した。

 松岡の外交構想は、大東亜共栄圏(この語句自体、松岡がラジオ談話で使ったのが公人の言としては初出)の完成を目指し、それを北方から脅かすソ連との間に何らかの了解に達することでソ連を中立化、それはソ連と不可侵条約を結んでいるドイツの仲介によって行い、日本―ソ連―独・伊とユーラシア大陸を横断する枢軸国の勢力集団を完成させれば、それは米英を中心とした「持てる国」との勢力均衡を通じて日本の安全保障ひいては世界平和・安定に寄与する、というものではなかったかと考えられている。こうして松岡は日独伊三国軍事同盟および日ソ中立条約の成立に邁進する。

 @・日・独・伊枢軸の強化、A・東亜にある英・仏・蘭・ポルトガルの植民地の占領、B・アメリカの実力交渉排除、を重要政策に掲げ、これが開戦へのお膳立ての動きとなった。

 政治の新体制、経済の新体制実施を目標とする。折からの政治の刷新を求める国民の期待を受けて革新官僚の拠点、企画院を中心に官吏制度をはじめとして各界の新体制案を立案し始める。

 「昭和12(1937)年6月の第一次近衛内閣成立の1ヶ月後に日華事変が勃発している。第一次近衛内閣の後、平沼、阿倍、米内内閣はドイツとの距離をとり、第2次大戦には不介入の姿勢を保っていた。ところが、第2次近衛内閣が成立した昭和15(1940)年7月以降、日本は日独伊の三国同盟締結、仏印進駐とアメリカとの全面対決に向かって決定的な道を歩み始める。不思議なことに近衛内閣の登場のたびに、日本は大きく戦争へと向かっている。近衛は、その当時を振り返って、『見えない力にあやつられてゐたような気がする』と述懐している」(ゾルゲ事件


 7.25日、ルーズベルト大統領、石油と屑鉄を対日輸出許可品目に加える。


 7月、麻生久率いる社会大衆党が解党。麻生は、近衛が選任した新体制準備委員26名中の1人に選ばれる。但し、大政翼賛会の結成直前の9月に病死する。


大本営が南進を旨とする「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定

 7.26日、閣議で大東亜新秩序と「基本国策要綱」を決定し、翌7月27日政府は2年ぶりに大本営政府連絡会議を開き、南進を旨とする「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。ドイツの勝利に乗り遅れまいとする心裡が強く働いていた。これに基づき仏印進駐が企図されていくことになった。


 8月には東京市内に「ぜいたくは敵だ!」の看板が立てられる。


 8月、キリスト教会に対する弾圧と迫害も日増しに強まり、賀川豊彦が反戦思想を宣伝したという理由で投獄された。


「新体制準備会」発足

 近衛文麿はこの難局を打開するため、右派・左派・軍部までをも含めた「革新」勢力の結集を目指し新党構想を練る。国民組織を基盤とした強力な政権を作り、軍を取り込んで統制し、政治を刷新して政治新体制を建設を目指した。この運動は新官僚たちが中心となって進められ、やがて「新体制運動」と云われようになった。 

 8.23日、自由主義者も体制派社会主義者も、革新右翼も観念右翼も、東大総長も愛国団体代表も含まれ、衆参両院、言論界、経済界一致の新体制準備会が発足し、8.28日、声明文が発表された。各党はこの新党に合流する為「バスに乗り遅れるな」と、先を争って既成政党が全て解党した。この流れが「大政翼賛会」に向かうことになる。

 そのスローガンは「下意上達」であった。つまり、この事態に対して無為無策の腐敗する政界・財界・内務官僚たち保守派の「上」の既成勢力を一掃して、「下」の国民の意見を代表する革新勢力を結集した政治を実現し、この難局から国を救おうというものであった。但し、参加した勢力を見ても、麻生久の社会大衆党や赤松克麿の日本革新党(もと社会主義者グループ)、橋本欣五郎の大日本青年党(革新右翼)、民政党、政友会内の一部(保守政党内の改革派)、岸信介などの新官僚、武藤章など革新的軍部、その他色々な勢力が混交していた。さらに尾崎秀実(国際的共産主義者)までもが推進というまさにごった煮状態で、それぞれ意見が異なり紛糾する。

 「大政翼賛会」には、直前に没した麻生の遺志を継ぐかのように、近衛総裁、有馬事務局長のもと、総務に川上丈太郎、連絡部長に三輪寿壮、東亜部長に亀井貫一郎、制度部長に赤松克麿、議会局審査部副部長に河野密、議会局臨時選挙制度調査部副部長に浅沼稲次郎(部長は清瀬一郎)、同調査委員に平野力三等々旧社民党及び社会大衆党の面々が幹部として乗り込んでいった。

 ちなみにこの頃、右翼は「革新右翼」と「観念右翼」の2派に分かれて対立している。革新右翼は統制派と結びついた親独派でナチス流の一国一党を目指していた。一方、観念右翼の方は、純正日本主義を唱え、国体明徴を重視し、共産主義を最も嫌っており、ナチスやファシズムも国体に相容れないとしていた。

 その後の経過は次の通り。右派も左派も軍官僚も近衛イヤになり、なげやりな言動が目立つようになる。企画院(革新官僚)の作成した「経済新体制確立要項」を軍官僚や平沼騏一郎がアカ思想として攻撃し、革新官僚は治安維持法違反容疑で検挙される。こうして革新官僚も力を失う。近衛に国内の意見をを纏める力はもはや無く、戦争回避にむけたルーズベルト米大統領との会談も実を結ばず、近衛はやる気を失い辞職していくことになる。


 9.3日、米英防衛協定調印。


 9.13日、重慶攻撃。この時、27機の陸上攻撃機と13機のゼロ戦が漢口飛行場を発進して重慶へ向かった。上空で交戦となり、ゼロ戦が倍する中国機(ソ連製「I15」、「I15」)の全27機を撃墜するという戦果を挙げている。


 9.16日、米で選抜徴兵制公布。


 9.19日、支那派遣軍総司令部、桐工作(対重慶和平工作)の一時打ち切りを決定。


 9.22日、日・仏印軍事協定成立。この協定で、仏領インドシナ北部への日本軍進駐を仏国に認めさせた。


 9.23日、日本、北部仏印進駐。


 日本軍はただちに南進を開始、北部仏印を占領した。


 9.25日、米陸軍通信隊、日本海軍の暗号解読に成功。米、重慶政府に2500万ドルの借款供与。


「日・独・伊の三国同盟」を締結

 9.27日、松岡外相の音頭で「日・独・伊の三国同盟」を締結。

 「よって日本国政府、ドイツ国政府及びイタリア国政府は左の通り協定せり。第一条 日本国はドイツ国及びイタリア国の欧州における新秩序建設に関し、指導的地位を認め且つこれを尊重す。第二条 ドイツ国及びイタリア国は日本国のアジアにおける新秩序の建設に関し、指導的地位を認め且つこれを尊重す。第三条 日本国、ドイツ国及びイタリア国は前記の方針に基づく努力につき相互に協力すべきことを約す。更に、三締約国中何れかの一国が、現に欧州戦争又は日支紛争に参入し居らざる一国によって攻撃せられたるときは、三国はあらゆる政治的、経済的及び軍事的方法により相互に援助すべきことを約す」。

 10.8日、極東の米国人の引き揚げ勧告。


【「大政翼賛会」発足】

 10.12日、新体制準備会は、「大政翼賛会」に結実した。「挙国政治体制の確立」のため、既成政党が自主解党、新党設立の準備組織として「大政翼賛会」が発足した。総裁は総理の兼任ということになり近衛が就任した。但し、右翼から左翼までを集めた「革新」勢力の呉越同舟的な寄合い世帯であり、近衛首相もまた「本運動の綱領は大政翼賛、臣道実践というにつきる。これ以外には綱領も宣言も不要と申すべきであり、国民は誰も日夜それぞれの場において奉公の誠を致すのみである」と述べるなど掛け声倒れの代物でしかなかった。

 近衛演説は失望を誘い、後藤隆之助は、「もうこれで大政翼賛会は駄目だと思った。成立と同時に死児が生まれてきたのと同じだと思った」と回顧している。内部が一本化せず政党系の参加者は相次ぎ離脱。近衛も意欲を失う。最終的には「大政翼賛会」は内務省の補助機関に転落する。

 その後、内閣改造において近衛は、平沼を内相に迎え、側近の風見を追って、柳川を法相に据えた。彼らは翼賛会を一地方行政組織に改組することに躍起となり、一方で平沼内相は、「翼賛会は政治結社でない、公事結社である」と声明し、まったく死児どころか、死児の骨まで抜かれてしまった。近衛新体制は、当初の意図としては、まったく失敗した。


【「企業合同、トラストの結成」】
 三国同盟締結を契機として「企業合同又はトラスト」の結成が急速度に進行し、巨大資本による中小企業、新興財閥の整理が進められていった。大資本の論理は、物資の不足を企業統合により免れようとし、@・当該物資の生産企業と直接に結合し、これを支配する。A・より大なる物資の配給割当を獲得するために他の企業と結合し、その実績分の配給権を掌握する。B・事業の新設拡張が困難なため、他の企業を吸収合併する、というところにあった(中村静治「日本産業合理化研究」)。

 10.14日、ルーズベルト大統領、レインボー計画(陸海軍統合戦争計画)を承認。


 10.15日、松岡外相、グルー駐日米大使と会談。


 10.16日、米国、屑鉄と鋼鉄の対日輸出禁止。コーデル・ハル国務長官は、日本に対する屑鉄の輸出を禁止し、アメリカの対日締め付けが強化されていくことになった。このようななアメリカの動きに対して、英米協調を重ねて主張してきた西園寺は苦悩をかさねた。その中で、西園寺は逝去した。九十歳であった。


 10.30日、日ソ交渉開始


 11.6日、ルーズベルト、大統領に三選される。


 11月、アメリカが、中国の蒋介石政権への軍事援助開始決定。


 11.12日、ソ連のモロトフ外相がベルリン訪問。ヒットラー、リッペントロップと4回にわたって会談。この時、ヒットラーは「独ソが協力すれば収穫は大きく、対立すれば小さい。独ソが手を握れば世界無敵ではないか」、「新しい勢力圏の設定がまとまれば、4ヶ国は今後、百年どころか数百年の計を立てる事ができる」と「四国同盟案」の提携を持ちかけているが、モロトフ外相は応ぜず。


【御前会議で「支那事変処理要綱」が決定される】
 11.13日、御前会議で、日華基本条約案と「長期戦方略」への転換を定めた「支那事変処理要綱」が決定された。

 15年11月、企画院より「経済新体制確立要項」が提出される。これはより強力な戦時統制経済の確立を目指した内容。企画院原案では、・企業の公共化、・「指導者原理」にもとずく統制機構の確立・資本と経営との分離、・利潤の制限などが盛り込まれていた。これに対し自主統制を主張する財界が猛反発。右翼・内務官僚たちもこれに同調。この案をアカ思想の産物として激しく攻撃。近衛内閣内でも小林商工相の反対もあり、結局、軍部が間に入って資本と経営の分離を削除した上で12月7日に閣議決定される。

 このアカ攻撃は、この後内相に就任した平沼騏一郎(観念右翼)によってさらに強まり、翌年4月の「企画院事件」につながる。これは企画院原案に関与した革新官僚を、共産主義者だとねつ造して治安維持法違反容疑で検挙された事件。これにより企画院も力を失い軍部の御用団体と化す。

 「下意上達」だったスローガンも国体に背くとして「下情上通」に改められた。結局、新体制運動は目標だった強力な政治体制を作ることに失敗、ましてや軍を統制する力を持つことは出来なかった。しかもこれに対する国民の期待を利用して政党・労働組合などを自主的に解散させ、国民を完全に政治統制下に置く道を開いた形となった。

 11.30日、南京政府(汪兆銘政権)承認し、日華基本条約調印。


 12.5日、ウォルシュ司教、ドラウト神父、松岡外相を訪問。12月28日ウォルシュ、ドラウト帰米。


 12月、イギリスが、中国の蒋介石政権への軍事援助開始決定。


 12月、政府は、内閣情報局主導下に設立された日本出版文化協会に加入しない者には用紙の割当が受けられないことにした。これにより、言論統制がますます強化され、抵抗が踏み潰された。

 

 このころから政府の戦時経済政策の矛盾が、決定的になり始める。日本銀券の保証準備発行限度は10億円から、昭和13年4月に17億円に、昭和14年4月に22億円に拡張されている。公債を日銀に買わせているため、どうしても、この必要があった。それだけ「金」の裏付けの無い、インフレマネーが発行可能となっている。さらに物資不足もこれに追い打ちを掛け、不況の中で物価だけが高騰してゆく、悪性インフレが深刻な問題になってくる。

 この悪性インフレを押さえるため、政府は公定価格を決めインフレを抑えようとする政策を採る。昭和14年には価格統制令(九・一八ストップ令)が公布・施行。これは9月18日時点の価格で強制的に物価を固定すると言うもの。同時に地代家賃統制令・賃金臨時措置令・会社職員給与臨時措置令も公布・施行。地代・家賃・賃金・給与もストップあるいは統制下に置かれる。はっきり言って市場原理を全く無視した無茶苦茶な経済政策。ヤミ取引・買いだめ・売り惜しみが横行して国民生活がますます困難になる。

 この間に支那事変は拡大を続けており、昭和14年までに、ほぼ20個師団が新設され、中国には85万人の兵員が展開されている。これにより多くの成人男性が徴兵で兵役に取られる事に。このため拡大する軍需産業でも労働力不足が慢性化。兵隊と軍需産業に男子を取られた農業・軽工業・商業では女子労働力が増加。この事により農村までもが人手不足に陥る。さらに昭和14年は、朝鮮及び西日本が干害に見舞われており、米の生産が低下。食糧不足までもが深刻化する。

 ここで政府が取った政策は、「国家総動員法」に基づく、物資の生産・配給・消費統制の強化。昭和14年12月の木炭を皮切りに、昭和15年10月頃までには、生活必需品である米・麦・衣料品・砂糖・マッチ・練炭・大豆等々の配給統制が実施される。これによりヤミ取引がますます盛んになる。政府は経済警察を設立し取り締まるが全く効果なし。「物価のなかで動かぬのは指数だけ」と言われるほどの有様となる。この時点で日本経済は明らかに縮小再生産の過程を歩み始める。


【以降の流れは、「大戦直前の動き」の項に記す】





(私論.私見)


日本近現代史 http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/zibiki/ke.htm


憲政の常道」(けんせい−の−じょうどう)

 西園寺公望ら「奏薦集団」が戦前の政党内閣期(1924−1932)に積み重ねた、政権交代の慣例のこと。
 簡単に言えば、「ある内閣が倒れたとき、その後継として内閣を担当するのは野党第一党である」とする慣例である。
 しかし、内閣が倒れた理由が総理大臣のテロによる横死や病気などの場合は、政権交代は政党の間では起らない。政権交代が起るのは、その内閣が失政によって倒れたときだけである。
内閣名 政権与党 野党第一党 内閣総辞職理由
24 第一次加藤高明内閣 憲政会政友会・革新倶楽部 政友・革新閣僚による閣内不統一
25 第二次加藤高明内閣 憲政会 政友会 加藤首相病死
26 第一次若槻礼次郎内閣 憲政会 政友会 緊急勅令案否決
27 田中義一内閣 政友会 憲政会(民政党) 張作霖爆殺事件処理の不手際
28 濱口雄幸内閣 民政党 政友会 濱口首相テロで重傷
29 第二次若槻礼次郎内閣 民政党 政友会 安達内相による閣内不統一
30 犬養毅内閣 政友会 民政党 五・一五事件による犬養首相横死
 犬養首相がテロで倒れたとき、「憲政の常道」原則によれば次は政友会内閣が来るはずであった。
 ところが内閣奏薦の任に当たる西園寺公望は、憲政の常道原則にとらわれず、中間内閣を奏請することによって状況の改善を企図する。西園寺にとって「中間内閣」はあくまでも緊急避難的な措置であった。しかし結局、戦前期において再び政党内閣が復活することは、なかったのである。

元老」(げんろう)

 明治維新とそののちの近代国家建設にあたって功績のあった、政界最長老のことを言う。
 一般にはそのメンバーは、伊藤博文山縣有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨西郷従道、大山巌、西園寺公望の八名で、場合によっては桂太郎を加えることもある。西園寺以外はいずれも薩長藩閥の出身者で、内閣制度発足当時はこれらの人々がかわるがわる出て、薩長間のバランスを崩さぬよう、組閣と施政にあたった。
 では、元老の資格とはなんであろうか。もともと元老とは、法的規定のあった存在ではなく、最初にマスコミが言い始めたものであった。上の八名の中で特に別格と見なされていたのは、伊藤博文であったが、彼に対する天皇の親任は殊の外篤く、彼が枢府議長の職を辞すると、天皇から前官礼遇と元勲優遇の特別の勅書が降った。のち、黒田清隆が首相を辞すると黒田にも同じ勅諚が、また明治天皇薨去ののち、踐祚した大正天皇は、山縣、井上、大山、桂の五名に対して、また西園寺に対しても別個に重臣優遇の勅諚を下した。
 この「元勲優遇」「重臣優遇」の勅諚が、元老と見なされる資格の一つであったことはおそらく間違いないが、もう一つの事実上の資格とは、「元老会議」とマスコミ一般に呼ばれた、次期首班選考会議に出席できたか否か、ということにあると思われる。桂は第三次桂内閣の後継首班選考に出席したが早々に中座し、その後会議に参加することなく死去したため、元老として見なしがたいのではないかと私は考える。

 さて、元老は、補充されない。明治の御代に死んだ黒田、西郷、伊藤ののち、元老の勢力は第一次護憲運動によって衰退する。官僚閥を形成し、その頂点にいた山縣の影響力が桂新党(立憲同志会)設立によって減殺されると、最大の影響力を持つ山縣元老は、政党首領である原敬を、次期首班に推さざるを得なくなる。
 また、その山縣の死に前後して、大山と松方が死ぬと、西園寺が唯一の元老となったが、彼は元老を再生産する意志はなく、むしろ山本権兵衛、清浦奎吾などの準元老たろうとする動きを封殺し続けた。そして西園寺は、宮中と協力して天皇に後継首班を奉答するシステムを作り上げたが、それも「憲政の常道」原則、また政党政治の終わりと同時に凋落していった。
 西園寺は自分の死去後のシステムを模索していき、ついに奏薦制度自体を内大臣を中心とする宮中に移して、元老の下問奉答慣例を廃止に持ち込んでいった。昭和十五年、西園寺死去。ここに元老は消滅した。