428212 大戦直前の動き

 【以前の流れは、「大戦前の動き」の項に記す】
1941(昭和16)年の動き

 (この時代の総評)


 陸軍が「一式戦闘機(俗称、隼はやぶさ)」を完成。続いて、「二式戦闘機(俗称、鐘き(しょうき)」、「三式戦闘機(俗称、飛燕(ひえん)」以下「五式戦」へと開発していくことになる。


 初頭、山本五十六が広島湾の柱島泊地に停泊する連合艦隊の旗艦長門に大西滝次郎以下の部下を呼び、真珠湾攻撃構想を打ち明けている。「それは私の信念だ。そう投機的、投機的というなよ」と説得している。1.21日、及川海相にこの真珠湾奇襲計画構想をしたためた意見書を送っている。この情報が駐日ペルー公使に漏れ、1.27日、ハル国務長官に極秘電されている。


 1.8日、米全艦隊を太平洋・大西洋・アジアの三地域に編成替え。


 1月、大本営陸軍部会議は、「大東亜長期戦争指導要綱」と「対支長期作戦指導計画」を採択した。前者は好機を捉えて南進策をとるとともに、対ソ戦準備を促進し、中国では解決見込み無き場合に長期持久態勢に転移する、などを定めていたが、対ソ戦準備は15年の「時局処理要綱」に抵触していた。


 1.30日、日本の調停によりタイ仏印停戦協定調印。


 2.3日、対独伊ソ交渉案要綱を決定。


【「野村・ハル会談」】
 2.11日、野村吉三郎駐米大使ワシントンに着任、日米交渉が本格化。

 ハル・ノートを起草したのは、ハリー・D・ホワイトと云われている。彼は、英国のケインズと論争して戦後国際通貨体制を築いた米国人で、国際通貨基金の初代理事長を務めている。彼はその後、赤狩り旋風の最中でソ連のスパイと疑われ、調査中に急病変死している。彼の容疑は定かではない。

 3.8日、第一回目の野村・ハル会談。3.14日、第二回目の野村・ハル会談。

 3.17日、「日米協定草案」起草。

 3.23日、松岡外相、スタインハート駐ソ米大使と会談。

 4.9日、野村大使、日米交渉のための第一次日本案を提出。


 2.28日、ブルガリアが三国同盟に加入。


 3.11日、米で武器貸与法成立(英国援助を強化)


 3.12日、松岡外相、ソ連経由で、同盟成立慶祝を名目として独伊訪問に出発。ヒトラームッソリーニと首脳会談を行い大歓迎を受ける。帰途モスクワに立ち寄る。


 3.25日、ユーゴスラビアが三国同盟に加入。しかし翌日の3.26日よりクーデターが発生し、三国同盟に加入した政府が打倒された。ソ連の工作であった。松岡外相がベルリン訪問中の事件であった。


 4.5日ソ連がユーゴと友好不可侵協定締結。4.6日、ヒットラーがユーゴ攻撃を下令、4.17日、降伏させた。


 4月、日本でも原爆研究が始まる。


 4月、政府は日本銀行法を改定。日銀券の正貨準備発行と保証準備発行の区別を廃止。大蔵大臣の決めた限度額(当時、47億円)まで発券出来ることにした。これで金準備から解放されて、日銀券は完全な管理通貨となり、政府の思うままに発券できることになった。


「日ソ中立条約」締結

 日本の関東軍とソ連軍が満州とモンゴル国境で衝突したノモンハン事件以降、日本軍部の対ソ強硬論が後退し、南進論が登場してきた。極東の安定を求める日本とソ連の利害が一致し、領土不可侵条約の成立に向かうことになる。

 4.13日、外務大臣・松岡洋右がモスクワを訪問し、ソ連の最高指導者スターリン及び外務人民委員・モロトフと数度にわたる会談を行い、難産の末「日ソ中立条約」を締結した。有効期限5年(1946.4.13日まで)という期間限定の二国間条約であった。

 同条第一条「両国は相互に他方の領土の保全と不可侵性とを尊重する」、第二条「一方が第三国からの『軍事行動』の対象になった場合、他方はその紛争の全期間を通じ、『中立』を守ることを約す」、第三条「有効期間を5年と定め、その期間満了一年前、いずれか一方から廃棄通告がなければ、さらに5年間自動的に延長される」等々規定していた。これにより、ソ連はドイツとの、日本は中国及び米英軍を敵国とする体制にシフトしていくことになった。

 スターリンにとっても、対ドイツ戦に集中したく「渡りに船」であった。条約調印後の小宴会で、スターリンは、日本大使館付き海軍武官に対し「これで、日本は安心して南方へと進出できよう」と述べている。日本側代表団がモスクワを離れる際に、スターリン自ら駅まで見送り、松岡外相と抱き合うそぶりを見せ、双方の関係者を驚かせている。スターリンが外交上でこのような態度を見せるのは、あとにも先にもこの一度きりだった。スターリンの喜びのほどが知れる逸話である。

 しかし、実際には1945.2.11日のヤルタ協定で、ソ連が「ドイツが降伏しヨーロッパの戦争が終了してから2ヶ月又は3ヶ月後に米英に加担して対日戦争に参加する」と誓約したので、反故にされることになった。

 このことはソ連の外交史上の汚点であり、「ソ連は日本に対しては日本とは戦争しないと約束しながら、米英に対しては日本との戦争に参加すると、相互に両立しない二つの約束を、二つの異なった相手方と結ぶという背信的行動をとった」(田村孝策「ソビエト外交史研究」)と評される事になった。

 この時の付帯事項で、日本側が独立国として承認していなかったモンゴル(外蒙古)とソ連側が未承認であった満州国を、それぞれ独立国として承認し、相手側領土の保全と満蒙の相互不可侵を謳った声明書も手交された。

 シベリア鉄道で帰京する際には、異例なことにスターリン首相自らが駅頭で見送るという場面もあった。この時が松岡外交の全盛期であった。この後、松岡洋右は対米交渉を巡って近衛と対立していくことになる。
 


【「続野村・ハル会談」】
 一方松岡のこの外遊中、日米交渉に進展が見られていた。駐米大使野村吉三郎と米国務長官コーデル・ハルの会談が繰り返されていた。

 4.14日、第3回目の野村・ハル会談、米の対中国三原則が示される。

 4.16日、日米交渉再開始。

 4.16日、ハル国務長官、野村大使に日米交渉の四原則「日米了解案」を提示同案には、日本軍の中国大陸からの段階的な撤兵、日独伊三国同盟の事実上の形骸化と引き換えに、アメリカ側の満州国の事実上の承認、日本の南方における平和的資源確保にアメリカが協力すること、が盛り込まれていた。なお、この諒解案そのものは日米交渉開始のため叩き台に過ぎなかったが、これを「米国側提案」と誤解した日本では、最強硬派の陸軍も含めて諸手を挙げて賛成の状況であった。


【松岡外相が「日米了解案」に猛反対する】

 4.22日、意気揚々と帰国した松岡は、「日米了解案」に猛反対する。自らが心血注いで成立させた三国同盟を有名無実化させること、そして外交交渉が自分の不在の間に頭越しで進められることを松岡の自尊心は許さなかったとの評がある。


【「続野村・ハル会談」】

 5.12日、野村大使、ハル国務長官に修正案を提出し、日米交渉再開始。

 5.27日、ルーズベルト大統領、国家非常事態・臨戦態勢を宣言。

 5.31日、米側「中間案」を提示。

 6.21日、ハル国務長官、5.31日の米側「中間案」の修正と松岡外相を非難するオーラルステートメントを野村大使に手渡す。


 6.5日、海軍の国防政策委員会は、「現情勢下において帝国海軍の執るべき態度」をまとめ、タイ・南部仏印への南進強行を決定した。こちらも「時局処理要綱」を一歩踏み出していた。


 6.12日、日ソ通商協定・貿易協定成立。


 6.14日、ルーズベルト大統領、独伊の在米資産凍結を命令。


【突如、独ソ開戦】
 6.22日、ヨーロッパで独ソ開戦。ヒトラー率いるドイツ軍が、300万の将兵を投入してソ連への軍事侵攻を開始した。

 


【「政府・大本営連絡会議」開催】
 独ソ開戦により、松岡のユーラシア枢軸構想自体、その基盤から瓦解することになった。松岡は締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦することを閣内で主張し、また対米交渉では強硬な「日本案」を米国に提案するなど、その外交施策も混乱を招くこととなる。日米交渉開始に支障となると判断した近衛首相は松岡に外相辞任を迫るが拒否。

 日本は、日独伊三国軍事同盟と日ソ中立条約の板ばさみに遭い、外交上難しい決断を迫られることになった。独ソ開戦から三日後の6.25日以降日本政府と軍の首脳は「政府・大本営連絡会議」と呼ばれる戦略会議を連日開催し、意見を戦わせている。北進派(参謀本部・田中新一作戦部長ら)はこの機に乗じてのソ連攻撃を主張し、南進派(軍務課長・佐藤賢了、作戦課長・土居明夫ら)はむしろこの機会を利用して蘭領インドネシアを含む南方地域への軍事進出方針を持ち出した。この時の南進派は「熟柿戦略論」(一定の軍事力を満州の対ソ国境に待機させ、独ソ戦の帰趨を見る)を唱えていた。

 7.1日、独伊、汪兆銘政府承認。


【第1回御前会議で「情勢の推移に伴う帝国国策遂行要領」が決定される】

 7.2日、第1回目の御前会議開催。出席者は次の通り。政府側として、近衛首相、平沼内相、松岡外相、東条陸相、及川海相、鈴木企画院総裁。他に、杉山参謀総長、永野軍令部総長、塚田参謀次長、近藤軍令部次長、原枢密院議長、武藤陸軍軍務局長、岡海軍軍務局長、富田書記官長。

 第三次近衛内閣は対米戦を回避しようと画策したが功を奏せず、「政府・大本営連絡会議」を御前会議として開き、「情勢の推移に伴う帝国国策遂行要領」を決定した。日本の戦略方針についての最終決定的な意味合いがあったが、陸海軍の部局長によってまとめられたその内容は、「南方進出の歩を進め、又情勢の推移に応じ北方問題を解決す」、概要「当面は独ソ戦に介入せず、南方進出策を押し進める。予想されるアメリカとの衝突に対しては『対米英戦を辞せず』との基本方針が固められた」というものの、それ以上踏み込んでおらず、「熟柿戦略論」を漠然と述べているだけの内容であった。

 以後、9.6日、11.5日、12.1日と開かれ、次第に対米栄開戦を最終決定していくことになった。


 7.2日、重慶政府、独伊と国交断絶


 7.2日、関特演発動。 


【「関特演」作戦稼動し始める】

 7.5日(7.4日夜との説もある)、陸軍大臣・東条英機は、「熟柿戦略論」の具現化を前提とした予備的な兵力動員案を承認し、7.7日上奏され、裁可される。この頃より、「熟柿戦略論」に代わる「渋柿戦略論」(ソ連に対する先制攻撃論)が台頭していく。

 7.7日、国策要綱に基づき、陸軍は、第一次動員を発令し、「関特演」と称して満州に大量の兵力と武器爆薬を輸送した。7.13日、関東軍増強の為の内地での第一次動員開始。7.16日、第二次動員が始まる。

 参謀本部の計画では、8.29日前後を独ソの開戦日として設定し、極東ソ連軍のヨーロッパ戦線への移送による手薄状態を見計らって、対ソ開戦に踏み込むというものであった。しかし、日本側が期待したほど大規模にされておらず、日本軍の満州駐留兵力の増強がソ連側に知られるところになり、火事場泥棒的な日本政府のやり方の国際的威信が低下していった。


【アメリカがOSS構想発令する】
 7.11日、ルーズベルト大統領が、コロンビア大学時代の級友のウィリアム・ドノヴァン大佐(のち少将)に、中央情報局と秘密謀略活動を兼ねた機関としての中央情報機構COIの立案を命じた。1941.12月には600名の要員を確保し、1200万ドルの予算を獲得した。1942.6月、OSS(office of strategic service)が組織されることになる。

 7.12日、英ソ相互援助協定調印。


 7.15日、日米了解案をめぐり松岡外相と近衛首相が対立。


第二次近衛内閣第三次近衛内閣

 7.16日、閣内不統一で第二次近衛内閣総辞職。もともと松岡洋右外相を除くための総辞職であったから、近衛に組閣の大命が降下することはほぼ確実な形勢であった。そして果たして大命は再降下し、松岡外相をはずした上で近衛第三次内閣が成立する。

 7.18日、結局、外相・蔵相が交代しただけの第3次近衛内閣成立。外相には海軍から豊田貞次郎大将が就任。陸軍大臣・東條英機、海軍大臣・及川古志郎

 この内閣の最大の課題は、日米交渉となった。


「仏印進駐」開始

 7.21日、日・仏印防衛協定成立

 7.23日、背後に憂いの無くなった日本軍が「仏印進駐」開始。


アメリカが在米日本資産を凍結、対日石油禁輸政策措置を執る

 7.25日この報復措置としてアメリカ・ルーズベルト大統領は、在米日本資産を凍結。海軍中将豊田貞次郎商工商は、この凍結が対日石油禁輸であることを直ちに了解し困惑したが、当時の頭の堅い他の閣僚には事態がよく理解できなかった、とある。昭和15年7月26日、アメリカは石油・屑鉄を輸出許可制とする。7月31日には航空機ガソリンの西半球以外への輸出禁止。アメリカの対日経済制裁が始まる。

 7.26日、英がアメリカの動きに同調し、国内の日本資産凍結および日英通商航海条約、日・印通商条約、日本ビルマ間通商条約を破棄した。蘭印政権が在留邦人の資産凍結を布告した。


 7.28日、南部仏印進駐。

 ノモンハン事件でソ連との交戦(北進論)いを諦めた陸軍内部には、戦略物資確保のため東南アジアに進出するという考え(南進論)が出てくる。すでに長引く中国との戦争で、日本の戦略物資のストックはほとんど底をついている。石油・ゴム・スズ・鉄などの戦略物資は日本ではほとんど産出しない。しかし欧米の植民地である、マレー半島・インドネシアではこれらは豊富に産出する。早い話、南進論とはヨーロッパで戦争をしているうちに、欧米の植民地であった東南アジアの資源地帯を奪ってしまう、という火事場泥棒的考え。これでは植民地宗主国のアメリカ・イギリス・オランダとの衝突は必至。


米英により「ABCD包囲陣」形成される

 8.1日、アメリカはさらに対日石油輸出を全面停止措置を取った。イギリス・オランダもアメリカの動きに同調。対日資産の凍結を発表。イギリスは日英通商条約の破棄を通告。オランダも日本資産の凍結と石油協定の停止を発表。俗に言う「ABCD包囲陣」(アメリカAmerica ・イギリス Britain・中国 China・オランダ Dutch)による対日経済制裁包囲網が完成する。

 8.2日、米、ソ連へ計107億ドルの武器、経済援助を決定。

 当時の日本の貿易は、アメリカに生糸・絹織物、中国とイギリス植民地(マレー半島・インド等のアジア植民地)に繊維製品・雑貨等を輸出し、その外貨をもとに、綿花をアメリカ・中国、石油をアメリカ・蘭印(オランダ植民地のインドネシア)、鉱石類を中国・イギリス植民地、機械・化学工業製品をアメリカ・欧州から輸入していた。昭和14年における対米英圏(イギリス本土をのぞく)貿易は貿易総額の43.9%(輸出34.8%、輸入55.8%)を占めている。

 すでにこの時点に至までに、日中戦争による予想外の物資消耗のため、巨額の貿易赤字が発生し、ストックも底をついている。このため対日経済制裁は、日本経済のアキレス腱を切る形になった。これにより日中戦争の継続すら困難になる。すなわち日本経済は歩行すら困難な状態に陥ったのである。

 「この間、米英蘭は40年に航空機用ガソリンやくず鉄などの対日輸出を禁止し、41年には石油の全面禁輸を実行するなど「ABCD包囲網」による対日圧力を強めていた。又米英は中国.国民政府を支援し、日中戦争は泥沼的長期化様相に突入することとなった」と纏められている。

 ここにいたり、対英米戦に消極的だった海軍までも主戦論者が主流になる。海軍では、艦船・航空機の運用のため、石油・鉄鋼等の戦略物資の重要度が陸軍よりも遙かに高かった。以降、永野修身海軍軍令部総長の昭和天皇への説明より。「戦争は出来る限り避けるべきでありますが、三国同盟がある以上は、日本とアメリカの関係を調整することは不可能であると存じます。日本には、今2年分の石油しかありません。戦争になれば、1年半で消費してしまうと思われますので、この際,打って出るしかない、と考えます」。


 8月、中国で、アメリカ空軍の退役軍人シェンノート大佐を補佐官とする中国戦線の義勇航空隊フライング・タイガースが正式に米陸軍航空隊に編入される。


日本の懸命な外交交渉実らず

 近衛は、米国ルーズヴェルト大統領との頂上会談によって事態の打開をはかろうと試みた。近衛とルーズヴェルトの間を周旋したのは、駐日米大使ジョゼフ・グルーである。滞日十年の知日家グルーは、「国粋主義者と狂信者を除けば、多くの日本人は、日本のメンツが立つような合意ができて、決められたスケジュールに従って中国や東南アジア(満州は別にしても)から撤兵できることを心から望んでいる」 と考えていた。そして、ルーズヴェルトも、野村吉三郎大使に、「ホノルルは日程的にむりだが、アラスカのジュノーなら日程的に可能だ」、「近衛公と三日か四日を共に過ごすことに非常に関心がある」と述べていた。そのワシントンが豹変したのは、グルーの秘書官であったロバート・フィアリーによれば、ハル国務長官の極東問題顧問スタンレー・ホーンベックがハルを強く説いたためであるという。

 近衛は、グルーとともに日米戦争回避のために尽瘁した。現存していないが、フィアリーが確かにその存在を証言しているグルー・レポートは、近衛が中国・インドシナからの期限付き撤兵や、米独戦争が起っても日本はドイツに荷担しないこと、そして撤兵完了後はアメリカと日本のあいだに新しい通商条約と航海条約を設定するなどの条件を示した上で、これが合意に至った暁には、政府・軍首脳部がこの条約に同意である旨を詔勅を得てラジオ放送する積もりであったという。

 しかし、もはや対日宥和政策をとらないことを決したアメリカは、これに冷淡に対応してもまったく問題なかった。ハル国務長官は野村大使にそのように対応し、近衛を失望させた。日米戦争回避の望みは、露と消えた。


【「続続野村・ハル会談」】
 8.8日、野村大使、ハル国務長官に日米首脳会談(ハワイ会談)開催を提案。

 8.17日、野村、ルーズベルト大統領会談。対日警告文と首脳会談に対する回答が伝えられる。
 8.18日、豊田外相、グルー会談。
 8.28日、野村大使、ルーズベルト大統領に日米首脳会談を申し入れる。

 この頃、中国問題・仏印進駐問題を巡り日米交渉が続けられていた。何とかアメリカとの戦争を避けたい近衛首相、昭和16年8月、ルーズベルト大統領とのホノルルでの日米首脳会談を提案。昭和天皇もこれに賛成し会談の準備が進めれる。

 しかしアメリカ側のルーズベルト大統領と交渉担当のハル国務長官は、既に近衛では軍部を押さえられない、戦争は避けられないと判断、すでに腹を決めていた。このため交渉条件には日本軍の中国・仏印からの即時撤兵という、日本政府に対して極めて厳しい要求が出る。

 この要求に対して、東条陸相が強行に反対。中国からの撤兵は、戦死した将兵の霊に対して申し訳が立たないというわけ。軍部を押さえきれない近衛首相がこの要求を呑めるはずもなく、ルーズベルトとの会談も流れる。10月16日、近衛はこれに絶望して内閣総辞職。

 この時に近衛は鈴木貞一企画院総裁に、「頭を丸めて坊主になりたい心境だ」と言ったほど。天皇に提出した近衛の辞表も、東条陸相があまりに強硬ななため、首相の役を果たすことが出来なくなった、と書いたかなり型破りなもの。(普通は、こういう場合の辞表は、形式的なものが慣例)この辞表は陸軍情報局が圧力を掛け、国民に発表されることは無かった。


 8.12日、ルーズベルト大統領とチャーチル首相が共同で大西洋憲章を発表。


【「関特演」作戦中止決定】
 8.1日、以降、「対ソ渋柿戦略論」が退いていく。陸軍の作戦に海軍首脳部が強い抵抗を示したことによる。8.4日、「ソ連側が中立条約を破って日本を攻撃しない限り、日本も中立条約の義務を守る」との文面を盛り込んだ政府方針「対ソ外交交渉要綱」が連絡会議で採択された。これにより、「対ソ渋柿戦略論」が封印されることになった。翌8.5日、その内容が在日ソ連大使スメターニンにも伝達された。

 8.9日、参謀本部は、当面の戦略方針「帝国陸軍作戦要綱」を作成し、関東軍の任務を「在満・鮮16個師団で対ソ警戒を厳重にする」との満州防衛戦略に転換させ、対ソ戦の発動を断念した。残るは、海軍の主張してきた南方進出論となったが、それは対米英戦争を意味していた。

【この頃の天皇と幕僚の遣り取り】

 9.2日、陸海軍部局長会議で「帝国国策遂行要領」の陸海軍案を策定。

 9.3日、大本営政府連絡会議で「帝国国策遂行要領」討議された。この頃、昭和天皇は杉山元参謀総長を呼んで次のような遣り取りをしている。「絶対に勝てるか」、「絶対とは申しかねます。しかし勝てる算のあることだけは申し上げます。必ず勝つとは申し上げかねます」。


【「続続続野村・ハル会談」】
 9.3日、米側が日米首脳会談について事前討議の必要を回答。

 9.4日、野村大使、新たな「共同声明」を申し入れる。


 さて、アメリカの対日石油禁輸によって、いままで強硬な戦争論者であった陸軍に加えて、海軍もこれに与した。 海軍の艦艇は、当然の事ながら石油がなければ動かない。このままでは国内備蓄の石油が底を尽き、にっちもさっちも行かなくなるためである。また、アメリカと日本の国力、建艦能力でゆけば、懸絶している。事態の推移を座して見守れば、力関係は一層懸隔するであろう、というのが海軍の見通しであった。

 
永野修身軍令部総長はこのような背景をもとに、天皇に上奏して曰く、「日米国交調整が不可能になって油の供給源を失うとなれば、二年間分の貯蔵量を有するのみであり、戦争となれば一年半で消費してしまう。むしろこの際打って出るほかなし」 と言っている。天皇は果たして陸海軍部が出師準備を整えていることに危惧をおぼえ、九月五日、近衛首相に「これを御前会議で下問してよいか」と訊ねると、近衛は、御前会議の場でのご下問はおもしろからず、いま此処で両統帥部総長をお召しになって御下問あそばされるやいかん、との旨を答え、両総長が呼ばれることになった。 以下、近衛の手記による。余とは近衛自身のことである。

 御前会議前日、余は参内して議題帝国国策遂行要綱を内奏した処、陛下には
「之を見ると、一に戦争準備を記し、二に外交交渉を掲げてある。何だか戦争が主で外交が従であるかの如き印象を受ける。此点に就て明日の会議で統帥部の両総長に質問したいと思ふが・・・」
 と仰せられた。余は之に対し奉り、
「一二の順序は必ずしも軽重を示すものに非ず、政府としては飽まで外交交渉を行ひ、交渉がどうしても纏らぬ場合に戦争の準備に取りかかるといふ趣旨なり」
と申上げ、尚
「此点につき統帥部に御質問の思召あらば、御前会議にては場所柄如何かと考へられますから、今直に両総長を御召しになりましては如何」
 と奏上せしに
「直に呼べ尚総理大臣も陪席せよ」
 とのお言葉であった。両総長は直に参内拝謁し、余も陪席した。陛下は両総長に対し、余に対する御下問と同様の御下問あり、両総長は余と同じ奉答した。
 続いて陛下は杉山参謀総長に対し、
「日米事起らば、陸軍としては幾許の期間に片付ける確信ありや」と仰せられ、総長は「南洋方面だけは三ヶ月位にて片付けるつもりであります」
 と奉答した。陛下は更に総長に向はせられ、
「汝は支那事変勃發当時の陸相なり。その時陸相として『事変は一ヶ月位にて片付く』と申せしことを記憶す。しかるに四カ年の長きにわたり未だ片付かんではないか」
 と仰せられ、総長は恐懼して、支那は奥地が開けており予定通り作戦し得ざりし事情をくどくどと弁明申上げたところ、陛下は勵聲壱番、総長に對せられ
「支那の奥地が広いというなら、太平洋はなほ廣ひではないか。如何なる確信あつて三月と申すか」
 と仰せられ、総長は唯頭を垂れ答ふるを得ず、此時軍令部総長助け船を出し
「統帥部として大局より申上げます。今日日米の関係を病人に例へれば、手術をするかしないかの瀬戸際に来て居ります。手術をしないでこの儘にしておけば段々衰弱してしまふ虞があります。手術をすれば非常な危険があるが助かる望みもないではない。その場合、思ひ切って手術をするかどうかといふ段階であるかと考へられます。統帥部としてはあくまで外交交渉の成立を希望しますが、不成立の場合は思切つて手術をしなければならんと存じます。此の意味でこの議案に賛成して居るのであります」
 と申し上げた処、陛下は重ねて、
「統帥部は今日の処外交に重点を置く趣旨と解するが、其通りか」
 と念を押させられ、両総長共其通りなる旨奉答した。

                                                        (「平和への努力」85-87頁)

第2回御前会議で「帝国国策遂行要領」が決定される
 9.6日、2回目となる御前会議が開催された。出席者は次の通り。政府側として、近衛首相、田辺内相、豊田外相、東条陸相、及川海相、小倉蔵相、鈴木企画院総裁、左近司政三・商工相。他に、杉山参謀総長、永野軍令部総長、塚田参謀次長、伊藤軍令部次長、原枢密院議長、武藤陸軍軍務局長、岡海軍軍務局長、富田書記官長。

 「帝国国策遂行要領」が決定された。
 「一、帝国は、自存自衛をまっとうするため、対米・英・蘭戦争を辞せざる決意のもとに、概ね10月下旬を目途とし、戦争準備を完整す」、二、帝国は右に並行して、米・英に対し外交の手段を尽くして、帝国の要求貫徹に努む」、「三、前号外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては、直ちに対米(英蘭)戦争を決意す」。

 関東軍の防御戦略への転換、南方での英米両国との武力衝突を念頭に置いた戦略が正式決定された。こうして対米英戦争に向けて、開戦準備が実質的に動き始めた。

 この文を読めば、確かに天皇の危惧の通り、まるで戦争準備完整が第一義的であるような印象を受ける。そこで、これを不審に思った原嘉道枢密院議長が、「外交交渉が主であるのか、戦争準備完整が主であるのか、伺いたい」と発言したところ、海軍大臣のみが答弁して両統帥部総長は黙っていた。天皇はここで、「ただいまの原枢相の質問はまことにもっともと思う。これに対して統帥部がなんら答えないのははなはだ遺憾である」 と言い、その上であらかじめ懐中に持っていた明治天皇の御製(明治天皇が自ら詠まれた詩)、「四方の海 みなはらからと思う世に など波風の立ち騒ぐらむ」を二度読ませられ、「余は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せんと努めておる(自分の心に言い聞かせている)ものである」と言った。

 陸海軍主戦派は、まさに震駭した。東條陸相は、「聖慮は平和にあらせられるぞっ」と、佐藤賢了秘書官に叫び、杉山元参謀総長は青ざめた顔を小刻みにけいれんさせていたという。しかし、天皇のこの発言によっても、ついに御前会議の決定は原案通り決定された。
 この時の御前会議の内容が駐日米国大使・ジョセフ・グルーにリークされていたことが判明している。更に、別系統でソ連の内務人民委員部(NKVD)に伝わり、ベリヤからスターリン、モロトフ外相へと伝えられていたことが明らかとなっている。

「帝国国策遂行要領」決定がソ連に打電される
 ゾルゲをはじめとする内外の諜報員が、「帝国国策遂行要領」もの内容を逸早くソ連に打電している。スターリンは、これで日本軍の北進の可能性が遠ざかったことを確信し、極東軍の精鋭部隊をヨーロッパ戦線への追加移送を命令している。9月初旬の段階で、満州の東西に位置する極東方面軍と外バイカル軍管区には併せて24個師団が配備されていたが、10.1日から31日までの間に相当兵力が移動している。実際に、モスクワの首都攻防戦、レニングラード攻防戦で重要な働きを見せている。

 9.13日、政府・大本営連絡会議で「日・支和平基本条件」を決定。 


 9.23日、日本軍は北部仏印に進駐。(仏印は今のベトナム。当時ドイツに占領されたフランスの植民地で、フランスのドイツ傀儡政権の許可を受ける形で進駐)。これに対してアメリカは、太平洋の平和を乱すとして激しく日本を非難。


【「日独伊三国同盟」調印】

 9.27日、松岡洋右外相の活躍で、「日独伊三国同盟」調印。

 この間、松岡外相の動きはきわめて活発である。松岡の構想は、まず日独伊三国同盟によって三国間の関係緊密化を図り、同時にドイツが不可侵条約を結んでいるソ連と友好関係を樹立することによって、米英の圧力に抵抗し、日本周辺の問題解決を図ろうとするものであった。松岡外相はかなり精力的にドイツを打診したが、ドイツはソ連を加えた協商案に賛意を示さなかった。ドイツの腹には、既にソ連奇襲作戦(バルバロッサ作戦)があったのである。
 そんなこととは露知らぬ松岡は、ドイツを離れ、一時四国協商案を凍結させ、ソ連には不可侵条約、さらに中立条約を持ちかけた。渋ったソ連も、これを遂に受け入れ、日本は満洲における利権を、ソ連はモンゴルにおける利権を、それぞれ承認しあう恰好になった。松岡はこの日ソ中立条約を締結したことによって国内の喝采を浴びたが、帰国するや突然不機嫌になる。その理由は、松岡が仮想的とみなしていたアメリカとの間に、交渉が開始され、それが日本の主観的には、かなり有望になりつつあったからである。

 主観的には、というのは、それはアメリカ政府から直接の交渉ではなく、間にキリスト教会を挟んでいたし、また、提示された「日米諒解案」には本来ならハル国務長官の四原則(各国の領土保全と平和尊重、他国への内政不干渉、通商上の機会均等を含む平等の原則、平和的手段によるほか、太平洋の現状を変更せざること)を示したが、それがきちんと日本政府に伝わらなかったことである。
 そうこうしている間に行き違いが次々生じ、また松岡外相も苦虫をかみつぶしたようにこの日米諒解案を見ていた。そこで起ったのが、松岡の曲芸外交を根底から覆す、独ソ戦の開始である。

 ナチス・ドイツは六月二十二日、突如東方国境を突破、ソ連領内に進入した。
 兼ねてからドイツはソ連の勢力下にあった東欧への食い込みを強めており、その軋轢が高まった上での開戦であった。しかし、松岡としてはこれはまさに青天の霹靂であったし、彼の外交世界が音を立てて崩れたも同様であった。

 松岡はただちに参内、天皇に、日ソ中立条約を破棄して満洲から極東ソ連、イルクーツクまで攻め入ることを進言して天皇を驚かせた。「昭和天皇独白録」によれば、天皇はこれに驚き、近衛に対して「こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷めるように言った」とあり、近衛はついに松岡外相を外すために内閣刷新を理由に総辞職を敢行した。


 10.1日、対ソ援助のための米英ソ議定書調印。


 10.2日、米側、強硬な「覚書」を提示。


【ゾルゲ事件発生の前哨戦】
 10.10日、画家の宮城与徳が逮捕され、これが「ゾルゲ事件」発覚に繋がる。10.15日尾崎秀実が逮捕される。これが第三次近衛内閣崩壊の引き金となる。

 10.12日、対米和戦の会議が近衛別邸で開かれるが、陸相(東條英機)の不同意で未決。


 10.14日、第3次近衛内閣は日米交渉を打開できず遂に内閣総辞職。次の首相を決める重臣会議が開かれるが、陸軍を押さえきれる人選は難しく、結局、東条英機が現役陸軍中将(首相就任後、大将に昇進)のまま、首相・陸相・内相を兼ねる異例の内閣が誕生。陸軍を押さえきれるのは東条しかいないと判断されたため。アメリカと戦争するか、和平に持って行くかの決断を迫られ、アメリカとの交渉が続けられる。しかしアメリカ側では、強行派の東条が首相になったことで、日本は対英米戦戦争を決断した、と捉えられた。


 近衛はこのあと、十月十五日まで、苦しい日米交渉の道を探ったが、ついに妥結できず、野村吉三郎大使も、「日米交渉はついにdeadlockとなれる感あり・・・・」と本国外務省に打電。ついに十月十五日を過ぎても妥結ならなかった。陸軍は、はげしく近衛首相を突き上げたが、海軍は、しかし、対米戦争にみずから踏み切れる自信がなく、「近衛首相に一任」という態度をとった。近衛内閣はついに万策尽きた。近衛としては戦争に踏み込むことはどうしてもできなかった。東條陸相は、「人間たまには清水の舞台から飛び降りることも必要だ」 と語ったが、近衛はかぶりを振って、「人間なら人生の間にそういうこともあるかもしれないが、一億の国民と万邦無比の国体をもつ国家がやることではない」と反論した、すると東條は、「これは性格の相違ですなぁ」と、深々とため息をついた。 近衛はついに総辞職の道を選び、政権はなげだされた。近衛は、東條と合議の上、時局収集のために後継首班として皇族の出馬を願い出た。


 10.15日、ノモンハン国境協定調印


第三次近衛内閣東条英機内閣

 10.17日、当時右派 対米開戦の方針が出てからも、戦争を避けようと努力する近衛首相を、東条陸相は「それは方針を決める時にいうことだ。決まった以上は断固としてやり抜くしかない」と叱りつけ、八方塞がりとなった近衛は辞職した。

 この時、東条陸相は、概要「天皇の意を体して対米不戦政策を貫く内閣をつくるのなら、東久邇宮を措いてない」との考えから東久邇宮を次期首班に推している。しかし、木戸幸一内大臣が、概要「皇族を政治の担当者に据えないのは明治以来の不文律である。むしろ、東条陸相が組閣すべし」と述べ、東久邇宮内閣よりも東条内閣を指針させた。
 
 かくて、東条陸相は首班指名を命じられ、10.18日対米主戦派の東条英機陸軍大将内閣が電撃的に組閣し、開戦への道へ向かっていくことになった。東条は、首相、陸相、内相を兼任した。
 

 この頃、各関係組織では対英米戦になった場合の予想が立てられている。

企画院総裁  鈴木貞一(第三次近衛内閣国務大臣兼任・予備役陸軍中将)の御前会議(9月6日)での発言。英米の経済断行によって、「帝国の国力は日一日と其の弾撥力を弱化して参ることとなる」また武力行使をした場合には、「我が国の生産力は一時総じて現生産力の半ば程度に低下することが予想される。」
企画院事務当局  物動総務班作成、対英米戦時の経済予測(9月作成、17〜18年の物的国力規模の測定)この戦争を戦うためには、海上輸送力、すなわち船腹問題がカギであると言うことになったが、結局、「開戦の日から半年くらいまでは国力は低下を見るが、その後は上昇する」とかなり楽観的結論。これには4月の「企画院事件」の影響大。悲観論では反戦主義者の烙印が押され、逮捕されかねない。
陸軍  佐藤賢了軍務課長のアメリカ研究。アメリカの鉄鋼生産量は日本の10倍強。石油に至っては70倍。人口は2倍。しかしこうした数字を並べた後で、「数字の比較だけではありません。アメリカは多民族の寄せ集めで、愛国心なんて持っていません。兵隊もダンスはうまいが、鉄砲は下手です。それに皇軍には、比類無き志気がありますから」
海軍  作戦部長、福留繁の陸・海両軍局部長合同会議(9月6日)での発言。「アメリカとの戦争になれば、海軍は南方作戦に自身はない。1年目に船舶は140万トンが撃沈されるだろう。連合艦隊では、図上演習をしてみたが、3年目には、民需用の船は1隻も無くなってしまうという結論が出た」
海軍  連合艦隊司令、山本五十六長官の艦隊司令官会合(9月末)での発言。「日米戦は長期戦にとなることは明らかです。日本が有利に戦いを進めても、アメリカは戦いをやめることはない。そうなれば戦争は数年になり、資材は使い尽くされ、艦隊や兵器は傷つき、補充は大いに困難となり、ついにはアメリカに対抗し得なくなる」
海軍  軍令部総長、永野修身の政府と統帥部(陸軍参謀本部・海軍軍令部)の連絡会議(10月24日〜30日)での発言。「根本問題として言うなら、日本としては、対米戦争をするには、今がその機会である。これを逃したならば、開戦の機は二度と我々のものとはならない、戦って勝てるのは、今しかない。戦機は後には来ない。」(彼は運命論者だったらしい。)
 

【ゾルゲ事件発生】
 10.18日、リヒァルト・ゾルゲ、通信技師のマックス・クラウゼン、仏通信社「アパス」の記者・ブランコ・ド・ブケリッチが逮捕され「ゾルゲ事件」が摘発される。「ゾルゲ事件は、国際スパイ戦の面と、第三次近衛内閣崩壊から東条内閣誕生秘話に関わる面との両面から考察されねばならない、ということになる」。

【第3回御前会議で「武力発動の時期を12月初旬」とすると決定される】
 11.5日、第3回御前会議が開かれた。出席者は次の通り。政府側として、東条首相兼陸相、東郷外相、嶋田海相、賀屋蔵相、鈴木企画院総裁。他に、杉山参謀総長、永野軍令部総長、塚田参謀次長、伊藤軍令部次長、原枢密院議長、武藤陸軍軍務局長、岡海軍軍務局長、星野書記官長。

 「武力発動の時期を12月初旬」とするとした「帝国国策遂行要領」が決定された。対米交渉案(甲・乙案)と12月1日午前零時までに対米交渉成立の場合は開戦中止を決定、大本営は対米英蘭作戦準備を命令した。

 この時、天皇は、「大義名分をいかに考えるや」と質問し、東条首相が「目下研究中」と珍回答している。最後の決断は統帥者天皇の双肩にかかることになった。「帝国国策遂行要領」が御前会議にて承認される。内容は、一、武力発動の時期は12月初頭。二、対米交渉は別紙要領により行う。(11月30日を期限に対米交渉は続ける。これが成立すれば武力発動は中止。日本軍は直ちに南部仏印から撤退する)三、ドイツ・イタリアとの提携強化。四、武力発動の前にタイ国との間に軍事協力関係を作る。

この席で鈴木企画院総裁(東条内閣でも留任)は物的国力について次のような内容の発言をしている。「対英米戦の場合は、長期戦の性格を有するため、戦争の遂行に必要な国力の維持はなかなか容易なことではない。しかし座して相手の圧迫を待つことに比べれば、国力の保持上有利であると確信する」。

 11.6日、米、10億ドルの対ソ武器貸与借款を決定。


 11.7日、社会大衆党の幹部宮崎竜介は、日米開戦1ヶ月前の座談会(今西丈司、平貞歳ら出席)で、「苦難に遭遇している中国民族は将来日本民族をしのぐ力を持つに到るであろう」、概要「日本はもはや好んで苦しいところに飛び込むのがいいのだ。日本はこの際、いい試練がきたんだから、ここで一つやるんだ」と米英との開戦を覚悟している。


 11.7日、野村大使、甲案を米側へ提示。


 11.13日、米下院で中立法修正案通過(実質的に中立政策を放棄)。


 11.15日、来栖三郎特命全権大使ワシントンに着任、大本営陸軍部が、南方軍に作戦命令を下令。
 11.20日、野村、来栖両大使、米側に乙案を提示。


 11.22日、ワシントンで米・英・蘭・華会議開催。英国艦隊(プリンス・オブ・ウェールズ、レパルスほか)極東派遣。


 11.20ー12.7日、連合艦隊司令官・山本五十六が、単冠湾、真珠湾へ向う海上の機動部隊に通信文を送っている。しかし、その全てがイギリスとアメリカの情報機関に傍受されていた。アメリカは、そのうちの通信文20通をワシントンDCの国立公文書館に保管している。イギリスは一通も公開していない。


南雲忠一中将の檄

 11.24日、エトロフ島ヒトカップ湾に集結した6隻の空母の飛行機搭乗員に向かって、機動部隊指揮官・南雲忠一中将が12.8日を期して開戦することを伝え、「今や国家存亡の関頭に立つ、それ身命は軽く責務は重し。いかなる難関にもこれを貫くに尽忠報国の赤誠と果断決行の勇猛心をもってせば、天下何事かならざらむ。ねがわくば、忠勇の士同心協力をもって皇恩の万分の一に報い奉らんことを期すべし」と結んだ。


米側からハル・ノート交付

 11.26日、米側から日本政府に書簡が示される。アメリカ側より新しい提案が出る。これがいわゆる「ハル・ノート」。この提案でのアメリカ側の、日本側に対する要求は、一、日本軍の兵力及び警察力を中国(ただし満州はのぞく)と仏印から撤退すること。二、重慶政府(中国国民党政府)以外の支援をやめること。三、中国における治外法権を放棄すること。四、アメリカ・中国・イギリス・オランダ・タイ・ソ連との間に多角的不可侵条約を結ぶこと。五、在日アメリカ資産の凍結を解除すること。六、日独伊三国同盟は、太平洋全域については適用されない、と声明すること。これで日米交渉は完全に決裂。

 時の外相・東郷茂徳は後年この時のことを次のように回想している。概要「眼もくらむばかり失望に撃たれた。長年に渉る日本の犠牲を全然無視し、極東における大国たる地位を棄てよと云ふのである。然しこれは日本の自殺と等しい。最早立ち上がるより外無い」(「時代の一面」原書房、1985年)。

 東郷外相は、米国との衝突回避を念願し入閣していた。以来、外務省内の強行派を一掃し、和平に尽力してきた。その努力が報われなかった深い失意と怒りが伝わってくる文意である。東郷外相は以降、明らかに主戦論者に転換していった。「東郷変節」と云われている。


【この頃の外交暗号解読戦について】
 従来、日本の外交暗号解読能力は米国の完璧ぶりと比較して稚拙とされてきた。ところが、2001.7月米国立公文書館の資料の中から米中央情報局(CIA)の報告書が見つかり、追跡調査の結果、当時の日本の外交暗号解読技術が英米のそれと比較して何ら遜色が無かったということが判明した。この発見は、日本側が、太平洋戦争に至る開戦決定過程での米国側の動きを的確に把握していたこと、特に米国の対日宥和(ゆうわ)案(「暫定協定案」)の内容と動きをもキャッチしていたことを証左した。これは通説の不存知説を退けるものである。

 この日既に日本軍のハワイ作戦機動部隊が千島へ出撃。択捉島の単冠湾をハワイに向けて出航した。


 11.27日、政府・大本営連絡会議でハル・ノートを最後通牒と結論する。


【第4回御前会議で「開戦止む無し」と決定される】
 12.1日、第4回御前会議が開かれた。出席者は次の通り。政府側として、東条首相兼陸相、東郷外相、嶋田海相、賀屋蔵相、岩村法相、橋田文相、井野農相、岸商工相、寺島逓相、小泉厚相、鈴木企画院総裁。他に、杉山参謀総長、永野軍令部総長、田辺参謀次長、伊藤軍令部次長、原枢密院議長、武藤陸軍軍務局長、岡海軍軍務局長、星野書記官長。

 開戦前の最後の御前会議で、「米国とは一戦避け難く存ず、戦うとせば早きほど有利にこれあり」との時局認識に傾き、最終的に「対米英蘭開戦止む無し」との聖断が下った。

 12.2日、杉山、永野両総長が拝謁し、「12.8日を期し米国、英国に対し武力を発動する如く大命を発せられたく」と上奏し、裁可された。こうして運命の日が決まった

【「野村・ハル会談の最終覚書」】

 12.5日、野村・来栖両大使、日本側回答をハル国務長官に手交。

 12.6日、野村大使宛、対米最終覚書を打電。


 【以降の流れは、「大戦開始から1945年終戦までの歩み」の項に記す】





(私論.私見)