別章【朱子学

 (最新見直し2012.05.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 
 2003.4.12日れんだいこ拝


目次
コード 中項目 備考
生涯の概略履歴
思想上の功績、儒教批判の構図
名言
インターネットサイト






(私論.私見)


 朱子学は、中国の宋代の朱熹(しゅき・朱子、1130〜1200)がまとめた儒学の一派で、古典の解釈を中心にした研究や宋学に加えて、従来の儒学に欠けていた宇宙論・世界観的要素を加え、儒教の体系化を試みたところに特質が認められる。こうして、宇宙から人間にいたるまでを統一して理解する理論体系の樹立に向かった。その結果、社会の上下秩序を説き分けし、封建制度を支えることになった。

 朱子学は明時代に入って国教化した。これにより権威を獲得したが、思想としての柔軟さを失うことになった。元帝国の後に成立した明朝(AD1368〜1644)は、儒教を正学とし巧みな宗教政策で道教や仏教の伸張を押さえていった。儒教もその解釈が多岐なところ、南宋期に出現した朱子学を儒学の正統解釈と見なし、科挙試験も朱子学に基づき行われることと定めた。

 朱子は、「理」の解明に向かい、「理気二元論」を説いた。朱子の説くところによれば、この世の中の万物は、すべて気で構成されており、この気は、常に運動してやむときがない。その運動量の大きいときを陽、運動量の小さいときを陰と呼ぶ。陰陽の二つの気が凝集して木火土金水の五行となり、五行の様々な組み合わせによって万物が生み出されるとする。(守屋洋「陽明学の回天の思想」参照)。かく宇宙に充満している気の原理として理を説き、「理とは、万物をあるべきようにあらしめている根本の原理である」とした。

 このような「理気二元論」から「性即理」と呼ばれる実践倫理が導かれた。朱子学によると、人間の心は「性」と「情」の二つから成り立っている。「性」とは、分かりやすく言えば、心の本質であり、あくまでも静かであるが、これが動くと「動」になる。そして「情」の動きが激しくなると、バランスが崩れて「欲」になるのだと云う。例えて見れば、「性」とは、水の澄んでいる状態、「情」とは、水の流れている状態、「欲」とは、水の氾濫している状態、といってよいかもしれない。「欲」までいってしまえば悪になる。そうならない為には、たえず「情」の動きにブレーキかけて、「性」にまで引き戻す努力が望まれるという。これが朱子学の要請する倫理的な課題なのである。つまり朱子学は、「性」にのみ「理」を認める立場をとる。これが「性即理」にほかならない。

 朱子は、「大学」の「格物致知(かくぶつちち)」を「物に格(いたっ)て知を致す」と解釈する。事物の「理」を一つ一つ極めるという意味である。万物に「理」を認め、万物の理を極めた果てに究極的な知識に達し、「理」そのもののような人間になりきる。これが朱子学における「修己」の目標であった。さらに、「窮理」の際の心構えについて言えば、「居敬」でなければならないのだという。「居敬」とは、「理」に対する畏敬の気持ちをもって、心を集中専一の状態に保つことを云う。単に心がそうであるばかりでなく、その気持ちが容貌や態度にまでにじみ出て行かなければならないとされる。(守屋洋「陽明学の回天の思想」参照)。 

 「性」に「理」を認める朱子学では、当然のことながら、本来の「性」に返ることが「修己」の内容とならざるを得ない。その具体的方法として「居敬窮理(きょけいきゅうり)」となる。こうして、
儒学の根幹を「修己治人の学」(己を修め、人を治める。つまり、自分を磨き、その上で人を治める立場につくという処世法を構えた)と規定し、その出発点を「格物窮理」に求めた。「格物窮理」とは、万物を万物として成り立たせている根本の原理とそれぞれの事々物々の理の存在を認め、それを極めていくという哲学的観点であり、「どんな物にも表と裏、精と粗があり、一草一木みな理を含んでいる」としていた。


 朱子学が絶対的な価値を認める「理」とは、煎じ詰めれば「五常」と呼ばれる仁、義、礼、智、信など、儒教の規範とする徳目を指していた。それをことこまかに説いているのが「四書五経」と呼ばれる儒教の聖典であるからして、だから理を極めるといっても、一つ一つの事物について確認するという面倒な手続きを踏む必要は無く、それらの古典を学習すればよいということになる。こうして、朱子学は古典学習を殊のほか重視した。


 「訓この学」に堕していた儒学に新しい息吹を吹き込んだ。それを活性化することに成功した。 しかし、朱子学の「窮理」精神も又硬直化していく。朱子が、人倫に現れた「理」の規範が「仁、義、礼、智、信」であるとしたため、過剰なまでに「仁、義、礼、智、信」が重んじられ、却って精神の自由さと柔軟性が失われることになった。この面が陽明学の生まれる下地となった。



 明徳を天下に明らかにせんと欲する者はまず国を治む。
 その国を治めんと欲する者はまず家を斉(ととの)う
 その家を斉えんと欲する者はまず家を斉う
 その家を斉えんと欲する者はまず身を修む
 その身を修めんと欲する者はまず心を正しくす
 その心を正しくせんと欲する者はまず意を誠にす
 その意を誠にせんと欲する者は知を致す
 知を致さんとはまず物に格(いた)るにあり。




(私論.私見)


中国思想学派辞典
「宋学」
(広義)宋の時代に生まれた儒教の革新運動、新儒学のことを「宋学」という。北宋時代の「程学」、蘇軾・蘇轍兄弟の「蘇学」、南宋の朱熹を創始者とする「朱子学」 (「理」を重んじるところから理学ともいう)、陳亮・葉適の功利学派、陸象山の「陸学」(「心」を重んじる所から心学ともいう)などの学問体系があり、中国は戦国の諸子百家以来の思想の興隆をみた。 (狭義)漢学(漢唐学)に対し朱子学を指す。 (2000・1・4)追記:

 一般の漢和辞典などでは、「宋学」=「朱子学」となっていることが多いが、
それはごく一部分をみた狭義の概念に過ぎない。広義の概念では宋学はもっとおおまかなものだ。


「功利学派」
 永康学派とも。南宋の陳亮(龍川)・葉適(水心)らが唱えた実利・経済を重視する学派で、朱子学と異なり道統概念を重視せず、曹操を高く評価する。朱熹の朱子学派と激論を繰り広げ、朱熹は終生この学派を敵視している。 その後の陽明学派に大きな影響を与えた。


「蘇学」
 北宋の蘇軾(東坡)・蘇轍兄弟が唱えた宋学の一派。蘇兄弟が蜀出身だったため蜀学ともいう。歐陽脩の系統を引き、儒教を中心に道教・仏教を交え思想を文学で表現する事を重んじ、華北の金に於いて南宋程朱学と対抗した。主な思想家には元好問(遺山)がいる。 朱子学からは異端とされ『宋元學案』などでも軽視された。金滅亡後衰退し、のち元の世祖フビライの時朱子学の趙復に駆逐された。


「程朱学」
 北宋の程頤、南宋の朱熹らによって創始された儒家の一派。主な学者に周敦頤・張載・程頤・程明道・朱熹らがいる。南宋で発展し北方の蘇学と対抗した。程学とも略し、後には朱子学の異称となった。


「朱子学」

儒学の一派で、南宋の朱熹を創始者とする。

 漢の時代の儒学が経典の語句の研究のみに明け暮れ、儒教本来の目的である「修己治人」(おのれを修め人を治める)がおろそかになっていることを批判し、孔丘・孟軻の精神にたちかえろうとした儒教の革新派。

 南宋で起こり華南に勢力を広げ、大元朝期に趙復により北方にもたらされ、許衡らにより普及したものの、のちに明の洪武帝・朱元璋が自らの政権維持のために朱子学の改竄を命じ、さらにその子・永樂帝が政府公認の解釈以外の新解釈を禁じたことから、形骸化してしまった。現在では「封建主義の遺物」として諸悪の根源のように批判・罵倒をうけることが多いが、草創期の朱子学はある意味後の陽明学や清朝考証学の母体とも云えるほど活発なものであり、明以降の形ばかりの朱子学と同一視はできない。

 なお、しばしば日本で朱子学の教義といわれる「大義名分」・「尊皇攘夷」などのことばは、本来関係無い日本製のことばであり、中国の朱子学とは無関係である。「大義名分」の語は幕末の梅田雲浜が用いている。また、中国では後に朱子学が社会停滞の原因になったために、戴震や魯迅などが罵倒しつくしたが、彼らにもセクト的偏見が多く、正当な評価を下しているかどうかは吟味すべきであろう。それから、狩野君山が「朱子学が日本を滅ぼしたもと」と発言したことを司馬遼太郎氏が朱子学批判の根拠にしているが、これも狩野が朱子学に反対していた漢学派の人物だったことからみれば、偏見も多く、これが根拠となるかどうかは疑問である。


「理学」
 「理」を最高の規範とする儒家の一派で、朱子学を含む。「理」は絶対的かつ静的な規範であり、天地の間に有るすべてのものに存在するとされる。
道と徳は後結びついて道徳となった。道の提唱は『老子』に始まる。『詩經』大雅、烝民の詩にいう。  天、烝民を生じ、物有れば則有り。民之彝を秉る,是の懿徳を好む。と。人民は天の法則(彝=道)をとり守って、美徳を好んでいるということをいう。


「気学」
 「気」から万物が生み出されるとする儒家の一派をさす。朱子学・陽明学・清朝考証学いずれにも存在し、張載・陸象山・王守仁・呉廷翰・王夫之・戴震らが主張した。日本でも伊藤仁斎・山田方谷らが主張。「気」は生生流転してやまず、万物を生み出す活動的なエネルギーととらえられ、理学に比べ自由で活動的である。


トップへ

漢籍紹介と中国史のサイトhttp://ueno.cool.ne.jp/souryuu/index.html へのリンク


中国の神秘思想へ戻る