帝国は宗教を利用し、宗教も帝国を利用した――。 ローマ帝国やオスマン帝国、中華帝国やモンゴル帝国にいたるまで、世界の歴史は帝国興亡の軌跡に他ならない。そしてそれは、東西の宗教が歩んできた道のりとも重なっている。 帝国は領土拡大のため宗教を利用し、宗教は信者獲得のため帝国を利用してきた。 本記事では、中国の土着の宗教について、くわしくみていく。
※本記事は島田裕巳『帝国と宗教』から抜粋・編集したものです。 |
中国の土着の宗教
中国には、土着の宗教として道教と儒教があります。道教や儒教が土台となった社会に、インドから中央アジアを経て仏教という外来の宗教が採り入れられたのです。それは日本において、土着の神道が存在するところに仏教が採り入れられた事態と似ています。宗教を世界宗教と民族宗教に分けるならば、道教も儒教も、そして神道も民族宗教になります。ただ、神道にはその教えを説いた創唱者が存在しないのに対して、道教や儒教には創唱者がいます。道教は老子、儒教は孔子です。老子と孔子には独自の教えがあり、それは聖典にまとめられています。世界宗教と民族宗教という分け方の他に、「創唱宗教」(特定の人物が特定の教義を唱え、それを信じる人々がいる宗教)と「自然宗教」(自然発生的に発展した宗教)という分け方があります。道教や儒教はキリスト教やイスラム教と並んで創唱宗教になります。神道は自然宗教です。老子が創唱者である道教の聖典が『道徳経』で、これは『老子』とも呼ばれます。老子の生涯については、中国の有名な歴史書、司馬遷の『史記』に記されています。そこでは、老子がもともとは周の国において書庫の記録官をつとめていて、老いると関所を越えてどこかへ消えてしまったとされています。その際に、関所の役人に『道徳経』を残したというのです。『史記』は紀元前100年頃に作られ、老子は紀元前6世紀ないし5世紀の人物とされます。老子の生存していた時期と『史記』の記録とのあいだに時間的な隔たりがありますし、記されていることも伝説のようで、とても事実であるようには思えません。老子は、神話的な人物であると考えるべきでしょう。『道徳経』においては、「道」が説かれます。道という考え方は中国から発した宗教思想において重要なもので、宇宙の法則であり、そのあるべき姿を意味します。人が正しく生きるには、この道に従わなければなりません。『道徳経』では同時に「無為自然」が説かれ、あるがままに生きることが勧められています。その点で道教は政治とは一線を画し、国家についてのとらえ方も牧歌的です。究極の目的は世俗を超越した仙人になることですから、国家を支える、あるいは統治者のバックボーンになるような宗教ではありません。それに対して儒教は宗教であると同時に政治思想でもあるので、そのあり方は道教とは大きく異なります。 |
『論語』で説かれた政治思想 |
孔子の伝記も『史記』に記されていますが、それによれば、孔子は老子と同時代の人間です。孔子については老子以上に詳しい伝記が伝えられてはいますが、それは孔子の言行録である『論語』をもとにしています。哲学者の和辻哲郎は、『孔子』(岩波文庫)のなかで、「孔子の伝記について信憑すべき材料は『論語』のほかにはないのである」と述べています。そうなると『論語』は本当に孔子の言行録なのかが問題になりますが、これについては証明のしようがありません。他に史料がないからです。和辻はその内容を検討し、全部で20篇あるうち、学而篇など9篇が古い層のものだと指摘しています。『論語』は孔子の死後、約400年かかって編纂されていますから、そこには実際の孔子のことばとともに、後世に付け加えられたものが含まれていると考えられます。 『論語』に示された孔子の生涯を追ってみると、果たして儒教を宗教ととらえていいのかという疑問が浮かび上がります。『論語』で問われているのは、人がどのように生きるかについてで、特に為政者のあり方にかかわるものです。ですから、宗教というよりも政治思想としての面が強いのです。一般の宗教では死ということが重視され、それぞれに死後の世界を説いています。ところが『論語』には、「怪力乱神を語らず」ということばが出てきます。これは、理性では説明できない神秘的な事柄についてはあえて言及しないという意味です。つまり『論語』では、死後のことは語られていないのです。『論語』は死後のことを問題にせず、生きている間のことに集中します。生きるということは生活の糧を得て人生を全うすることですが、孔子が問題にしたのは、いかに生きるのかという事柄です。人には正しい生き方があり、それは神のような超越的な存在が教えてくれるものではなく、人間が自ら見出していくべきものなのです。正しい生き方とは、徳のある生き方を指します。『論語』に示された孔子の教えを基盤として生み出された儒教においては、「五常」が重視されます。五常は「仁・義・礼・智・信」からなるもので、思いやりのこころを持ち、自らの欲望にとらわれず、人間関係を円滑に営み、物事を深く学んで、人の信頼を得なければならないというのです。こうした徳は人間誰もが備えていなければならないものですが、儒教では特に為政者に求められます。為政者に徳があれば、好ましい政治が行われ、その徳が社会全体に行き渡るのです。その点で儒教は華夷思想を支える基盤になります。儒教の考え方は時の政治体制を支えるわけで、その点で本質的には保守的な政治思想になります。しかし易姓革命の考え方に示されたように、為政者から徳が失われているなら、王朝の交代が起こるのは必然的ですから、体制を批判する武器にもなります。だからこそ、秦の始皇帝が中国を統一した際に「焚書坑儒」が起こりました。儒教にかかわる書物を焼き捨て、儒者を穴に埋めて殺してしまったのです。このことは『史記』に記されています。なぜこうしたことが起こったのかと言えば、始皇帝は家臣から、儒者がその支配のあり方を批判しているという進言を受けたからです。その後、儒教はふたたび中国社会に浸透し、体制を支える思想として機能するようになり、前漢の時代には国家の学問として採用されます。学問としての面が強調されるときには、「儒学」と呼ばれます。 |