生涯の履歴概要

 (最新見直し2016.02.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、呉氏の履歴を確認しておく。「ウィキペディア孫子」その他を参照する。

 2016.02.14日 れんだいこ拝


【呉子の履歴】
 「ウィキペディア呉起 」、「史記の孫子呉起列伝第五」、城作也」の「呉起 死の力学の兵法家その他参照。
 呉起(ご き、? - 紀元前381年)は、中国戦国時代の軍人、政治家、軍事思想家。呉起は、呉子とも呼ばれる。孫武、孫臏と並んで中国古代の兵家の代表的人物とされ、兵法の事を別名「孫呉の術」とも呼ぶ。死後、兵法書「呉子」の作者に擬せられた。子は呉期
 衛の左氏(現在の山東省菏沢市定陶県)の人。紀元前440年頃、呉起(ごき)が生まれたと云われる。この時代は中国史上の戦国時代と呼ばれており、家柄よりも実力で人が認められた。呉起はこの時代に生を刻んでいる。

 長ずるに及び郷里を出た呉起曾子(そうし、曾参)に弟子入りし儒学(儒教)を学んだ。この時代、孔子を始祖とする儒学が盛名だった。ところが、呉起は儒学を学ぶに連れて次第に物足りなさを感じ始めた。

 その頃、母の訃報があった。師の曾子が気遣って言った。「家に帰って御母堂をきちんと弔ってやりなさい」。しかし呉起は言った。「いいえ。宰相となるまでは帰らぬと母に誓ったのです。例え母が死んでも誓いは破れません」。曾子は親孝行の精神に厚く、「孝経」という書物を著した程の人で、親よりも誓いを優先する呉起に激怒し即刻破門した。呉起は自国の衛(えい)国を出た。呉起は魯(ろ)国へ向かった。

 魯国で兵法について学んだ。呉起は学を修め優れた兵法家となった。戦国時代は七雄(しちゆう)と呼ばれた七つの大国が覇権を争った弱肉強食の時代で、七国の合間にはたくさんの小国があった。魯国も衛国と同じく小国の一つであった。今、魯国は隣の斉(せい)国に攻められそうになっていた。斉は七雄の一つで大国であった。「罰と褒美は誤りなく行って兵の心をつかみ、命令には必ず従うよう仕向ける。これが肝心です。働いた分だけの手当を出さなければ、どんな精強な兵も本気で戦いなどしません。将の器とは即ちそれをこなすかどうかにあるのです」。呉起はそう建言した。対斉戦争の将軍に任命されるだろうと確信していた矢先、の君主に呉起讒言する者があった。「呉起は確かに才人かもしれませんが出世欲が強く危険な人物です。彼を用いるべきではありません。呉起の妻はの女です。妻の故郷である国と本気で戦などしますでしょうか。反対に我が国の情報を流して寝返るかもしれませんぞ」。この讒言は非常に効果があった。魯の君主は呉起の起用を中止した。呉起は妻を呼んで言った。「俺は疑われている。お前が斉の出身だからだそうだ」。呉起は、その場で剣を抜いて妻を斬り殺した。この事が君主に伝わり、呉起は誠意を認められて将軍の位を与えられた。そして大国・斉を攻めて勝ち大きな戦果を上げた。

 だが呉起の活躍はここでストップした。君主は、出世の為なら妻でも斬るような彼を不気味に感じた。やがて呉起の実権を取り上げて起用しなくなった。「呉起は自分の妻を殺したばかりでなく、魯と兄弟国である衛を独断で侵略した怪しからん人物である」という讒言にあって、彼は元公から懲戒免職されて失脚させられた。呉起を出て魏国へと移った。魏は戦国七雄の一つだった。

 魏の文侯のもとに走る。文侯は魏の歴代の君主の中でも一二を争うほどの名君で、積極的に人材を集め、魏の国力を上昇させていた。文侯が呉起を任用するかどうかを家臣の李克に下問したところ、李克は「呉起は貪欲で好色ですが、軍事にかけては名将司馬穰苴も敵いません」と答え、文侯は呉起を任用する事に決めた。文侯は呉起の才能を認め、将軍として採用し、隣に接する大国・秦(しん)を攻めた。呉起は秦の城邑(じょうゆう)五つを攻め落とすという大きな功績を上げた。魏の君主は呉起を信任し、西河(せいが)という要衝地太守(たいしゅ、長官)に任じた。呉起は軍を率い、秦を討ち、5つの城を奪った。西河の太守として秦・韓を牽制した。

 呉起の用兵は、理論に基づいた心理作戦を得意としていた。その作戦は敵にではなく味方の兵士に用いていた。軍中にある時は兵士と同じ物を着、同じ物を食べ、寝る場所もそこらにごろ寝、移動には馬車など使わず己の足で歩いた。荷物も自分で持ち、徹底的な一蓮托生主義を貫いた。兵士が悪性の疽(しょ、膿の溜まるできもの)をっていると、呉起は自らの口で膿を吸い出してやる事が幾度もあった。この逸話を「吮疽の仁」と云う。こうして兵士と労苦を分かち合い彼らの心と一体化した。その結果、兵士たちは呉起の情義に感動し、彼に信服して、命も惜しまず、彼の為に死ぬ気で戦うようになった。「兵士の最大の武器は、生命の力、死の力だ。それを引き出すためには、兵士を軽んじず、その心をつかむ事だ」。この軍は圧倒的な強さを見せた。 呉起の兵法書「呉子」はそう語りかけている。呉起にいる間、戦国七雄のを相手に通算76回も戦い、うち64回勝利した。残りの12回は引き分けであり敗北は一度もない。いかに呉起が非凡な兵法家だったかが分かる。

 文侯が死に、子の武侯が即位すると田文と宰相の座を争うが、これに敗れる。これを不服として、本人に抗議し、軍略・政治力・諸侯への威信、それぞれどちらが優れているかを問い質した。すると、田文は三つとも呉起の方が優れていると述べた上で、「だが、今の主君は幼くして民からの信望も薄い。このような状況においては、私と貴殿とどちらが大役を任されるだろうか?」と尋ね返した。ここにおいて呉起は己が田文に及ばないことを認めた。その後田文が亡くなり、文侯の女婿でもある公叔某が後任の宰相となった。

 呉起が来てから、魏では君主の代替わりがあり、宰相も二度入れ替わったが、呉起はずっと西河太守のままだった。当時の宰相の公叔座(こうしゅくざ)という人は、呉起がその椅子を狙っているのを知っていた。「何とか呉起を追い払う手はないか。不安で夜も眠れぬ」。憂鬱になっている公叔座に下僕が進言した。「恐れながら私めに一計がございます」。「呉起は名将だ。簡単な罠にはかからんぞ」。「奇策です」。下僕は公叔座の耳元で筋書きを語った。公叔座の陰鬱な表情が、むず痒そうな笑いに変わった。「面白い。やってみる価値はありそうだ」。公叔座は妻を呼び早速準備にかかった。

 翌日、魏君主の下に参内した公叔座は、呉起の話題を持ち出し大袈裟にほめ称えた。「呉起将軍が出れば負ける戦はありません。我が魏国が千里四方も領土を広げられたのも全て彼のおかげです。ただ……」。「ただ、どうした?」。公叔座が語尾を濁したので魏君主は訊ねた。「彼ほどの人材が、いつまでもこの国にいてくれるかが問題なのです。他国に引き抜かれるのが心配で……」。そう言われると君主も不安な顔になった。「確かにそうだ。それとなく呉起の心中を測る手はないかな?」。公叔座は笑みを浮かべて答えた。「一つございます。呉起に魏の公主(こうしゅ、公族の娘)との縁談を持ちかけるのです。呉起が魏に留まる気なら受けるでしょう。しかし他国へ移る気なら断るはずです」。「なるほど。では、奴の好みそうな娘を選んでおこう」。

 公叔座は次の仕掛けにかかった。今度は呉起を訪ねてこう言った。「以前から君の噂は聞いていたよ。ゆっくり話がしたいと思うので今夜我が家に遊びに来ないか」。「はあ、では参ります」。呉起がそう答えたので公叔座は彼を馬車に乗せた。公叔座の家に着くと、彼の妻が派手な着物で出迎えている。「ようこそ呉起将軍。ご活躍は伺っております」。公叔座が馬車を降り妻に声をかけた。「食事の用意はできているか?」。すると妻はきつい目で夫をにらみ、「できているから、お迎えに出ているのです。あなた、私がのろまだとでもおっしゃるの?」。「いや、ただ聞いただけだ」。「お客様の前では途端に偉そうになって。あなたが宰相になれたのは私が君主の娘だからなのをお忘れにならないでね」。妻はぷいと後ろを向いて家に入ってしまった。公叔座は愛想笑いをして呉起を招き入れる。「奥方様は公主であらせられたのですか」。呉起が聞くと、公叔座が声を潜めて言った。「お恥ずかしい話だが、わしもあれには頭が上がらぬ。魏の公主は気が荒い女ばかりだ」。食事が始まっても、公叔座の妻は何度も話に割り込んで場の空気を乱し、公叔座が少しでも批判がましい事を口にすると「私を邪魔だというの、偉そうに」と切り返す。公叔座の家人も妻の機嫌を伺ってばかりで公叔座には冷たい。公叔座はだんだんと落ち込んでしまい、最後には「気分が優れなくなったので悪いが帰ってくれ」と呉起を送り出した。

 何日かして、魏の君主が呉起を呼んで言った。「嫁入り先を探している公主がいて、なかなか器量もいい。呉将軍にどうかと思ってな」。呉起は目を白黒させた。「私に公主をですか」。「将軍には、いつまでもこの国のためにがんばってもらいたいのだ。君が宰相の職を希望しているのは前から知っている。わしの一族と姻戚を結べば、いずれそうなる日も来よう」。(そういう事だったか) 呉起は公叔座の描いた絵図が全部見えた。呉起は思い出したような顔をして言った。「先日、宰相公叔座様の家に呼ばれました。あの方の奥方も確か」。「うむ公主だ。実は君に公主を勧めてはと言って来たのは彼なのだ」。呉起は答えた。「畏れながら、公主を私になどとはもったいない事です。お気持ちは嬉しくありますが辞退させていただきます」。呉起は一礼して去った。

 翌日、君主は公叔座を呼んで言った。「呉起は話を断った。公主など畏れ多いと」。公叔座は大袈裟に嘆息して言った。「やはり。呉起は魏に留まる気はないのですよ。いつ寝返るか分かりませんぞ」。「うむ。要職に就けておくのは危険だな」。呉起は又しても実権を取り上げられた。

 魏に執着のなくなった呉起は、あっさりと出て行った。今度は楚(そ)国へ行った。楚は中国南方の広大な地域を支配する強国で、今まで彼が接点を持たなかった。楚の君主は悼王(とうおう)で、呉起の才能を高く評価した。「戦乱の世なのだから、仕える国が変わるのも珍しくはない事だ。での無敗ぶりは聞いている。是非とも我が国で宰相として働いてもらいたい」。こうして楚の令尹(宰相)に抜擢され、呉起は遂に宰相の座についた。呉起の悲願は達成された。

 呉起は法家的な思想を元とした国政改革に乗り出した。持ち前の切れ味を生かし、楚の国政に新風を吹き込んだ。元々楚は宗族の数が他の国と比べてもかなり多かったため、王権はあまり強くなかった。「財政再建を優先します。国の方向性を定める事も肝要です。調べてみると、この国には随分と無駄な官職があります。それを必要なものだけに絞る。更に公族でも遠縁の者は特権待遇を廃止します。中原(中央)では既に行われている事です。この楚は大国ではありますが、政事は今ひとつ先進から遅れております」。「分かった、任せよう。好きにやってみろ」。呉起は楚の官僚たちに何の義理もなかったので遠慮なしに法遵守の徹底、不要な官職の廃止などを行い、これにより浮いた国費で兵を養い、富国強兵、王権強化に成功した。これによって楚軍は精強になった。このこと事から呉起は法家の元祖と見なされる事もある(ただし管仲や伝説の太公望も、その政治手法は法家的とされ、時代的には古い)。「準備が整いました。軍を動かします」。呉起は自分の手足のように楚軍を操り各地で戦果を挙げた。越(えつ)を討ち、蔡(さい)併呑(へいどん)し、三晋(さんしん、韓、魏、趙の三国を指す)を退け、にも遠征した。諸国が楚を恐れるようになった。

 楚が呉起の働きによって隆盛を極めた頃、裏方では暗い影が動いていた。呉起によって失脚させられた公族や貴族が結束し復讐する機会をっていた。呉起もそれを察知していた。呉起が無事なのは悼王の寵愛があればこそだが、悼王は既に高齢であった。そしてその時が来た。悼王が病に倒れ、ほどなく紀元前381年、悼王が老齢で死去した。

 呉起を狙う公族たちはすぐに兵士を集め呉起の屋敷を包囲した。呉起は家の者に外に出るなと言いつけ、自分は軽い皮の鎧を着込み兜をかぶって裏口の戸を開け屋敷の外へ飛び出した。壮絶な追撃が始まった。たった一人で逃げる呉起を大勢の兵士が追いかけ次々と矢を放った。呉起はの宮殿に向かった。宮殿の塀を越え中に入った。呉起は建物の間をすり抜けて走り、茂みや木立を利用して身を隠した。辺りはようやく暗くなった。「……ここだ。この臭い、間違いない」。鼻を突く臭いで呉起は目的の建物を見つけ中に入った。「ここにいるぞ!」。呉起は大声で叫び建物の扉を開けた。兵士たちが殺到し、明かりもないまま横殴りの豪雨の如く矢を射た。

 数刻後、公族たちが松明を手に建物に入った。川原の葦(あし)のように床を埋め尽くす矢を蹴り分けながら進むと、呉起は矢ぶすまになって倒れていた。呉起は先日死んだ悼王の
しかばねの上に倒れていた。彼は死臭でここを探し当てた。「呉起だけでなく、王のご遺体にも矢があたってしまったな。新王には理由を話してお許しいただこう」。そう言って、公族たちは引き上げて行った。呉起の一生は、こうして終わった。

 だが、呉起の兵法は死んでいなかった。新たに王に就いた粛王(しゅくおう)は、悼王の太子である。呉起を討った始終を聞いて、粛王は目を怒らせて言った。「いくら呉起が憎いとはいえ、先王ともども射るとは不敬もだしい。射たのは誰だ?」。公族たちは言い訳した。「呉起を追っていたら夜になってしまい、先王の冥(ねむ)る殿とは気づかなかったのです。大勢で射たので誰の矢かは分かりません」。「そうか……ならば」。粛王は一同を睨んで申し渡した。「王の遺体に触れた者は死罪」という楚の法律(かつて伍子胥が王の死体に鞭打ったために、このような法律があった)を持ち出し、改革反対派である悼王の遺体を射抜いた者達を大逆の罪「矢を射た者は全員処刑する。その家族も連座だ」。厳しい結末となった。こうして七十余家が皆殺しとなった。呉起が悼王の下へ行ったのは、これを見越しての事だった。呉起は己の死と悼王の死を利用して復讐を遂げた。呉起の兵法を遺したのである。後日談として、
呉起の死により改革は不徹底に終わった。 

 「ウィキペディア呉子」。
 「呉子」(ごし)は、春秋戦国時代に著されたとされる兵法書。武経七書の一つ。古くから「孫子」と並び評されている。但し、後世への影響の大きさは「孫子」ほどではない。これは内容が春秋戦国時代の軍事的状況に基づくものであり、その後の時代では応用ができなかったのが原因であると言われる。逆に「孫子」の方は戦略や政略を重視しているため、近代戦にまで応用できる普遍性により世界的に有名になっている。

 しかし著者ははっきりとしない。中身の主人公でもある呉起またはその門人が著者であると言われるが、定かではない。内容は呉起を主人公とした物語形式となっている。現存している「呉子」は六篇だが、漢書の芸文志には「呉子四十八篇」と記されている。部隊編制の方法、状況・地形毎の戦い方、兵の士気の上げ方、騎兵、戦車、弩、弓の運用方法などを説いている。
  • 序章 - 呉起と武侯との出会いを描いていて一番物語りに近い。篇に加えず
  • 一、図國 - 政治と戦争について記す
  • 二、料敵 - 敵情の分析の仕方を記す
  • 三、治兵 - 統率の原則を記す
  • 四、論将 - 指導者について記す
  • 五、応変 - 臨機応変(法家思想)について記す
  • 六、励士 - 士卒を励ますことについて記す
 名言集
 和して、しかる後に大事をなす

 古来、国家を治めようとする者は、かならず第一に臣下を教育し人民との結びつきを強化した。団結がなければ戦うことはできない。その団結を乱す不和が四つある。

  • 国の不和 - 国に団結がなければ、軍を進めるべきではない。
  • 軍の不和 - 軍に団結がなければ、部隊を進めるべきではない。
  • 部隊の不和 - 部隊に団結がなければ、戦いをいどむべきではない。
  • 戦闘における不和 - 戦闘にあたって団結がなければ、決戦に出るべきではない。

 したがって、道理をわきまえた君主は、人民を動員するまえに、まずその団結をはかり、それからはじめて戦争を決行する。また、開戦の決断は、自分だけの思いつきによってはならない。

 敵状を察知する法

 武侯が尋ねた。「敵の外観を見て内情を判断し、敵の進み方を見てどう止まるかを推測し、それによって勝てるかどうかを事前に判断したいと思うが、こうした事が分かるものだろうか?」。呉起は答えた。「敵の来襲する様子に、落ち着きが無く、旗印が乱れ、人馬がおどおどしている様ならば、それは確固たる方針のない証拠です。一の力で、十の敵を撃つ事ができます。敵は、手も足も出ないでしょう。また、どの国とも連合する事が出来ず、君臣は離間し、陣地は完成せず、法令は行き渡らない、この様な敵の軍勢は恐れおののき、進むも、退くも思うに任せない状態になります。こんな場合は、敵の半分の兵力で充分です。何回戦っても負ける心配はありません」。

 百万人いても役に立たない

 武侯が尋ねた。「戦争の勝利とは何によって決まるのだろうか?」。呉起は答えた。「勝利は治によって得る事が出来ます」。「兵力の多寡によるのではないのか?」。「法令が明確でなく、賞罰が公正を欠き、停止の合図をしても止まらず、進発の合図をしても進まなかったならば、百万の大軍があったとしても何の役にも立ちません。治とは即ち、平時では秩序正しく礼が行なわれ、戦時では威力を発揮し、進めば誰も阻止できず、退けば誰も追い得ず、進退は節度があり、左右はたちまち合図に応じ、連絡を絶たれても陣容をくずさず、散開しても隊列をくずさない。将兵が安危を共にし、結束していて離間させる事は出来ず、いくら戦っても疲労することはない。このような軍は、向う所敵無しです。これを指して父子の兵と言います」。

 死の栄ありて生の辱なし

 軍をひきいるには、武だけでなく文武を総合し、戦争をするには、剛だけでなく剛と柔とを兼ね備えなければならない。ふつう、世人が将を論ずる場合は、とかく、勇気という観点だけに立ちがちである。しかし、勇気ということは、将の条件の中の何分の一かにすぎない。勇者は、力を頼んで考えもなしに戦いをはじめる。利害を考えずに戦うのは、誉められた語ではない。

 そこで、将の心すべきことが五つある。

  1. 理(管理) - どんなに部下が多勢いても、それを一つに纏める事である。
  2. 備(準備) - 一度門を出た以上、至る所に敵がいる積りで掛かる事である。
  3. 果(決意) - 敵と相対したとき、生きようという気持を捨てる事である。
  4. 戎(警戒、自戒) - たとえ勝っても緒戦のような緊張を失わない事である。
  5. 約(簡素化) - 形式的な規則や手続きを省略し、簡素化する事である。

 ひとたび出陣の命令を受けたならば、家族にも知らせずそのまま出撃し、敵に勝つまでは家のことを口にしないのが、将たる者の礼である。いざ出陣というときには、名誉の死はあり得ても、生き恥は晒さないものと心得るべきである。

 少数で多数を撃つには

 武侯が尋ねた。「味方が少なく、敵が多い時、どうすればよいか?」。呉起は答えた。「平坦な場所で戦うことは避け、隘路で迎え撃ちます。古い諺に『一の力で十の敵を撃つ最善の策は狭い道で戦うことであり、十の力で百の敵を撃つ最善の策は険しい山地で戦うことであり、千の力で万の敵を撃つに最善の策は狭い谷間で戦うことである』とあります。かりに小人数でも、狭い地形をえらび鐸(たく)をうち鼓を鳴らして、不意打ちをかければ、いかに相手が多人数でも驚き慌てます。ですから、『多数を率いるものは、平坦な戦場を選ぼうとし、少数を率いるものは、狭隘な戦場を選ぼうとする』といわれています」。

 決死の勢い

 武侯が尋ねた。「賞罰を公正にすれば、勝利を得る事が出来るだろうか?」。呉起が答えた。「私ごときに判断できる問題ではありませんが、賞罰はそれ自体、勝利の保証とはならないかと存じます。

  • 君主が号令を発すれば、喜んで服従する。
  • 動員命令を出せば、喜んで戦場に赴く。
  • 敵と刃を交えれば、喜んで一命を投げ出す。

 この三つの条件が満たされてこそ、勝利は保証されるのです」。「どうすればよいか?」。「功績のある者を、抜擢して手厚く遇することはもちろん、功績のない者に対しても激励のことばをかけてやるのです」。


 「兵法塾http://www.heihou.com/」。
 一、図國
● 兵機を以て魏の文侯に見ゆ。文侯曰く、寡人、軍旅の事を好まず、と。起曰く、臣、見を以て隠を占ひ、往を以て来を察す。
● 昔の國家を図る者は、必ず先ず百姓を教へて万民を親しむ。
● 道とは本に反り、始に復る所以なり。義とは事を行ひ功を立つる所以なり。謀とは害を去り利に就く所以なり。要とは業を保ち成を守る所以なり。
● 然れども戦ひて勝つは易く、勝を守るは難し。故に曰く、天下の戦ふ國、五たび勝つ者は禍なり、四たび勝つ者は弊え、三たび勝つ者は覇たり、二たび勝つ者は王たり、一たび勝つ者は帝たり、と。是を以て数々勝ちて、天下を得る者は稀に、以て亡ぶる者は衆し。
● 凡そ兵の起る所の者五有り。一に曰く、名を争ふ。二に曰く、利を争ふ。三に曰く、悪を積む。四に曰く、内乱る。五に曰く、飢えに因る。
● 強國の君は必ずその民を料る。
● 君能く賢者をして上に居り、不肖者をして下に処らしむれば、則ち陳已に定まる。
 二、料敵
● それ国家を安んずるの道は、まず戒むるを宝となす。いま君已に戒む、禍それ遠ざからん。
● およそ敵を料るに、卜せずして これと戦うべきもの八つあり。一に曰く、疾風大寒に早く起きさめて遷り、氷を剖き水を済りて艱難を憚らざる。二に曰く、盛夏炎熱におそく起きてひまなく、行駆飢渇して遠きを取ることを務むる。三に曰く、師、すでに滝久して糧食あることなく、百姓は怨怒して妖祥数起こり、上止むること能わざる。四に曰く、軍資すでに竭き、薪芻すでに寡く、天、陰雨多く、掠めんと欲すれども所なき。五に曰く、徒衆多からず、水地利あらず、人馬疾疫し、四鄰至らざる。六に曰く、道遠くして日暮れ、士衆労懼し、倦んでいまだ食わず。甲を解きて息える。七に曰く、将薄く吏軽く士卒固からず、三軍数驚きて師徒助けなき。八に曰く、陣して未だ定まらず、舎して未だ畢らず、阪を行き険を渉り、半ば隠れ半ば出ずる。諸かくの如くなる者は、これを撃ちて疑うことなかれ。          
● 占わずしてこれを避くるもの六つあり。一に曰く、土地広大にして人民富衆なる。二に曰く、上その下を愛して恵施流布せる。三に曰く、賞は信、刑は察、発すること必ず時を得たる。四に曰く、功を陳べ列に居り、賢を任じ能を使える。五に曰く、師徒これ多くして兵甲の精なる。六に曰く、四鄰の助け、大国の援けある。およそこれ敵人に如かずんば、これを避けて疑うことなかれ。いわゆる可なるを見て進み、難なるを知りて退くなり。 
● 兵を用うるには必ず須く敵の虚実を審かにして、その危きに赴くべし。
 三、治兵
● 「先ず、四軽、二重、一信を明らかにす」。地をして馬を軽しとし、馬をして車を軽しとし、車をして人を軽しとし、人をして戦いを軽しとせしむ。
● 兵は治を以て勝となす、衆にあらず。もし法令明らかならず、賞罰信ならず、これを金して止まらず、これを鼓して進まざれば、百万ありといえども、何ぞ用に益さん。
● 凡そ軍を行るの道、進止の節を犯すことなく、飲食の適を失うことなく、人馬の力を絶つことなし。この三つの者は、その上の令に任ずるゆえんなり。その上の令に任ずるは、すなわち治のよりて生ずるところなり。
● 兵戦の場は、止屍の道なり。死を必すれば生き、生を幸すれば死す。
● 将たる者は、漏船の中に座し、焼屋の下に伏するが如し。智者をして謀るに及ばず、勇者をして怒るに及ばざれば、敵を受くること可なり。故に曰く、兵を用うるの害は、猶予、最大なり。三軍の災は狐疑に生ず。
● 兵を用うるの法は、教戒を先となす。一人戦いを学べば十人を教え成し、十人戦いを学べば百人を教え成し、百人戦いを学べば千人を教え成し、千人戦いを学べば万人を教え成し、万人戦いを学べば三軍を教え成す。
● 戦いを教うるの令は、短者は矛戟を持ち、長者は弓弩を持ち、強者は金鼓を持ち、弱者は厮養に給し、智者は謀主となす。郷里あい比し、什伍あい保つ。一鼓して兵を整え、二鼓して陣を習い、三鼓して食をうながし、四鼓して弁を厳め、五鼓して行に就く。鼓声の合うを聞きて、然る後に旗を挙ぐ。
● 三軍の進止の道、天竈に当ることなかれ。竜頭に当ることなかれ。天竈とは大谷の口なり。竜頭とは大山の端なり。
● 卒騎を畜うに、むしろ人を労するも、慎みて馬を労するなかれ。常に余りあらしめ、敵の我を覆うに備えよ。よくこれを明らかにする者は、天下に横行せん。





(私論.私見)