統一教会の霊感商法

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).6.22日



 「家庭連合の教義」。
 家庭連合の教義
 世界平和統一家庭連合の主な教義は、「統一原理」と呼ばれる体系的な思想です。統一原理は、人が正しく生き、理想家庭と世界平和を実現して幸福になるための道として、文鮮明総裁が長い年月をかけて宇宙に潜む普遍的真理を解き明かした体系的な理論です。統一原理は ①創造原理(宇宙の根本原理、神の創造目的が説かれる)、②堕落論(不幸の原因である原罪の真相が解き明かされる)、③復帰原理の3系から成り立っており、宇宙の根本は何か、人生の目的は何か、人間はどうして生まれたのか、不幸の原因はどこにあるのか、どうしたら平和で幸福な世界ができるのか、といったさまざまな問題が明確に解かれ、人類の未来に新たな指針を与えるものです。
 1. 創造原理

 神様とはどんな存在なのか、そして人間や世界がなぜ生まれたのかという理由が明らかにされているのが創造原理です。神様が人間を創造された目的は、息子・娘である人間に喜びと幸福の根源である“真の愛”を相続させるためでした。そして、息子・娘である人間が真の愛によって結ばれ、喜びと幸福の中で生きる姿を見ることによって、神様御自身も喜ばれようとされたのです。喜びや愛は、決して一人では成すことができません。神様の愛の理想を実現するために、愛する対象として造られたのが、まさに私たち人間なのです。創造原理では、そのような神様の創造目的(人間の人生の目的)を明らかにし、かつ宇宙を貫いている発展と調和の法則や霊界の実相などを明らかにしています。

 2. 堕落論

 愛と善の理想体として創造された人間であるにもかかわらず、現実の世界には個人から家庭、世界に至るまで争いと不幸が絶えない。それは一体どうしてなのか?それは、人間が神様の願われた本来の位置と状態を失ったために生じたもので、その結果として悲惨な姿になつている。それは人間が堕落によって、神様の真の愛を喪失してしまったことを意味している。 堕落論では、「なぜ神様がいるのに世界は平和にならないのか?」、「なぜ人間は不幸から逃れることができないのか?」、「この世界にはびこる罪と悪の原因は何か?」を明らかにしている。

 神話の世の時のエデンの園でのエバの木の実食べ逸話。或る時、エバが善悪を知る木の実を蛇にそそのかされて食べ、その実をアダムにも食べさせた。二人は知恵の目が開き裸であることに気付いた。神は、取って食べるなという神の戒めを破ったので二人を楽園から追放した。この逸話で、文鮮明は、蛇とは後にサタンとなる堕天使にして元天使長のルシファー(統一教会ではルーシェルという)であり、人類始祖のエバがそそのかされて食べた禁断の果実とは、ルシファーとの禁断の愛であったと断じる。神様はアダムが一人でいては寂しかろうと、アダムのあばら骨からエバを作ってくれたのであるから、エバはアダムの伴侶である。しかるに、エバはルシファーと不倫をおかし、次いでアダムとも慌てて性関係を持つなど堕落した。そして、サタンからエバ、エバからアダム、人類の始祖から子孫たる全人類に神に背いた悪の血統が相続された。人間が罪を犯すのはサタンの血をひく末裔(まつえい)のゆえとしている。


 アダムとイウのイブが天使と不倫つまり浮気、セックスをしたのを原罪としている。旧約聖書にはイブが禁断の知恵の木の実を食べたことを原罪として、女性に苦しみを伴う出産と労働(どちらも英語でlabor)が背負わされたとしているが、「禁断の知恵の木の実の食」を「イブが天使と不倫つまり浮気、セックスをした」と独特の解釈をしている。「旧約聖書の改ざん、捏造」と云うよりも「独特の統一教会式解釈」であろう。

 続いて、神は人間を神の側に取り戻す計画を考え救世主を派遣した。イエスがその人である。そのイエスは十字架で殺害された。神は計画を変更せざるを得なくなり、イエスを天にあげられ、イエスの復活を信じるものたちに霊的救済のみを約束された。しかし、神は人類の肉体も含めた完全な救済(復帰の摂理)をお考えになり、人類に再臨主を遣わした。その再臨主こそ何を隠そう、文鮮明でありその言である、としている。これによれば、文鮮明はイエス以来の、イエスを凌ぐ救世主ということになる。これも、「旧約聖書の改ざん、捏造」と云うよりも「独特の統一教会式解釈」であろう。当たっているのならまだしも、そうでなければ俗に噴飯物と云う。

 3. 復帰原理

 悲惨な姿に陥ってしまった人間を、神様は決して見捨てたわけではない。神様は愛する子女を取り戻すため、今日まで長い歴史をかけて救援の摂理を行ってこられた。それはまさしく、人類が神様の真の愛を取り戻し、再び神様を中心とした理想世界を築いてゆく過程にほかならない。その神様の救いの計画と努力は、旧約・新約聖書をはじめとする人類の歴史の中に綿々と綴られている。しかし、その多くは比喩や暗号で書かれており、特別な法則に照らして解かない限り理解することができない。復帰原理では、「人はどうしたら救いを受けることできるのか?」、「聖書の中に隠された救いの原則とは?」、「歴史の中に綴られた神様の計画と意図は何か?」を明らかにしている。


 「世界平和統一家庭連合教理」(2022/10/01ウィキペディア(Wikipedia))。
 1952年、文鮮明が「原理原本」を著わす。統一教会で「原理」とは、文鮮明が霊的体験や独学によって与えられた啓示とされる。同書は、韓国の神秘主義的キリスト教改革運動の流れを汲む「イスラエル修道院」の金百文(キム・ベンムン。キリストの親臨を主張した、柳明花の信奉者のひとり白南柱の弟子)の著作「基督教根本原理」(1946.3.2日起草、1958.3.2日発行)の執筆中の1945年頃、文鮮明と妻の崔先吉が共にイスラエル修道院に通い、金百文の教え盗作したという証言がある。統一教会側は「金百文の著作が世に出る前に、『原理原本』そして『原理解説』(1957年発行)が作成された」と主張している。
 1954年、統一教会が創立されて以降、一貫して、聖書よりも「原理原本」が重要視されており、現存する聖書によるキリスト教の正典を超越すると考えられている。
 1966年、文鮮明の高弟である劉孝元(ユ・ヒョウォン、教会長、1970年死去)が文鮮明の「原理原本」を増補し、彼の説教を整理した「原理講論」(原理講話)の初版が刊行され、表向きは「聖書の解説書」と称するがこれが統一教会の実質的教典となる。日本語版は1967年に刊行される。「原理講論」(原理講話)は初版以降数度改版され、新しい部分も追加されている。はしがきには、本書が完成版ではなく、編者により適時増補、または加筆修正される可能性のあることが説明されている。「原理講論」(原理講話)の言葉を勝手に解釈したり、自分の言葉を付け加えることは、分派発生の原因になるとして禁止されている。第3版で、メシアが韓国でうまれ、文鮮明がメシアであると書かれている。
 ハンガリー人のカトリック神学者・神父で上智大学神学部教授であったネメシェギ・ペトロは、「原理講論」(原理講話)では、神は「ゲルマン民族を新しい選民として立て」たという主張を基に、古代末期以後の歴史はすべてゲルマン民族に集中して語られていて、カトリック教会はキリスト教の堕落したものとして描かれており、ルターが新しい福音の光をもたらした存在とされるなど、韓民族を現在の選民であるとする最後の唐突な飛躍を除き、ゲルマン・アングロサクソン系のプロテスタンティズムの立場で書かれていると述べている。(日本語版では削除されているが、英語版には、「韓国の民が神によって選ばれた第三のイスラエルとなる」と書かれている) 聖書に預言された再臨のキリストが文鮮明であるとしており、エホバの証人、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)同様に他の全てのキリスト教会から異端と見なされている。
 弟子がまとめた教説よりも、生きている文鮮明が直接語った言葉こそが神の教えと考えられるため、教祖の言葉をまとめた膨大な「文鮮明先生御言選集」(1961年から2010年にかけて不定期に発行されており360巻以上(全615巻)で)全て韓国語で編まれている。1冊あたり300ページから400ページ。「御旨と世界」(1985年)などの説教集、信者の規律についての「御旨の道」なども併せて教義体系を構成している。近年では説教集「天聖経」(2003年編纂)が重視されるようになっている。 他にも「天一国経典」があり、天聖経、平和経、真の父母経の3冊からなる経典もある云々。
 統一教会教理の「原理」は旧約聖書、新約聖書の解釈であり、「究極的、決定的な真実である」としている。「原理」は主に「創造」、「堕落」、「復帰」の3つの部分からなる。『原理講論』は文鮮明の啓示の様々な解釈を書いたもので、「原理」とは区別されているが、『原理講論』の「堕落論」には、「人間始祖の堕落によって、その子孫が、一人残らず、神の血統を受け継ぐことができず、サタンの血統を受け継いでしまった」と記され、「真の父母として降臨されるイエスのみがこれを知り、清算することができる」としている。プロテスタントの日本基督教団牧師・宗教研究者の石井智恵美は、教義内に明確な記述はないが、信徒にとって教祖の文が「再臨のイエス」=「人類と霊界を結ぶ比類ない存在」であることが信仰の前提であると述べている。神の愛を中心に結婚し、完全な子供を産み、真実の家族を作ることで、地上の楽園(地上天国)を建設することが目指される。ネメシェギは、『原理講論』の思想の特徴として、朝鮮半島の陰陽説、文鮮明が受けたキリスト教的教育に由来する一神論と旧・新約聖書の権威の容認、根本主義的な聖書解釈、象徴的聖書解釈、科学性の主張、終末論的歴史神学、神との「霊交」で得られたという「啓示」を挙げ、『原理講論』の教えの根拠は、実際には哲学・自然科学・客観的な聖書解釈・キリスト教会の教えのいずれでもなく、真の根拠は著者が述べているように、文鮮明が受けたという「啓示」であると述べている。キリスト教における「再臨論」も説いており、韓国を蕩減復帰の民族的な基台を立て、第三イスラエル選民となければならないとしている。信徒は「ムーニー(Moonie、Moonies)」と称される。
 神の世界創造の目的
 神はこの世からの刺激によって、はじめて喜びに満たされるとされている。旧約聖書の創世記第1章28節「生めよ、増えよ、地を従わせよ」を次のように解釈する。神の創造の目的は3つある。統一教会では三大祝福と呼ぶ。「生めよ(פרו)」は人格完成、個性完成せよのメッセージと解釈する。ヘブライ語「פרו(ペルー)」にはそのような意味はない。「増えよ(ורבו)」は、子供を産み増やせであり、家庭完成せよと解釈する。「神の二性性相が各々個性を完成した実体対象として分立されたアダムとエバが夫婦となり、合体一体化して子女を生み殖やし、神を中心として家庭的な四位基台をつくらなければならないのである」と云う。「地を従わせよ(ומלאו )」は、万物を主管せよと解釈する。これが神が人間にだけ与えたもの。神、人類、その他の生物の調和のとれた理想的な世界を創造することを意味する。「万物世界に対する人間の主管性の完成を意味する」とされる。人間は完全な家庭を築くことで、完全な社会、国家、世界を実現するために「増殖」できるのである。家庭形成は「アジア的家族主義を織り込んだ人間論」(櫻井)であり、神の創造目的に取り入れられている。
 楽園追放と原罪
 旧約聖書の創世記に、神が創造した最初の人類であるアダムとエバが罪を犯し楽園を追放される逸話がある。「原理」は、エバが悪魔であると解釈される蛇にそそのかされて、次にアダムがエバにそそのかされて、食べることを禁じられていた知恵の樹の実を食べた。この罪のために、二人は神に罰せられて、人間は死や労働、出産の痛みといったあらゆる生の苦しみを持つようになり、この世に罪と死とのろいが入り込んだとされる。西方教会では、これがアダムとエバから全人類に「原罪」(ラテン語: peccatum originale)として受け継がれていると考えられている。

 原理講論は、文鮮明の説教からルシファー(原理講論ではルーシェル。、Luciferの北朝鮮式発音。魔王サタンが堕落する前の天使の頭の呼称)の堕落を次のように説明している。ルシファーは元々神に最も近い大天使で、神の愛を独占するような位置にいたが、神が人間を創造した後はその愛が減少したと感じた。ルシファーは嫉妬に駆られてエバを誘惑し、エバは10代の処女であったが、「神のように目が開けることを望み、時ならぬときに、時ならぬものを願い」、両者には授受作用(相互作用)が生じ、「不倫なる霊的性関係」を結んだ。統一教会ではこれを「霊的堕落」と呼ぶ。但し、天使は肉体を持たないため、これは肉体的な交わりではなく霊的交わりであったとしている。ことの重大さに気が付いたエバは、罪悪感から神の元に戻りたいと願い、神が定めた配偶者であるアダムと結ばれようと、彼をそそのかし性的関係を結んだ。エバは神の元に戻れたと思ったが、ルシファーとの「授受」は真の配偶者との「授受」だけでは回復されず、さらにエバとアダムが性的関係を持つことは神の意志ではなく、神の祝福を受けていなかった。エバは3重に罪を犯しており、神に従うべきであり、婚約者を裏切るべきではなく、婚約者と共に完全に精神が成長してから性的関係を持つべきだった。アダムとエバは、自らの個性を完成する前に時期尚早な夫婦関係を結び、それは神ではなくルシファーを中心としたものであったため、人間は家庭形成に失敗したとしている。これを「肉的堕落」と呼ぶ。以降すべての人間は、善と悪、神の要素と堕天使の要素を併せ持つ存在になった。アダムはエバと性的関係を結ぶことで、エバがルシファーから受け継いだすべての要素を受けつぎ、子々孫々にもサタン(ルシファー)の血統が継承されているという。これが統一教会における「原罪」である。原罪は遺伝によって伝わるようなものとされている。アダムとエバはその罪によって、人類を偽りの主、サタンに仕えさせることになった。
 イエス・キリストと再臨のメシア
 統一教会では、イエス・キリストは既成神学における三位一体の存在ではなく、霊的な三位一体と解釈する。心情的には神と一体であるが、イエスを神と言えるのは「すべての完成した人間は神と一体である」という意味においてのみであり]、「創造理想を体現した男性」としてその価値は認められる。この点が、主流派キリスト教と最も異なる点である。イエスは、司祭ザカリヤとマリアの間に生まれた原罪のない人間であると考えられている。

 イエス・キリストは、サタンが不当に奪った神の「主管性」を回復し、堕落した人類を原罪のない善の人類に産み直し、神を中心に据えた新し人間の血統を築き、地上天国を築くために来たとされている。聖霊は女性神であり、真の母でありエバであるとされる。神はユダヤ民族をはじめとする全人類を救うための代償として、イエスの肉体をサタンに引き渡さざるをえず、イエスの肉体はサタンの侵入を受け虐殺されたとしている。そのためイエスの肉体が復活することはなく、今は霊人間として神のもとに生きているという。

 イエスは十字架上で死に、それは人類の霊的救済のための蕩減条件(代償)になり、霊的救いが達成されたが、新しい血統を築くことはできなかったため、救いの摂理は完成されていないと考えられている。

 イエスの死はイエス自身の失敗によるものではなく、洗礼者ヨハネや弟子たちといったほかの人間がイエスを裏切り、見捨て、ユダヤ人が彼を受け入れなかったためであると考えられている。統一教会の信者たちは、神はイエスの死を「神の国」を築くための手段にしようとはしなかったことを強調する。

 宗教史学者の古田富建は、統一教会の教理の核心は、神、イエスの「恨(ハン)」を解くこと、つまり「恨解(ハンプリ)」であると述べている。「恨」とは、朝鮮文化を語るときにクリシェとして用いられる言葉で、その意味合いには幅があるが、韓国近代宗教史の研究者の川瀬貴也は「様々な要因で叶えられなかった思いが、澱のように沈んでいる状態」と表現している。

 韓国の民族的な霊魂観においては、夭折者・横死者は成仏できず、怨みを抱いた「怨魂」となって彷徨うとされており、特に無念を抱えた者、子孫を残さずに死んだ者の恨みは強く、生者に災いをもたらすとされる。こうした死者の恨みを鎮める儀礼が「恨解」である。

 統一教会では、人間の堕落のために神の創造目的を果たすことができず、神に「恨」を作ったと考えており、神はこの「恨」を解くためにメシアとしてのイエスを遣わしたが、人間が「責任分担」(5%の責任)を果たせずイエスを殺してしまったため、神の「恨」はさらに大きなものになったとされている、と説明している。

 1960~70年代の韓国のキリスト教の一部では、「恨」を教義に取り入れている。李龍道はイエスを人間として理解しようとし、三位一体を否定していた。

 古田富建は、李龍道らはイエスを悲しみや痛みを抱える人間としてとらえ、その孤独や悲しみを理解し共感しようとする姿勢が、聖主教ではシャーマナイズ化された「恨解」の儀礼となっていき、統一教会では教義の根幹になっていると述べている。1965年ごろに、「恨」という言葉が文鮮明の説教に定着した。


 イエス・キリストを救世主として崇める一方、イエスがやり残した多くのことを成就するために、「再臨のイエス」が韓国に生まれると主張している。それは、地上に戻ったイエス・キリストではなく、イエスが霊界から支援する、聖書に示されている普通の人間であるとしている。

 文鮮明はメシアが、出生する時期や場所といった条件を示しているが、メシアが生まれる地とは韓国であり、示された条件には文鮮明自身が適合する。神学的には、メシアは一組の男女である。文鮮明は1960年に、23歳若い17歳の信者韓鶴子と結婚し、メシア的使命の一環として14人の子供をもうけた。文鮮明は1992年に自身と妻が全人類の真の父母であり、救世主で、再臨の主であり、メシアであることを宣言した。この宣言の前が「新約の時代」、以降が「成約の時代」であるとされる。新宗教やニューエイジなどを研究し、統一運動を肯定的にとらえるウェールズ大学のサラ・ルイスは、この宣言以降、信者自身がメシアになりうるというように強調されるようになり、文鮮明がメシアであるということへの言及は減ってきていると述べている。

 メシアを受け入れることができなければ、ユダヤ人やローマ時代のキリスト教徒、江戸時代のキリシタンのような受難を罰として与えられると考えられている。
 人間における神の要素とサタンの要素の戦い
 人間の堕落は、上記の神と人間の関係を損なったという縦の軸(信仰基台)だけでなく、もうひとつ人間を人間性自体から引き離したという横の軸(実体基台)があるとされる。横の軸の堕落は、旧約聖書におけるアダムとエバの息子カインとアベルの、兄カインが弟アベルを殺したという逸話に基づいている。この人類最初の殺人によって、人間における神の要素とサタンの要素が分離し、互いに争うことになり、横の軸の堕落が起こったとされる。

 「最初の兄弟」の間の敵意は、歴史を通して民族、国内・国際的レベルで繰り返されており、20世紀における無神論共産主義(カインの勢力)と神を畏れる民主主義(アベルの勢力)の衝突に明らかに見られるという。

 世界中に民主主義が現れたのは神の復帰摂理によるもので、共産主義の専制政治はそれに対抗する悪魔によるもである。従って、第三次宗教改革によって、理念的に共産主義勢力を屈服させ、世界を一つの地上的な「神の国」に統一することが指される。

 文鮮明は、もし理念的戦いに勝利、つまり共産主義のイデオロギーが敗北しなければ、第三次世界大戦が起こり、タン側の共産主義が敗北するだろうとしている。そして原子力による第三次産業革命がおこり、幸福で理想的な社会環境が世的に建設される。その時全人類はキリスト教(統一教会)を受け入れ、最後に神を中心とした、神主義が現れなければならない、という。
 二性性相(陰陽二元論)
 初期には、『原理講論』で説かれた統一原理は宗教と科学を統一する原理であると考えられていた。神の存在の弁証も自然科学的な因果論的推測に基づき、結果から原因を探ろうとしている。被造世界を観察することで、神の神性を知ることができると考え、観察によって知れることは、被造物がすべて陽性と陰性の二性による授受作用(相互作用)により存在するということであり、存在というものは性相(内性、性質を示す内性)と形状(外形、内性が現れた外形)の二相を持つとしている。

 神は霊とエネルギーという二重の性質からなるとされ、この2つによってあらゆるものが生まれるとされる。神はエデンの園でアダムとエバを作り、神自身の二重性を反映させた。人間には外形である肉体と、内性である精神が備わっているとされる。

 神の内性の本質は心とも呼ばれ、神がどのように人間の復活を達成しようとしているかを理解するには、神の心にある愛、喜び、悲しみといった、もっとも奥深い神の感情を理解することが重要であると考えられている。人間は神の似姿として想像されたのだから、神は男性的な面と女性的な面の両方を持つと考えられているが、習慣的に神は男性として「父」と呼ばれている。

 被造物がすべて陽性と陰性の二性を持つという考え方は陰陽二元論であり、宗教社会学者の櫻井義秀は、「この発想は統一教会が人間を男性性と女性性において理解し、双方の性質が合体した時に繁栄・繁殖がもたらされるという基本的なモチーフから出てきている」と述べ、極めて民族的、東アジア的な感覚に根差したものであり、イスラエル・アラブの民の神の理解と著しく異なることを指摘している。内と外、男性と女性は対極にあるのではなく、それぞれがもう一方の要素を内在していると考えられている。
 四位基台
 四位基台という概念は、神と、神の二性性相から生まれた男性(主体)、女性(客体)、男女の相互作用(授受作用)で生まれた子(合性体)が、それぞれほかの3つの対象と相互作用を持ち、「主体と合性一体化をなすという菱型モデル」である。
 祝福
 イエス・キリストによる救済は霊的救済のみに留まり、子孫を残さず天に上げられたため、肉的救済は次のメシヤである文鮮明に託されており、悪魔の血筋を絶つためには文鮮明直々の祝福が必要とされている。文鮮明夫妻が人類の真の父母として信者に「祝福」を与えなければならないとしている。

 祝福は、文鮮明夫妻司式の合同結婚式で教祖に配偶者を決めてもらう信者同士の結婚である。結婚したカップルだけが天の御国に入ることができ、祝福を受けた家庭からは原罪のない(悪魔の血筋を引かない)子供が生まれるとされており、特に重要な儀式である。祝福は象徴的な堕落の撤回のプロセスであり、これによってサタンの血統から自由になり、メシアの血統に結び付けられる。無原罪の子をなし、神を中心とする家庭を完成させることが目的であるとされる。昔は文鮮明が信者の結婚相手を選んでいたが、現在は信者登録するとマッチングサポーターが好みのタイプの信者を紹介してくれる。


 祝福では、メシアとの一体化による「血統転換」を象徴する秘儀ともとることができる「聖酒式」が行われていた。初期の合同結婚式では、新婦が「聖酒」を半分飲み、残りを新郎が飲み干す儀式が行われていた。儀式に使われるワインには、文鮮明と韓鶴子の結婚式で使われたワインがわずかに含まれ、受け手の血統を転換する力があるとされる。

 1992年時点では聖酒式ではなく、文夫妻が参加者一人一人に水滴をかける「聖水儀式」が行われていた。また祝福を受ける前には、すべての罪を贖い合うことを象徴する、結婚する男女が互いにバットのような棒で互いの臀部を3回たたく「蕩減棒」という儀式も行われた。挙式後は家庭生活に入る前に、最低40日間の「聖別期間」という心身を清める準備期間があり、夫婦の性交はその後に行われる。最初の性交には詳細な手順が決められている。

 カップルのマッチングの権威は、文鮮明から各国の祝福委員会に次第に移譲された。祝福を受けた妻たちがスタッフとして入るなどしているこの委員会が、資格を持った候補者たちを、相手の好みのデータを基に組み合わせる。相手が気に入らなければ、断って次の紹介を頼む人もいる。

 現在では、40日間の分離期間を除く蕩減条件は削除されている。いずれにしても、過去から現在に至るまで教団で祝福する男女のカップルのマッチングは、女性(妻)の方が1〜4歳程度年長である「姉さん女房」となるように組み合わせられる場合が多い。教祖一家である文一族や既成祝福の場合を除き、男性(夫)が年長者であるカップルは稀である。

 宗教学者のダグラス・E・コーワン、宗教社会学者のデイヴィッド・G・ブロムリー は、初期には祝福を受けるために多くの奉仕が求められたが、現在は候補者は24歳以上で3年以上会員であることが求められ、儀式も簡素化されていると述べている。

 1992年には、祝福には非会員も候補に入れられるようになり、90年代半ばには、存命中の信者と亡くなった配偶者との再結合、信者の先祖も祝福の候補に含まれるようになった。2016年の合同結婚式には、主催者によると62カ国から約3000組が参加し、うち日本からは778人、オンラインでも世界から1万2000組が参加したという。会場で結婚した3000組のうち1000組は新規の結婚で、残りの2000組は入信前に結婚しており、改めて祝福を受けるために出席した。

 ジャーナリストの鶴野充茂は、統一教会によると、コミュニティ内の出生率は第二次ベビーブーム時並みの2.1人、基本的には結婚率100%で、離婚率は1.7%と非常に低いと述べている。

 2016年5月、フジテレビの番組「みんなのニュース」の中で、合同結婚式が取り上げられており、かつては直接会ったことがない信者同士を文鮮明氏が“組み合わせ”ていたが、現在は、教団のマッチングサポーターと呼ばれる仲人が、信者から希望をヒアリングして、信者の相手探しを手伝うことになっている、と報道されている。
 同性愛
 統一教会は祝福による男女の結婚・家族形成による救いを主張しているので、それに反する同性愛は「創造の原理に反する不自然な関係」であるとして否定・批判している。統一教会は「同性愛は倫理道徳の問題であり、人権問題ではない」、「キリスト教はもちろんのこと、同性愛を“罪”とみなすのは、古今東西の主要な宗教で共通している」と述べている。同性婚を認めれば、「不倫はもちろんのこと、一夫多妻や近親相姦などの“権利”を主張することも可能となる。さらには、文字にするのもおぞましいが、『獣婚』(獣姦、動物とセックスすること)も論理的には認めざるを得なくなる」と、国や時代でも大きく異なる複婚・ポリアモリーや近親婚などへの偏見や蔑視を交えて主張している。
 霊魂観
 統一原理では、アジア的な霊魂観が説かれている。被造世界は神に似た人間を標本に創造されたため、あらゆる存在は心と体からなる人間に似ているとされ、独特な霊界、霊人間の存在が説かれる。霊界は霊的な五官で知覚される実在世界であるという。霊人間は現実の人間の合わせ鏡のようなものであり、霊魂を浄化するには身体の浄化や贖罪が必要であり、それをしなければ地獄行きであるとされる。天国には地上に建設される地上天国と、その建設に伴ってできる霊界の天国があり、死後に霊界天国で安らぐために地上天国の建設が目指される。
 終末観
 現在は、サタンの支配する罪悪世界から、神が支配する創造理想世界に転換される終末(末世)であるとされる。
 復活
 復活とは、サタンの支配圏に堕ちた立場から、神の支配圏内に復帰するその過程を意味するとされる。統一教会では、イエスが埋葬された3日後に弟子たちの前に現れた復活など、キリスト教の伝統的な復活論は全く顧みられていない。聖徒、善霊、悪霊といった霊界をさまよう霊は、地上の人間に憑依して思いを遂げるとされ、霊たちの助けで摂理が進むとされる。
 蕩減(とうげん)
 原義(朝鮮起源の漢字語) は、借金を全部帳消しにすること。借債を悉く免除してやること。remission(ゆるし)。「蕩」の字義は「すっかり無くする。『蕩尽/掃蕩』」。韓国では一般に金融用語として「債務の減免」の意味で使われ、頻繁にマスコミに登場する。また韓国語聖書で負債や罪の「ゆるし」の訳に用いられており、韓国のキリスト教会の教でも頻繁に用いられる。キリスト教の基本的用語にも関わらず信者達は原義を知らない。

 「本来の位置と状態を復帰するために必要な条件を立てる(満たす)こと」、英訳は「indemnity(賠償)」。救済、正確には復帰のプロセスは、神と人間の関係という縦の次元と、人間同士の関係という横の次元がある。復帰は、信心や行いではなく、蕩減(とうげん。償いの意)によって得られるとされる。人類はメシアが出現できるだけの「基台」を築くように務めなければならない。救済の摂理において、神の責任分担は95%、人類の自己責任分が5%であるとされる。神が求めるのは、人間の罪を償いうるに足る以下のものだが、その正確な量は神によって決められるとされる。摂理の成就は、信者の信仰と働き次第であり、よって完全な献身を求められる。
 体恤

 
原義は、己の身を其の人の境遇に置いて察しあわれむ。上位にいる者が下位の者の困難な事情を理解して面倒をみてやり助けてやること。compassion。韓国語聖書に「憐れみ」の意味で数箇所訳されている。そのため韓国キリスト教会の説教テーマにも用いられる。キリスト教の基本的用語にも関わらず信者達は原義を知らない。

 概して体得、血肉化というような意味に理解され、内部教材にはexperience(体験),incarnation(受肉)と記載されている。作家・萩原遼は著書「淫教のメシヤ・文鮮明伝」で「血分け教(イスラエル修道院、統一教会)では『血肉化する』という意味に用いている」として「血分け」と結びつけている。
 受肉

 
原義は、神が人の形をとって現れること。キリスト教では、神の子キリストがイエスという人間性をとって、この地上に生まれたこと。托身。化身。Incarnation。キリスト教の基本的用語にも関わらず信者達は原義を知らない。内部教材には体恤と同義語として記載されている。
 日本「エバ」論
 日本のセミナー等で、原理講論で説かれる堕落の経緯と復帰の歴史を説明される際に、韓国は「アダム国家」、日本は「エバ国家」とされ、先に堕落したエバがアダムに侍ることは当然であると説かれている。 朝鮮を植民地支配し民族の尊厳を踏みにじった日本はエバと同じであり、韓国に贖罪しなければならないとされている。合同結婚式では、日本人女性・韓国人男性のカップルが多く生み出されており、結婚した日本人女性は韓国人の夫や家族に尽くすことが求められる。サタンと姦淫したエバである日本とアダムとされる韓国という構図で規定される。朝鮮半島は男性器、日本は女性の陰部といった比喩も存在する。

 旧・統一協会(天の父母様聖会・世界平和統一家庭連合)の創設者で自称再臨のメシアとして崇められた故・文鮮明(ムン・ソンミョン)氏の三男・文 顕進(ムン・ヒョンジン)氏が自らを「再臨したイエスの実体である」と宣言し、「第4のアダム」と名乗った上で宗教活動を行なっている。顕進氏は今年2月12日の協会行事の中で自分の名によって祈り神格性を露わにした。顕進氏は「家庭平和協会(Family Peace Association)」という平和運動団体を設立、現在も団体を率いている。協会側の主張では「宗教ではなく、家庭平和を掲げる団体である」と説明しているが、実際は統一協会から離脱した「分派」であり、文 顕進氏に追従する信者たちによって構成される宗教団体だ。顕進氏は父親である故・文鮮明氏から統一協会の後継者として指名され、正統な「王位」を継承したと強く主張を続けている。しかし、統一協会はこれを認めず、文鮮明氏が死去すると母親の韓鶴子(ハン・ハクジャ)氏が全権を掌握。自分がメシアだと宣言し、夫の「メシア性」を否定する発言を繰り返した。また、組織に背いたという理由から自分の息子である三男と七男を追放した。息子たちはそれぞれ宗教団体を立ち上げ、自分が正統な後継者だと主張。三男は家庭平和協会を設立し、七男はサンクチュアリ協会(世界平和統一聖殿)を立ち上げた。特に七男の文亨進(ムン・ヒョンジン=発音は同じ)氏は自分こそ父親の王位を継承した「王の王」と主張。米国を拠点に銃で武装し来たる「終末時代」の戦いに備えるなど過激な言動が目立つ。


 統一協会に対してキリスト教(カトリック、プロテスタント)の正典は、聖書のみです。統一協会のように聖書以外に権威ある書はありません。聖書にも次のように書かれています。

この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。 また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。

ヨハネの黙示録 22:18‭-‬19 新共同訳

この書物とは、おそらくヨハネ黙示録だとされますが、ヨハネ黙示録は聖書の最後に置かれています。そのことから、聖書全体をあらわすとも解釈されます。聖書以外に権威ある書物はつけくわえるな、とヨハネは言っていると私は思います。

新約聖書の27書が正典と認められたのは、第三回カルタゴ会議(397年)によって認定されました(参考サイト)。

キリスト教会の詳しい教えは、カトリック教会のカテキズムを学ぶとわかりやすいと思います。カトリック教会では聖書と聖伝(聖なる伝承)を大切にするに対して、プロテスタント教会は聖書のみに重点をおきます。しかし正典は聖書のみで共通している。日本で使われている聖書も、カトリック教会とプロテスタント教会の共同で翻訳した聖書(新共同訳、聖書協会共同訳)が、ミサや礼拝で使われています。プロテスタント教会では新改訳聖書を用いる教会もある。日本聖書協会より出版されている口語訳聖書は著作権フリーなので、一部この文章でも使用している。

メシアとは、救い主という意味で、聖書ではイエスに対して使われている。メシアのギリシャ語がキリストで、キリスト教ではナザレのイエスをメシアと信じている。聖書では、イエスが次のように言っている。

イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。

マタイによる福音書 24:4‭-‬5 新共同訳

https://cult110.info/unification-church-touitsukyoukai/family-peace-
association-uc/

には、次のように書いています。



キリスト教では、十字架で死なれ復活したナザレのイエスのみがキリスト(メシア)と信じています。聖書ではイエスの弟子であったペトロは次のように言っています。


イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。マルコによる福音書 8:27‭-‬30 新共同訳

イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

ルカによる福音書 18:15‭-‬17 新共同訳

イエスは子どもたちこそ、神の国に近いと言われています。たとえ、献金できるお金がなくても、神さまは子どもたちの存在そのものを愛してくださるのです。大人になってたとえ貧しくても、神さまは私たちを愛してくださり、救ってくださるのです。神さまは、私たちの弱さや欠点を含めて、ありのままを愛してくださるのです。

イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。 そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。

マタイによる福音書 17:22‭-‬23 新共同訳


金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。

ヘブライ人への手紙 13:5 新共同訳


金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。

テモテへの手紙一 6:9 新共同訳


お金を持つことは悪いことではありません。しかし、お金に執着する宗教は、お金を信者から搾取します。聖書はその危険性について警告しています。


日本はエバの国?

英語のwikipediaには、次のように書いています。


They say the Unification Church has a "ridiculous" doctrine that Japan, Eve's country, is obliged to pay money and people to Korea, Adam's country.

 According to Steven Hassan, Moon's theology is that Korea is the Adam country, the home of the ruling race destined to rule the world, and Japan is the Eve country, subordinate to Korea. 

彼らは、統一教会には、エバの国である日本がアダムの国である韓国にお金と人を支払う義務があるという「ばかげた」教義があると言います.

スティーブン・ハッサンによると、文鮮明の神学は、韓国は世界を支配する運命にある支配民族の本拠地であるアダムの国であり、日本は韓国に従属するエバの国である.


~聖書の創世記には、神がアダムとエバを造られたことが書かれています。


また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。

創世記 2:18‭, ‬21‭-‬22 口語訳


さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。

創世記 3:20 口語訳


聖書では神が最初に造られた人をアダムとよび、女性をエバといいます。この関係は、「ふさわしい助け手」という言葉と翻訳されています。ヘブライ語でエゼル(עֵ֖זֶר)と書かれています。それはどちらかが上にたって支配するのではなく、共に支えあう存在であり、パートナーな存在なのです。したがって、統一協会の教えである、日本がエバで韓国のアダムに仕える教えは、無理な聖書解釈であると思われます。

この貧しい人が呼び求める声を主は聞き  苦難から常に救ってくださった。
詩編 34:7 新共同訳


 「文鮮明の統一教会 ― どんな事を信じているのか」。

 文鮮明は,自著「危機に瀕するキリスト教と新しい希望」(邦題,「希望の到来『希望の日』講演集」)の中でこう述べています。「私は個人的にイエスと会いました。そして,神の嘆きが非常に大きいという啓示をうけました。今日も神はすべての人類の最終的な救済のために休みなく働いておられます。神はこの仕事を相続する神の闘士を必要としておられます」。文鮮明はこれが,神に関する不敬な発言と映るかもしれないことを認めています。数年前,文鮮明は講演の中でこう語りました。「今日まで,キリスト教に於て,我々は神を天国のあまりに高いところにおき,人間を地獄のあまりに低いところにおしこんできましたので,神と人間との間には超えることのできない断絶がありました」。神に関する文鮮明の概念は聖書の中に見られるものではありませんが,東洋の宗教を学ぶ人にはなじみ深いものでしょう。同じ講演の中で文鮮明はこう言いました。「人間は神の見えるかたちであり,神は人間の見えないかたちであります。人間は実体化した神なのであります。……人間はその価値に於て,神御自身と同様に重要なものなのです」。

 文鮮明は世界の諸宗教の統一を世界の救済への第一歩と見ている。大抵のクリスチャンは天的なメシアに希望を寄せているが,「原理講論」は、キリストは「再臨のときも……地上で肉体をもって誕生される」に違いないと述べている。文鮮明の言う来たるべきメシアとは聖書のイエス・キリストではなく、ほかの人物、つまり今世紀に地上のどこかに生まれる男子のことです。その男子が生まれるのはどこか。「キリストが再び来られる東の国は韓国にほかならない」と「原理講論」は述べている。文鮮明の追随者たちは、文鮮明自身が約束のメシア、あるいは文鮮明の用いる言葉を使えば「再臨主」であると思いこませられている。

 統一教会の教理が聖書と矛盾するように思える場合、同教会の会員は何を信じるのか。「原理講論」はこう述べてる。「聖書の文字は真理を表現する一つの方法であって,真理それ自体ではないということを,我々は知っていなければならない。……新約聖書は今から二千年前,心霊と知能の程度が非常に低かった当時の人間達に真理を教えるためにくださった、一つの過度的な教科書であった。……今日の知性人達に真理を理解させるためには、より高次の内容と,科学的な表現方法によらなければならないのである」。文鮮明によると,「イエスに従った弟子達……は,……専ら心に感応してくる神霊に従った」とされている。文鮮明の追随者たちは同じようにすることを勧められている。「因習的な観念にとらわれず,我々は……新しい真理を探し求めなければならない」と「原理講論」は述べている。

 地上天国

 どうしてこの世には悪と苦しみが満ちているのか。アダムとエバがエデンの園で罪を犯したからである。「人間の悪なる歴史の土台はすえられ,サタンはこの世の支配者となったのです。……そして今や世界は,殺人と虚偽と盗みとに満ち満ちているのです」と文鮮明は述べている。

 地球にはどんな将来があるのか。文鮮明の答えは次の通り。「ある宗教家たちは神が地球を焼き尽くすと言いますが,神は決してそのようなことはされません。罪を犯したのは人間であって宇宙ではありません。……それ故に聖書は『世は去り,世は来たる。しかし地は永遠に変わらない。』……と言っています」。「わたしたちは「終わりの日」に住んでいるので,間もなく「全ての人々が,真の父母を通して新たにつくりかえられるでしょう。全ての人々が,この世界に罪なき子供達を生み殖やすことができるようになるでしょう。……地上天国は,その時始まるのです」。

 神の王国はどのようにして設立されるのか、この質問に対する文鮮明の答えは独特なものです。「結婚は,地上に神の国を実現するための最も重要な手段であります」。「イエスが結婚することを許されていたなら、罪なき神の国は,過去2000年の間ずっと現実のものであったはずなのです」。「イエスは、復帰されたエバの立場にある花嫁を迎え、最初の神を中心とした天的家庭をうち立てることを否定されたのです。その代わりに,イスラエルの人々はイエスを十字架にくぎづけてしまったのです」。

 文鮮明に言わせると,イエスがゲッセマネの園で,「わたしの父よ,もしできることでしたら,この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ 26:39)と祈られたのは,「イエス様は生きてその使命を果たしたかった」からだ,ということになります。その使命とは結婚をして,子供を育てることだったというのです。イエスの使命が果たされなかったために,わたしたちの時代に別のメシアが来て,結婚し,完全な子供たちを育て,人類が完全性に達するのを助けなければならない。「みなさんは,新たに『何の権威によってこれらのことを言うのか』と問われるかもしれません。私は霊界でイエス・キリストと話をしました」。

 若者が文鮮明の非聖書的な概念を簡単に受け入れてしまう事実は、それらの若者たちの家庭における宗教的な訓練がいかに貧弱なものであったかを物語っている。1世紀当時、使徒パウロは真のキリスト教を教えられた人々に対してこう書きました。「たとえわたしたちや天からのみ使いであろうと、わたしたちが良いたよりとして宣明した以上のことを良いたよりとしてあなた方に宣明するとすれば,その者はのろわれるべきです」(ガラテア 1:8)。統一教会はこうした教理を使徒パウロが理解していたような仕方で,また聖書に述べられているような仕方で理解しているでしょうか。同教会は聖書に記されているのと同じ「良いたより」を教えているでしょうか。文鮮明がキリスト教の基本的な教理の一つについて教えている事柄を考慮してみましょう。

 預言に記されているイエス・キリストの死

 『人の子は,仕えてもらうためではなく,むしろ仕え,自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与えるために来たのです』(マタイ 20:28)。このイエスご自身の言葉に見られるように,イエスの使命のかぎとなる部分はこの点にありました。すなわち,アダムの罪深い子孫たちのために贖いの犠牲として自分の完全な命を与えることです。米国ルイジアナ州ニューオーリンズに集まった群衆に対して,文鮮明はこう語りました。「今,私は大胆な宣言を行なっています。イエス様は死ぬためにこられたのではありません。……もし神がその子を十字架につけようとされたなら,選民を整えた4000年間は必要ではなかったでしょう。神はイエスを野蛮人の一部族に送りこんで,もっと早く殺させることができたでしょう。……このようにイエス様はご自分の意志でもない,[神のご意志でもない,]人々の意志によって十字架上で亡くなられました」。

 読者はきっと,イエスが犠牲の死を遂げることを神が意図しておられなかったなら,イザヤ書 53章などにあるイエスの死に関する有名な預言が聖書に含まれているのはなぜだろうか,という疑問をすでに抱いておられることでしょう。文鮮明はこう述べています。「私も……そのような預言を知っています。我々は聖書の預言には,二つの側面があることを知らねばなりません。一方はイエスの受難と死を預言しています。もう一方は,たとえばイザヤ書 9章,11章,60章のように,人々がイエスを神の子として,王の王として受け入れた場合の栄光の統治を預言しています。……神は人間がメシアを送る摂理にどのように反応するかわからなかったので,しかたなく相反する二つの結果を預言せざるを得ませんでした。二つの預言は人間の行為によってどちらともなり得たのでした」。

 「わたしの口から出て行くわたしの言葉も,それと全く同じようになる。それは成果を収めずにわたしのもとに帰って来ることはない。それは必ずわたしの喜びとしたことを行ない,わたしがそれを送り出したことに関して確かな成功を収める」(イザヤ 55:11 

 神の預言すべてが成就するには,メシアがその最初に現われる時に退けられ,戻られる時に栄光を受けて勝ち誇っていなければならないことは明らかです。ダニエル書 7章13,14節が明確にしている通り,イエスは地上の人間としてではなく,日を経た方であられるエホバ神に直接その天的な法廷で近付くことのできる力強い霊的被造物として勝ち誇って戻られます。ところが,統一教会はこの問題に関する聖書の明確な証言を受け入れません。同教会は地上で子供を育てる肉身のメシアを信じることの方を望むからです。そのような教理を正当化するために,文鮮明は将来を予知する神の能力を否定します。それで,弱い神,すなわち『人間と同じほどの価値しかない』方を宣べ伝えているのです。文鮮明は,「ある意味では,人間の裏切る才能の故に神もサタンも人間を恐れています」とまで言っています。文鮮明の語るこの「神」は,ご自分の壮大な約束を聖書に記録させた全能の神なるエホバでは決してありません。

 「蕩減復帰」

 「それでは,十字架の犠牲は全く無為に帰したのであろうか」と「原理講論」は質問を提起してから,こう答えている。「決してそうではない(ヨハネ 3:16)。もしそうであったとしたら,今日のキリスト教の歴史はあり得なかったのである」。「もし,イエスが十字架で死ななかったならば……イエスは霊肉両面の救いの摂理を完遂されたであろう。……彼は……地上天国を建設されたはずであった」。

 統一教会は,「蕩減復帰」と呼ばれる複雑な贖いの教理を展開している。「堕落によって創造本然の位置と状態から離れるようになってしまった人間が,再びその本然の位置と状態を復帰しようとすれば,必ずそこに,その必要を埋めるに足る或る条件を立てなければならない」。使徒パウロは次のように書きました。「すべての者は罪をおかしたので神の栄光に達しないからであり,彼らがキリスト・イエスの払った贖いによる釈放を通し,神の過分のご親切によって義と宣せられるのは,無償の賜物としてなのです。わたしたちは,人は律法の業とは別に,信仰によって義と宣せられる,とみなすからです」(ローマ 3:23,24,28)。ユダヤ人はモーセの律法の業によって自分たちの義を実証できると考えていましたが,彼らは依然として「罪の奴隷」だとイエスは言われました。彼らはどのようにして自由にされるのでしょうか。イエスはこう言われました。「わたしの言葉のうちにとどまっているなら,あなた方はほんとうにわたしの弟子であり,また,真理を知り,真理はあなた方を自由にするでしょう」(ヨハネ 8:31-34)。統一教会は明らかにイエスの言葉を踏み越えている。

 「霊人達」の影響

 文鮮明の蕩減の教理は生きている人たちだけでなく死者にも当てはまる。死んだ「霊人達」は文鮮明の追随者たちの良い業にあずかりたいと願っていると文鮮明は教えている。「死者」はどのようにしてこれを行なうのか。「原理講論」はこう答えている。「その霊人達は地上人達に火を受けさせたり、病気を治させるなど、いろいろの能力を顕わさせるのである。それだけでなく,入神状態に入って,霊界の事実を見せたり、聞かせたり、或いは、啓示と黙示によって預言をさせ,その心霊に感銘を与えるなど,いろいろの方面にわたる聖霊の代理をすることによって、地上人がみ旨をなしとげていくよう協助するのである」。これは危険な教理です! なぜなら死者には意識がなく,生きた人間と共に働く能力を備えていません。聖書ははっきりとこう述べています。「シェオル[墓]、すなわちあなたの行こうとしている場所には、業も企ても知識も知恵もない(の)である」(伝道の書 9:10)。

 文鮮明の弟子たちはだれの力によって預言し、『いろいろの能力を顕わして』いるのか。「預言の賜物があっても、それは廃される。異言があっても、それはや(む)」(コリント第一 13:8)と聖書は述べている。奇跡的な霊の賜物は、使徒たちおよび使徒たちに手を置かれてそのような賜物を受けた人々の死をもってやみました。神はそのような賜物を現在霊感によって与えることにより,ご自分のみ言葉に矛盾するようなことはされません。わたしたちの住む時代について,イエスははっきりと次のように警告されました。「その日には,多くの者がわたしに向かって、『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し、あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。しかしその時,わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と」(マタイ 7:22,23)。

これは厳しい言葉です。そして,統一教会の会員はこの言葉を心に留めるべきです。彼らのかかわり合っている「霊人達」は死者であろうはずがなく,神からのものでもあり得ません。それらの霊人達はイエスが正に警告された活動に携わるよう鼓舞しているのですから,そのような霊的勢力は神の敵である最初の欺まん者,サタン悪魔からのものでしかあり得ません。その霊人達は,欺かれやすい人間を幾千年にもわたって惑わし,また虐待してきた悪霊たち,つまり邪悪な霊者たちにほかなりません。自分が「霊人達」と協力していると信じ込んで自ら悪霊につかれるのを許すのは,ゆゆしい誤りです。

 「原理講論」は,弟子が「この悪霊の業を……喜んで受け入れれば,彼は自分か或いはその祖先が犯した罪に対する蕩減条件を立てることができる」と述べて,これら「霊人達」のある者が邪悪で,文鮮明の追随者たちを苦しめることがある,と率直に認めています。これを言い換えれば,文鮮明の追随者たちは,霊につかれて苦しめられることによって過去の罪が贖われ得ると教えられているのです!統一教会の中にこのような教理やならわしがあるのですから,しばしば言われるようにその会員が生気のない目つきをしているように見える場合があるのももっともなことです。場合によっては,疲労や粗末な食事がその原因であることも確かですが,これら若い人々の多くは悪霊に悩まされているということは十分に考えられます。なんという悲劇でしょう。また,元会員たちが同教会を離れたあと,何か月もの間ひどい精神的また感情的問題をしばしば訴えるのも驚くには当たりません。サイエンス・ダイジェスト誌に載せられた研究論文はこう伝えています。「この宗派の元会員たちは,見当識障害および異なった自分との間の“浮遊感”,周期的に起こる悪夢,幻覚,および妄想,また困惑させたり気力を奪ったりする“心霊”現象の事例を訴える」。

 わたしたちが「終わりの日」に住んでおり,神の王国が間もなく幸福で従順な人々の満ちる地を治めると言っている点では、統一教会のこの観点は聖書通りです。しかし、聖書には、「終わりの日」のしるしとして次の詞がある。「偽キリストや偽預言者が起こり,できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうとして、大きなしるしや不思議を行なう(の)です」(マタイ 24:24)。文鮮明はこの「キリスト」また「預言者」ではないのか。


キリスト教年鑑が統一協会の掲載をやめた理由
 1989.3.25日、「キリスト教年鑑が統一協会の掲載をやめた理由」を転載する。

 かつて統一協会系の「教会」に関する情報も掲載していたキリスト教年鑑が統一協会の掲載をやめた理由が次のように述べられている。Part I 座談会 A=神学者 B=牧師
1 既存の教会が認知しているかどうか
編集部 『キリスト教年鑑』1989年版の編集に当たって世界基督教統一神霊協会(以下統一協会と記載)をどう扱うかが、問題となってまいりました。従来から、統一協会の記載について、さまざまな所からさまざまな形で異議が寄せられてきました。しかし、編集部としては、キリスト教界の情報源として資料を提供するという立場から、統一協会を記載し続けてきたわけです。といいますのは、「キリスト教年鑑』は、「これがキリスト教会で、あれはキリスト教会ではない」というような法人の教会性を否定したり認知したりする性格のものではなく、「キリスト教会である」と称している法人を、可能な限り調査収集して記載し、情報源としてご利用いただきたいというのが本来の趣旨であるわけです。ですから、本来の趣旨の筋を通すということから言えば、今までの編集方針は筋を通してきたということになります。けれども、NCC(日本キリスト教協議会)、日本福音連盟、日本カトリック教会、日本のキリスト教の大勢を占める団体及び教会から、「統一協会はキリスト教会ではない」という趣旨の声明が相次いで発表され、また社会的にも、キリスト教と相反するような疑義が大きな問題として生じてきましたので、統一協会をどうとり扱うか、編集部で慎重に考えてみようということになったわけです。この座談会は、統一協会の扱いについて、参考にさせていただきたいということから編集部が企画したもので、最終的な判断及び取り扱いの責任は、もちろん編集部が負うことになります。
A  キリスト教年鑑には、ちょっと本来のキリスト教からはずれているような教会や宗教組織も記載されています。例えば聖書の他に経典を持っている教派や、ある教理を極端な形で強調するような教派などがありますけれど、少なくとも、それに対する現存の教会の態度は程度の差はあれ、受容というか黙認というか、そういう所だろうと思うのです。しかし、統一協会となると、さまざまな教会から声明が出ていて、認知されていない、認知するわけにはいかないという現実がある。これは、編集部の統一協会の扱いについて、一つの立ち場を成り立たせ得るものだと私は思うのです。
編集部  新宗教が興る場合、既成の宗教に対する不満から、その足らざる所を補うという建設的な試みがその中にあるというのがあります。日本のキリスト教界の中にもそのような例が見られますが、そういう場合、最初のうちは猛烈な反対があっても、やがて既存の教会からも受容されていくようになるわけですね。統一協会の場合は、発生の段階からの問題が続き、それがますます拡大しているようなところがみられますね。
 ユニテリアンは、ヨーロッパでソッチーニ主義といって、宗教改革の時代に現われ、当時の既存の教会からは認知されず、迫害を受けて、だいぶんアメリカに逃げたわけです。しかし、次第に認知されていくようになるわけですね。ですから、これは結局、その教派の努力の問題だと思います。
 既存の教会が認知する、あるいは認知しないという場合、やはりその許容の規準、限度という問題があると思います。統一協会はご承知のように文鮮明氏が教祖といわれていますが、例えば『御言集・絶頂を越えよ!』という書物などを見ますと、「もう今先生は死んでもイエス様みたいに失敗の男ではありません」と言っている。「御言葉」というのは文鮮明氏の説教購演集で、「先生」というのは文鮮明氏自身のことです。その他「イエス様を解放してあげる人でなければ、イエス様の下の者を解放してあげることは絶対に出来ません」とか、イエスは結婚すべきであったのに結婚していないとか、イエスを祝福してやったとか、イエス様を見下げた表現をする一方で、文鮮明氏自身はより高い位置からものを言うという具合です。これに類する表現は、統一協会の文書で数多く指摘することができます。そういう立場で聖書を解釈するわけですから、私どもの聖書解釈とは全く異った考えが出てくることになります。
 お話のようなことですと、既存の教会に認知されるということは難しい感じを受けますね。というのは、正統教理から外れているようなキリスト教思想であっても、少なくともイエスに対する尊敬の念のないものはないと思うわけです。ところが、「イエス様みたいな失敗の男」というようなことを言っているとすれば、 むずかしくなりますね。
 これは噂とか伝え聞きとかではなく、印刷物になっていて、統一協会の人達に読まれているものですから。
編集部  信仰の自由ということから言えば、信じる信じないは当事者の問題ということでしょうが、しかしこれではキリスト教として認知されるわけにはいかないということですね。
A   それは、認知する主体がどこにあるかということでしょうね。例えば、キリスト教年鑑編集部がこれをどう判断するかですが、現存のキリスト教諸教派の大勢が、統一協会を受容していないから、今のところ年鑑に記載することはしないというのも一つの立場で、そういうことであれば、将来認知されるようになれば、また記載することもあり得るということになるわけです。そういうことで、キリスト新聞社は済むでしょうが、教会はそういうわけにはいきません。教会は、NCCにしても、カトリック教会、福音連盟にしても、信仰告白ないしそれに準ずるものを持っていますから。もっとも、信仰告白について厳しいかゆるやかかどいうニュアンスの違いはありますが、何か信仰的基準というものはどの教派も持っていますし、判断を迫られるとなると、やはりそこから判断していくことになりますからね。しかし、キリスト新聞社は教会ではありませんから、もっと楽なんですよ。
 2 出版物にみるイエス・キリストへの態度
編集部  『キリスト教年鑑』は、情報を提供するという働きを持っているわけですが、もちろん私共の意図とするところは伝道のお役に立ちたいということがあるわけです。その場合、既存の教会の働きに逆作用するようなことがあってはいけないわけですし、その点からも、統一協会の扱いを再検討してみようということになったわけです。
B   先程、『御言葉・絶頂を越えよ!』のことを申しあげましたが、この中には別の箇所ですけれど、「そういう時が来た場合には、統一協会の原理原則に一致しない者は、きれいに整理してしまう」ということが言われています。これは、共産党のことが頭にあって、文脈はそれにつながっているわけですけれど、統一協会に反対するような動きは、先ず共産党につながらせていくわけです。それから、別の文書に「暴力団と闘う。だから、青年たちに空手を教える」というのがあります。続いて、おかしなところがありますがそのまま引用します。「暴力団を伝道し、いよいよ我らの働きぶりが全国復帰という基準がなくなった。伝道しようとしてもみんなしている。やることがない。何をやるか。それは内部を改造する。暴力団を掃討せよ。街角に立って腕章をかけて、統一暴力団防止団として…皆喜ぶよ。警視庁も応援するにちがいない。国家も援助する。力で来れば力でやる。悪的暴力団を善的暴力勇士が皆壊してしまう。」その善悪の基準を決めるのは統一協会であり、文氏であるわけです。
編集部  統一協会を批判する集会を妨害するような場合は、そういう理論が思想的根拠として出て来るということでしょうか。
 そういう行動は、彼らにとっては、むしろ善いことになるわけです。目的のためには、常軌を逸することでも皆善になるということです。聖書の解釈でも、例えば、『原理講論』の313頁に、ノアの話が出てきますが、教会で言われていることとは全く違った解釈になっています。「原理講論』をちょっとお調べいただければ、これがどんなに聖書をねじりにねじった引用と解釈であるか、一目瞭然です。そこには自分では良くないことだと思っても、それを批判しないであくまでも良いこととして見なければならないという、批判を封じられた生き方があります。そしてそれが霊感商法などにつながっていくわけですね。
編集部  つまり、目的というか、結論が決まっていて、聖書から導き出された聖書解釈というようなものでなくて、結論に引っぱっていくために、曲げた解釈でも何でもやっていくということでしょうか。
 ですから、統一協会の会員は、自分で考えて自分で行動することができなくなる。自分が良くないと思っても、徹底的にそれを良いと思わなければならないということですから……。
編集部  先生が今まで接してこられた統一協会の青年たちは、統一協会はキリスト教の教会だと思っているのでしょうか。
 そう思っていますね。統一協会自体は、旧新約聖書を教典とするキリスト教の教団といい、『原理講論』は教理解説書となっていますが、これは私から言わせれば二重構造でして、肯定しているように見せかけて否定するというのが統一協会です。聖書は大事だといいながら実際あまり読んでいない人が多いようです。統一協会のある事業部に所属して1年10カ月生活した青年は、毎朝6時からの祈禱会や毎日曜日5時からの三拝敬礼という文氏の写真の前に土下座しての礼拝に参加していたが、その間聖書が読まれたことは一度もなく、毎回印刷された文鮮明氏の説教が読まれていたことを証しています。先程も申し上げましたが、聖書が伝えるイエス・キリストを見下げるような所ですから……。それでいながら一般の方たちに私たちと同じキリスト教の教会だと思わせているわけですね。統一協会に子どもが入って困ってしまった親が、ある牧師さんに相談に行ったところが「統一協会は知っています。彼らは皆真面目な青年たちで、良い人たちですよ」と言ったというのですね。一見普通の時は良い子たちです。しかし、文先生はメシアでないと言ったりすると、深く心が捕えられている真面目な子ほど大変なことになります。
編集部  キリスト教であるとの許容範囲についてですが、あくまでも個人的な考えを一般論としてうかがいたいのですが、そのポイントとなるところはどの辺りでしょうか。
 やはりキリスト論だと思います。これは私個人の考えですけれど……。しかし、過去に異端として迫害されたようなものも含めて、さまざまな思想や立場や解釈があるわけですが、イエスに対してはいずれも最高の尊敬を払っています。例えば、イエスはキリストでないという立場でも、少なくともイエスに対する尊敬の念は失われてはいません。
 文鮮明氏は、「イエスを祝福してやった」という言い方をします。また、「まことのご父母様のみ名によって」などと自分の名前で祈らせます。じかし、アメリカの牧師宛に送った文書では、イエスのみ名によって祈っています。こういうごまかしがあるのです。さらに例をあげれば、文鮮明氏は1935年4月17日、復活祭の日にイエス・キリストに接し、啓示を受けたとされています。これが他の本では1936年4月17日になって1年違っています。しかも曜日を調べると、どちらも日曜日ではありません。この記事を掲載しているのは統一協会系の同一の出版社ですから、お話にもならないわけです。それでいて、イエス様が雲に乗って来られることを文字通り信じているといって既成のキリスト教をあざ笑い、批判したりするわけですね。
編集部  NCC、福音連盟、カトリック教会などから、統一協会について声明や見解が発表された時、「統一協会はキリスト教会ではない」という言い方は、少し僭越な表現ではないかと思ったのですが·····。例えば、NCC、福音連盟にしろ、NCCの立場とは異るとか、福音連盟の信仰とは違うという言い方であれば、なるほどと思うわけですけれども、「キリスト教ではない」ということになると多少ひっかかりみたいものを感じたわけですが、その点についてどうお考えでしょうか。
 先程も申し上げましたが、 カトリックはカトリック、福音連盟は福音連盟、NCCはNCCで、キリスト教かどうか判断し提示する義務を生じる場合があり得ると思います。カトリック教会の場合でしたら、ローマ・カトリック教会の信仰を唯一の正しいキリスト教だと思っていますから、他は間違っていると思っているわけですね。しかし、昔のような激しい論争はしないで、現在は対話をしようというような傾向になっています。しかし、それでも、それぞれの教会が声明を出しているように一定の見解を述べることを余儀なくされるということは、十分あり得ると思います。
 私もイエス様が失敗者であったという考えで聖書を読んでいては、キリストの教えを伝える教会とはなり得ないと思うし、キリスト教会とは言えないと思います。確かに、イエス・キリストの神性を素直に受け入れることができない人もいるでしょう。しかし、イエス様を見下げたような表現は、少なくともキリスト教の教会と言われるところにはありません。私から言わせれば、統一協会の思想は陰陽道、シャーマニズム、ゾロアスター教、韓国の神秘キリスト教のキメラ的世界ですね。
 3 知られざる青年会員たちの実態

編集部 もう一つ、これは大切な問題ではないかと思うのですが、統一協会及びその当事者、会員の青年たちは、私どもの考えですと、やはり神の前に被造物であるわけです。既存の教会の伝道の上では、当面の敵というか、そういう表現で私共編集部に意見を寄せられた方もおられましたが、私どもが統一協会と対処するに当たっては、どのように対処するかが問題となってくると思います。例えば、先程から、認知とか受容とかいう言葉が出て参りましたけれど、既存の教会が統一協会を認知するようになるには、われわれの働きとしては何があるか、統一協会自身には、どのような途があるか、そのあたりのところはいかがでしょうか。

A 結局、統一協会の特徴をどこで捉えるかという問題になると思いますけれど、少なくとも、信仰内容においてイエスは失敗者だというようなことであれば、仲間にはされないと思います。それから社会的に物議をかもしているようなこともありますし、ああいうことも、認知され難い条件になってくるのではないですか。

B 私もそう思います。社会的な問題に触れられましたので申し上げますが、新聞などで問題にされた霊感商法の他に、募金の問題があります。全国規模で募金しているようで、これに参加し、今は救われている当時の裏会計担当者の話では、まず証明書と、1万円だけを公的施設に寄付しての感謝状と、道路使用許可証とを準備し、それをコピーして多くのグループに配り、各グループは「恵まれない子に愛の手を」などと書いた箱をもって、年末年始に街頭や神社などで募金します。あるグループでは10人で100万円程集めましたが、各グループは事業団事務局からの指令で、その中から各自お年玉として1万ずつもらい、合同結婚者はさらに1人1万2千円ずつもらい、残りの金は、さらに多くのグループの金と一緒にされて統一協会のために使用されたということです。このようなわけで他の真面目な募金活動が、非常にやりにくくなっているわけですね。それから、健康保険証なども、他人のものを使うことが当たりまえになっていることを多くの脱会者が話しています。こういう仕組みを、皆承知の上で神様のために、早く地上天国ができるためにとやっています。彼らはそういうことを悪いことだとは思わないようにさせられているのです。

編集部 社会的な問題の一つをうかがわせていただきましたが、社会的な問題、教義的な問題、二つ共に受容という点ではむずかしい問題ですね。特に社会的な問題とされているのが、それを支えている思想に教義的なものがからんでくるということになると、ますます根は深いものになってくるわけですね。先程、統一協会そのものが認知されるようになったら、その時は『キリスト教年鑑』に載せるようにしたらいいというお話もございましたけれど、教義自体がそういうことであれば、教義に基づいて教会は形成されるわけですから、現在の統一協会が既存の教会に認知、受容される可能性は、ほとんどなくなってしまいますね。

A そういうことかも知れません。

B 今のままでしたらそうでしょう。先程、当面の敵というようなことを言われましたが、私どもは、本当に祈っているのです。文鮮明氏とかその家族、そして統一協会のメンパーが、悔い改めて真の神様を信ずることができるように。今は、統一協会に行っている人は青年ばかりではありません。壮婦といって、中年の婦人も壮年もいます。これらのだまされている人々を敵とは思っていません。救われるように祈っています。統一協会にはいってしまった子を持つ親たちも、親不孝な子だと最初は言っていますが、実情がわかってくると可哀想になってくるようですね。

編集部 だまされて、社会をだまし、あざむいているという筋書きになりますか···。

B 落ちついて統一協会の文書を読んでいけば、統一協会をやめるようになると思うのですが、そういうことができないようになってしまうのでしょう。親たちがそこから出そうと一生懸命になればなるほど、そんなに自分を思ってくれる親のためにもこの信仰を捨てることできないと思うわけです。統一協会の言葉でいうと、「氏族のメシャ」になってくるわけです。とにかく、選ばれた民であるという信念は強いですね。だから親たちは途方にくれる。

 社会をだまし、あざむくと言われましたが、統一協会では「アベル」という指示者が各自に付いていて何でもその人が言う通りにするわけです。その人が一緒になって臓を考えてくれる。そういう世界ですね。目的のためには手段を選ばない。おしなべてそういうことが言えると思います。

 統一協会系の組織に世界平和教授アカデミーというのがありますけれど、大学教授をアタックする場合も、マニュアルがあって、目標の教授の専門を勉強しておいて、ほめて、感動してみせて、贈り物をして、そして会員にしてしまうということです。こういうことを一見真面目で良い青年と思われる者たちがやるわけですから、実体を知らない場合は、大学教授でもあざむかれてしまうわけですね。

A いずれにせよ、キリスト新聞社は、「統一協会は教理上キリスト教ではないから、『キリスト教年鑑』に載せることではできない」という所まで言う必要はないと思います。もちろん、そう言おうと言うまいと、それはキリスト新聞社の自由ですし、そこまで踏みこもうというのなら踏みこんでもいいと思いますが、そうしたら、いろいろむずかしいことも出てくると私は思います。そこまで行かなくとも、現存のキリスト教会がキリスト教として認知していないからという、そういう立場で、キリスト新聞社の場合は十分ではないかと思うのですね。教会は必ずしもそうはいきませんが。

B 私の場合、統一協会をやめた青年とかかわりを持っておりますし、子どもたちを統一協会から救い出してほしいという親たちともかかわりを持ってきましたので、そういう体験を踏まえてお話しいたしました。『キリスト教年鑑』1988年版を調べたところ、ある教派の教会の責任者、つまり牧師に当たる方たちですが、ほとんどが統一協会の方で占められていることがわかりました。統一協会の扱いについてお考えでしたら、ぜひその教派の扱いについてもお考えいただいてしかるべきではないかと思います。くり返して申し上げますが、目的のためには手段を選ばずというところが統一協会にはありますから。

 『キリスト教年鑑』という大切なお仕事に、私の発言がお役に立てればと思ってます。

編集部 『キリスト教年鑑』は、かなり歴史もありますし、編集の意図する所とは別に、いろいろな所でさまざまな用いられ方をしております。用いられ方の一つに記録、歴史的資料ということもありまして、現にキリスト新聞社までおいでいただいて、古い年鑑をお調べいただいていらっしゃる方も大勢いらっしゃいます。そういう場合、統一協会を記載から外してしまった場合、外すについて主体的な理由づけ、また、次に記載するような場合には、やはりそれなりの主体的な判断をしっかり持っていなくてはなら.ないと思うわけです。

 実は、以前統一協会を『キリスト教年鑑』の記載から一回外し、再び記載した事実があります。それなりの理由があったのでしょうが、古いことになりますと、はっきりしたことが不明になってしまいます。そういうことから今の編集部が代替りしても、理由づけを何らかの形で残しておきたいということで、まず先生方に、ご意見をうかがわせていただきました。

 仮りに統一協会を記載から外すにしても、また残すにしても、これは編集部の責任においてすることですし、歴史的な評価ということになりますと、現在ではわからない所が多いわけですが、現在の編集部がこういう問題に慎重にとり組んだ事実だけは、この仕事を引き継ぐ者にも理解してもらいたいと思うわけです。お二人の先生方には、貴重なお時間を割いていただき、また貴重な意見を承わらせていただいて、心から感謝いたします。

Part II コメント「世界基督教統一神霊協会」について

神林 宏和(かんばやし・ひろかず=カトリック中央協議会事務局次長)

 お尋ねの件につきまして、教団としてではなく、私個人の資格で以下のようにお答えさせていただきます。

 1985年に、日本カトリック司教協議会が「世界基督教統一神霊協会」について、それが「キリスト教でもなく、ましてやカトリックでもない」ことを声明したときには、『原理講論』(光言社、1968年6月25日 第4版)を参照し、教義的な面から判断を下しました。

 その主な教義は、キリストによる啓示の完成、キリストの神性、十字架によるあがないですが、もし、これを否定したら、カトリックであるか否かを問わず、キリスト教とは言えないと判断しました。

このときには、「世界基督教統一協会」について、社会的問題を起こしているとか、いないとかについては判断を下しませんでした。それよりも、「世界基督教統一神盤協会」が短期間に大きく発展した背後には現代社会のゆがみがあり、社会の世俗化、都市化、機械化などにより、家族から離れ、目的を失い、生きがいを失って、人性に不満を持ち、孤独に悩む人々がいると考え、カトリック教会が、司祭、信徒ともに、これらの人々に積極的に働きかけるべきであると呼びかけました。

 また、キリスト教でなければ、キリスト教一致運動の相手にはなり得ない、とは言いましたが、宗教ではない、とは言っていませんので、諸宗教との対話という路線の中で話し合う余地は否定していません。

 キリスト教年鑑に「世界基督教統一神霊協会」を載せるかどうかについては、最初に、判断の理由をお示しになれば、よいのではないでしょうか。キリスト教年鑑に記載されているからキリスト教として認知されたものではないということを明確にさえすれば、カトリックとしては異存はないものと思います。

「統一協会」の情報が掲載された最後の『キリスト教年鑑』(1988年版)

『キリスト教年鑑』1989年版「編集後記」より抜粋

 「今回の年鑑から世界基督教統一神霊協会(統一協会)と日本基督和協教会の二教派とその関係人名簿を削除いたしました。巻頭の座談会はその削除理由の一端を明らかにするため掲載したもので、ご一読ください。……(年鑑編集部一同)」


近年では、キリスト教の諸派の間で相互の対話や協力が盛んになったと聞きます。それではなぜ、「統一協会はキリスト教ではない」と言って排斥するのですか。


もともとキリスト教にとって、「主は一人、信仰は一つ」(エフェソ4・5)です。そして、神の和解と愛を世界に告げ知らせる使命をもった教会が分裂していることは、キリスト教の本来のあるべき姿ではありません。このことに心を痛めるキリスト教の諸教派には、「エキュメニズム」と呼ばれる、信仰の一致を促進する運動が高まってきています。日本でも最近、諸教派が協力して、聖書の共通の日本語訳を完成させました。教派の区別なく同じ聖書をもっているのだから、同じ邦訳聖書を使いたい、という望みからです。このように諸教派が一緒に仕事をしたり、話しあったりする機会をもって、互いの伝統のよさを学びあうことは、とても有意義なことです。それによって自分の教会に足りない所などにも気づかされますし、キリスト教の信仰のもっている生命をもっと豊かにすることができます。

ところが残念ながら、このようなエキュメニズムの対象にはなりえない、キリスト教の名を語って人を惑わす新興宗教があります。「統一協会」もしくは「原理運動」(正式の名は「世界基督教統一神霊協会」)も、その一つです。巧妙な手段を使ってキリスト教の学校や諸機関にまぎれこみ、騙された人を引きずりこんで、あちこちに被害が出ていますから、教会の指導部では警戒せざるをえません。

統一教会は、文鮮明という教祖によって一九五四年に韓国で創立された、陰陽道とシャーマニズムが一体となった新興宗教です。文鮮明は聖書を勝手に解釈して、自分の都合のよいように用いますが、つまるところは、自分こそが再臨のメシアだ、と主張します。イエスがなしえなかった救いを、自分がもたらす、と言います。『原理講論』という教典があって、これが真理を初めて明らかにするものとされます。

統一協会の教えについてはここで詳述しませんが、どのような教えであれ、私たちにはキリスト教の正統信仰を見わけるために一つの鍵があります。それは、イエス・キリストをだれと言うか、を見ることです。イエスを通して神が歴史の中でただ一回限り、決定的なしかたで御自身を啓示されたのだ、イエスこそ神の絶対的な仲介者だ、と信じるのがキリスト教です。もしイエスがなしえなかったことを他の人がなす、と言うのであれば、それはもうキリスト教ではありえません。また、聖書が明らかにしなかったことを、他の書物が啓示すると言うのであれば、それはもうキリスト教ではありえません。これはキリスト教信仰の真髄をなすことです。








 先祖7代「解怨」で280万円献金、「420代前まで必要」と…旧統一教会元幹部が実名証言 安倍晋三・元首相が銃撃された事件をきっかけに批判が集まる宗教団体「世界平和統一家庭連合」(旧統一教会)の高額献金の仕組みについて、家庭連合の元幹部が読売新聞の取材に実名で証言した。地域ごとに献金のノルマがあり、信者には過度な重圧があったと指摘した。

 元幹部は、1998年から旧統一教会の本部で勤務し、2016~17年に2世信者の教育を担当する家庭教育局の副局長を務めた桜井正上(まさうえ)氏(48)。同年に家庭連合を批判する文書を出して解任され、現在は別の団体に所属している。

 桜井氏によると、献金には、礼拝などの際に収入の10分の1を納める月例の「十一条献金」、結婚した際の「祝福献金」のほか、「特別献金」がある。

 特別献金は、期間と金額の目標が定められ、信者数に応じて都道府県をベースとした「地区」ごとにノルマが割り振られる。一般信者にノルマは知らされず、教会の幹部らが対面やファクスで献金を求めるという。

 00年前後には、先祖の苦しみを解放する「先祖解怨(かいおん)」という以前の教義にはなかった教えが広められるようになった。

 関東地方の元信者の女性(60歳代)は取材に、5年前に夫婦の「7代分」の「解怨」として計280万円を納めたと証言する。420代前まで続ける必要があると説明を受け、21~28代前までの献金などを含め、献金総額は500万円を超えた。「仕事や子育てに悩み、先輩信者に『戦死した先祖が苦しんでいるからだ』と何度も言われ、信じてしまった」と悔やむ。

 桜井氏は、不安をあおって高額な印鑑などを販売する霊感商法で信者が逮捕された事件をきっかけに、旧統一教会が「コンプライアンス宣言」を出した09年以降、霊感商法はほぼなくなったとする。その代わり、献金の比重が高まったという。

 日本全体の献金目標は一部幹部以外には知らされないというが、桜井氏は16年に参加した幹部会議で「月24億円」と書かれた資料を見たと証言する。 家庭連合は取材に、「献金の目標はあるが、ノルマはない」と反論。桜井氏の「月24億円」との証言については「何の資料なのかわからない」とし、「桜井氏が元幹部なのは事実だが、証言の多くは過去の話で、正確ではない」としている。

 「先祖解怨」に関しては、勅使河原秀行・教会改革推進本部長が今月4日の記者会見で「先祖が苦しんでいるとことさらに強調して不安がらせ、(献金を)脅し取っているようであれば間違い」などと述べていた。

 家庭連合は、月収の3割を超える過度な献金は記録に残し、生活に問題が出ていないか確認するとの対策を明らかにし、返金請求にも対応するとしている。

 しかし、両親が信者という茨城県の30歳代女性は「信じられない」と声を強める。子どもの頃から自宅には献金を求めるファクスが届き、両親は遺産など1億円以上を献金したと聞いた。事件後、多額の献金をしていた両親を説得し、返金を求めた。家庭連合は交渉に応じる姿勢を見せているが、その一方で両親は所属する地区の教会から新たに183万円の献金を求められているという。

 女性は「世間の関心がなくなればまた高額な献金を求めるようになるのでは」と訴えた。









(私論.私見)