◆決断のきっかけ 一通の文書
実は、このブログを始めて過去のことについて会話を持ったとき、妻がふと漏らした言葉に、彼女がUCから距離をおく決断をする一番のきっかけについて、やはりそうだったのかと確認させられることになりました。私は、“統一原理”を聴き始めたときから20年近く、UC組織の中で与えられた活動に従事しつつも、常に心の内は煩悶が終わることがなく、UCが変化して行くにつれて葛藤は拡大し、自然にひとつの結論に収束していきました。しかし、妻は、生来素直な性格で、物事の裏表を詮索するタイプではなかったため、UCの行き方に、当初自分が信じた方向性とのズレを感じ始めていたものの、私ほどには決定的な段階には至っていませんでした。むしろ、扱いの難しい私との付き合いに日々エネルギーを使っていたと思います。ですから、ホームチャーチということで、経済自立に傾いていく私を、信じて受け入れようと努めたのでしょう。その表れが、馬券への1000円の投資でした。もちろん当たるとは思っていなかったでしょうが。そんな妻でしたから、私が、組織内でなんとか役割を見つけ、後方支援を託せば、それはそれなりに頑張ったと思います。しかしまた、不正直な“万物復帰”に対しては、私以上に抵抗感をもっていましたから、経済的な面ではホームチャーチが受け入れやすいということはあったと思います。そのような私たち夫婦が岐路に立ったとき、一通の私文書に出会うことになりました。
◆そこに書いてあったのは
それは、世界日報事件のほとぼりがまだ冷めやらぬ頃でしたか、ひとりの兄弟食口が私に会いたいといってきました。もう私より先にUCに見極めをつけ、自分で事業を始めていました。それで事業拡大のために一緒にやらないかと誘いをかけてきたのです。その話し自体は私には合わないと思い断りましたが、一通りビジネスについてのやりとりが終わったところで、彼は、「この話、知っていますか」と、紙袋の中から数枚の手書きの紙を取り出し、読んでみるよう勧めてくれました。そこにはいわゆる「血わけ」についての記載がされていたのです。彼がどのようにして、その事に関心を持つようになったかは、聞いたとは思いますが、忘れてしまいました。彼は、「コピーだからいいですよ」と紙を渡してくれましたので、持ち帰りましたが、残念ながら、現在それは持っていません。その後の歩みの中で二度と触れたくない思いがあったため破棄してしまったのです。今となっては貴重な資料だったようにも思いますが、昨今のブログ記事を見るとそれよりもはるかに詳しく、具体的な情報があふれていますので、用はなくなったともいえるでしょうね。
家に帰った私は早速、兄弟食口の手書きの文書を妻に見せました。言葉がありませんでしたね。私は祝福のとき以来、ずーと思考を続けていた仮説が想定どおり現実のものであったと確認できただけですが、妻はまるで別世界に放り出された思いだったでしょう。しかし、私が考えていたことを段階を追って説明していくと、いちいち腑に落ちるようで、文書に書かれた内容に違和感なく、自然な思いの中で事実として受け止められていく様子がうかがえました。私たちが自立の道を歩み始めるとき、経済のこととか、子育てのこととか、色々話し合って結論を出してはいましたが、妻にとっては、このことを知ったことで、UCから心が完全に離れていったということですね。ブログを進める中で、過去のUCでのできごとが話題になり、その中であらためて確認できたことでした。
◆かすむ日本UCの会長という立場
それで、兄弟食口の文書の中味です。そこには、“実体での血統転換”があったのかどうかについて、彼が一生懸命調べたことがまとめられていました。彼は韓国に何度も足を運び、先輩家庭を尋ねながら事実を確かめていったようです。その結果、確信を得て日本に帰り、12双を始めとして何人かの幹部に聞いてまわったのですが、そこでは十分な返事は得られなかったということです。そこで、最後に訊ねたのが三役事といわれる老婦人です。以前ブログで話題にしたO山のお父さんの妹Mママは有名ですが、それ以外にHママ、Kママがいらっしゃいました。そのお一人から「それを知ったらそこからどう受け止めるかが新たな信仰の始まりですよ(言葉は多少違うかもしれませんが)」とはっきり肯定されたそうです。さらにそこには、久保木会長夫妻が(“実体での血統転換”を)受け入れなかったことも記されていました。この“実体での血統転換”の問題、私自身は自分のうちではすでに777の祝福のときからテーマにして考えてきました(その過程についてはまたお話します)。しかし、具体的な証言を得ていた訳ではありません。それがこの兄弟食口から受け取った一文で自分の考えの筋道が裏付けられてしまったのです。それだけにそんなに違和感はありませんでした。そして、久保木会長夫妻の件については、世界日報事件に関連して、なるほどと思ったことがあります。因みに、久保木会長夫妻が受け入れられなかったことについて、その後、夫人が信仰的に幼かったからだと、まことしやかな噂を耳にしましたが、夫人は「大和なでしこ」の鑑のような人で、信仰がどうのこうのというより、夫である久保木会長以外の男性とそのような関係を持つことなど夢にも考えられなかったでしょう。また、久保木会長自身も夫人がそのようなことを受け入れられる人ではないことは良くご存知のことだったと思います。これが、失敗とされた“空気銃の摂理”以上に、“エバ国日本”の本質的な失敗とされたのでしょう。その見方については、また時機を得て考えたいと思いますが、内容が内容だけに、UCにおいて今後も公式的に認められることはないでしょう。
――なお、どのサイトだったか、久保木会長のお亡くなりになる直前のことが書いてありました。それによると、1か月前頃から、法華経の読経をされていたそうですね。それは若き頃、引き上げた日本で最初に出会った人生の道標だったのでしょう。その後、身と心を捧げた“統一原理”と“文開祖”は人生の幕を降ろす時機(とき)にはもはや別世界に消え去っていたのでしょうか。起き上がることができなくなり、経本も開くことができなくなると法華経を諳んじていらっしゃったということですから、人生の最後に久保木会長の心の世界で共にいたのは、先駆けてUCに飛び込んだ、立正佼成会青年部長だった小宮山さん、その立正佼成会から自分と共にUCに参加した若者たちだったのかも知れません。そして西川先生を始めとする“文開祖”来日前のUC草創期の食口たち、自分が守ってやれず命の危険に晒させてしまったS島さん、人生のすべてを通して、一言も抗うことをせず(実体の血統転換を除いては)自分について来てくれた夫人、そういう人々だったのでしょう。そしてまた久保木会長の一年後にお亡くなりになる年老いた庭野日敬氏に、「先生、申し訳ありませんでした」そして「ありがとうございました」と手を合わされていたのではないかと思います――
それでは世界日報事件と、どうして関係があると見たかについてお話します。あの時、S島さんは、久保木会長が自分たちの思いを分かってくれていると考えていたようです。ですから、自分たちが非常手段をとった時、UC組織(特に文開祖)へのとりなしを久保木会長がやってくれるのではないかと期待していました。ところが、久保木会長にはもうその力はありませんでした。直接ではなく、F田さんを通して、文開祖の強い怒りが久保木会長に伝えられてきたのです。しかし、久保木会長は何ら動いてはいません。K栗さんが、その文開祖の怒りに対して、自分が責任を持った立場でバリケードを突破し、世界日報を“正常化”したということです。では、久保木会長が何も責任を感じなかったかというと、それも違うでしょうね。むしろ、もはや自分は日本UCの御輿に過ぎず、文開祖の信任を受ける立場にないこと、日本の幹部たちもそう思っており、文開祖の方針の下では幹部たちも自分の会長としての役割を認めるけれど、文開祖の方針からはずれるものであれば、自分が何をいったとしても聞く耳をもたないことがよく分かっていました。いわば外部向けの看板ではあっても、ラインの長ではなくなっていたんです。つまり、世界日報事件の時の久保木会長の影響のなさは、UCの霊的組織面においてはアベルたる位置ではなくなっていたことを如実に示していました。それが何故なのかということですね。
◆そんなことまで
兄弟食口の文書にはあと一つ、情報がありました。本当は私も触れたくない内容で、お話すべきかどうか迷いに迷ったのですが、公になった事件の中にその存在が明らかにされ、すでに報道がされており、事件から40年の時を経て、風化も進んでいると思われますので、UCの本質を明らかにするために触れることにしました。
777の中には私を始めとして名もない(本当にそうですよ、そういうメンバーも入ったということです)食口も多かったのですが、中には誰もが知っているような有名で、目立つ食口もいました。そういう食口の場合、マッチング(当時はまだこの言葉は使っていなかったと思いますが、分かりやすいのでこれにします)のあと、「ねえ、○○さんの相手誰?」なんてことで盛り上がっていました。ところが、その中に当然いるはずの超有名なエバさん(女性食口)がいないのです。そして、私たちの世界から忽然と姿が消え、その後二度と日本UCの活動の中に現われることはありませんでした。UCの場合、誰かいなくなったときの常套句が、“堕ちた”、つまり離教したということです。でもその場合は、いずれ風の便りにその事実が伝わってきていました。ましてや彼女は超有名食口です。そうですね。今時のアイドルでいえば、ちょっと『剛力彩芽』似でしたか(あ、剛力さんはUCとはまったく関係ありませんので、お間違いなく)。ですから、誰もが関心を持つ人で、離れたとすれば、すぐ伝わっていたでしょう。離れたとは考えられませんでしたね。それからもう、十数年の時が経っていました。そんな時にその兄弟食口の文書に彼女の名前が登場してきたのです。なんと韓国政府高官の愛人になっていたということなんです。そういえば、文開祖が“韓国の男は日本の女を愛人にすることが夢なんだよ”といっていました。それを聞いたときは、それは、気持ちの問題をいっているのであって、まさか本当にそういうことをするとは・・・。信じられない思いとはこのことでしょう。
でも、私が知らないだけだったのかもしれません。あの、金大中事件に関連して、韓国社会では事件調査の結果報道の中ですでに明らかになっていたんですね。ブログを始めたときのネット渉猟で初めて知りました。そこには次のように書いてありました。「この方の名前が再び公になったのは、KCIA次長補李哲煕(あの金大中事件の首謀者の1人、公に金大中事件はKCIAが起こしたと述べた、また、KCIAの部長、次長は政治的な判断で役職につくことになるので、次長補は現場の総取締役の立場)に関して韓国の内務省が国会に報告書を提出した中にこの李哲煕の「愛人」としてこの方の名前が出されていたのです」。なんでこういうことができたのでしょうか。この類のことは、私の中では権謀術数の入り組んだ歴史小説や、「忍法くノ一」などというフィクションの世界のイメージでしかありませんでした。そういえば何年か前、女優の長澤まさみがNHKの大河ドラマ「天地人」で真田一族の娘として、「功名が辻」では甲賀出身の忍びの娘でそういう役を演じてました。しかし、それもドラマの話しです。実話で身近に起こっていたとは・・・。
どういうことか、色々考えてはみました。昔から一家の窮乏を救うため、わが身を売る女性の話は多々ありました。現代においても、女性スパイの話題がニュースネタになったりしています。しかし、“統一原理”を知り、性に対して極めて潔癖な信仰の道に深く入り込んだ女性が、どうして「くノ一」的なことを受け入れられるのか、理解に苦しみました。皆さんはどう受け止められるでしょうか。彼女が信仰が深く、“み旨”のため、わが身を捧げたのでしょうか。
◆切迫する北朝鮮再南侵危機は確かにありました
時は’70年。東アジア情勢は風雲急を告げていました。60年代に顕著となった中ソ対立は、`69年にダマンスキー島の領有権をめぐり起きた軍事衝突でピークを迎えます。この間、中ソの間でどちらの側につくかで振れていた北朝鮮は、「主体思想」を掲げて民族主義的な国家運営に傾き、南北統一を強く目指すようになります。そして、次第に開く南北の経済格差に焦りを感じ、ついに‘68年に韓国大統領府青瓦台襲撃未遂事件まで起こしました。一方韓国では、すでにブログでご紹介したとおり、北朝鮮の武力南侵、中ソの拡大路線の危機の中で国論は二分三分していました。このような韓国内外の状況の中で勝共が組織されたことはすでに見てきていただいたとおりです。
しかしながら、勝共は国策に沿う形で組織されているため、韓国内においては必ずしもUC(文開祖)が主導権を握ることができている訳ではありません(UCは“教会史”で表現されるているものより、実態ははるかに脆弱な、スキャンダラスな組織でした)。ここで文開祖が必要としたのは、韓国政府内で力をもっている人物です。もちろん古くからの食口の中にそうい人物がいれば、いいのですが、いませんでしたね。よくネットでは朴普熙氏のKCIAつながりの話しが出てきますが、人的関係はあったでしょうが、アメリカ駐在武官であった彼に、当時それだけ政府上層部まで影響力があったとは思えません。今でこそUC内で最高位といえる地位にまで上りつめましたが、彼が影響ある存在となり始めたのは、文開祖一家が渡米し、アメリカ政界へのロビー活動で重要な役割を果たした頃からでしょう。当時の韓国内の幹部たちは、「朴さん?・・・」「英語はできますが・・・」という感じでしたし、李ヨハネ先生などは「朴さんの信仰観と私たちのものとは違いますね」と言っていましたから。
それではどうやって、韓国政府内に影響力を持つ人物を掴むかです。そのために使われた手段が、歴史開闢以来使い古された、愛人をあてがい篭絡するという手だったのでしょうか。しかし、どうやって愛人になれたんでしょう。高官がUCに日本女性の愛人斡旋を頼み込んできたのでしょうか。それにUCが応えたのでしょうか。そしてまた、彼女が“み旨”として受け入れたということでしょうか。この設定どうしても無理があると思いませんか。それでもし“摂理”が進むとしたら、そんな“摂理”なんかクソ食らえです(すみません、頭に血が上りすぎておもわず、汚い言葉遣いになりました)。
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(1)を読んだ方は分かると思いますが、文教祖の指示で李哲煕と野島登美子をセッティング(根回し)したのは、36家庭の崔昌林(別名:崔容碩)です。崔昌林は当時、日本の民団(在日韓国人)および勝共担当でした。李哲煕と野島登美子の出会いは、新聞記事によると「1975年、李哲煕が日本に出張に行った際に、李哲煕の日本人の友人の酒の席に招待され出会った日本女性「野島登美子」を誘惑し欲望を満たすのに成功した」とあります。(京郷新聞1982年6月1日)
この記事中の「日本人の友人」というのが、36家庭の崔昌林ではないかと思われます。
まだ続きます。

<自分の欲望(利権)のために女を売り飛ばすとは文教祖はまさに鬼畜だな、と思った方はクリック!>
https://ameblo.jp/mikan-ha417/?frm_id=v.mypage-ameblo--myblog--blog
”統一教会のマイコン(洗脳)はマギル大学開発の「感受性訓練」カリキュラムだった!驚愕の真実?!”
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第078回国会 外務委員会 第4号<統一教会関連だけど信者には伝えられていない
https://ameblo.jp/mikan-ha417/theme16-10069645552.html
統一教会「「真実」」のあの映像はこれ以上ないような言い分け!多くの大会は全てハッタリ!
>フレーザー・レポートは、文鮮明組織の初期の歴史を次のように語っている。一九五〇年代後期に、英語の上手な四人の若い韓国軍将校が文鮮明のメッセージを好意的に受けとめた。この四人はみな、あとで一九六一年以後の韓国政府(朴政権)との重要な接点となる。ひとりはパク・ポヒで、彼は一九五〇年に韓国陸軍に入隊した。ハン・サングクは…… 一九六一年のクーデターの主導者でKCIAの創設者キム・ジョンピルの個人的補佐官となった。キム・サンギンは、一九六一年に韓国陸軍を退職してKCIAに入り、一九六六年までキム・ジョンピルの通訳をつとめた。一九六六年に(キム・サンギンは)KCIA将校の地位にもどり、後にメキシコ市のKCIA部長となる。彼はパク・ポヒの親友で、統一教会の支持者だった。第四の人物ハン・サンギルは、一九六〇年代後期に、ワシントンの韓国陸軍の大使館付武官であった。行政部のレポートも、彼をKCIAと結びつけている。韓国政府の勤務をやめたのち、ハンは文鮮明の個人的秘書兼、文の子どもらの家庭教師となった。一九六一年のクーデター直後、キム・ジョンピルはKCIAを創設し、新政権の政治基盤の構築を指揮した。CIA(アメリカ中央情報局)の、一九六三年の未評価の報告は、キム・ジョンピルがKCIAの長官だったときに統一教会を「組織し」、以来統一教会を「政治的道具」として使っていると述べている。
https://ameblo.jp/mikan-ha417/entry-12200272539.html
米国務省韓国部長ドナルド・レイナード証言<組織を知るための参考として
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